第八五話 イオスの憂鬱 六 呪いへの道程 八
メイソンを貫いたバティンの舌がぬるりと引っ込む。
胴体に大穴を穿たれたメイソンは叫び声ひとつ上げず、ゆっくりと前方へ倒れ込む。
「バティンが動き出した!」
イオスの大声に弾かれるようにして隊員たちが動く。
油断して信号弾を見ていたとは思えないほど皆、迅速に反応したが、それでも間に合わない者が多数いた。
それまでの攻防とは比較にならないほど近距離から放たれた飛棘に対応しきれず、何名もの隊員が受傷する。
バティンはここぞとばかりに飛棘を連続して放つ。
一度ならば辛うじて身を守れても、二度、三度と立て続けに攻められると防ぎきれなくなり、見る間に負傷者が増えていく。
飛棘の嵐が吹き抜ける度に戦闘可能な隊員の数はごっそりと減っていく。
部隊は完全に態勢を崩された。もはや実行部隊全体を守る防御魔法が展開されることはないだろう。
だが、防御魔法が無くとも、耐える者は飛棘に何度でも耐える。どれだけ嵐が続こうとも、立っている隊員の数は一定以上減らない。
これ以上飛棘を繰り返したところで、バティンにとっては意味がない。バティンはそれを自ずと理解する程度の知性を有している。
知性の高さを証明するかのように飛棘の嵐は唐突に終わりを迎え、逆襲は次の段階へ移行する。
巨体を巨体と感じさせない軽やかな動きでバティンは討伐隊に接近し、強烈な舌攻撃を部隊に浴びせる。それも、防御力の低い者を優先して攻撃している。
さしものイオスも標的にこれほど内側まで入り込まれてしまうと攻撃を主眼にした魔法をおいそれとは撃てなくなる。少しでも手元が狂うとイオスの魔法は直ちに僚員の命を奪う。
バティンを倒す魔法を撃てないならば、せめて被害を最小限に食い止めるための魔法を撃つ。魔法構築の早さと正確性に意識を割いた牽制の水魔法だ。
とはいえ、生半可な魔力の込め方では到底この強大な魔物の行動を阻害できない。
決して僚員を傷つけぬように、それでいてバティンの邪魔をできるよう、極限の集中力と繊細さで魔法を撃ってやると、目論見どおりバティンの動きは鈍る。
動きの鈍ったバティンの攻撃に隊員たちは辛うじて応戦する。
状態は悪いながらも、仮添えの拮抗状態には持ち込めた。さて、では、ここからどうしたものかと、イオスは考える。
行動阻害に終止しているだけだと状況は決して好転しない。どこかで攻めに打って出る必要がある。
部隊の被害状況は見るからに深刻だが、苦しいのはバティンもまた同様のはずだ。生者と比べてアンデッドは負傷の程度が分かりにくいものの、あれだけエルザの魔法を浴びたバティンが弱っていない道理はない。
互いに滅びが迫っているのであれば、己の身を削ぐ覚悟で相手の喉元に食らいつき、この場でバティンを倒しきることを考えるのが、生き残るための道筋として正しいように思われる。
では、イオスにそれが実現可能なのだろうか。僚員の巻き添え前提でとにかく威力を重視した魔法を放ち、それがバティンに痛烈打を与えたとしよう。はたしてそれでバティンを滅びに至らしめることはできるのだろうか。
バティンが活動再開する前までは、自分でもバティンに止めを刺せると思っていた。しかし、その認識は全くの誤りだったと今となっては思う。
エルザの魔法は、火魔法にあるまじき撃力でバティンの頭部を打ち砕いた。イオスが止め役を担っていたら、水魔法で似たような倒し方をしただろう。そしてエルザと同じくバティンを仕留め損じ、部隊を壊滅の危機に追い込んでいたに違いない。
アンデッドの急所は頭部だ。イオスが知るかぎり、例外は一つたりとも存在しない。
頭部を破壊されてなお動くなど、アンデッドの摂理に反している。世界の原則を覆す、ありえない現象だ。
(摂理に反する、理から外れた存在? ……そうか、そうだったな)
窮地から脱するには不適当な、諦観にもちかい感情がジワリと心の奥深くから滲み出る。
アルバートの後身とも呼ぶべきルカが世界の理から逸脱した存在ならば、そのルカらが生み出したバティンもまた世界の理から外れているのは当然であろう。
頭部を砕かれても滅びに至らないアンデッドを完全に倒す方法。
あるかどうかも分からない討伐方法を見つけるべく、イオスは基本に立ち返る。
通常、ハンターがアンデッドと戦う場合、頭部の破壊または頭部の離断を狙う。
バティンの頭部はエルザの火魔法で潰され原型を留めていないが、一応まだ胴体とは繋がっている。
これを完全に切り離したらどうなるだろうか。
今度こそバティンは滅びるかもしれないが、まるで確信が持てない。
それに、そもそも頭部を離断できる能力者がこの部隊にはいない。
前衛組はバティンの攻撃から己や僚員の身を守るのが精一杯で、頭部離断はおろか、バティンの懐に飛び込むことすら覚束ない。
イオスのヒートロッドならば可能性は皆無ではないものの、太く分厚いバティンの頸部を一撃で両断するのは不可能だ。
同じ部位に正確に繰り返しヒートロッドを当てなければ、離断までは到底もっていけない。
ヒートロッドを撃つということは、その間、水魔法を撃てなくなるわけで、イオスの水魔法が止まれば必然バティンの攻撃は更に苛烈なものになる。
ヒートロッドは当てられたとして精々一撃、それでバティンを倒せなければその先にあるのは部隊全滅だ。
頭部離断は極めて困難で、たとえ首尾よく切り落とせたとしてもそれでバティンを討伐できる可能性は未知数。まるで魅力の感じられない、分の悪い賭けだ。
頭部破壊が無効で頭部離断も難しいとなると残された手はひとつ、聖属性攻撃だ。
イオスは水魔法を撃つ傍らで周囲の様子を確認する。
部隊の内側に入り込んだバティンの伸ばす強靭かつ先端鋭利な舌は武器兼防具として猛威を振るい、隊をジリジリと切り崩していく。
こうなるのが目に見えていたから討伐隊は徹底してバティンから間合いを取る戦法を選んだ。
遠距離が討伐隊の間合いならば、近距離はバティンの間合いだ。バティンの力は近距離で真価を発揮する。
近接したバティンの能力で厄介なのは舌による物理攻撃ばかりではない。石化の呪いは対象との距離が縮めば縮むほど強力になるらしく、魔道具では抵抗が困難になり、呪いの進みが急激に加速する。
呪いが進めば進むほど身体は固く動かなくなっていく。前衛組の動きが徐々に鈍くなっている理由は負傷や疲労のみならず、呪いの進行によるものもあるだろう。
バティンを倒すためには、まず崩れた部隊の態勢を立て直す必要があり、そのためには討伐隊に有利な間合いまでバティンを押し返す必要がある。ただし、前衛組にはバティンを押し返すだけの物理戦闘力がない。物理的な力で押し返せないならば、魔法的な力で押し返すしかない。
魔法で押し返し、魔法で痛恨打を与え、魔法で偽りの生命に終わりを教える。
討伐隊を構成する人員の戦力内訳上、この魔物と渡り合うにはどこまでも魔法戦闘力に依存せざるをえない。
バティンに通用する魔法を撃てると自信を持って言えるのはイオスとエルザの二人のみ、もし次点を挙げるとすればツェザリだが、あまりツェザリの魔力を攻撃に回したくないのが実情だ。
いざという時に備えてツェザリの魔力は温存したい。とはいえ、ここまで窮地に追い込まれてなおツェザリが手を出そうとしないのはどうにも不自然だ。
数少ない聖属性攻撃の使い手ツェザリがホーリーボルトを撃たぬ理由、ひいてはツェザリが置かれた状態、それらは深く考えずとも想像がつく。
メイソン同様、ツェザリもまた戦闘不能に陥っている。
仮に討伐隊がここから奇跡的なほど速やかにバティンを倒せたとしても、その先に待っているのは悲劇だ。勝利の美酒を全員で味わう未来はもはや潰えた。
それでも討伐隊は戦う。全滅という名の最悪の未来を回避し、悲劇の未来を手繰り寄せられるかどうかはイオスとエルザ、二人の肩にかかっている。
イオスは既にできるかぎりのことをやっている。あとはエルザさえ力を発揮してくれれば、本気となったバティンを押し返す程度は十分に可能なはずなのだ。
ところが、荒れ狂うバティンに撃ち込まれる火魔法は手数、威力、精度、いずれの面においてもあまりに心許ない。再動前のバティンを軽くあしらった魔法の冴えが嘘のように消え失せている。
(まさか……)
不安が脳裏をよぎり、水魔法を撃つ合間にイオスは目でエルザの姿を探す。
混戦の中で一瞬、捉えたエルザは見るからに弱っていた。
バティンが再動した際に放った飛棘をイオスはギリギリで躱せたが、もしかしたらエルザは躱せなかったのかもしれない。あるいは、怪我を負ったのではなく、懸念されていた体力不足がここにきて露呈したのかもしれない。
いずれにせよ、エルザは万全の状態とは言い難い。少なくとも戦況を覆すだけの力が残っていないのは明らかだ。
曲がりなりにも通常状態を保っている中核戦力はイオスだけで、イオス単独ではバティンを仕留めるも退けるもできない。
正道に固執していると悲劇の未来にすら辿り着けない。となると残る手は邪道。イオスもまた己の意思で人の道から外れ、悲劇の未来より更に悪い未来を掴み取る覚悟が求められる。
選ばなければ何も手に入らない。捨てる覚悟が無ければ全てを失う。
後でどれほど罵られようとも、最悪を回避するために一切の汚名を甘んじて受け入れる。
冷徹な打算と醜悪な欲求に衝き動かされたイオスは、未来と呼ぶのも憚られる未来を得るための犠牲がいる方角を半ば無意識に見る。
未来へ到るために必要な供物はこの混乱の極致にある戦場から、かなり離れた地点にいる……はずであった。
バティンの呪いの射程外、それもかなり余裕を持った相当な遠距離で行動しているはずの第二次特別討伐隊本隊は間に遮蔽物が無くとも視認が困難なはずだというのに、予想よりもずっと簡単に見つけられた。
実行部隊に呼び寄せられるまでもなく、本隊は戦場にかなり近い距離まで寄ってきていた。それこそ、既にバティンの呪いの射程内に入っているかもしれないほど近くに。
(なぜ実行部隊がこれほど近距離まで来ている!?)
自ら求めて手を伸ばそうとしていたというのに、いざ手が届きそうな距離にあると判明すると途端に焦る。これもまた如何ともし難いヒトの心の脆さであろう。
たとえ状況把握のためであっても横を悠長に眺める余裕は無い。それなのにイオスは吸い寄せられるようにして、そちらへ何度も視線を向けてしまう。
見ると、本隊は実行部隊の窮地を察してただ単純にこちらに移動してきているわけではなく、移動しつつ何かと交戦しているらしく、ある一方向へ間断なく遠距離攻撃を放っている。本隊もまた何かと戦っていたのだ。
バティン再動前に響き渡った甲高い鳴箭をイオスは思い出す。
警告の意味を解釈している余裕など無かったために今の今まで分からなかったが、本隊は実行部隊に何らかの脅威を報せようとしていて、そして今まさにその脅威と交戦している。
逆境から逃れるための捨て駒として期待していた本隊は、それどころではないということだ。
バティンだけでも手一杯どころか押しきられそうだというのに、あろうことか新たな脅威がかなり近い所まで迫っている。
すぐにでも新たな脅威の正体を自分の目で確かめたいところではあるが、脇見をすればするほどイオスの魔法精度は下がり、魔法の精度が下がれば下がるほど実行部隊の全滅が近付く。
視線をバティンに戻し、目の前にいる忌むべきアンデッドに再度、集中する。
目は大きく動かせずとも、せめて耳だけは広く音を拾う。そんな意識で水魔法を撃っていると、その新たな脅威がいるであろう方角からひとつの声が聞こえてくる。
「ああ、もう鬱陶しい!」
過密状態と言っても過言ではない戦闘音の密林をすり抜けるようにしてイオスの耳に飛び込んできたのは、知らない女の声だった。それはきっと発声地点においては、それなりに大きな声だったのだろうが、イオスの元へ届くまでに大きく減衰していて、しかも環境音が大きいものだから、言葉の内容までは掴みきれない。
「なにかおかしな動きが見られるぞ!」
「武具……? いや、魔法だ。なにか魔法を撃とうとしている」
「何を目的とした魔法だ?」
「分からん。分からんが、とにかくこちらも撃て。撃って、撃って、撃ちまくれ。アンデッドどもを自由にさせるな!」
「死力を尽くせ!」
女の声に続いて聞こえてきたのは怒声にもちかい本隊の声だ。これもイオスには内容までは聞き取れないが、隊長カツペル含む中心人物たちの声から伝わってくるのはわずかな困惑と、そして何より身命を惜しまずに立ち向かおうとする底なしの気迫だった。
新たな脅威がバティンに勝るとも劣らぬほどの危険性を有していると、本隊は判断しているようだ。
「分かったぞ! 投擲だ。巨体のアンデッドが何かを投擲しようとしている!」
「狙いを全てあの巨体に向けろ!」
新たな脅威と本隊、両者共にこちらへ近付いてきているのだろう。少しずつ音の明瞭度が上がり、言葉を聞き取れるようになっていく。
どうやら未知の脅威とはアンデッドの集団で、そのアンデッド集団の中にいる巨体の者が投擲攻撃を放とうとしているようだ。
投擲攻撃はきっとイオスら実行部隊に向かって放たれる。それを避けも防ぎもせずに黙って食らおうものなら大惨事になるのは確実だ。
投擲攻撃に対応するにはどうしてもバティンから目を切らねばならず、かといってバティンが隙も見せないのに目を切ってしまうと実行部隊はバティンから大打撃を受ける。
(バティンの攻撃が緩んでくれさえすれば……)
イオスが悲壮な思いで念じると、まるで願いに応えるかのようにバティンは攻撃を止め、移動も止め、そして、あたかも頭が健在かのように頚部をもたげる。
アンデッド集団に意識を割いていたのは、なにもイオスや実行部隊ばかりではなかった。
バティンもアンデッド集団が気になって仕方なかったのだ。
戦闘中のよそ見はバティンにとっても危険な行為のはずで、それでもそちらを見るだけの価値があるとバティンは踏んでいる。
隙だらけのバティンを攻撃しようと目論む者は不思議と誰もいなかった。
戦場で最も存在感を発揮していたバティンが彼方を見れば、周囲の者も大抵はつられてしまう。そういうことなのかもしれない。
イオスもまたその場の大勢に倣うかのように、潰れたバティンの頭部が向いている西の方角を見遣る。
それは、ちょうど投擲が実行される瞬間であった。
巨躯の者は細く長い道具を片手で構えていた。遠目だと、その道具は投槍器ないし投石機のような形状に見える。しかしながら、先端に接続されていたのは、よく分からない何かで、少なくとも槍や石ではなかった。
見慣れぬものが視界に入ったとき、それが何なのか認識するには少々、時間がかかる。
道具の先端に接続されているものがどういった類の物体なのかイオスの認識が定まる前に、くすんだ色味をしたその何かが空に放たれる。
最も早く投擲への対応を始めたのはバティンだった。
極めて短い予備動作から放たれた飛棘が、飛来する謎の投擲物に向かって飛んでいく。
飛棘と投擲物。両者がぶつかり合う瞬間、幾条かの光が鋭く閃く。
閃きが斬撃だとイオスが理解した時にはもう、投擲物はバティンの横、ほんのすぐ脇に着弾していた。
投擲物を覆う茶色の布がはためくほんの一瞬、内容物が顕になる。
重厚さに乏しい布帛の下に隠れていたのはイオス以上の老顔である。およそ戦場に在るとは思えぬ、ぞっとするほど表情の無い老体が、射られた矢がごとき速さで剣を撃つ。
鋭く、強く、熱く、重く。
老体の顔には表情が無かったというのに、斬撃には狂気的なまでに感情が乗っていた。
憤激。
偽りの生命を、何が何でも呑み込まんとする激情。
奮撃。
乾いたアンデッドの身骨をこの世から一片たりとも残さず消し去らんとする破壊性。
精緻。
想いが強すぎるあまりに剣が鈍るどころか、強い想いを強い力へ変換する技術。
魔物を狩る。
形あらば壊し、生命あらば奪う。それがたとえ偽りの生命だろうと不問。
殺すために必要な力があり、魔力があり、技術があり、意志がある。
そこに無いのは言葉だけ、しかし、言葉以外の全てが語っている。
『バティンを討つ』
猛り狂った力が剣の狂嵐となってバティンに襲いかかる。
バティンは嵐に呑み込まれんとして舌の撓らせ、守備の陣を作り上げる。
轟音唸る舌の防御円と静かなる剣の嵐。二つがぶつかり鬩ぎ合う様はさながら演舞で、観る者を魅了する。
魔物と老いた剣士が織りなす舞が如何なるかたちで決着するのか見届けたい。手を出そうにも、どう介入するのが最良か直ちに判断がつかない。ならばここはしばらく見に回っても許されるのではなかろうか。
イオスは自分にそう言い訳して舞を観覧する。
老体から撃たれる剣は、どことなく見覚えがある。大森林の四柱が一、ビェルデュマと激しい戦闘を繰り広げた老婆と流れを同じくする剣だ。
ほとんど確信にちかいものはあったが、剣筋を見たことで完全な確信へと変化を遂げる。
西から接近するアンデッド集団はリリーバーだ。
剣は多少、嗜む程度に過ぎないイオスの眼力では純粋な剣士ほど正確に老体の剣筋を分析できないが、あの時みた老婆の剣と、今、目の前で撃たれている老体の剣の違いは明確で、イオスでも説明可能だ。
老婆の剣は巨躯を十全に活かした“力”の剣だった。老婆の剣から荒削りだった部分や“力”をぐっと削ぎ落とし、代わりに“技”を上積みすると、ちょうどこの老体の剣になる。
もし老婆の“力”と老体の“技”を兼ね備えていれば、バティンとはもう少し対等にちかい渡り合いができていたに違いない。
現実にはバティンが明らかに優勢だ。特に間合いと速度は圧倒的で、最初は守りに徹していた舌がいつの間にか攻撃色を濃く帯びるようになっている。
舌と剣、撃ち合えば撃ち合うほど老剣士の身体は損傷していく。
しかし、どれだけ身体が損傷しても剣は一定の冴えを保っている。体力尽きて倒れそうな気配も全くない。
仮に損傷が一切無かったとしても、一呼吸すら置かずにこれだけ強い剣を撃ち続けていられるのは、生者の感覚からすると異常の一言だ。
いつの間にかアンデッドの魔物とヒトの戦士が戦っているように錯覚していたが、眼前で繰り広げられているのは紛れもなくアンデッドとアンデッドのぶつかり合いなのである。
たとえヒトの形をしていても、あの老剣士がヒトではない以上、誰も老剣士を安易に応援できない。だが、絶対に加勢してはならないのだろうか。
イオスはまたまた基本に立ち返って思案する。
第二次特別討伐隊の究極目標はバティンの討伐である。けれども、イオスの最優先目標はアルバートの妹を守ることである。
老剣士の飛来により、すっかりエルザの守護が意識から抜け落ちてしまっていた。
慌ててエルザを探そうとすると、探すまでもなくすぐに見つかる。それというのも、エルザが火と聖の合成魔法を構築し始めていたからだ。
エルザは自分にかなり近い距離で繰り広げられているバティンと老剣士の戦闘にも、西のアンデッド集団にも注意を払い、視線を忙しなく動かしている。見に回り手が完全に止まっているイオスとは違い、積極的に介入する姿勢だ。
エルザが作り上げようとしているのは先程も披露したファイアーボールだ。たとえ聖魔法と合成されていようと素性はどこまでもファイアーボール、範囲攻撃としての特性は失われておらず、己や僚兵から近い地点に撃ち込める魔法ではない。
ならばファイアーボールが狙うはアンデッド集団以外にない。
エルザはあのアンデッド集団がリリーバーだと知っているだろうか。リリーバーに、自分の兄の後身が所属していると気付いているだろうか。
どちらも分かっていない可能性は十分にある。
もしもエルザからファイアーボールを撃ち込まれれば、リリーバーは当然反撃するだろう。
このままでは兄と妹の望まぬ殺し合いが始まってしまう。そして、イオスならばそれを食い止められる。
イオスは今、完全にエルザの意識の外にある。イオスから魔法を撃たれれば、エルザはそれを避けられずに被弾するだろう。エルザの魔法構築を邪魔するのは容易だ。
しかし、はたしてそれは賢明な選択と言えるのだろうか。それで最終的にエルザを守ることになるのだろうか。
正しく選ぶには情報があまりにも不足している。分からないことがあまりにも多い。
エルザには隠し事がある。反乱軍となにか取り引きを結んだかもしれない。聖と火の合成魔法を使えることを秘密にした本当の理由は不明だ。軍事機密でも一応納得はいくが、改めて考え直すと核心を捉えたものではないように思われる。
バティンの誕生経緯も再び謎に戻った。リリーバーによって生み出された魔物かとも思われたが、老剣士の戦いぶりを見るに、どうやら誤解だったようだ。
正しい選択には本当に全てを理解している必要があるだろうか。物事を難しく考えすぎているような気がして、イオスは努めて単純に考える。
(もし、あいつが私の立場だったら、どう動く)
相手の視点に立つことでしか見えてこない正解が、少しずつイオスにも見えてくる。
迷い、考える間にエルザの魔法は完成にちかづき、老剣士の損傷は激しくなっていく。このアンデッドの剣士は間もなく滅びる。もう時間はない。
イオスは指揮官エドヴァルドを探す。発見したエドヴァルドは重大な負傷が無さそうで、通常行動可能に見える。
老剣士がバティンと戦ってくれているおかげで、崩壊しかけていた討伐隊は、わずかなりとも態勢を立て直せている。
まだ戦える隊員を率いてエルザの補助にあたるよう、イオスはエドヴァルドに意見する。
エドヴァルドが隊長カツペルとは違って、立場や身分に拘らず意見を聞き入れる人間だからこそできることだ。
「承知した!」
『エルザの補助にあたれ』とは即ち『西のアンデッド集団と戦え』という意味である。エドヴァルドは細かい部分を尋ねることなく即座にイオスの意見を採用し、動き出す。
「しかしヒューラー教授。あなたはどうするおつもりなのです」
「私はバティンを倒します」
バティンの討伐には老剣士との共闘が不可欠だ。一時的にでもアンデッドと共闘することの是非や、バティン討伐後にどうするかなど、エドヴァルドとしてはイオスに尋ねておきたいことがいくらでもあるだろう。
それら予想される質問の一切をイオスは強い意志のこもった眼差しで封殺する。
イオスの心情を察したエドヴァルドは質問を飲み込み、「ご武運を」とだけ述べると、隊員を率いて、今まさに魔法を放たんとしているエルザの守りへ向かう。
そのままでは混戦が必発だった状況からきっちりと戦いを二つに分割したイオスはバティンに狙いを定め、魔法を構築する。
これからリリーバーはエルザら実行部隊の残存隊員と本隊の挟み撃ちにあう。エルザの合成魔法の威力はバティンに当てた際に証明されている。リリーバーは苦戦を強いられるだろう。
しかし、負けはしまい。それほど脆弱な集団であれば、バティンの前身であるバズィリシェクを倒せるわけがない。それに、少々苦戦するくらいが双方にとって好都合とも解釈できる。
ファイアーボールの炸裂音が鳴り響いても、イオスはそちらを振り返らない。自分の担当であるバティンに集中し、魔法を放つ。
戦いに終止符を打つ。
討伐の意志を込めて撃たれたイオスの水魔法をバティンが無視できるわけはない。バティンは大きく動いて魔法を回避する。
そして老剣士はバティンの回避方向を完全に読んでいたとしか思えない動きで追撃する。
会心の一撃が胴体に叩き込まれる。
それまで舌で剣士の斬撃を防ぎきっていたバティンが初めて大きな損傷を負った瞬間である。
だが、それでもバティンは負傷したとは思えぬ俊敏な動きで戦い続ける。
一般に聖属性攻撃を行使できないハンターの対アンデッド戦は、こうなりがちだ。頭部破壊か頭部離断以外では、すんなり決着がつかない。
バティンは頭部破壊にすら耐えて活動し続けているが、このまま有効な一撃を根気強く入れ続けていれば、いずれは頭部以外の部位も破壊が見えてくるだろう。
攻撃の手を止めない老剣士に合わせるかたちでイオスは水魔法を撃っていく。それは当然のように効果的ではあったが、イオスは思い切って老剣士に合わせるのを止めてみる。
絶対に老剣士を誤射しないよう、老剣士の斬撃を邪魔せぬよう、細心の注意を払って魔法を撃つのではなく、自分の撃ちたいように水魔法を撃つ。
普通の人間が前衛を担当している際に後衛がそんな暴挙に出たら、たとえ味方撃ちにならなかったとしても良くて大顰蹙、悪ければ以降、誰ともパーティーを組んでもらえなくなる。前衛を無用な危険に晒す愚かな後衛は万年ソロでフィールドを流離うしかない。
しかし、この老剣士ならば心配は要らない。それはなにも老剣士がどうなろうと構わない、という意味ではない。老剣士は、わざわざ後ろを振り返りイオスの撃つ水魔法の種類や魔法を撃つ方向、魔法を撃つ瞬間等々を確かめずとも、まるで全部見えているかのように戦闘の流れを組み立てる。
アルバートが前衛に、イオスが後衛になってパーティー行動していた時と同じだ。アルバートは戦場を上方から俯瞰しているとしか思えないほど完璧に前後左右を把握していた。後方から放たれるイオスの魔法に戸惑ったり、戦闘の調子を崩されたりしたことなど、ほとんど皆無である。
そして、実際にやってみると予想どおり、激しさを増したイオスの水魔法に老剣士は瞬時に対応し、水魔法を存分に利用した立ち回りで効率的にバティンに金創を刻んでいく。
本来であれば長い年月をかけて信頼を培い、共に訓練を重ねることでしか成し得ない連携攻撃を老剣士と老魔法使いが即興で実現している。
イオスはアルバートの背中を見ながら過ごしたフィールドの日々を思い出す。かの若き異能は、実力こそ円熟の粋に達したアッシュに比べるとまだまだであったが、イオスとの連携度に関しては、ほんの短い年月でアッシュ以上の領域に達した。
アルバートはまるで後ろを振り向かなかったが、己の背後で起こっている出来事が全部見えていた。
精霊の寵愛を受けているとしか思えない珠玉の前衛適性をイオスから称賛されても、アルバートはつれなく言う。
『私は前衛でもなければ剣士でもない。後衛であり、そして何より魔法使いである。イオス、お前が前を歩けないから、私は仕方なく前を歩き、仕方なく剣で魔物と対峙している』
どちらが先輩ハンターか分からなくなる不遜な物言いは実にアルバートらしい。
イオスに背中を晒してバティンと戦う老剣士からは、アルバートの息吹が感じられる。背中を預けるとは無形の信頼の証だ。これだけ信頼を寄せられて奮起せぬほどイオスの心は錆びついていない。
(ここで必ずバティンを仕留めてみせる)
イオスは決意を新たにして魔法を撃つ。
剣と魔法がバティンを更に激しく攻める。
既に数えていられないくらい何度も会心の当たりがバティンに入っている。
それでもバティンの動きはまるで衰える気配がない。
アンデッドである老剣士の体力や魔力が尽きないものと仮定して、勝負は異常なまでに高いバティンの偽りの生命力が尽きるのが先か、イオスの魔力が尽きるのが先か、という状態になりつつある。
だが、根比べに専念していられる時間はそろそろ終わりになりそうだ。周囲の状況が変化したことにイオスは気付く。
できることならバティンと老剣士だけを見ていたかったイオスではあるが、やむを得ず周囲を確認する。
見ると、せっかく分割した戦闘区域が合流目前となっていた。
もうしばらく遠くでやり合っていてほしかったリリーバー、実行部隊、本隊、これら三つの集団が織りなす戦闘空間は、イオスたちの真横まで迫っていたのである。
横目でチラリと様子を窺ったかぎりでは、エルザたち実行部隊も本隊も、どちらも本気でリリーバーの接近を食い止めようとして奮戦したものと思われる。本気度を示す痕が、しっかりと戦場に残っている。
しかしながら、バティンとの戦いで戦力が大きく低下した第二次特別討伐隊ではリリーバーの脚を止めることはおろか、移動速度を落とすことすら満足にできない、ということらしい。あるいは戦力が低下していなくとも最初から無理だったのかもしれない。
「ここら辺にしましょうか」
突然、聞こえてきた声にイオスは驚く。ほんの少し前に聞いた、あの知らない女の声だ。
それがもし西から聞こえてきたならばイオスは別に驚かなかった。イオスが驚いたのは、声が東から聞こえてきたためだ。
驚きのあまり、イオスはバティンとの戦闘も忘れて声がしたほうを振り向いてしまう。
そこにいたのは二人。肩にかからない程度の中黄の髪が鮮やかな女性がひとりに、若く凜凜しい青年がひとりだ。
女性がうんざりした声で言う。
「この期に及んでも使いたくない手、というのが偽らざる本音です」
女性を気遣う優しい声で青年が応じる。
「やめておく?」
「……やりましょう。あのアンデッドはどうにも妙です。それに、これは自分への罰でもあります」
女性に促され、青年は片手に持った何かを掲げて声を張り上げる。
「ヴェレパスムよ、邪を討ち滅ぼせ!」
青年が持っていたのは魔道具だった。短い詠唱に反応し、魔道具が美しく輝き始める。




