第八六話 イオスの憂鬱 七 呪いへの道程 九
魔道具の眩い煌めきが戦場を照らす。
エルザの合成魔法はもとより、ツェザリの聖魔法ですら霞む、絢爛たる聖波動だ。
聖なる光に蝕まれぬ生命ある肉体持ちのイオスではあるが、それでも威福を擅にする大きな力の前で手が止まり、息を呑む。
聖光に支配された世界でバティンが身体を灼かれる。エルザの合成魔法に耐えきったバティンであっても、この圧倒的な聖光の前では為す術なし。
バティンの傍らでは老剣士もまた浄罪の光に身を灼かれ、縮こまって動かなくなっている。
老剣士は討伐隊の窮地を救ってくれた。できることなら老剣士を助けてやりたいとイオスは思う。だが、悲しいかな、イオスは彼を助ける術を持ち合わせていない。
この聖光下では、死闘を繰り広げたアンデッドたちの最期を見届ける程度しかできぬと悟ったイオスは手を下ろしかける。しかし、途中ではたと思い出す。
戦っていたのはイオスと老剣士だけではない。イオスたちの真横では、もうひとつ大きな戦いが勃発していた。
イオスを挟んで光のおよそ反対地点に目をやると、そこでは既に新たな動きが生じていた。
聖光に染め上げられた世界へ滲み出るようにして広がりを見せる邪悪な力、思ったままを言葉にするならば、それは影の萌芽だった。
ただし、それは影にして影に非ず。真の影ならば光から逃げるがごとく光の反対方向へ伸びるのが世界の原則だ。
ところが、その影はまるで聖光に抗うかのように増大し、全方向へ歪に膨らんでいく。
聖光と対極をなす冥い闇の力。
瘴気である。
ヒトは初めて目にするものに即応できない。生命を冒し、飲み込む影に軍人たちは即座に対応できない。
討伐隊の中で最も瘴気対応に慣れている者をひとり挙げるならばツェザリに決まっている。しかし、ツェザリはおそらく戦闘不能でやはり瘴気対応は期待できない。つまり、まがりなりにも瘴気対応経験のあるイオスが率先して動かないと、討伐隊の瘴気対応開始はどんどん遅れる。
とはいえ、イオスも瘴気発生は予想していなかった。完全なる予想外の出来事にイオスは応手を悩む。
瘴気が生じたのは実行部隊と本隊がリリーバーと戦っていた地点の中心だ。そこに瘴気が発生したならば、瘴気を放っているのはリリーバーの構成員の誰かなのだろう。
極限まで加速された思考でイオスはすぐにそこまで考えられた。しかし、肝心なのはそこから先なのだが、いくら考えても絶妙な応手はまるで思い浮かばない。
手を出せないなら、せめて口を出す。
闘衣で身を守れ、とイオスは叫ぼうとするが、イオスの呼びかけよりも早く動きだす者がいた。エルザである。
エルザの代名詞とも呼ぶべき火炎放射が瘴気の中心点に向かって伸びる。魔道具の聖光下ではかなり判別しにくくはあるが、どうやらこれも聖属性を帯びた合成魔法のようだ。
対バティン戦、初めの方でエルザが撃っていた魔法と比べると、この火炎放射は威力や精度など、あらゆる面でかなり見劣りする。
それなのに、此度の魔法は前に無かった何かが有るように思われる。
同時に、欠けていた嵌め絵の一片が見つかったようにイオスは感じた。
エルザが胸の奥にしまっていた本音、この火炎放射こそがその答えだ。
撃たれた火炎放射に反応して瘴気が揺らぐ。揺らぎの中心にいるのは、あの恵まれた体躯の持ち主たる老婆だ。
火炎放射の前に躍り出た老婆が剣を撃つ。
力なきエルザの答えを、声なき叫びを、老婆の剣が力でねじ伏せ黙らせる。イオスは瞬間的にそう予想した。
火炎放射の先端に触れた老婆の剣は、美しいまでのしなやかさで軌道を上方へ逸らし、弾いた。
制御を失い空を舞う火炎放射を見てイオスは思う。
老婆の剣は「力の剣」である。少なくとも対ビェルデュマ戦ではそうだった。
しかし、エルザの合成魔法を弾いた先の老婆の剣には、対ビェルデュマ戦の際には無かった「技」があった。
イオスのヒートロッド程度であれば、「技」だけの剣士でも弾けるかもしれないが、魔法特性的にエルザの火炎放射を「技」だけで弾くのは困難だ。
力に偏っていた老婆の剣が今では「技」を兼ね備え、力・技・魔、三つが揃っている。だからこそ老婆はエルザの合成魔法を弾けた。老婆は文句なしのミスリルクラスの領域に達している。
確たる実力者の老婆が仮に第二次特別討伐隊を擦り潰そうと思ったら、立ち回りや展開次第ではあるが、剣一本でどうにかなるように思われる。わざわざ瘴気を放つ必要はない。
そういう前提で改めて瘴気を評価してみると、ほんの少しだけ瘴気の特徴が見えてくる。瘴気に暴露する位置の隊員たちには悶絶する様子も、苦しがる様子もない。
一般にはあまり知られていないが瘴気にも色々と種類があるため、遅効性の瘴気や、冒されている実感の乏しい瘴気などの可能性は完全には否定できないが、聖光下というアンデッドの窮地において、そんな回りくどい手口を選ぶ理由はないだろう。狡猾なヒト種ならいざしらず、アンデッドの思考はある意味ヒトよりずっと素直だ。
複雑な思考過程を飛ばして結論を暫定的に下すならば、リリーバーと第二次特別討伐隊の戦いは良くも悪くもまだしばらく決着がつかない。凄惨な結末をリリーバーの構成員たちは望んでいない。
それに対し、こちら側、バティンとの戦いは行方が見えている。魔道具から放たれている聖光は比類ないまでに強力だ。老婆と違ってバティンは明らかに偽りの生命力を削られている。決着はじきにつく。
「無理だ。足りない」
不意に聞こえてきたのは、イオスの予想を一蹴するかのような否定的な一言だった。
声の主が中黄髪の女性だとイオスが気付くよりも一瞬早く、聖光が途絶える。
呆然自失となってしまいそうな悲劇だが、悲嘆に暮れる間などなく戦いは高速で展開する。
聖光途絶直前、東西からバティンに迫る者があった。
西から来るは未だ身体に纏う瘴気の消えきらぬ老婆である。エルザの魔法を弾き、勢いを落とさずにそのままバティンへ突進していた。
東から寄るは中黄髪の女性だ。
聖光が完全に消える瞬間を狙い、老婆の剣と女性の剣がバティンを挟み撃つ。
聖光下、動作緩慢となっていたバティンではあるが、聖光の消失と同時に元の動きを取り戻し、舌で剣を迎え撃つ。
バティンの長い舌は両側の攻撃を同時に防ぐしなやかさのみならず、相手に撃ち込んでいくだけの強靭さがある。
老婆は己の身が少々撃たれることなど気にも留めずに剣を撃ち、バティンの身体を破壊する。
一方、中黄髪の女性は老婆以上の手数と機敏さでバティンの舌攻撃を完璧に回避している。老婆に比べると剣の撃ち込みは消極的で、威力も老婆より劣ることもあり、バティンに与える被害がやや少ない。
程度の差はあれ、老婆も中黄髪の女性もバティンに対して優勢だ。
連撃、連撃、連撃。
息もつかずに撃たれる剣の嵐はバティンをすぐにも飲み込むのではないかと思われたが、どれだけ身体を削られようともバティンは驚異の耐久力でひたすら粘る。
長引く戦闘により、局所的に地形が変わっていく、
地面が多少、削れる程度であれば特に問題はないが、大切なことを忘れているような気がしてイオスは少し意識を広く持つ。そして、思い出したのは、聖光を浴びて行動不能になっていた老剣士の存在だ。
どこに倒れているのかとイオスは老剣士の姿を探すが、戦うバティンらの近辺には見当たらない。
聖光途絶前に滅んでしまったのだろうか。それとも激戦の余波で全身砕かれ、識別不能なほどバラバラになってしまったのだろうか。
縋るような思いでイオスが更に視野を広げる。すると、老剣士の姿は東方、少し離れた地点で見つかった。
老剣士は無事だった。彼はイオスの心配を他所に地面に屈み込み、何らかの作業に没頭している。
老剣士が勤しんでいる作業の詳細はイオスにとってとても気になるが、それよりももっと気になるものがあった。
老剣士の横に立つ青年がバティンに向かって水魔法を放ったのである。それが普通の水魔法なら、イオスはそこまで興味を引かれなかっただろう。青年の水魔法はイオスの目を釘付けにするだけの特徴を有していた。
青年の水魔法を客観的に評価するならば、まずまずの優秀さだ。この戦場の過酷さまで考慮に入れると若干物足りない。
ただし、イオスに衝撃を与えたのは客観的な評価ではなく主観的な評価、魔法のもっと細かい部分である。
率直に言うと、イオスは青年の水魔法に自分の技を見出した。
イオスはかつてアルバートに水魔法を教えた。アルバートはイオスから教えられる前から水魔法を使いこなしてはいたが、技術の水準はそこまで高くなく、しかも既に才能の限界がちかい様子であった。
アルバートは自分の水魔法の限界を嘆く風もなく飄々とイオスから教えを請うたり、見て盗むなりして、技術を土魔法に転用していた。
土魔法と水魔法は比較的共通点の多い属性とはいえ、究極的にはやはり別物である。
イオスは自分の技術を異才の弟子に伝えきれず、もどかしさや口惜しさを感じていた。
弟子に伝授しようとして伝授できなかった技が、どういうわけか青年の水魔法に息吹いている。初めて見る彼の中に、自分の技術が生きている。
極意を会得しているとは到底言えないが、もしかしたらいずれは自分と同等の技量に至り、あるいは越していくかもしれない。そんな将来性が感じられた。
自分のしてきたことは無駄ではなかった。少し大げさに言うならば、魔法使いとしての人生が報われた。そんな感情をイオスは抱いてしまったのである。
イオスは胸の奥に熱いものを感じた。
絶峰の頂を目指して飛んだ水魔法は放物線を描き、中黄髪の女性の脇を掠めてバティンに落ちる。
どれだけ感情を揺さぶられていてもイオスは見落とさない。水魔法は女性の背中ではなくバティンに命中した。それもただ単に当たったのではない。女性は背中越しに飛んできた魔法を何でもないように避け、だからこそ水魔法はバティンに当たった。
老剣士だけでなく女性もまた周りが見えているのは間違いなかった。
胸の奥の熱いものが闘志の炎となってイオスの心に宿る。
老婆と女性はこのまま放っておいても二人だけでバティンを倒しきるだろう。二人はイオスの手出しを求めていない。
しかし、手を出さないという選択はイオスには無かった。
イオスは最高の魔法を撃つと心に決めて魔力を練る。
バティン討伐のためではなく、水魔法の真髄を彼に示すため、かの青年が高みへ登っていく際の支点を彼の心に刻むために、自分が魔法使いとして培ってきた技をありったけ盛り込む。
ここが戦場であることを忘れてイオスは魔法構築に集中し、時間も魔力も惜しみなくかける。
そうして、できあがった水魔法にイオスはいつになく満足する。これだけ納得がいく水魔法を作り上げられたのは久しぶりだった。
イオスは正確に狙いを定めて自信作“ノーフリート”をバティンに向かって放つ。
危険性を察知したバティンがノーフリートの弾道から逃れようと試みる。だが、左右の猛者がバティンに自由な移動を許さない。
バティンが中黄髪の女性に攻撃を集中させる。アンデッドながらに死中に活を求めている。
躯体ごと猛烈に押し寄せるバティンに、中黄髪の女性は闘衣を爆発的に増大させる。
威力の跳ね上がった刺突剣の連撃がバティンの大きな躯体に無数の風穴を穿つ。しかしながら、体格差があまりにも大きく、バティンを押し返すまでには至らない。
バティンは女性に攻撃を集中させた代償として背中側はガラ空き同然の状態となっている。
防御の薄いバティンの背に向かって老婆が単純に剣を撃つと、バティンは女性の側に押し込まれることになる。かといって、剣でバティンを引くのは困難である。
ならばと老婆は身を地面ギリギリまで屈め、上方向へ飛び跳ねるように剣を撃つ。それは切断を目的とした斬撃というより、跳ね上げを狙った打撃にちかい一撃であった。
そうでなくとも女性に前のめりになっていたバティンの身体の尾側が面白いほど浮上する。
推進力を得るには地に肢が着いている必要がある。ところが、バティンの身体は後ろ半分が浮いており、ほとんど逆立ちした姿勢になっている。
辛うじて地面に着いている前肢をかいても、後肢で空を漕いでも、牽引力が全く不足しており、躯体は前はおろか、右にも左にも大きくは動かない。
多少、動かせたところで、高い追尾性能を誇るノーフリートからは逃れられない。
哀れ、半浮遊する的となったバティンにノーフリートが直撃する。
硬い闘衣の鎧に覆われたバティンの身体の浅層をノーフリートの弾頭が穿つと、そこからクシャリと潰れながら傘状に拡がる。
穿孔力を敢えて落とし、代わりに絶妙に脆く調整したノーフリートは、炸裂弾さながらに残酷な盲管創をバティンの身体に刻む。
例えるならば、身体の内部で硝子が爆発四散したようなものである。
体内をズタズタに切り裂かれ、バティンの動作からはおよそ秩序といったものが失われる。
戦闘の用をなす動きができなくなっているのは体幹部や四肢のみならず舌も同じだ。外見上、舌は大きく損傷していないが、舌を自由自在に動かすには土台たる躯体の安定が不可欠なのだろう。
ノーフリート命中直前にバティンから距離を取っていた老婆と中黄髪の女性が再びバティンに接近して攻撃を浴びせる。
防御らしき防御のできないバティンの身体が飴細工のように砕け散っていく。
先のバティン復活劇を思えば、手を緩めずに一気に攻め立てる二人の姿勢は間違っていないが、それにしてもあまりに攻め方が苛烈すぎる印象を受ける。
バティンが戦闘力を喪失しているのは一目瞭然だ。
ならば二人は攻撃と攻撃の合間に、もう少し相手の様子を窺う素振りがあってもよいようなものだ。二人には、どこか退っ引きならぬ切迫感がある。
横では今なおリリーバーの残りの構成員と第二次特別討伐隊が激しい戦闘を繰り広げており、二人が焦るのは当然なのかもしれないが、それは見当違いの解釈で、イオスの知り及ばない二人を焦らせる確固たる別の理由があるように思えてならない。
どこか危うさを孕んだ二人はイオスに見守られながら、未だ偽りの生命が宿るバティンの解体作業に勤しむ。
よくよく観察すると、この解体作業にどこなく癖があるように見えてくる。
バティンの全身を細かく分解しようとしているのではなく、特定の部位に固執しているような、例えるならば、地中に埋まった宝を掘り当てようとしているかのような、奇妙な癖だ。
少しすると、イオスの観察力と洞察力の正しさを証明するかのように、二人はとある物体をバティンの身体から発掘する。
それは、部位的には骨盤部正中あたりに収まっていた。紡錘状の嚢のような浅黒いその物体が老婆によって体内から強引に引きずり出されていく。
嚢からは大量の蔓のようなものが伸びており、老婆が嚢を力強く引っ張ってもなかなか身体から完全に引き剥がせない。
取り外しに邪魔な蔓を老婆が剣で断ち切る。
すると、それまで秩序無くビクビクと動いていたバティンの身体が途端に活動停止した。
嚢がバティンにとって核に相当する重要な構造なのは明らかだった。
老婆が嚢を空に軽く放り上げると、あらかじめ剣に魔力を溜めていた中黄髪の女性がそれを一撃で破壊する。
嚢が砕け、中身が大小不同となって四方へ飛び散る。
正確には嚢が壊れて飛び散った中身と、嚢が壊される直前に嚢から飛び出してきたものがあった。
嚢から飛び出した縄紐のような何かに老婆が即座に迫り、剣を振り下ろす。
縄紐はヘビのような動きで……いや、それは確かにヘビだった。ヘビは身体をくねらせて斬撃を躱し、逆に老婆の腕に絡みつく。
イオスは、ヘビが腕伝いに老婆の体幹まで進み喉元にでも噛みつくのではないかと考えたが、ヘビはなぜか老婆の前腕から進みも退きもしなかった。
ヘビは決して動いていないわけではなく、うっかり地上に飛び出してしまったミミズのように身体をのたうたせようと試みてはいるのだが、食虫植物の粘着罠にかかってしまったかのように身体が老婆の前腕表面にくっついてしまい、のたうつにのたうてずにびくびくと身体を引き攣らせていた
老婆の腕にへばりつくヘビに向かって刺突剣を構えた中黄髪の女性が鬱々と呟く。
「ここまでアンデッド化させるべきではない魔物も他にいるかね」
女性は愚痴めいた一言を漏らすとそれ以上は感傷に浸るでもなく、直ちにヘビを刺突する。
下顎が老婆の前腕にくっついているがために上顎の動きだけで口をパクパクと開閉させていたヘビの頭部が刺突によって消し飛び、今度こそ本当にバティンの身体構成物一切が完全に活動を停止する。
イオスはやっと異形のアンデッドが真の滅びに至った確信を得る。
しかし、一息衝いている暇などない。
横の戦闘を可及的速やかに終わらせる必要があり、そのためには目の前の二人に掛ける最初の言葉が極めて重要だ。
どんな語り掛けが最も相応しいか考えようとした瞬間に、聞き慣れた声が響く。
「イオスぅうう! バティンを倒したのなら、目の前のドレーナ二人も倒して、さっさとこちらに加勢しろ!」
戦場であることを考慮しても根本的敬意に欠けていると言わざるをえない叫びを上げたのは誰でもない、第二次特別討伐隊隊長カツペル・ヘディンである。
見ると、リリーバーと討伐隊の戦闘は既に終戦目前となっていた。
多くの隊員たちが地に倒れ、まだ立っている隊員たちもひとり、またひとりと押し倒されては身体に剣を突き立てられていく。
しかもリリーバー構成員が手にしている武器はただの剣ではない。ヒトならざる魔力によって世界に具現化する魔法剣ブラッドソードである。
辛うじて無事でいる隊員たちは内心『次は自分が刺される番だ』と思っているのだろう。恐怖に怯え、震え上がっている。
ドレーナの操る闇魔法が一、ブラッドソードをヒトの肉体に刺す理由など考えるまでもない。
魔法剣を介して血と生命力を吸っているのだ。
残虐非道。
バティンが最期を迎えるまでの僅かな間に真横では事態が急激に悪化していた。
カツペルでなくとも救いを求めたくなる、とんでもなく悪い状況だ。
どうしてこれほどの非道が行われるのだろうか。
イオスは激しく動揺する。
水魔法を撃つ魔力はまだ残っているが、余力の有無はこの際、問題ではない。余力があるどころか心身魔力全てが完璧に整っていたとしても、ここまで悪い状況を力で好転させるのは不可能だ。
カツペルにどう言われようと、交渉でどうにかするしかない。
イオスは中黄髪の女性と老婆に向かって話し掛ける。
「お二方。どうか仲間の方々に戦いを止めるよう言ってはもらえないだろうか」
イオスは言いながら、年嵩のくせに、もっと説得力のある口上は捻り出せないのか、と心中で自分に悪態をつく。
中黄髪の女性は老婆の片脇を支えるかのようにぴったりと身を寄せて冷ややかに言う。
「イオ……ヒューラー教授にはあれが戦闘に見えているのでしょうか」
「もう戦闘の体すらなしていません。徒に死傷者を増やすだけの無意味な行為です。だからこそ止めていただきたい」
「逆ですね」
「逆……とは?」
女性の言わんとするところが分からず、イオスは聞き返す。
女性は片手を自分の胸に当て、もう片方の手は老婆の腰背部に添えている。自分の胸に当てているほうの手は詳細不明の魔法を行使している。自分で自分に魔法をかけている、ということだ。
純粋な回復魔法ではないようだが、十中八九、治療に関連した魔法なのではないかと思われる。
老婆に添えているほうの手はイオスの死角に位置しており、きちんと視認はできないものの、そちらの手も治療関連の魔法を老婆に対して行使しているに違いない。それも、アンデッドにも奏功する種類の魔法だ。生者用の回復魔法をアンデッドにかけても、枯れ木に水を撒くようなものだ。
「言葉どおりの意味です。我々が今やっているのは戦闘では勿論ありませんし、死傷者を増やすだけの無駄な行いでもありません。その逆……可能なかぎり死傷者を減らすためにやっている、意義ある行為です」
語り口調は明朗でも語られる内容はまるで不明瞭だ。少なくともイオスを納得させるものではない。
「イオス! もうひとりそっちに行くぞ! まとめて片付けろ!」
理非の分からぬカツペルから、より無理のある指示が追加されてイオスは視線を動かす。
すると確かにこちらへ向かって歩みを進める構成員がひとりいる。それは他でもない、討伐隊の隊員たちを無慈悲にブラッドソードで刺して回っていた、あの構成員だ。
距離が近付くと、その構成員は遠目で見たときよりも、かなり上背がある。
背の高い構成員はブラッドソードをいくつも脇に抱えている。その数たるや軽く一〇振りを超えており、大量の剣を抱えて歩く様は違和感しかない。
これだけ大量に剣を抱えていたら、歩くうちに何本か落としてしまったり、落とすとまではいかずとも何度も抱え直したりしてもよさそうなものだが、剣と剣は縄などで括られている風でもないというのに実に安定していて、異常なほど多い剣が不思議なほど安定して運搬されているのも違和感を増大させる要因のひとつになっている。
「そのブラッドソードの束で何をなさるおつもりなのです」
それはもはや交渉になっていなかった。突きつけられた謎の答えを知るための、なんとも間の抜けた質問でしかない。
イオスはブラッドソードを携えた背の高い構成員に向かって尋ねたのだが、これに中黄髪の女性が回答する。
「少し前に我々は悔しい思いをしました。事の持っていき方が拙かったり、根回しが足りなかったり、戦闘力が低かったりと、要は実力不足がゆえの当然の結果だったのですが……」
女性の語りに耳を傾けるイオスの前を、ブラッドソードを抱えた老人が横切っていく。
戦う素振りを見せないイオスにカツペルが再び叫ぶ。
「何をボサっとしている。イオス、さっさとやれ! 全員片付けろ!」
カツペルだけではなく、エルザもまた声を大にして主張する。
「クローシェ・フランシスの戯言に耳を貸してはなりません。ヒューラー教授!」
エルザの発言により、遅まきながら自分が想像以上に際どい状況に置かれているのを理解する。
イオスの目の前にいるのはロギシーンを占領した反乱軍の首魁がひとりであった。
クローシェはカツペルやエルザの言葉を意にも介さず、そのまま話す。
「それでも思うのです。もし、他者をもっと上手く頼れていたら、結果は違ったのではないかと。あの時できなかったこと、その場では思い浮かびすらしなかった試みを今やってみたい。そういった経緯があってのこれです」
それだけ言うとクローシェは一点に視線を注ぐ。
イオスが視線の先を追いかけると、そこにはあの青年がいて、その傍らで老剣士は未だに地面に屈み込んで作業に熱中している。
「失った血の補充さえできれば、彼を救命できる余地があるのではないかと我々は考えています」
老剣士が屈み込んでいたのは、地面に倒れ伏すメイソンを治療するためだった。
◇◇
緊急に用意された野戦治癒所の治療台に横たわるは二人。ひとりは最重傷者のメイソンで、もうひとりはメイソンほどではないものの、これもまた重傷で、かつ解呪の要でもあるツェザリ・ゼブロフだ。
バティンとの戦闘が予想外の展開となったために呪いを受けた隊員の数があまりにも多い。負傷者たちの創傷処置と同じくらい、呪いを解く体制の迅速な確立が望まれる。
傷の処置と呪いの対応、どちらができずとも隊員たちが大量に犠牲になる。
リリーバーであれば負傷にも呪いにも対応できるとクローシェは訴えた。
しかしながら、第二次特別討伐隊としても、リリーバー側の主張を『はい、そうですか』と聞き入れるわけにもいかない。
なにせリリーバーの構成員は常軌を逸している。構成員の大半がアンデッドで、しかも、ドレーナの能力を有していて、さらに構成員のひとりは現在もロギシーンを占拠している反乱軍首謀者のひとりときた。
マディオフにおける禁忌がこれでもかと言うほど詰め合わされた、庇い立てのしようがない集団だ。
第二次特別討伐隊が半壊していなければカツペルはリリーバー側からの休戦提案を受け入れず、徹底抗戦を主張していただろう。
討伐隊が壊滅的な状態にあったこと、イオスが休戦側に立ったこと等が有利にはたらいたのは否めないが、その二点を考慮してもカツペルは異常なほど素直にクローシェからの休戦提案に応じた。
クローシェはカツペルと初めて対峙したはずだというのに、カツペルという人間の操縦方法をよく心得ていた。
カツペルが休戦に応じたのはひょっとすると討伐隊の現状やイオスの意見など関係なく、美人におだてられて気分が良くなってしまっただけなのかもしれない。
何はともあれカツペルは休戦という最終判断を下した。だが、リリーバーという集団を完全に信用したわけではなく、リリーバーにこう要求する。『武装完全解除のうえ、特別討伐隊の管理と指示の下で隊員たちの治療にあたれ』と。
そんな一方的な要求をリリーバー側が呑むはずはなく、クローシェは対案を出す。『ここをこう譲ってほしい』とクローシェに言われると、カツペルは『まあ、それくらいなら許可しよう』と受け入れ、『こっちも譲ってほしい』と言われると『それもまあ、いいだろう』と受け入れる。野戦で頭でも打ったのかと周りの人間を不安にさせるくらいカツペルは聞き分けが良かった。
最終的にカツペルはほとんど全てのクローシェの要求を受け入れ、戦場に設置した野戦治癒所の主導権はリリーバーが握ることになった。当然ながら、リリーバーは武装解除などしていない。
幸い治癒所には監視者としてカツペルとイオスの二人が立ち会うことを許可された。
聞き分けが良いとはいえ、カツペルは治癒所内に足を踏み入れるまで鼻息荒く『治療が完了したら全員捕縛してやる』などと壮大な野望を語っていたが、治癒所に入り込んでリリーバー構成員によって作り上げられた土魔法の椅子に座ったあたりから急に静かになっている。
緊張のあまり具合でも悪くなったのだろうかと思い、イオスがカツペルに話し掛けようとすると、寸前でクローシェから静止される。
「お前も眠らされたくなければ下手な手出しはするな」
それまではほぼずっと丁寧な語り口調だったクローシェが豹変してもカツペルは何も反応しない。
イオスは無言でそっとカツペルの顔を正面から覗き込む。
カツペルは瞼こそ落ちていないが、何らかの手段で意識を奪われているらしかった。
考えてみるとカツペルを起こしたところでイオスにも討伐隊にも利益は何もない。
ならば、寝たままでもいいかと思い直し、イオスは自分ひとりで監視する意志を新たにする。
静寂が訪れた野戦治癒所という名の天幕内でクローシェたちはブラッドソード内に溜まっていた血液を検分する。
イオスが「何をしているのか」と尋ねると、クローシェは「適合試験」と答える。
試験に通過した一部の血液は順次メイソンの身体に注入されていき、血液が注がれれば注がれるほどメイソンの顔色が良くなっていく。
イオスが「試験に通らなかった血を注ぐとどうなるのか」と尋ねると、「メイソンは死ぬ」とクローシェは答える。
説明が簡潔すぎるきらいはあるが、薬学も治癒学も浅い知識しか持たぬイオスにとっては分かりやすくて良い回答だ。
メイソンの治療がある程度進むと、メイソンの治療と併行してツェザリの治療が始まる。
ツェザリの治療はメイソンに比べると短時間で済んでしまい、ツェザリは治癒所外へ搬出され、次に治療の急がれる隊員が治癒所内に搬入される。
リリーバーが最初に治療に取り掛かったのがメイソンで、ツェザリは二人目なわけだが、新たに運び込まれた三人目の治療が終わっても、メイソンの治療はまだ完了しない。メイソンの前で魔法を展開しているクローシェは苦渋の表情でムムムと唸っている。メイソンはクローシェの予想を越えて容態が悪いのかもしれないが、その割にメイソンの顔色が良いのは不思議だ。
四人目の治療が半ばまで進むと、それまでメイソンにつきっきりだったクローシェが四人目の治療に加わる。そして、メイソンの治療にあたっていた時と同様、険しい表情で悪戦苦闘の様相を呈した後、患者から手を離し、ぶつぶつと独り言ちながら分かりやすく苦悩し始める。
クローシェの空いた手がどこにあるかと言うと、片方は腰に当てていて、もう片方は顎先に置いている。顎先に置いた手はもぞもぞと動いており、それはまるで生えてもいない髭をいじっているかのようである。
その仕草でイオスはピンとくる。
忘れもしない。顎髭いじりは考え事をしているときのアルバートの癖だ。
(また記憶の継承が起こったのか!? ルカさんの姿が見当たらないのはそういうことなのかもしれないが、よりにもよって反乱軍の首謀者を継承先に選ぶとはアルバートらしいと言うべきなのか、なんなのか……)
軽い目眩を感じながらイオスはクローシェに話し掛ける。
「治療か解呪が芳しくないのでしょうか。エルキンスさん」
するとクローシェはイオスをキツく睨んで言う。
「互いが火傷しかねない意趣返しはやめてもらおうか」
ジバクマで使用した偽名にクローシェは即座に反応したことで、イオスはクローシェの中身を確信する。
「一応、確認しておきたかっただけだ。それで、お前は何を苦しんでいる。呪いが解けないのか?」
治療を受けた隊員たちの容態は、イオスの目には安定しているように見える。
怪我の具合が悪くないとなると、後はバティンの残した呪いくらいしか思い当たる節がない。
「解くもなにも、既に呪いは解けていた。気付くのが遅かった。兆候は確かに出ていた」
「バティンが滅び、一部の者は自然に呪いが解けたということか?」
「バティン? あぁ、バズィリシェクアンデッドのことか。違う。そっちじゃない」
「そっちじゃないならどっちなんだ。説明を端折りすぎだ。私にも分かるように説明してくれ」
クローシェは長く長く嘆息した後、腕を組み項垂れて言う。
「解けていたのはバティンの呪いではない。王族の呪いだ」
「王族の呪い……?」
イオスの脳裏に休戦直前の光景が蘇る。
リリーバーの背の高い構成員がブラッドソードで第二次特別討伐隊の隊員たちを刺して回っていた時、まだ刺されていない者たちは恐怖に竦んでいた。
ハンターや衛兵出身の隊員たちはまだしも、恐れ知らずの勇猛さで知られる軍人たちまで恐怖に呑まれていたのは確かに不自然を超えた異常事態だ。
「おそらくは王都で異変が起きている。それも、とんでもなく質の悪いやつが……」
吐き捨てるようなクローシェの一言に、イオスは意識が少々遠のいたように感じた。




