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第二章 ある夏の一日

 早朝の学校前の長い坂道を多少湿気を含んだ朝もやのなか、自転車を押しながら池町孝夫は歩いている。夏だが早朝ということもあって、暑苦しさはなく、むしろ爽やかさえ感じられる。緑をたっぷり蓄えた並木の隙間から朝日が溢れ、どこか遠くからはサワサワサワと穏やかに鳴く昆虫たちのささやきが聞こえてくる。

 池町はふと立ち止まり、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。梅雨を微かに漂わせる湿っぽさと、草木の醸し出す匂いが肺に広がる。少し間を置き、そして体の中にある全ての空気を出すように、長く、長く吐ききり、そして一言だけ口に出した。

「夏、だな」

そうして再び池町は朝の坂道を登り始めた。



 えー、ですからして、夏休みというのは有意義に……

 昼間の体育館は、外からの容赦のない直射日光と体にまとわりつくような湿度により、サウナの中にいるような、そんな感覚に襲われる。現に体育館の端に並んでいる教職員たち、クラスごとに立ち並んでいる生徒たちは、どの顔を見ても皆一様に汗を滲ませている。もちろん二年生の列に並んでいる池町も例外ではなく汗により夏服のカッターシャツが湿り、体に張り付いているのを定期的に引き剥がし、そのカッターシャツを上下に揺らすことにより風を起こそうとしている。しかし、その行為で生じる風は微々たるものであり、かつ多分に湿度を持った温風ゆえ、少しも体は冷えなかった。

「なあ池町、校長の話長くないか?」

池町の隣にいる山本が同じくカッターシャツを仰ぎながら、声をひそめて話しかけた。

「ああ、ほんと長い。もう二時間ぐらい話しているんじゃないか?」

「マジでそのぐらい話しているよな」

実際校長の話が始まってから十五分ほどしか経っていないのだが、それだけ池町らにとってこの極限の環境と校長のつまらない話が苦痛であった。

「山本お前いつものように、かわい子ちゃん探さなくていいのか?」

「おお、忘れてた。それがこの手の儀式ごとの一番の楽しみなんだよな」

そう声色を明るくし山本は一度二度周りをキョロキョロしたが、頭を動かすのだけでも億劫になったのか、周りを見渡すのをやめ、正面を向いた。


「なあ池町、周りの生徒や先生たちはあんなに汗ダラダラなのに、なんで校長だけあんなに爽やかな顔をしてんだ?」

池町はさっきまで山本の方にやってた視線を正面に向け、確かにそうだな、と山本の言葉に頷いた。校長は汗ひとつかいているようには見えず、その口調も普段と変わらないトーンとスピードで話している。

「おい、池町、もしかして校長ってサイボーグとか人造人間とかじゃないのか?」

ブフッと池町は山本の言葉に、不意に吹き出してしまった。

「お、おいばか、何笑わそうとしてんだよ」

池町は震える声で山本にそう答えるのだが、山本は意に介さずといった感じに続けた。

「いや、だっておかしいじゃんかよ。あんなに平然としていられるなんて、とてもじゃないけど、同じ赤い血が流れている人間とは思えない」

山本のその大真面目な顔に、池町は笑いをこらえるので必死だった。

「もしかして、地球を侵略しに来た宇宙人だったりして」

山本は目を見開きさらにその空想を膨らませた。池町は自分の脚をつねり、何とか平静を保っている。山本から意識を逸らそうと、ふと横を見ると、教職員列に並んでいる皆川が、こちらを注視しているのがわかった。

「おい山本、これ以上は……」

「いやだからさ、やっぱり校長は少なくとも人間じゃない。あれはもっと恐ろしい……」

「だから山本、皆川がこっち見ている」

 池町はその声をさらに抑えながらも、山本の袖を引っ張り注意を引いた。山本は当初どうしたのか状況が読み込めていない様子であったが、池町の目配せにより、ようやく状況を把握したようだった。そしてお互い正面を向いて、再びこのどうしようもない暑さと校長の長話を耐え始めた。体育館には校長の少ししゃがれた声と、どこから聞こえるセミの鳴き声が、池町にはまるで一つの狂想曲を奏でているように思えた。



「皆川の説教、意外と短かったな」

面談室から出て教室に向かっている途中、山本はそう今回の説教の感想をもらした。

「まあそもそも山本があんな変なこと言わなければ、こんな説教くらうこともなかったけどな」

「まあまあ、それもご愛嬌で」

実験室や職員室のある北棟から教室のある南棟に通じる、吹きさらしになっている渡り廊下に、池町らは一歩足を踏み出した。夏の痛いばかりの日光が、容赦なく池町らに降り注ぐ。池町らは思わず足を止めた。

「うわ、暑いな」

山本が眉を下げいかにもバテているような表情をしてみせると、池町は「まあ夏だからな」と冷静に返したが、その表情は山本と同じようなものになっていた。池町はふと下を見ると、滴り落ちた汗が地面に吸収されるように、跡形もなく消えていくのを目の当たりにした。

「なあ山本、早く教室に戻ろうぜ」

「ああ、そうだな」

 池町らは止めていた足を再び動かし、足早に教室へと向かった。汗とともに池町らの影もその姿を消し、あとには炎天下に(さら)される吹きさらしの渡り廊下だけが、ただそこにあるだけだった。


「はいじゃあ、これで一学期も終わりだ。みんな元気に二学期初日登校しろよー」

担任の皆川の呼びかけとともに、それまで静かだった教室はまるで緊張の糸が切れたかのように、生徒たちの活気に満ちた声で溢れかえった。

「なあ池町、今度いつものメンツでキャンプ行こうって話になっているけど、池町も来れるよな?」

山本が先ほどとは違い、目を輝かせて生き生きとした表情で池町のもとへと来た。

「おう、もちろん行くぜ」

よっしゃ!、と山本はガッツポーズをし、ところで、と話を続けた。

「今日ちょっと委員会があるから、部活先に行っておいてくれ」

池町がりょーかい、と言うと、山本は(きびす)を返してキャンプを主催した生徒のもとへと向かった。池町は荷物を早々にまとめて、教室をあとにした。


 昇降口から外に出ると、先ほどと同じく容赦のない直射日光が池町の頭上に降り注いでいるのとともに、セミの大合唱がその音量を最大にしていた。

 眩しさで目を細めながら、池町は遠くに大きな何層にも重なった入道雲があるのを見つけた。地面には陽炎が立ち込んでいる。

 池町は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。その空気は梅雨の残滓の湿っぽさなんて忘れさせるぐらい、池町には熱く感じた。そして長く、長く、息を吐ききった。先ほどまで細めていた目を、大きく見開き一言だけ口にした。

「夏、だな」

遠くにある入道雲がその背をさらに高くしている。池町は夏の始まりを、その全身で感じていた。



「先輩、今度のインターハイ、一人で行くんっすか?」

部活終わりの部室で、池町は堀田に翌週に控えた全国総体について聞いた。

「おう、そうだよ」

「場所東京っすよね? こんな田舎から出て、不安じゃないですか?」

「いや全然」

相変わらず先輩は物怖じせず堂々としているな、と池町はその平然とした堀田の姿に感心した。

「一応引率ってことになってる教頭とは一緒に行かないんですか?」

と、テニス部唯一の一年生の榊原が、その華奢な体に柑橘系の匂いのする制汗剤を塗りながら、堀田に質問をした。

「いや、教頭とは現地で会う予定。まあ前日まで会議とかなんとかで、会うのは当日なんだけどな」

「堀田先輩前々日に東京入りするですよね? 観光でもするんですか?」

「せっかくの東京だから俺も観光したいんだけど、あいにく東京の大学から声が掛かっていて、そっちの方へ行くことになっている」

そう堀田が淡々と述べると、榊原はエッとその目を見開き堀田の方を向いた。そして大学から声が掛かるなんてすごいですねと、あたかも自分とは全く遠い存在と話しているように、その口調をより丁寧なものにした。

「まあ堀田先輩だからな。ところで堀田先輩は、その大学から推薦もらったら、そこの大学、行くんですか?」

堀田のテニスの才能を十分に知っている山本は、その平然な態度を後輩の榊原に見せつけるようにそう言った。

「どうだろうな。まあテニスをやる環境としては、いい大学ではあると思う」

そうなんすか、と山本はその平然さを崩さず、甘いイチゴの香りのする制汗剤を体に塗ろうと手にその液を取り出そうとしたが、手元が狂ったのか、大量に出してしまった。

「おい山本、お前後輩の前だからって、平然を装おうとしなくたっていいんだぞ」

池町がすかさずその山本のわずかな動揺を指摘した。

「い、いや池町、べ、別に俺はいつもこんな感じだけど?」

明らかに動揺している山本の様子に、部室全体が笑いに包まれた。人数も一人増えたからか、その声量は春に比べて賑やかなものになっていた。

 池町もその様子にいつもながら安心感を覚えつつ、堀田の大学の話を頭の中で反芻した。西日が部室の窓から池町の顔に当たる。池町は制汗剤の混ざった匂いに、思わず鼻を覆いたくなった。



 夕日に染まったあぜ道を、池町と山本は自転車を並走させて帰っていた。

「なあ池町、夏休みの宿題、今年もよろしくな」

「いや、何言ってんだ。明日からコツコツやれば普通に終わるだろ」

「いやいや、俺を誰だと思っている? 小学校からこのかた、夏休みの宿題を最後の日に全て終わらすという偉業を成し遂げてきた山本様だぞ」

「そうだな。小学校のころは知らんが、中学校からこのかた、夏休みの最終日に俺に泣きついてきたあの山本様だよな」

池町がそう皮肉を込めて指摘すると、山本は口にわずかな笑みを含み自分の行いを誇っているような顔をした。それの顔が夕日に当たることにより、さらにその誇った姿がそれらしい偉大なものに見えてしまい、池町は失笑した。

「あー笑ったな、池町。まあいいさ。どちらにしても、俺の夏休みに宿題は必要ない」

「いやいや、宿題しないと新学期、皆川に怒られるぞ」

「怒られたからってなんだ。俺たちはどうせ来年の夏には受験勉強とかでそれどころではないだろ? だったらこの高校二年生の夏、思いっきり遊ばない手はないぜ」

「でもそれは大げさじゃないのか? 例えば堀田先輩だって、あの人おそらく推薦入試だろうけど、推薦だったら夏休みそんなに受験勉強しなくていいだろ。それに大学に入れば、またたくさん遊べるだろ」

池町のその反論に、山本は、いやいやと間髪入れず否定をした。

「堀田先輩はテニスの才能があるから、正直夏休みに勉強なんかしなくても推薦もらえるんだろうけど、俺は違う。特段にテニスが上手いわけでもなく、他に秀でているものがないから、推薦は難しいだろ。それに」

山本は一息間を置いた。

「大学に入れば俺たちも子供じゃいられなくなる。もちろん大人になっていいこともあるだろうけど、でも子供のうちにしかできないことだってある。俺はこの高校二年生の夏が、その子供として目一杯遊べる最後のチャンスだと思う」

 池町は夕日に照らされる山本を見た。その顔は正面にしっかりと据えられ、目は夕日によってかキラキラ輝いているように見えた。気づけば昼間のやかましい蝉の大合唱は静かになり、代わってどこからともなくヒグラシのカナカナカナと鳴いているのが聞こえてくる。

「だから池町」

山本は子供みたいな満面の笑みを浮かべた。

「夏休み、たくさん遊ぼうな」

西では山際に太陽が入りつつ、東には既に夜の帳が下りている。田んぼのあぜ道を自転車で走る池町は、昼と夜の境に自分はいると、そう思った。

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