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第三章 ある秋の一日

 ここはどこだろう、と池町孝夫は思った。池町の目の前には草原が広がっており、空には雲が所々点在している。風が吹けば草がまるで波のようにうねる。池町は周囲を見渡し、後方に小高い丘を発見しそこへ歩みを進めた。

「すごい、一面草原だ……」

池町は丘の上に立ち、息を飲んだ。草原はどこまでも広がり、地平線の彼方まで続いているように見える。

「何も、ないな……」

池町はふと、この世界に存在するのは自分一人だと、そう感じた。この世界にはどこまでも広がる草原と、自分一人だけ。そう考えると体の力が抜け、池町はその場に大の字に倒れこんだ。大きな雲が池町の視界で動いている。変わらなくていい世界、変わる必要のない世界。池町にはそれらはとても居心地のよい場所のように思えた。



「おーい池町、起きろー」

聞き覚えのある声に池町はハッとなり、顔を起こした。目の前には同じ部活の山本がニヤニヤとその顔に不敵な笑みを浮かべて立っていた。なんだ夢か、と池町は小声で独り言をもらした。

「えっ、何だって? まあそれはともかく、お呼びだぞ」

え、誰が、と池町が問うと、山本は意地悪そうな顔をした。

「皆川が」


 相変わらず薄暗い面談室に、池町と皆川は対峙している。一方はなぜ自分が呼ばれたのか状況を把握できていないといった困惑の色を浮かべ、もう一方はどのように話をしようか、その言葉選びに慎重になっているように、表情を真剣なものにしていた。

 なあ池町、と皆川はその身を乗り出して話を切り出した。

「なぜ進路調査票、白紙で出した?」

「……進路がわからないからです」

なるほど、とだけ皆川は言い、それから長く沈黙が面談室を占めた。面談室は相変わらず薄暗く、この部屋に椅子と机以外に一体何があるのか、池町にはわからなかった。池町は皆川の顔を一瞥(いちべつ)した。いつもならその視線をしっかりと話す対象に据えている皆川ではあったが、今回は何かを考えているように、その視線を下に落としていた。久しぶりに着る冬服はまだどこか馴染めず、少し窮屈に池町は感じた。

 将来か、と視線を面談室の隅の暗闇にやって、池町は自身の将来を考えた。大学行って、就職して、結婚して、子供を授かって、そんな世間一般の幸せと同じような道を自分も進むのだと、以前は漠然とそう池町は思っていた。だけど池町はある時それが酷く虚しく感じるようになった。そんな人生自分以外でも歩むことは可能だし、そう考えたら自分は他に代替の利く、そんなベルトコンベヤーで作られる大量生産品と変わらない、そう池町には思えた。それから、池町は自分の将来がわからなくなった。

 面談室に流れる長い静寂を破ったのは、皆川だった。

「池町、高校は楽しいか?」

池町は皆川の予想外の質問にどう答えるべきか困惑の色を隠せなかったが、皆川はその様子を察してか、いや雑談だから気楽に答えろよ、と池町の回答を促した。池町はそれでも少し怪訝に思ったが、やがて口を開いた。

「……はい、楽しいです」

「そうか」

じゃあこれで面談は終りだ、と皆川は池町に面談の終了を告げ、面談室から出ていった。面談室に残った池町は、その唐突さに呆気を取られていたが、しばららくの後、彼もまた面談室をあとにした。



 教室の向かいには山があり、その山は今まさに紅葉(こうよう)のときを迎えている。紅葉と一口に言っても鮮やかな緋色もあれば、ほとんど黄色に近い色、また既に枯れ落ちて葉のない木もあれば、常緑樹などのいまだに青々とした葉を蓄えている木もある。しかし全体的に見れば見事に色づいており、池町はその景色を机に突っ伏しながら眺めている。

 午後の授業の開始を告げるチャイムがなったが、担当教員はまだ来ていない。池町は教科書を机の上に出したが、すぐにまた机に顔を埋めた。春とはまた違う秋の陽気に誘われ、池町のまぶたは次第に重くなっていった。あと少しで眠りにつくというところで、みんな自習だぜーという聞き覚えのある声に、池町は目を覚ました。

 目をこすりながら前を見ると、山本が黒板に大きく「自習」と荒っぽい字で書いていた。静寂に包まれていたクラスは、山本の一言でワッと盛り上がった。山本は「自習」と黒板に書いた後、池町の方に満面の笑みで近寄ってきた。

「池町、これからどうするよ?」

「どうするって、昼寝かなー」

「いやいや、こんな絶好の天気の日に、昼寝なんかしてどうするんだよ」

池町は窓の外を指さした。秋晴れというのにふさわしい、そんな天気の良い日だった。

「じゃあ山本はどうするっていうんだよ」

池町があくびをして気だるそうにしていると、山本はいたずらをする子供みたいな顔をして、「外に出るぞ」と言った。


 山本の提案で、池町は学校の裏山を登っていた。足元には一面落ち葉が敷き詰められ、踏むごとに布団のような柔らかい感覚が足に伝わる。上を見上げれば、これまた見事に木の葉が紅く色づいている。

「なあ山本、どこに向かっているんだ?」

「まあ着いてからのお楽しみだ」

山本は先陣を切って、どんどん山道を登っていった。池町もその背中を追っていったが、途中で汗ばみ、重い冬服の学ランを脱いだ。

「なあ山本、暑くないか?」

池町が手で顔を仰ぐと、山本は額を汗で濡らしながら、ああ、と言って学ランを脱ぎワイシャツ姿になった。そして二人は再びザクッザクッと一定のリズムを刻みながら、どこまでも続くと思われる長い登山道を登っていった。


「着いたぞ」

山本がふうと額に溜まる汗をワイシャツの袖で拭った。池町は数メートル先の山本のその姿を見て、最後の力を振り絞って歩みを速め登りきった。頭を垂らし肩で息をしていたが、呼吸を整えて、池町は視界を前に定めた。

「これはすごいな……」

「だろ。ここ、俺のお気に入りスポットなんだぜ」

二人の眼下には、自分たちが普段暮らしている町があった。四方を山で囲まれ、田舎町と表されるような町だが、山の上から見渡すその遠景はどこか感慨深いものがあると、池町は思った。

「山本、ここいつから知っていたんだ?」

「高校入った時に、ここら辺探索していたら、偶然見つけた」

へぇーと適当に相槌をうち、池町は町を眺めている。なあ池町、と山本はその声をいつになく低いものにした。

「俺、高校卒業したら、この町出て都会の方の大学に行こうと思う」

えっ、と池町は山本の方を向いた。山本の表情は真剣なものとなっていた。

「世間一般的に田舎町って言われているこの町、俺はいい町だと思う。人は優しいし、自然は豊かだし。都会だったらそうはいかない。何百万人と人がいるのに、人と人との関係ってのは薄いって聞くし、テレビで見る都会の人達が自然があるって呼ぶような公園とか、俺にとってみればただの人工物だ」

池町は静かに山本の話に耳を傾けていた。

「でもさ、俺は別の世界も見てみたい。この生まれ育ったこの町とは程遠い、そんな世界を」

山本は正面遠くに見える山を指差した。

「なあ池町、俺はあの山を越えて、見知らぬところに行ってみたい」

池町はふと空を見た。秋晴れだからだろうか、いつもよりも空が高く感じられた。



「山本先輩来ないっすねー」

「どうせまた、かわい子ちゃん探しだろーよ」

「いいっすね。自分も参加してきていいですか?」

「いやいや、ダメだ。うちの部活から二人目の山本を出すわけにはいかない」

えー、と榊原はわざとらしく()ねてみせ、部室の奥にあった椅子に腰掛けた。その椅子は堀田がよく腰掛けていた椅子だった。榊原はそんなこと気にも留めない様子で、話を続けた。

「池町先輩、堀田先輩って推薦合格したんですよね」

「ああ、東京の方の大学らしいな」

「推薦ってテニス推薦ですか?」

「そうらしい。まあインターハイでベスト8になれば、それは大学から声もかかるだろ」

「でも引退してから大学入学までテニスやらないんですかね? うちの部にも引退されてからほとんど来られないですし」

「隣町の方のクラブまで通っているらしい。まあ向こうの方が施設揃っているしな」

へぇー、と榊原は特に興味なさそうに生返事をした。その姿に池町はなぜだか苛立(いらだ)ちを覚えた。

「まあそんなことより、池町先輩、今度合コンするんっすけど、どういう服装で行けばいいっすかね」

知らん、と池町が語気を強めると、榊原は池町の不機嫌さを感じ取ったのか、すみませんとだけ言って、それから部室は重苦しい静けさに包まれた。

 つい数ヶ月前まで堀田が座っていた席にもう堀田が座っていないこと、榊原が堀田がいないことを何の迷いもなく受け入れているように見えること。池町には、その全てが不自然に思えた。



「榊原と何かあったのか?」

「いや、なにも」

池町と山本は、夕暮れを背に学校前の長い坂道を、自転車を押しながら歩いている。春には桜が満開の並木道も、今はその葉を紅に染めている。

「ウソだー。だっていつもだったら部活中軽いノリで話してくる榊原も、今日はめっちゃ静かだったしよ。それに俺が部室に行った時、お前ら二人とも何にも話さず、なんか重い空気だったじゃんか」

「いつもそんな感じだろ」

そうか、とだけ山本はつぶやき、それからどこか悲しそうな表情を浮かべた。

「まあ、仲直りするなら早くしたほうがいいぞ」

山本のその忠告に池町は何も反応を示さず、淡々と自転車を押して歩いた。それに合わせてか、山本も何も言わず自転車を押している。その二人の間の静寂を破ったのは、突如吹いた冷たい風であった。二人は思わず首を縮めた。ふと池町は、自分の目の前で一葉の紅葉(もみじ)が散るのが目に入った。

「冬も近いな」

山本のその何気ないつぶやきに、池町も「冬が近いな」とつぶやいた。池町はどこか(うつ)ろな目で、地面に落ちた紅葉を見つめていた。

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