第八四話 イオスの憂鬱 五 アンデッドの急所
諸事情により三章第八三話の加筆は無くなりました。このまま三章第八四話をどうぞ読み進めてください。
第二次特別討伐隊の頭脳たちが検討に検討を重ねて予想したバティンの進路、その少し脇で実行部隊は息を潜める。バティンと攻防を繰り広げるのは第二次特別討伐隊の中から更に厳選された一部の人員だけ、人数的に実行部隊は分隊だ。
残る大多数の隊員を抱える本隊は別の場所で実行部隊とは違う役割を務めている。
間もなくバティンはイオスたち実行部隊の前方を通過する。実行部隊は通り過ぎるバティンの側面を叩く。
体裁上は奇襲というかたちになるが、生者の気配に敏感なアンデッド相手に効果的に虚を衝けるとも、奇襲の勢いだけで倒しきれるとも誰も考えていない。おそらくカツペル以外は。
大事なのはどれだけ奇襲として成立しているかではなく、交戦開始時の彼我の距離である。実行部隊の潜伏地点とバティンの予想通過地点はかなり離れており、遠距離攻撃の間合いだ。
この間合いさえ維持していれば、たとえ戦況が不利になったとしても大損害は免れやすい。代わりに、戦況が有利に傾いても一気呵成に決着をつけるのは難しい。
具体的な作戦はこうだ。
バティンから放たれる遠距離攻撃は防御担当者らが魔法で防ぐ。
イオスは水魔法でバティンの移動を可能なかぎり阻害する。主たる目標は間合いの管理、平たく言うと支援役である。
防御と支援、二つの相乗効果で理想的な展開に持ち込めた場合、バティンは有効な攻め手を失い、脚は鈍り、大きな的も同然の状態となる。
そこを叩くのが火力役のエルザだ。
専ら魔法で防御し、専ら魔法で束縛し、専ら魔法で撃滅する。
ここまで徹底して魔法使いを主軸に据えた作戦というのも珍しいだろうが、中身は全く奇を衒わない、分業制の素直なものだ。
防衛戦での経験から、イオスは野戦においても自分の担当分を問題なく遂行可能であろうと考えている。
防御担当組の中心人物も実力、実績ともに十分だ。見たところ過緊張気味ではあるものの、いざ本番となれば力を遺憾なく発揮してくれるだろう。
最も読めないのが攻撃の要エルザだ。イオスにとって恐ろしいのはエルザの実力ではなく意外性である。戦いが始まる前から不安でならない。
イオスの心境など知る由もないエルザは大きな一戦の前とは思えぬ涼しい顔をしている。
緊張していないフリではなく、多分本当に緊張していない。
いやはや彼女はイオスが最初に見立てたとおり、自分に自信の無い人物なのだろうか。
イオスは目が曇ったかのような感覚に襲われる。
何はともあれ、腹立たしいほどの強心臓は疑いようもなくアルバートの妹である。
支援役を務めるイオスは戦況次第で防御側にも攻撃側にも回る予定だ。水魔法は殺傷力こそ火魔法に後れを取るものの、多用性ならば上だ。土魔法と並び、汎用性に優れた属性である。
戦闘中に起こるであろう様々な想定外に対し、古参かつ老練隊員である自分が最終防波堤とならねばならないとイオスは考えている。
思い思いの時間を過ごす実行部隊の前に、ついにバティンが姿を現す。
最後に王都で相見えてから、そこまで日数は経っていないというのに、随分と久しぶりに見るような、不思議な懐かしさをイオスは感じてしまう。
最終交戦時と変わらぬ標的の姿を視認した実行部隊は静かに魔力を練り上げ、戦闘開始に備える。
するとバティンもまた遠距離攻撃の用意を始める。敵ながら流石と言うべきか、アンデッドだけあってバティンは最初から討伐隊の存在を認識していた。やはり生者がアンデッドを待ち構えるとなると、息を潜めた程度で奇襲を仕掛けることはできないようだ。
僅かな差とはいえ、先に攻撃準備を開始したのは討伐隊だった。しかしながら、遠距離攻撃の準備にかかる時間はバティンのほうが短い。
準備完了と同時にバティンは攻撃を放つ。高貫通力の複数弾“飛棘”である。古参隊員たちにとっては見慣れた攻撃だ。
かつての交戦では迎撃するなり回避するなりしてこの遠距離攻撃に対応していた。旧戦力では部隊全体を守りきれるだけの魔法の防御障壁を構築できなかったからだ。だが、現戦力ならば、それができる。
たとえ緊張で手足がガタガタと震えていても、今にも倒れてしまいそうなほど顔面蒼白でも、古参隊員からの信頼を勝ち取っていなくても、いずれも全く問題にならない。
イオスはその者の力を何度も目の当たりにしてきた。年がら年中、上司に振り回されていて、場当たり的な職位に文句も言わず万年就いていて、普段はお調子者で、長幼の序など気にせず積極的に学生と交わり、体を張って若年者の笑いを取ることを無上の喜びとしている変な奴で、けれども、やるときはやる。
それが期待の新戦力のひとり、防御の要メイソンだ。
メイソンは青い顔のまま、防御組の中心となって守りの魔法障壁を展開する。
顔色とは裏腹に鉄壁の防御を誇る魔法の壁は降り注ぐ飛棘を完璧に防ぐ。
力は人に安心感をもたらす。
気を抜くことが許されぬはずの戦場、それも交戦の最中にありながら、障壁の中に身を置く隊員たちが、自分たちに絶対の安心を与える魔法の守りに見惚れてしまう。
メイソンの実力を疑う者は、もうこの場に誰もいない。力で信頼を掴み取った瞬間だ。
これだけ見事な防御魔法の行使者でありながら、メイソンは大学秘書である。
秘書の肩書きはあくまでも一時的なもので、そのうち人事異動によって教員になるのだろうとイオスは踏んでいた。
ところが、いつまで経ってもメイソンは秘書のままで、しかも当の本人はそれを気にしていないどころか、むしろ笑い話として積極的に活用している。
学内ではひょうきんおじさんで通っているメイソンは、肩書きにも顔色にもそぐわぬ確かな実力できっちりと部隊を守る。
やがてバティンの遠距離攻撃が途絶え、視界が開ける。今度は実行部隊が攻撃を仕掛ける番だ。
バティンは飛棘を撃っている間も撃ち終えた後も西南西へ進み続けている。この魔物にとって討伐隊との交戦は全く望んだものではない。ヒトの立場からでも、それは断言できる。
メイソンらの作る守りの下ですっかり攻撃準備を済ませていた準火力組は一斉射撃の号令により、バティンの進路前方を狙って偏差射撃する。
一応、演習をこなしているとはいえ、討伐隊は再編直後である。新部隊が挑む緒戦の初撃にしては斉射の方向、射角、弾速などの弾道構成要素はよく均てん化されている。集弾性は高く、弾着範囲はかなり狭いものになる。
バティンからすれば、肢を止めるか、進路を少し大きめに変えるだけで実行部隊の攻撃を全て回避できる。ところがバティンはそのまま前進し、弾幕の薄い部分を縫うようにして駆け、避けきれない攻撃は舌と推定される長くしなやかな構造体で払い落とす。あの舌は防衛戦において防衛部隊の前衛たちを散々に苦しめてくれた、バティンの攻防両輪を担う厄介な能力だ。
互いに初撃を応じ終え、ヒトと魔物、どちらにも被害はない。しかしながら、両者の無被害では意味合いが異なる。
中庸な観点から最初の攻防を評価すると、実行部隊は危うげなく守った。一方、バティンの守りはかなり危うかった。同程度の応酬を繰り返した場合、実行部隊は無被害を保つだろう。そしてバティンにはそれなりに被害が生じるだろう。
おそらくバティンには多少の被害を受けてでも西南西への移動を優先したい何かしらの事情があるのだ。そして、それは討伐隊の事前予想の範疇でもある。
バティンは実行部隊の前を通り過ぎ、背中を晒すのも厭わず西南西に驀進する。
実行部隊はバティンを追い、守りの不完全な標的の背中に攻撃を浴びせる。
概ね、そんな流れになるだろうと討伐隊は見積もっていた。
ところが予想は外れ、バティンの肢が唐突に止まる。何を思い、何を考えているのか、まるで行く宛を失ったかのように立ち尽くしている。
止まるのであれば、今ではなく討伐隊が斉射した時に止まるべきだった。不可解な時機に凝立を始めたアンデッドの様は不気味の一言に尽きる。
実行部隊はすぐにでも第二射を撃ち込める。だが、撃たない。撃つべきではないと実行部隊を指揮する軍人エドヴァルドは判断している。グラジナに比べると多少見劣りするのは否めないが、エドヴァルドもまた高い指揮官適性を持つ軍人だ。
エドヴァルドの判断にイオスも同意する。
確かに標的は隙を見せている。しかし、忘れてはならない。バティンは知性ある魔物だ。進むには進む理由が、立ち止まるには立ち止まる理由がある。そして、それらの理由は、ある程度は生者でも了解可能なはずだ。
バティンの抱える事情全てを理解する必要はないだろう。しかし、一切合切を無視し、攻撃できそうだから攻撃していたのでは不測の事態に繋がりかねない。
バティンの出方を窺い実行部隊は待つ。
既に戦いが始まっているとは思えぬほど静かな時間が戦場に流れる。
一分経っただろうか。二分経っただろうか。
長時間と言うには短いが、戦闘中であることを考慮すると、あり得ないほど長い時間の末にバティンが動き出す。
進む先は西南西ではなく実行部隊のいる方向、どうやらバティンは本格的に第二次特別討伐隊と戦う気になったようだ。
無論、討伐隊としても、バティンが隊に向かってくる展開を可能性のひとつとして排除せず、きちんと対応を定めてある。しかしながら、そうなる可能性は低いと考えていた。
やはり野戦においては防衛戦で培った常識が通用しない。
新しいバティンの進路前方に狙いを定め、実行部隊は第二射を放つ。
射撃後、実行部隊は速やかに移動開始する。バティンが南から寄ってくるならば実行部隊は北へ引く。間合いを維持するなら当たり前の動き方だ。
追う側となる予定が一転、追われる側となってしまったものの一応は想定の範囲内であり、その程度で実行部隊は冷静さを失わない。しかし、揺さぶりは続く。
前方の空から少し高めの連続音が鳴り響く。本隊が射た嚆矢の音である。そして嚆矢に続き、魔法の信号弾が打ち上がる。
信号の意味は、敵である可能性を否定できない“未知の存在”が出現したことの報知だ。
“未知の存在”がいる方角は南西、距離は遠、脅威度は低、総じてバティンとは比べるべくもなく緊急性が低い。
それぞれの位置関係を考えると、実行部隊も本隊も現時点では“未知の存在”に対応不能だ。留意だけはしておき、バティンに集中する以外に選択肢はない。
気持ちを切り替え、実行部隊は第三射の準備に入る。
実行部隊は下がりながら、追いすがるバティンと攻防を繰り広げることになる。典型的な“引き撃ち”だ。
引き撃ちの際は引く方向の安全確保、つまり進路をいかにして整えるかが極めて重要な問題となる。
今回の場合、本隊が先行してくれているため、実行部隊は標的との攻防に専念できる。
しかも脚力の差は歴然としている。こちら方は速く、相手方は遅い。間合いの管理はそう難しくない。
実行部隊を追うバティンの速度は予想よりもかなり速いが、それも含めて想定の範囲内だ。
バティンが速度を上げた場合、速度を落とさせるのがイオスの役目である。
実行部隊を襲う飛棘と飛棘の合間に準火力組が第三射を撃つ。それに連動してイオスも水魔法を撃つ。
この第三射はイオスの水魔法を中心にして円を組むように弾幕を張っている。
イオスの水魔法と準火力組が放つ遠距離攻撃では威力に大きな差がある。
仮に今、二つの攻撃に対応しなければならないとしよう。二つの攻撃のうち、どちらかひとつは躱し、どちらかひとつは受けなければならない。
二つの攻撃の威力に差があるならば、威力の高い方を躱し、威力の低い方を受けるのが理に適っている。
もしバティンがそのままの速度で直進した場合、イオスの水魔法がちょうど直撃して、準火力組の遠距離攻撃は全て外れる。そういう弾幕配置だ。
バティンがイオスの水魔法をむざむざ受ける道理はない。速度を上げるのが容易ではない以上、バティンは速度を落とすか進行方向を変えるかするはずで、そこには準火力組の攻撃が降り注ぐ。
単純な攻撃手段としては、そこまで有効とはならないだろうが、代わりに間合い管理に有利に働く。そういう狙いで実行部隊は第三射を撃った。
ところがバティンはなぜかそのまま進み、イオスの魔法を受ける。もっとも、魔法攻撃をそのまま食らうのではなく、舌を活かして威力を削ぎ落とし、削ぎきれなかった分を身に受けたかたちだ。
たとえバティンほどの魔物であってもイオスの水魔法を受けて平気でいられるはずはなく、生者と違って悶え苦しみこそしないものの、アンデッドの肉体はいくらか損傷し、短時間ながらも駆ける速度が低下する。
落ちた速度はすぐさま戻り、損傷を感じさせない威力の飛棘をバティンは放つ。
いや、損傷を感じさせないどころか、むしろ威力はそれまでよりも増している。
いつになく差し迫った様子のバティンに、形勢有利のはずの実行部隊が気圧される。
飛棘の威力が少々増した程度でメイソン率いる防御組の守りは崩れない。この距離で撃ち合っているかぎり実行部隊は無被害でいられる。
だが、間合いが詰まっていったらどうなるだろう。
バティンは多少の被害も辞さぬ覚悟で実行部隊を追っており、現に間合いは、ほんの少しではあるが縮まっている。
戦場において、有るか無いかの有利不利などは簡単に覆る。応じ方を誤れば逆転は、それこそ一瞬だ。
焦る相手に引きずられてこちらまで焦るなど以ての外だが、相手の覚悟を見誤るのもまた致命的失敗だろう。
緒戦は互いに様子見で終わる算段だった。新参者たちが魔物との戦闘に慣れ、部隊全体が防衛戦と野戦における変化に順応し、第二次特別討伐隊が真の意味でバティン討伐隊として完成した暁に、このアンデッドを仕留められれば、それでいいはずだった。
だが、バティンは予想以上の領域まで強く、早く、速く踏み込んできた。
おそらくバティンは痛み分けで終わることを許さない。
生者かアンデッド、どちらか一方が滅びるまでこの戦いは終わらない。
長時間の戦闘を見越して魔力消費を抑えていたイオスは制限を少し緩めて魔法を撃つ。
明らかに威力の上がった一撃の危険性を見抜いたバティンが魔法を避ける。
回避行動を取れば、その分だけ遠回りとなり間合いは広がるわけだが、それを埋め合わせるかのようにバティンの闘衣が強力となり、闘衣の力で速度を上げる。
『どうあっても実行部隊に食らいつく』
そんなアンデッドらしからぬ確固たる決意がバティンの動きから強烈に伝わってくる。
バティンに気圧されていた隊員たちは、次はイオスの魔法に圧倒され、それから今度はイオスの思いとバティンの決意に呼応するかのように意気軒昂となる。
おかしなものだとイオスは思う。
経験の多寡は一人ひとり違うものの、完全な新人は部隊にひとりもいない。実力も経験もある者が揃っていながら今の今まで誰も戦う覚悟ができていなかった。
戦う集団となった実行部隊が次に撃った斉射は威力が跳ね上がっていた。目が覚める攻撃とはまさにこのことだ。
バティンは今度もイオスの水魔法を回避し、避けた先に落ちる準火力組の攻撃を舌で払い落とす。
しかし、手数の差によりまた新しい損傷がアンデッドの身にいくつか刻まれる。
バティンの飛棘はメイソンら防御組が完全に防ぎ、実行部隊の斉射はバティンに損傷を与える。
攻防を繰り返せば繰り返すほど標的には損傷が重なっていく。
だが、成果と評価するにはあまりにも損傷が小さい。このまま損傷を与え続けていっても、バティンの偽りの生命が燃え尽きる前に間合いが完全に詰まってしまうだろう。実行部隊の魔力消耗も無視できない。
この速度であれば馬の体力はそうそう尽きないだろうが、疑惑のエルザは体力的な意味で不安が尽きない。
覚悟を決めたところで実行部隊の優勢は依然として表面的なものにすぎない。このまま漫然と引き撃ちを続けても待っているのは実行部隊壊滅だ。
こちらから積極的に次の一手を打つ必要がある。
イオスがエルザを横目で見ると、エルザもまたイオスを見ていた。
あいも変わらずの冷たい目、しかし、戦闘が始まる前とは違って瞳はイオスを拒絶する風ではなく、何かを語りかけている。
『苦戦気味のようだが、そろそろ私も手を出していいかな?』
目の前にいるのはエルザなのに、瞳から読み取った言葉はアルバートの声でイオスの頭の中を流れる。
イオスが小さく頷くのを見たエルザは視線をエドヴァルドへ移す。
エドヴァルドはどこか諦めの混じった表情でエルザに行動許可を出す。
指揮官から攻撃許可を得たエルザが魔法を構築し始める。
実行部隊とバティン、彼我の距離は交戦開始時に比べてかなり縮まっている。初期に掲げた理想の間合いよりもだいぶ近い。
だが、その間合いは様子見のために理想的なのであって、エルザからすると理想からはかけ離れている。
むしろ今の距離こそがエルザにとっては好ましい。
部隊の期待とイオスの不安、そういった交々の感情を一身に集めるエルザの前に生じた火が静かに育っていく。
期待の大きさに応えるかのように膨れ上がっていくのは火魔法ファイアーボールだ。
美しく大きな火球が隊員たちに深い衝撃を与える。
心を動かされたのはヒトばかりではなかったらしく、バティンに変化が見られる。
火球の作り手にバティンが飛棘を集中させる。威力、弾速ともにそれまで放たれていたものよりも数段、上だ。
火力役が狙われるなど分かりきったこと、展開を予想していたメイソンたちは防御障壁を更に強化し、問題なく飛棘を弾き落とす。
「ヒューラー教授」
エルザはイオスをちらりとも見ずに言う。
「手筈どおりに」
イオスはエルザの前で揺らめくファイアーボールに違和を感じながらも異議は唱えず、エルザに向かって大きく頷く。
視線を全くイオスの方へ向けないエルザにイオスの首肯がきっちりと視認できるはずはない。それでも、エルザは魔法を撃つ。
火球が手元から離れる瞬間にエルザの表情が変化する。彼女の横顔は、アルバートがハント対象の生命を刈り取る時に見せていた悦びの表情に、どこか重なるものがあった。
飛んでいく火球は、イオスの事前想定よりもだいぶ小さい。
意図せず攻撃魔法に造形美や機能美といったものが生じることは稀ながらある。では、このファイアーボールが纏う美しさもそういった類のものかと言うと、そうではなさそうだ。
美しいには美しいが、演習試技でエルザが見せたファイアーボールと比較し、火魔法として洗練されている印象は受けない。威力は、むしろ試技の一発よりも低そうだ。
魔法として完成されたことにより自然に生じたものとは違う、そこはかとない悲しさや儚さを伴う、どこか懐かしい美しさ。
(これと同種の美をかつて体感したことが有る。それも一度や二度ではなく何度もだ)
正体不明の既視感がイオスの心を惑わせる。しかし、イオスの魔法を撃つ手は惑わない。
エルザのファイアーボールに少し遅れてイオスが水魔法を放つ。小さいながらも強力な魔力を込めた槍、アイススピアーだ。
アイススピアーはファイアーボールを追いかけ、追いつき、そして貫く。
ファイアーボールは貫かれるのを待ちかねていたかのようにパッと炸裂し、大きな主席火弾と無数の小さな子弾となって地に降り注ぐ。
バティンの俊敏性は決して低くない。けれども、細かく散らばる子弾の全てを避けるには身体が大きすぎた。
悲しく光る炎がバティンの身体に吸い寄せられるかのようにいくつも舞い降り、そして燃え上がる。
エルザほどの魔法使いが放ったファイアーボールにしては、立ち上る火の勢いは存外に弱い。
だが、光る炎に身体の一部を包まれたバティンは様子を一変させる。
かつてないほどに荒々しい闘衣を展開し、悲しい光を闘衣の力でかき消そうとする。
理屈ではなく直感でイオスは理解する。バティンが苦しみ、嫌がっているのは火ではない。光だ。
(そうか。分かったぞ! あの光は――)
イオスの閃きを肯定するかのようにエルザがくつくつと笑う。
「見てくれは奇妙でも中身はちゃんとアンデッドの模様です。聖なる火に浄化される喜びを身体で表現してくれています」
イオスが光に物悲しい美しさを感じたのも当然だ。火球は聖光を放っていたのだ。
火と聖の合成魔法、これなら確かに対アンデッドの切り札になる。
火単一属性のファイアーボールに比べれば破壊力は落ちる。代わりにアンデッド殲滅力が劇的に増す。
こんな切り札があるなら是非、演習で見せてもらいたかったとイオスは内心で思う。ただ、隠す妥当性はどうあれ、勿体ぶるだけの価値があったと認めざるをえない。それくらい派手にバティンは苦しんでいる。
エルザは愉悦に浸りながら次弾の構築に取り掛かる。
怪しくも頼もしいエルザに触発されてイオスも魔力を練る。
「いける!」
「このまま倒せるぞ!」
守りの要と攻めの要、メイソンとエルザの魔法に鼓舞されて実行部隊の士気が最高潮に達する。
能力を隠し、秘密を抱え、しかもアンデッドには不相性の火魔法の使い手で、攻撃役としての価値が疑われていたエルザが想像を遙かに上回る火力を見せた。そして標的が見事に苦しんでいる。
これで興奮するなとは無理な相談だ。
一魔法使いとして冷静に魔法を考察すると、純粋な聖属性攻撃としての対アンデッド殲滅力なら、きっとツェザリの操る魔法のほうが強いだろう。
だが、実用性ならば間違いなくエルザの合成魔法だ。
回復に解呪に浄罪に、ツェザリは器用になんでもこなす。
ツェザリとは対照的にエルザは攻めに特化している。
火魔法使いの好みがちな「殴り勝つ戦い方」がエルザにも、とてもよく似合いそうだとイオスは思う。
闘衣を荒らげるバティンが完全に浄化されるまでやられっぱなしのはずがなく、聖なる火にまだ身体を焼かれたまま実行部隊へ猛進する。膨れ上がった闘衣を存分に活用した爆発的な加速力で隊に迫る。
ここが勝負所と見たイオスは魔力を惜しまず魔法を放つ。
なりふり構わず闘衣を展開しているバティンのこと、イオスが本気で放つ水魔法でも完全に勢いを落としきるのは難しいかもしれない。
氷の壁を作ればバティンの進路をそれなりに阻めるだろうが、それではエルザがこれから撃とうとしている魔法まで邪魔してしまいかねない。
複雑に考えずとも、単純に最も討伐が近付く手を選べばいい。ならば放つは再びアイススピアーだ。
胴体に直撃するならばそれもよし、肢を掠めるだけでもバティンの行動をある程度は阻害できる。
バティンがエルザへの怒りに我を忘れてアイススピアーの受け方を誤った場合、部位破壊も見えてくる。
(くくっ)
誰にも悟られぬほど小さくイオスは笑う。つい漏れ出てしまった自嘲の笑いだ。
安全性や確実性を重視するなら、もっと別の高い戦い方を模索すべきだ。
しかし、イオスは感情に身を委ね、自分が楽しめる戦い方を選ぼうとしている。
あの日はカリナを手に掛けようとするアルバートに魅了され、今日この日はアンデッド討伐に悦楽を見出すエルザに魅了されている。
(どうやら自分という人間は、危険な魅力を纏う人物に弱いようだ)
思いがけない場面で思いがけない事実を自覚させられ、どうにもおかしくて堪らない。
老いた魔法使いが娯楽を哀願する手立てとしてアンデッドに魔法を放つ。
聖なる光に身を冒されてなおバティンは判断力を失わない。阻害よりも破壊の意思を込められたアイススピアーの危険性を正確に見抜き、大きく確実に回避する。
だが、大きな身体で大きく回避すれば必ず反動が生まれる。特に突進の勢いが激しかったせいで、反動もまた大きいものとなる。
回避の反動で体勢が崩れているバティンに次のエルザの魔法、火炎放射が襲いかかる。勿論これも聖なる光を帯びている。
バティンは体勢を立て直して回避行動を取るものの、追尾性を有する火炎放射からは逃れられない。
聖光を放つ火が今度はアンデッドの胴体に直撃する。
生者ならば進む足が完全に止まり、地に転がって悶絶するのだろうがバティンはアンデッドだ。甚大な損害を被ろうとも肢は止まらない。火炎放射の撃力がそこまで高くないこともあり、勢いはほとんど落とさずに、なお部隊に向かってくる。突き進みながら、憎き魔法使いに飛棘を撃つ。
闘衣任せの猛進により間合いがまた更に縮まっているものの、それでもまだ実行部隊とバティンの間にはかなりの距離がある。
もっと距離が縮まらないことにはバティンの間合いとはならない。この距離はまだまだエルザの間合いだ。
バティンの飛棘はエルザに届かない。
エルザの聖火は面白いようにバティンに当たる。
バティンは撃力の高いイオスの水魔法を辛うじて避ける。瞬間的な破壊力はエルザの聖火よりもイオスの水魔法のほうが高いとバティンは分かっている。アイススピアーを避けながらだと、追尾性のある火炎放射はどうやっても避けられない。
聖火が繰り返しバティンの身体を撃つ。二撃、三撃と重ねていくと、バティンの身体を包む火の勢いが増していく。
だが、四撃、五撃と攻撃を重ねていっても、火勢は大きく変化しない。エルザの魔法技量では、このあたりが威力上限なのだと思われる。
身体の各部位が機能不全に陥っているのだろう。バティンの動きが急激に緩慢になっていく。大勢は既に決した。
生者であればとっくに動けなくなっている。それだけの損傷をバティンは負っている。しかしながら、アンデッドのバティンはまだ辛うじて動けている。
聖火がこの大きなアンデッドに完全な滅びをもたらすには、もうしばらく時間がかかりそうだ。
イオスは魔法を撃つ手を止め、成り行きを見守る。
その気になれば水魔法ですぐにでも止めを刺せる。だが、それは未来の担い手たちに託すべきだろう。
イオスが手を止めると、もう誰も攻撃しない。誰が止めを刺すべきか、全員が分かっている。
無言の意見に耳を傾けたエルザが火炎放射を止め、また新しい魔法の構築を始める。
魔力を練り上げるエルザの前に現れるのは、異型のファイアーボールとでも呼んだらいいだろうか、少し小さい奇妙な火球だった。
球と表現するには厚みがなく、ファイアーボールを前後方向に押し潰したような、何とも言い難い形状だ。
そこからどう形が変わるのか皆が刮目していると、エルザはその期待を敢えて裏切るかのように、そのまま魔法を前方へ弱々しく放つ。
ファイアーボールと大きく違うのは、魔法が撃たれても術者の手元からは完全に離れず、火炎放射のように繋がっている点だ。
ファイアーボールに比べれば小さいとはいえ、筒のように長く伸びるその魔法はずんぐりと太い。そして、それまでエルザが撃っていた火魔法にあった美しさがない。つまり、この一撃は聖属性との合成魔法ではない、純粋な火の魔法だ。
せっかくの火と聖の合成魔法の使い手でありながら、アンデッドに止めを刺すための一撃から敢えて聖属性を抜く。
意表を突くエルザの魔法選択がイオスをムムムと唸らせる。
勢い不十分に飛び出した火の筒はバティンの随分手前で垂れ、先端が地面にぶつかる。
そして、地の上で力を溜め込むかのように少し収縮したかと思うと、まるで弾力のある球さながらに勢いよく跳ねた。
跳躍した火の筒の先端はまたも放物線を描いて地面に激突し、そしてまた更に勢いを増して跳ねる。
筒は落ちては跳ね、落ちては跳ねを繰り返しながらバティンに迫っていく。
バティンの目前で火の筒は高く大きく跳ねて頂点に達すると、そこから激しく落下する。
筒は火魔法にあるまじき撃力をもって、そこにあるバティンの頭部を打ち砕き、止まった。
形状不確かだった頭部を完全に潰され、バティンはついに動かなくなった。
防衛部隊とあれだけ長期間、戦闘を繰り広げた強大な魔物の最期とは思えない、呆気ない幕切れだった。
何とも言えない無常感が広がり、静寂がその場を支配する。
しばらくすると、支配への隷属に疲れた隊の誰かがポツリと言う。
「見事です」
また別の誰かが、少しおどけたような、明るい声でエルザに尋ねる。
「今のは何という名の魔法でしょう」
すると、エドヴァルドが咎める口調で言う。
「危機はまだ完全に去っていない。そういった質問は後回しだ」
本体から報知された“未知の存在”を思い出した隊員たちが仲良く南西を見る。
視線の先に広がるのは立夏を喜ぶ木立と雲の白が映える青空で、脅威を隠し潜ませている様子はどこにもない。
緊張の糸を完全に切らしてはならないが、息をひとつ衝く余裕程度は持っても良さそうだ。
戦いの高揚感と朧な達成感、そして強敵が倒れたことによる奇妙な喪失感が渾然一体となった、戦いに身を投じた者しか味わうことのできない特別な雰囲気が部隊全体を包む。
浮つく空気に当てられないようにしながらイオスは静かに考える。
再編前の討伐隊もとい防衛部隊は王都近くでの防衛戦でバティン相手に大変、苦労した。それが、こうやって真の実力者が若干名、加わっただけで、苦労らしき苦労もせずに呆気なく倒せてしまう。
争い事や勝負事はそうでなくとも水物であり、天秤は如何様にも傾く。
ほんの少し世界の風向きが違っていたら、この地に屍を晒すのはイオスたちだったかもしれない。
そう考えると、若きアンデッド討伐者たちと一緒になって勝利の余韻を噛みしめる気にはなれない。
「さて、次の脅威に対応しようにも……」
煌々と燃えるバティンを見ながらエドヴァルドが言う。
「燃え上がるバティンをこのままにするわけにもいくまい」
「せっかくの機会です。ここはひとつメイソン元大尉のアレを拝見したいですなあ」
「まったく……見世物じゃないんだぞ」
はたと面白おじさんの使命を思い出したメイソンは、口では窘めるようなことを言っておきながら、そそくさとバティンに近寄っていき、魔法構築に着手する。
やり取りの意味を理解しているのは軍人時代のメイソンを知る人間たちとイオスくらいのものだろう。
防御魔法の名手メイソンがこれから作り出すのは言わずもがな、防御魔法である。
防御障壁を球状に展開する場合、攻撃を弾く特性は球の外側に向かって発揮するように魔法を構築する。
この対攻撃特性を翻転させ、内側に向かって発揮するように障壁を作ってやる。すると球の内部で燃えている火を極めて効率的に消すことができる。
防御魔法を使える者なら誰でも再現できそうなこの技術、案外できる者はいない。頑張れば鏡文字は誰でも書けるが、実際に実用水準で書く者はめったにいない。理屈の根底としては防御魔法の翻転も鏡文字も同じなのだろうとイオスは納得している。
使い手の少ない安全な鎮火法を高い水準で使いこなす。これこそが、メイソンが火魔法講座で重用されている最大の理由であり、決しておじさんのふざける姿が面白くて冗談半分に大学に採用されたわけではないはずだ。
色々な意味で火魔法講座の火消し役として働くメイソンを何年も見てきたイオスにとっては飽きるほど見た光景だ。
徐々に小さくなっていく防御障壁球によって火が押し潰され、消えていく様を観覧する一同は、残存する脅威を一時的に忘れて感嘆する。
溜め息に混じって聞こえてくるのは、盛り上がっている場を更に盛り上げるための指笛だ。
さすがに浮かれ過ぎだとイオスは思ったものの、音の発信源が随分と遠いことにすぐに気付く。
それは指笛ではなかった。
「本隊がまた嚆矢を射った!」
本隊からの警告に全員が北方を見る。嚆矢が放たれたなら、次は信号弾が打ち上げられるのだから、それは見るだろう。
まだ消火を完了させられていなかったメイソンは、即座には北を見ず、消火が完了してから北を一瞥して、そしてすぐに視線を戻した。
メイソンが目を切ったのは一瞬だった。
イオスは一部始終を見ていたが、位置が悪かった。
火が消えて黒く焼け焦げたバティンの身体が前触れもなく動く。
バティンから飛来する物体をイオスは反射的に身を捩って躱した。
メイソンはあまりにも近かった。目を切らなかったとしても避けるのは難しかっただろう。
メイソンの腹に飛び込んだバティンの舌が胴体を貫き、背中からひょっこりと顔を出す。




