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最終章 とある春の一日

ここ、見覚えがあるな、と池町孝夫は思った。彼の目の前には一面草原が広がっており、風が吹くごとに草々が波を伝う。池町は後方に小さな丘を見つけて、そこへ足を向けた。

「大草原、だな……」

丘の頂点に立つと、池町には地平線の彼方まで草原しか見えなかった。吹く風は心地よく、その野草の微かな匂いがどこか懐かしさを池町に覚えさせる。

「本当に、ここは相変わらずだな」

池町は目を細め、空を見上げた。どこまでも青く、澄み切った空。ところどころに小さな雲があり、それがゆっくりと流れていく。変わらない世界は、いつだってその姿をとどめる。でも、と池町は視線を正面に戻した。

「あの地平線の向こうも、少し、見てみたいな」

池町は一歩、遠く地平線の彼方へ、その足を踏み出した。



……………まち

……いけまち

「池町、起きろ」

耳にたこができるほど聞いたことのある声に、池町はハッと目を覚ました。春の日差しが池町の目を一瞬眩ませたが、次第に視界がはっきりしてきた。池町の目の前には担任の皆川が立っていた。皆川はシャツの袖をまくり、そのたくましい腕を露わにしている。

「おはよう」

「……おはようございやす……」

池町は寝起きのため、呂律が上手く回らなかった。その様子にひっそり静まりかえったクラスでは、クスクスと笑い声が漏れている。皆川は大げさに頭を抱えてみせた。

「ございやすって、それはなんちゃって京都弁か?」

皆川のその一言に、少しざわついていた教室がドッと笑いであふれた。

「まあいい池町、今日の昼休み面談な」

そう言うと皆川は、みんな静かにしろーとハリのある声でクラスを静め、授業を再開した。池町はふと窓の外を眺めた。冬には寂しい様相だった向かいの山は木々が緑や桜色になっており、それが春の陽気に照らされることでより柔らかな印象を持たせた。池町は外に逸らしていた目を、黒板の方へと向けた。



 失礼します、と丁寧な挨拶で職員室に入った池町は、すぐに皆川を見つけ、通い慣れたその席まで足を運んだ。皆川も池町の来訪に気づいたようで、手を挙げて自分の居場所を示している。

「昼休みにご苦労。まあここじゃなんだから、いつもの面談室へ行くか」

皆川はおもむろにその手に持っていたペンを机に置き、手ぶらで面談室へと向かった。その道すがら、今年で二年目になる女子大出身の先生の前を通る際、「面談室、空いていますよね」と皆川は爽やかに微笑し、その先生に尋ねた。池町はその姿に、昨年の春の皆川を思い出した。  

……そういえば昨年はかなり緊張して話しかけていたのに、皆川も成長したな……

池町はまるで皆川の保護者のような、そんな身分不相応な感慨に浸った。

「ええ、空いていますよ」

その女子大出身の先生は皆川以上に丁寧な口調、そして穏やかな笑みを浮かべ答えた。その後池町と皆川はその先生の前を通り過ぎようとしたとき、あっちょっと待ってと、その先生が声を潜めて池町らを呼び止めた。池町が振り返ると、その先生の視線は皆川の方を向いていた。

「ケンくん、今日何時頃に仕事終わる?」

ケンくん、ケンくんと池町がその声を頭の中で反芻していると、皆川は先ほどまでの爽やかな表情から一変し、少し動揺した様子で、同じく声を潜めて答えた。

「まだわからないけど、生徒の前だからまた後でね」

皆川もその先生も、どこか初々しく、お互いに顔を赤らめている。

……そういえば皆川の名前、ケンジだったな……

目の前の二人の様子に、池町は思わず頬が緩んでしまった。



 ゴホンと皆川はわざとらしく咳払いをし、その表情を真面目なものに切り替えた。

「今日呼び出した理由だが、それについて心当たりはあるか?」

皆川はその声を一段と低くして、池町に尋ねてきた。面談室は昼間にも関わらずいつも通り薄暗く、室内に一体何があるのか、池町にはやはりよくわからなかった。

「居眠りをしていたからでしょうか……?」

どことなく自信なさげな池町の答えに、いや、と皆川はキッパリとそれを否定した。

「別に居眠りが必ずしも悪いことだとは言わない。睡眠というのは人間の3大欲求の一つだからな」

池町は特に頷きもせず、静かに皆川の話に耳を傾けている。だが池町、と皆川はその低く落ち着いた口調を保ち、話を続けた。

「お前の進路希望の文系国公立大、そんな居眠りをして合格できるほど甘いものじゃない。特にお前が稀代の大天才であれば話は別だが、今の成績を考慮に入れると、授業中居眠りをするという余裕は、側から見てあるようには思えない。つまり、もっと計画的に行動しろということだ」

 皆川は真剣な面持ちで、その視線をしっかりと池町に据えている。池町は何も言わず、ただ皆川の眼差しから視線を逸らすことなく、向き合っていた。糸がピンと張り詰めたように重い緊張感が漂うなか、静かに時間がだけが過ぎていく。

 皆川は目を閉じて一瞬何かを考えるようにした後、ゆっくりと目を開けその堅い表情を緩めた。

「説教はここまでだ」

皆川はそう言って立ち上がり、池町に背を向け面談室を後にしようとした。池町は先ほどまでの緊張感との落差で、少し拍子抜けしたように目を見開いている。池町が呆然と皆川の後ろ姿を見ていると、皆川は歩みを止めた。

「池町、よく頑張ったな」

背を向けそうポツリと言い、皆川は再び歩き出し面談室を後にした。

 池町はひとり、薄暗い面談室の革張りの椅子に座っている。ふうと池町は一息つき、その豪華な椅子に体を預けた。ぼんやりと目の前を見ると、先ほどまでよく見えないと思っていた室内が、薄暗さに目が慣れてきたからか、なんとなく何があるのか池町には見えた気がした。



「池町先輩遅いっすよ、何していたんですか?」

微かに柑橘系の制汗剤の香りのする部室で、榊原がポツリと座っていた。池町はスマンスマンと言い、いつも使っているロッカーに荷物を放り込んだ。

「今日はせっかくの入学式前の午前授業なんっすから、早く来てくださいよ」

榊原はそう言うとラケットを手に取り、ガットを手で調整し始めた。なんだか最近やけに榊原部活に熱が入っているな、と池町はその姿を見て少し不思議に思った。

「それはそうと山本先輩見ていないっすか?」

「いや見ていないな。相変わらずかわい子ちゃんでも探しているんじゃねーの?」

榊原は一瞬手を止め目を輝かせたかと思えば、何かを振り払うように頭を軽く振り、元の真剣な表情でガットの調整を再開した。

「榊原、山本と一緒にかわい子ちゃん探しに行きたいのか?」

「な、何を言っているのですかセンパイ。そ、そんなハレンチなことはしないですよ」

榊原はガットを調整する手に変に力が入っているか、ギシギシと不自然に音を立てている。

「榊原、お前まさか、モテたくて最近部活に熱が入っているのか?」

「違いますよ! 自分はただ、かわいいマネージャーが欲しいだけで……、あ」

榊原はしまったと狼狽の色をみせ、手で口を覆った。池町はその姿に腹の底から笑いがこみ上げてきた。

「いいじゃないですか、今度の部活動説明会でカッコイイ姿を見せて、部員もマネージャーも欲しいじゃないですか」

榊原は開き直るように口にやっていた手を腰にやり、どこかの成金社長のように不自然なほど仰け反ってみせた。

「まーいいんじゃねーの。実際に説明会を主導するのは2年生の榊原なんだから、まあ頑張れよ」

 池町はふーと一息つき、なんとか腹の底で暴れまわっていた笑いを鎮めた。そこへ「おーす」と何とも気の抜けた挨拶とともに、山本が部室に入ってきた。

「あー、山本先輩やっと来ましたね! さっ、早く着替えてコート行きましょう!」

「おお、どうした榊原、またいつにも増してやる気にあふれているな」

山本は半開きだったその眠そうな目を大きく見開いてみせ、池町の方を向いた。池町は鎮めたはずの笑いに再び火が着いたように、フッフッと耐えるように小刻みに笑い出した。

「いや、その、かわいいマネージャーが、欲しいからだってさ……」

絶え絶えになりながら答える池町に、山本は「なに!」とその語気を強めた。

「榊原、なぜそれを俺に相談しなかった! 俺だってかわいいマネージャーは欲しい!」

山本はその目をキラキラ輝かせた。そして早く練習に行くぞ、と大急ぎで着替え始めた。その姿に池町は抑えていた笑いを噴き出してしまった。山本が汗対策のためか、制汗剤を取り出し体に塗りたくった。その匂いが榊原のものと混ざり、何とも言えぬ異様な匂いとなったが、池町は別に不快とは感じなかった。

 本当にここは落ち着く空間だなと、池町は下がる目尻に涙を溜めながら、そう思った。

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