第八一話 呪いへの道程 七 心温まる思い出
かつて『北の森』の名で呼んでいた場所を我々は駆ける。
目をいくつも浮かべ、走らせ、地から空から前後左右、全方向を具に観察する。
それだけやってもワイルドハントそのものはおろか、ワイルドハントが通った痕跡すら見つからない。
南の空高くに沖した太陽につられるように我々も手近な高台に登る。
やはりワイルドハントの姿はどこにも見えない。
鳥の目で見つけられないものを、少しばかりの高所を確保した程度でアンデッドやクローシェの目で見つけられるわけがない。
分かりきっていても私は登らずにいられなかった。
……どこだ。私の家族は……ワイルドハントはどこにいる。
どこに行けばワイルドハントを探し出せる。何をすれば家族を取り戻せる。
家族のためであれば私はどこにでも行こう。何だってやるさ。何を失ってもいい。何でも懸けられる。
だから、針路を示してくれる何かが……手掛かりはないのか。
乾いたアンデッドの拳を握り込み、目という目を皿にする私の背中に声が掛けられる。
「ノエル。“お願い”、休んで」
献策でもあるのかと思ったら、また時告げか。
いつからともなく計時係としての役割を担うようになっていた情報魔法使いの告知に従い移動の足を止め、休息の準備に取り掛かる。
荷を下ろし道具を広げながら、私は悶々と考える。
私が平静でいられないほどの焦燥に駆られているのは隠しようもない純然たる事実で、度重なる休憩時間告知に辟易しているのもまた事実だ。
それでも適切に休みを取らせるのは生体管理者の義務であり、普通に『頃合いだ』と言われれば休憩に移る。“お願い”は不要だ。
この情報魔法使いはいつもそうだ。自分のためにはほとんど“お願い”を使おうとせず、事あるごとに他者や全体の利益ために使おうとする。
“お願い”の使い方もさることながら、もっと自分本位な生き方をするよう説くべく、背負子から降りて自由になった情報魔法使いを強い思いで正面に見据える。
すると、途端に謎の危機感が私を襲う。
それは不安や心配といった表現では到底足りないほど差し迫ったもので、しかしながら、何が発端となって湧き出し始めたのか分からない、正体も由来も不明の感情だ。
私は何に怯えている。何を恐れている。
もしや、無意識の意識が迫りくる脅威を感知したのだろうか。
慌てて周囲を見渡す。
至近距離に我々を脅かす影は見当たらない。
観察範囲を近距離、中距離と徐々に広げていき、遠距離まで安全が確認できたらもう一度、視点を近くへ滑らせていく。
中距離、近距離ときて、ある箇所を通過した瞬間、正体不明の感情が急激に増幅する。
そのある箇所とは件の計時係で、けれどもその人間は怪我を負っているわけでも苦悶しているわけでもない。
沈痛の面持ちではあるものの、私の危機感を煽っているのはそんな上面の情報ではなく、もっと深くまで根を張った何かだ。
では、その何かとは一体なんなのか。
ええい、変装魔法越しに見ても埒が明かない。
手製の魔道具を起動し、魔法の下に隠れた情報魔法使いの真の顔を窺う。
……。
あれ?
ラムサス、ちょっと頬が痩けた?
危機感は一気に横方向に広がり、拡大する勢いに沿って視点を動かすとそこにいたのはクローシェで、クローシェもまた僅かながら頬が痩けている。
痩せた二人。
それは、この国を襲う未曾有の災厄に比べたら取るに足りない些末な出来事だ。
それなのに突如、万力で締め上げたかのような強烈な圧迫感が私の胸を押し潰し、同時に灼熱を帯びた過去の映像が凄まじい勢いで脳を焼き焦がす。
“判定試験”で痩せ細り、私から与えられた痛みに声なく悶えるクローシェ・フランシス。
そして、それをかき消すようにして下から浮かび上がってきたのは、私が背を向けて逃げ出した“現実”……骨と皮になるまでガリガリに痩せたあの人の姿……。
私はあなたの……あなたを……。
「たとえ自覚がなくとも、あなただって疲れている。ほら、そこに腰を下ろそう」
ラムサスの一言が、緊張で停止していた私の呼吸を再開させる。
派手に喉から喘音を奏でながら肺に空気を取り込むと、暗く狭まっていた視界が広がりを取り戻す。
私は……夢を見ていた……。いや、今も夢を見ている。
生きて、諦めきれない夢と忘れられない悪夢に苛まれている。
キーラから……あの憐れな人間から奪ったこの肉体の生命は、いずれ必ず尽きる。しかし、それが今であってはいけない。今、死んではいけない。
私には、生きる理由がある。
自分をよく見ろ。
クローシェも私もそれほど疲労を感じていないが、クローシェは“抗病因子保有者”で、私は平常からかけ離れた異常な心理状態に置かれている。どちらも疲労管理の指標としては不適当だ。
ウリトラスは後遺症による修飾もあって疲労に鋭敏で、クローシェや私よりも指標として遙かに信頼できる。父の身体は飢え、渇き、睡眠不足、慢性疲労、どれも強く感じている。
他の小さな傀儡にしてもそうだ。
生命球に宿る命の火は今にも全て消えてしまいそうなほど小さく頼りないものになってしまっている。
ラムサスに言われる度に休息を取っていた。補給も普段より多めにしていた。しかし、それらはまるで足りていなかった。行き届いていなかった。
そもそも、最後に休んだのはいつだ。……もう、思い出せない。それくらい長時間、連続で行動している。
ヒトは二、三日食べずとも水分さえ摂取できていれば身体が怠い程度で済むが、ネズミは違う。元の蓄えが少なかった個体から次々に餓死していく。私が管理しているネズミたちは単なる空腹を超えた、死の足音の迫った飢餓に苦しんでいる。
光り油虫をはじめとした虫たちもかなり弱っている。回復させようと思ったら、一応は可能だ。しかし、衰弱が進んだ成体に手間暇かけて回復させよるより、次世代の育成を促進して全て入れ替えたほうが手っ取り早い。それくらい惨憺たる状態だ。
これらはいずれも管理が杜撰になったツケだ。
私はこんな……ここまでボロボロのパーティーで戦闘力未知数のワイルドハントと接触を持とうとしていたのか。
こちらの状態が万全だったとしても戦って下せる相手か全く分からないのに……。
危ないところだった。“現実”に傷を抉られなければ、私はまた無意味に命を落としていた。
私は、まだ死ねない。
あの日、キーラは答えを出した。そして、私もまた決めた。安易には命を投げ出さず、最後まで生きて苦しむと。
それに、夢を見るにも、夢を叶えるにも、生存は必須だ。
私は単純に命を失っただけだと滅びには至らない。
しかし、夢は命あってこそ、ヒトとして生きてこそ見続けられる。
肉体から生命の灯火が消えてヒトでなくなった瞬間、夢は夢でも目標でもなくなる。
アンデッドは生者と夢を共有しない、できない。
だから私は生きる。ヒトとして生きて、儚い夢を追い求める。
「今日は私に全部任せて、あなたは何も考えずに休んで」
自殺紛いの愚行で命を落とすのは自分ひとりではない。ウリトラスやラムサスまで巻き添えになる。
「それは断固拒否します」
ラムサスは私に拒絶されても構わずに荷へ手を伸ばす。
彼女の性格を考えると、言葉ではなく行動で示されないかぎりどこまでも食い下がってくるだろう。
「あともう少しだけ移動しましょう」
私の言葉に耳を貸そうともしないラムサスではあるが、小妖精から送られた情報は無視できないらしく、荷を漁る手がピタリと止まる。
困惑するラムサスを余所目に、私は広げかけていた道具をまとめる。
戸惑う協力者に私は補足する。
「あまりここは休むに適した場所とは言えません」
ラムサスの厚意には感謝する。かと言って休憩をラムサス任せにしていいわけがない。
適切な疲れの取り方は私のほうが断然、知っている。
良い休憩は、良い場所を見繕うところから始まる。なんとなく決めた場所で休んでも、なんとなくしか疲れが抜けない。
「適当な場所を見つけて、そこでちゃんと休みを取ろうと思います」
疲れを取りきれない簡易休憩ではなく、身体の芯から根こそぎ疲れを取る本格的な休息を取る。
その必要があるくらい、このパーティーは疲弊している。
「休んではほしい。でも、そんなにしっかり休もうとされると、それはそれで不安になる。脅威はワイルドハントだけじゃない。バズィリシェクアンデッドの動向もかなり気がかり」
完全に注意から抜け落ちてしまっていたが、そういえばそんな脅威もあったのだった。
バズィリシェクアンデッドだけではない。私はテンゼルとジャックに会い札遊技に興じたあたりから、視界に入っているはずのものが見えない視野狭窄に陥っていたように思う。
ひとつや二つではない、かなり多くの脅威の尻尾に指の先が触れた気がする……のだが、確信は持てず詳細も不明だ。
私は正気に戻ったようでいて、まだいつもどおりとまではいかない。それに正常化したところで、眼力にしろ思考力にしろ大したものは持ち合わせていない。
いきなり思考範囲を広げ、認識が十分にできていない多数の脅威についてああだこうだ考えても全てが疎かになるのがオチだ。
まずは実在がほぼ確定しているバズィリシェクアンデッドについて思考を掘り下げるべきだろう。
ナフツェマフでのバズィリシェク討伐が不完全だったのは王都を発った後に考えたとおりだ。今回は、不完全討伐の少し後について考えてみよう。
我々は旧ロレアル領に移動してゴルティア軍の後方部隊に打撃を加えて回り、最終的にヴェギエリ砦で西伐軍本隊とぶつかった。
今、思えば西伐軍との対峙も自殺行為以外の何ものでもない。
逃走経路を事前に用意し、さらにドラゴンを呼び寄せていたから、少し巡りが悪くとも全滅まではしなかったかもしれないが、手足の大半を失わずに済んだのはひとえに運が良かったからだ。
過去の悪手を悔いるのが本題ではないので、その件はひとまず不問に付すとして、バズィリシェクアンデッドはゴルティア西伐軍の後方を撹乱していた当時の我々の足跡をなぞるかのように移動し、各地に被害を及ぼしている。
我々はヴェギエリ砦近くでの戦闘後、西へ大きく移動した。アーチボルクの南に広がるフィールドでグレイブレイダーと戦っていた大森林の一柱ツェルヴォネコートを横槍の要領で討伐し、王都で戦利品を売り捌いた。
銭袋の軽量化と引き換えに装備を更新した我々は西の果てロギシーンへ行き、地下に潜伏した。
テンゼルの情報提供を途中で切り上げてしまったせいで時間的詳細は未判明ながら、我々がロギシーンにいた間ずっとバズィリシェクアンデッドが王都の防衛部隊と交戦していたわけではないようなので、バズィリシェクアンデッドの移動速度は我々よりかなり遅いものと推測される。
アンデッドに転化後しばらく経って能力が落ち着くと、以降はクルーヴァに対してやったような強制育成でもしないかぎり基本性能は急激に変化しない。つまりバズィリシェクアンデッドの足は今もそこまで速くないはずで、我々の現在位置を考えると今日、明日バズィリシェクアンデッドの急襲を受ける可能性は極めて低いと考えて差し支えないだろう。
ワイルドハントのほうも、直ちに我々の脅威にはなるとは考えにくい。ワイルドハントがここからそう遠くない地点に逗留しているのであれば、血眼になって彼奴らを探している我々がその痕跡すら発見できないのはおかしい。
私はラムサスに見解を述べる。
述べられたラムサスはまずまず納得した表情で頷く。
「今日はしっかりと休んで、その後はどうする気でいる」
「そうですね……。アーチボルクに戻って再度情報収集に取り組み、情報の精度を上げたいと考えているのですが、あなたはどう思います?」
自称、軍略コンサルタントは意見を求められるのが嬉しいようだ。それまでずっと顔を覆っていたもの、何と言ったらよいか、気兼ねや遠慮のようなものが少しだけ晴れる。勿論まだ深い憂慮は残っているものの、それでもさっきまでに比べたら、ずっと普段にちかい表情で回答する。
「あまり賛成できない。バズィリシェクアンデッドの移動速度はあくまでも推定で、確定はしていない」
「のんびりしていられる余裕が無いのは否定しません。ですが、調べ物を二、三する時間が取れないほど切迫しているとは思えません」
「その調べたい二、三って何?」
「死体損壊以外にワイルドハントの二次被害があると思うのです。それを――」
「それなら、もう調べはついている」
「あの都市が今、最も欲している資源も知っておき――」
「それも調べてある」
ラムサスの顔は真剣そのもので茶化した風も楽しんでいる風もないのだが、その下に隠された感情が漏れ出ているように感じられるのは、私の気のせいだろうか。
「私はあなたを高く評価していたつもりでしたが、それでもまだ過小評価だったようです」
ラムサスは私が知りたがるであろう情報を先回りして調べていた。ただし、ソボフトゥルの特徴を考えると、まだまだ調べ足りない部分が必ずある。
そして、どこが調べ足りないか知るためには是が非でも金銭的余裕が欲しい。
金で買える情報は金で買い、金を積んでも売ってもらえない機密性の高い情報を小妖精や審理の結界陣などの能力で補う。
金と能力、両方を適切に使わないと情報収集の効率はガクンと落ちる。
休息後ここから大急ぎでアーチボルクに戻ったとして、時間はそれなりに確保できる。金になる魔物をいくらか狩るのだって造作もない話だ。
しかし、換金性の高い魔物を十分な量、探し出して仕留め、それらを適正価格で売却し、金で買える情報を買い漁り、足りない情報を能力で集めて……と、全部やっていられる時間があるかと問われると確かに疑問だ。
「では、改めて聞きましょう。我々はどう動くべきと考えます」
「休んで頭と身体をすっきりさせたら、西へ動こう。一処に……特にマディオフにとって重要な街の近辺に留まるのは好ましくない。こっちが西方向に動き続けていればバズィリシェクアンデッドとの意図しない接触を避けられる公算が大きい。王都の防衛部隊はバズィリシェクアンデッドとの交戦を避けられて、アーチボルクにも取り敢えず被害は出ない。私たちはバズィリシェクアンデッド討伐の具体策を練られる」
私はこういう軍事参謀的な考え方がどうしてもできない。特に魔物について考えようとすると、ついつい具体的な討伐手法に思考が偏ってしまう。
だからこそ、それができるラムサスを連れ歩く価値は高い。
「なるほど……。次は、ワイルドハントに関しては、どう思います。私の内心を慮る必要はありません。情を排して、本質だけ言ってください」
「……アーチボルクを出た時は北に向かっていただけで、そこから先どの方角に向かったか誰も分からない。私たちが西進して、そこでバッタリ出食わしても不思議はない。でも、完全に勘なんだけど、どこにも居ないんじゃないかな、と思う」
「どこにも居ないとは異なことを言います」
「どこも異じゃない」
私の何気ない相づちにラムサスの目の色が変わる。
この反応は完全に私の想定外だ。
明らかに責任追及の色を帯びたラムサスの視線に当惑しつつ、その理由を考えてみるものの、何も思い当たるところがない。
意に適う回答を返せず沈黙する私にラムサスは不快感を隠さずに言う。
「ダンジョンに……それもあまりハンター人気が無いとか、知名度の低いダンジョンに籠れば、それだけで簡単に消息不明になる」
ダンジョンには知る人ぞ知るものや未発見のものが、きっといくらでもある。
ヒトとは違う行動原理を持つワイルドハントがヒトの行動範囲から外れた場所にあるダンジョンを発見して、そこに挑戦したとしても何も不思議はない。
不思議なのは、それでどうしてラムサスが不機嫌になるかなのだが、理由を尋ねるとさらに機嫌を損ねてしまうのは火を見るより明らかなので、それはまたの機会にするとしよう。
「はい。異ではありません」
「そう。どこも異じゃない」
怒り冷めやらぬ情報魔法使いと議論を継続するのは、賢明とは言い難い行為だ。
私はラムサスをそれ以上、刺激せぬよう静かに休む場所を探した。
◇◇
人体には『沈黙の臓器』と呼ばれる内臓がいくつかある。
胃袋はそうした静かな側には該当しない『雄弁な臓器』のはずなのに、私の空っぽの胃袋は一切、空腹を訴えない。
唐突に寡黙派になってしまった胃袋に淡々と一定量の食料を押し込み、眠気も感じずに仮床に就くと案外すんなりと眠りに落ちる。
記憶に残らぬ夢を二つ、三つと見た後、覚醒に至るものの、設定した睡眠時間はまだ経過しておらず、再入眠に期待して瞑目を維持する。
微睡みと表現するにはやや覚醒度の高い私の脳裏に家族の姿が浮かんでは消える。
私は実家の焼け跡で焼死体をひとつも発見しなかった。余す所なく調べたとは言い難いが、それでも人力だけで調べるよりもずっと細かく調べられた……と思う。
それだけ調べて骨の一本も見つからなかったために、『家族は生きている』という暫定的な結論を私は導き出したわけだが、それは多分“現実”から目を背けた“真実探し”に類する思料なのだろう。
認めたくはない。断じて認めたくはない。
だが、それでも認めなければならない。
辛くとも、悲しくとも、苦しくとも、“真実”に逃げるな。現実を見ろ。現実に向き合え。それが、できなければ待っているのは死だ。
それも、納得のいく死ではなく、後悔ばかりが残る納得のいかない、残念な死だ。
私は、まだ死ねない。
家族は死んだ。ウリトラスとエルザ以外、全員が……。
死の事実を受け容れた瞬間、私の許されざる罪が永遠となって私にのしかかる。
いつぞやラムサスが言ったとおりだ。私がキーラに向ける想いとは結局そんなもの……。
キーラを、あの家を、アーチボルクを、マディオフを守りたいと思ったのはキーラという人間を、母親を愛しているからではなく、自分の罪の意識を軽くしたいから。
たとえ許されざる罪だとしても、キーラが生きていれば、いつか許されるかもしれないという一縷の望みが繋がるから。
罪の永遠化を免れるから。
“現実”を直視せずに済むから。
だから私はキーラに生きてほしいと願った。
しかし、もう私の罪に赦しを与えられる人間はいない。
もし、およそ一年前のあの夜ではなく、もっと早くに告解していたら結果は違っただろうか。
もはや思い出すこともなくなっていた古い映像、私が学校に通い始めるより前の光景が瞼の裏に浮かぶ。
私の前には小さなエルザがいて、その横には乳母のナタリーがいて、“あの目”をしているけれども若いキーラがいて、本でも読みたいなあ、と思っていると、ウリトラスが出征先から本を持って帰ってきて……。
ああ、そうだ。火傷を負う前のウリトラスは、こんな顔をしていたっけ。瘢痕まみれの顔を毎日見ていたせいで、元の顔をすっかり忘れていた。
ウリトラスに怒られたことは一度もないのに「前」の影響で私はウリトラスを恐れていて、それでも恐る恐る眺める父は魔力、気力ともに充溢していて輝かんばかりだった。
喉が焼けてしまう前に、もっとウリトラスと話しておけばよかった。
映像は次々に流れ、次第に私は成長して家を空ける日が増え、そして兵役によっていなくなる。
私が不在の間も家族は家で暮らし、成長し、老い、再び私は戻ってくる。
本当は真っ先に……いや、エルザの次くらいにキーラに会いたかったけれど、顔を合わせる勇気が出なかったから、取り敢えずつまみ食いする体を装ってアナの所へ行き、それでやっと心の準備ができてキーラの部屋を訪ねる。
キーラの部屋の扉の前に立って、つまらぬことを考えていたら、室内のキーラがいきなり扉を開けるものだから、驚かされたなあ。
開いた扉から覗く部屋の中、化粧台の上には香水でも入っていそうな瓶があって、とても洒落てはいるけれど少しだけ安っぽさのあるその瓶にはどこか違和感があって……。
……。
そういえば私はなぜあの瓶に違和を感じたのだろう。
今なら本気で挑むと謎が解けそうに思う。
謎を解くには鍵が要る。因はどこにある。私の記憶のどこかにあるはずだ。
私は当時、瓶に違和を感じていた。つまり、因は瓶を見た後ではなく、瓶を見る前の記憶の中に存在する。
徴兵中に美容品の話などした覚えはないから、徴兵期間は無視していい。
徴兵前、最後にキーラの部屋を訪ねたのはいつだろう。
ええと……。
思い出した。ハントで貯めた金で買ったネックレスをキーラに渡した時だ。
この時、化粧台に瓶はあったか?
私は最初、部屋の中を観察するどころではなく緊張していたから、よく覚えていない。
私は観察力の全てをキーラに注いでいた。
贈り物の入った箱を受け取るキーラは厳しい表情で、箱を開けたら開けたで今度は悲しげな顔になる。
キーラに喜んでもらえず、私は深い悲しみを覚える。しかも、「前」に関連した記憶と感情の矛盾に気付いてしまったために、アールとしてそれまで生きていて最もひどく心が乱れてしまう。
心が乱れれば当然、顔もひどいものになる。それをエルザには見られたくないから、心配そうに私を見つめるエルザから顔を隠して自分の部屋に逃げ込む。
床に顔を埋めて私はあれこれと考える。「前」の記憶が、どうも「前世の記憶ではないのではないか」という、深層意識からすれば分かりきった結論に至り、心が少し落ち着いた後、今度は自分用に買った魔道具のイヤリングを預かってもらうためにキーラの部屋を最訪室する。
これが正真正銘、徴兵前にキーラの部屋を訪れた最後だ。
貴重品の保管をキーラに頼む傍らで、キーラの陰に隠れた化粧台に意識を集中させる。
朧な記憶で再構成された化粧台の上に、あの瓶は無い。
年月を経てかすんでしまった記憶に基づき考える分には、徴兵前の化粧台に問題の品はなかった。
暫定的な結論を下した私はリラードたちにも贈り物を渡すべく、もう一度自室に戻る。
廊下を歩き、自分の部屋の扉を開けると……中にひとり子供がいる。
よく見ると、それはスヴェンだった。
正体が判明するやいなや幼いスヴェンは煙のように消えていく。
その場に取り残された私は自分しかいない自室で思案する。
どうして唐突にスヴェンの幻が現れたのだろう。それも、過去の記憶の中に。
スヴェンを私の家に招いたことは一度もない。そもそも私は学校時代のスヴェンを覚えていない。当時は別に親しくなかったからだ。
記憶というのは、たとえ思い出せなくなっても脳から完全に消えてしまったわけではなく、思い出しにくい状態になっているだけで、なにか切っ掛けがあれば蘇るという。
私は家族を何人も失った。
では、それが学校時代のスヴェンを思い出す切っ掛けになるだろうか。
いや、スヴェンと私の家族に取り立てて接点がない以上、切っ掛けとしてはたらくとは考えにくい。
現に今の幻スヴェンは、つい先日、思い浮かべた偽りのスヴェンと全く同じ見た目をしていた。
真のスヴェンの姿を収めた記憶の保管庫は未だに封が解けていない。
過去を振り返る旅の途中で偽スヴェンが割り込んできた理由……。
もしや、私はまた思い出せない部分を自覚なく捏ち上げてしまったのではあるまいか。
そうだ。きっとそうだ。
無意識に捏造してしまった過去に対し、これまた無意識の意識が警鐘代わりに偽スヴェンを捩じ込んできたのだ。そうに違いない。
さて、捏造と警鐘説が正しいとして、私はどの部分の何を捏造したのだろう。家族との記憶の、どこがどう間違っている。
誤りは直ちに見つけて訂正すべきだ。さもないと……。
さもないと、どうなる?
捏造部分を発見して、それを適切に正したとして、私は得るものがあるのか。
塗り固められていた部分に、私が今まで目を背けていた直視すべき“現実”が存在するとでもいうのだろうか。
嘘や偽りにも、放っておくと後々重大な事態を招く危険なものと、ずっとそのままにしておいても将来に全く影響を及ぼさない、云わば毒にも薬にもならないものがあるはずだ。
此度の件はどちらだ。
徴兵前後にキーラの部屋を訪ねた記憶は正直、楽しいものでも心温まるものでもない。
しかし、この先どれだけ望んでも二度と手に入らない大切な家族の思い出だ。
今、誤りを正さず、後になってから正したくなった場合、今以上に大きな勇気と多大な努力が求められるのは確実だ。
それどころか、知恵を絞り、勇気を振り絞り、努力に努力を重ねても正しい姿に戻せない可能性すらある。
逆に今なら、まず間違いなく戻せる。結果、待ち受けるのが辛い“現実”だとしても、真の姿に戻しておくべきと私は考える。
もし、微温湯に浸っていたいなら偽りの姿のままにしておけばいい、永久に。
もし、最後まで己を欺く覚悟がなく、いつか真の姿を見たいと思う日がくるのであれば、いつかではなく絶対に今、戻すべきだ。
幸か不幸か、今は睡眠に充てる時間で、じきに活動再開時刻を迎える。
どうせもう再入眠はできない。時間まで好きなだけ考えればいい。時間になっても戻せなければ、そのときは潔く諦めよう。
誂え向きの終わりがあることを確認した私はあの日の記憶に今一度、足を踏み入れる。
あの日、私は家庭教師の授業が終わった後のエルザとカールの三人で街に繰り出した。
最初の店でキーラ用のネックレスを買い、ネックレスを見繕ってくれたエルザへの礼として、エルザにも宝飾品をひとつ購入した。
エルザに買ってやったのが何だったかは覚えていない。私が覚えているのは母への贈答品を選ぶときも自分用の品を選ぶ時もエルザが実にかわいかったことくらいだ。
子供時代も大人になってからもエルザは常にかわいいのである。
家庭教師が来るようになってから兄と妹の時間が減り、学校に通うになってからまた減り、修練場に通うになって更に減り、学校を早期卒業してハントに通うようになってからは絶望的なくらい減っていた。
こうやって考えてみると、エルザと買い物に行ったのはかけがえのない思い出で、期せずして人生の宝物を得てしまったのは確定的に明らかだ。それまでハントで得た金を無駄遣いせず貯め込んでおいて本当に良かった。
エルザと二人っきりの時間を堪能した私は買うべき物も買ったので家に戻る。
贈り物を買ったら次は当然、相手に贈らなければならないのだが、いざキーラに贈ろうとすると途端に猛烈な恥ずかしさに襲われる。
どれくらい恥ずかしいかと言うと「前」を含めても例が無いほどで、平常心を保てなくなった私は代わって贈り物を渡してくれるようエルザに懇願する。
エルザの前では格好いい兄でいたかったはずが、感情に振り回されて体面や面目など完全に忘れていた。
肉体年齢相応どころか年齢より一〇歳くらい下の幼稚な状態にまで退行した私にどれほど頼まれても、エルザは頑として首を縦に振らず、言う。
『絶対にお兄様が手渡しして』
愛する妹に厳しい試練を課された兄は仕方なく贈り物を持ち、自らの足でキーラの部屋前まで行く。
ところが私は往生際悪く扉前に棒立ちし、贈り物をどうにかして贈らずに済ませようと延々、言い訳を考える。
すると突然、扉が開く。私の気配を察知したキーラが中から扉を開けたのだ。
今に始まった話ではないが、キーラは私の気配にとんでもなく敏感だ。自分の長男があんな目に遭わされれば、敏感になって然りである。
出鼻を挫かれて、しどろもどろになりながらも、私はどうにかこうにか口上を述べて贈り物をキーラに渡す。
箱を開けたキーラはネックレスを見ても悲しむばかりで首にかけるどころか手にも取らずに箱の蓋を閉め、部屋の中に戻ろうとする。
扉を閉める前にキーラは一度だけ私を見て『まだ何かあるのですか?』と問う。
母の喜ぶ顔が見たかった、と言う勇気など無い私は『いえ、何も……』と返す。
キーラは今度こそ扉を閉じようとして……閉じる直前、一瞬だけ奇妙な険のある目つきで横方向を見て、それから扉を閉じる。
意外と言うか何と言うか、こうやって回顧しなければ、最後の最後にキーラが妙な目で横を見た事実に決して気付かなかった。
あの時は転生説破綻の危機に陥っていたせいで、目に映っていたものが情報として正しく処理できていなかった。
私は自覚しているよりもかなり視野が狭窄しやすい性質らしい。
キーラが扉を閉める前に横を睨んだのは実際にあった出来事で、捏造ではないと断言できる。
しかし、なぜ睨んだのか皆目不明だ。そちらにはエルザしかいないのに……。
何にしても、ここまでに捏造箇所はない。
続きを検証しよう。
悲しみと困惑に振り回された私は、私を気遣い心配してくれるエルザから顔を隠して横を通り抜ける。
自分の部屋に入ると、また偽スヴェンがいる。
偽スヴェンは私を憐れみの目で見て消えていく。
……。
理解不能、理解不能、理解不能。
二度目の振り返りで新しい事実は判明した。しかし、捏造された部分は見つからなかった。
新事実の中に因はあるのか。
キーラの目つきが厳しいのはいつものことだ。
キーラにとって私は敵であり、異物だ。
家の中に入り浸る排除すべき異物が“あの目”を向けられるのは至極、当然だ。
だが、解せない。扉を閉める直前のキーラの目は“あの目”とは違う不可解な厳しさがあった。
いや、不可解という表現もしっくりこない。
……。
私は私に向けられるキーラの“あの目”を数え切れないほど何度も見たが、それとは別種の厳しい表情をしたキーラも幾度となく見たことがある。
それは、キーラが親としてエルザやリラードを叱りつけるときで……。
……つまり、キーラはエルザを叱る意図があって横を睨んだ?
それはおかしいだろう。エルザは立っていただけだ。何も言っていない。何もしていない。親から叱られる謂れがない。
もしかして、それは私が捏造した部分と関連がある……のか……?
……。
実は、エルザはあの場にいなかった。
エルザは成り行きを見守ってなどおらず、下の階にいるなり自分の部屋にいるなり、別の場所で贈呈が終わるのを待っていたとしたら……。
いや、それだとキーラが扉を閉める前に横を睨んだ説明がつかなくなる。
エルザはそこにいた。私を見守ってくれたエルザを、私は傀儡で見ていた。
見ていたからこそ私はエルザとぶつからずに横を通り抜けられた。
エルザを見ていたのは私ではなく私の傀儡で……。
あっ!
分かったぞ。おかしいのはここだ。視点だ。
私はエルザを傀儡で見ていた。それなのに、一連の流れを見ていたエルザは心配そうな顔をしている。表情なんて分かるはずがないのに。
この時、私が扱っていた傀儡は虫だ。ヒトでもネズミでも鳥でもない。
虫の目はヒトの目とかなり特性が違う。“毒壺”で入手した光り油虫は例外として、文字を読んだり、人間の表情を読み取ったりするには基本的に向いていない。
やろうと思えば勿論できるが、それなりの労力を要する。純粋なドミネートの操作で解決できる問題ではなく、ドミネートを介して情報を私の側に回し解読する手間が必要で、一定の集中力が求められる。
半分泣いた顔を妹に見せたくなかった私は自分の部屋に逃げ込む際、顔を隠していた。エルザの顔は見ていない。エルザがどんな表情だったのか私は知らない。
心優しいエルザのこと、きっと私を心配してくれていたに違いない。そういう思い込みで、見てもいないエルザの顔に表情を当てはめていた。
捏造箇所を理解した瞬間、心配そうに私を見つめていたエルザの顔が消滅し、真っ黒い無がそこに現れる。
足があって、胴があって、腕があって、髪があって、首があって、それなのに顔だけがぽっかりと空虚で何もない。
顔が真っ黒く抜け落ちたエルザは不気味でかわいい。
母親に睨まれた娘は、本当はどんな顔をしていたのだろう。
私が作り上げた捏造の顔と同じ表情だったのだろうか。
私以上に泣いていたのだろうか。
長男の想いに母親らしく応えようとしないキーラに腹を立てていたのだろうか。
エルザはかわいい。
私がキーラに『瓶が綺麗だ』と言ったら、キーラは返事を濁した。
明確な根拠はないが断言できる。あの瓶は母が自分で購入した物ではない。
私は徴兵前にネックレスを母に贈った。
私が徴兵を満了して家に帰る直前にエルザは正規兵になった。もう少しだけ正しい言い回しになるよう努めるならば、正規兵になるための訓練兵だったか。
エルザはかわいい。
妹であるエルザが兄である私の真似をして、母に贈り物をしてから入軍した可能性は十分にある。
仮に、私に真に違和を感じさせたものが瓶ではなかったとしたら、つまりネ……。
エルザはかわいい。
そもそも、私はいつからエルザが好きで、なぜ好きになった。
エルザはかわいい。
生まれたばかりのエルザはゴブリンのようにぐしゃぐしゃの顔をしていてかわいくて、私には与えられないキーラの愛を独占していてかわいくて、私は憎さ八割でエルザに会いに行ったらかわいいエルザが新生児ならではの温かい手で私の指をかわいく握って、それは生後一年ちかく持続する把握反射という名のかわいい原始反射にすぎないことを私は「前」の知識で知っているからそんなもので感情を揺さぶられるはずがないのに突如、私の心の真ん中に生じた心地良い光が負の感情と理性を即座にかわいく消し去って、そしたらエルザは、んまああああ、かわいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!
活動再開時刻を迎え、私は身体を起こす。
時間内に記憶を元に戻せなければ諦めると決めて私は修正と謎解きに挑んだ。
捏造箇所は判明し、思い出は、あるべき姿を取り戻した。謎はあと少しで解けそうでエルザはかわいいのでわざわざ解くまでもないくらいエルザはかわいい。
設定した睡眠時間の最後は完全に起きていたが、身体の調子は明らかに良くなっている。やはり私は疲れていて、そして適切な休息により疲労がしっかりと取れたのだ。
睡眠時間が少し短くなってしまった割に頭もしゃっきりと冴えていて謎を解こうと思ったらすぐにエルザはかわいい。
私にはまだ守るべき家族がいる。愛すべき妹がいて、父がいる。
家族を守るために私は戦う。
バズィリシェクアンデッドを討伐する。
ワイルドハントを討伐する。
金銭は工面する。
借金は返済する。
契約の凍結を解除し、履行させる。
王族を調査する。
ニカウを調査する。
保存食を供給する。
寄生虫を駆除する。
月をより深く知る。
ソリゴルイスク方面に手を入れる。
ユニティ関連の問題を解決する。
かわいいエルザの安全を確固たるものにする。
ドラゴンを討伐する。
アウェルの正体を解明する。
エヴァを探索する。
父の身体を治す。
ゴルティア関連の問題を解決する。
そして……夢の続きを、結末を自分の目で見届ける。




