第一八話 前哨戦
打ち鳴らされる警鐘で私は目を覚ます。同室で休んでいたラシードとサマンダも私と同じく疲れた体を起こす。
ここは……そうだ。今、私たちは最前線のレンベルク砦にいるのだった。この警鐘、敵襲だ!
急ぎ装備を身に着け部屋の外へ出る。扉の前で待機していた兵のひとりに連れられ、建物の地下に走る。最も攻撃に耐えられる区画のひとつだ。
地下にはアリステルの姿があった。他にも見たことのない軍医が数名と、その他多くの兵がいる。面識のあるサーリとイジーは姿が見当たらない。一度に全滅することのないように別区画に避難しているか、今まさに負傷した兵の治療に当たっているのだろう。軍医や技工兵など、特殊な能力の持ち主は将官同様に堅く守られる。戦闘はその専門家が行う。
私たちは一般兵より遥かに高い戦闘力を有しているが、一般兵の比ではないほど高く命を価値付けられているため、防壁が崩壊して敵が傾れ込んででもこない限り戦闘には加わらない。
この安全性の高い区画で味方が敵を撃退するのを黙って待つ。これもまた軍人としての任務である。
沈黙を守って待機していると、痩せぎすの男性がひとり、こちらに近寄ってきた。羽織った白衣が軍医という官職を無言で告げ、男の口が名前と階級を述べる。
「貴官がアリステル・ズィーカ中佐でしょうか?」
「ええ、そうです」
ジミー・ホーンビーを名乗る軍医にアリステルが答える。
「最近は砦が攻撃を受けることが増えていまして、これはもう連日の挨拶のようなものです。砦での防衛戦だというのに、傷病兵の数は救護棟でご覧になったとおり。ですが、司令部区画や、この救護棟の区画まで攻撃の手が及んだことはありません。今日もきっと大丈夫です。あまり気を張り詰めすぎず、英気は戦闘後に備えて残しておいてください」
男は顔のつくりが胡乱なだけで、新参者の私たちに配意してくれる好人物だった。民間の医者は変人が多いと聞くが、軍に籍を置く医者は性根の良い人間が揃っている。
ジバクマ軍が押されている理由は、オルシネーヴァの戦力配置にある。オルシネーヴァとジバクマの戦線はいくつもあり、そのどれもがもう結構な期間、膠着したままだ。オルシネーヴァはジバクマに悟られぬよう、各戦線から少しずつ自軍の戦力を減らし、その分をレンベルク方面に回した。
ジバクマ軍がそれと気付いたときには、既にレンベルク戦線の形勢悪化が大分進み、野戦に打って出られる状況では全くなくなっていた。
兵数、戦力で劣っているときは、城や砦などの守備に優れた拠点で防衛戦を行うのが定石だ。門や防壁が自軍の被害を抑え、効率的に敵軍を攻撃することができる。しかし、いかに防壁で守られていようとも、攻撃を受け続ければ死傷兵がでる。砦そのものも既にかなり損耗している。昨夜、篝火の灯りであれだけ破壊の痕が分かったのだ。日の光の下で検分すれば、傷病兵でいうところの中等症以上の負傷箇所を見ることになるだろう。
「しばらく揺れが続くと思いますが、いつもどおりであれば夕方になる前に敵は帰っていきます。それまでの辛抱です」
夕方、と言われても、こちらは変な時間に眠ったせいで時間感覚を失っていて現在時刻が分からない。参考にしたくとも避難区画からは太陽が見えない。アリステルの懐中時計さえ直せれば時間が分かるが、毒壺で壊れて以来ずっとそのままだ。
「今は午前なのでしょうか、午後なのでしょうか?」
アリステルも現在時刻が分からずジミーに尋ねる。
「お昼ご飯まではまだまだ時間が残る午前中ですよ。この状況では、お昼は食べられませんがね」
独特な言い回しでジミーが時間を表現する。では、日暮れまでこれから五、六時間は攻撃に耐えなければいけない、ということだ。そんなに長い時間、この区画に籠って恐怖に耐えていなければならないのか。
そういえば、哨戒に行ったというエルリックはどうなったのだろう。既に砦に戻ってきているのか、それとも敵部隊とはすれ違って別のところを見回っているのか、あるいは今まさに戦っているのか。
ちょうど同じことを考えていたのだろう、アリステルがジミーに質問してくれた。
「ワイルドハントのエルリックはどうなっているかご存じですか? 私が仮眠に入る前に哨戒と称して砦から出ていったのですが」
「いえ、私は何も。少なくとも救護棟にはいなかったと思いますよ。ああ、でも、私はワイルドハントを見たことがないので、衛生兵に混じられると分からないかもしれません」
エルリックはポーラ以外全員髑髏仮面を被ってローブを纏っている。軍服も衛生兵用の服も着ていない。知らない人間がエルリックを見ても、ひと目でそれと分かる。ポーラはポーラで人目を引く容姿をしているから、このジミーという男がよほどの朴念仁であったとしても気付かないとは思えない。男はこういうのを絶対に見逃さない。しかもポーラは現在、気配を消さずに足音を立てて歩き、なぜか存在をアピールしている。目立ってやまないエルリックの存在をジミーが認識していないのだから、エルリックはまだ砦に戻っていない、ということだ。
「見た目を説明しますと、全員がローブを羽織っていますね。ポーラという人間の女性以外は髑髏仮面を被っています」
「それ、仮面なんですか? 本当の髑髏ではなくて? どちらにしても、ワイルドハントは薄気味悪いなあ」
外見的特徴を説明されてジミーは顔を顰める。ジミーは、やはり見たことはないですね、と言って、アリステルの前から離れていった。
応援に駆けつけたエルリックを気色悪がったことに私は少しだけ反発を覚えたものの、そう感じてしまう私のほうが少々世間からズレてしまっているのだ、と気付く。
ジミーの反応はいたって正常だ。今ではすっかりその見た目に慣れてしまった私たちも、当初は髑髏仮面という外見に不快な感情を覚えていた。見慣れるのに要した期間はそこまで短くない。最初から警戒心を全く抱かないイジーのほうが、本当はどうかしているのだ。
避難するべき人員が避難区画に入り終えると、区画内では動きといえるような動きがなくなる。誰も何も喋らぬ中で、身を襲う不安にじっと耐えていると、わずかに地響きが伝わるようになってきた。おそらく震源はかなり遠い。少なくとも、砦の防壁に敵の攻撃魔法が直撃した、というような近距離での出来事ではない。
毒壺下層にいた頃に感じた、最下層でエルリックが戦っていたときの揺れよりもずっと弱いその地響きは規則的に続き、数十回を数えたところでピタリとやんだ。
その後は何の音沙汰も無くなり、数時間後に戦闘配置は一種から二種に引き下げられた。避難区画の私たちは糧食ながら昼食にありつくことができ、夕方になる前に警戒レベルは敵襲前と同じまで引き下げられた。ジミーから聞いた普段のオルシネーヴァ軍の行動からすると、今日は異様に短時間で撤退していったことになる。
落ち着きを取り戻した砦の中で、夕方から私たちは再び傷病兵の治療に当たる。治療開始から一時間もするとラシードとサマンダは魔力が尽きてしまい、そこからはごく限られた物資での治療しか行えない、申し訳ない診察になった。相手によっては傷口を見るだけで、ほとんど処置もできずにそのまま汚れた包帯を巻きなおす、ということもあり、昨日以上に精神が磨り減らされていく。
エルリックは日が沈んでも戻って来なかった。深夜になり、このままエルリックは何日も姿を晦ますのだろうか、と思っていると、砦内に警鐘が鳴り響いた。日中にオルシネーヴァ軍が短時間で引き上げていったのは、夜襲に備えるためだったのかもしれない。夜間の襲撃は今までなかったらしいが、ここは戦場なのだ。前例にないことはいくらでも起こりうる。
急いで避難区画へ駆け込み、長丁場に付き合う心構えをするものの、警戒はすぐに解除になった。いきなり解除されても不安は拭えない。警戒解除こそが敵の仕込んだ撹乱、偽報の類かもしれない。そのまま避難区画で待機していると、伝令兵がひとり避難区画を訪れて状況を報告する。
伝令によると、警鐘の原因はエルリックの帰還であった。敵の偽報ではないことが分かりほっとする中、アリステルが呼び出される。エルリックが本物かどうか誰何、確認するためだ。
呼び出しから十数分後、アリステルはエルリックとともに救護棟へ戻ってきた。きっとそうなるだろうと踏み、私たちは先んじて救護棟で待機していたのだ。
「やあ、皆さんお疲れのようですね。日中の働きぶりはズィーカ中佐から聞きました。とても頑張ったらしいじゃないですか。ただ、我々は元気が余っています。我々に付き合ってもうひと頑張りできますか?」
いつもと何ら変わらない笑顔でポーラは私たちに奮起を促す。
「それは勿論ですよ。でも、その前に、今まで何をしていたのか教えてもらってもいいですか」
魔力は無くとも意気は軒昂のラシードが、傷兵の治療開始前にエルリックに状況説明を求める。まるで仕事から帰ってきた親に土産話でもせがむかのようだ。気持ちは分からないでもない。
ポーラは哨戒に出た後の行動を教えてくれた。
◇◇
レンベルク砦の北側、目の届く範囲は土が剥き出しの荒れ地が広がっている。そこから北にしばらく進むと街道の左右には木々が生い茂っている。
魔物のまばらな雑木林を探索しながら、オルシネーヴァが仕掛けたのかジバクマが仕掛けたのか分からない森に散在する無数の罠を解除しつつブラブラしていると、遠くに街道を行軍する部隊が見える。部隊は、連隊規模は下らないと思われる数千以上の集団。どうやらレンベルク砦方面に向かうオルシネーヴァの部隊のようだ。しかし、誰何も無しに見た目だけで所属を判断すると、大失態を犯すことになりかねない。
一旦その場をやり過ごしたうえで背後から近寄ったところ、部隊はエルリックに攻撃を仕掛けて来た。降り注ぐ矢と魔法の雨を掻い潜って更に接近し、こちらから名乗りを上げたところ部隊は聖属性攻撃を飛ばしてきた。アンデッド即殲滅の判断を下したことを受け、ここでようやく、この部隊はオルシネーヴァ軍だ、と確信にいたる。
中距離戦闘圏から離脱し、遠距離攻撃の間合いまで離れたところで反撃を開始する。手始めにオルシネーヴァ軍に放ったのは火の上位攻撃魔法、ファイアーボールだ。オルシネーヴァ軍は、たった八人の少集団から反撃されると思っていなかったのか、はたまた後方から放たれる攻撃魔法には防御魔法で対応し辛いのか、エルリックの放ったファイアーボールを防ぐことなく直撃と相成る。部隊真ん中に落ちたファイアーボールは炸裂して子弾を散らし、オルシネーヴァ兵を焼き焦がしていく。
ファイアーボールを放つことができるのは、ひとりではない。エルリックが続けざまに放つファイアーボールは面白いように部隊に命中し、焼死体の数をみるみるうちに増やしていく。十発超のファイアーボールを食らったあたりでオルシネーヴァ軍はちりぢりになって潰走を始めた。
ファイアーボールは大量殲滅に長けた範囲攻撃魔法だが、標的が群れてくれないことには魔力消費対殺傷数が割に合わない。そこで、潰走するオルシネーヴァ軍を効率的に狩るため、下位の攻撃魔法で個別攻撃を開始する。殺害していいのは一般兵だけ。部隊の指揮官と思しき人物だけは致命傷を与えずに捕虜として確保する。
足の遅い人間であっても、生きるために逃げるときの足の速さは相当なものである。すぐに見渡す限りに生きたオルシネーヴァ兵がいなくなってしまい、その場に残されたのはエルリックと捕虜となった指揮官と死体の数々だ。折角の初交戦だというのに、こんな短時間で終わってしまっては肩透かしである。そこで、オルシネーヴァ軍に追撃をかけることにする。
その場に散らばる死体を全て集めて回収し、捕虜という名の情報提供者にオルシネーヴァ軍の拠点を尋ねてみる。エルリックに協力的な情報提供者は丁寧に拠点の場所を説明してくれる。
拠点は街道を北上した地点、街道沿いに構えた陣である、と情報提供者は語る。潰走兵が逃げた方角とも一致している。
エルリックは拠点の方角に向かって移動を開始する。回収した死体は土魔法の台車に乗せて移動する。荒れた道を台車で行くものだから、移動速度は遅々たるものだ。オルシネーヴァ軍の陣を発見したのは、夕方になってからのことだった。
日が落ちるのを待ち、辺りが完全に暗くなってから、死体をアンデッド化する闇魔法、アニメイトバディを使用開始する。魔法がかかり、徐々に変異を始めた死体をオルシネーヴァ軍の陣に向けて一体一体投擲していく。手間と時間のかかる作業ながら、横着することなく回収した死体を全てアンデッド化したうえでオルシネーヴァの陣内に投擲する。作業完了後、一仕事終えた充実感に包まれながら、日中に捕虜とした指揮官ひとりと一緒にレンベルク砦に戻ってきた。
真夜中に砦に辿り着いたエルリックを門の見張りは昨日以上の熱烈な敵意で歓迎した。何せ今夜のエルリックはアリステル班も中将も伴っていない。代わりにいるのはオルシネーヴァ軍の将官だ。普通、捕虜というのは拘束された状態で連行される。エルリックによる拘束はドミネートであり、見張りからしてみれば敵の将官が髑髏仮面のローブ集団八人を引き連れてきたようにしか見えない。ワイルドハントが応援としてジバクマ軍に加勢している、と知らされていようとも、見た目にこれほど怪しい集団を、『はい、どうぞ』と砦の中へ案内するなど、門を任された軍人が絶対に犯してはいけない背任行為だ。
そこで呼び出されたのがアリステルだ。生贄のように門の外に突き出されたアリステルがもうひとりの見張りと共に念入りにエルリックの本人確認を取ることでやっと信用が得られ、砦の警戒は解除となった。
こうしてエルリックは目出度く砦の中に帰還した。
これがポーラの語った本日の事の次第だ。
「オルシネーヴァ軍が好戦的だったのは最初だけでした。こちらが少し抵抗の素振りを見せたら途端に攻撃の手がなくなるのです。激しい戦争と聞いていましたから、我々もそれなりに意気込んで事に当たったというのに、魔法をちょっと撃っただけで終わりになってしまい、不完全燃焼にも程があります」
話を聞く限りでは、攻防らしき攻防が生じていない。出会い頭だけがオルシネーヴァの唯一の攻撃機会であり、あとは一方的な蹂躙劇が繰り広げられている。数十万のヴェスパを屠ったエルリックにとって、数千人程度の連隊など鎧袖一触だ。
範囲殲滅力に長けたファイアーボール十発で連隊を潰走させた、ということは、ゴールドクラスの魔法使いが放つファイアーボールとは次元の異なる威力のファイアーボールなのだろう。もしかしたら、クイーンヴェスパやゴーレムを打ち破ったのがファイアーボールなのかもしれない。
日中の戦闘配置が短時間で解除になった理由が分かった。私たちが避難区画で感じた衝撃はジバクマ軍とオルシネーヴァ軍の戦闘によって生じたものではなく、オルシネーヴァ軍を叩くエルリックが起こしていたものだ。
「目的はゲルドヴァの防衛なので本陣は攻撃せずに帰って来ましたから、魔力はフルに近いです。昨日と同じくじゃんじゃん傷病兵を治療できます」
夜暗の拠点内にアンデッドを大量に投げ入れておきながら、『攻撃はしていない』と、よくも悪びれずに言う。
「アンデッドが大量に降ってくるのは、敵襲と何も変わらないと思いますよ」
冗談で言っているのか本気で言っているのか判然としないエルリックに対し、アリステルがおっかなびっくり指摘する。
「えー、そうですかね? 雑魚はアンデッド化しても雑魚であり、倒すのは容易です」
それはオルシネーヴァ軍がエルリックに近い戦闘力と暗視能力を持っていた場合の話である。
つまらない冗談であってくれ、と願うも、小妖精は、私たちをからかう、なる旨の“メッセージ”をポーラの言動から拾ってこない。ポーラの表情そのままに、エルリックは真面目に喋っているのだ。
「ほんの少しの手間と時間をかけるだけで、喪失したはずの仲間の遺体が手に入るのです。ヒトは死者を懇ろに葬る習性がありますから、弔う対象が手元に帰ってきたことをさぞ喜んでいるでしょう。そう、我々は敵に恩を売ったのです。しかも、陣中の軍人がその後、遺体を遺族のところに送り届けたならば、愛する者を失った遺族の悲しみも軽減します。オルシネーヴァの軍人たちは、『敵ながら見事』と感佩しているに違いありません。遺族からの評価も上がります。アンデッド排斥思想の強いオルシネーヴァにアンデッドを受け入れさせる下地作りですよ、フフフ」
ポーラは満足げな笑みを浮かべてひとりウンウンと頷く。
おお……これは、遺憾という言葉ひとつでは表しきれないほど酷い認識の齟齬が生じている。エルリックは残虐な攻撃をしたどころか、善行を施したつもりでいるのだ。度し難いほどの常識の無さ。新種のアンデッドであるからこその潜在的危険が緒戦で見事大暴発してしまっている。
ジバクマ軍が無被害で、敵軍オルシネーヴァが大損害を被った、という事実は、通常なら喜ぶべきこと。レンベルク砦のジバクマ軍と指揮官は問題の中核に気付かぬまま、ワイルドハントがオルシネーヴァ軍を撃退した、という表面上の事実に喜んでいるであろう。見ぬもの清しとはまさにこのこと。私たちはこれっぽっちも喜べない。
この一戦で、世界はエルリックの戦闘力、即ち危険性を理解した。しかし、世界から見えているのは問題のごく一側面に過ぎない。今日の事件がどれだけ斜め方向に深刻か理解しているのは私たちだけ。私たちはこれをどう処理すればいい……
問題に適切に対応するためには、より深く理解することが求められる。理解を深めるため、話の中で浮かび上がった疑問を少し考えてみる。
私が最も気になったのは、台車を使って死体を運んだ理由だ。全ての死体をアンデッド化してからドミネートで敵陣まで歩かせれば圧倒的に時間短縮になったはずなのに、なぜわざわざ台車を使って時間をかける。千を超えるアンデッドを率いていたダニエルと違って、エルリックはそれほど多くの数を扱えないのだろうか? 他に理由があるのかもしれないが、もしそうだとすれば、ダニエルの生まれ変わり、という説とは矛盾することになる。
「今日の一件でオルシネーヴァ軍はこちらを、戦い甲斐のある敵、と見做し、戦意が高揚しているに違いありません。本陣の兵数は街道で遭遇した部隊の数倍、いや、もっとです。近日中に全軍総出で再戦に訪れるかもしれません。身の引き締まる思いです」
エルリックによるオルシネーヴァの動向予想は、これまた私とは相当な隔たりがある。
オルシネーヴァ軍は、いつもの威力偵察をワイルドハントに返り討ちにされて数百名の味方の命を失い、さらに昨日までの仲間をアンデッドに作り変えられて、そのアンデッドに本陣を襲撃されたのだ。
戦意が高揚する? 馬鹿を言え。報復攻撃の前に、自軍の被害状況を把握して適切な回復処置を行わなければならない。追撃戦を行うのではないのだ。無理を押すべき理由がない。
兵士の士気、指揮官の戦意、いずれも高揚するどころか深刻な低下をきたしているはずだ。戦意の再高揚にはそれなりに時間がかかる。もしも私がこんな仕打ちを受けたら、しばらくは立ち直れる気がしない。これほど酷い目に遭って直ちに反撃に転じるなど、正気の沙汰ではない。そんなことができるのは人の心を失った狂戦士だけだ。
「オルシネーヴァはマディオフと同じくアンデッドに対して並々ならぬ敵愾心を抱いている国です。恩を売っても感謝してもらえるのは一時だけ。本気で彼らを懐柔するには、また別の形で恩を売らないといけません」
このままエルリックを暴走させると、とんでもないことになる。誰か、私の代わりにこの勘違いアンデッドを正してやってくれ……
「……それは機会を改めて考えるとして、今日はお休みになったほうがいいのでは? 魔力消費だってバカにならないでしょうし、ポーラさんは休息が必要でしょう」
アリステルはエルリックの非常識に言及することを回避して目の前の現実的な話を始めた。アリステルは中期の視点に立ってエルリックの消耗を心配している。確かにそのとおり、エルリックは全く休んでいない。魔力が枯渇していることはないにしても、『魔力はフルに近い』という言葉が真実とは思えない。
「日が暮れるまで森の中で数時間寝たので大丈夫ですよ」とポーラは笑う。その顔には確かに寝不足の疲労感が見られない。
話しぶりからすると、敵本陣の近くで睡眠を取ったことになる。何という命知らずな行為。他のエルリックのメンバーがいるから、ポーラは眠っていても問題ないのか……? もう何が常識で何が非常識なのか分からなくなってしまう。
結局その日も深夜から診察が始まることになった。診察前にポーラはラシードとサマンダに診療記録の書き方を指導していた。またサマンダの機嫌が悪化しないか危惧されたものの、サマンダは真剣に話を聞いていた。私が思っている以上にサマンダは打たれ強かった。
明け方になりサーリが起きてくると私たちの診察は終了となり、エルリックは再び哨戒と称して砦から出ていった。
エルリックの見立ては外れ、この日、オルシネーヴァの襲撃は無かった。エルリック無しで行う日中の診察が一区切りした段階で、兵のひとりに砦内を案内してもらった。通りすがる兵たちには、とても好意的な態度で挨拶してもらえた。傷病兵の治療に当たったことが功を奏しているようだ。
日没からしばらくするとエルリックが砦に帰還した。オルシネーヴァの本陣が北側遠くに移動していた、とポーラは残念そうにしていた。エルリックの現在の立場はある意味傭兵。しかしながら、これは敵の本陣を命懸けで偵察に行ってきた傭兵が見せる態度ではない。昨日破壊したアリの巣が復活しているか観察しに行った子供が見せる落胆だ。
さらに翌日、私たちがレンベルク砦に入砦した日から数えて三日目を迎える。その日もオルシネーヴァの襲撃は無く、特筆すべき唯一の出来事は、エルリックが眠らせた中将の覚醒だけであった。
目が覚めた中将は、自分がなぜレンベルク砦にいるのか理解していないだけでなく、ゲルドヴァ司令室での出来事の記憶を失っていた。困惑する中将に、砦の指揮官であるサングレン大佐が経緯を説明する。大佐が説明するのはアリステルが吹き込んだ偽りの経緯だ。
大佐から説明を受けても納得がいかない中将は、真相を確かめるべく司令室を飛び出す。すると、途端に今度は砦の一般兵から囃し立てられる。頼もしいワイルドハントを砦まで直々に連れてきた賢将、名将と。
状況の異常さから、エルリックから何か良からぬことをされたのだ、と、中将は察しがついていたであろう。しかし、中将は当惑こそすれども、事を荒立てはしなかった。雰囲気に流される人間の弱さというものを私たちは目の当たりにした。
その翌日もオルシネーヴァの襲撃は無かった。傷病兵は徐々に減っていった。本来は安全な後方まで搬送するべきなのに緊迫した状況のせいで移動させられずにいた最重症兵や、回復不能な後遺症を抱えた兵たちは中将とともにゲルドヴァへと移っていった。重症兵は中等症兵に、中等症兵は軽症兵になり、軽症兵は無傷の兵に戻った。
砦入りして五日目からは生活習慣が少し変わってきた。朝になると私たちは診察を開始する。初日のように、診察し続けても傷病兵の人数が多すぎて全員を診察しきれない、ということが無くなったため、エルリックは全く診察に関わらなくなった。
サーリやイジーたち、元々この砦に正規に配置されていた軍医たちと分担して、午前のうちに予定診察を終えて昼食が取れる。午後になると訓練場で各自自主的に訓練を行い、その後しばらく休息を取る。夕方になり哨戒から戻ってきたエルリックと訓練を行い、夕食を取り、夜になるとエルリックと一緒にアリステルの講義を受ける。
そして夜はしっかり休める。私たちに砦の夜番は割り振られなかった。後方の街中で任務に当たっていた頃よりも、最前線の砦にいる今のほうがゆっくりたっぷりと睡眠を取れるという矛盾した事実に、抱く思いは複雑だ。この矛盾について深思することに意味などない。考えるまでもなく、全てはエルリックのせいなのだから。悩んでも意味がない以上、今はこの魅惑的な睡眠時間を贅沢に貪るのみ。これで寝台の寝具が上等な物だったらなお良かったのに。
傷病兵が減ってからというもの、エルリックは私たちに訓練をつけるときとアリステルの講義のとき以外、ずっと砦の外に出ている。この頃になるとエルリックは……というよりもエルリックの中で唯一ポーラだけが砦内でチヤホヤ持て囃されるようになっていた。
レンベルク砦の正規の斥候は、エルリックとオルシネーヴァの交戦模様を遠くから観測していた。斥候らの報告により、エルリックの強さはあっという間に砦の全兵に知られるところとなった。また、四日目までにエルリックから治療を受けていた傷病兵は、背高やイデナたちのことはあまり覚えていなくとも、ポーラのことをしっかりと覚えていた。
ポーラは、意識ある傷病兵とできるだけ会話を交わし、一人ひとりに励ましの言葉を掛けていた。それは、「我々がついているのでもう大丈夫ですよ」とか、「今までよく頑張りましたね」とか、「必ずよくなりますよ」といった、ほんの短い一言でしかなかったが、布切れ一枚敷いただけの床に放り置かれた傷兵の心には効果覿面で、涙を流して感謝する傷病兵が後を絶たなかった。
サマンダとラシードは、真面目に診察に当たっているものの、忙しすぎるうえに精神的な余裕が無いから傷病兵とほとんど会話しない。実際に診察して治療の診立てを行ったのはアリステルやサマンダ、ラシードで、回復魔法を使い続けたのは背高、イデナ、マドヴァなのだが、この六人はいずれも傷病兵に優しい言葉を掛けない。これはアリステルたちに限ったことではなく、サーリやイジー、ジミーといった、当初から砦にいる軍医にも当てはまる話だ。
さらに砦の兵たちはエルリックのメンバーの区別がつかない。エルリックに感謝を向ける場合、その視線はたったひとり見分けがつき、かつ優しい言葉を掛けてくれたポーラに集中するのは極めて自然なことと言える。ともすれば、砦の兵たちの目には、ただの傀儡に過ぎないポーラがエルリックの統率者のように映っているのかもしれない。それを象徴するのが、「エルリックの慈愛の妖精」というポーラに与えられた二つ名だ。
普段足音なく歩くポーラが、ひとりだけわざと足音を立てていた理由を今になって理解する。エルリックはなかなかどうして考えている。
もし、この砦でポーラが何かしらの布教を始めたら、教えは簡単に浸透することだろう。筋肉教という邪教がラシード以外に拡散しないことを願ってやまない。
私たちはエルリックのおまけとして尊敬されるようになった。
どうもポーラは砦の兵と雑談するとき、「ジバクマの防衛に心血を捧げるズィーカ中佐に心を打たれてジバクマに手を貸すことに決めた」という旨を吹聴しているらしく、アリステルはエルリックをジバクマに引き入れた立役者として英雄のひとりになっていた。そして、その英雄が率いる部下ということで、私たちもついでに敬意を払ってもらえる、というからくりである。
私はともかく、診療に当たっているサマンダやラシードは軍医として直接的な尊敬と感謝の対象となってもいいようなものだが、完全に『ポーラに信頼されているアリステルさんの部下』と認識されていた。
オルシネーヴァの襲撃が影を潜めていることもあり、すれ違う兵は誰しもが敬礼、挨拶の度に良い笑顔を向けてくれた。
エルリックは非友好的な中将を黙らせ、かつ最前線の兵の心を鷲掴みにした。無茶な手法を駆使したとはいえ、十日とかからずに、だ。エルリックの知略は色々な意味で危険極まりない。後々のことを考えると、あまりに兵から厚い信頼を寄せられるのは都合が悪い。しかし、今の私たちにはそれを食い止める方法がない。できるのは、エルリックの強さを少しでも自分の力として吸収することだけである。
では、私たちが強くなれば、いずれはエルリックに対してもう少し強く物申せるようになるだろうか。ポーラを除けばエルリック最弱と思われるのが二脚。アリステル班で最も戦闘力の高いラシードは、その二脚を相手につい先日惨敗している。時間は相当かかる。それに数の問題も無視できない。アリステル班はアリステルを含めて四人。エルリックは八人。班員三名が教えを授かり、各員がシーワの近接戦闘力や背高の魔法力に匹敵する、いや、むしろそれ以上の武力を身に着けたところで、数に劣る私たちではエルリックを力でどうこうするのは土台無理な話なのである。
ポーラひとりだけであれば力で抑え込むことはできそうだが、ポーラを人質にすることでエルリックを意のままに操れるとはどうにも考えにくい。それに、もしこの砦内でそんなことをした日には、こちらが周りのジバクマ兵に袋叩きにされてしまう。
時間経過で私たちの立場が有利になる見込みは低い。時間が経てば経つほどエルリックはジバクマにおいて不可侵な存在になってしまう。私たちは近い将来エルリックそのものだけでなく、親エルリック派という名の人間の敵と戦わなければならないかもしれない。
◇◇
レンベルク砦到着二日目以降、オルシネーヴァは一切攻撃を仕掛けてこなかった。エルリックに浴びせられた強烈な洗礼への対策を練っている、とは予想されたが、対策の始まりを私たちが垣間見られるようになるまでには、一か月という日数を待たなければならなかった。
ある日、レンベルク砦の斥候がオルシネーヴァの陣に見られた不審な動きを報告する。曰く、陣に張られた天幕の数が日に日に増えているらしい。
時期を同じくしてエルリックは丸一日以上砦を空けることが増えるようになった。虫かごの中の虫や、アリの巣のアリを観察するように、オルシネーヴァ軍を日々観察しているエルリックのことだ。観察対象が活動を始めたことを受け、喜色めいて動き出したに違いない。
ある意味、オルシネーヴァ軍もまた、エルリックに操られている。この分だと、近々良くないことが起きそうだ。
天幕の増加が意味するところは、大規模作戦のための兵力結集である。ここで問題なのは、声明が発表されるまでエルリックは大きな動きを取れない、ということだ。声明の早期発表を願う私たちの祈りとは裏腹に、首都から吉報は何も聞こえてこない。
一か月も同じ砦の中にいると、次第にお互いの名前を覚える。ラシードとサマンダは、『ポーラに信頼されているアリステルさんの部下』から、個人名のある軍医へと立場が変わっていった。私だけは「アリステルさんの部下でライゼンの娘」と、名前を覚えられているはずなのに代名詞から抜け出せずにいた。私はいつもこういう扱いだ。
トゥールさんを活用してオルシネーヴァの工作員を数名見つけたものの、リオンと根を同じにしているのかは分からなかった。この工作員たちは、首都で活動する別の工作員のことをよく知らなかったからだ。オルシネーヴァ一国の諜報活動全てを把握している人間がこんな前線の敵砦の中にいるわけもない。
ある日、砦外に散策に出ていたエルリックが、魔物という名の大量の食材とともに帰還した。四脚の魔物は銘々背中に野草や香草、果実など他の食材を押し潰されそうなほどに目一杯括り付けられ、自らの足で砦まで歩いてきた。食材が食材を背負ってきた形である。植物性の食材を運んできた動物性の食材は糧食班によってすぐさま屠られた。慈悲はない。
ポーラは、砦の防衛に疲れた兵の精神を慰安するため、豪勢な肉料理を振る舞う、と豪語する。そんなことをして、砦の食糧計画に支障は生じないだろうか、と思ったものの、エルリックに手抜かりはなかった。前々から糧食班の責任者と連絡を密にして、砦の指揮官まで巻き込んでこの計画を立てていたらしい。傷病兵や哨兵だけでなく、糧食班ともいつの間にか接触を持っていたとは、油断も隙もあったものではない。
お得意の土魔法で肉を焼く小さめの窯が大量に作られ、広い砦の敷地をフル活用して焼肉慰安の会が始まった。
戦争中とはいえ、ジバクマの食糧事情はそこまで逼迫していない。そんなジバクマであっても肉という食材はやや貴重で、前線でありつける機会はそう多くない。行動中の部隊が魔物を捕らえ、それを食材にすることもあるけれど、たとえどれだけ大きな魔物であっても部隊に振り分けるとなると、大抵、食べた気がしないような小さな肉片しかひとり当たりには回ってこないものである。この日はそんな心配が要らない。勤務と食事を交代でこなす砦内の兵全員の胃袋を満たしてなお有り余る肉がそこにはあった。
存分に食欲を満たされた兵たちが口々にポーラを称賛する。魔物は自分の足で歩いてきたはずなのに、いつの間にかポーラが清らかな汗を流して担いできたことになっている。魔物は糧食班の熟練の美技で解体、トリミング、カットされて肉となり、カットされた肉は兵のひとりひとりが自分たちに割り当てられた窯で焼いたはずなのだが、会話上ではなぜかポーラの手料理のように扱われている。
手料理ではないが、エルリックが振る舞う食事には違いない。エルリックの食事には例外なく毒がある。毒が砦のあらゆる兵たちの脳に達する様を、私たちは食べ頃に焼けた肉を頬張りながら眺めていることしかできない。どうすることもできないもどかしさに苦しむ私を一層苛立たせるのが、私の隣で肉を焼くラシードだ。
人にはそれぞれ、“最適な肉の焼き加減”というものがある。よく焼けた肉が好きな人、生焼けの肉が好きな人。好みはそれぞれであり、それは別にいいだろう。しかし、絶対に許せないのが、ラシードにとっての“最高の焼き加減”が、私にとっての“最高の焼き加減”の少し手前にあることだ。
私が、『あと三十秒焼いたら食べよう』と思って、丁寧に焼いているとっておきの肉を、「あ、これもう焼けてる」と言ってラシードが奪っていくのだ。それも次から次に、だ。肉は沢山あり、私が十分に食べられない、という心配はない。それでも、この所業は決して許されるものではない。
「大尉。中までよく火を通さずに食べると、食あたりを起こしますよ」
「あー、それね」
ラシードは、また私が大事に育てておいた肉を一枚奪って口をモグモグとさせている。
「俺、本当はもっと生のほうが好きなんだ。でも、医学を学ぶようになってから食中毒が怖くなって、よく焼き派に鞍替えしたんだ。だから大丈夫だよ」
この馬鹿は説明になってない言い訳をしておきながら、私を納得させられた気でいる。どこが『よく焼き派』だ。中心はまだ薄っすら赤い部分が残っているではないか。
「へー、そうなんですねー。大尉のお家でも焼き肉することってあるんですかー?」
私と違って実害を被っていないサマンダは、それはそれは楽しそうにラシードに尋ねる。
「家ではこういう食べ方しないなあ。友達の家で小さいパーティーをやるときの話だよ」
「大尉の家、お金持ちですもんねー」
他意なく褒めるサマンダに、ラシードが苦笑する。
「家はね。俺は違う。将来、家を継ぐこともない。だから、国が大丈夫でも、自分の金は自分で稼がなきゃ」
「兄弟がたくさんいると、それぞれありますよねー。でも、私は大尉が軍医になってくれて良かったと思ってます。大尉には、凄く軍医が似合ってますよー」
「そう? ありがと」
気分を良くしたラシードが、また一枚の肉に手を伸ばす。肉が一枚減る度に、私の恨みと怒りがひとつ積み重なっていく。
もっと大きな問題か、あるいはより些細な問題であれば喋って注意できるものを、こういう中途半端なものは、どうにも言いにくい。あまり感情的に注意した日には、ラシードだけでなく、アリステルやサマンダからも、細かいことを気にする奴、と思われてしまう。
肉のことは忘れ、エルリックのことに思考を切り替える。
エルリックは軍人ではない。だから、ポーラには階級とか役職といったものは関係ない。配属も性別も年齢も、何も気にすることなく誰にでも話し掛ける。男性人気だけでなく、いつの間にやら女性人気も獲得している。女軍人が心の中に隠し持った“お姉さま需要”に、ポーラは大応需しているのだ。美人という手札が強力な価値を発揮するのは、異性を相手にしたときだけではない、とよく分かる。
◇◇
エルリックが毒入り肉をジバクマ軍に賞味させている間も、オルシネーヴァ軍の動きは着々と進んでいた。当初、レンベルク砦からほどない距離に構えられたオルシネーヴァの陣は、総兵数一万に達するかどうかだったらしいが、最近では、数万に及ぶ、との報告が上がっている。少なくとも師団クラス、多いと軍団クラスの兵力を結集していることになる。
レンベルク砦の兵数は、数万どころか、万にも全く届かない。ここまで兵数差があると籠城戦ですら防衛できるか怪しくなってくる。劣勢に立たされると、不安になるのは士気の維持である。しかし、オルシネーヴァ軍の戦力を聞いても、レンベルク砦の士気が落ちることは全くなかった。それどころか、むしろ闘争心が激しく燃え上がっていた。
この砦にいる軍人は本来、レンベルク砦を、そしてその後ろに位置するゲルドヴァを、ひいてはジバクマという国を守っていたはずである。それがいつの間にか、胸中に新しい目的を抱いてしまっている。
あるとき、私は通りすがりの兵の装備に何気なく目を向けた。私がちょうど視点を置いた箇所に何やら文字が刻み込まれていた。偶々治療で見知っていた兵だったため、配給品である軍の装備に何を書き込んだのか、と冗談半分で尋ねたところ、兵は少しはにかんで文字を見せてくれた。その表情を見た私は、刻まれているのは妻か恋人の名前だ、と確信した。
結果的に、それは部分正解だった。
そこに記されていたのは、『あの方が愛するレンベルク砦を守れ』という謎の標語だった。
あの方が誰なのか、考えるまでもない。ポーラのことである。ポーラという個人名は、文字として書き記すことすら憚られるようになっていた。恋とか愛とかいう次元を超え、崇拝の域に到達している。これはもはや標語などではない。教義だ。
後日、教義は砦のいたる場所、あらゆる兵士の装備に見つけられるようになっていく。
教徒が信仰対象であるエルリックのために砦の防衛に闘志を燃やす一方、エルリックは両軍衝突の日を思い浮かべては良からぬことを企んで楽しそうにしている。
砦防衛に不安がないのか尋ねても、『声明が発表される前にオルシネーヴァ軍に壊滅的なダメージを与えてしまわないかどうか不安です』と、的はずれな回答をする。最近の新種はどこまでも私たちと噛み合わない。
私たちは、いつか分からぬオルシネーヴァ軍の作戦決行日に怯えながら、“仲間”の力を信じて待ち続けた。だが、いつまで経っても首都から吉報が届くことはなかった。
泰然としていたエルリックも、いつしか見切りをつけてしまい、「少し考え方を変えることにしました。しばらく戻りません」と言い残して砦から出ていった。三日経っても五日経っても本当に戻ってこなかった。
エルリックが砦を空けるのを待ち構えていたかのようにオルシネーヴァ軍が陣から進発する。ジバクマの斥候騎兵が敵の進軍開始を告げ、レンベルク砦は久しぶりに第一種戦闘配置になる。
オルシネーヴァの大軍は長い時間をかけて雑木林に挟まれた街道を抜け、その大柄な巨体をレンベルク砦から可視可能な距離に全て布陣する。戦闘直前となっても、なおエルリックは戻らなかった。そのまま遠距離での魔法戦が始まり、矢と砲弾が飛び交う。時間とともに砦と敵軍の距離は詰まり、砦はついに接敵を許すこととなる。
長い悪夢の始まりだった。




