第三話 家族の誕生
私が二歳になる少し前に、ネイゲル家に二人目の子供が生まれた。それは突然のことであった。
ある日、ふと
「そういえばここ一週間くらい母の姿を目にしていないような気がするな」
と思った矢先、生まれたばかりの赤子を連れた母親が家に戻ってきた。
そもそも私は母が大きいお腹を抱えていたことにすら気づいていなかった。思い返してみると、最近の母は妊婦服を着ていたような気もするのだが、確信はない。興味を持って目を向けないことには、ここまで観察力が落ち込むとは驚きであった。もちろん、私の育児がナタリー任せな状況ゆえに、私が母を見かける回数自体がそこまで多くはなかった、ということも影響しているとは思われる。
出産からそう日が経っていないであろう母の顔は憔悴し、眼の周りが落ち窪んでいた。ギラギラと怪しく輝く瞳でしきりに周囲を警戒する様子は、さながら子犬を産んだばかりの野良犬のようであった。それでも時折、娘を慈しむような表情を見せたことは、私の心をひどく傷つけた。
私の中での母キーラという人物は、子供に対する愛など持っていない存在であったのだ。私以外の子供に母性を示すキーラを俄かには受け入れられようはずがなかった。前世の記憶を有し、現世の母に別段興味を持っていなかった私でさえこれだけ傷ついたのだから、これでもし純粋な精神年齢二歳弱の幼子であれば、一体どれだけ辛い思いをしたことであろう。
使用人達は、ちゃんと"母親"になっているキーラの姿に一定の安堵を示しつつも、ナタリー以外の二人は、いずれまた彼女が我が子への愛情を失うのではないか、と不安を隠しきれずにいた。
腫れ物に触れるようにおっかなびっくり出産祝いを述べる使用人二人の様子は、まるで演技の素人が台詞を棒読みしているような滑稽さと不愉快さがあった。
使用人達だけでなく、父もまた普段と様子が違った。たまにしか家にいないはずの父が母の帰宅に付き添って帰ってきたかと思うと、数日間家に留まり母を気にかけていた。
流石に一週間と経たないうちに軍の仕事へと戻っていったが、今度は父と入れ替わるように警備員が一人家の前に常駐するようになった。新しく我が家に召し抱えたらしい。
家を挙げた篤い妹への保護体制も、私は面白くなかった。もちろん、この保護体制の真意は、妹よりもむしろ母の精神を少しでも守るためのものであることは理性では分かる。しかし、感情というのは必ずしも理性に一致しないのである。
母が赤子と一緒に家に戻ってきてから一週間ほど経ったころ、私は"兄"という大義名分を盾に、両手に抱えきれない嫉妬心を携えて、母親の部屋を訪ねることにした。
ナタリーの手を借りずとも、今では部屋の中の子供テーブルを駆使することで、自分の部屋のドアノブくらいは開けられる。自分の部屋を出れば、母の部屋は廊下の向こう、同じ階にある。
母の部屋を守る扉の前に立つと、ノックもしないうちに不意に扉が開き、母が顔を覗かせた。
母は私の姿を確認すると、顔に嫌悪感を浮かべ、黙ってその場に立ち尽くした。雰囲気から言って、私には部屋に入って欲しくないようだ。かといって、母は入室を明確に禁止する言葉を発することもなかった。自分の足で歩けるようになって以降、私の行動半径は徐々に広がっていったが、これまで母の部屋など訪ねたことは無かったのだ。一言で表すならば、母は戸惑っているようだった。
私の扱いを決めかねる母の許可など待たず、私は母の足元をすり抜け、寝かしつけられた妹を目指して駆け出した。
母は私を制止しようと手を伸ばしてきた。
甘い。こんなこともあろうかと、前もって身体能力強化の魔法を、今可能な目一杯までかけてある。そうでなくても二歳児はかなりのすばしっこさがある、と自負している。出産でお疲れの母親の、迷いある手などに捕まったりはしない。
低い揺り籠に寝かしつけられていたおかげで、誰かに抱きかかえてもらわずとも妹の顔を見ることができた。嫉妬というよりはもはや憎さ八割、興味二割で実物を見に来たわけだけれど、眠りこけるへちゃむくれた顔は意外にも可愛らしいと思えた。
簡単に壊れてしまいそうな儚げで小さい赤子の手に指を伸ばすと、目も空いていないのに赤子は私の指をぎゅっと握りしめた。普段私を抱き上げるナタリーの手よりも赤子の手は温かいものであった。それまで抱いていた憎しみはたちまち霧散し、守るべき妹エルザという、新しい家族が私の心にすとんと落ち着いた。
嬉しくなった私は
「可愛いね、お母さま」
と私の背後に佇む母を振り向いて話しかけた。
母は何を言うでも無く、またも黙って立っていた。見上げた母の顔には曖昧な笑みが浮かんでいた。母の笑った顔を見たのは、これが初めてのことであったように思う。
その笑顔は綯交ぜの感情を含むもののように見えた。それでも、その笑顔が『私ただ一人に向けられたものであったらよかったのに』と、兄としてあるまじきことを一瞬考えてしまった。
そんなやりとりをこなしつつ、妹は何事もなく家の皆に受け入れられた。
私はナタリーの手を大きく煩わせるということは無かったため、彼女の手はエルザをあやすほうに差し向けられることが多くなった。ナタリーは絶妙なさじ加減で母の育児に介入し、母を手助けした。
そもそもナタリーはここに雇われる前、実家で何人も弟の面倒を見ていたという。母乳の問題を除けば、エルザの育児はナタリー一人で問題なくできたと思われる。ナタリーにとって問題は育児の内容一つ一つではなく、「過度な介入にならないか、母が疲弊しないか」というバランスに気を配ることであった。
適度に休みがとれたおかげか、母は私の時のように育児放棄することなく、二人三脚でエルザの子育てを続けていった。母には笑顔が増え、家の雰囲気はエルザが生まれる前に比べずっと和やかなものとなった。