01
初秋の日暮れは想像よりも早く、山間の街道は既に薄闇に包まれていた。
幸いなことに月は明るく、右手の提灯と合わせて足元に不安はない。馴染んだ履き物は、踏み固められた土の道をしっかりと捉えていた。
街道の両脇には鬱蒼とした山林が続いている。一歩でも道から外れれば、月の光も届かない深い闇が待っている。街道そのものはそれほど険しくないが、やはり、夜の旅は危険と隣り合わせだ。
「迂闊だったな」
本来であれば、夕刻には目的地の宿場に着く予定だった。それを、道中の茶屋でのんびりしすぎて、このざまである。相席した商人の話が思いの外に面白く、ついつい長居してしまったのだ。
旅装は身軽で、荷物もほとんどない。唯一、腰に差した刀だけが確かな重みを伝えている。宿場まではそう遠くない場所まで来ているはず。すれ違う者もいない寂しい道を足早に進む。
緩い登り坂を越え、今度はゆるゆると下りの傾斜が続く。足元が不安なときは、登りよりも下りの方が怖い。そんなことを考えた、そのときだった。
暗闇の向こうに、吐息を感じた。
淀みなく進んでいた足が、ぴたりと止まる。足元で乾いた砂利が音を鳴らした。立ち止まってから初めて、意識の外にあった虫の声が聞こえてくる。
重心を低く落としながら、ゆっくりと首を巡らせる。山林との境界、街道の片側の茂み。その向こう側に、何かがいる。
人ではない、と、思う。気配の位置が低く、吐息に獣の匂いが混じっている。
左の親指が鍔に掛かった。提灯をそっと地面に置き、右手をそのまま静かに刀の柄に添える。
息を細くして、気配を探る。おそらく、茂みの向こうの『何か』もこちらの出方を窺っているはずだ。
獣であれば、いずれ去る。その考えに反し、茂みの向こうの気配は微動だにしない。ただ、吐息の音だけが繰り返し茂みから漏れている。
じわりと背に汗が滲んだ。吹き抜けた夜風がやけに冷たい。
ふと、足元の影が動いていることに気付いた。否、動いているのは雲だ。風に吹かれた厚い雲に、月が翳り始めている。
波のように、影が迫る。足元の灯は、あまりに弱々しい。
ひときわ強い風が吹き、月明かりが途絶えた。
「――っ!」
瞬間、茂みから『腕』が飛び出す。
影に濡れ、輪郭は曖昧。低い位置から掬い上げる軌道。
遮二無二、刀を抜き打った。
高い金属音。
異様な手応え。腕を弾き、しかし、刃を弾かれた。
勢いのまま、後方に跳ぶ。
着地。
制動。
足の裏で浮かんだ砂煙が夜の闇に沈む。
切っ先は真っ直ぐに。慎重に呼吸を整える。
視線の先で敵対者の腕が茂みに戻る。
速い。果たして本当に腕だったのか、それさえも掴めない。
正眼の型でそのまま待つ。
先の一合で迂闊に踏み込めないと手合いと知れた。
こちらから仕掛けられない以上、相手の出方を窺わざるを得ない。
あるいは、逃げるべきかとも考える。しかし、得体のしれない相手に背中を向けるのは、どうしても躊躇われた。
声には出さず、ゆっくりと百を数えた。それでも、叢に動きは無い。
再び風が強く吹いた。
天上の雲がざぁと動き、月明かりが落ちてくる。
静寂が満ちる。聞こえるのは、風の音と虫の声だけ。
水の中を連想する。纏わりつくように、空気が重い。
唾を呑み、意を決して、足を前に出す。
一歩ずつ、慎重に、茂みに近づいていく。
抜き身の刀身に月が写った。丸く、白い光。その冷たさが、背中を押した。
自身の間合いの一歩外で、意識して足音を鳴らす。
しかし、予想した反応は返ってこない。
思い切って、一息に踏み込み、茂みの向こうを覗き見た。
見えたのは、薄闇にに覆われた地面だけ。
『腕』の持ち主の姿はどこにもない。
すぐ近くで山林の木々がさざめいている。
茂みの向こうの『何か』は、既に消え失せていた。