第五話 番人
鍵のかかった父の書斎。父が在宅の際に、ハエを飛ばして何度か中の様子を確かめたことがある。棚がいくつもあり、そこに本が大量に納められていた。
ハエの目では背表紙の文字ですら判読することは難しいため、何の本が納められているのかは分からない。とにかく本があるのは確実だ。本体で忍び込むことさえできれば、それが何の本か確かめられる。この低い背丈で手が届く高さの本の中に、是非とも魔法書があってほしい。
さて、どのタイミングでどうやって部屋に入るか。
父が家に帰ってきて、入浴しているタイミングなどであれば、鍵を拝借して部屋に入ることもできるかもしれない。ただ、それだとゆっくり本を読むことはできない。
その場で読まずに、子供部屋まで持っていく、という手口だとどうだろう。それだと「父が部屋に戻った時に本がなくなっていることに気付かない」という前提が必要になる。
本の数が多ければ、一冊くらい無くなっても気づかない可能性は確かにある。ただ、全巻揃ったシリーズの一冊だけ欠落させたりとか、隙間なく本が並べられているところを、間抜けにも一冊抜いたりしてぽっかり穴を空けてしまったり、というような、一見して分かる異状を作り上げるのは賢くない。
却下だ。
やはり父のいないタイミングに忍び込んでゆっくり読むのが望ましい。となると書斎のドアにかかった鍵はどうするか。私が破れる錠であればよいのだが。
ここで自分の思考がおかしいことに気づいた。
そうだ。私に錠破りができるのはおかしい。開架の書物に錠破りの方法など書き記されたものは無かった。それができる、ということは前世の私はそういうことをしていた、ということだ。錠前師だったのか、それとも賊だったのかな?
まあ、今は前世についてはどうでもいい。経緯はともかく自力で鍵を開けられる可能性があるのだ。どうやって鍵を手に入れるか、などの問題とは向き合わなくて済むならそれにこしたことはない。
開錠難度を確かめるため、まずは錠を間近でみることとする。今、私がいる一階から、父の部屋のある二階へと早速足を向ける。吹き抜けの階段を上がり二階に抜けると、左右に廊下が伸びている。左手に進めば私の子供部屋がある。右手に行くとまず母の部屋があり、母の部屋の前を通り更に廊下を進んだところに父の部屋がある。
やおら歩を進め、母の部屋の前を通り過ぎたところ、背中の後ろで母の部屋の扉が開いた。
母は私の姿を確認すると
「一体何をしているの、アルバート。鍵のかかった部屋に入ってはいけないと知っているでしょう」
と慳貪に告げた。
母の部屋より先は、普段鍵がかかった部屋しかない。だから私はエルザと遊びに母の部屋を訪れるとき以外、自分からこちら側に来たことはない。
まさか馬鹿正直に「父の部屋の錠を破るための下見に来ました」という訳にもいかないので
「ただ廊下を歩いていただけです、お母様」
と返事をする。
そもそもここは私の家だぞ。廊下を歩いているだけで怒られる謂れはないはずだ。憤りを感じつつも、実際母を納得させられる、それらしい嘘は思い浮かばない。
穴しか見当たらない私の嘘を聞いた母は、猜疑心に満ちた目、エルザが生まれる前によく私に向けていたあの目をしながら
「用も無いのに家の中をウロウロと歩き回るものではありません」
とピシャリと締めて、自室へと戻っていった。
父の部屋はもうすぐそこであり、後ろ髪を引かれる思いだったが、母に注意された手前、私はすごすごと自分の部屋へと戻った。
計画の初期の初期で躓いてしまった。失敗は次に活かす必要がある。自分の部屋で先ほどの場面を反芻する。
母はあの時、何か用事があって自室から出てきたところで偶然私を見つけたのか、と最初は考えた。だが、よく考えるとそれはおかしい。母は私に注意したあと、そのまま自分の部屋に戻った。ということは、何か別の用があって出てきたわけでなく、私の気配に気づいて部屋から出てきた、ということになる。
大分勘が鋭いようだ。流石、父が不在の間は、この家の中で最強というだけある。
次は気配遮断と静音行動を実行する必要があるようだ。はたして私の隠密行動は母に通用するであろうか? いや、隠密行動の前に思い出すべきことがある気がする。
一体何だ? 前世の記憶か? 前にもこういうことがあったような……。そうだ! エルザが生まれたばかりの頃だ。
母の部屋にいるエルザを見に行くために母の部屋を訪ねた時だ。あの時も、母はノックもしていないのに部屋から出てきた。今日もあの日も、私は別に気配遮断、静音行動は行っていない。それにしたって母の敏感さは勘が冴えているとかそういう次元ではない。気配察知のスキルがあるのかもしれない。
もし父の部屋の錠を破ろうとしているところを見られたり、部屋の中に忍び込んだ現場を押さえれてしまったらどうなるだろう。母は私に手を上げるかもしれない。親として叱るための体罰ではなく、怒りに我を忘れた場合はとんでもないことになる。
使用人たち、例えばカールが間に入ったところで母を止めることなどできはしない。立場の差云々ではなく、実力的に母のほうが強いのだから。
臆病風に吹かれた私は、錠のことはひとまず据え置き、母の様子を観察することにした。今ではハエを複数匹同時にドミネートできる。何匹かを家の中に放ち、監視の目とする。フラフラ飛んでいると、母の視界に入ったとたんに払い落とされてしまうため、飛行は最小限にして、なるべく目立たないところに羽を下してピタと止まり、純粋に視界のひとつとして活用してみた。
何日間か母を観察して分かったことには、驚くことに母はかなり私のことを観察していた。確かに今までも何度も母からの視線を背中ごしに感じたことはあった。ハエで確認したことでそれが気のせいではなかった、と判明する。
母は自室から出てくるとき、私が自分の部屋に籠っていない限り、ほぼ必ず私を視界に入れる。家の前でカールと戦っているときは、窓越しに私を眺めている。一瞥するだけでなく、結構な時間、じっと見つめている。母が私を見ているのは知っていても、特に気にしていなかったため、こんなに高頻度、長時間私を観察していたとは露とも思っていなかった。
ハエの目では、母の表情までは読み取れないので、どんな心情で私を見ているのかは分からない。案外エルザに向けるような表情を浮かべているのだろうか。私に対する興味は失ったものと思っていたのに、このような愛の形もあるのだろうか……。
母からの視線に気づいていることはおくびにも出さず、私は日々の決まった行動を繰り返しつづけた。私を観察する母をハエで観察する。なんとも妙な話だった。
一旦考えをまとめてみることにする。
当初の目的は父の書斎への侵入だ。それが思いがけず、母の動向を窺うことになってしまった。そこから判断するに、母の目と注意を逃れて父の部屋に忍び込むのは大分難しそうだ。
母は私の動向に相当気を払っている。私の犯行を目にした場合、母がどんな行動にでるか分からない。普通の母親であれば、まさか息子を死に至らしめることはないと思うが、母は精神を病んでいる。太刀打ちしようのない体格差のある現在、そんな危険を冒したくはない。
また、色々と思考を巡らすうちに、前世から引き継いだと思われる能力をいくつか思い出すことができた。
まず、錠破りだ。強固な錠と扉を破るのは難しくとも、簡単な錠であれば、ちょっとした道具を使って壊すことなく開錠することも施錠することも問題なくできる。父の部屋の錠が自分の技量で破ることができる程度の造作か、までは情報不足のため分からない。
そして気配遮断、静音行動。使用人たちには全く気付かれない程度には、上手く隠れて行動可能なことは実践して確認済みだ。ただ、家の中で唐突に気配を消すと、母の警戒度が上がって私の様子を見に来ることが分かったので、迂闊に気配遮断はしないほうがよいだろう。隠れんぼの逆のような話だ。隠れてはいけない、か。
次は視線感知。人間はもちろんとして、ある程度大きな生き物から私に向けられた視線を感づくことができる。“ある程度”とは、例えば大人の握りこぶし大のネズミなどを指す。先日、何の物音がした訳でもないが背後から視線を感じ、視線が発せられたと思われる場所をハエで見てみたら、それくらいの大きさのネズミがいたのだ。つまり、人間以外の視線でも感知できるという訳である。
分からないのは虫の視線だ。ドミネートでハエの感覚を共有しているので、自分でも分かるのだが、虫というのはそもそも視界が非常に広く、何を見ているのかよく分からない面がある。かなり大きめの油虫などが居ても、私は油虫の視線を感知することはできない。
魔物からの視線はどうなのだろうか。現世で魔物に会ったことがないため、私が魔物の視線を感知できるかどうかは分からない。書物に記された魔物の種類は、前世の記憶と特に変わりないようだし、この先成長すれば魔物に出くわす機会もあるはずだ。魔物の視線が感知可能かどうかは、早めに確認しておきたいところだ。
錠破り、気配遮断、静音行動、視線感知。これらの技能を持っていた前世。錠前師という路線は無さそうだ。他に思い浮かぶのは軍人か、賊か。現世のことではないのだから前世が犯罪者であったとしても、今の私に責任は無いはずだ。とはいえ、できれば無法者ではないほうが精神衛生上ありがたい。
回想にふけっても、まるで記憶は掘り起こすことができないため、他にどんな能力があるかは不明だ。いざ、必要な場面になると記憶は自然と湧き上がってくるから、今後人生を送る中で様々な経験をすれば、未だ目覚めぬ記憶や能力を取り戻すことができるだろう。それを繰り返していれば、自分が何者であったかは次第に明らかになるはずだ。
こうして、思わぬ番人により私の現世での初侵入は阻まれたのであった。