第一章 ある春の一日
池町が教室に入ったとき、ほとんどの生徒がすでに登校しており、少し騒がしかった。
「ういっす池町」
そう声をかけてきたのは、中学からの友人で同じテニス部に属する山本だった。池町もそれに、ういっすと同じ口調で返した。
「池町、春だな」
「おう、春だ」
「新しい出会い、あるかな?」
「さあな」
山本は相変わらずだな、と池町は心の中で思った。山本は一年前の入学式でも、周りをキョロキョロして可愛い子を探していた。
「ところで池町、今度の日曜日暇か? クラスのみんなでカラオケでも行こうかって話になっているけど」
「おお、いいねー、行くよ」
池町が親指を立ててそれに賛同すると、山本は、よっしゃ!、と嬉しそうにこの企画を主催したであろう生徒のもとへ駆けていった。このクラスになってまだ日が浅いせいか、池町の周囲では生徒たちが盛り上がっているように見えて、互いの腹を探り合うように、その言葉選びに注意して話している。この新学期特有の浮ついた、それでいてどこかぎこちない雰囲気、池町は嫌いではなかった。
はいじゃあこの文章だけど、これは明治時代に書かれた小説で……
教師の声が池町の耳に入る。だがその音もモヤがかかり曖昧になり、そして消えていく。全てはこの春の日の陽気のごとく。南に窓があるこの教室は太陽の光をふんだんに取り込んでおり、座っている池町の体は、その優しく暖かな陽気に抱かれていた。うとうとし始め意識が途切れたかと思えば、体が何かに反応したようにビクッとなり目を覚ます。
それを何回繰り返した頃だろうか、また意識が途切れ今度は深い眠りに池町が入るところで、その体がビクッとなり目を覚ました。しかし今回は「何か」とかそんな曖昧なものではなく、もっと物理的なものに体が反応したようだった。池町はぼやけた視界を前に向けた。
「よう池町、そんなにこの授業は簡単で退屈か?」
池町の前には、担任の皆川が立っていた。まだ二十代後半だからだろうか、その声には張りがあり、目の前にいる池町の耳の奥に響き渡った。皆川はそのたくましい腕を見せびらかすかのようにシャツの袖をまくり上げ、腕を組んでいた。どうやら皆川お得意の横腹突きをやられたようだった。
「いえ、まあ、すいません」
「す「い」ませんじゃなくて、す「み」ませんな」
皆川は池町の日本語の誤りをわざと強調し指摘すると、ふうと大げさに頭をかかえるポーズをした。
「まあいい。今日の昼休み職員室に来い」
それだけ指示すると、皆川は、じゃあ教科書に戻るぞー、と授業を再開した。なんか面倒なことになったと、池町は担任の皆川を恨めしく思う一方、もっと上手く居眠りするべきだったと自身の不注意さに嫌気がさした。
「失礼します。皆川先生はいらっしゃいますか?」
形だけの挨拶をするのと同時に、池町はその視界に担任の皆川の姿を捉えた。池町の声は皆川にも届いたようで、皆川は、おう、と手招きをした。
「よく来た池町、まあここじゃあなんだから、場所移動するぞ」
皆川は何も持たず、職員室奥の面談室へと池町を誘導した。その道すがら、皆川は面談室近くに席を構えている、ついこの間女子大を卒業したばかりの新任の先生に「面談室って空いてますかねー?」とその大きな体を小さくして尋ねた。普段の教室の皆川からは想像できない姿に池町は驚きを隠すので精一杯であったが、その新任の先生は微笑しながら「空いてますよ皆川先生」と優しく柔らかな声で答えた。「あ、どうもー」と皆川はどこかぎこちなく、その声色をいつもより数トーン高くして礼を言った。
面談室は来客用に仕立てられているためか、革張りの椅子をはじめとして全体的にシックな作りとなっている。
「まあ普段はこんないい部屋で生徒と面談なんかしないが、今日は特別だ」
皆川はその豪華な椅子にドカッと座わり、それに続いて池町も慎重にその対面に腰掛けた。
「俺もこんな新学期早々説教なんてしたくないんだがな」
はあ、と池町は適当に相槌をうった。面談室は窓が北側にあるせいか、真昼間でも少し暗い。
「池町、なんで授業中寝るのが悪いことだと思うか?」
「それは……、授業している先生に失礼だからでしょうか」
いや、それは違う、と皆川は否定した。
「池町、お前高校卒業したらどういう進路希望している?」
いや実はまだ……とその語気を弱めて答えると、皆川は身を前に乗り出して「じゃあ将来の夢はなんだ?」と聞いてきた。
「……わかりません」
皆川はそれを聞くと、その体を再び革張りの椅子に深々と預けた。
「わからないのであれば尚更、勉強をしなくてはいけない。今後どのような進路を希望しても、勉強さえできれば困ることはない」
「はあ」
確かに皆川の言う通りだと、池町は思った。しかし同時に「将来のため」とかそんな漠然とした理由のために、勉強なんかに拘束されるのも癪だと感じた。外が少し曇ってきたのか、面談室は先ほどよりも更に薄暗くなった。なあ池町、と低く落ち着いた声で皆川は語りかけた。
「お前もいつまでも子供のままという訳にはいかないんだよ。夢があろうと無かろうと、いつかは進む道の選択をせまられる。そうしてみんな大人になっていくんだよ」
薄暗くハッキリとものが見えない状況で、皆川はその視線を池町にしっかり据えている。池町は一瞬皆川と視線がぶつかったが、どこか居心地悪く、すぐに逸らした。逸らした先には何か物が置いてあるようだったが、それが何であるのか、薄暗いためか池町にはわからなかった。
放課後池町は部室棟の一角にあるテニス部の部室へと向かった。道中大きな桜の木が一本あるのだが、学校前の坂道にある桜と種類が違うのか、もう既に殆どその花びらを散らしている。池町は道一面に散らばった桜の花びらには目もくれず、その上を踏んで歩いた。部室前に立ち、相変わらず建て付けの悪い扉を勢い良く開けた。
「こんちわー」
「ういっす、池町」
こじんまりとした部室の奥にテニス部唯一の三年生、堀田が座っていた。部室の内部は一面コンクリートむき出しで全体的に暗い印象を抱かせるが、この堀田がいることにより、その無機質な空間が絶対的な者の存在により華やかに映ると池町は感じた。
「どうした、そんな眠そうな顔をして」
「まあ、色々とありまして。先輩は相変わらず早いっすね」
まあね、と堀田はラケットのガットを手で調整している。
「ところで山本はまだか?はやく練習行きたいんだけど」
「山本なら今頃かわいい子でも探しているんじゃないですかー」
まじかー、と堀田はガットを調整していた右手を、今度は額に持ってきて大げさに反応してみせた。表情もわざと悔しそうにしているのが、池町にはどこか面白く感じられた。
「ところで先輩、今度の地区予選のトーナメント発表されたらしいっすね」
「へー」
「先輩興味ないっすか?」
「あ、うん。ない」
堀田は額にやった手を再びガットの上に戻し、位置調整を再開した。その姿を前にして、さすが先輩だ、と池町は今更ながら感心した。
「さすが先輩、余裕っすね。今回もシングルスは先輩が優勝してしまうんだろうなー」
「そんなこと、やってみないとわからないさ。それよりもダブルスお前ら二人も、いい線いくんじゃないか?」
「そんなことないっすよ。相変わらず息が合っているようで、合っていないっすからね。この間の練習試合も、連続でポイント決めて勢いついたかなと思った矢先に、山本が打ったサーブが俺に直撃したぐらいっすからね」
池町はそう言うと、背中にあるアザを見せた。堀田はそれを見て、盛大に吹き出した。
「いや先輩、笑い事じゃなく、めっちゃ痛かったっすからね……」
それを聞いて堀田はその笑いのツボに入ったのか、更にその笑い声を大きくした。
「ちわーす、ってどうしたんすか?堀田先輩そんなに笑って?」
ここでサーブを池町に直撃させた張本人の山本が入ってきたことにより、堀田の笑いは頂点に達し、腹を抱え椅子から転げ落ちた。
「お前のせいだ、山本」
池町がそう言うと、山本はますます状況が読み込めないといった感じで、頭をかしげていた。テニス部はその部員が堀田、池町、山本の三人だけという、今にも廃部寸前の部活だった。池町はこの部員数三人しかいないテニス部のこの雰囲気が、とても居心地の良いものに感じられた。
練習が終わった後、池町らは部室に戻って着替えをした。
「先輩やっぱチート並に強いっすよ」
池町は汗で湿ったウェアーを脱ぎながら、今日の部活での一幕を思い出した。池町と山本がダブルスを組み、堀田がシングルスで試合をやったが、結果堀田に全く歯が立たず惨敗した。しかも池町と山本は息を切らしながらやっていたが、堀田は呼吸ひとつ乱さず、まるで手のひらで二人を転がしているかのように、そんな鮮やかなプレーをしてみせた。
「そんなことないさ。それより二人だって俺からポイントとっただろ?」
「たった1ポイントだけですよ、堀田先輩」
山本が呆れたように目を細めると、堀田は、まあまあ、とそれをなだめるような仕草をしてみせ、ところで、と話題を転換した。
「部活動説明会、どうする?」
「そういえばもうそういう季節ですねー」
山本が体に制汗剤を塗りながら、まるで他人事のようにそう言った。
「まあテニス部の慣例で、新入生部活動説明会は二年生が主導してやることになっているから、山本、お前が主導するんだぞ」
堀田がそう意地悪な笑みを浮かべると、山本は、そんなーと制汗剤を塗る手を止め、堀田の方を直視した。
「まあ山本、頑張れよ」
「いやお前も二年生だろ、池町」
山本は制汗剤がついた手で、上半身をさらした池町の背中を軽く叩いた。だが当たった場所がアザになった箇所であったため、池町は「イテッ」と思わず声を上げた。
「あ、すまん池町。でもなんでそんなところにアザなんてあるんだ?」
「……山本、これ、この間お前にやられたやつ……」
池町が苦しそうに言うと、山本は最初意外だというような顔をしてみせ、「あっ、そんなこともあったなー」とまるで昔を懐かしむお爺さんのような、どこか遠くをみるような顔にその表情を豊かに変えてみせた。それを目の前にして堀田は、漫才を観覧しているかのように腹を抱えて笑っている。池町の心中にはいつもと変わらない風景に対する安心感と同時に、その背中の痛みからか、一抹の不安が胸をかすめるような気がした。それをかき消すかのように、池町は痛みを堪え引きつり顏で笑ってみせた。