第五六話 釣りの到達者
ジバクマを脱出するために北上することおよそ一日。ジバクマとマディオフの国境たるグルーン川にぶつかった。
川岸に下りると、ベネンソンはあっと言う間に筏を作り上げる。往路で筏を作ったときに比べ、ずっと短時間で作成を完了した。
ベネンソンの水魔法の実力を考えれば、人間二人が乗るだけの筏を作り上げるなど造作も無いことだ。以前彼が作った筏はただの道具ではなく、思うにあれは彼の作品だったのだ。
前の筏には、そこかしこに幾何学的な紋様が刻まれ、変てこりんな氷の像が立てられ、豪奢な作りにしよう、というベネンソンの意思が見て取れた。
パドルの持ち手の部分だって、前は儀仗の剣の柄を思わせる気取った拵えになっていたが、今回渡されたパドルの持ち手の部分はのっぺりとした氷の棒である。
ベネンソンに遊び心を発揮する余裕が無いということなのだろう。別にそんなものに期待などしていなかったのに、心情が察せられて何となく物寂しい渡河になってしまう。
マディオフ側の川岸に辿り着き、崖を登る段になり、ベネンソンことイオスに先行してもらう。やはり彼は、複雑な心境なのだろう。私がイオスに登攀先行を求めた際、その理由を追及することも嫌がることもなかった。
下から眺めるイオスのクライムは、下手でもなければ取り立てて褒めるほど上手でもない、という技量だった。
イオスに続いて私も崖を登り、崖の上まで辿り着いたところで南のジバクマ側を眺める。
次にジバクマを訪れるのはいつになるだろう。オルシネーヴァがジバクマを全て飲み込むようなことがあれば、ジバクマ再訪は叶わなくなる。
ジバクマが有ろうと無かろうと、私の目的はルーヴァンからペンダントを取り返すことだ。ペンダントがオルシネーヴァにある、というのであれば、オルシネーヴァに潜入するだけだ。
ただ、残念ながら今の私の実力では達成不可能。だからこそ、早く強くならなければならない。
崖向こうへの再訪の誓いを胸に秘め、マディオフ側を振り返る。
「さて、同行者を切り離して以降、誰にも邪魔されずにここまで戻って来られたな。このまま真っ直ぐ学園都市に向かえば、日程的には余裕がある」
フヴォントの第二セーフティーゾーンで私が目標としていた、新年度開始の十日前に学園都市に帰着すること。それが現実的なものになってきた。
「おい、喋り方は元に戻せ。あと、真っ直ぐ学園都市には向かわない。アーチボルクの西北西にある洞穴に向かう」
私が立てた完璧な帰還日程をイオスは破綻させようとする。この期に及んで、まだハントし足りないとでも言うのだろうか。
「一体何用だ?」
「非常に大切な用だ。アリバイ作り、という名のな」
「アーチボルクの西北西にそんな洞穴があるなんて聞いたことがない。未発見のダンジョンか?」
「だから喋り方を戻せって。そこは未発見のダンジョンというほどのものじゃない。ただ広いだけの洞穴さ。しかし特徴的な魔物が出る。それを回収しに行く」
「街に着いたら戻す。フィールドで敬語はやめたほうがいい。冗長な言い回しはハントの妨げにしかならない。それにしても、討伐じゃなくて回収なのか?」
「アリバイ作りだからな。着けばすぐに分かるさ。今の移動速度なら、洞穴に立ち寄っても、まだまだ余裕がある。ただ、予想外への備えを考えると、ペースは落とさないほうがいいだろう」
洞穴の魔物を討伐ではなく回収してアリバイ作り? このヒントから内容を推し量ることができるものなのだろうか……。アリバイ作りというのは、一般に時間を要する作業だ。ペースを落とすどころか、むしろ上げたほうがよいように思う。
「ではペースを上げることにしよう」
「ザルな索敵をして魔物の奇襲を受けても知らんぞ」
「そういうペースの上げ方はしない」
ゲダリング急襲の翌日にドミネートしたホークは、あれ以来ずっと傀儡として引き連れている。
ホークの視点は歴代の傀儡視点の中で最良であり、今までよりもずっと高効率広範囲の索敵ができる。
私自身も荷物が減って身軽となったことだし、これから進めば進むほど見慣れた風景が広がるわけで、無理をせずともペースは自然と上がる、というものだ。
イオスの言う洞穴を目指し、我々はアーチボルクを迂回するように西へ進路を取った。
アーチボルク西に位置するダンジョンの墳墓よりも更に西側に、その洞穴はあった。
植物が見当たらず、剥き出しの岩がゴロゴロと転がる丘陵が広がっており、丘陵には至る所にぽっかりと、さほど大きくない穴が口を開けていた。穴は数あれど、人が楽に入れそうな大きさの穴は限られる。いかにも入穴に向いた穴の一つをイオスが指示し、我々はその穴に入っていく。
洞穴は長く、地下深くまで広がっている。敵対的な魔物に遭うことなく静かに中を進んで行くと、大きな地底湖が見えてきた。
「アーチボルクの近くにこんな場所があったとは知らなかった」
アーチボルクに暮らすこと約十八年。こんな洞穴の話はとんと聞いたことがなかった。
「私だけが知っている内緒の洞穴というものではない。ここはアーチボルクからそれなりに離れていて、ハンターには人気が無いだけさ。稀にハンターを見かけることもあるが、今日も誰もいないようだ」
「それで、ここでどうするんだ。湖に伝説的な魔物でも出現するのか」
「伝説的な魔物は出現しないが、美味しい魔物が出現する。ポイントが色々あるんだ。取り敢えず、今日の目標地点はもう少し奥だな」
少し浮ついた様子のイオスに導かれるままに、洞穴の奥へ奥へと進んで行く。洞穴は歪に広がり、それに合わせ、湖も綺麗な円形ではなく、歪な形状をしている。複雑な分岐で、すぐに自分の場所を見失ってしまう。
「イオスはここがどこか分かるのか?」
「分かるように昔からつけている目印がある。それに分からなくなったところで、上に抜ける穴はたくさんある。迷ってしまったら、一旦外に出てしまえばいいだけさ。水魔法で梯子を作れば洞穴からの脱出は容易だ。狙ったポイントに辿り着くのは、目印がないと私も難しい」
イオスは道すがら、手の平大のトカゲを捕まえて氷の籠に入れていく。更に、道中の石をいくつか拾っている。石はなんでもよいわけではないらしく、拾い上げては重さを確かめている。イオスが放り捨てる石が奏でる音は、どれも軽い。どうやら重い石を探していると見える。
「これなんてどうだ?」
私も一つ石を拾い上げてイオスに提示する。これはずっしり重量感がある。
「大きすぎる。親指大か、それよりほんの少し大きいくらいで十分だ」
私が提示した石はイオスが持っている石に比べて少しだけ大きい。単に重いだけではダメで、比重の大きさが大切なのだ。
回収とは、まさか珍しい石の蒐集を意味しているのだろうか。売却用? あるいは、個人的趣味?
学園都市の私の部屋に置いてきた、あの石の残骸、イオスは好きかもしれない。要らない、と言っておいたはずなのに、母がアーチボルクから送ってきたのだ。
イオスが気に入るようなら貰ってもらおう。ずっと捨て忘れて部屋の肥やしになってしまっている、あの邪魔な石を。
あ、この石はどうだろう。
イオスのお気に召しそうな石が私の視界に入り、拾ってイオスに見せたところ
「もう要らない」
と言われた。
がっかりである。好きで集めていたのではなかったようだ……
「お、ここだここだ」
トカゲ捕獲も石拾いもしなくなり、黙々と道を進むだけになること数十分。目的地到着をイオスが告げる。見回しても、そこには気になるものなど何もない。ここがイオスの目的としている"ポイント"のはずなのに、道中との違いが私には何も分からない。
「ここに何があるんだ」
「ここで釣りをするんだ。ここはいいポイントなんだぞ」
そう言うと、氷の釣り竿と氷の釣り針を作り始めた。糸だけは氷ではなく、本物の糸を荷物から取り出す。
イオスは必要な道具を何でも水魔法で作る。私もその技術を習得したい。
イオスが差し出す釣り道具を一旦辞して、私も土魔法で竿を作ろうと試みる。クレイスパイクの要領で棒状の物は出来上がったが、イオスの竿と違って曲がりがない。
イオスの竿は、まるで魚の引きで撓っているかのように自然な弧を描いている。
更には、竿の先端に糸を通す環がちょこんと設けられている。曲げはともかく、あの小さい環は一朝一夕に再現できるものではない。
何本か失敗作の竿をこさえた後、私は諦めて大人しくイオスの作った釣り道具を借りた。
「釣れても釣れなくても、三十分経ったら魔法が切れる前に針と竿は更新しよう」
イオスは今度は、氷の籠からトカゲを取り出し、身体を分割し始めた。氷の籠によって身体を冷やされたトカゲは動きが鈍く、見るからに弱っていた。
分割したトカゲの身体のパーツを、いくつもの針に餌としてセットしていく。冷やされ千切られ、最後は水の中に投げ入れられ、哀れなトカゲである。
何となく魚の食いつきが良さそうな、少しだけ動く尻尾を針にかけ、道中拾った石を錘にして糸を湖中に垂らす。
石は錘にするために拾っていたのだ。道理でそこまで数は必要ないわけである。しかも、こればっかりはイオスの水魔法で代用できない。意図を持って特殊な作成方法をしない限り、氷は基本的に水に浮く。
イオスはトカゲの足を針にかけて湖へ投入すると、同じように竿を何本もセットしていく。一人一セットではないようだ。最終的に私の前に二セット、イオスの前に四セットの竿が並び、あとはひたすら獲物がかかるのを待つことになった。
しばらく待つと糸がピクピクと動き始めた。竿に弾力が無く最初からカーブしているから、竿の撓りという形でアタリに気付くことができない。
「おい、エルキンス。アタリが来てるぞ」
誰がエルキンスだ。
イオスはまだ自意識をベネンソンから切り替えきれていない。
「よしきたイオス」
アタリにアワセるため、竿を一気に持ち上げる。横目でイオスを見ると、私の抑揚で自身の言い間違いに気付いたらしく、少しだけ恥ずかしそうにしていた。
力を込めた竿は何の抵抗も無く持ち上がり、針にはトカゲの尻尾を除いて何もかかっていなかった。
「バラしてしまったようだ」
私の一言に反応し、イオスの顔が急に不機嫌なものになる。何か失言してしまっただろうか、と思いドギマギしながら糸を再び垂らす。
「針に掛かった魚に逃げられることを『バラす』と言う。君の獲物は餌をつついていただけで、針に掛かっていなかったのだから、『バラした』のではなく『アワセ損なった』のだ。間違えないように」
未来の客員教授が、私の釣り用語の誤用を正す。そんなに不機嫌になるようなものではないはずだ。イオスが何を怒っているのか理解できない。
私がアワセ損なってから数分後、今度はイオスにアタリがきた。イオスはすぐには竿を動かさず、少しだけ待ってから竿をぐい、と持ち上げる。アワセた後は、慎重に糸を手で巻き上げていく。
仕掛けが水から上がると、そこにはウネウネと白く蠢く謎の軟体生物がいた。
「スライムか?」
「地底湖イカだ。先人の釣り人はそう言っていた。正式な名前なのかは知らない」
イオスに先の不機嫌さは無くなっており、穏やかに私の質問に答える。
イカか。焼き上げた干物を食べたことはあるが、生きているイカを見るのは初めてだ。のたうつ姿はスライムの出来損ないにしか見えない。
「洞穴に来たのは、このイカが目的なのか?」
「ああ、そうだ」
「一体このイカにどんな意味が……」
「ちょっと待っていろ」
イオスは釣り上げたイカを氷の魚籠に放り込むと、急角度で上方に伸びる分岐の奥に氷の梯子を作り、それに登って姿を隠した。
数分後、嬉しそうな顔をして戻ってきた彼は、ヤケに強く匂う黒く薄っぺらい大きな塊と一緒であった。
「これがアリバイさ」
イオスは黒い塊を拳の背で数回叩く。拳に打たれた黒い塊は、コンコンと、硬さを明瞭に表現する音を奏でる。この黒い塊、要は巨大なイカの干物だ。
「この巨大イカを釣り上げるのに私が何日この洞穴に籠ったか想像がつくか? 釣り仲間から聞いて、巨大イカがいることは分かっていたんだが、なかなか仕掛けに掛からなくてな。掛かったと思ったら――」
堰を切ったようにイオスが話し始める。今の彼の目は、新興宗教の洗礼を浴びて洗脳されてしまった人間と同種の輝きを放っている。
その後、たっぷり数時間はイオスの釣り自慢を聞かされた。アリバイ作りというのは建前で、イオスの本音は単純に、趣味の釣りに付き合う連れ合いが欲しかっただけなのではないだろうか?
彼が以前釣り上げて干しておいたイカを大量に持ち帰り、この二か月はハントの傍ら、洞穴に籠っていたことにする計画らしい。緻密さや周到さとは全く縁もゆかりもないザル過ぎる計画である。干物以外、証拠も証人もあったものではない。
こんな計画未満の思いつきのような言い訳とともに学園都市に帰っていいものだろうか。衛兵から少し取り調べを受けるだけで、忽ち誤魔化しが利かなくなる。
落胆と不安に苛まれる私にお構いなく、イオスはバンバン地底湖イカを釣り上げていく。最初の一、二時間、私は竿にアタリがくるばかりで、毎度アワセに失敗しイカを釣り上げることができず、イオスばかりが釣っていた。
失敗を十回も繰り返しているうちに少しずつコツを掴み、イオスが十杯釣り上げる間に、私も二、三杯は釣り上げられるようになっていった。
大切なのは、アタリがきたからといって慌ててアワセに走らないことだ。イカが餌に食らいついたのを竿の感覚で感じ取り、その瞬間にアワセることである。
四セットの釣り竿を前に、忙しなくイカを釣り上げるイオスと違い、私はアタリの途切れる時間が多々ある。アタリの合間を縫い、土魔法での竿作りに再挑戦する。
繰り返すうちに竿のカーブはそれなりに再現することに成功したが、糸を通す環作りは全く上手くいかなかった。細かい造形を再現するには、魔力の繊細な制御が必要であり、今の私には難易度の高い技術である。
イオスは何が楽しいのか、鼻歌を歌いながらイカを釣り上げ、アタリが途切れると釣り道具の水魔法を更新する。興が乗ってきたのか、途中から竿の真ん中に小さい氷像をつけるようになった。
氷像は、釣りには何の役にも立たないのだが、かといって邪魔というほどのものではない。像が上を向いて立つように、わざわざ竿の途中に二脚までつける念の入れようだ。
自分の釣り竿だけでなく、私の釣り竿にも氷像が、ちょこん、と立っている。この像、何をモチーフにしているのだろう。
イオス……ではない。人形はイオスとはまた違った整った容姿をしていて、イオスから涼やかさを少し引き、爽やかさとほんの少しだけ男臭さを足した外観をしている。
これはイオスの昔の相方、アッシュだ。アッシュを模した人形だ。
そこまで考えたところで、ふと思い当たる。もしかしてイオスが氷の魔術師と呼ばれる理由は、水魔法での戦闘力ではなく、こういった氷像の創作物にあるのではないだろうか。
私と自分しか見る人間がいないにも関わらず、釣り竿しかり、筏しかり、パドルしかり、氷像、紋様、拵えに拘りを見せていた。多分イオスは、人の目が有る無しを気にせずに氷で物を作っている。
そんなイオスの氷像制作の腕前を認めた人間が、「氷の魔術師」という名前を授けた。こう考えると合点がいく。
ついこの間まで国同士の争いの渦中にいたとは思えない能天気さで上機嫌に釣りを楽しむイオスを見ると、なんだか力が抜ける。趣味としての釣りは、肩肘張って行うものではなく、こうやってイオスのようにリラックスして行うものなのだろう。
餌のトカゲや釣り上げられるイカにとっては殺戮劇でも、私とイオスにとっては完全に癒しの一時である。
イカの干物を焼き上げ舌鼓を打ち、丸一日釣りを満喫して、撤収しようという折になって、私の竿に最後の反応が見られた。
いつものアタリだと思って油断して手を伸ばすと、竿が一瞬で水中に引きずりこまれそうになる。竿ごと身体を持っていかれないように、スキルを使って地面に足を吸い付け、強く踏ん張る。
「なんだ、この引きは!!」
足と腰を地にがっしりと据えて竿を強く握りしめる。スキルを使ってなお、私の身体まで持っていかれそうなほどに猛烈な牽引力が糸から伝わってくる。
これは拙い。竿が壊れるか糸が切れるかしてしまいそうだ。
「エルキンス、貸せっ!!」
興奮したイオスはまたもや私の名前を間違い、しかも今度はそのことに気付きもしないまま私の竿をふんだくるように奪い取る。そして、竿から伸びる糸を一気に凍らせ始めた。
よく見ると、糸そのものを凍らせている、というよりは、糸に沿って氷の柱を伸ばしているようだ。
氷の柱の先は水中深く、視程の届かない暗い地点まで伸びていき、次第に竿を握って地を踏みしめるイオスの身体の傾きが緩やかになり、最後には普段通りの直立に戻った。
氷の柱の先がどのようなことになっているか想像もつかないが、イオスはただ、氷の端を持つように、とだけ私に言ってきた。
「このまま引き上げるぞ」
私とイオスで、まるで綱引きでもするように、糸を支柱にした氷の柱をずるずると水上へ引き上げる。すると、その先には足を氷に絡めとられた巨大イカがいた。
その全長は我々の背丈を悠々超えている。
「おおおー、大きい。これは最長記録を更新したんじゃないか?」
「チッチッチッ、アルバート。これはまだそこまで大型じゃない。さっきの干物を見ただろ? あれは乾いた後でもあの大きさなんだぞ。干物にする前はもっと大きかったと何故分からない」
イオスはキザったらしく舌打ちしながら人差し指を左右に振る。しかも、しれっとエルキンスからアルバートに戻している。
それはどうでもいいとして、イオスは釣りになると人格が変わる……。何がイオスの癇に障るか分からない。こと釣りに関しては、迂闊な発言をしないように銘じた。
この巨大イカ、イオスだからこそ、この釣り方で釣り上げることができた。正攻法で釣ろうと思ったら相当な難儀である。まず、折れない竿と切れない糸を用意しなければならない。その上で、イカが力尽きるまで綱引きならぬ糸引きに興じることになる。筋力、持久力、時間が要求される。
苦難の末に釣り上げた巨大イカを果たしていくらで売り捌くことができるだろうか。おそらく割に合う仕事ではない。高値で売れるのであれば、ハンターか、ハンター適性の低いワーカーが殺到してもよさそうなものである。このがらんどうの洞穴を見るだけで、金銭効率は察しがつく。
イオスは釣り上げたイカをせっせと氷の台の上に並べていく。直接凍らせるのではなく、氷の台の上に並べて風に晒すことで、食感の良さを残したまま、乾物特有の味と風味を獲得し、更には日持ちする保存食になるらしい。
洞穴内は、場所によってはかなり強く風が吹いている。浸み込む雨水や、地底湖の増水に晒されないよう、作成場所選定に気を付けるだけで、あとは時間が上質の干物を作り上げてくれるのだ。
干物作りの仕込みを終えた後、その日はそのまま洞穴内で夜を明かし、翌日、持てるだけの干物を持って洞穴を出た。持っていくのはイオスが以前仕込み、長い熟成期間を経て仕上がりきっている分ばかりであり、昨日釣り上げた分は、次回以降に回収する事になった。
干物は重さよりも嵩張ることが問題だった。乾物故の固さのせいで、小さく折り畳むことができない。しかも臭いが強い。正直これを背負って森の中を歩きたくない。臭いで魔物がわんさか集まってきそうだ。
その旨を伝えたところ、「もう身を隠す必要は無い。街道に出て、舗装道を歩こう」と言われた。
街道へと向かう途中、イオスが注意してきた。
「剣を隠すのを忘れるなよ」
「何の話だ?」
「何って、ドノヴァンとかいう人間から託された剣のことだ。あれは拵えに特徴がありすぎる。見る人間が見れば、国内産ではない、と一発で分かる」
「どこにそんな剣があるって?」
「どこって、それは……」
そこまで言われてイオスはようやく私の変化に気付く。
私は既にヴィツォファリアと、ゲダリングで買った無銘剣しか持っていない。ローブの下に忍ばせてある、という雑な偽装ではなく、ドノヴァンの剣は本当に持っていない。
無銘剣のほうはマディオフに持ち込んでもそう怪しまれる作りはしていないが、一応ローブの下、他者からは見えない持ち方をしている。念を入れて今後も無銘剣の手入れは自分で行う。こちらは心配無用である。
「剣はどこかに置いてきたのか? 一体いつの間に……」
「最初からそんな剣は持っていませんよ、イオス教授」
したり顔でイオスに返事をすると、気色の悪い物でも見たような顔をされた。
「お前、敬語で喋ると違和感すごいな」
「違和感も何も、旅の前半まではずっとこの喋り方だったではありませんか」
「そのはずなんだが……もう当時の初々しいアルバートが思い出せない。会った時から呼び捨てにされていた気すらする」
会った時……。私が初めてイオスに会ったのは、セリカ時代。あの時は確かに初対面のイオスを呼び捨てにしていたような気がする。そういう意味では、イオスの回想は間違っていない。
ただ、イオスが言っているのは、アルバートの身体で、大学で偶然通りすがったときの話だ。どちらのことも遠慮なく忘れてくれて構わない。
「すごい気持ち悪いから、大学で教授と学生として接する時以外は普通に話してくれないか」
「そうさせてもらおう。我々はハンターなのだ。常語のほうが自然だ」
敬語をやめると、イオスはほっとした表情を浮かべる。自分で、敬語で話せ、と言っておきながら、そんなに嫌だったのか。
◇◇
街道に辿り着くと、後は王都まで歩くだけの簡単なことであった。
街道のなんと歩きやすい事か。魔物はよく排除されていて、戦闘が一切起こらない。足元は馬車でも通れる位に整備されている。
道行く人間の顔が、ジバクマ国民ではなくマディオフ国民の特徴を持っているのを確認するにつれ、「戻ってきた」という実感が湧いてきた。
王都に着き、イカを売り捌くと、イオスは律儀に売り上げを山分けしてきた。
そもそもが借りを返すためにイオスについていったのだから、金は必要ない、と断ったのだが、イオスとしては私がパーティーに加入した時点で貸しを返してもらったことになっているらしい。だから、ハントの収入はしっかりと分けるべきだ、という理屈である。
売り払ったイカは全てイオスが前に釣った分であり、私がしたことは半分を王都まで運搬しただけ。運搬費以上の金額を受け取ることは、私としては納得いかない。それにジバクマでは別口で多大な迷惑をかけてしまったのだ。侘び代わりに機会を改めて報いる必要がある。
エヴァにしてもイオスにしても、出会った強いハンターは、なぜか私に恩を売りたがる。
清算を済ませると、今度はイオスの知り合いという代筆屋の所へと向かった。私はちゃんと試験に合格していたし、代筆屋は仕事をこなして入学手続きも入学金の入金も済ませてくれていた。私にもシェルドン経由で代筆屋の知り合いはいるが、一応彼の顔と名前を覚えておくこととする。
礼を述べ、その場を去ろうとする折に、代筆屋が私を呼び止める。
「ちょっと待ってください、アルバートさん。あなたに伝えることがあるんでした」
ドアに伸ばした手を引き、後ろを振り返ると、代筆屋はメモ帳の頁をペラペラとめくっている。
「ああ、これだこれだ。アルバートさん、あなた、入学式で新入生代表の挨拶に指名されていますよ。トップ合格を果たした、ってことですね。さすがイオスさんの知り合いだけある。逸材というのは、自然と凄い人間の下に集まるんですよねえ」
代筆屋は自己完結して満足気に頷く。
気分良さそうにする代筆屋と違い、私はとても不愉快だ。七面倒臭い。誰かに代わってもらいたい。
なぜ私が最優秀なのだろう。共通問題が満点だったからか? あれは普通の現役生でも、少し優秀な人間であれば満点を取れるはず。
専門問題のほうはボロボロだった。私の自己採点よりは加点されていただけで、優秀な成績とは程遠い。専門問題で私よりも高得点を叩き出した受験生はいくらでもいるに違いない。
となると、実技試験の配点比率が大きかった、ということだ。周りのブースで披露していた魔法や試験官の反応を思い出す限り、そう考えるのが自然。もしあの時もっと上手く立ち回っていれば……。いや、あの時の状況判断として、私が取った行動は間違っていなかった。不合格にならないことが最優先課題だったのだから、私の魔法の"魅せ方"は間違っていない。いずれにしろ、今更考えたところで後の祭りだ。
入学に間に合ったからこそいいようなものの、これで入学式当日に私がいなかったら挨拶は誰がしたのだろう。
考え出すと、負の思考が止まらない。
卒業式とか入学式とか、こういう式典での挨拶を成績優秀者に押し付ける風潮はいつできたのだ。試験が得意だから殊勝なことを述べるとは限らない。もっとこう実技試験中に人間性を見るとか、弁の立つ者を見極めたうえで代表を選出してもらいたい。
最後の最後でケチを付けられる形になり、イオスと別れてトボトボと家路に就く。
ほぼ二か月ぶりに我が家に帰り着き、玄関の扉を開ける。見慣れた室内を歩き、少し古くなった空気を吸っても、何の感慨も無い。街道を歩いていた時のほうが、よほど懐かしさと嬉しさを味わうことができた。
考えてみれば、この家には一か月程度しか住んでいないのだった。そんな場所に帰ったところで、帰郷の喜びがあるはずもない。
荷物を片付けもせずに乱雑に投げ出してベッドに横になる。すると今度は、それまで封印していた悔しさが全身から溢れてきた。
何の悔しさか。
母から貰ったペンダントを失った悔しさに他ならない。ようやく……十八年かけて、ようやく「前」の根幹を思い出したというのに……
仕組みが分かってしまえば簡単だ。一時はループなどという下らない説を考えていた。あんなものを説の一つとして大真面目に考えるなど、愚昧としか言いようがない。
前世の私が生きていて、セリカを見つけたら死んでしまうかもしれない? 実に馬鹿馬鹿しい。
母は育児ノイローゼなどではなかった。おそらく母だけが私の事を最も正解に近い形で認識していたのだ。私ですら忘れていた「前」を含めて。
父も使用人達も、心配する振りをして結局母の事を分かってあげていなかった。信じてあげていなかった。
母はたった一人で苦しんでいたのだ。私がもたらした不幸によって……
母に会いたい。会って謝りたい。
だが、会うのは怖い。どの面を下げて会いに行けばいい。何と言って謝ればいい。たとえどれだけ美しい謝罪の言葉を紡いだところで、私の犯した罪が消えることは決してない。"思い出した"ことを告げたところで、母の人生に降り掛かった災いを確認するだけのことにしかならない。
心を侵す元凶となり、大切な贈り物を失い、そして昔の事をぶり返しに行く。私はどこまで行っても、母の人生の暗い影でしかない。
私も仕組みとなったスキルを思い出しただけ。「前」の全てを思い出したわけではない。まだまだ眠っている記憶がある。
母はその一部を知っている。しかし、「前」の記憶は母に教えてもらうのではなく、自力で思い出す必要がある。これ以上いたずらに母を苦しめてはならない。
犯した罪の中で、唯一消せるものがある。
あのペンダント。あれは必ず取り戻す。母に会うのはペンダントを取り戻してから。それが大前提だ。
まずはルーヴァンよりも強くなる必要がある。ルーヴァンに取り巻きがいても、取り巻きごと一掃できるほどに。
奴はまだ若手のように見えた。これから奴もまだ強くなる。私が奴の実力を上回るのにどれだけかかる? 五年か、十年か……。とにかく早く強くならなければならない。それまでルーヴァンがあのペンダントを手放さないことを願う他あるまい。
マディオフとオルシネーヴァの関係性がどうなっていくか、私には分からない。オルシネーヴァは条約を破って友好国のジバクマを攻撃した。今後マディオフとも敵対しないとは限らない。
二国が友好国のままであればいいが、マディオフがオルシネーヴァを滅ぼすようなことがあれば、ルーヴァンとペンダントの行方も分からなくなってしまう可能性が高い。滅ぼされなくとも、敵対関係になるとオルシネーヴァに忍び込むのに苦労することになる。
それにジバクマはどうなるのだろうか。東からは大国のゴルティアに攻められ、西からは小国ながらオルシネーヴァに攻められ、社稷の危機に瀕している。勝戦を重ねて国を大きくしてきたマディオフが、混乱に乗じてジバクマに宣戦布告しても不思議はない。どんな形となってもジェダには無事でいてほしい。
マディオフだっていつまで独立を守っていられるか分からない。情勢は常に変化している。どれだけ盛者であっても、衰退から逃れることは能わない。今日の勝者であるマディオフが、明日の敗者として呆気なく命を落とすかもしれない。
目的を達するためにも、どんな状況になっても生き残るためにも、まずは強さが必要だ。とにかく強く。
アッシュ、イオス、エヴァ、グレン、ルーヴァン……。強い奴はいくらでもいる。父ウリトラスも、この中に並べていい。
この中で一番手が届きそうなのはルーヴァンだ。ルーヴァンを倒せないようであれば、他の誰にも勝てはしない。
イオスがルーヴァンに対して使って見せた魔法は、優秀な魔法使い諸家とは別次元の強さだ。しかも、あれでもおそらく全力ではない。私はアルバートとして死ぬまでに、あれほどの高みに至ることができるのだろうか。
魔法よりは剣の方が強くなる道筋が見えやすい。この半年で闘衣への理解が一気に深まった。
エヴァやグレンが使っている闘衣は、私やルーヴァンが使っている闘衣とは明確に異なる。上手いとか強いだけでなく、違うのだ。
まだまだ習得しなければならない闘衣の技術がある。これからはグレンにいつでも会える。剣は間違いなく強くなれる。
成長の機会に乏しい時期が続いた魔法も、伸ばしていくのはこれからだ。大学に入り、すぐそばにイオスがいる。今後は研鑽の機会がある。
あとは装備だ。
ドノヴァンの剣の性能を知った今、エヴァの言葉の意味がよく理解できる。ヴィツォファリアはレプシャクラーサに置いてあった中で最も良い剣だが、今後の事を考えると最良の装備ではない。
命を預けるに足る装備を手に入れなければならない。武器も防具もだ。
金がいくらでも要る。エヴァは入店資格についても言及していた。これも調べなければならない。こちらは人脈を広げることで何とでもなるだろう。
ループ説が潰えてなお、エヴァが危険人物であることに変わりはない。エヴァは別れの日、私に説教を垂れてくれた。あれで奴の狙いは大方察しがついた。エヴァの信念の一つは、私と相性最悪。エヴァが実力行使にでても、切り抜けられるだけの実力が必要だ。力で何とかしなければならない、という点は、ループ説に基づく未来とどのみち違いはないのだ。
……剣の腕を磨き、魔法を鍛えて、金を貯めて、顔を売って、装備を揃えて。
そうしてやっとルーヴァンを倒して、ペンダントを取り戻して、母に会って……
ああ、在籍するのであれば、一応大学も卒業しておくか。元々私の中で大学の優先順位は高くなかった。ペンダントを失ってこうして羅列してみると優先順位の低さが浮き彫りになる。大学はただの足掛かりだ。卒業に拘泥する理由など存在しない。
やらなければならないことが目白押しだ。大学そのものも忙しいだろうし、この先は日々に忙殺されることになる。
やることがあるだけいい。ジバクマで仕組みを思い出したことで、私の自己同一性は一層損なわれた。今後、それが人並みに回復することはあり得ない。むしろ更に失われていくかもしれない。
急速な成長が期待できる期間というのは限られている。そんなものに悩み苦しんで現を抜かす時間など無いのだ。只管に為すべきことを為し、そこに思考を傾けるべきだ。そうすれば、解決策の存在しない悩みに振り回されなくて済む。
そこまで考えたところで、ようやく私は久方ぶりの深い眠りへと落ちていった。




