第二五話 敵地潜入 四 物性瘴気
「危ない、皆下がるんだ!」
アリステルが崖側から離れるように警告する。
「ポーラさんたちは!?」
「彼らは壁を登る能力がある、大丈夫だ! 迂闊に崖に近寄るな。二次被害が出る」
私を引っ張り上げた後に崖下を覗き見ようとするラシードをアリステルが制する。
血相を変えて慌てふためいているのはアリステル班四人だけで、崩落被害を免れたシーワたち、残りのエルリックのメンバーは何をするでもなくただ呆然とその場に突っ立っている。
普段、信じられないほどの反応速度を見せるシーワやフルルが微動だにしないのは何故だ。ポーラは崖下にアンデッドがいるようなことを言っていたが、落下した三人は大丈夫なのか。
崖に近寄れない私は、少しでも情報を得ようと聴覚に意識を集中させる。しばらくすると、崖下から衝撃音が聞こえ始めた。音の感じからして、魔法で戦闘している様子だ。アンデッドと交戦しているに違いない。
普段のエルリックと変わらない、戦っているにしては静かな戦闘音が聞こえてきたのはほんの短時間で、すぐに辺りは静寂に包まれた。
静かになってしまうと逆に不安になる。
まさか、三人は崖下で負けてしまってはいないだろうか。ポーラは戦わないし、ノエルもエルリックの中ではそこまで強いほうではないから……。でも、背高がいる。背高の魔法能力はエルリック最強だ。
崖下にどれだけ強いアンデッドが待ち受けていようと、背高が一蹴されるとは考えにくい。強いアンデッドがいたなら戦闘は確実に長引く。戦闘が一瞬で終わったのは、エルリックが相手を瞬殺したからだ。
そうだ、大丈夫。私が慌ててどうする。落ち着こう。
戦闘音が途絶してから待つこと数分、崖下から土の構造物が伸びてきた。エルリックがしばしば作る足場だ。足場を伝い、背高とノエルが崖上に戻る。
ポーラは普段、足場も崖も自分で登らず、メンバーの誰かの背中におぶさっている。そのポーラが今は自力で背中におぶさらず、背高の胸元に抱きかかえられている。よく見れば、ポーラの顔は顔料でも塗ったかのようなどす黒い紫色を呈しているではないか。
「ポーラさん!!」
異常を察したラシードが背高に向かって駆けだす。
すると、今まで全く動こうとしなかったシーワがラシードの前に急速に回り込んだ。
立ちはだかろうとするシーワをラシードは意にも介さず、巨体の横をすり抜けようとする。そんなラシードに、シーワは何の躊躇もなく剣を振り下ろす。
ラシードは横から撃たれたシーワの剣をギリギリで躱す。
殺意こそないが、訓練時のような手加減もない。無機質な心ない一撃。その一撃に込められたメッセージは単純明瞭、私たちの存在を、『邪魔ダ』としか思っていない。
「な、何をするんだ!?」
「アシッド、いいから離れろ!」
思いがけず攻撃を受けて動転したのも束の間、ラシードは湧き上がる怒りに任せてシーワに力で対抗しようとする。剣の柄に手を伸ばしたラシードの身体をアリステルが後ろから羽交い絞めにする。
「いつもの彼らとは様子が違う。迂闊に近寄るな!」
「でも班長、ポーラさんが!」
言っても聞かないラシードをアリステルはそのままズルズルと下がらさせる。
誰がどうみてもポーラの顔色は異常だ。被毒でもしたか、毒に相当する魔法の影響下にあるのかもしれない。医学的なことがよく分からない私でも、ポーラに忍び寄る死の気配というものを強烈に感じる。
エルリックは回復魔法を使えるが、それだけだとポーラを治すには不十分。レンベルク砦で傷病兵に診断を下し、治療の方針を立てたのは全て軍医だ。エルリックは軍医の指示に沿って治療を行っただけ。エルリックの診断能力は未知数である。
ポーラは治療を必要としている。今こそ私たちがエルリックを助けられる時だ。
助けたい。ただそれだけなのに、シーワは私たちの前に大きく立ちはだかり、幻惑魔法のかかった剣身を単調に揺らめかせて、私たちの接近を拒絶し続ける。
「何でだよ!? 俺はポーラさんを助けたいだけだ。そこをどけ!」
ラシードが怒鳴り声をあげても、シーワはまるで反応を呈さない。
シーワの後方ではポーラが地面に仰向けに寝かされていて、残りのエルリックたちがその周りをグルリと取り囲んでいる。そのうちのひとりが不器用に髑髏仮面の下半分を外すと、ポーラに人工呼吸をし始めた。
なぜ人工呼吸を!? 溺れたわけでもないのに。人工呼吸をやっているのは誰だ?
息を吹き込む合間の顔を上げる一瞬に集中して目を凝らす。
人工呼吸を行っていたのはノエルだった。仮面下半分を外したノエルの顔の皮膚には生気がなく、かといってただの死体とも違う、アンデッド独特の質感を備えていた。
私たちの目の前で一体何が展開されているというのか。
もっとよく見たい、と思う私の心を読んだかのように、エルリックは隙間なく円陣を組んで私たちの視線を遮ってしまう。
「タバサさん。今のノエルの顔を見ましたか?」
「うん。アンデッドだったね」
ノエルはポーラによって食事を与えられている四人のうちのひとりだ。背高たち他の三人と違って、ノエルひとりだけが頭部から食事を摂取している。
食事時に見えるのはフードで覆われた後頭部ばかりであり、髑髏仮面の下に隠れた本当の顔を正面から見たことはない。まだ見ぬノエルの顔は、人間か、少なくともゴブリンやオークのような亜人の形状をしているのだろう、と私は予想していた。
ほんの一瞬だけ垣間見えたノエルの横顔のシルエットは亜人ではなく人間の形をしていて、肌の質感は紛うことなきアンデッドだった。ポーたんはその姿に何も反応を示していないから、ノエルが『変装魔法でアンデッドを装う生者』という可能性はない。
食事を摂るアンデッド……。見た目に関しては、頭部は疑問の余地なくアンデッドだった。生者ともアンデッドとも判別し難い中間の存在には全く見えない。ならば、腹部は生者なのだろうか?
最近では考えることの減っていたエルリックの謎が今になって私を悩ませる。
ラシードとシーワの睨み合いはたっぷり十分も続いただろうか。
エルリックは西に沈む太陽とは真逆の、道の東側に広がる林の奥へ向かって歩き始めた。普段のエルリックとはかけ離れたぎこちなさのある動きは、陽光に身体を焼かれて一秒でも早く太陽から身を隠そうとしているかのような力のないものだった。
ポーラはどうなった?
見るとポーラはメンバーの誰かに背負われていた。自分の力で能動的に背中におぶさる普段の乗り方とは違う、ぐったりと力のない受動的な担がれ方をしている。メンバー複数人は密に身体を寄せ合っていて、誰が何をしているのかよく分からない。今も私たちには見せられない特別な回復魔法でもかけているのかもしれない。
メンバーの陰に見え隠れするポーラの顔色は、先程の暗紫色が嘘のように元に戻っていた。
あの色ははたして何だったのだろうか……。
ポーラを背負うメンバーたちが移動を開始すると同時に、シーワはラシードの前に立ちはだかることを止め、私たちを無視してメンバーに追従し始めた。
「班長……どうします?」
「どうするもこうするも、飾りは彼らが持っているし……少し距離を取って彼らの後を追うとしよう」
後ろを付いていくだけで、また攻撃されないとも限らない。私たちは抜剣し、何かあったら即座に応戦できる態勢でエルリックを後追いする。
誰もが不安を隠せずに歩く。エルリックの最後尾を歩くシーワと、アリステル班の先頭を歩くラシード。二者の間に広がった距離がそのまま、ラシードの感じている恐怖の程度だ。
私たちの動揺に頓着することなくエルリックは黙々と林の中を歩いて行く。道なき道を進むこと数分。もう振り返っても街道は全く見えない。
エルリックは木が倒れて少しだけ視界が開けた場所で歩みを止めると、土魔法で小屋を作り始めた。
小屋が完成すると、シーワは剣をスウッと持ち上げた。剣先は小屋を向いている。
剣をかざすシーワにラシードが身構える。
「なんだよ。またやる気かよ」
「違います。中に入れ、と言っているのです」
道での交錯を考えれば、ラシードの反応は何もおかしくない。
私はポーたんがいるからシーワの言わんとすることが分かる。
「シーワに害意はありません。今は言うことを聞きましょう、班長」
アリステルは私の言葉に同意して頷いた。
小屋の中はとても狭かった。私たちは窓の無い、四人が横になっても身体がぶつからない程度の面積しかない寒々しい一室に押し込められた。部屋の入口に扉は設けられておらず、出入りを禁制する扉に代わってシーワが入口にしゃがみ込んではこちらに髑髏仮面を向け、私たちを見張っている。
ポーラは多分、私たちの真隣りの部屋に寝かされている。
「今日はこのままここに泊まるんですか?」
アリステルがシーワに問い掛けても、シーワは喋るどころか身じろぎすらしない。これではポーたんでも何も分からない。
「参ったな……。ポーラさんがいないとコミュニケーションが取れない」
針の筵のような時間がゆっくりと過ぎていく。苦しい時間は苦しい想像を呼ぶ。ジバクマに戻るどころではなくなってしまった。私たちはこのまま命果てるまでこの味気ない小屋の中に閉じ込められはしないだろうか。
ポーラはドミネートされた人間だ。いつかは支配から解放してあげたい。私はしばしばそんなことを考えていた。だが、ポーラが倒れただけで私たちとエルリックの関係はこの有様だ。仮に何らかの方法でエルリックの意に反してポーラのドミネートを解除してしまった日には、エルリックとの関係は完全に終わる。
もちろん、今までの友好的な関係も一時的な、上辺だけのものだったのかもしれない。でも、交わした会話、振るった剣、共にした時間は全て事実だ。その何もかもを無かったことにはしたくない。
班員間の会話すら憚られ、思い思いに謎や不安と戦う。ただし、サマンダだけはひとり、いつの間にか別の苦しみと戦っていた。しばらく前から催しを訴え、シーワに何度も「外に行かせてくれ」と、懇願するも、シーワは何も答えない。そのうちに限界を迎えたサマンダは無言のまま、腰を痛めた老人のような足取りでソロリソロリと歩きシーワの前を通り過ぎんとする。
別に要らないのに、ポーたんがサマンダの歩様の意図を告げる。サマンダのこの歩き方は、シーワを刺激しないためのものではなく、決壊を少しでも先延ばしするためのものだ。言われなくても分かる情報を勝手気儘に拾ってくるのがポジェムニバダンである。
サマンダが身体を跨いで部屋の外へ出ていっても、シーワは何の反応も見せなかった。
……無言の退室許可? いや、違う。おそらくシーワは動けないのだ。毒壺の下層でフルルが動かなくなったように。ポーラはエルリックの誰かに操られた傀儡でしかないのに、ポーラが体調を崩すとシーワに影響が出る。どうしてこんな現象が起こる。謎は深まるばかりだ。
数分もすると憑き物が落ちたような爽やかな顔でサマンダは戻ってきた。
「こんなことならもっと早く行けば良かったー」
あっけらかんとしたサマンダの口調が、鬱々とした小屋の空気をガラリと変える。
サマンダの安全確認により緊張が解けて生命の危険以外のことを考える余裕ができると、身体は途端に生理現象を思い出す。私たち三人もサマンダに倣って交代で小屋の外に出た。
今までの流れで言えばこういう役回りは大体ラシードが担っていた。サマンダが担当するとは珍しい。
黄昏時の微かな明るさがなくなると共に、不快な夏の暑さが和らぎをみせる。そのうちにどこからともなくいい匂いが部屋の中に漂いだし、四人の腹がグウグウと鳴りだしたところで、小屋の入口側を見ていたラシードが怪訝な声を上げた。
「ゴ、ゴブリン!?」
前触れなく飛び出した魔物の名称に慌てて臨戦態勢を整えようと試みるも、狭い室内では抜剣もままならない。
何も準備できぬうちにそのゴブリンは部屋の前に立った。
「何だ、こいつ」
「両手で何か持っている?」
ゴブリンの小さな両腕は大きな鍋で塞がっていた。落ち着いてよく見れば、ゴブリンが通りやすいようにシーワは少し身を寄せている。
「このゴブリン、ドミネート下にあるようです」
「そのようだね」
ゴブリンは臨戦の緊張から脱した四人を押し分けて部屋の真ん中に土鍋を下ろすと一旦外に出る。そして今度は食器を持ち帰っては部屋に置き、また部屋を出たら、今度はもう戻ってこなかった。
アリステルが土鍋の蓋を開けると、中からはいつもポーラが作る料理の香りがした。
涼しかったダンジョン内ならまだしも、ここは盛夏のジバクマの地上。日没後とはいえ鍋料理は正直辛いものがある。それになによりこの状況、食指が動かずに班員同士で顔を見合わせてしまう。
見慣れた班員の顔貌鑑賞に耽ったところで事態は何も変わらない。不承不承といった様子でアリステルが毒感知魔法を行い食事に毒が含まれていないことを確認すると、何となく食べなくてはいけないような雰囲気が広がり、全員で料理を口に運んだ。
……不味くはない。味はポーラの料理に寄せようという努力の痕跡が窺われる。だが、調味料や香草はいつもと同じ物を使っていても、分量を詰め切れていない感じがする。違いは味だけではない。見た目もダメだ。食材の切られ方が不揃いなうえ、花びらや幾何学模様などの飾り切りも全く施されていない。
私が抱いた感想とほぼ同じ内容をラシードとサマンダが口々に語る。
この料理はあのゴブリンが作ったのだろうか。
私たちの置かれた状況は何と説明したらいいだろう。国を守る立場の軍人がこっそりと自国から抜け出し、敵国領土で狭い部屋に押し込められ、ゴブリンが作った美味いとも不味いとも形容しがたい料理を食べては、「これはポーラの料理とは違う」と料理批評に励む。挙げ句、問題の発端となったポーラは真隣にいながら安否不明。
自分たちの無力さに盛大に嘆息した私たちは食事後、きっちりと夜番を割り振って交代で眠った。このところエルリックと行動を共にする夜はかなり深く眠ってしまっていたが、この日ばかりは浅い眠りとなった。本来任務中に深い眠りに落ちるべきではないのだから、自然な軍人のあり方を取り戻したということになる。
◇◇
朝、何か部屋の雰囲気が変わったように感じて目を開けてみると、部屋の前でしゃがみこんでいたシーワの姿がない。
班員を起こし、全員で恐る恐る隣の部屋に行ってみると、そこには寝台の上で上半身だけ起こすポーラがいた。
「ポーラさん、身体の具合は大丈夫ですか?」
ラシードが膝をついてポーラの横にしゃがみ込む。
「昨日は情けないところを見せてしまって申し訳ないです。食事もちゃんとしたものを用意できなくて――」
「何言ってるんですか! 昨日は真っ黒になって倒れてたんですよ。そんなことは気にせずに身体を休めて治してください。ていうか俺たち軍医なんだから診察しますよ」
誰よりもポーラを心配するラシードが体調を気遣って診察を申し出る。だが、そこに他意が無かろうとも、そういうことを言うとサマンダの機嫌が悪化してしまう。
横をちらと見やると、サマンダは怒ってなどいなかった。一瞥しただけでは読み解けない、複雑な笑みを浮かべていた。
「はいはい、アシッドさん。ポーラさんは私が診察します。知り合いだと恥ずかしいと思うので男性二人は出て行ってください」
ポーラの傍らを離れようとしないラシードの肩にサマンダが手を置いて退室を強く促す。
「いえ、大丈夫ですよ。昨日は物性瘴気を吸ってしまっただけです。手足が無ければ危うく死ぬところ……いえ、実際仮死状態にはなりましたが、なんとか蘇生できました。大事をとって今日一日はお休みさせて貰おうと思いますが、自覚できる分には体調は悪くありません」
「物性瘴気ですか?」
物性瘴気という言葉に反応したアリステルが軍医の目でポーラに尋ねる。
「ええ。あそこの窪地になぜアンデッドが複数いたのか、もっと早く察するべきでした。あのアンデッドは窪地に足を踏み入れるか滑り落ちるかして瘴気を吸い、命を落とした魔物たちなのでしょう」
「瘴気を吸ったばかりなのに、今日体調がいいわけないじゃないですか!」
ラシードは心配のあまりに怒っているかのような興奮ぶりを見せている。軍医が病人の前で声を荒げるとは、ラシードもまだまだ心のあり方がなっていない。
「アシッド君、前に瘴気にも色々な特性があると教えましたよね。今回私が吸ってしまった瘴気は、火山等から発生するような、一度吸ったら身体に残留して毒性を発揮する瘴気ではなく、下水等で時折生じるような、吸うと身体が青黒くなる瘴気です。あなた方も見ていたとおり、私の身体の色は蘇生直後に元に戻っていましたよね? 昨日の今日なので、確かに何もかもすっかり元どおり、とは言いませんが、瘴気の毒はもう残っていませんよ。本当に体調は悪くありません」
アリステルの頷き様を見るに、アリステルはポーラの説明で納得が得られたようだ。ラシードとサマンダは内容を理解しつつも、全ては納得できていない様子である。
私は……身体の色が戻ったからポーラは大丈夫、とだけ理解した。うん。私はこれでいい。
「さあさ、今日は我々には食材調達がきついので、皆さんに狩りをして獲物を獲ってきてもらいたいと思います。ここはまだオルシネーヴァの領土ですから魔物だけでなく人間にも警戒は怠ってはいけませんよ。それと、瘴気溜まりや脆くなった地面にも注意してください。一呼吸で意識を失いますからね。でも、今の皆さんなら、注意してさえいればどちらも問題なく対応できるはずです」
ポーラに促され、私たちは小屋の近くで魔物狩りをすることになった。
アリステルによれば、ああいう瘴気は空気の流れが悪く淀んでいる所、一段低くなった窪地などに溜まることがあるらしい。見える崖だけでなく、見えにくい危険、足元が陥没したり、崩落したりはしないか注意を払わなければならない。
この日はラシードを後方に置いて私とサマンダが前を担当してフィールドを探索した。見つけた獲物を運良く一体目で仕留められたため、狩りはそれで切り上げてそそくさと小屋へ帰る。毒壺にいた頃からずっと練習してきた私の攻撃魔法が初めて役に立った日だった。
小屋に戻ると、ポーラは小屋の前に座って何やらチクチクと作業をしていた。崖から滑り落ちた際に破れてしまったローブを繕っているらしい。
それを見て、『駄目じゃない、お母さん。病気なんだから寝ていなきゃ』という芝居がかった台詞が私の頭の中に浮かんだ。当然ながらポーラは私の母親などではないし、実の両親にしても、二人共これまで大病とは無縁である。
恥ずかしい妄想は誰にもバレていないはずなのに、それでも無性に恥ずかしくなり、ポーラを真っ直ぐ見られなくなった。
「あっ、ちゃんと獲物をとって戻ってきましたね。あれ、サナさんはどうしたんですか? 顔だけあっちなんか向いちゃって」
体調がいいなら黙って獲物の調理に取り掛かればいいものを、ポーラは目ざとく私の異変に気付いてはその理由を問い詰める。
「本当だ。どうしたの?」
ポーラに言われてラシードが私の顔を覗き込もうとする。今、こちらを見るな。
ラシードの視線から逃げてあっち向きこっち向きしていると、ポーラが立ち上がって私の前に来た。
病人のポーラに目の前に立たれると無言の圧力を感じてしまい、どうにも顔を背けることができなくなる。顔は正面のポーラに向け、視線だけはポーラの足元に置く。
「うーん、この顔は、『今日は良いことがあった』という顔ですね。何があったのか、是非教えてください」
ポーラは柔らかな笑みを浮かべて私の隠し事を追及してきた。
あんな恥ずかしい妄想をこの場で口にはできない。何とかその場をやり過ごすため、ハントの手柄を報告することにした。
「じ、実は、あの魔物……私のアイスボールで仕留めたんです」
「やったじゃないですか、ラム……サナさん!! 一杯練習しましたもんね。じゃあ今日はいつもより腕によりをかけて料理しないといけませんね」
ポーラの笑顔が満開に咲き溢れ、本当に嬉しそうに私を祝福してくれる。
どうしてこんな笑顔ができるのだろう。他人事なのに、これほど喜んでくれるのだろう。
でも、私も、糧となる獲物を捕らえられたことも、初めて攻撃魔法を有効活用できたことも、どちらも一瞬でどうでもよくなった。ポーラの笑顔を見られたことが何より嬉しかった。
「あのー、ポーラさん。張り切っているところ悪いんですけど、今日は私に料理を作らせてもらえませんかー?」
せっかく褒めてくれているところに、サマンダが割り込んできた。ありえないスタンドプレーである。
「料理がしたくなりました? では、一緒に作りましょう」
「作り方を教わりたいので、ポーラさんには私の横にかけていてもらいたいですー」
サマンダの言葉ひとつひとつに反応した小妖精が私に真意を伝える。
「そういえば皆さんが料理をするところは見たことないですね。でも、行動中に煮炊きすることはあるはずです。普段はどういう風に料理をするのですか?」
「仕事で作るのは料理って言えるようなもんじゃないですよー。単に切って熱を通してってだけで――」
私への称賛をおざなりに、ポーラはサマンダと並んで仲睦まじく料理談義を始めた。二人の姿はまるで実の母娘のようだ。
……サマンダが料理役を買って出たのはポーラを休ませるためだ。あのサマンダが珍しいこともあったものだ。倒れたポーラを見て、軍医としての庇護欲求が刺激されたのかもしれない。
ラシードに引き続いてサマンダまで籠絡されてしまった。サマンダが話を遮って入ってきたのは、私が褒められているのが気に食わなかったためか。
状況を理解できても、せっかくの褒められる機会を台無しにされた私の苛立ちは霧散しない。
ワイルドハントに安易に情を抱くあまり、咄嗟の判断を誤ることがないようにな、サマンダ。そんな失敗を犯した日には、私は今日の分まで厳しく責任を追及させてもらう。
はあ……。
ラシードもサマンダも、若手の軍医というのは病人、怪我人を見るとコロっと心をもっていかれる。私とアリステルだけでも中庸な心を守り抜き、曇りなき眼を保たなければならない。
その日、食卓に並んだ料理の完成度はゴブリン以上、ポーラ以下だった。いつもなら私たちアリステル班とは離れた場所で他のエルリックのメンバーに囲まれて食事を摂るポーラが、今日は私たちと一緒に卓を囲んでサマンダの料理を嬉しそうに食べている。
教わりながら作ったからこそ、それなりの出来になっただけなのに、誰にとはなく誇らしげにしているサマンダが癇に障る。ここは私も料理を教えてもらうべきだろうか。
その日は結局、同じ場所でもう一夜を明かすことになった。このまま数日は足踏みになるかもしれない、と覚悟したものの、ポーラは倒れた二日後から平常どおり動き回るようになった。体調を万全にするためにも、個人的にはもう少し時間をかけて休んでもらいたかったが、秘めた想いは届かぬまま移動再開となった。




