第四九話 ベネンソンと歩くブライヴィツ湖畔
「いつになったらジバクマに着くんですか」
季節は夏。大学や学校は、なぜこの時期長期休暇になるのか。答えは簡単である。暑いからだ。
マディオフがいかに北国とはいえ、国土南部に位置するアーチボルクの夏はそれなりに暑い。しかも、今我々が走っているのはアーチボルクから更に南である。ジバクマに到達すると更に暑い、と思うと、明るい気分ではいられない。うだるような湿気と暑さは、ゴールも見えずに走り続ける私の精神をすり減らすには十分だ。
行程そのものや到達点が変わらないにしても、区切りや目標を事前に明示されないと、人の心というのは折れやすくなる。
ジバクマに向かうことはイオスから告げられた。だがその目的は知らされていない。ジバクマのどこへ行こうとしているのかも分からない。ジバクマの地理は首都くらいしか知らない、とはいえ、目標地点が首都からどの方角にあり、所要日数がどれくらいで、と教えてもらえると、モチベーションを維持しやすい。
国境を越えて南に走り続ければ、いずれどこかの街道や街にぶつかる。そこで人に尋ねれば、自分の位置を掴むことができるだろうか。
「そろそろ国境の川が見えてくるはずだ」
「本当ですかねえ……」
肉体の、というよりは精神的な疲労のため、イオスの言葉にささくれだってしまう。
それからしばらく進むと、イオスの言う通り東西に流れる川にぶつかった。
断崖に立ち谷を見下ろす。雄大な川幅に滔々と水を湛えた淀まぬ流れがそこにはあった。
「立派な川ですね」
「水の流れが乏しいこともあるが、今年は上流側で雨が十分降ったようだな」
川上となると、ここから東の旧ゼトラケイン側だ。戦争の結果、今ではマディオフが治める領土である。
私の中では、国境を成すこのグルーン川は、半ば干上がった川、というイメージが強く、水量豊富だと違和感がある。てっきり谷底を歩いて渡れるものだと思い込んでいた。さて、この広い川を如何に越えるか。
「どうやって川を渡るんですか」
「氷の船を造る」
おお、さすが氷の魔術師。だが、渡り切る前に船が溶けて船底から浸水してくることはあるまいな。
「沈まないか心配そうだな」
「それはそうですよ。私はあなたが作る船を見たことがないんですから」
「すぐに現物が見られる」
イオスは余裕の笑みを浮かべ、崖を下るためにロープとボルトを準備し始めた。
崖を下り、川岸につくとイオスは魔法で船を造り始める。みるみるうちにブ厚い氷が形成され、縁の盛り上がった正方形の……正方形?
うん。これは船ではない。筏だ。
「船じゃないですよね?」
「不満ならば君は泳いでもいいぞ」
イオスは筏の上に乗り込む。
「乗りますけど」
私も筏に乗り込もうとしたところで、イオスが筏の外をちょいちょいと指さす。川岸を離れるまで、水に濡れて筏を押せ、と私に言っている。これだけ暑いことだ。もう行水だと思って諦めよう。
渾身の力で筏を押し出し、渡河を始めた筏の上に乗り込むと、今度はイオスからパドルを渡される。
「君はそっち側から漕いでくれ」
氷でできたパドルからグローブ越しに冷気が伝わってきて心地よい。だが、パドル漕ぎは重労働で、漕ぎ始めるとすぐに汗だくになる。掌二つ分が少しくらい冷やされたところで焼け石に水でしかなかった。
向こう岸に辿り着いても、パドルも筏も溶けて消える気配はない。
「このまま溶けることなく数回往復できそうなくらい、保ちがいいですね」
「そうだな、エルキンス」
予期しない単語が飛び出し、イオスが最後、なんと言ったのか理解するのに時間がかかる。エルキンス?
「私、ベネンソンの水魔法は一級品だと、これで理解できただろう?」
「それが私達の名前ですか?」
前置き無しにいきなり言われると何のことか分からない。エルキンスとベネンソンというのが、ここ、ジバクマでの偽名のようだ。
「ちょうどいい名前だろう?」
「どんな脈絡で出てきた名前なのか全く分かりません」
「脈絡はちゃんとあるんだな、これが」
イオス、もといベネンソンは独り言ちている。勝手に満足気に頷いて笑い、それでいて納得のいく解説をする気は無さそうだ。
「名前は分かりました。素敵な名前をありがとう、ジバクマ入りおめでとう。それで、これからどの方角へ向かうんですか?」
「西だよ。川沿いに下ってブライヴィツ湖を目指す」
湖? この時期に向かうということは……
「エゾロスパークでも見に行くんですか」
「ほぼ正解だ。だが、エゾロスパークを見るだけなら、マディオフ側からでもできることだ」
「ブライヴィツ湖の夏の風物詩であるエゾロスパークは、ジバクマ側から見るのが最も美しい、とどこかの商人が言っていた気がします。ベネンソンがミーハーなら、美しいもの見たさに犯行に及ぶ可能性はあるかと」
湖上の発光現象であるエゾロスパークを私は見たことがない。湖面直上に無数の光が舞い上がるというのは、実際どれほど素晴らしい光景なのだろう。
観測地点によって美しさが違う、ということだから、ジバクマ側のほうが、発光量が多いのかもしれない。
「おいおい、呼び捨てかい?」
「何か不都合でも? というか今の私達の関係性はどういう設定なんですか?」
「ペアを組んでいるハンターに決まっているじゃないか」
「じゃあ敬語もいらないな」
「やれやれ……。喋りやすいならそうしてくれ。私の目的はエゾロスパークを鑑賞することではない。何がエゾロスパークという現象を引き起こしているのか、それを調査する」
ハンターがそんなことを調べるものだろうか。自然現象専門の研究者の領域ではないだろうか。
「ベネンソンは妖精がエゾロスパークを引き起こしていると思っているのか」
発光現象を引き起こしている犯人は妖精だ、という説がある。文明がこれだけ進んでも、いつの時代にも妖精はいるものである。ただし、正体がある程度判明すると、妖精は妖精ではなくなる。最終的に、珍妙な魔法を使う魔物が見つかったり、純粋な自然現象だったりだ。小精霊と呼ばれるエレメントも、昔は妖精扱いされていた。
エゾロスパークは不思議なものである。毎年多くの人間がブライヴィツ湖に集まり、その現象を目撃している。それなのに、詳細が解明されていない。仮に妖精が湖に隠れていたとして、これほどの衆人環視を掻い潜れるものだろうか。掻い潜れるからこそ妖精と言えるのかもしれない。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それを調べるのだ」
「しかしどうやって? 多くの人間が見つめる湖の真ん中に筏で漕ぎ出しでもしてみろ。それこそ耳目を集める。密入国者が取るべき行動ではない」
「分かってないな、エルキンス。エゾロスパークは長年に渡り人々の目を楽しませてきたが、それが未だにどんな現象か解明されていない。なぜだと思う?」
「私に分かるはずがない。見たこともないのに」
「一流の探偵は現場に行かず事務所にいながらにして、情報提供者から得られた手がかりだけで謎を解くこともあるという。大切なのは閃きと想像力だよ」
イオ……ベネンソンは何か確信めいた推理の一つでも持っているのだろうか。そういう風に言われると、私もそれらしい説の一つでも導き出せないと情けない気がする。
「実はもう解明されているんじゃないか? 人の夢を壊さないように、観光資源を失わないように地元の人間が真実に蓋をしている、とか」
「そういう考え方もできる。その場合、エゾロスパークは自然現象や妖精の仕業などではなく、人間が意図的に起こしている線も考慮しないといけなくなる」
「ベネンソンの読みはそうではない、と」
「何者がエゾロスパークを起こしているのかは分からないが、私は結果の一部しか見ていないから全体が見えてこないのではないかと考えている」
「本質はもっと別の場所にある、と?」
「あるいは別の時間か……。エゾロスパークが綺麗に輝いて見えるのは日没後、星明りが無ければ薄闇が完全に闇に変わるくらいまでの時間帯だ。雲が無くてもエゾロスパークの眩しさで星はよく見えないがね。見物人はその時間に湖畔に殺到する。だが、朝や日中、はたまたエゾロスパークが起こる数日から一週間前に、既に前兆が出現していないか。それを見てみようと思う。エルキンスが言った、湖の真ん中に漕ぎ出す、というのも日の出前であれば人の目を避けつつ実行可能かもしれない」
ベネンソンが探偵に置き換えて喩えたのは興味深い。人の目につきやすい、分かりやすい偽の証拠を目眩ましとして仕込んでおいて、真実に繋がる証拠は全く別の場所にある、か。光が目眩まし、とはいい趣向ではないか。
「ベネンソン、仮にエゾロスパークに妖精が関わっていたとして、妖精を見つけたら捕らえるのか」
「害をなすものでなければ過度に干渉するつもりはないし、これほど広範囲に渡る発光を引き起こす妖精を捕らえようなど、人間の力を過信したおこがましい発想だ」
妖精がもし小精霊だった場合、ブラッククラスのハンターでも捕らえるどころか倒すことすら困難だ。
「確かにな。ベネンソンが狩ることに固執していないのが分かって安心したよ」
「自分の首を絞めるような拘りがあったら、今日までハンターは続けられていない」
冒険者と称賛されるハンターの言うセリフとは思えないが、得てしてそういうものなのだろう。勇気と無謀をはき違えては、至れる境地にも至れない。ベネンソンにとって、密入国は無謀ではなく、敵わない相手に無暗に手を出さないのは勇気なのだろう。
ベネンソンは徐に魔力を溜め、氷の筏に火を放った。
「ファイアボルトも使えたのか」
「私は火の魔法のほうが得意なんだ」
氷の魔術師なのに、火魔法のほうが得意? それは知らなんだ。
「なぜならベネンソンだからね」
イオスのことではなく、ベネンソンの設定の話だった。
「昔は水属性も火属性も使っていたんだ。その頃の私を二色、と呼ぶ者もいた。だが、二つを満遍なく鍛えていては到底高みには至れない、と思うようになった。水と火だと、水のほうが得意だったから、水に訓練時間と魔力のリソースを注ぐようにして、ようやっと、強くなり続ける相方の尻尾を追いかける道筋が見えてきた。相方に恥じぬ強さを身につけるために火魔法を諦めた。それだけの話だよ」
強くなるためには捨てなければならないものがある。今のイオスの話は、何でもかんでも手を伸ばしている私に対して、強い戒めを与えるものでもある。
「ここはジバクマであり、今の私はベネンソンだ。だから火魔法を使う。そう理解していてくれ」
ベネンソンは火魔法使い。エルキンスこと私も火魔法使い。火魔法が得意な魔法使いが二人。かぶってしまっている。設定魔のイオスの中では、純前衛のエルキンスに、火魔法が得意な後衛のベネンソンということになっているのだろうか。
「犯行凶器も隠蔽できたみたいだし、そろそろ行くか。エルキンスは剣が得意な前衛でいいんだろ?」
「ああ、その通りだ。将来はセーレのような剣士を目指す、新進気鋭のエルキンスだ」
二人目の精霊殺し"セーレ"か。それは上手くいくと最終的に死ぬパターンだ。ご容赦願いたい。
崖を登り、グルーン川に沿って我々は一路西へ進む。ジバクマ入りして二日目の夜、湖近くの村に辿り着いた。
エゾロスパークの始まる前ということで、泊まる宿は問題なく確保することができた。ジバクマの貨幣が平然と銭袋から出てくるあたり、ベネンソンは密入国の常習犯に違いない。私もベネンソンも村に入る前に簡易な変装をしている。そのせいで、暑さが倍増し、過ごしにくい。
宿に泊った翌朝、日の出とともにベネンソンと霧の漂う湖の観測に向かう。日がある程度昇るまでは霧が深くてよく見えなかったが、発光現象も、その前兆と思われる不審なものも見当たらなかった。
「濃霧の時間帯はともかく、視界の開けた今、湖を見ても何の変哲もない穏やかな湖だ。エゾロスパークの発生は何日後が予想されている?」
「宿の女将は早ければ数日以内、と言っていた。例年の平均でも一週間後だ。気温が高いと発生日が早くなる。今年の気温は例年並みか例年より少し暑い程度だから、数日から一週間のうちに始まる、と私は見込んでいる。つまり女将の読みや例年平均と同じ読みだ」
発生時期のずれ。自然現象らしい響きだ。人間が起こしているのなら、発生日はそう変えられるものではないはずだ。それが大規模であればあるほど、準備などの関係で日程変更は難しくなる。
合格発表を待たず、試験が終わったばかりの私をイオスが迎えに来た理由がこれだ。合格発表後に出発していたら、この時期には絶対に間に合わなかった。
……最初、イオスは合格発表後にジバクマに行く予定だった。つまり、エゾロスパークの調査は、当初の予定には無かったことである。調査が終了した後に、イオスの本当の目的が待っている。
それから数日、なんの手がかりも得られないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
一回は、筏ではなく日中に貸し出しのボートで湖上へ漕ぎ出し、水中を観察したのだが、魚がそれなりにいる、ということと、透明度はさほど高くない事くらいしか分からなかった。
ハントと違って調査というのは退屈な時間が多い。ベネンソンはエゾロスパーク調査だけでなく、野鳥を観察したり、時には湖を離れて草原のダニを採取したりして、楽しそうに過ごしている。
私としてはダニよりもむしろ魔物に分類されない普通のアリのサイズが大きくて驚いた。放熱の関係上、温暖な地域では、一般に生物は小型化する。ムシはその例に当てはまらないのかもしれない。
野鳥もマディオフでは見られない類の鳥が多く、鮮やかな羽の色合いが目を楽しませてくれる。王都やアーチボルク内で見かける鳥よりも警戒心が強く、よほど慎重に近寄らない限りドミネートの射程範囲に入る前に飛び立って逃げてしまうのが残念だった。
調査と称するにはやることが少なく、もはや休暇のように感じかけていたある日の朝、湖面に向かうと、様子が昨日までと異なる。
「何かおかしいな」
「なんの話だ?」
横にいるベネンソンは湖の変化にまだ気付いていない。少し誇らしい気分になる。
「あの辺りを見てみろ」
湖面に魔力が集まっている部分を指さす。ベネンソンは私の指し示すポイントを、目を細めて確かめる。
「うーん、何か今までと違うか? よく分からない。エルキンスは目がいいな」
私の遠方視力は一般人以上、ダナ未満だ。遠見が得意な人間達からすれば、少し目のいい一般人に過ぎない。
そんな私よりも見えていないのだから、ベネンソンの目はあまり良くないほうに分類される。生まれ持ってか、年齢のせいか……
それにしてもこの湖の変化はなんだろう。今のブライヴィツ湖は、少し王都の湖とも似ている。
王都の場合は、魔力の湧出と表現するのに相応しい様相だった。ブライヴィツ湖の場合は、湧出というより揺蕩っている?
魔力はそう濃いものではない。まるで何かの残滓のようではあるのだが、残滓と違って心なしか少しずつ増えているように見える。湖底から本当にわずかずつ湧出でもしているのだろうか?
「変は変だが、妖精の気配はしない。このまま観察を続ければ更に変化が表れるだろうか」
「私の目だと、ここから見てもよく分からない。今日もボートを借りて近くまで見に行ってみよう」
危なくはないだろうか? 量は少なくとも魔力が集まっているのだ。何が起こるか分からない。
ベネンソンの後をついてボートの貸し出し場所に行くと、番をしている男がボートを岸に引き上げていた。
「何をやっているんだ?」
ベネンソンが男に尋ねる。
「エゾロスパークがそろそろ始まる、と連絡があったんだ。しばらくボートの貸し出しは中止だ」
「湖に浮かべておくとエゾロスパークの影響でボートが沈んでしまうからか?」
「違うよ。毎年いるんだ、勝手にボートに乗るヤツが。シーズン中はボートに乗っちゃ駄目だ、って言っても聞きやしねえ。金も払わないし。勝手にボートを使われてこっちも迷惑してるのに、苦情はウチにくるからな。だからボートはしまっておかなくちゃなんねえ」
「数時間だけ借りることはできないか」
「ダメダメ。エゾロスパークが終わってからまた来てくれ。期間中、うちは貸ボート屋じゃなくてフルーツ飴屋になるからな、そっちをよろしく頼むわ」
頼み込むベネンソンに、男は全く取り合わない。
「やめておけ、ベネンソン。迷惑してるぞ」
「……そうだな。すまなかった、ご主人」
作業を続ける貸しボート屋をあとに、再び湖に視線を向ける。
ボート屋でやり取りをした十数分程度の間に、更に魔力が濃くなっている。この先、どこまで濃くなっていくのか分からない。急速離脱の難しい水上で、得体のしれない魔力に近寄るなど愚の骨頂だ。ボートが借りられずに終わって正解だ。
「どれくらいでエゾロスパークが始まるだろうか」
「おそらく今日の夜には見られるはずだ。規模は二、三日後にピークを迎える。深夜までは湖岸から観察するしかない」
この言い種、夜更けに、筏で漕ぎ出すつもりかもしれない。星明りしかない中で湖に落ちると、どうしようもなくなる。
「じゃあ精々湖岸からしっかり見ておかないとな」
ベネンソンと二人、湖岸から数時間湖面を見守る。魔力の濃化はあるところで止まり、今度は横へ横へ、と広がりを見せていく。屋内で火を灯した時に立ち上った煙が、天井にぶつかり横に広がっていく、そんな動き方だ。
生物的な動きではないように思えるし、規模が大きすぎて精霊の一体ないし一匹が引き起こせるような現象には思えない。妖精とか精霊を生物の範疇に置くことはできないから、あまり論理的な思考とは言えない。
水鳥達はあの魔力溜まりに近寄ろうとしない。危険性が分かっているから近寄らないのか、未知のものだから距離を置いているだけなのか。少し調べてみることにしよう。
ベネンソンから距離を取り、慎重に慎重を重ねてようやく鳥を一羽ドミネートに成功する。
鳥の目で湖の魔力溜まりを見てみる。この鳥の目だと、人間の目とは違って魔力が見えない。だが、魔力溜まりの部分には、強烈にイヤな感覚を抱く。傀儡の思考は読めなくとも、恐怖や食欲など、感覚、感情的なことは共有できる。
あそこは近寄ってはいけない場所だ。鳥はそう感じている。
夜、ベネンソンから筏に誘われてもきっぱりと断ろう。沈みゆく筏は私が岸から見届けてやる。暗闇の中で見える限り、な。
ベネンソンはそのまま昼食も取らずにずっと観察を続ける。空腹に耐えかねた私はベネンソンから小遣いを貰い、村の中で一人昼食を取る。昼食を食べ終え、そのまま食事処でヌルい茶を飲んで寛いでいると、客がどんどん増えていく。昨日までは見られなかった光景だ。混んできたために食事処を出ると、村外から来たと思われる人間が村内にひしめき合っている。
私達が滞在し始めてからの数日、確かに人間の数は日一日と増えていっていた。今日の増え方は、この数日とは比較にならないほどに著しい。
今朝、湖に変化が出現したばかりなのに、好事家達は、もう情報にありついて村に押しかけて来たのだ。
これだけたくさんの人間、どこから来たのやら。近くに大きい街でもあるのだろう。それも片道三、四時間で辿り着けるような距離に。
ベネンソンは、エゾロスパークのピークが数日後、というような事を言っていた。人出のピークもおそらく数日後。この村は一時的に王都の目抜き通りよりも人間で溢れかえることになる。こんなにたくさんの人間がいては、真夜中だろうと日の出前だろうと、人目を避けて隠密行動など不可能だ。
真夜中でもテントの中から湖の観察を続ける奴が必ずいる。この人目が、ベネンソンに無謀な行動を取らせない抑止力としてはたらいてくれることを願う。
夕方になると湖面の直上に淡い輝きが出現し始める。これがエゾロスパークか。
見たところ、水面直下にわずかに魔力を有する何かがあり、そこから水上に立ち上る湯気のようなものに何らかの変化が生じて発光している。この湯気のようなもの、これは瘴気の類ではなかろうか? 目に見えるということは物性瘴気ではなくて、魔性瘴気なのでは……
「ベネンソン」
「ああ、エゾロスパークが始まったようだな」
私より目の悪いベネンソンにも、この輝きは見えている。
そういえば魔盲の目にはどう映るのだろうか? やはり見えないのだろうか。
魔盲は魔法も闘衣も見えない。エゾロスパークは、魔力が関係している現象であることは一目瞭然。もし、この光が、物理的な光の全く伴わない純粋な魔法光だとするならば、魔盲がこの場を見たところで、星明りしか下りない夜の暗い湖が広がっているだけであろう。発光が見えないのであればそれこそ不便だ。見えなければいけないものが見えない。だからこそ徴兵すら呼ばれない。
それにしてもせっかくエゾロスパークが始まったというのに、ベネンソンがあまり楽しそうではない。原因が突き止められなくて拗ねているのか? あるいはボートを貸してもらえなかったのがそんなに気に障ったのか。
そうしている間にも周りにどんどん人間は増えていき、闇は深く光は眩くなっていく。暗くなることで、光の色が判別しやすくなる。少し赤みがかった光から、白い光、黄色がかった光と、色合いにも 差 異 がある。様々な色合いで輝く小さな光球が湖面の少し上方で光を放ち、明滅して消える。光球は数千、数万、あるいはそれ以上に無数にあり、全体として大きな光のうねりとなっている。エゾロスパークの輝きは闇に映え、とても幻想的な光景を作り上げて、集まった大勢の人間を魅了する。
これは確かに人間が集まるわけだ。毎年でも見たい、という人間だっていくらでもいることだろう。夏の夜にこうして輝く様は、まるで独特の花火のようだ。
花火か……。戦争の影響で、大きな打ち上げ花火は近年あまり見られなくなった。私が幼い頃は毎年やっていたものだ。幼い頃といっても、現世ではないな。セリカの子供時代の記憶だろう。
セリカは今生きているとして、何歳なのだろうか。ベネンソンもといイオスの話から推定するにおそらく四十前後。そのセリカが子供の頃であれば、マディオフとゼトラケインの戦争が始まる前だから、打ち上げ花火の記憶があってもおかしくない。
花火は見た目が美しく、人々を楽しませる一方、その影で犯罪が大量に発生するものだ。治安維持によほど力を入れないと、毎年大規模な打ち上げを行うのは難しい。戦争中に実施するなど以ての外だ。
「ベネンソン。エゾロスパークの期間中、傷害を負ったり、亡くなったりする者がいるかどうか知っているか?」
「一種の祭りみたいなものだからな。酔っ払いが喧嘩したり、湖に飛び込んで溺れたりとか、そういうのは珍しくない」
溺死か。酔っていなくても着衣のままだと溺れても不思議はない。
こういう時期に湖で死ぬ奴がいてもそう真剣に死体検分なんてしないだろうから、報告に上がっている死因を確認したところで瘴気の影響があったかどうかの参考にはならない。溺死扱いになっている死亡者数くらいは確認しても損はないかもしれない。死の真相を調べるためには、今年の死者を解剖するのが確実だ。
……
ベネンソンよりも私のほうが真面目にエゾロスパークの謎を解こうとしていないだろうか。ベネンソンは朝から口数が減って自分の考えをあまり言わない。何を考えているのか分からない。難しい顔などして、頭の中に無数の想定を広げているのか、単に機嫌が悪いだけなのか。話し掛けには普通に答えてくれるから、機嫌は悪くないと思うのだが。
湖の謎を私が解く、というのも一見楽しそうではある。ただし、真相次第では、解いてしまうと住民に恨まれる可能性がある。
死者は湖に飛び込んで溺れたのではなく、謎を解明しそうになってしまい、それを嫌った犯人に殺されて、溺死を装い湖に投げ込まれただけかもしれない。のめり込んではならない。
謎を解いたところでメリットなど無い。あれが本物の瘴気だったとしても、こうして見物客が離れて鑑賞する分には、愚か者が毎年数人死ぬだけのことでしかなく、社会になんら悪影響を及ぼさない。
ああ、そうだ。ベネンソンが湖に沈んでしまった日には、マディオフまで帰るのが大変だ。私一人ではグルーン川の渡河が難しい。もしもベネンソンが、周囲を気にせずに筏で漕ぎ出そうとしたら、止めてやることにしよう。
「ふう」
ベネンソンは表情を緩め、軽く息を吐きだした。
「そろそろ宿に戻ろうか」
「賛成だ」
朝から飽きることなく長時間湖を観察し続けたベネンソンが、やっと切り上げる気になってくれた。ベネンソンの気が変わらないうちに戻らなければならない。ベネンソンを率い、私はいそいそと宿へ戻る。
宿の二人部屋に入ったところでベネンソンに首尾を確認する。
「もっと夜遅くまでエゾロスパークを見たがるかと思っていたが、案外あっさり満足したじゃないか。何か新しいことは分かったか?」
「あの状態のエゾロスパークはもう何度も見たんだよ。心に訴えかけてくるような素晴らしい輝きではあっても、原因究明には繋がらない。ああまで人がいては、何ができるでもない。あそこに居続けたところで、観察というよりも鑑賞して終わりさ」
「さっき『深夜までは』と言ったな。まさか深夜、未明に行動を起こすつもりじゃないだろうな」
ベネンソンはこちらに横目を流し、悪そうにニヤリと笑う。
「やめておく。エルキンスはかなり強く反対のご様子だからな」
全く諦めている顔には見えない。言葉とは裏腹に、私が寝入った隙に部屋を抜け出すことを企んではいないだろうか。
「そうか。ならば安心した。時刻もちょうどいい頃合いだし、もう寝よう」
ベネンソンは文句を言うこともなく床に就いた。
夜中、深い眠りには落ちないように注意して、浅い眠りから覚めるごとにベネンソンの床を確認する。ベネンソンはゆっくりと休んでいて、特に怪しい素振りを見せることはなかった。
日の出の少し前にベネンソンは目を覚ます。ベネンソンが動き出す音につられ、私も起床する。目覚めの時間は、ここ数日と同じだ。
「よし、では例によって湖に向かうぞ」
「ああ」
湖岸に着き、エゾロスパークが起こっていた地点を観察する。昨夜の光は完全に消失しているが、湖面には今も魔力が漂っている。この光景は昨日と同様である。
空が白みつつある中見てみても、やはり魔力は水上ではなく水面下にある。昨夜見られた瘴気のようなものは、今は立ち上っていない。時間的な規則性があるのだ。
深夜から夕方までの時間は、魔法で言うところの溜めの時間。水面下に魔力が溜まる。そして夕方から深夜までの時間が、魔法発動の時間だ。魔法は瘴気や湯気が如く水上に立ち上り、発光現象を起こすに至る。
魔力が溜まっているのは分かったが、問題は何が魔力の源となっているかだ。湖そのものであればパワースポット、力の場など、場所によって様々な呼称を持つ魔力の湧出点の一つということでいいだろう。
妖精や魔物だった場合はどうだろうか。ここでは仮に湖に住むナマズが原因だとしよう。そのナマズを釣って、マディオフに連れ帰った時にマディオフでエゾロスパークが見られるだろうか。多分見られない。
生物が引き起こしている場合、環境が変わると全く再現不可能なことが多い。キノコと同じだ。育つ環境が変わると毒や薬としての有効成分が作られなくなる。もし、雌雄対になる生物が繁殖行動の一環として行っているのであれば、パートナーとなりうる相手が周りにいないと、それ以外の環境をいくら整えても無意味になる。ナマズであれば、雄雌両方を連れて帰って初めてスタート地点に立てる。
「さて、どうするベネンソン。湖面のコンディションは昨日と同等。この時間でも一人二人では済まない人間が湖面を見張っている」
ベネンソンは周囲を見回す。私達の声が届く距離には誰もいない。少し離れたところにいる人間は、散歩していたり、湖を見ていたり、と思い思いに行動している。これでベネンソンが湖に筏を浮かべれば、彼らはすぐにそれを見つけて騒ぎ出し、あっと言う間に人が集まってくるだろう。
「エルキンスは昨日、湖の雰囲気の違いに気付いていたな。具体的に一昨日までと何が違ったんだ?」
「何って、湖面に魔力が溜まっていただけだ」
「観測手と同じ手法か。私では分からないわけだ」
「観測手?」
今も湖岸から湖を観察している人間の事……ではおそらくないのだろう。
「この時期になると観測手が湖を毎日数回チェックしていて、エゾロスパークの前兆が見られたら、『今日からエゾロスパークが始まります』と予報を流すのさ。予報は巡り巡ってジバクマ、オルシネーヴァ、マディオフの三国に広がる。見物客の大半は、予報を聞いて集まってくる」
「よく知っているな」
「それなりに金をかけたんだ。観測手がいるのは間違いない。会ったことはないし、観測手法については私の推測でしかないが、多分エルキンスがやったのと同じように魔法を使ったのだろう」
手法、といっても見えたままを喋っただけである。ベネンソンは私が魔法を使ったと思っているらしい。
そういえばエヴァのような実力者ですら、私が見えているものと同じものが見えていたわけではなかった。精石の扱いを思い出せば分かる。エヴァもシェルドンも精石を見つけるのに苦労していた。あんなに分かりやすいのに……
彼らが鈍いのではなく、私のほうが鋭いのか? そういえば、魔眼などというものもあったな。その観点で考えてみれば私のあの魔法は……
だが、魔眼は血脈以外では確認されていない。父や母が魔眼を持っているという話は聞いたことがない。
父ウリトラスの能力は、「誰も扱えない強力かつ危険なファイアーボールの使い方ができる」ということくらいしか知らない。これも父本人から聞いたのではなく、徴兵同期の雑談を通して知ったことである。実は魔眼持ち、なんて事もあるのだろうか。
父の身体に魔眼が発現していなくても、隔世遺伝というものがある。しかし、どうにも虫が良すぎる。
現代において、魔眼は希少である。探したところで到底見つけられるものではないし、自分が持っている確率というのも相当低い。
では魔眼ではなくてスキルだろうか。遠方視が先天的な視力とスキルによって驚異的な能力になるように、私が「見える」のも何らかのスキルの影響によるものなのかもしれない。
精石や霊石については、常時発動しているタイプのパッシブスキルが存在すれば説明が可能だ。では、前世において鉱山で働いていたか、鉱物商や山師だったか、というと石の知識があまりに欠けている。訓練によって身につけたスキル、というには知識とのバランスが取れていない。
是非、父に会って、直接確かめてみたいところだ。私が次に家に行くのはいつの日だろうか。きっと相当先の話だ。しかも、前もって父が帰ってくる日を聞いておかずにフラリと家に立ち寄ったところで、父に会える可能性は限りなく低い。
何となく、で家に帰った日には、何を聞くべきだったか、などおそらく忘れてしまっているし、父も家にはいない。
いや、忘れていなかったとしても聞かないほうがいいかもしれない。ループではなく転生で確定と思いたいが、魔眼の話を切り出した途端に両親と私の関係が悪化しやしないか、つい考えてしまう。
イオスとのやり取りによって、ループ説はほぼ潰えている。それでも父と対立していた記憶が気にかかる。今、ウリトラスと対立してしまうと拙い。父は強い。今の私では勝ち目がない。こんな形で危ない橋を渡る必要はない。
それにしても、その観測手というのが使っているのはおそらく情報魔法だな。情報魔法というのは軍でしか使っていないものと考えていた。こんな何でもないところで使っているとは、魔法使いは思ったよりも身近、ありふれた日常の中にも潜んでいるものらしい。気を付けなければ。
「この二日で分かったのは、魔力の源はこうして湖岸から眺めていても皆目見当がつかない、ということだけだ。そして、魔力が発生する前に湖上に行き、船上から水中を観察したところで、やはり何も分からない。正式な許可が無ければこれ以上は難しい」
「ではそろそろ帰ることも考えたほうがいいんじゃないか。期日も近い」
「ふむ……。そうだな。では早速、今朝からでもこの村を出ようか」
ベネンソンは簡単に白旗を上げた。エゾロスパークが始まった事は、ベネンソンにとって敗戦の報にも等しかったのかもしれない。発光現象が始まる前までが勝負だったのだ。
私達は宿に戻り荷物をまとめ、村を後にした。




