第五七話 新入生と新任客員教授の初年度
マディオフに戻っても、衛兵から密出国の咎を問い質されることはなかった。
二か月ぶりに顔を出した荒れ狂う銀閃では、上達ぶりを皆に驚かれた。ヤバイバーを相手取った際は確実な絶で応戦したが、それでもなおまともに相手をすることはできなかった。
彼と戦うにあたり、絶などというものは前提条件のただの一つに過ぎない。身体能力、剣操作の巧緻度、闘衣の技術、何もかもヤバイバーに劣っている。
ただ、絶を使いこなすことにより、闘衣戦でも確実に一合以上打ち合えるようになっていた。絶は間違いなく上を目指すための足掛かりとなることだろう。
私の変わりようが嬉しいのか、ヤバイバーは唇の端を上げてニヤリと笑っていた。いつかその笑みを歪めて見せる、と決意を胸に秘め、剣を振るった。
大学は初年度の一般教養ということもあってか思ったほど忙しくなかったため、ワーカーとしての活動にも力を入れた。学園都市に引っ越して以降、とりわけハンターとしてはほぼ活動していなかった。これを完全に解禁とした。
人助け、というより先行投資のつもりで手配師が処遇に手を焼いている依頼を何度か手掛けていたら、手配師側もこちらに便宜を図ってくれるようになった。大学の講義の合間の短時間でもこなせる仕事を回してくれたり、割のいい仕事の前情報をくれたり、といったところだ。エヴァの教えが役に立っている。
金銭的には、別に手配師の贔屓がなくてもひどく困ることはない。学園都市と王都はマディオフの中心だけあって大きな金の動く仕事がゴロゴロしている。アーチボルクの仕事とは報酬の桁が二つも三つも違う案件だって珍しくない。
そういう仕事は実力だけでなく時間も人手も必要となることが多いため、必ずしも手が出せる訳ではない。条件が許すときは、そういう大型案件に名乗りを挙げるようにした。
大型案件では一時的なパーティーを組むことが多々である。面倒臭さと引き換えに、高額報酬と横の繋がりを手に入れることができる。ハンター人脈も何かの役に立つ日がくるかもしれない。
また、ルドスクシュの精石売却時、アーチボルクの骨肉店で関わりを持ったハンスにこちらで再会した。王都で偶然見かけ、私の方から声を掛けた時、彼は怪訝な顔をしていた。
ハンスはあの当時、私の事をエヴァのおまけ程度にしか思っていなかったらしく私の事を忘れていた。エヴァと精石のことを話したら、「ああ、ああ。あの時の人ね」と分かってくれた。思い出したフリをしただけで、本当のところ、私のことは完全に忘れていたかもしれない。
ハンスのことはあまり好きになれない。ただし、人間的な好悪と仕事の能力は別である。こいつからは金の臭いがする。これも何かの縁と思い、取り留めのない雑談をしておいた。最初はそれだけだった。
その後、数回顔を合わせる中で、自然と精石を取引するようになり、話をする機会が増えた。ハンスはアーチボルクで見た時の印象通り、頭の中は女の事が大半を占めていた。女と遊ぶために仕事をしているという意味ではヤバイバーと似たようなものである。
違うのは、ハンスが妻子ある身、という点だ。本命である妻と子供はアーチボルクに住まわせ、遊び相手は王都や各都市で見繕う。器用な奴だ。
初見の印象通り商売の嗅覚を有していて、好ましいことに手配師やハンター仲間とも異なる情報網から得た耳寄り情報を色々と教えてくれる。
情報は金と似ていて、"持つ者"が独占している。そして一部の持つ者達の間だけで交換しあっている。多くの"持たざる者"は、わずかな情報を吸い出されるだけ吸い出され、持つ者達が共有している本質的な情報、金の臭いのする情報にはありつけない。
ハンスは持たざる側から、持つ側へ足を踏み入れようとする挑戦者のようだった。女好きが高じて足元を掬われないとも限らない。ハンスの野心に深入りすることは避け、浅い部分で情報交換や精石の取引をした。それだけでもかなり美味しい思いをさせてもらった。
何度断っても会う度に娼館に誘ってくることだけは面倒だ。最近の娼館には友人紹介割引でもあるのだろうか。型に嵌められるのが恐ろしいのでついて行くつもりはない。ハンスはあくまで取引相手であって、信用のおける友人とは見做せない。信用という意味ではジエンセンのほうがまだ一考に値する。
ルドスクシュの精石を落札した魔道具商のジエンセンも、これまた偶然に王都で再会した。ジエンセンにしてもハンスにしてもこの人間の多い王都で、待ち合わせもしていないのによく巡り合えたものである。
私が首を突っ込んでいる世界に限って言えば、その社会を形成する人間の数は王都全体の人口に比し極々少数。
数いるハンターの中でも、精石回収能力のあるハンターは限られる。精石取扱実績のある私と、精石が無いことには仕事が始まらない魔道具商。結局、我々は類なのだ。精石関連で我々がよく出入りする場所は限られる。ハンスにしても、ジエンセンにしても再会は必然だったのかもしれない。
ジエンセンに売った当時の精石は最終的に冷蔵庫に使われて、完成品はアーチボルクではなく王都で売却されたらしい。この街のどこかで私が関わった精石を奢られた魔道具が今日も活躍していると思うと感慨深い。
ハンスと違ってジエンセンは私の事を覚えていてくれた上、王都では最初から好意的だった。精石は大抵ハンスに卸してしまう手前、ジエンセンとは直接の取引がないにも関わらず色々とこちらを気に掛けてくれる。
彼は一度私を食事に誘ってきた。それも、なぜか当日ではなく、未来の日付を指定して、である。
私はてっきり、予約の取りにくいレストランでも抑えたのだろうか、と思っていた。それはそれで当たっていたものの、当日ではない真の理由は別にあった。
食事の際、ジエンセンは妻と娘を同席させた。これは家族自慢をされるパターンだ、と食事が運ばれてくる前から内心うんざりする中、会話は進んでいく。
ジエンセンがホストとして会話の中心となり、身内の名前、来歴、そして控え目に長所を説明する。決して過度に褒めはしない。この辺りで何を目的とした食事会なのか、何となく察してしまう。
波風を立てぬように、目立たぬように「初夏までアーチボルクでハンターをやっていました。今は、大学に通いながらワーカーとして日銭を稼いでいます」と、事実の断片だけを告げて自己紹介とする。
「ご自分で学費を捻出しているのですね。若いのに向学心に溢れていらっしゃる」
どこかで聞いたような台詞で母親が私を褒める。娘のほうは微笑を浮かべてこちらを見ている。ジエンセンファミリーの息の合った連携プレーだ。
王都で再会した後、ジエンセンは私に興味を持ち、私のことを調査し、結果、気に入った、ということだった。
なぜ私に興味を持ったのか、さっぱり理解できない。ジエンセンとの初邂逅を思い出してみても、あの時の私はエヴァの隷下のような、居ても居なくても変わらない木っ端でしかなかった。それに興味を持つとは、ジエンセンの目の付け所がよく分からない。
とにかく私は彼のお眼鏡にかない、彼は末の娘と私を引き合わるために態々、今日の食事会を設けたのだ。
末娘のターニャは未成年。数年後に徴兵から戻ってきたときに、私の大学卒業の時期が大体重なる。ジエンセンは商人だけあり、年単位で将来を見据えて行動している。
ターニャはブサイク男の代名詞、ジエンセンの血を引いているだけあって、器量はよくなかった。それでもジエンセンの自慢であろう美しい妻を母親に持つ分、ジエンセンンの顔面よりは、かなり見やすくなっている。
ターニャは成人前とは思えないほど落ち着いた会話のできる娘だった。正直、剣の同好会の部員よりも精神年齢が高いように感じた。
比較対象が悪すぎるか。同好会の部員は、剣を握っている時を除くと、部室でも飲み屋でも振る舞いが阿呆すぎる。
私としては今のところ相手が誰であろうと結婚は考えていない。ただ、ジエンセンの人間性や商人としての能力は問題無いように思われたし、一度話した限りではターニャも真面な娘だと思った。
はっきり言ってターニャに興味は無い。が、その親であるジエンセンとの関係は切らないほうがいい。そう判断し、優柔不断を絵に描いたような、脈が少しはありそうな受け答えに終始努めた。
ハンスの専門は魔道具ではない。魔道具に詳しいジエンセンと仲良くしておくに越したことはない。もしかしたらジエンセンを通じて私のペンダントの情報が流れてくることだってあるかもしれないのだから。
◇◇
「お待たせしました、アールさん」
平日の昼下がり、小走りにモニカが駆けてくる。
「そっちの講義、いつも長引くね」
取っておいた席を空け、モニカを座らせる。最近、大学で昼食を取るときは大抵モニカと一緒だ。
「文学の教授には熱い持論がありますからね。時間で区切られるようなものではないみたいです」
昼食前の講義や、その日の最終講義では、終了時間を守らない講師が担当する講義を選ばないほうがいい。モニカを見ていると強くそう思う。
食事を取る時間を削られるどころか、下手をすると昼食が取れない。夕方の講義が長引いて、同好会に参加できないなど以ての外だ。
「時間が押している。早く食べようか」
「そうですね」
私は学生食堂、いわゆる学食で買った食事の蓋を開け、モニカは持参した弁当箱を広げる。
「美味しそうな匂いですね。今日は何ですか?」
知らない。
学食のメニューは定食を頼んでおけば栄養バランスが取れている。本日の定食"その一"と"その二"を交互に頼むだけで、注文前に内容を確認していないから、何が出てくるのか分からない。
モニカと話しつつ考え事をしながら食べているため、食事の最中も何を食べているか、はっきりいって認識していない。食べ終わった直後に「今食べた昼食のメニューは?」と聞かれても、多分定食その一かその二としか答えられないだろう。
シェルドンに知られたらひどく罵倒されそうだ。私にとって食事とは、その程度のものである。
「魚っぽい匂いだけど、何だろう」
「またメニューを見なかったんですか? これ、海の魚介類じゃないでしょうか。川や湖の魚とは香りが違うと思います」
「よく分かるね」
「これくらいは誰でも分かりますよ。一口貰ってもいいですか」
「はい、どうぞ」
主菜の乗った皿をモニカの前にずいと差し出す。
「じゃあ一口貰いまーす。あっ、美味しーい」
『あっ、美味しーい』
もはやこれは定型文である。感想の一言目が、美味しい、以外だったことは一度もない。『うわっ、不っ味。とても食べられた味じゃねえ!』などと言われても、私の食欲がなくなるから、別にそのことに対して不満はない。
「もっと食べていいよ」
そう、モニカはもっと食べたほうがいい。モニカが持ってくるランチボックスは中身が質素すぎる。
野菜とパンと、乾燥した果実やナッツ類。明らかに肉類魚類が足りていない。
私はハントでいくらでも肉を食べられるが、モニカは違う。穀物よりも値の張る肉や魚を食べる機会が少ない。
「味見させてもらうだけで十分ですよ、有難うございます」
そう言って皿を返して寄越す。モニカは一口貰うのは好きでも、丸々奢られることは好きではないのだ。
東天教の信徒なのだから、寄進のバリュエーションの一つと思って受け取ってほしいところだというのに、一口だけで彼女は満足してしまう。
痩身のモニカが、朝とか夕とか、どっしりと栄養豊富な食事を取っているとは思えない。
苦学生には対外的な目を気にして昼食に一番金を使い、人に見られることのない朝や夕はほとんど食べないか、本当に粗末な物しか口にしない人達がいる。
モニカまでそんな生活を送っているとは思いたくないが、あり得ない話ではない。
「そう……。今日の講義の題材は何だったの?」
「今日はマディオフ建国前から親しまれている絵本についてでしたよ」
絵本ね。それは一般教養で取り上げるような題材だろうか。専攻で扱う内容な気がする。
絵本は子供に読み聞かせて終わり、という単純なものではない。絵本の内容や書き方一つで、この国の将来のインテリ達の思想、行動原理を大きく変える可能性がある。言語教育の側面だけでなく、内容によっては歴史学習としての側面、構成次第では芸術としての側面も多分に有している。
原著を精読するだけであれば、専攻ではなく一般教養の題材にするのも悪くないか。
「ふーん」
「アールさんのほうはどうだったんです?」
「こっちは位相がようやく終わったところ。長々と時間をかけて説明していたなあ」
「数学ですよね。私は数学が苦手なので、そんな風に言えるアールさんが羨ましいです」
私も数学は得意ではない。概念が苦手というより、同じ記号が連続して出てくるせいでゲシュタルト崩壊を起こすためだ。
脳内で論理展開している間はいいのだが、式に書き起こすとなると手間取ってしまう。
大学で専攻する魔法は、様々な分野に細分化されている。中でも基礎魔法というのは、その修得に数学的手法が絶対に必要になる。
学生の中には、魔法が一切使えないにもかかわらず、数学か物理が得意なだけで魔法専攻になる者もいる、と聞く。学問としての魔法と実際に使用する魔法は異なる、という点は、他の領域と変わらない。
「数学よりも私は魔法が使いたい」
無意識に溜め息が零れる。
「アハハ……。最初の一年は、あまり専攻の直接的な内容には触れませんからね」
違う、そうではない。魔法という学問が発展してきた歴史や、基礎的な理論は、今求めるものではない。今は最も魔法の技術が伸びる年頃なのだから、とにかく実際に行使したい。
ところが魔法を使おうと思ったら、大学が休みの日に手配師の依頼の一つでも請け負って、街から遠く離れた所まで行かないと、破壊力の大きい魔法は危なっかしくて行使できたものではない。これではアーチボルクにいたころと変わらない。
入学してから魔法専攻学生の限定サークルにも顔を出してみた。そこで行っていた活動は、全学のサークルと何ら変わりはなかった。違いは、ほぼ全員魔法が使える、ということと、親が裕福な学生が多い、ということだけだ。
内輪で固まっているから、いつ参加しても同じようなことばかり話している。彼らの中では有名なのであろう人物が誰と付き合っただの、いつ別れただの、極めてどうでもいい内容だ。
彼らは魔法を使えるとはいっても、大抵は、「何かができる」という領域に達していない。
彼らは将来的に、自身の能力で何ができるかよりも、自分の部下をどれだけ上手く使えるか、ということや、所属する集団の舵取りをするために社会情勢や人間関係に敏いことのほうが重要なのだろうから、力を持った人物の噂話に花を咲かせるのも無駄ではない。生憎と、私はそんな場所に身を投じたくない。
彼らの情報交換は、ハンターや手配師、商人達の情報交換と毛色を異にしている。
我々は情報を得た上で、手も足も動かす。彼らは言葉の上で自分の立ち位置を動かすだけで、実際は何も動いてなどいないのだ。
親達は権力を持っているし、彼らも将来は権力を持つことになるだろうから、反感を買わないように注意しつつ、なるべく距離を置いている。そういうお友達ができても私の魔法は上達しない。
「来年はイオスのゼミナールに入るんだ」
「アールさん、それはもう何度も聞きました。いい加減ちゃんとイオス教授と呼んでください」
「個人名を指すときは役職をちゃんとつけている」
ゼミは普通担当講師の名前を冠して呼ばれる。ハロルドのゼミナールなら、ハロゼミだ。ハロルド准教授ゼミ、などという、けったいな略し方はしない。イオゼミは何となく語感が悪い気がして、イオスのゼミナールないしイオスのゼミ、と呼んでいるだけだ。
「もう……。誰か聞いていても知りませんよ、ここは学食なんですからね」
「教授とは既知の間柄だ。拙いことはない」
「ご本人じゃなくて、悪い風評を広めたがる人々のことです」
魔法専攻の奴らのことか。
「ではイゼミとでも呼ぶか。響きはイオゼミよりも好ましい」
モニカは真面目だ。素行が良く、講義にきちんと出席し、講義内容に耳を傾けている。
回復魔法の才能が無いことだけが惜しまれる。人柄は親しみやすく、薬学を修めるだけでも東天教の評価を高める薬師として十分やっていけることだろう。
「本当に気を付けてくださいね」
「おっ、噂をすれば気を付けないといけない人間が来たぞ」
背後からこちらに寄ってくる数人の女性の存在をモニカに伝える。私からすれば死角だが、モニカからは正面方向にあたる。会話に気を取られているとはいえ、一般人の視線感知能力の低さには、時に驚かされる。相手は真正面にいるというのに……
「またこんなところでご飯食べてるの、アール?」
女性達の先頭に立つシルヴィア・ヒューラーが話し掛けてきた。
過剰に語尾を上げるな、耳障りだ。
「どこで食べてもいいじゃないか」
「みんなあっちの学食で食べてるよ」
シルヴィアが言う『みんな』とは魔法専攻の学生のことだ。学食も値段帯で場所がある程度分かれている。魔法専攻の学生達は高いほうの学食で食べたがる。
あちらの学食は肉や魚が多めで、調理も一手間以上かかっていて、確かに値段分は美味しい。味は良いし、値段的にも私にとってはあえて避けるほどのものではないが、客層が良くない。
あそこにいる学生達はモニカに対して愛想が悪い。専攻差別、というやつだ。
マウントの取り合いと腹の探り合いをしても何も楽しくはない。こっちの学食でモニカと他愛のない話をしながら昼食を済ませるのが一番楽だ。
「こっちの雰囲気も悪くない」
「相変わらず変わってるね。それよりさ、今週末パーティーを開くんだけどアールも来ない?」
またパーティー……。この間やったばかりではないか。私は前回出席しなかった。毎度行かないのは好ましくない。
「今週末は泊まりがけのハントもないし、参加しようかな」
「本当!? 嬉しい!」
嬉しい? なんだか雲行きがおかしい。
「じゃあ、休みの初日、王都のパストゥースホテルに来てね。開始は夜からだけど、夕方には受付を開けておくから、何時に来てもいいよ」
王都……ホテル……レセプション……。学園都市でホームパーティーをやるものだと思って早合点した。
ホテルとなると、また服を買わないといけない。何が楽しいのか、彼らは自分だけでなく他者の身なりを異様に見ているから、参加する度に服を新調する必要に迫られる。
それを知らない女性が二回続けて同じ衣装を着ていった日には、目も当てられない状況になる。それを考えれば、何かしらの理由をつけて不参加にしたほうが、よほどましである。
男同士では、女ほど同性に対して厳しい評価は下さないが、女の目があることには変わりない。
流行なんてものを分からない私は、完全に店員のいいなりになって服を買っている。おかげでワードローブが大分埋まってきた。
あんなペラペラの衣服がそんじょそこらの武具よりも高いのは信じられない。
王都、学園都市という金回りの良い土地に住んでいる今だからこそ、そういった服をポンポンと買える。これで学園都市がアーチボルクの隣にあったならば、首が回らなかったことだろう。パーティーには強制的に万年不参加だ。
そういう金のかかる集まりに全く参加しない学生も少なからずいる。そういう人種が無事卒業するには、大学在籍中、極力目立たないようにする必要がある。
私は新入生代表挨拶から始まり、既に散々注目を集めてしまっていて、その在学方式を選択できない。"持つ側"の学生達と敵対しないよう、仲間意識の範疇におかれる付き合いを維持しなければならない。非常に面倒だ。
「あなたも来たい?」
シルヴィアがモニカにも水を向ける。親切心で誘っているのではない。嫌な女だ。
「いえ、私はお勤めがありますので」
休みの夜のお勤め……。東天教の催しだろうか?
「あら、そう。残念。それからアール、イオス先生が呼んでたよ。夕方、部屋に顔を出すように、って。伝えたからね」
「分かった。ありがとう」
シルヴィアが取り巻きを引き連れて去っていく。
大学に来てもこういう女王様気取りの奴がいるとは。そういうのは徴兵前に卒業してほしい。
専攻に進んでから、ゼミの小集団に分割されればもう少し落ち着くだろうか。
「感じが悪くてごめん」
シルヴィア達が十分に遠ざかったのを確認し、モニカに謝る。
「アールさんが謝る必要はありませんよ。シルヴィアさんにも、パーティーのお誘いを掛けていただいただけですし」
「シルヴィアもさあ。教授が呼んでることを最初に話してほしいよ。本題がそれだと分かっていれば、私もパーティーへ出席の返事をせずに済んだ」
「ご友人と親交を深めるのも大切なことだと思いますよ」
「顔と名前を覚えるのは大変だし、楽しく話せる友人がいるでもないし……」
金もかかる、と言いかけたが、モニカの手前その言葉は飲み込んだ。
「アールさんはこの先大成されると私は思います。人の上に立って行く方は、パーティーが嫌い、と言っていられませんよ。苦手であれば、むしろ今のうちに克服しておいたほうが良いくらいのものです」
人の上に立つ? そういえば、東天教でも紅炎教でも、万人が平等とかいう謳い文句は無かった。モニカの信仰する東天教に至っては、優れた人間ほど重い義務を課せられる、という逆差別宗教だ。決して上に立った人間が、下の人間を足蹴にしたり踏み潰したりしてもよい、という話ではない。
それに、私が人の上に立つことなどありえない。大学を卒業した後、やることは決まっている。それら何もかもが想像以上に上手くいったとして、後に待っているのは再びのハンター生活だ。
ハンターには横の繋がりはあっても、役所や企業のように明確な上下関係は存在しない。強いハンターが幅を利かせることはあるにせよ、弱いハンターを率いたり、導いたりすることなどないのだ。
ハンターの、その先はどうだろう。ハンター業を長年ずっと続けることは難しい。年を取ったら大学で教鞭を振るうのか?
まさか。
イオスのこき使われっぷりを見て、だれが客員教授や教員になりたいと思うだろうか。新しいゼミを立ち上げる準備をしながら、講義の練習という名目で他の講師の講義の代座を務めさせられ、学校のホームルームのような教授会に顔を出し、新任教授ということで雑用を押し付けられ、試験の採点なども手伝わされ……
これで常勤教授になったら、子供のお守りの如く論文作成や卒業研究の指導をしたり、査読をしたり、企業との渉外をしたり、軍との折衝をしたり、受験や進級試験の出題作成をしたり、試験教官を担ったり合否判定意見書も書いて、たまに乗り込んでくる落第生の保護者の苦情に対応して……
研究がしたくて大学にいても、教員業務、管理業務に少しでも関わると、そこから雪だるま式に業務が増え、自分自身の研究や執筆にはリソースを割けなくなる。
これらは全て、どの教授も至極普通にやっていることだ。何も特別ではない通常業務。この通常業務こそが、私からしてみれば終わりの存在しない責め苦である。
イオスは本当にこんなことがやりたいのだろうか? ヘッドハンターに甘い話を囁かれ、半ば騙される形で今の立場に就いてしまったのではないだろうか。余計な世話だと分かっていても同情を禁じ得ない。
今日私を呼び出したのも、またなにか期限ギリギリの仕事を押し付けられたに違いない。
「アールさん、ごめんなさい。気に障りましたか……」
つい苛立ちが顔に出てしまった。
「あ……ごめんごめん。ちょっと別の考え事をしてたんだ」
「すごい怖い顔をしていましたよ。何を考えていたんですか」
「モニカの言う、この先の事を」
「もっと明るく考えてください。アールさんは健康なんですから」
健康を大切にする東天教らしい台詞だ。
「心がけるよ」
モニカが食べ終わったのを見計らい、自分の皿を片づけた。
午後の講義が終わり、私は一人、イオスの教授室を訪れた。客員教授なのに事務仕事を押し付けるためだけに与えられたイオスの自室だ。
扉を三度ノックする。
「中へどうぞ」
返事を待って扉を開けると、書類と戦うイオスの姿があった。
「また採点か」
「採点じゃない。採点を手伝ってもらったことはないだろ」
「まだ手伝うとは言ってないだろ」
イオスには借りがある。どういう内容だろうと、大学の書類作業程度を断るつもりなど毛頭ない。それなのに、つい憎まれ口を叩いてしまう。
イオスが内容を説明する前に書類に目を通して自分がすべき仕事を把握する。
「この間もそうだったが、これは教授の仕事ではなく事務の仕事だと思うがね」
案の定、イオスの業務とは直接関係ない書類仕事を押し付けられていた。
「不満を言っても仕事は終わらない。頼む、手伝ってくれ」
部屋の空いた空間に土魔法で机と椅子を作り上げる。
イオスは片付けが下手だ。私が片付けても片付けても、すぐに部屋は物で散らかる。ただし、今私が机を作り出した空間にだけは物が散らかっていない。
私はいつもこのスペースにデスクを作る。それが分かっているから、このスペースにはイオスも物を放り置いておかない。
土魔法で物を作るのも、それなりに様になってきた。
イオスの水魔法の造形精度とは比べるべくもない稚拙なものでしかないが、少なくとも天板の平さだけは我ながら見事なものだと思う。これが波打っていると書き仕事には全く不向きになる。
適度な弾力性を持たせることができると更にいい。現状、私の土魔法はそこまでの域に到達していない。
硬いのは机よりもむしろ椅子の方が問題で、長時間の作業には向いていない。可及的速やかに仕事を終わらせよう。
椅子に腰を下ろし、ペンを取り出して書類を処理していく。
「助かる」
疲れを隠せないイオスの返事を聞き流し、仕事を続ける。ハントでも聞いたことのない情けない声をイオスに出されるのだから、書類仕事は恐ろしい。
書類を捌く手を止めずに、イオスに話を振る。
「シルヴィアに伝言を頼んだんだな。彼女とは仲が良いのか?」
「ああ、あの子か。午前の私の講義に出席していてね。講義が終わると熱心に質問してくる。私の拙い講義を真剣に聞いてくれている、とてもいい子だよ」
多分シルヴィアの興味は講義内容ではなく、イオス本人に向いている。イオスと話したいがために質問を考え出しているのだ。
「質問の終わり掛けに、お前の居場所を知っているか聞いたら、昼食の時に会うと言うじゃないか。そこで言伝を頼んだんだ。いつも一緒に食事をしてるのか?」
「今日も普段も、シルヴィアと一緒に食事を取ることなどない」
「そうか。アールに何の用かと尋ねてくるから、『手伝って欲しいことがある』と言ったら、彼女が助力を申し出てくれたんだが、それは有難く断ったよ」
ほう、それは興味深い話だ。
「あとは、今週末のパーティーへも誘われた。そちらも断り、代わりにお前を誘ってあげるように頼んでおいたよ」
つまり、イオスが余計な気の利かせ方をしなければ、今頃シルヴィアがここで書類仕事を手伝っていた上、私の週末はパーティーで潰れずに済んだわけだ。
「私がパーティーを好きだとでも思っているのか」
「違ったか? アッシュは好きだったぞ」
またこれだ。私をアッシュに見立てて物事を考えることからいい加減脱却してほしい。若い頃の夫の影を自分の息子に見出す老婆か、お前は。
「私はパーティーが好きではないし、アッシュのように女受けは良くない」
「そうか? シルヴィアはお前の事が好きなのではないかと思うが……」
イオスは恋愛感情に疎すぎる。仮にシルヴィアが私に良い感情を抱いていたとしても、それは恋慕の類ではなく、所有欲や物欲と表現するほうが正しい。
自分で言うのも難だが、ハンターとしての実績をそれなりに積み、大学生としても今のところ評価が高く、周囲から将来を嘱望されている。そういう存在を、自分の言いなりになる手駒の一つとして懐に加えておきたい。そんなところだろう。
束縛に代表されるように、どれだけ純真な恋愛であっても恋人を持つという行為は、所有欲、独占欲を満たす側面を持ち合わせるものかもしれない。ただし、シルヴィアの場合は、それが側面ではなく前面ないし全面だ。
「そうだとしても、ご生憎とシルヴィアのことは顔以外好きじゃない」
そう、化粧抜きでも顔は小綺麗に整っていて悪くない。
「そうか。シルヴィアはいい子だと思うぞ」
何故イオスのような純情な奴が今まで悪い女に騙されずに生き残ってこられたのか不思議で仕方がない。
悪い女……私のことだな。もしもあの時イオスが私に靡いていれば……
よそう。過ぎたことを仮定しても意味がない。
「彼女は来年度、私のゼミナールに入ってくれるそうだ」
イオスは何でもないことのように、とんでもないことを言い出した。
「今なんて?」
「だから、シルヴィアが私のゼミナールに入るって言ったんだ」
嘘ぉ……
世界の全てが私から一気に遠ざかっていく中、未決済の書類だけは私から離れず厚みを増していく。そんな感覚を抱く。
「どうした。手が止まっているぞ」
「今日はもう帰ろうかな……」
「待て待て。それでは仕事が終わらない」
『シルヴィアに手伝ってもらうといい』という言葉が喉まで出かかり、危ういところで飲み込む。
そんなことを言った日には、まるで私は倦怠期に入ったイオスの恋人のようではないか。しかし代わりに何を言うか……
相応しい言葉も思い浮かばず、仕方なしに再び手を動かし始めるが、手元が覚束ない。誤り無く処理できているのか分かったものではない。
「そのイオスのゼミナール。選考試験はあるのか?」
「ううむ。基礎ではなく実践水魔法のナンバーを冠することになるからな。授業を成立させるためには参加する学生にも最低限度の水魔法の資質が求められる。私のゼミは必修ではないから、単位を落としても学生側はそこまで困らないかもしれないが、最初の時点で何かしらの選考試験は必要になるだろう。希望する学生の人数が多ければ、教官側としても真剣に当落を判定しなければいけなくなる」
選考試験でシルヴィアをどうやって落とすか……。彼女と一緒のゼミはいやだ。
と、その前に、私はその選考試験とやらに受かるのであろうか? 水魔法はあまり得意な属性ではない。
「私が落ちる可能性もあるわけだ」
「ははっ。氷縛魔法を使えるお前を落とすレベルの試験にしてしまったら、ゼミの人数が零人になってしまうかもしれない」
イオスは私の発言を冗談と捉えて軽く笑い飛ばす。私程度の水魔法であれば、使える学生はそんなに少なくないと思う。
けれども、水魔法を得意とする学生の全員が全員、イオスのゼミを希望することなどない。イオスが新しく構える講座よりも若いナンバーを冠する"元祖水魔法講座"があるからだ。
イオスの水魔法の実力を知っているとか、新しい物がとりわけ好き、とかでもない限り、普通は格式と伝統のある講座を選ぶ。『零人になるかも』と、イオスが考えるのも不自然ではない。
シルヴィアは、今まで私に直接危害を加えた事はない。そんな彼女を不正介入によって選考試験で落とすというのは、いくらなんでもやり過ぎである。私も後味が悪い。
ではどうやって彼女を遠ざけるべきか?
彼女が自然とイオスのゼミを希望したくなくなるように仕向ける。
……言うは易しだ。どうすれば、そんな状態になるのか、私にはやり方が思い浮かばない。
イオスの悪評を広める。……それはイオスに悪い。シルヴィアどころか、他の学生までイオスの講座を選択しなくなってしまう。噂の出処が私と知れた日には、イオスに嫌われることになる。
もっと魅力的なゼミをシルヴィアに斡旋する。これはアリかもしれない。
いつかカリナがやったように願書にイタズラして別のゼミに所属させる。これは不正介入だ。却下である。
他には……あまり良案が浮かばない。
イオスのゼミを経ても、良い就職には繋がらない、と仄めかす。これは悪評の部類だ。必修ではなく、かつ開設間もないゼミにそんなものを求める学生などいない。
あぁ。誰かいい案を私に教えてくれはしまいか。
ふと、イオスの視線が気になって顔を上げると、イオスが血走った目でこちらを見ていた。
「す、すまん。集中してやるよ……」
いつの間にか再び書類処理を放棄して呆けていた私の姿が、イオスを苛立たせていた。
気を取り直し、自分の机に目を戻して驚く。
机にはいつ誰が刻んだのか、『シルヴィアシルヴィアシルヴィアシルヴィアシルヴィア……』と、延々名前が書き連ねられているではないか。
誰って、私しか書ける人間はいない。まるで私がシルヴィアに懸想しているかのようだ。
気もそぞろだった間、手を止めていたのではなくこんな事を書いてたのか。書き込んだのが書類ではなくて机だったのがせめてもの救いだ。
イオスは先程、私の手が止まっていたことに腹を立てたのではなく、私が机に落書きして遊んでいると思って怒ったのだ。
慌てて机の天板を魔法で更新し、何も見なかった事にする。
しばらくシルヴィアの事は考えないことにしよう。少なくともこの書類の処理が終わるまでは。
今度こそ本当に気を取り直し、未来の事は忘れてうず高く重ねられた書類へと向き合うのだった。




