07
「こっちに来て、それから川に入って……。足跡を追えるのはここまでか」
崖上から続いていた獣の足跡は、河原を横切って清流の中へと消えていった。ひと通り周囲を見渡してみても這い上がった痕跡は見つけられない。向かったのは上流か下流か、はたまた対岸か。残念なことに手掛かりになるものは見つかりそうもなかった。
川の水面は穏やかだが、近づいてみると流れる速さが一様ではないことに気付く。岸辺に近いほど流れは緩く、中央に寄るほど速い。速い場所ほど、川底が深いのだ。対岸に渡るのであれば、どこか瀬の浅い地点を探さなければならないだろう。
「どう? 何かわかった?」
「崖の上からここまで降りて来たのは間違いありません。けれど、ここからどっちに行ったのかは、さっぱり」
水面から視線を持ち上げて振り返る。サナと名乗った女は、河岸に転がった大岩に背を預けてこちらを見つめていた。短筒はもう懐にしまっている。いきなり斬りかかられることはない、と判断してくれたのだろうか。
彼女の背を支える大岩は角が取れて丸みを帯びたものだ。つまり、もっと上流から方々を削られながら流れてきたということ。同じことをひとの手で成すのは難しい。結局、自然の働きと比べれば人間が生まれ持った力というのは、ひどくちっぽけなものらしい。
それこそ、正体も知れぬ獣に翻弄される程度に。
「サナさんの方は?」
「こっちもダメ。クロウさんが来るまで頑張ってたんだけど、やっぱり川を通られちゃうとね」
そう言ってサナは溜め息を吐きながら大仰に肩を落として見せる。芝居がかっているが彼女の容姿とは妙に合致しているので違和感はない。
実際のところ、何歳くらいなのだろうか。容貌は若々しいが、どうにも場慣れしている雰囲気がある。かといってもちろん薹が立っているわけでもない。肌の血色はよく、指も細くて滑らか。百姓や漁師の節くれだったそれではない。
「えっと、なに?」
「いえ、これからどうしようかと考えていただけです」
いつの間にかまじまじと彼女を見つめていたらしい。訝し気に尋ねたサナに当たり障りのない言葉を返す。女性の年齢を迂闊に詮索してはいけない。これは経験則だ。
それはさておき、足跡が途絶えた以上、別の手掛かりを探さなくてはならない。言うまでもなく、目の前の自称・町娘が一番の情報源になってくれそうなのだが……。
「サナさん」
「うん」
「そちらの知っていることをそろそろ教えてもらえませんか?」
掌を表に向け、刀に触れていないことを示しながら、一歩近づく。今度は彼女も逃げなかった。凭れていた岩から背を離してサナがこちらに向き直る。
上目遣いの視線にどきりとした。身長は彼女の方が低い。後ろ手を組んで、小首を傾げている。
「いやだ、って言ったら?」
抜けば届く距離。彼女の視線が腰の得物に落ちる。
「どうもしませんよ」
「……ん、ちょっと歩きながら話そっか」
踵を返したサナが川の下流を指し示す。試されているのか、それとも揶揄われているのか。歩き出した彼女の横に黙って並ぶ。武器を向けるつもりはないが、お互い背中は晒したくない。そんな距離だった。
丸石の散らばる河原は足場が悪くいちいち歩きにくい。しかし、水の流れが近いからか街道や山林よりも涼しい風が吹いている。秋空は青く抜けて高い。銀色に輝く水面を川蝉が滑っていく。
「まず確認したいんだけど、クロウさんはかまいたちを見つけたらどうするつもりなの?」
漂着した朽ち木をひょいと飛び越えてサナが問う。
「依頼されたのは妖怪の退治です。見つければ、斬ります」
「妖怪退治かぁ。かっこいいね」
「かっこいい?」
「おとぎ話みたいでしょ」
思いもしなかった言葉だ。言った当人はぴょこぴょこと軽快に歩を進めている。頭の中で言葉の意味を吟味してみたが、どうにも素直には頷けなかった。
「そうでしょうか。自分でも理解できていない、なにか曖昧なものを斬ろうとしているのは、どちらかといえば不格好なことだと思います」
「かっこ悪くてもかっこいいことはあるよ」
「それ、言葉が衝突してません?」
振り向いたサナの目が瞬く。きょとんとした表情だった。唇に指を当ててしばし思案した後、彼女はこう続けた。
「うーん、たぶん、かっこいいとかっこ悪いを別の基準で判断してるんだね。対義語だけど、正反対の表現じゃないんだ。どっちにも重なる領域がある。それか、評価する視点の違いかな」
「よくわかりませんが」
「じゃあこう言おっか。クロウさんがかっこ悪いって思ってたとしても、わたしはクロウさんのことをかっこいいと思ってる」
「……ひょっとして揶揄ってます?」
「さーて、かまいたちを見つけた後の話だったよね」
睨んだ先には、彼女の真剣な表情。はぐらかされた。毒気を抜かれ息を落とす。
こちらの視線が定まるのを待ち、サナは人差し指を立てて自身の目的を告げた。
「わたしはね、あの子を見つけて、連れて帰りたいの」
「連れて帰る?」
サナの表情は変わらず真剣そのもの。どうやら冗談の類ではないらしい。
確かにかまいたちのことを詳しく知っているような口ぶりだったが、しかし、妖怪を連れて帰るとは。果たしてそんなことが可能なのか。いや、そもそもどこに連れていくというのだろう。
「元々、あの子たちはわたしの故郷で保護されてたの。それを『悪い人』が無理矢理盗み出した。わたしたちはすぐに追いかけたけど、追われてるって気づいたあいつらは盗んだ子たちを色んな場所に隠した。この辺りも、そのひとつ。……わたしには、あの子を故郷に送り返す義務がある」
「義務、ですか。それで、私にどうしろと?」
「いいね、話が早い」
「さすがに察しますよ」
頬を綻ばせたサナが河原を下る足をぴたりと止めた。こちらも立ち止まり、彼女に真っ直ぐ向き合う。
「わたしがあの子を連れていけば宿場の被害は止まる。それなら、クロウさんもわざわざあの子を殺す必要はないんじゃないかな?」
「道理です。事態が解決するなら、こちらも無闇に刃を抜くつもりはありません」
「なら、二人で一緒にあの子を探さない? わたしとあの子が帰るのを見届けて、クロウさんは依頼人に報告する。これでどう?」
魅力的な提案である。依頼人も被害が終結するなら文句はないだろう。なにより、碌な手掛かりもなしに独りでさまよい歩くような事態にならずに済む。
ただし、それはサナを信用すればの話だ。彼女の語った事情は大まかには筋が通っているが、それでも気に掛かる点は多い。妖怪を飼いならして管理している場所(あるいは、組織)があるというのも、俄かには信じがたい話である。ともすれば、彼女自身が彼女の言う『悪い人』の側という可能性だってあるだろう。
サナはこちらをじっと見つめて返答を待っている。その瞳を見据えながら、意識してゆっくりと返事を返した。
「わかりました。私も協力するのはやぶさかではありません。けれど、ひとつ、条件があります」
「うん。言ってみて」
頷き、腰の愛刀を持ち上げる。刀身を収めたまま、黒漆の鞘を彼女にしっかりと見せる。
「もし、それでも事件が解決しないと判断したら、やはり、私は妖怪を斬ります。サナさん、あなたのことも斬るかもしれません」
「……そうだね。いいよ、その条件で協力しよう」
花のような微笑みがサナに浮かぶ。鞘尻から柄頭までをすっと見通して、彼女は口の端を持ち上げた。
「もちろん、クロウさんにあの子を斬れるかどうかは、また別の話だけどね」