第一六話 共和国の王 一
リレンコフを馬車で発ち、隣町に辿り着く頃には日が落ちた。馬を替えることなく馬車での移動はそこで終了となった。夜からはエルリックに背負われての移動になる。
アリステル班全員がエルリックに背負われる。背負子と紐を使って身体をしっかり結び付けられていて、なんだか拐かされる気分だ。緊急時のために結び目の外し方は馬車内でポーラから教わっているし、自分で自分を縛る誘拐なんてものはないのだが……
騎乗にあたっての安全上の不備がないか確認を終えたポーラもまたメンバーの背中によじ登る。ポーラだけは背負子なしだ。なぜポーラは背負子を必要としない。
「さて、では行きますよ」
エルリックが走り出す。私を負ぶっているのはイデナだ。イデナは魔法を使って戦うことが多かったから非力なように思っていたが、私ひとり背負っても動作は機敏だ。走る速度がグングン増していく。
自分の身体が前に進んでいるだけなのに、振動の少なさゆえに自分ではなく世界のほうが後ろに下がっているかのように錯覚してしまう。
これは確かに最初は恐いが、少し慣れてしまえば非常に快適だ。特上の馬車よりは少し疲れる、というだけで、普通の人間に背負われるよりも乗馬よりもずっと楽である。馬車のような細かい振動も激しい突き上げも、さらには煩い音もなく、風と景色だけが流れていく。日中であればもっと風景が見えて楽しいかもしれない。速度が増すと、流れる景色は暗さと相まってほとんど見えなくなる。見上げた空に星がはっきり映えていることから、今走っている場所が木々に天を蓋された獣道ではなく街道だということが分かる。
私が体重を預けているイデナの背中からは、体温らしき温もりが感じられない。イデナは食事を取っているメンバーのひとりだ。これが背負子と鎧越しでなければ、新種的な温かさを感じられたのだろうか。
でも、温かくなくてよかった。少し強めの風の心地よさに加え、温かさまであったら、多分イデナの背中で熟睡してしまう。首都に着いた後は恐らく心休まる暇がない。首都に着くまでの短い時間だけは、心を無にしてもいいのではないか……
そんな惚けたことを考えていると、エルリックは道の真ん中で止まった。まだ走り出して十分くらいのものである。もしかして、疲れた、とでもいうのだろうか?
「皆さん大丈夫ですか? 気分が悪くなった方はいませんか?」
ポーラは私たちの体調を確認する。
ああ、そうか。エルリックが気にしているのは乗り物酔いだ。エルリックはメンバーを乗り物扱いしている。問題ないはずだ。この四人は誰も馬車酔いしない。あるとすればアリステルの腰痛が悪化するくらいのものだろう。
「大丈夫なようですね。では、しばらく休憩無しで走りますよ」
そう言うと再び走り出し、数時間は休憩無しで走り続けた。
ペースはずっと一定していて、アンデッドの尽きぬ体力をまざまざと見せつけられる形になった。
数時間の夜間走行の後、エルリックのため、というよりはポーラと私たちのためであろう休憩を取ることになり、銘々結びを解いて背負子から地面に降りる。
いくら乗り心地が良いとはいえ、さすがに何時間も同じ姿勢を取っていると身体が固くなる。各関節の屈伸を繰り返して凝りをほぐす。
休憩の間、真っ暗闇の街道に私たちを放り置き、エルリックは暗闇の森の中へ姿を隠した。そんなエルリックの行動にポーたんが反応をみせる。
エルリックは何か隠し事がある。毒壺にいたときもそうだ。エルリックは時折私たちの前から姿を消す。私たちを罠に嵌める類の秘密ではないようだが、それははたして何なのか。
十分前後経つと、何事も無かったかのように戻ってきた。
再び私たちを背負子に背負うと、また数時間闇の中を走り、その後仮眠を取ることになった。
「仮眠の時間は六時間です。毒壺にいたときと違ってこれ以上時間は割けませんので、夜番の交代はしないほうがいいですよ。我々が周囲を警戒しますから、六時間はしっかり休んでください。起きているのは勝手ですけれど、この先どんどん辛くなりますよ」
そう言うとポーラは簡易な床を作り、誰よりも先に眠りに就いてしまった。
他のエルリックのメンバーは半分が休憩、半分が見回りをしている。これも毒壺にいた頃と同じだ。食事を取るメンバーも、取らないメンバーもどちらも交代で休憩を取る。そしてポーたんがそれに毎回反応する。
エルリックのこの行動には意味があり、何かを隠そうとしている。ポーラ以外のアンデッドが休憩を取る。これがそもそもおかしいのだ。“新種”ならばこその特徴かもしれない。では、“新種”が休憩を要する魔物だとして、それをここまで執拗に隠そうとするものだろうか。この謎を解くためのヒントは、まだ十分に集まっていない。それともヒントは既に十分以上に提示されていて、私たちが正しく解釈できていないだけ……?
十か月かけて解くことのできなかった謎に、ここで時間を費やしても意味がない。今は休憩を取るべきだ。
「班長、どうします? 交代で休むとなると三時間ずつですね」
暗すぎてお互いの表情もよく見えない中、ラシードがアリステルに確認を取る。三時間となると、エルリックと行動を共にする前のアリステル班の平均睡眠時間よりも短い。
「休め、と言われたのだから、私は六時間きっちり休もうと思います。苦難が待ち構えているのは行路の先なのです。こんなところで無意味に体力を消耗していては、立ち向かえるはずの苦難にも立ち向かえなくなってしまいます」
私は自分の意見を簡潔に述べた。
三人全員が一斉に私のほうを見る。表情は見えずとも戸惑いの空気というものを肌にヒシヒシと感じる。
「ラムサスは急に肝が据わったね。いいよ、皆休んで。夜の間は僕が起きている」
「それだと班長が……」
最年長で病身のアリステルが休めないのは論外だ。首都に着いたらアリステルには才気溢れる知略を発揮してもらわなくてはならない。
「僕は日中、フルルに背負われている時間に眠るよ。僕の背負子だけなぜか上等に作ってもらったから寝心地は悪くなさそうだ。その間は三人が起きていてくれ」
たとえ仮床であっても横になって眠るのと、背負われた状態で身体を起こしたまま眠るのは疲労の回復具合が違う。ただ、質はともかく量はそれなりに取れるだろう。
「それなら、夜は俺が起きてますよ」
「いや、上官命令だ。ラシード」
話せば話すほど睡眠時間は失われる。アリステルは上官としての権限を活用して議論に終止符を打った。私としてはアリステルに夜、休んでほしかったが、上官として下した決定に口を挟むつもりはない。
了解、と返事をしておきながら、心は納得のいっていないラシードは放って野営の準備を済ませ、私は無理矢理に眠りに就いた。
翌朝、夜明け前に起床となり、糧食とポーラの料理をしたためる。一年中肌寒いダンジョンと違い、地上は昼夜の寒暖差がある。暖かいジバクマであっても、夏というにはまだ早いこの時期の野外、特に寝起きの身体は芯から冷えている。そんな身体をエルリックの用意した温かい汁物が腹の奥から身体を温めてくれる。急いでいるはずなのに、エルリックは食にかける情熱を一片だけでも発揮しようとする。今はそれがとてもありがたい。
食事を済ませて野営を撤収した後は、てっきりエルリックに背負って貰えるものだと思っていた。しかし、エルリックは昨夜眠っていないアリステル以外の三人に走ることを命じる。食にかける意気込みだけでなく、私たちへの訓練意識も忘れていなかった。アリステルの背負子には眠りやすいように枕などが取り付けられ、さらに特別なものになった。物作りや改善の意欲も変わりない。
うん。つまり、エルリックは毒壺の中にいたときと何も変わっていない、ということだ。
私たちが走ったのは、ほんの一時間程度だった。速度は、何時間か走っていられそうなゆっくりしたものだ。準備運動のような走りを終えると、再び私たちは背負われて背中の上で休む。また、しばらくすると、再び走らされる。エルリックにとってこれはただの都市間移動ではなく、私たちの持久力向上を狙った特別合宿のようなものになっている。
途中の街に着くと、急いでいると知っていながらエルリックは食事処に入る。一緒に行動している以上、私たちもやむを得ず食事処に入る。エルリックには、「急いでいるから食事を抜く」という発想がない。戦闘力向上には欠食が敵、とはいえ、折角リレンコフで糧食を買ったのだ。街の食事処に入らずとも良いだろうに……
挙句の果てに、ポーラは店員に、「こちらの名物料理は何ですか?」と尋ねる。私は何度でも言おう。急いでいるのだ。もうこの際食事を取ることに文句は言わない。しかし、せめて名物料理ではなく、早く提供できる料理を注文してくれ。
たっぷり待たされた末に運ばれてきた料理を私たちががっついて食べている理由は、久しぶりに食べる魚料理や一年ぶりに賞味する地上の香草のフレーバーに感動したからではない。急いでいるからだ。
デザートのホールプリンを一瞬で平らげたのは、甘くて美味しくてとろけそうだからではない。急いでいるからだ。
ティーポッドが空になるまでお茶のお代りを繰り返したのは、お茶が好きだからでも、喉が渇いていたからでもない。急いでいるからだ。ティーポッドを空にしたら、ポーラが席を立ってくれると思ったからゆえのお代りなのだ。それなのに……それなのになぜ、ポーラはお茶を追加注文する!? これは断じて許されない。
『皆さん、お茶が好きなんですねえ』だと!? 違う。断じて違う。私たちは何度も否定したのに、ポーラは『いいからいいから。遠慮しないでください』と、ずれたことを言う。新種のアンデッドは人の心が分からない。ああ、もう!
ティーポッドを二度、空にする、というロッキーチャレンジをさせられたことにより、チャプンチャプンに膨れた腹を抱えた私たちはその後の移動時間において、何度かエルリックに小休憩をせがむことになる。「あんまりゆっくりしていると、首都に着くのが遅くなりますよ」と、どの口でほざく。全部エルリックのせいなのだ。私たちは絶対に悪くない。
[*ロッキー・ピラート――ゲルドヴァ憲兵団中尉。二章第三話に登場]
日が射している時間帯は何度か走らされ、日が沈んだ後はずっと背負われ、リレンコフを発った翌日の夜には首都の外周に着いた。ちんたらしていたような気がする割には早く到着したものである。首都には潜入しなければならない都合上、夜に到着したのは良い首尾だ。
最高速度こそ馬の駈歩より遅いものの、エルリックは夜でも速度を落とすことなく走っていられる。一日の総計で考えると早馬を乗り継ぐのとほとんど変わらない距離を進める、ということだ。ゲルドヴァからリレンコフまでの移動もおそらく今と似たようなものだったのだろう。人間であるポーラも、必要十分な休憩を取っていたのだ。
首都に入るには、日中であれば大通りを通って検問を受けなければならないが、夜間帯のエルリックならば、容易に監視の目を潜れる。この検問にしたって、ワイルドハントであるエルリックに対して通行許可が出されているのか分かったものではない。こんなところで時間を食ってはいられない。
大通りを避けて首都の内部へ入り込み、人通りの無い静かな裏通りを進んで行く。
「さて、陛下は多分帰らずに仕事をしていらっしゃるはずです。陛下に謁見するためには城壁を越えなければなりません」
「帰る? 国王の下へ向かう、とは聞きましたが、今の言葉の意味はよく分かりません。王城の居館で暮らしているのではないのですか?」
道を案内するアリステルにエルリックはごく当たり前の疑問を呈する。
私の感覚からすると噴飯ものなのだが、ジルは国王だというのに仕事場のある城壁内まで、以前は壁外にある自宅から通っていた。通勤時間が長くかかりすぎるため、すぐに仕事場に寝泊まりするようになった。
おかしいのは国王が通勤している話だけではない。そもそもジバクマは共和国だ。壁内にも王宮とか王城といったものはない。あるのは都庁を始めとした役所や宗教施設が主だ。だが、城はなくとも、あの壁のことを国民は城壁と呼んでいる。
「王は城壁内の都庁と壁外の自宅を往復しているんですよ」
「それは……。落ち着いた状況で聞いたのなら、面白い冗談と受け取れたんですが、どうやら真実を話している様子。とても労しいことになっているんですね」
アンデッドのワイルドハントに憐れまれる我が国。本当にどうにかならないものか。
「そういえば、ジバクマは共和国なのになぜ国王が存在しているのでしょう。国の体制がコロコロ変わりすぎて、国名変更が間に合っていないのでしょうか?」
それもこの国の恥部だ。この国はどこに目を向けても、たった一枚外衣をめくるだけで即座に恥ずべき部分が露出する。
「敗戦を予期した“賢老院”が、戦争の責任を一手に引き受けさせるために無理矢理祭り上げたんですよ。ゼロナグラ公に次いで大きかった旧貴族の御胤裔が現在の陛下です」
アリステルが隠すことなく内情を説明する。これは機密などではなく国民誰もが内心思っていることだ。
「開戦の狼煙を上げさせたのはそもそも……。今、その話をするのはやめておきましょう。とにかく、その国王を中心にあなたたち“仲間”が国を動かしているんですね」
「残念ながら、国の内部崩壊を防ぐためにあちこちを駆けずり回っている、というのが正しい表現ですね。国を動かす最高意志決定機関は賢老院です。“仲間”にも賢老院議員はいますが、議会での発言力は微々たるものでしかありません」
国家の意志発動部である賢老院を作り上げてきた初代たちは正しい志を持ち、かつ優秀だったのだろう。しかし、時とともに賢老院の議員は代替わりしていく。代替わりを受け入れられずに居座り続ける議員は耄碌するか腐敗していく。賢老院の中にいる賢い者はほんの少数で、大半は欲望に塗れた“愚者”どもだ。国の将来など考えていない“愚者”と、国を守るために奔走する“仲間”の利害が一致することはごく稀で、賢老院は私たちにとって邪魔以外の何者でもない。
「はぁ……。人間の世界は面倒臭いですね。それで、城壁というのはあれですか?」
星の瞬く夜空を遮る暗い高台が眼前に広がっている。その高台に聳え立つ城壁内にジルがいる都庁はある。
「ええ、そうです」
「では、ここで待っていてください。ひとっ走り中の地形を確かめてきます」
エルリックは私たちを背負子から下ろすと、闇夜に紛れて高台の方角へ消えていった。
ほどなく戻ってくると、私たちを再び背負子に乗せる。
「監視の目は無くしておきました。普通に城壁を登りましょう」
城壁の夜間警備を担う防衛部隊を無力化したようだ。どうせなら城門を開けてしまえば……それは流石に目立ち過ぎてまずいか。エルリックの異常行動に影響されて私まで思考が常軌から逸しつつある。
「私たちを背負って登れるんですか?」
エルリックが私たちを背負っても機敏に動ける力があるのは理解した。しかし、登攀はまた別だ。壁登りのスキルがあるとはいえ、武具や携行品のある私たちの重さはかなりのものだ。
「あんなのすぐですよ」
完全装備の軍人という重荷を背負わなければならないのに、エルリックは城壁登攀に何の躊躇も感じていない。エルリックは私たちを背負ったまま再度城壁へ忍び寄り、一切の道具を使うことなく壁を登り始めた。
エルリックの中で壁を登らないのは背高に背負われたポーラだけだ。では、ポーラが壁を登るスキルを持っていないか、というと、それは違う。ポーラは背負子を使っていないのに、背高の背中で安定している。そこまでガッチリとしがみ付いてなどいないのに、ずり下がって落ちそうになるとか、背負い直されることもない。ポーラもおそらく壁登り、ないし、それに類似したスキルを持っている。
腕のない二脚を見ると、毒壺でラシードを打ち負かしたときのような、壁に対する垂直立ちはしておらず、リザードやスネークが壁や木を登っていくように壁に身体を密着させてスルスルと這い上がっていた。スキルがあるのを知っていても、あまりにも見た目が奇怪過ぎて、だまし絵でも見ている気分になる。私たちだと、上から垂らされたロープを使ったとしてもここまで速く壁を登ることはできない。
壁を登れるのは二脚とフルルだけではない。多分、ポーラもその気になれば壁だろうと天井だろうと這いずり回れることだろう。エルリック相手には城壁が意味をなさないことを理解した。
城壁の上には、眠りこけた憲兵がいた。私たちが必死に国を守ろうとしているときに呑気にサボって、と、反射的に怒りを覚えたが、エルリックが『監視の目を無くした』のだった。あくまで『眠らされた』兵であり、エルリックが訪れる前から『自主的に寝ていた』兵ではないことを切に願う。
城壁を越えて高台の中へ入り、アリステルの誘導で都庁へと向かう。戦争の影響なのだろう、こんな夜更けでもあちらこちらの建物各所で明かりが煌々と灯っている。
辿り着いた都庁でも正面入り口は避け、庁舎側面に回り込んで壁を登り、西側にある高所の窓から庁舎内部へ侵入した。
夜目が効く、気配が乏しい、壁を登れる、強い。不法者に持たせてはならない能力をエルリックは色々と持っている。軍人である私たちが何の苦労も無く国の中枢たる首都の都庁内に忍び込むことができた理由が、ワイルドハントの持つ犯罪者向けの種々の技術なのだから、なんとも皮肉なものである。
背負子から降り、私たちも走りながら庁舎内部の王の間へ急ぐ。急ぎながらも、ポーラから何度も、「止まれ」の合図が出る。ポーラは私たちを立ち止まらせるとイデナを先行させる。「進め」のサインを待ってイデナの後を追うと、そこには必ず眠った人間がいる。こうも何人もスヤスヤと眠る人間がいるのだ。イデナは対象を眠らせる幻惑魔法、スリープが使えるのだろう。イデナがその魔法を使えるのはいいにしても、誰もスリープを抵抗できないのは不思議である。
王の間の前に到着し、アリステルが身なりを正してから扉をノックする。周りの各部屋の扉に比べ、王の間の扉は質素なものである。ここも前のままだ。ガワだけでも整えればいいのに。
「誰だ」
中から聞こえてきた返事は、気位の高そうな男の声だった。ジルの声といえばジルなのだが、イメージしていた声と違う。そういえば、こんな声も出せたのだった。
「国軍中佐、アリステル・ズィーカです」
「入って」
こちらがアリステル班だと分かった途端、ジルの声は対外的に取り繕った国王の声ではなく、“仲間”と接するときのいつもの声になる。何も知らなければ、こうやって声を変えるジルのことを、『相手によって声も態度も変える嫌な奴』と思うかもしれない。しかし、私は知っている。ジルは本当は普通に喋りたいのだ。国王という立場上、重々しい威厳ある喋り方を強いられている……主に都庁職員から。
アリステルひとりが部屋の中へ入る。中で数言遣り取りを交わした後に再び扉が開き、エルリックを含めて私たち全員が入室するように言われる。
中にはジルだけでなく、“仲間”のひとり、レネーがいた。要らない手間が省けた。ナイスタイミングだ、レネー。
私たち三人は扉の前で片膝をついて跪拝する。横に立つエルリックは会釈することもなく突っ立っている。
「三人とも立て。時間の無駄だ」
何の役にも立たない形式的な挨拶を嫌うジルに促され、私は顔を上げて立ち上がる。
「俺が国王のジル・シャピエハだ。今はジバクマという窮屈な名前が最後尾につくがな」
自ら名乗るのは、全く国王らしからぬ振る舞いだ。普通は従者とか近習が本人に代わって名前を告げる。ジルはワイルドハントを目の前にしても褻の姿勢を崩さない。髑髏仮面の集団という見た目だけでも、圧倒されてしまいそうなものなのに。
「初めまして、国王陛下。我々がワーカーのエルリック、私はポーラです」
国王の前だというのにエルリックもまた酷い言葉遣いだ。これではまるでワーカー同士の自己紹介だ。……それはお互い様か。
「そちらの方は?」
ポーラはジルの横に立つレネーを見てニコッと微笑む。人間的感覚から乖離した言動を度々披露する割に、こういう女性的な柔和さだけはサマンダに劣らない、少なくとも私より圧倒的に優れているのだから腹が立つ。
「私は国軍大将のレネー・バルボーサだ」
ジルとポーラが生み出した流れそのままに、レネーまで地の喋り方をしている。美人の微笑みを前にしているというのに、レネーの顔色は警戒心と不愉快の二色からビクとも動かない。ここからの話は、どう段取りしたってご機嫌で聞ける話ではない。感情に呑まれることなく、落ち着いて話を聞いてほしい。
「それで、こんな夜中にわざわざ俺の部屋まで来て何の用だ。杯でも交わしに来たか」
「それは私に任務が下ったからです。エルリックを連れて王都へ参じろ、と」
アリステルがジルの問いに答える。
「それは誰の命令だ」
軍という組織においては私たちの最高位に位置しているレネーが激しい怒りを見せる。やはり、あの命令を下したのはジルでもレネーでもない。
「すみません。リレンコフ支部の憲兵団団長から聞いただけですので、軍命としか知りません」
「なるほど。だからこんな夜更けに直接俺のところに来たのか。正解だ。危うくエルリックと殺し合い……いや、エルリックに都民を大量虐殺されかねないところだった」
「確かに防衛機能の低い首都では、一方的な殺戮にしかなりませんね。対人間用途の防衛機能があったところで、我々には用をなしませんが」
迂遠な遣り取りは不要。それには私も大賛成である。しかし、だ。それにしたって、もう少し言い回しというものがあるだろう。ジルもエルリックも。
「エルリックとは一度話をしてみたかったんだ。だが、先にアリステルから一年分の報告を聞かせてもらっていいか」
ポーラは両の手掌を天に向けると、半歩身を引いて承諾の意を示した。
「毒壺に行った後はどこで何をしていたんだ? スタンピードは防げたようだが……」
「ずっと毒壺の中におりました。数日前にダンジョンボスをエルリックが討伐し、昨日リレンコフに帰ってきたところです」
「昨日リレンコフにいて、なんで今ジェラズヴェザにいるんだよ……」
ジルもレネーも呆れている。ジルはエルリックの移動速度に、レネーは移動速度とダンジョンボス討伐の両方に感情を揺さぶられている。人を食った話だが、いずれも事実。受け容れてもらわないとならない。
「アンデッドの無限の体力に基づく移動能力の高さとご理解ください。私たちはエルリックに背負われてここまで来たのです」
ジルはついに笑い出した。レネーは驚きを通り越し感情を失ったようになっている。
「ああ、分かった分かった。ダンジョンボスを倒せるほど強いのだから、足だってクフィア並に速くてもいいだろう。アンデッドは不休で走れる、と、覚えておこう」
不休などではない。何日だって続けられるだけの十分な休憩を取っている。むしろ、休憩どころか、飲むわ、食べるわ、私たちを走らせるわ、やりたい放題だ。
「他にはどんな面白い話がある?」
「それは……」
アリステルが言い淀む。横にエルリックがいるからだ。同席されると話しにくいことがいくつもある。
「ズィーカ中佐。我々は中座してもいいですが……」
そう言うとエルリックは土魔法で入り口の扉の前に土壁を作り出した。それも三重にも、だ。ポーたんのいる私はエルリックが何のために土壁を作ったのか即座に分かるが、ジルとレネーは、閉じ込められたように感じるかもしれない。
「こうしないと外から丸聞こえですよ。隣室と上下階の部屋には誰もいないものの、廊下には聴客がお一方、たった今いらっしゃいました」
私たちがこの部屋に入ったとき、廊下には誰もいなかった。それが、いつの間にか扉の前に誰かが現れ、聞き耳を立てようとしていたらしい。
「先に言っておきましょう。席を外したところで、我々はいくらでも盗み聞く手段があります。それに、何を聞いても我々は腹を立ててここで皆さんを害したりしませんよ。……多分」
エルリックは自分の目の前で私たちのエルリック評をジルとレネーに伝えるよう要求する。全く人間の心理を分かっていない発言だ。
アリステルは、ジルに何と説明するか、前もって考えていたことだろう。しかし、エルリックが聞いている前で説明することは想定していない。そんな要求をされたところで、俄かには言葉が出てこない。アリステルは唇をキュッと結び、説明しあぐねている。
「ふむ……では、アリステルじゃなくてラムサスから話を聞こうか」
アリステルの当惑と私の視線に気付いたジルがこちらに水を向ける。
「エルリックがドミネートを使える以上、盗聴を防ぐのは無理です。ですから、私の知り得たこと、考えたことをここで全てお話します」
ラシードとサマンダは今まで核心的な機密に深く関与してこなかった。このまま私が深い話を始めると、二人には問答無用でこちら側に与してもらうことになる。ラシードは略確定していることにせよ、サマンダには事前に意思確認できていない。ごめん、サマンダ。
とはいえ、考えることと口に出すことはまた別だ。内容がこんがらがって聞き手を混乱させることのないよう、深呼吸をひとつして、少しだけ間をとる。
「私の能力で確定できたのは、ポーラがエルリックの中の何者かにドミネートされていること、それだけです。その後は小妖精の使用を禁じられましたので、他に確実なことはありません」
トゥールさんで調べたたったひとつの事実。それを告げてもエルリックのメンバーには動揺する様子が見られない。
むしろジルのほうが困惑しているように見える。
「それは拙いな。俺にとっては大したことではないが、余計な奴に知られると困る。ジバクマの法律は国民をドミネートで支配することを禁じている」
「それはジバクマ国民限定ですよね。ならば何の問題もありません」
ポーラがそう断じる。
ポーラもジバクマ国民ではなかった。正直、ポーラの出身地についてはどうでもいいと思う。本当はジバクマ国民だったとしても、ゼトラケインか、あるいは砂の南からでも来たことにしてもらえばいいだけの話だ。
「ポーラという人間の肉体は不詳ながら、操者はおそらくジバクマの出身ではありません」
「お前たちの領袖はどいつなんだ?」
敵対心を剥き出しにして、食って掛からんばかりの口調でレネーが尋ねる。不機嫌なのは最初からにせよ、今度は何が気に障ったのだ。
「私の口から出る言葉は、その領袖の意を酌んでいると思ってもらって結構です。我々のパーティーにおける会話口は私だけ。どのみち私以外の手足が口を開くことはありません」
エルリックはポーラ以外誰も喋らない。アンデッドは別に会話不能な魔物ではない。下級のアンデッドは言語による意思疎通ができないものの、上級のアンデッドは人語を解することが珍しくない。特にシーワや背高クラスのアンデッドが一言も喋れないとは全く思えない。
自らの意志で緘黙を貫いているのか、口を開かぬように領袖から厳命されているのか。
「ポーラの操者が誰なのか、領袖が誰なのか、そもそも領袖がいるのかどうかすら分かりません。ただ、エルリックの中にはゼロナグラ公の生まれ変わりがいるのかもしれない。復活を果たし、既存のアンデッドの概念を覆す新種としてここにいる。私はそう考えています」
「なぜそう考える?」
「ドミネートされているはずのポーラの振る舞いが、あまりにも人間として自然だからです。異能を持った人間がドミネートを行使しているか、それとも人間を長年観察してきたアンデッドか、あるいは人間的な生者の部分を持つ新種がドミネートを行使している。そうでなければ有り得ません。そして、もうひとつ大事なことは、エルリックがジバクマに現れた目的です。ジバクマに雇われてオルシネーヴァに攻め込むこと。それが、このワイルドハントの目的なのです」
長らく謎だったエルリックの活動目的のひとつを初めて耳にするジルとレネー、そしてラシードとサマンダも一様に驚きを見せる。
「それはどういうことだ。エルリックはオルシネーヴァに恨みでもあるのか?」
ジルの目は、私ではなくポーラに向いている。尋ねられたポーラがジルに返答する。
「理由は色々とあるんですけどね。そのひとつは、取り返さなければならない物があるから、です」
取り返さなければならない物……。ここで指しているのはおそらく審理の結界陣のことだ。結界陣をオルシネーヴァに奪われた、という事実自体、知っている者はごく少数だ。賢老院の重鎮ですら知らない情報をエルリックは知っている。“仲間”から漏れたとは思えない。やはりエルリックにはダニエルの生まれ変わりがいると考えたほうがいい。
「他はお教えできませんが、そのうちのひとつは、我々にかけられた呪いのようなものだと思ってもらえればよいでしょう」
呪い? オルシネーヴァを滅ぼすように呪いでもかけられている、とでも言うのか?
もし、呪いの内容が、人を殺めなければならない、という程度のものであれば、ジバクマで暴れるだけで事足りる。オルシネーヴァに出向いて戦う理由にはならない。一体どんな呪いなのだろう。
「なぜ俺たちの国に雇われる必要がある? お前たちなら独力でオルシネーヴァを滅ぼせるんじゃないか?」
「我々は不滅の存在などではありません。あの国から物を取り返すに際し、矢避けが必要になります。それがヒトの形をしていると、とても都合がいい。それに、雇われの身であれば報酬もいただけるでしょう?」
ポーラの発言に小妖精が反応する。ポーたんが拾ったメッセージを咀嚼した私は、エルリックが真意を隠そうとしていることに気付く。ただし、私たちを謀り陥れようとするものではない。むしろ、その逆……
小妖精から得た情報の意味が分からない。エルリックは、私たちが思っている以上に特殊な事情を抱えているのか……。エルリックが小妖精を見えていることを踏まえて悪い方に考えるならば、何らかの方法で小妖精の能力を誤動作させ、私の錯誤を誘導している可能性がある。そうなると、話はより複雑だ。
私は何を信じたらいい? ポーたんは信じて大丈夫なのか?
「どんな報酬が欲しいんだ? 以前要求していたゼロナグラ公の遺産は、俺たちの意思では必ずしも渡すことができない。俺は飾りの王だ。別に実権は無いからな」
エルリックがダニエルであれば、魔道具以外の遺産にどれだけ執着があるか分からない。書物に記された知識や技術等は、記憶に残っているなら取り戻す必要がない。仲間を欲しているというなら、大本命はジェダだ。
「そうですね。……では、ラムサス・ドロギスニグ少尉の身柄を譲り受けたい、と言ったらどうされますか?」
え……?
……私?
全く想定していなかった要求が飛び出し、しばし思考が途絶する。
意識消失にも似た数秒の空白時間を経て私の精神は活動を再開する。しっかり気を持て、自分。
なぜだ。ジェダやライゼンならともかく……強くもない、能力も中途半端。しかも、その能力は、結界陣の前では価値が半減してしまう。情報取得能力としては比較的役割が似ているためだ。
……本質は、利用価値ではない?
エルリックが私を手に入れたらどうなるか、ではない。私と結界陣を両方失った“仲間”がどうなるか、だ。結界陣は私たちが所有していても、あまり使えない魔道具ではあるが、最終手段や奥の手にはなりうる。私と結界陣という情報系の能力二つを相手から奪うことこそが目的だったとすれば、筋が通る。
「それは絶対にありえん。ドロギスニグ少尉は王とジバクマを支えていく余人をもって代えがたい人材だ。それを失えば国が滅びることは間違いない」
レネーが私の譲渡を拒絶する。
「では、貴国は何を用意できるというのですか?」
ポーラはうんざりとした顔で尋ねる。
単純な質問に、こちらは誰も何も答えられない。権力がない弊害だ。持っているのは数少ない駒ばかりで、物も金もないのだ。捻り出せる僅かな金銭は、以前提案した際に拒まれている。
「それは残念ですね。国が滅びても陛下とズィーカ中佐以外は、もしかしたら生き残れるかもしれませんが、折角の『全員が生き残れる道』を手放すなんて」
「なんだと……? それはどういう意味だ」
レネーの怒りがますます膨らんでいく。
どれだけ事が上手く運ぼうとも、エルリックの助力抜きに私たち全員が生き残ることはない。エルリックはそう言っている。
何だ。エルリックは、本当は何が言いたい。複雑なことは言っていないはずなのに、どうしてこうまで意味が分からない。
「少し閑話としましょうか。ズィーカ中佐、今、体の加減はいかがですか?」
「心遣いありがとうございます。体調は良好です」
ポーラはジルを見つめたままアリステルに問い掛け、アリステルは戸惑いながらそれに答える。
「中佐……。私が聞きたいことを答えたほうがいいですよ」
ポーラがアリステルを横目で冷たく見る。
アリステルは目を見開くと、顔から首筋から、露出した肌という肌に大粒の汗を浮かべ始めた。今まさに体調が悪化しているようにも見える。エルリックの問い掛けに、アリステルはどんな恐ろしい意味を察したのだ。
もう、分からないことだらけで、何も筋道立てて考えられない。
アリステルは下を向いて拳をひとつ握りしめてから、再び顔を上げてポーラを正視する。
「おかしいとは思っていたんです。悪化し続ける一方だった魔力硬化症の症状が、今ではほとんど消えている」
身を切り裂かれるような辛苦の表情とは裏腹に、アリステルは思いもよらない朗報を口にした。
喜ぶべきアリステルの快調を聞いても、誰ひとりとして素直に喜ぶことはなく、皆、疑惑の目でアリステルとポーラを交互に見ている。
魔力硬化症は進行性の病。体調の波によっては気分が良い日もあるだろうが、症状が消えた例はただのひとつもないからだ。軍医のラシードとサマンダはもとより、“仲間”であるアリステルの病気のことをよく知ったジルとレネーもアリステルの話を訝っている。
「最初は、魔力使用をやめたことで小康状態に入ったのだと思っていました。でも、脱力の頻度は次第に減っていき、魔力は数年前と同じくらいまで戻ってきています」
「それは素晴らしいですね」
ポーラは笑顔を浮かべて小さく拍手しアリステルの症状寛解を祝う。新種のアンデッドが白々しくアリステルを祝福する様を、私たち人間は苦々しく眺める。
「おや? 素晴らしい朗報だというのに、陛下と大将は、重畳と思っていただけていないご様子。これはおかしいですね」
ポーラは嘲るような憎たらしい笑みをジルとレネーに向ける。
アリステルに大量の冷や汗をかかせたばかりでなく、今度はジルとレネーに圧力をかけている。
圧倒的な暴力の陰に隠れて忘れかけていたことがある。エルリックは、交渉とか駆け引きというのを分かっているのだった。初めて謁見する国王を相手に、ワイルドハントが暴力以外の手段で有利な立場を築くと誰が予測できる。
「皆さんが持っているのは、“物”ではなく“人”なのでしょう? ならば、借りができた際に差し出せるのが人材だけなのは当然のこと。まさか、何も見返りを求めることなく我々に武力だけ差し出せ、と言うのでしょうか」
「アンデッドには理解し難いかもしれんが、人は物のようにおいそれとくれてやることはできない」
「その人間感覚とやらの機微の機微、繊細な部分を理解しているからこそ、こういう小噺が出てくるとは思いませんか、陛下?」
ポーラはからからと笑う。
人情に疎いよりも人情に知悉しているほうが、残酷な選択を閃くには適している。エルリックはたまに心ない言動をすることがあるものの、もしかしたらあえて常識を無視しているのかもしれない。
ポーラが操り人形であろうとなかろうと、エルリックは人間しか思いつかないような残忍な発想ができるのだ。私たちは、分かっているようで分かっていなかった。……あぁ、そうだ、これもジルに伝えないといけない。
「事前の予想通り、エルリックの半分は食事を摂取しています。それだけではありません。一年弱を共に過ごすことで分かりました。エルリックは、人間がどんなことに拘り、どんなものに心を囚われ、何を悩むのか。それらを理解している。知れば知るほど、アンデッドとしては異常な存在です。新種のアンデッド……そんなものが、こうまで突然に世に出現するとは思えません。確固たる意図の下に生み出され、存分に謳歌できる乱世が到来するまで闇に伏していた、というほうが、よほど辻褄は合っています。では、誰がそんなものを生み出したのか。候補はほんの一握りです」
報告をする際は、可能な限り感情を排除すべきである。しかし、私自身を供物として要求されたことで、報告には目一杯感情が入り込んでしまっている。
「ドロギスニグ少尉は然許り警戒の様子ですが、我々を助ける意志はない、ということでしょうか?」
人買いのようなことを言っておきながら、その売買の対象になっている私に何を……
抗議の目でポーラを見ると、そこに笑顔はなかった。感情のない無機質な顔。人によっては今のポーラの顔が冷然としたものに見えるかもしれない。ところが、私はこれを、胸奥に恐れと悲しみを抱いた上で装う“平然の素振り”だと直感する。
私の感覚は……直感は正しいのか? そう誤認するようにエルリックに誘導されてしまっているのではないだろうか……? そうだ。これはエルリックの計略だ。私はそんなものに騙されない。
と、そこへポーたんがひとつの情報をもたらす。召喚主である私は、こちらを揺さぶろうとするエルリックの企みを華麗に看破したというのに、私を助けるはずのポーたんは私の直感と全く同様の情報をもたらす。
エルリックが悲しんでいるから何だというのだ。あれは演技だ。小妖精はエルリックのせいで壊れてしまっている!
……
…………本当に演技なのだろうか。ポーラのあの表情によく似た顔を、かつて一度だけ見たことがある。
およそ一年前、毒壺に入って間もない中層下部に初到達した日のことを思い出す。あの日、私たちはブルーモスの群れを前にして全滅しかけた。エルリックはブルーモスを殲滅した後、命乞いをするアリステルを見て今と同じような表情をしていた。あのときも今も、ポーラの悲しむ様子から、私たちを欺こうとする“意図”を小妖精は読み取っていない。では、当時からずっと小妖精が壊れていたのか、というと、そんなことはない。毒壺という危険地帯で、私を助ける情報を幾度となくもたらした。
分からない。自分が何を信じたらいいのか分からない。
頭の中で、これまで見てきたポーラの表情がいくつも浮かんでは消えていく。記憶の中のポーラは実に表情豊かだ。ここにいる誰よりも活き活きとした顔で全てを楽しんでいる。魔物を倒しては不敵に笑い、試みに失敗してはがっくりとしょげ、私たちが食事を取るところを見ては笑い、私たちの成長を見ては喜び、ゲルドヴァのマジェスティックダイナーでは泣いていたっけ……。あのときのポーラの涙は、エルリックの涙なのだろうか。
そうだ。演技であれ、エルリックも泣くんだった。
泣き顔の次に脳裏をよぎったのは、リレンコフを発つ前に武具店の前で交わした遣り取りだった。あのときエルリックは私にこう言った。
『困ったときは、助けてほしい』と。
エルリックの本心に近づけた瞬間をひとつ挙げるとすれば、それは間違いなくこのときだ。
様々なことを考えているうちに、生贄のように身柄を要求されたことで熱く固くなっていた頭が徐々に冷静さと柔軟さを取り戻していく。
自分が何を信じるかは、最終的には自分で決めなければならない。私は自分でこう考えたではないか。私たちを恐れさせるエルリックも、本物の人間のように無邪気に振る舞うエルリックも、どちらも真実の姿なのだ、と。
そうだ。次々と生じる新しい謎に恐怖するあまり、私は自分の認知と、下した判断から目を背けてしまっていた。エルリックが邪なる存在を浄化するジバクマの薬としてはたらくか、最終的に身を滅ぼす毒に化けるか、そんなことは誰にも断言できない。しかし、私はエルリックの力を借りることを選んだ。
エルリックがその気になれば、無理矢理にでも私を連れ去る方法などいくらでもある。そのことを私たちアリステル班は誰よりも知っているではないか。人の心にグイグイ入り込んでくるくせに、肝心なところで舌足らずのこの新種のアンデッドは、『私を生贄として差し出せ』と言っているのではない。『力を貸してほしい』と言っているのだ。その新種のアンデッドが自信なくおずおずと差し出す手を、どうして私が無下に払って力になることを拒む。
「私は構いません。それがジバクマの……“仲間”のためになるのであれば、私は付いて行きます」
理解できない、といった様子でジルは頬杖をつき始めた。
「あれだけ危険性を訴えて危機感を煽っておきながらながら、なぜそんなことを言う。少尉がよくとも私はその条件を呑むことはできない」
当事者である私本人が、いい、と言っているのに、レネーは交換条件に反対する。
レネーならば反対して当然だろう。ここであっさり私を売り渡すような人間であれば、そもそも信用できる仲間と見做すことはなかった。
「本人の了承だけでは足りないようですね。では、また少し話題を変えましょう。オルシネーヴァを平らげた後、その土地は誰が管理するのでしょうか?」
エルリックは掴みどころなくフワリフワリと飛び回って私たちの目先を変え、一箇所に視点を固定させない。
エルリックの手を取ることを決めたら決めたで、今度はどんな危険な話題を引き合いにだすのか不安にさせられる。
「国ひとつ丸々寄越せ、ということか」
レネーは青筋を立ててエルリックの言葉の意味を問う。
「そうではありません。我々は国の統治などに興味はありません。ですが、統治する者は必要でしょう。それをその賢老院とやらに任せる気ですか?」
それは絶対に回避すべき致死的失敗である。
オルシネーヴァを滅ぼし、その国土をジバクマに編入すれば、今度はマディオフと大きく隣接することになる。
オルシネーヴァはマディオフと未だに友好関係にある。マディオフは隆盛を極める勢いに乗った国だ。賢老院にオルシネーヴァ領を任せてしまうと、今度はマディオフの侵攻を受けることになる。
オルシネーヴァを滅ぼしたところで、「オルシネーヴァから攻め込まれなくなる」という以上のメリットは無い。ゲダリングやリゼルカといった奪われた領土を取り返したら、それ以上はオルシネーヴァの領土に手を出さず、拮抗状態に持ち込むのが最も堅実な策である。
「賢老院に任せるつもりはない。そもそもオルシネーヴァを滅ぼすことまでは考えていなかった」
「では、こういう案はどうでしょうか。陛下には、この部屋の中以外にもきっと信頼できる部下がいることと思います。その方をエルリックに入れていただきます」
「ラムサスがダメならその腹心を取り込もうというのか?」
ポーラは首を横に振る。
「我々がオルシネーヴァを滅ぼします。そしてジバクマが我々に協力する。我々は協力の見返りにゲダリングをジバクマに差し上げる。オルシネーヴァは我々が統治する。ただ、我々は統治には興味がありませんから、実際の国家運営は陛下から紹介いただいた方に任せる。こうすると、賢老院は新しいオルシネーヴァに何も口出しができない状態となり、かつ陛下が好きなようにできますよ」
また極端な案を出してきた。それでは私たちにあまりに有利すぎる。好条件だろうと悪条件だろうと、過度なものに人は手を出しづらい。
エルリックにとってこれは極端な交換条件などではなく、そこまでするだけの価値が結界陣と私にある、ということなのだろうか。
「これから時間をかけてのらりくらりとゲルドヴァの防衛をするといたしましょう。その間に陛下には賢老院に働きかけて“条約”……我々エルリックは今のところ国家があるわけではありませんから、“声明”ですかね。それを作っていただきます。草案には、こういう条件を組み込んでもらいましょう。ゲダリング奪還に成功した場合、それと同時に獲得したオルシネーヴァの領土はエルリックに割譲する、と。我々の実力を知っているのはこの部屋にいる人間だけですから、まさかゲダリングと一緒にオルシネーヴァ一国が丸々落ちるとは誰も思わないでしょう。ゲルドヴァ防衛で苦戦を演じれば、賢老院は我々の実力をその程度のもの、ときっと判断してくれますよ」
「それはあまりに俺たちに美味すぎる話だ。美味すぎて手放しに歓迎し難い。そもそも、オルシネーヴァを落とす具体的な案はあるのか」
さっきは、独力でも滅ぼせるのではないか、と言っておきながら、その話が自分の選択肢のひとつに組み込まれようか、となった途端、実現可能性を疑う。ジルはダンジョンボスを倒すということがどれだけ難しいか私たち以上に分かっていない。
エルリックはおそらくライゼンとも張り合える。対抗馬のライゼンは敵軍をひとりで退ける力があるのだから、エルリックも可能なはずだ。
「単に国を潰すだけであれば、オルシネーヴァの兵隊と剣を交える必要などありません。戦う力のないオルシネーヴァの国民を全員アンデッドに変えるだけでいいのです。一月もかかりませんよ。アンデッドがわずかに残った生者を襲うことを除けば、ジバクマ、オルシネーヴァの双方がほとんど血を流さずに戦争は終わるでしょう」
一国の人間を丸々全てアンデッド化する。そんな卑劣な戦法を考えた人間がこれまで居ただろうか。居やしまい。アンデッド作成魔法であるアニメイトバディは闇魔法。人間の不得手な魔法だ。国中を走り回る走力、国土防衛の網の下を潜り抜ける隠密力、大量の生命を狩る広範囲殺傷力、アニメイトバディというスキルと、それを使い続けられる横溢なまでに豊富な魔力。これらが揃っているからこそ思いつく戦法だ。
思いついてもそんなことをやってはダメだ。見ろ、ジルとレネーの顔には強い拒絶の色が浮かんでいる。
「ただ……それでは勝利とは言えませんから、できればジバクマだけでなくオルシネーヴァ側の損害を最小限にしつつ降伏させたいと思います」
エルリックは過激な案をチラリと見せるとすぐに仕舞い、今度はいかにも平和そうな案を語り始めた。
「それを言うのは容易い。どうやって形にするかだ」
レネーの言うとおりだ。そんなことが実際に可能なのだろうか。
「思い出してください。戦争が始まった最大の理由を。他国にまで名を轟かす無類の強さを誇るアンデッドがいなくなったからですよ。オルシネーヴァは人間を相手にしていると思っているからジバクマに攻めてくる。オルシネーヴァはマディオフに比較的考え方が近い、アンデッド排斥思想の強い土地です。逆に考えれば、それだけアンデッドの存在を恐れているとも言えます。陛下のお力で声明を発表していただいた後に力を発揮した我々を見れば、オルシネーヴァは何と戦っているのかすぐに理解してくれるでしょう。その後、オルシネーヴァ軍がどれだけ戦意を保ち、どれほど粘り強く抵抗するかで我々の取る手段は変わってきますが、ある程度強い恐怖を刻み込んでおいたほうが終戦後の統治は楽かもしれません。それこそ先程述べた案の一部を採用し、この部屋に忍び込んだのと同じ要領でオルシネーヴァの王都に押し入り、民を千人ほどアンデッドに変える、というのも選択肢のひとつです」
ジルは頬杖をやめて口の前で手を組み、レネーは部屋の天井を仰ぎ見る。二人とも、オルシネーヴァに巻き起こる阿鼻叫喚を思い描いている。ジルは淡々と評価するだろうが、レネーは可否ではなく是非を気にしているに違いない。
「それで、エルリックの旧所有物とラムサスを手に入れたら、その後エルリックはなんとする?」
ジルは、エルリックのやり方でオルシネーヴァを現実に下せる、と判断したようだ。
方法はどうあれ、オルシネーヴァを下すことは可能として、次に大事なことがそれだ。オルシネーヴァの次はジバクマを滅ぼす、では意味がないのだ。ダニエルの生まれ変わりであれは、その可能性は大いにある。
「我々はマディオフに向かいます。かの国でかつて辛酸を舐めさせられたため、その借りを返しに行くのです。その際、ドロギスニグ少尉が必要になる、ということです」
また新しい事情が判明した。よりにもよってマディオフときた。……ダニエルはあの件に私が関わっていたことに気付いていたのだ。そうだ、気付かないほうが不自然だ。マディオフで私を見せしめに殺しでもすれば溜飲が下がるはずだ。
「十二年前の責任を、ドロギスニグ少尉ひとりに押し付けるような真似を私たちにしろ、と言うのか!?」
私の役割を即座に理解したレネーから大きめの声とともに怒気が溢れ出し、今度はポーラが押し黙る。
ポーラは形の良い眉の間に人差し指の先を押し当てて少しの間考え込む。
「皆さんは何か勘違いしているようですが、我々は皆さんを恨んではいません。今のところはね。マディオフに連れていく以上、ドロギスニグ少尉の絶対的な安全というのは保障できませんが、我々は少尉に力を貸してもらいたいだけです。肉体的にも精神的にも少尉が傷つくことなど望んでいません」
恨んでいない、という言葉を俄かには信じ難い。恨む、というのも人間的な考え方なのだろうか。
“仲間”への復讐が目的ではないならば、結界陣や私を必要とする意味が変わってくる。結界陣は当時のダニエルだからこそ、この上なく意味のある道具だったのだ。今のエルリックに必要あるか、というと、無意味ではないが、少なくとも当時ほどのありがたみは無いだろう。私がエルリックに従属する場合、今は結界陣よりも私の能力のほうが使い勝手はいいかもしれない。
「ダメだ。その言葉は信用できない。ラムサスを生贄のような形にする可能性が少しでもあるなら、俺は呑まん」
この場にいる“仲間”の中では最も非情な判断を下しそうなジルは、エルリックの要求を蹴った。
「それは毒壺に彼らを送り込んだ人の言う台詞とは思えません。直接口にしたのはリッテン少将ですがね。毒壺で彼らが一番安全でいられたのは、我々の周囲だったというのに」
ううん……それはダンジョンにいった四人しか分からないことだ。引き合いに出されても、私たちから詳しく説明されないことには納得できないだろう。
「それは“仲間”全体として判断したまでだ。毒に対応できるのはアリステルだけだからな。決してひとりに押し付けようとしたわけではないし、ましてや一年も出てこないなんてのは想定外だ」
「……それは確かに我々に責任があるところですね」
ポーラは肩で大きく息を吐き、少し間を取った。
「問題の根幹は、我々が皆さんに復讐するのではないかと思われていること。その疑心こそがあなた方の思路を閉ざし、思考の袋道に追い込んでいる。復讐……ここでは罰と言い換えましょう。罰を先に与えたら信じてもらえるかもしれませんね。どう思います、シェンク中尉?」
罰……? まさか、またあの悪夢を繰り返そうというのか。
「私は、少尉がエルリックに付いて行くことは問題ないと思いまーす。エルリックが少尉に酷いことをしなければ、ですけどねー」
事情を知らないがために私たちとエルリックの会話の意味をよく理解していないサマンダは、清々しいほど迷いなく私を売った。安否を気にする素振りを少しだけは見せたが。
「では、ヘイダ大尉はどう思いますか?」
「お、俺は少尉と離れたくないから……」
今、聞いているのは断じてそういうことではない。この、馬鹿ラシード!
無駄に話をややこしくして……。全員、今の発言は聞かなかったことにしてもらえないだろうか。
「すみません。そのことを忘れていました。ヘイダ大尉は後でもう一度意見を聞くことにして、先に中佐の考えを伺いましょう」
ラシードに調子を崩されたエルリックは、ラシードをパスしてアリステルに逃げた。
「エルリックは既に三人の師です。少尉を思いやる気持ちがある、と私は信じています」
アリステルの着眼点は、私とはまた少し違う。しかし、エルリックの意見に反対ではない、という意味では私と同じ側にいる。
これで賛成票は私とサマンダとアリステルの三票だ。反対票はジルとレネーとラシードの三票。見事に拮抗している。
「ではヘイダ大尉、質問を変えてあげましょう。ドロギスニグ少尉に会えない期間。それが何年だったら我慢できそうですか」
ぐ……いやな質問だ。これでは公認ではないか。
元から将来のことは決定しているが、それは全く話が違う。
ああ、もう! ラシード、こっちをチラチラ見るな!!
「二年……いや、一年であれば……」
「ラシード君、また質問を変えますよ。腕立て伏せがあと一回もできない、と思ってから少し体を下から支えてもらうと、大体何回くらいはできますかね?」
「うーん。四回か五回はできますね」
「皆さん聞きましたか? ヘイダ大尉は五年ならば待てるようです。彼の恋心に免じて、我々は三年以内にドロギスニグ少尉をジバクマにお返ししようと思います。さて、これならどうでしょうか、陛下、大将」
私は気付く。エルリックは最初から、用事が済んだ後、私を返すつもりだった。それを目一杯譲歩したように見せかけている。簡単に誘導に引っかかったラシードは、エルリックの“演劇”にまんまと協力させられている。エルリックの論法は無理矢理な気もするが、それらしい体裁は整っている。この際些事はどうでもいい。
これで反対なのはジルとレネーだけになった。
「毒壺にいた間に随分と仲良くなってるのな、お前ら……」
茶番を見せられたジルの顔に精神疲労の色が瞬間的に表れる。
「エルリックの問いに答える前に、聞いておかないといけないことがある。アリステルの身体を治療してくれたようだが、それはどうやったんだ? もう完治したのか? それも教えてもらわないとな」
多すぎる疑問の中で優先度の高いものにジルは言及する。
ポーラの言葉ですっかり治癒したものと私は早合点していたが、もしかしたらまだ治療が必要かもしれない。
「完治というのはありませんね。我々の編み出した……失礼、我々が用いた治療法では、ずっと薬を飲み続けなければいけません。理想的には飲み薬だけでなく回復魔法を併用するべきなのですが、魔法を使うとさすがにばれますからね。薬だけの不十分な治療をズィーカ中佐は六か月……いや、五か月近く受けて、治療は現在も続いています。薬だけでもここまで回復する、という貴重な事例ですよ」
アリステルの命がかかっているのに、エルリックは悪びれることなく治療の手抜きを語る。
「一体いつの間に私に薬を飲ませていたんです? 渡されていた水の中に入っていたんですか?」
アリステルだけが飲食していた物は何も思い当たらない。ただ、ポーラであれば水でも食器でも食事でも、何にでも薬を混ぜ込める。
「毎日皆さんが美味しい美味しいと食べてくれた食事ですよ。私を含め、全員が薬を飲んでいたんです。未知の薬であり、効果だけでなく副作用の有無も見たかったので、ね。今までのところ誰も何も訴えていませんから、副作用の発現頻度は比較的低いものと思われます」
そんなに美味しい美味しい、と言っただろうか。確かに味は調っていたが、アリステル以外の三人は苦しみながら食べていた。
「くそっ! 俺たちで人体実験をしていたわけだ!!」
ラシードの怒りは具体的にどの部分に向いているのだろう。薬が入っていることを教えられてもこの人は多分パクパク食べていたと思う。
「何度かお腹を下したのもそのせいかな……」
「シェンク中尉。それは薬の副作用ではなく、ちょっとだけ食べる量が多かったせいだと思いますよ」
ちょっとじゃない!!
溢れ出た感情により、私たち三人は一斉に叫ぶ。
「三人とも、今は夜ですから静かにしましょうね。潜入している、ということもお忘れなく」
新種のアンデッドに礼儀と潜入作法を注意される軍人三人。恐縮ものである。
私は心の声に留めるつもりが、少しだけ現実の声として漏れてしまった。それでもあの声量になってしまった、というだけのことだ。感情に任せるままに大声を上げたラシードとサマンダとは違う。きっと私の声が一番小さかった。
「薬の素材自体はいたるところで採れる普通の草です。アトレミシアとかセタリアとか、一般的な植物から作ることができます。薬効成分の合成にはそれなりに高度な変性魔法の技術が要るので、どなたかが魔法を習得するまでは我々が作りましょう。薬の合成ではなく患者に直接施す回復魔法のほうは、シェンク中尉であればすぐに覚えられるものと思います」
「その回復魔法のほうだけでなんとかならないのか?」
「残念ですが、回復魔法と薬は働きが異なります。回復魔法は即効性がありますが、どちらかというと症状を和らげるのが主な役割です。薬は根本的な原因にアプローチするのが主な役割で、効果が出るまで時間がかかります。本来であれば組み合わせが必要です。最重症者に薬だけ与えると、おそらく効き目を発揮する前に死ぬと思います。中佐の場合は軽症ないし寛解にまでもっていくことに成功していますから、回復魔法はこのまま無しでも、薬だけで治療を続けられるでしょうね」
それは、まだしばらくアリステルがエルリックから薬をもらい続けなければならない、ということを意味している。薬を合成する変性魔法は本当に難しいと聞く。私たちが習得しようと思ったら、年単位で時間がかかるかもしれない。
「そうか……。では、エルリックの求める罰、というのは何なんだ?」
「うーん、そうですね。一国の王と軍の大将が何日も起き上がれなくなっては困るでしょうしね」
やはりあれをジルとレネーにやらせるつもりだったのか。どこの世界に、交渉相手に腹筋運動を強いる馬鹿がいる。とんでもないことを考えるものだ。
「では、我々を連れて首都へ帰参するようズィーカ中佐に命じた人物を特定してもらいましょう。そのうえで、その人物があなた方の敵であったとしても処分せずに泳がせておいてください。先ほどお願いした声明が発表された後、我々が裁くことにします」
そんなことでいいのだろうか。私たちの罰にはならないような気がする。まあ、罰を与える、というのは、私たちの不安を払拭するためのある意味虚構。エルリックが言いたいのは、軍内において直接命令を下した人物ではなく、命令を考えついた側、要は首謀者を突き止め、首謀者の処分をエルリックに一任しろ、ということだ。
「法規を無視して私刑に処す我々をあなた方はかばわなければならない。我々を糾弾する者たちの意見を抑え込まなければならない。それをもってあなた方への罰とします。先に与える罰ではなく、これから動き始める事態の中どころで与える形になりますが、これでいいですね」
罰という属性など付与されずとも、首謀者探しは急務のひとつ。私の能力ですぐに突き止めてやる。
アリステルと視線を交わし互いに頷く。
「何をそこの二人で勝手に納得してるんですか。この件でドロギスニグ少尉の能力に頼って首都に残るのは禁止ですよ」
「それではその人物を特定できるか分かりません」
小妖精による調査を禁じるポーラにアリステルが反論する。後ろ暗いことをしている人間に、「お前の真のボスは誰だ?」と聞いたところで素直に話すわけがない。聞き取りに応じない相手から情報を調べるのは、特殊な能力がないことには難しい。これでは本当に罰だ。
「これは私の推測ですが、その人物は我々を首都で暴れさせようとしていた可能性が高い。しかも、かなり上位の階級や役職についていると思われる。我々はこれから直ちにゲルドヴァに向かう予定です。我々と別離して中佐と班員が首都に残った場合、その人物に謀殺されることになるかもしれません」
いきなりそんな派手な動きをしてくるだろうか。権力に乏しいとはいえ、“仲間”には軍の大将がいるのだ。いきなり私たちに軍規違反の罪状を捏造して処刑することは難しい。もしも手段が暗殺だった場合、軍規も地位も関係ないが……
「我々と一緒にゲルドヴァに行くのが一番安全だと思いますよ。声明が発表されるまでだらだらと防衛しながら、中佐の治療を行って、回復魔法と薬の合成を学んで、訓練もして、空いた時間でゲルドヴァにもいるであろう、その人物に与している者を洗い出す。それでいいじゃないですか」
ジバクマで現在、最も危険度の高い地域であるゲルドヴァに行くことが一番安全とエルリックは言う。どこまでも常識から外れている。
「……首都のネズミは私と陛下で探し出しておこう」
しばらく何も言葉を発していなかったレネーは、ジルよりも先に、エルリックの案に乗る、という旗幟を明確に表明した。何のことはない。エルリックの説得が功を奏したのではなく、私たち四人がエルリックのことを信じる様子を見て判断しただけの話だ。
「ああ、参考になるかは分かりませんが、扉の外で盗み聞きしていたのはこんな顔の人ですね」
背高が土魔法で人形を作り出す。色合いこそ土だが、顔は見事な蝋細工のように人物像をくっきりと浮かび上がらせている。
「こいつは……」
「陛下がご存じの方ですか?」
「リオンだ。ここ一年、庁内で俺の雑務を色々と手伝ってくれている、かなり有能な奴だ。こいつは俺が抱えている秘書たちにちょっかいをかけているようだから、たまたま通りすがっただけでなく、本当に内通者であれば厄介だぞ」
秘書というのは、通信用の鏡を起動したときに毎度現れる、あの侍女のような者たちのことだ。どこの世界も色仕掛けというのは横行しているらしい。
「さて、陛下は早速苦しんでいるご様子。罰としては適切なようですね。どうしても難しい、重すぎる罰と感じた際は、ゲルドヴァにいる我々にご連絡ください。ゲルドヴァ防衛の片手間にドロギスニグ少尉を連れてお手伝いに馳せ参じてあげましょう。三日もあれば首都とゲルドヴァ間は往復できますから」
都市防衛をエルリックは片手間と言い切る。殺傷力の高さが即ち防衛力の高さにはならない。慢心のあまりにゲルドヴァが失陥してしまわないことを願うばかりだ。
「では、陛下の後ろから我々はお暇しようと思います」
ポーラはジルの椅子の後ろにある窓を出口として指し示し、脱出準備のためフルルたちが荷物から背負子を取り出す。
話し足りないことや心残りが無くはないが、大筋は固まった。詰め足りない部分は向こうでバイルと相談したっていい。
各自、手早く体に背負子の紐を回して結び留める。大道芸でも見るように面白がるジルの視線と憐れむようなレネーの視線で初めて自覚したが、背負子を使って背負われる様は、人に見られるとかなり恥ずかしい。
「本当に背負われて来たんだな……」
「騎乗と仰ってください、大将」
ジルたちはそれ以上何も言わなかった。
私たちを背負ったエルリックが順番に窓から出ていく。
最後まで部屋に残ったのはシーワと、シーワに負ぶさったポーラだった。ポーラは窓から出る直前にジルとレネーに何かを喋っていたが、窓の外にいる私には何と喋ったのか聞き取ることができなかった。




