02
「妖怪、ですか?」
思わず問い返したその言葉に、旅籠の主人は「まさに」と膝を打った。
こじんまりとした畳敷きの部屋である。開け放った窓からは朝の日が白く射し込んでいる。
膝を突き合わせて座った主人は、恰幅の良い初老の男だった。宿場町でも一番の宿を経営するこの男は、この辺りに軒を連ねる店々の顔役でもあるという。
昨夜は結局、かなり遅い時分になってから宿場に到着した。あの遭遇の後、警戒のためにゆっくりと進んできたためだ。旅籠の戸を叩いたときには疲れ果てていて、宿代を払ったらすぐに案内された部屋の布団に入り込んでしまった。
まったくもって不覚である。
そうして一晩明けた今、ようやく宿の主人と『依頼』の話を始めたわけである。
「ここ半年のことです。おかしな事件がこの宿場に続いております。人の手によるものとも思えず、まさしく、妖怪の仕業としか言いようがありません。お上にも相談したのですが、どうにも芳しくなく……」
「それで、タツミに依頼を」
こちらから師匠の名を出すと、主人は重々しく頷いた。どうにもいちいち所作が仰々しい。
イスルギ・タツミは自分の剣の師である。かつては剣豪として名を馳せたというが、今は隠棲している。顕職を辞して山の庵に引っ込み、僅かに数人の弟子を育てるばかりだ。
ただ、タツミには若いころの伝手がいくつも残っているようで、時折彼の元には様々な場所から依頼が届けられてくる。やれどこぞの家人を護衛しろだの、やれ盗賊の捕縛に助太刀しろだの……、いったい誰が仲介しているのか詳しいことは知らないが、大抵は剣の腕を求められる仕事である。
タツミ自身が仕事に出ることはほとんどなく、多くの依頼は彼の判断で弟子に割り振られる。修行と称して弟子に旅をさせるのが、タツミのいつものやり方だった。
「イスルギ様の噂はかねがね耳にしています。高名なそのご一派であれば斯様な難題も解決できるだろうと、さる筋から紹介がありまして。それで、恥ずかしながら依頼の文を届けた次第です」
「経緯はわかりました。それで、私の仕事というのは?」
いったいどんな噂が流れているのか聞いてみたい気持ちもあったが、それより先に尋ねなければならないことがあった。おかしな事件が続いているというのはわかる。お上に相談しても解決しなかったというのもわかる。
が、妖怪の仕業というのはよくわからなかった。
仕事の内容は依頼人から確認しろと師から言われている。旅籠の主人、ひいては宿場の住人たちは、自分に何を求めているのか。わざわざタツミに依頼を飛ばすのだ。思い浮かぶ言葉はあったが、まさかという思いも同時にあった。
「それはもちろん、妖怪退治です」
そのまさかをあっさり口にした主人の表情は、至極、大真面目だった。
●
「では、見回り衆の者を呼んできます。事件の詳しい話はその者から」
そう言って主人が席を立った後、ひとり残された畳部屋で思わずため息を吐いてしまった。
窓際に寄ると、開いた障子戸から涼しい風が吹き込んできた。朝の早い時間だ。窓の向こうの往来に人通りは少ない。のんびり畑に向う百姓がほとんどで、たまに気の早い飛脚がその間を駆けていく。
宿場を囲む山には、まだ白い朝霧がけぶっていた。雲はまばら。ぼんやりと景色を眺めながら窓枠に寄りかかり、腰の刀を確かめる。
「さて、どうしたものかな……」
依頼を断るつもりはない。
タツミは常々、依頼に出る弟子に対して「無理と思えば断っても良い」と伝えている。だが、実際に依頼を諦めて庵に戻ってくる者はほとんどいない。
それというのも、タツミが依頼を受ける前に入念な下調べをするからだ。どのような仕事の内容で、どれくらいの腕が必要なのか。それをしっかりと見極めて、任せるに足る弟子に割り振る。怪しい依頼や度を越した要求は、割り振られる前にタツミが蹴る。その目利きに、嘘はない。
つまり、タツミは『妖怪退治』と知ったうえで自分に仕事を回したのだ。主人の話を聞いただけでは解決の取っ掛かりさえ見えないが、それだけで投げ出すわけにはいかなかった。
だから正確には、今のところ断るつもりはない、といったところか。
「しかし、妖怪退治か」
仕事の内容をタツミがぼかして伝えることはままあるのだが、今回はとびきりだ。妖怪。そんなものが本当に実在するのだろうか。
噂や、あるいは昔語りではよく耳にする。だが、実際に見たという者には会ったことがない。師匠や兄弟子が妖怪を退治したとか、そういう話も聞いたことがなかった。
自分が聞いたことのある妖怪は、山よりも大きな巨人とか、人語を話す動物とか、とにかく現実離れしたものばかりだ。正直、眉唾物だと思う。もし本当にそういったものが存在するなら、曖昧な伝聞ではない、もっとはっきりとした話が伝わってくるのではないだろうか。
「ただ、依頼人は刀で解決できると考えている」
問題はそこだ。そうでなければ、タツミに依頼など出さないだろう。刃が通らない相手であれば、坊主や神職に話を持って行くのが筋というものだ。まじないや幽霊といったものが真実存在するのかはさておき、である。
あるいは、もしかしたら自分が知らないだけで、妖怪とはこの辺りで通じる隠語の類なのかもしれない。
そんなことを思いついたのは、やはり、昨夜の遭遇があったからだろう。正体不明の獣の気配。たとえばあれを指して、宿場の人間が妖怪と呼んでいる可能性だ。
「それなら話は早いのだけど」
もしそうなら、仕事の内容が一気に現実的なものになる。山中に逃げ込んだ獣を探して、斬ればいい。
もちろん、土地勘のない山で獣一匹を探して回るのは、控えめに考えても苦行となるに違いない。それでも、実在するかも怪しいものを退治しろと言われるよりかは、だいぶ上等な話である。
そこまで考えて、すっと頭が冷えた。
瞼を閉じ、深く息を吐く。思考を落ち着けるためだ。
「……いけないな。先回りで考えすぎるのは、悪い癖だ」
まだ事件の詳しい話も聞いていないというのに、なにを気を揉んでいるのか。慌てずとも、見回り衆の人間がすぐに来るはずだ。仕事の進め方を考えるのは、その話を聞いてからでいいだろう。
とかく、余計な事に気を回してしまうのが、自分の性分だった。
先のことを考えるのは悪いことではない、とタツミは言う。しかし同時に、考えすぎてはいけないとも窘められた。考えることは身を助けるが、考えすぎは身を縛る、と。
一度、どの程度で考えを止めるのが適当なのかと尋ねたことがある。師は、それを問う前に考えを止める術を身につけろ、と笑った。
言われて初めて、考えを止めることの難しさに気付いた。どう頑張っても、考えることを止めようと考える自分がいるのだ。
何も考えていない瞬間というのは、確かにある。けれどもそれは、知らぬ間にそうなっているものであって、自らその状態になるというのは至難の業だった。しかも、自分が考えを止めていると気付いた瞬間には、もうそのことを認識して新たに考えている自分がいる始末だ。
まるで雲を掴むよう。
今もなお、己の心すら律することができていない。
まだまだ修行不足である。
「失礼。見回り衆の者だが、クロウ殿はこちらか?」
襖障子の向こうから声が掛かった。
クロウ。己の名だ。
瞼を開けると、日は先ほどよりも高く昇っていて、往来の人通りもだいぶ増えていた。山に掛かっていた白靄もとうに消えている。雲は薄く、雨の心配はなさそうだ。
軽く顔を叩いて気合を入れる。まずは、事件の話を聞いてみよう。
薄く映った人影に応えを返して、襖を開いた。