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第一九話 レンベルクの悪夢

 オルシネーヴァ軍とジバクマ軍の戦線は北東方向から南西方向に長く広がり、両軍の戦力は戦線に沿う形で多方面に展開していた。オルシネーヴァがジバクマから奪取したゲダリングとジバクマが防衛を続けるゲルドヴァとの間で生じる戦闘は、長く伸びた戦線の中で最も苛烈を極めていた。


 元よりそこは両軍戦力の集中していた地点ではあった。それが、レンベルク砦付近にワイルドハントが姿を現し、戦争に介入し始めたことで拍車が掛かった。


 ここが戦争の分水嶺、と判断したオルシネーヴァは、二国間の戦争が膠着状態に陥って以来最大規模の号令を発し、ワイルドハントもろともレンベルク砦を落とすため、周辺戦力を一箇所に集結させた。


 周辺国を恐れさせるジバクマのブラッククラスのハンターは、東のゴルティアとの戦争に割り振られ、ジバクマ西部ではついぞ見かけない。ミスリルクラスやブラッククラスの強大な「個」の戦力、というのは兵数差、物量差、戦場補正、戦術差、戦略差、全てを覆しかねない。そういう突出した戦力を誇る「個」のいない両軍における戦争では、兵数差も戦術も勝敗を決定付けうる重要な因子である。


 レンベルク砦北方の陣に集結したオルシネーヴァ軍は、砦一つを落とすことだけを考えるならば、過剰とも言えるほど十分な兵力を揃えていた。


 オルシネーヴァ軍にとっての不安要素を挙げるとすれば、未知の戦力たるワイルドハントの存在くらいのものである。ニ月弱前は、そのワイルドハントによって手痛い被害を受けた。しかし、それだけだ。充分な準備を行っていないオルシネーヴァ軍に、ただの一回奇襲を行い、運良く成功を拾っただけのことでしかない。


 ワイルドハントが得意とするのは遊撃と火魔法、と判明している。それさえ分かってしまえば、対応は必ずしも難しくない。事前に想定を行い訓練を積んだ上で、十分以上の戦力を注ぎ込めば容易に撃退可能。軍学を修めた幹部は、そう考えていた。


 ワイルドハントは最初の奇襲時以外、オルシネーヴァ軍の前に姿を現していないことから、隙を突く(ほか)に大軍とぶつかり合う手段を持っていないのは明らかである。初邂逅以降、オルシネーヴァ軍はずっとワイルドハントに対する警戒を怠らなかった。その警戒を崩す自信も手段も持っていないからこそ、ワイルドハントは再襲来ができない。


 ワイルドハントが現れなければ、レンベルク砦を落とし、勢いそのままにゲルドヴァを手中に収める。ワイルドハントが現れたならば、レンベルク砦のジバクマ兵もろともワイルドハントを殲滅する。そんな単純な話であった。


 オルシネーヴァが砦を攻める際、ワイルドハントがオルシネーヴァ軍を奇襲するための潜伏場所として選ぶ可能性が高いのは、オルシネーヴァの本陣とレンベルク砦を繋ぐ街道の左右に広がる雑木林である。そこにジバクマ兵と共に身を隠し、砦を攻めるオルシネーヴァ軍の背後を突く、というのは、いかにも考えやすい話だ。


 オルシネーヴァ軍は砦攻めに先立ち、雑木林には徹底的に、しつこいほどに物見を出して、不確定要素になりうる伏兵の危険性を排除した。街道付近の雑木林は、もはや魔物一匹いない静かな植物の園と化している。


 そんな安全な雑木林に挟まれた街道をオルシネーヴァの大軍は悠々と通り抜け、レンベルク砦北側の荒れ地に布陣した。


 ジバクマ軍は砦に引きこもったまま、動きが無い。


 オルシネーヴァ軍はいかなる干渉も受けることなく、思うがままに陣を広げた。後は軍議通りに砦を攻めるだけである。


 ワイルドハントがこの戦線に初めて姿を現す前、オルシネーヴァ軍は何度も砦に攻撃を仕掛けた。あれは云わば強行偵察であり、挨拶がてら砦内のジバクマ軍の戦力を確かめる、という意味合いが大きい。


 その強行偵察だけでジバクマ軍はそれなりの被害を負った。ワイルドハントが加入しても、一度負った被害が帳消しになることはない。しかも今回は、強行偵察ではなく、偵察により入手した情報に基づく本気の攻勢だ。


 満身創痍のジバクマ軍に、心身共に充実したオルシネーヴァ軍を止める術なし。ジバクマ軍の頼みであるワイルドハントは、恐れをなしてか姿すら現さない。


 不安が無くなったオルシネーヴァ軍は、布陣を終えた部隊に号令を発して砦攻めを開始した。矢と魔法の飛び交う戦場に、左、中、右、と多方向から部隊を進める。


 砦に近付けば近付くほどジバクマ軍の抵抗は大きくなり、次々にオルシネーヴァ兵が倒れていく。しかし、被害は想定の範囲内に過ぎず、オルシネーヴァ軍全体の勢いが削がれることはない。


 ジバクマ軍が砦に有する防衛力は、事前の強行偵察時と変わりが無いようだ。


 ジバクマ軍は、何度強行偵察を受けても砦の戦力を増大する動きを見せなかった。最初から、配備できうる限りの戦力が砦に宛行(あてが)われていたのだ。増大のしようがない。


 ジバクマ軍の抵抗と、それによって受けるオルシネーヴァ攻城兵の被害は、想定していた中でも、かなり軽微なものに留まっている。


 オルシネーヴァ軍の攻城部隊が次々に砦に張り付き、第二陣、第三陣と続いていく。


 砦攻めや城攻めは、攻城兵器と攻城部隊を如何に防壁、城壁に張り付かせるか。防衛側からしてみれば、それらをどのように排除するか、という部分が大きな焦点の一つになる。攻城用の兵器と部隊が砦に複数同時に張り付いたとなれば、後は時間の問題だ。


 北側の門を破らずとも、このまま兵数差に任せて押し続ければ、防壁を越えて砦の内部にオルシネーヴァ兵を送り込むことができる。砦内にオルシネーヴァ兵が自由に活動できる場所を一旦構築してしまえば、ジバクマ軍が砦の外に反撃する力は急速に落ちる。結果、更に多くのオルシネーヴァ兵が砦内に突入可能となり、後は一方的な展開になる。


 事前予想した展開の中で、最良の絵がオルシネーヴァの将官達の前に広がっていった。




 オルシネーヴァ軍がレンベルク砦の防壁に張り付き始め半時間も経った頃、オルシネーヴァ軍の陣地北側、砦から最も離れた部隊に一発のファイアーボールが飛来した。


 最初にそのファイアーボールが落ちた時は、雑木林方面の監視を続けていた兵達以外、その魔法がどの方角から飛んできたのか誰も理解していなかった。だが、レンベルク砦からオルシネーヴァ軍が構える陣の最北部までは、攻撃魔法の届きようがないほどに長い距離がある。砦から放たれた魔法ではない。雑木林からもそれなりに距離はあるが、それでも砦よりは雑木林のほうがずっと近い。考えるまでもなく、魔法の射出地点は北の雑木林である。


 およそ二か月前に連隊が奇襲された時と似たような手口。


 ファイアーボールが撃ち込まれるのを待っていた、とばかりに、オルシネーヴァ軍は直ちに陣地北側に強力な防御魔法を展開した。その防御魔法は、雑木林から続けて飛来する合計六発のファイアーボールを完璧に防いだ。


 あれだけ何度も雑木林に放った物見の目を掻い潜るとは、敵ながら見事な隠密力である。だが、所詮は隠密力に過ぎず、オルシネーヴァの誇る魔法兵部隊が展開する防御魔法を破る破壊力は持ち合わせていない。


 恐怖というのは、目に見えないからこそ強くなる。その恐怖をもたらしていた要因が目の前に姿の一部を現し、しかも、その攻撃を防ぎきれるという確信を与えてくれたことにより、オルシネーヴァの将官達は自軍の能力に対する自信を深め、安堵すら広がった。




 オルシネーヴァ軍に作戦の成功と戦争の勝利を予感させた防御魔法は、ファイアーボールを撥ね退けた数分後、自尊心とともに瓦解した。


 防御魔法を破ったのは、一発の土魔法だった。


 遠目には、その形は変哲の無い只のクレイスパイクのようだった。ただし、想像を絶するほどに巨大だった。まるでどこかに建てられた天を摩する鉄塔を、空想の中にしか存在できないほど背の高い巨人が引き抜いて投擲したかのようであった。


 たとえどれだけ優秀な軍師が集い、何度軍議を重ねたところで決して想定しえない巨大な飛来物。こんなものを事前に想定せよ、と言うのは、このドラゴンと縁遠い時代にドラゴンの襲来を予知しろ、と言うのに等しい。


 大きさゆえにその土魔法の速度はそれほど速くないように見えたが、実際のところその土塊は、人間が一生の間に一度も目にすること、経験することのない速さで飛行、いや、墜落してきた。


 土塊は易易と防御魔法を貫いた。打ち破るどころか、そこに部隊を守る障壁など存在しないかのように、勢いを落とすことなくアッサリと抜けたのだ。


 一瞬の出来事だった。


 魔砲兵部隊は(まなこ)と口を半開きにして、我が方へ飛来する物体が何なのか、とボンヤリ考えるのが精一杯であり、自分達の防御魔法の優秀さを疑うことも、逃げ出すことも、痛みも、恐怖も何も無いままに人間としての姿を失った。


 土塊は防御魔法を破り、魔法兵の大隊一つを消滅させ、勢いそのままに質量弾として地面を抉り、周囲に大量の土砂を巻き上げた。爆音がオルシネーヴァ兵の聴力を奪い、土砂は視界を奪った。土砂は、一瞬前まで人間だった物質をほんの少しだけ混じらせて、魔法の直撃を免れたオルシネーヴァ兵の頭上に降りかかっていった。土砂はある者の足を払い、またある者の身体を柔らかく重く包み込んでは呼吸を止めさせた。




 その荒れ地に進軍していたオルシネーヴァ兵の一割は、ワイルドハントが巻き起こした二か月前の惨劇の生き残りだった。そして三割ほどは、アンデッドの夜襲の生き残りだった。生き残った彼らは、その土砂を見て、自分達の愚かさを嘆くことしかできなかった。


 二か月前、彼らは確かに警告されていたのだ。だが、二か月という短くない日数は身体と精神に刻まれた恐怖をわずかなりとも薄れさせた。上官の叱咤と暴力が彼らを無理矢理立ち上がらせた。あの日の惨劇を目撃していない遠方から集められた友軍達が、彼らの手に再び武器を握らせた。自身と家族の生き残る道は、戦争の勝利の先にある。連日部隊で唱えられる謳い文句が、戦う決意を新たにさせ、戦場へ舞い戻らせた。


 そう。彼らも戦場だと思っていた。その土砂を見るまでは。


 彼らは新たな惨劇が巻き起こる死地に、自ら足を踏み入れてしまったことを悟った。生き延びるためには逃げるべきだったのだ。死も生も感じることなく身体を消し飛ばされる前に、死の化身が闊歩する土地に足を踏み入れる前に逃げなければならなかったのだ。




 戦争や戦闘といった形式を成していた何かは終わりを迎えた。その場にいたオルシネーヴァ兵が本能的に終わりを理解した。


 これから始まるのは狩り(ハント)。ヒトとヒトとの戦いではない。ヒトとアンデッドとの戦いでもない。アンデッドがヒトを狩るだけのただのハント。ワイルドハントの面目躍如だ。




 土砂の雨が止むと、雑木林からは再びファイアーボールが飛来した。間断なくファイアーボールが飛来し続ける。先の土魔法の一撃を被らなかった幸運な魔法兵部隊もあったが、新たな防御魔法を展開するほどの悠揚迫らぬ態度を保つ余裕など無かった。


 下級兵、士官、最高指揮官、誰しもが少なからず冷静さを欠き、大半の者が恐慌(パニック)状態に陥っていた。一旦、集団にパニックが広がると、短時間にそれを収束させることは極めて難しい。指示を飛ばし、鎮静魔法(コーム)を部隊に広くかけさせようにも、肝心の魔法兵大隊が消滅している。現場に残る小規模な魔法兵部隊に指示を出そうにも、恐慌から始まった敗走、いや、潰走の流れに飲み込まれ、どの魔法兵部隊がどこにいるのか把握できない。


 軍隊はたとえ敗走する場合であっても、敗走するための段取り、被害を極力減らすための体勢構築が必要だ。敗走ができずに、制御不能な潰走が始まってしまうと、もう誰にも被害を抑えることはできない。残存する兵力で十分防げるはずのファイアーボールが荒れ地に火の海を作り、オルシネーヴァ軍の兵であることを放棄して逃げ惑うヒトビトを次々に飲み込んでいく。


 生存を諦めてその場に崩れ落ちる者や立ち尽くす者もいたが、ヒトの大半は恐怖に背中を押され、潰走の流れに身を任せ、震える足で走り始めた。


 南は、未だ突破しきれていない砦の防壁が進路を阻む。東にはヒトを温かく迎え入れてくれるオルシネーヴァの拠点がない。西には切り立った崖が広がる。逃げるために走る先は北の方角にしか存在しない。


 北の街道には殺到するヒトビトが大混雑を作り上げた。街道の横に広がる雑木林は、行軍時、魔物のいない安全な場所とされていた。そこにワイルドハントがいたとしても、その数はたったの八体だ。雑木林に足を踏み入れるヒトの数は、きっと万を超えている。これだけの囮がいれば、たった八つのワイルドハントの暴力が、自分の身に降りかかることはない。全体にどれだけの被害が広がろうとも、己だけは雑木林を突っ切って逃げられる。街道に発生した大渋滞に足止めされた者達は、自らをそう(そそのか)して雑木林に向かった。


 正解とは何か。地面の上に立つヒトには、それが何なのか分からないまま選択を迫られる。現場を鳥瞰できるものがいれば、街道を通ることも雑木林を抜けることも誤りだ、と判断できたかもしれない。


 確かにワイルドハントは八体だった。ただし、林の中のアンデッドは、数えることなど馬鹿馬鹿しくなるほどに夥しい量だった。あれだけ物見を行い安全を確かめた筈なのに、どこから湧いて出たのか知れない肉食系の魔物のアンデッドが雑木林に群れを成していた。


 生者の殺害だけを只管(ひたすら)に求める知性なきアンデッド達は、雑木林に逃げ込んだまだ温かい肉の身体を持つヒトビトを仲間として喜んで迎え入れた。囮の数が多ければ逃げ切れる、などというのは幻想だった。ヒトビトが雑木林に入れば入るほど、生者の通行を許さないアンデッドという名の壁が厚くなっていく。林の中で倒れたヒトビトは、ワイルドハントによって速やかにアンデッドに転化させられ、後からやって来るヒトの仲間を篤く歓待した。




 渋滞を抜けて街道を走るヒトビトの前にも、大量死が待ち受けていた。街道は軍隊が行軍できるほどの横幅を持つ。その広い道の流れをせき止めているのは三体のワイルドハントだ。たった三体のワイルドハントの横を通って逃げ延びることが誰にもできない。


 三体の内、二体は剣を振るい、一体は魔法を放った。銀閃が輝き、魔法が一条飛ぶだけで、道に鬱滞するヒトビトがバタバタと倒れていく。オルシネーヴァという国にミスリルクラスの剣士がいないことが、街道における大量死の一因になった。


 ミスリルクラスの魔法使いは強い。ミスリルクラスの剣士以上に広範囲を攻撃し、大きな破壊をもたらす存在である。しかし、囲まれると脆いものであり、魔法を撃つ手が間に合わずに数に押し潰される。ミスリルクラスに匹敵する魔法使いを有するオルシネーヴァのヒトビトは、感覚的にそのことを理解していた。しかし、ミスリルクラスの剣士が現実にどれほどの脅威となるのか分かっていなかった。見たことも聞いたこともない、誰も経験していないのだ。ミスリルクラスの剣士が封鎖する街道に多数の人間が同時に突っ込むとどうなるか。結果をもって、ヒトビトは予測の甘さを知ることになる。


 あるヒトは果敢に剣を振りかぶって斬りかかった。しかし、剣を振り下ろす前に斬撃を受けて死んだ。


 あるヒトは剣を防御手段とするために構えを取って走った。しかし、ワイルドハントの斬撃に反応できずに死んだ。


 見切れないほどの鋭い斬撃ならば、身体の前面に盾を構えて横をすり抜ければいい、と考えたあるヒトは、ワイルドハントを見ようともせず、盾の裏で身体を小さくしながら走った。しかし、盾と鎧ごと身体を両断されて死んだ。


 あるヒトは切り抜ける手段を考えるために、道の真ん中で立ち止まった。剣の間合いには入らなかったのに、剣士の背後に立つ魔法使いが放った一撃で死んだ。


 足を止めると魔法で狙い撃ちされることを知ったヒトは防御魔法を展開した。斉唱ではなく単独で展開する防御障壁ではワイルドハントの土魔法を防ぐことができずに死んだ。


 防げない魔法ならば避けるしかない、と悟ったヒトは横に避けようとして味方にぶつかり、結局避けられずに死んだ。


 誰かが上手く避けることに成功しても、その後ろにいるヒトビトは避けられずに死んだ。


 誰も彼もワイルドハントの一撃すら耐えることができずに死んでいく。下手をするとワイルドハントの一撃で複数人が死んでいく。


 何かの偶然で、ワイルドハントの斬撃を回避することに成功しても、空振ったワイルドハントの剣が地面を叩けば、弾けた土の飛礫が無情に身体を打ち砕いた。


 守れないのならば、数に任せて攻めまくり討ち取ることはできないか、と、あるヒトは考える。だが、魔法や矢で応戦したくとも、周りは統制を失ったヒトビトだらけ。どこに何を撃っても味方に当たる。


 ヒトビトが混乱の中で守りにも攻めにも不自由する一方、ワイルドハントは豪快かつ放縦に剣と魔法を撃ち、次々にヒトビトの命を奪っていく。斬撃の一つを取っても、魔法の一撃を取っても、持久力や魔力の配分などを考えているとは思えないほどの高威力があった。


 積極的な生存の不可能を悟ったヒトビトは、消極的に生き残る道を模索する。肉体的な疲れを知らないアンデッドであっても、魔力はいずれ払底し限界を迎えるはず。ワイルドハントが限界を迎えるまで生きていられれば、逃げられる。


 とはいえ街道上でヒトビトが足を止めても、ワイルドハントは剣と魔法を撃ってくる。自分の前に立ち並ぶ肉の壁が無くなると、ヒトは前に進まざるを得ない。渋滞のせいで後ろに退くことは能わない。動かなくともワイルドハントの攻撃の餌食になることは確定している。最前列に立たされたヒトビトは、やむなく走る。後ろで順番を待つヒトビトは、自分の番が来る前にワイルドハントの魔力が尽きることを願う。


 ところが、消極的な生存の目も有り得なかった。ワイルドハントには魔力の供給源があり、事実上、魔力の限界は存在しなかった。


 街道を逃げるオルシネーヴァのヒトビトの中に、たった一人だけワイルドハントの一撃を防げるチタンクラスの兵がいた。その兵は斬撃を数合防いだところで、手足を絡め取られて捕まった。街道に群れなすのが潰走するヒトビトではなく、統率の保たれた軍隊であれば、そのチタンクラスの兵もワイルドハントにもっと長く応戦できたことであろう。しかし、残念ながら街道上に立つのは兵ではなく逃げ惑う烏合の衆である。連携した行動を取ってチタンクラスの兵の助けとなるどころか、存在そのものがチタンクラスの兵の邪魔にしかならない。


 実力を満足に発揮できないままワイルドハントに捕らえられたチタンクラスのオルシネーヴァ兵は、優れた魔力に目をつけられた。片腕を断たれた後は抵抗することもなく、ワイルドハントの傍らに立ち尽す。幻惑魔法で身体の自由を奪われたその兵は、あろうことかワイルドハントの魔力の供給源に成り果てた。


 ワイルドハントの魔法使いは、片手で兵から魔力を吸収(ドレイン)し、もう片方の手で攻撃魔法を放ち続けた。


 ワイルドハントに体力も魔力も限界が無いことを悟ってなお、ヒトビトは北へ走るしかなかった。どれだけヒトビトが街道の上で命を落としても、他に逃げる先のないヒトビトが南から止め処なく押し寄せ、街道の渋滞は全く解除されない。


 北と南が封鎖されているならば、残るは東西方向、アンデッドの溢れる街道脇の雑木林に飛び込むしかない。ではその雑木林が安全かと言うと、全く違うことが容易に分かる。断末魔なくヒトビトが命を落とす街道とは違い、雑木林からはアンデッドに襲われて命を落とすヒトビトの無数の叫び声が、まるで木霊しているかのように幾つも重なって聞こえてくる。街道を北上して逃げ延びたヒトは誰もいない。しかし、苦しむことなく果てられる。雑木林を突っ切って逃げられた者がいるのかは分からない。分かるのは、林の中でアンデッドに捕まった者が苦痛に悶えながら死んでいく、ということだけだ。


 渋滞の中心を進む者は、そのまま真っ直ぐに北上して命を落とすしかないが、渋滞の左右両端のヒトビトは、街道を行くか雑木林を行くか選択することができた。


 街道上の目に見える確実な死と、もしかしたら生存の可能性があるかもしれない、林という闇の中の死。渋滞の左右のヒトビトの多くは雑木林の中に活路を求めた。選択肢の無いその他大勢は抵抗する意欲すら失い、生を渇望して祈りを捧げながら前進した。それはあたかも聖地の礼拝順を待つ行列のようであった。敬虔な信者達は心底から祈り、歩き、そして命なきワイルドハントの前で命を捧げた。




 街道と雑木林以外の場所でも、ヒトビトは命を落としていった。オルシネーヴァ軍が布陣していた荒れ地の西側には逃げ場などない。あるのは険しい崖ばかり。


 それでも、もしかしたら、ワイルドハントのいる方角に向かうよりも崖を下ったほうが、命を拾う可能性は高いかもしれない。そんな淡い希望を抱いて西に逃げるヒトビトがそれなりにいた。


 儚い願いを打ち砕くのは、アンデッドではなく人間だった。ジバクマの伏兵は唯一、西の崖下にだけ配置されていた。崖に張り付いて下っていくヒトビトは、ジバクマ兵にとって魔法と弓矢の良い的でしかなかった。


 急いで崖を下ろうとすると、手を滑らせて滑落する。一手一手ホールドを確かめゆっくり下ると、下からは魔法と矢に狙われ、上からは手と顔を踏みつけられる。崖という環境、ジバクマ兵という敵、潰走兵という元味方の三方から攻撃され、西の崖でも数多のヒトビトが命を失った。




 我先にと荒れ地から逃げるヒトビトがいれば、動き出しが遅れて荒れ地から逃げるに逃げられなくなったヒトビトもいる。そんな彼らを襲うのは雑木林から飛来する火球だ。身体を焼き焦がす目算チタンクラスの威力を有するファイアーボールがヒトの多い箇所を目掛けて一定間隔に飛来する。


 雑木林に逃げ込むヒトビトが増えるにつれて火球の間隔は徐々に間延びするようになっていく。最後に荒れ地に落ちた火球が作り上げる炎が消えると、今度は守ることしか知らなかったはずのレンベルク砦が北側の門を開けた。門の中からは、ワイルドハントの毒気に当てられたかのように殺意に逸ったジバクマ兵達が飛び出してきた。


 敵兵の降伏や投降という戦争の作法と人道の概念を忘れたジバクマ兵は、逃げ惑うオルシネーヴァのヒトビトの背中に剣を振る舞い続けた。数の上では圧倒的なオルシネーヴァだったが、陣も隊形も無い、指揮も士気も失われている。潰走する彼らには、激憤するジバクマの剣に応戦する術など無かった。


 それは一方的な殺戮だった。ジバクマ兵は、同じ人間であるはずのオルシネーヴァ兵を殺しに殺し、二本の足で立つオルシネーヴァ兵が荒れ地に誰もいなくなって初めてようやく剣を下ろした。




 鮮血劇が終わりとなる頃には、夕日が西から世界を赤く染め上げていた。北の雑木林では終わりを知らぬアンデッドの宴が続いていたが、北への追撃を固く禁じられていたジバクマ兵には関係の無いことであった。




    ◇◇    




 激戦の翌日、宛てもなく東へ逃げたオルシネーヴァ兵に対するジバクマ軍の山狩りが始まった。ジバクマ軍に見つけられたオルシネーヴァ兵は投降を許されて捕虜となった。生存を正解と定義するならば、オルシネーヴァの正解は東に逃げることだった。正解を選ぶことができた者は、ほんの一握りだけだった。北の雑木林のアンデッド達は、ワイルドハントの手により全て駆除された。


 その後はアンデッド化と疫病の未然防止のため、何日もかけて死体の処理が行われた。聖魔法でアンチアンデッド化を施せる死体の数ではない以上、東天教の司祭も紅炎教の修道士も祈りを捧げる以外にできることはなかった。ただ、暖かい火だけが死者を弔うことができた。死を紡ぐよりも、死者を送るほうが時間と労力を要した。


 レンベルク砦は連日、肉の焦げる臭いに包まれた。

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