05
道中で旅人と五人ほどすれ違った。軽快に駆け足で進む者、汗を拭いながら息を切らす者、足取りは人それぞれだったが、なにかに襲われて逃げ惑うような者はいなかった。少し、安堵する。
遭遇の現場はすぐにそれと知れた。
記憶をたどり、おおまかな目星をつけて道の端を調べていくと、不自然に歪んだ茂みが目に留まった。近づいて観察すると、茂みを作る枝葉がいくつも寸断されているのがわかる。
枝の断面は鮮やか。刃物で断たれた痕跡だ。
大股で茂みを越え、山林に入る。街道と比べて、地面が柔らかい。履き物が僅かに沈み込む感触。焦げ茶色の土に落ち葉や木の実がまばらに積もっている。
街道から見て茂みの裏側を調べると、すぐに動物の毛を見つけることができた。硬く、艶のある、黄色の毛だ。周囲に目を凝らすと付近の地面が浅くへこんでいる。
足跡。茂みの傍に特に深いものがある。攻撃のために脚を踏ん張った跡だろう。
「……森の奥に続いているな」
膝を折って屈んだまま、地面のへこみを追う。足跡の大きさと間隔から推測できる体躯は、ふつうの鼬よりもずっと大きい。足跡の深さを見るに体重もそれに見合うものがあるだろう。ぱっと見て、熊のものに近い印象だ。
森の中に伸びる足跡は、決して真っ直ぐではない。何度も折れ曲がり、蛇行し、ときには茂みや木の間を抜けていく。そういった場所では足跡に沿って低い位置の枝が折れていた。視線を持ち上げると、高い位置の枝は折れていないことに気付く。やはり、四足で歩いている。
脳裏に獣の姿を描く。巨体に黄色の毛、四足歩行。しかし、細部を想像しようとすると、どうしても行き詰まる。金属の刃の正体も、未だ知れない。
視線の先には幹の太い樹がずっと立ち並んでいる。見上げれば青々とした枝が大きく広がっていて、日中の強い陽射しを半ば遮っている。しかし、日陰が多い一方で風の通りは悪い。いつの間にか、額にはじわりと汗が滲んでいた。
近くの幹に腕を預け、息を吐く。懐の水筒を取り出して、ひとくち。
喉が潤うと、なんだか笑えてきた。
妖怪を追って山中をさまようだなんて、悪い冗談だ。
小さく口の端を持ち上げて、追跡を再開する。
「いったいなにをやってるんだか」
曲がりくねった足跡を追いながら、師匠の言葉を思い出す。
剣を抜く理由を考えろ、とタツミは何度も口を酸っぱくしていた。あるいは、剣に生きる理由を考えろ、とも。
天下人が国を治めて、既に百年が経つという。侍同士が争い覇を競う時代は、とうの昔に終わっている。今では侍に求められるものも、剣の腕ではなく、もっぱらまつりごとの手腕だ。
極端な話、剣に頼らずとも大抵のことは叶う世の中である。
世の中を変えたければ政治を目指すべきだし、金儲けがしたければ商いを志せばいい。知識が欲しければ学問を、慎ましやかな暮らしが望みなら畑と向き合うのもいいだろう。
無論、剣の腕があれば自分や他人の身を守ることができる。
けれども、剣で何かを成そうとすると、途端に難しくなってしまう。
世の中を変えるために役人を斬るのか。あるいは、金や書物、飯を奪うために他人を斬るのか。
思うに、剣は本質的に奪うための道具なのだろう。新しい何かを生み出すことは、決してできない。
「刃を抜けば、人が死ぬ。それを忘れるな」
タツミは何度もそう繰り返した。身を守るにしても、あらかじめ危険を避け、刃を抜かずに済むのが最良だと。
抜かない剣こそ最良の剣。
しかし、それでも、剣の道を往くのであれば。
「刃を抜く理由を考えろ、か」
最初にそう教えられたのはいつだったか。時期は曖昧だが、ひどく困ってしまった記憶がある。
タツミは乞われて弟子を取らない。
兄弟子も含めて、いずれも彼が拾ってきた子がそのまま弟子になる。多くは、みなしごだった。
自分もそう。旅先でタツミに拾われ、そのまま彼の庵に引き取られた。拾われる前の記憶はほとんどなく、物心ついたときには、刀が傍にあった。
ずっと、刀と共に生きてきた。
だから「剣に生きる理由を考えろ」と言われたとき、返事に窮した。刀は己の半身か、あるいは家族のように思えたからだ。離れるなど、思いもしなかった。
幼い自分はそのままの気持ちをタツミに伝えた。確か、囲炉裏を挟んで彼と向き合っていたと思う。庵の外は雪。ひどく静かで、ときたま思い出したように囲炉裏の炭が弾けていた。
「親兄弟であっても縁は切れる。切れぬものと勘違いしているだけだ。同様に、お前も剣を捨てることができる。望むなら、今すぐにでもだ」
「私は、捨てたくありません」
「捨てたくないというだけで、剣に生きることはできないぞ」
それからタツミは世の中の様々な仕事について滾々と説明した。剣に頼らず、様々なことを成す方法をだ。知っている職もあれば、聞いたことのない職もあった。
自分は、たぶん、泣いていたと思う。他ならぬ剣の師に剣の意味を否定されたのが悲しかったし、なにより、答えを見つけれられない自分が悔しかった。
「今すぐでなくていい。己だけの理由を見つけ出せ」
「……はい」
「どれほど時間を掛けても構わん。お前は何事も考えすぎるきらいがあるが……、これだけは、納得するまで考えてみろ」
囲炉裏の灰を木の枝でかき混ぜながら、タツミはそう言った。
あれから何年経ったか。
仕事を任され、他人のために剣を抜くことを覚えた。しかし、すべての理由を他人に求めるのも、なにか違う気がする。
自分はまだ、己だけの答えを見つけていない。
強くなりたいという想いに偽りはない。
刀と向き合い、腕を磨き、心を修める。理由を探しながらも、その足が止まることは決してなかった。
けれど、答えが見つかったとして、果たして自分は何を成すのだろうか。近頃はそんなことをよく考える。鍛えた剣技は、なんのためのものなのか。
「まさか、妖怪を斬るため?」
自嘲気味に口を歪める。
妖怪や幽霊、あるいはまじないといったものは、心の迷いが生むものだと認識していた。だから、修行を積むほど、そういったものは自然と遠ざかっていくものだとずっと思っていた。
ところが、ここにきて妖怪が実在するかもと疑い、あまつさえ積極的に探し出そうとしている自分がいる。
それが可笑しかった。
踏み出す履き物が重い。湿った土が裏側に張りついていた。地上に飛び出した木の根を使って泥を落とす。その間も足跡を見失わないように視線を地面に這わせ続ける。
ふと、視界の前方が明るくなった。長らく続いていた木々の並びが、ようやく途切れたらしい。つまり、ここはもう山林の端か。足跡はそのまま真っ直ぐ前方に続いている。
追いかけて、林から出た。
視界が一気に開き、足元の質が変わる。硬く、乾いた、岩の地面だ。風が吹き抜け、空気が涼しい。
「……崖か」
林を抜けて数歩もすると、切り立った崖が口を開けていた。覗き込むと、崖の下は河原に続いていることがわかった。青い清流が中洲の岩場にぶつかって飛沫を上げている。ここからはだいぶ深い位置だ。飛び降りれば、ただではすまないだろう。
振り返ると、獣の足跡は崖に続いていた。乾いた泥が足の形を残している。もう一度崖下を覗くと、足場になりそうな岩の出っ張りに気付いた。白く乾いた獣の足跡も見える。その下方にはまた別の出っ張り。上手く伝っていけば、河原まで降りていくことができそうだ。
降りたら、登れないかもしれない。少し悩んだが、宿場町のすぐ近くに小川が流れていたことを思い出した。最悪、川を下っていけば知っている場所に行き着くはずだ。
足の泥を入念に落とし、崖から身を乗り出す。斜面には横向きに松の木が生えていて、手摺に利用できそうだった。足を滑らせないよう、慎重に岩の出っ張りに降りていく。
降りた出っ張りで獣の足跡を確認して、さらに追う。とびとびの足場は意外なほどしっかりしていて、いきなり崩れ落ちる心配はなさそうだった。
鳥が空の高いところで鳴いている。こちらを警戒しているのかもしれない。
実際、こんな難所を好んで降りる人間はまずいないだろう。
だから、降りた先の河原に先客がいたのは、まったくの予想外だった。




