第七七話 前哨戦 四 強首縛り
ジャックは己に同調する笑み、言い換えれば強行姿勢への賛同票が一定数、得られて気を良くし、支持を更に増やすべく意気盛んに語る。
「指で触れてカードの柄が分かる? そんなの嘘に決まっている!」
はたしてジャックはどのような支持者獲得術を展開するだろうか。
私は不用意に反論せぬよう己を厳に戒め、興味深く静聴する。
「現場を見てりゃあ、言われるまでもないだろうが、次に引くカードの柄が分かっていなくちゃ、さっきの局みたいな異常な上がり方は到底できない。さっき上がったこいつもクローシェも、全部のカード柄が分かってるのさ。だったら、引いたカードの表をイチイチ見て確かめる必要がないのは当然だよなあ?」
ジャックが勝ち誇った顔でクローシェとラムサスを横目に見る。
第三局におけるラムサスの上がり方が常軌を逸していたのは私も諸手を挙げて同意する。ただし、逸脱していたのはあくまでも読みや札の引きであって、規則からは逸脱していない。
異常な上がり方ができるのはラムサスが異常に強いから。それ以上でもそれ以下でもない。
札遊技においてラムサスの小妖精が召喚主に送る情報は、突き詰めれば即興的観察法でも得られる類のものに過ぎず、それ単体では相手の上がり役も分からなければ、自分の上がり札がどこにあるか突き止める効果もない。
私も小妖精の能力を完璧には理解できていないが、『極めて高い札力があってはじめて真価を発揮する、扱いの難しい情報』だと確信している。
とはいえ、我々以外、誰もラムサスの強さの真相を知らない。そして、ジャックもジャックの支持者たちも真相究明など求めてはいない。
彼らの目的は、これから奏でる即興曲を介して幻想を共有し、彼らにとって都合のよい“真実”を協同して創り上げることであって、正論、理屈、道理といったものは、いずれも目的達成に不要だ。
「ジャックさんは『卓に着き対局に参加している者が己の眼窩にハマった眼球でカードの表柄を視認する以外の、ありとあらゆる情報獲得手段を不正と見做す』と主張しているのでしょうか」
「……」
不自然なまでにくどい質問にジャックが返答をしばし躊躇う。
半端に賢いからこそ悩み、苦しむ。
「もしそうだとすれば事態は深刻です。ジャックさんがご友人を招待した関係上、この卓は多数の目によってありとあらゆる方向から観察されています。観察者たちは時に驚き、時に感嘆し、応援したり表情を変えたり奇妙な仕草をしてみたりと様々な反応を呈します」
もっぱらラムサスの斜め後方で絶え間なく情報を意図的に垂れ流し続けていたジャックの協力者たちが伏し目がちになる。
「上がりまでに要する手数や待ち札を推測する材料になりえる情報が四方八方から発信されている現状で、あなたの主張を全面的に採用した場合――」
「そりゃあ論点ずらしってやつだ」
こちらの主張を遮りジャックが捲し立てる。
「観客が観て楽しむのは当然で、楽しみ方は人それぞれだ。そこに言いがかりをつけて手前の行いを有耶無耶にしようったって、そうはいかねえ。問題はただ一点、お前たちがイカサマしたかどうかだ。手口についちゃあ論じてねえ」
ジャックはこちらの札力も表柄を見ずに打てている理由も何も見破れていない。おそらくは我々がイカサマしているという確信もない。それでいて自分たちはイカサマしているのだから、採用可能な論法は限られる。
ジバクマの不正にどっぷりと染まった議員や選挙立候補者たちが行った審理の結界陣対策と同じ、相手の言い分には一切耳を貸さず、自分の主張だけを延々展開すればいい。
「なるほど。これだけ人気の遊技場で様々な情報が飛び交うのは至極当然であり、そういった些事への拘泥は無用と仰る。ええ、ええ。大変結構な考えです。我々も同意しましょう。最も重要なのは不正の有無であり、それだけを争点とするのは時間の節約にも繋がり喜ばしいです」
「はっ。随分と物分りがいいじゃねえか」
もうジャックも薄々は感付いているはずだ。我々の冗長な発言の不自然さに、我々の狙いに。
それでも奴は曲を奏で、前に進むしかない。
直感を信じて札遊技に戻ってもラムサスに打ち負かされる。敗北は、味方だったはずのものを敵に変える。そして、その新たな敵はジャックに刃を向ける。
前に進むと、道が崩れるかもしれない。我々の発言は繰り返し崩落を示唆している。けれども確証はどこにもない。道は崩れないかもしれない。
「そうさ。手口はどうだっていい。イカサマしているのはお前らだ」
ジャックの発言の意図は明白だ。己を欺き、鼓舞している。
涙ぐましい努力ではあるが、賞賛に値する部分もある。ジャックの演技力はこの状況下でも低下していない。
観客たちには、ジャックが今なお勝利を確信しているようにしか見えないだろう。
遊技場全体を窺うに、ジャックへの同調を分かりやすく示している者の割合は、ざっくり半分強だ。ジャックにとっては、やや心許ない。
それでもジャックは声高に宣言する。
「いいか。これから決を採る」
多数決を予告され、クローシェでラムサスを見る。
ラムサスは視線に気付くと同時に自分の野望が完全に潰えたのを認め、ガックリと肩を落として項垂れる。
クローシェは真正面のジャックに向き直り、手で顔を覆う。瞑目はせず、指と指の隙間からジャックの怪演を刮目する。
勝利を祈願して外界の情報を遮断したクローシェとラムサスの姿は、ともすれば弱気を晒しているかのようだ。
二人の姿が、態度を決めかねていた観客たちへの最後のひと押しとなり、混沌としていた場内の空気が一気に安堵の色を帯びる。
ジャックからしてみれば確定速報にちかい。
得票を増やすために装い繕った確信ではなく本物の確信がここにきてようやく得られたジャックは、色めき立ちそうになる自分を律するかのように極めて厳かに言う。
「ワイルドハントがイカサマしていると思う奴は手を挙げてくれ」
ジャックの指揮に従い共演者たちが一斉に手を挙げる。
ジャックとテンゼルの二人も勿論、挙手している。ただし、テンゼルは進んで挙げている風ではない。
雰囲気に押されて仕方なく挙げているように見受けられる。
ジャックは場内にひしめく大量挙手をぐるりと見回してからヴォルフら矮石化蛇のいる方向をちらりと見遣る。
ヴォルフは顔色を気にするジャックに何を言うでも頷くでもなく、変わらぬ威圧感を放ったまま成り行きを眺めている。
骨座を囲む者たちや、少し離れた場所に立つサイラスも様子は概ね同じだ。
賛辞でも欲しいのか、未練がましくヴォルフを見続けるジャックにクローシェが言う。
「結果は決まりましたね」
ジャックがやっと正面に顔を戻し、溢れ者たちもそれに引き続いて手を下ろす。
その様を見て、ヴォルフが蔑むように小さく鼻を鳴らして笑う。
クローシェの顔を覆っていた手を外して言う。
「もう、いいでしょう。遠回りした感は否めませんが、これでようやく罰を決められます」
真下を向いていたラムサスが顔を上げる。
「なんで罰を受ける側のクローシェが主だってるんだよ」
主体的かつ気丈に話を進めようとするクローシェに観客たちが異論を呈する。
「いつまでその無意味な虚勢を続けるつもりだ」
「お前はこれから自分に与えられる罰が決まるのを震えて待ってりゃあいいんだよ」
あまりにも場が騒然となって話を進行させるどころではなくなり、ジャックが再び指揮者として場を鎮める。
「静かにしろ。罰を決める」
バカの操縦に苦労するジャックに問う。
「どんな気分ですか、ジャックさん」
「……どういう意味だ」
示唆を与えたのは我々だけではない。矮石化蛇もまたジャックに示唆を与えていた。
ジャックは真相と呼んでも過言ではないものを手中に収めている。
それなのに手を挙げるバカどもの姿が瞼の裏に焼き付いているせいで、ジャックは手の中にある真相を正しく認識できない。だからこうやって間抜けに聞き返す。
私はジャックに強く握り込んだ手を開かせるべく、順不同に説明する。
「不正が暴かれた際、不正していた者が罰を受けるのは当然です。そして、不正の嫌疑をかけておきながら不正を証明できなかった場合、嫌疑をかけた者が罰を受けるのもまた然りです。今回の場合、弁論や証拠提示による証明ではなく挙手制ではありますが、大差はないでしょう」
「お前は……何を……」
「もっとハッキリ言われないと分からないか」
理解を拒んでいるのはジャックの感情に他ならない。感情が見せる幻想、“真実”にしがみつく心理は長年“真実探し”に明け暮れていた私だからこそ深く共感できる。
「多数決で我々は不正していないと決まった。ゆえに罰を受けるのはお前だ、ジャック。だから気分を聞いている」
一瞬、場がシンと静まり返り、すぐさま堰を切ったかのように四方八方から不満が流れ出す。
「無茶苦茶言うな!」
「この場の総意でお前らのイカサマは確定しただろうが!」
「罰を受けるのはジャックではなくお前らだ」
「悪足掻きもいい加減しろ!」
ジャックも今度は怒れる投票者たちを制御しない。目の前で起こっている出来事が信じられず、目を白黒とさせている。
指揮者は動かず、しかしながら、投票者たちの内から自然に湧き上がる疑問の声が騒音を沈静化していく。
「なあ、変じゃないか?」
「確かに変だ」
「いや、でも……なんで?」
「どうして……」
バカはバカゆえに何であれば言ってもよくて、何を決して口にしてはならないか分からない。
「……どうして“強首縛り”が発動しないんだ?」
「故障してる……のか……?」
ジャックとテンゼルがどれだけ見ないように気をつけたところでバカは見てしまう。
そこにそういうものが存在すると認知すらさせないようにしていたのに、バカがボロっと名前ごと言ってしまう。
たとえ我々が何も知らなかったとしても、小妖精という情報能力がなかったとしても、バカどもの言動だけでおよその見当がついていただろう。
卓の横に置かれた古道具がただの古ぼけた置物ではないと。バカどもの願望どおりに機能していれば“強首縛り”が我々に何かしらの制約を課す魔道具なのだと。
バカは喚び出された時から今に至るまでずっと、あるまじき失言と非言語的な情報漏洩により、喚び主たるジャックの首を絞め続けている。
ジャックは身内に背後から悪意なく何度も殴られ、それでもまだ名優を止めようとしない。
「戯言を抜かすな、クローシェ。圧倒的多数の挙手でお前たちがイカサマしていると決まった」
「それは面白い主張です。ならば問いましょう。具体的に何名が挙手し、何名が挙手しなかったのです」
ジャックは答えられない。なぜならこいつは矮石化蛇の顔色を気にするばかりで数をきっちり数えていなかった。
「クハッ……クハハハ。あなたは金貸しなのに数も数えられないのですか」
ジャックは周りのバカをバカと笑い飛ばせない、特大の疎漏を犯していた。
揶揄されたジャックが青筋を立てる。
「挙手した数と挙手しなかった数、どちらも把握していないけれども、なんとなく挙手数のほうが多かったように思う。あなたはそう主張しているのですね。これは傑作です。認めましょう。実に愉快な喜劇です」
「そういうお前は答えられるんだろうな、クローシェ」
かすかに見えた反撃の糸口をジャックが必死に掴む。
「お前は答えられるのだろう? これだけの人数がいて、ひとりも誤らずに正解を」
「ええ、答えられますとも。あなたに、いえ……」
言葉を一度止め、理解の追いついていないバカどもにも分かるよう簡潔を意識し直して続きを述べる。
「あなた方に“真実”を授けてあげましょう。挙手したのはジャックさんとテンゼル……」
クローシェの言葉がそこで途切れ、ジャックが固唾を呑んで続きを待つ。
その姿は、絶対に現れないと分かっている待ち人をひたすら待ち続けているかのような哀れさがある。
「以上です。他は誰も挙手していません」
我々の主張にバカどもがたじろぎ、それから再び視線を“強首縛り”に集中させる。
もうジャックとテンゼルも隠そうとはせず、“強首縛り”に目を向ける。
しかし、悲壮な想いを寄せられても魔道具は一切の反応を見せず、残酷なまでに沈黙を守る。
「ふふふ。そちらの置物、壊れていると思いますか」
哀れなジャックの背中を崖方向へ落ちない程度に軽く押す。
「もし壊れていると思うのでしたら、当てずっぽうで人数を言ってみてはどうでしょう。ジャックさん」
「その必要はない」
“強首縛り”が正常に機能しているかどうか考える前に考慮しなければならないのが“強首縛り”の発動条件だ。
我々だけでなくジャックたちも“強首縛り”の前で誓約した。条件を満たせばジャックたちも魔道具に絡め取られる。
それまでしがみついていた幻想もとい自分本位の非現実的な“真実”からやっと身体を引き剥がすことに成功したジャックは、既に手にしていた真相を見つめ直す。
示唆は与えられていた。ジャックはそれを無視したからこうなった。
ところが、改まって示唆を読み解いたところで、それだけだと真相の更に奥深くには辿り着けない。
我々の持っている手札を細部まで知ってはじめて、条件を回避する手段を完全に解明できる。
しかし、打開策は見出だすのに真相最奥への到達は必須とまでは言い難い。
“強首縛り”は壊れていないが、クローシェは罪責を感じていない。
そういう前提の下に立てば、自ずと手は見えてくる。
次に打てる手の中で最も簡単かつ確実なものとなると……。
「もう一度、決を採る」
「あはははは」
クローシェの冷めた笑いをジャックはじっと耐える。
「結果の上書きを肯定するのですね、あなたは」
こちらの狙いをようやくまたひとつ理解したジャックが歯噛みする。
「そうは言っていない。さっきとまったく同じように手を挙げてもらい、それを数えるだけだ」
「いえ、実際そうなんですよ。私は“真実”を授けました。あなたはちゃんと数えていなかったのに、我々から与えられた“真実”を受け容れようとせず、自分に都合の良い“真実”を求めています」
「お前の言う“真実”とやらが事実に基づいていないからだ!」
残念だったな、ジャック。
事実はお前にもテンゼルにも矮石化蛇の連中にも、ついでに言うならクローシェやラムサスにも観測不能な位置に存在している。
事実は唯一、私だけが知っている。
ラムサスに下を向かせたのもクローシェの視界を大幅に制限したのも、全ては“強首縛り”の効果発動条件を回避するためだ。
あとはジャックから丹念に取得したいくつもの言質が“強首縛り”からクローシェとラムサスを自動的に保護してくれる。
二人は挙手がどうなったか自分の目で結果を見ていない。事実も知らない。私から告げられた“真実”を信じ、ジャックや溢れ者たちの主張を嘘や欺瞞だと思っている。
私は私で言質をとったうえで事実を確保してあるから、“強首縛り”は発動しようがない。
事実はこのまま明るみに出さず、劇を続けるとしよう。
「挙手後の遣り取りを見ているうちに意見が変わった人だっているでしょう。もしかしたら、さっき自分がどちらに票を投じたか覚えていない人もいるかもしれません。あのときの結果はあのときしか得られません。次に出る結果が前回とは異なる可能性は大いにあります」
「だからと言って、お前の一方的な主張を受け容れなければならない道理は存在しない!」
白熱する相方に水を差すかのようにテンゼルが「ふああ」とやる気なく溜め息を衝く。
「次で最後、三度目は無し。前と同じ条件で挙手を行い、全員に前と同じように票を投じてもらう。クローシェ、お前は誰が挙手して誰が挙手しなかったか全部覚えているんだろ? お前らにとっては手を挙げられると不利なわけだから、決を採っている最中にお前から『前回こいつは手を挙げていなかった』という異議申し立てがあったら、そいつの分は無条件に不挙手票に変える。これならどうだ」
テンゼルはとことんまでにこちらに譲歩する姿勢を示し、二回目の挙手をなんとか行おうとする。
そのまま挙手に移行しても我々のイカサマ嫌疑が晴れるのは確実なわけだが、それだと見世物としてまるで面白くない。
それに、晒さずとも済む手の内をわざわざ晒したくはない。
「前と同じ条件ですね。承知しました。こちらは一向に構いません。ですが、敢えて言わせてもらうと、それだとやはり挙手票はジャックさんとテンゼルの二つだけになるのでやる意味に乏しいのが現実です」
テンゼルが下手に出ているのが気に食わないのか、はたまた我々の発言が不快なのか、もはや恒例となった野次が飛ぶ。
「今度こそ本当に終いだぜ、クローシェ」
「俺は前回同様、きっちり手を挙げさせてもらうぜ。取り決めに違反はしてないから文句は無えよなあ?」
「俺も挙げるぜ。ってか、俺から見える範囲は全員挙げてたし、次も挙げるに決まってるんだから、どうやったってお前のイカサマは確定してるんだ」
「死期をほんのちょっと先延ばししただけの時間稼ぎ、お疲れさん」
己の安全を信じて疑わない甘味たちの囀りがこれから絶望の叫び声に変わるかと思うと、それなりに趣きがある。
クローシェが立ち上がり、不幸に転落する直前の者たちをざっと通覧してから言う。
「繰り返せば幻想を具現化できると思い込む知性なき愚物どもに知恵を得る機会を授けてやろう」
ここまで言われてもバカは危機感なくへらへらと語る。
「おっ、もしかしてこれから新手の命乞い始まっちゃう?」
「いいよ。全然してくれていいよ、命乞い」
「そういうのがあると、グッと場が締まるというか盛り上がるもんな」
「一発、思いっきり惨めなやつを頼む」
「よっ。待ってました」
バカがバカなりに考えた囃子詞によって整えられた道を私は少しばかりの心地よさを感じながら踏みにじる。
「四肢を全て断たれれば、どう足掻いても挙手はできない」
これからこの場で己の身に起こる出来事を宣告されてもバカたちはポカンとバカ面を並べるばかりで一向に危機感を顕にしない。
おそらく私の言葉を頭の中で反芻し、平易な言葉に置き換え意味を読み解こうしているのだろう。
そんなバカたちの中で最も早く理解に達した者が宣告に抗うべく行動に移る。
小さな動きで音もなく武器を抜き、林立するバカの間隙を縫うようにして走る。
そして、宣告者クローシェの背後に近寄って手を伸ばし、瞬間、刃閃が煌めく。
接続を断たれた腕がごとりと床に転がり、少し遅れて叫び声が上がる。
美しいほど平らな切断面から今の今まで腕が生えていたのだと訴えるかのように細く赤い飛沫の線が伸びる。
隻腕となった男が体液の流出を止めるべく、腕の付け根を強く掴む。
けれども流れは少し勢いが弱まった程度で、完全には止まらない。
腕一本ではどうやってもそれ以上の止血ができず、隻腕の男が周囲の人間に助けを求める。
しかし、覚悟無く遊技場にいた者たちは白刃と赤い流れによって平常心を失い、救助要請に応じるどころではない。
ある者はまるで自分の腕がもげたかのように悲鳴を上げて下り階段を探し、ある者は武器を抜いて我が身を守ろうとし、ある者は半分腰を抜かして動くに動けずにいる。
突如として下り階段に発生した大渋滞が解消し、声が声として耳に届き言葉が認識できるようになるまでには少々の時間を要した。
逃げずに、あるいは逃げられずにその場に留まった者たちへクローシェが語る。
「この方は……」
ほんの少し残っていた場内のざわめきが、大きいとは言えないクローシェの声によって完全に消失する。
「我々の言葉が真であると証明するために身を挺してくださいました。そんな献身的な方がこのままここで命を落としてしまうのは大変惜しいと思います。そこで……」
隻腕の男から比較的近い位置で剣を構えているひとりを見定める。
髪や眉などの頭頸部の体毛は全体に黒みがかっているのに髭だけはなぜか赤い、外見に色彩的な特徴のある男だ。
「そちらのあなた。この方に止血してあげてください」
クローシェから言葉と手振りで止血を指示されても赤髭は動こうとしない。
より強く行動を促すため、荷から襤褸布を取り出す。止血に適当な帯状に形を切り整え、即席の止血帯としてくるくる丸めて赤髭に投げてやる。
止血帯を受け取っても赤髭はまだ動かない。我々の位置が悪いのかと思い、クローシェの立ち位置を隻腕の男から離す。
だが、それでもなお赤髭は動こうとしない。
すると、テンゼルが今日、何度目か分からぬ溜め息を衝いて気怠げに立ち上がる。動きの一つひとつは間違いなく怠そうなのに意外な素早さで赤髭へ歩み寄ると「寄越しな」とだけ言って止血帯を取り上げる。
そして、そのまま手際良く止血帯を隻腕の男に巻き速やかに止血を完了させる。
「“話し合い”に手間取ったばかりか、手を煩わせてしまい申し訳ありません、テンゼル。残りはできるだけ早めに終わらせます」
視界の端に映る矮石化蛇の構成員たちの佇まいに緊張感が増す。
「では、あなたに今一度お願いします」
我々に指名されても止血に協力しようとしなかった赤髭に再度、水を向ける。
「止血は済みましたが、この方にはまだ手足が合計で三本残っています。あなたは医療処置への参加に抵抗があるようですので離断処置を頼むとしましょう。さ、残りの三本を取ってしまってください。切り落としても引きちぎっても構いません。手段は問わないので、できるだけ手早くお願いします」
隻腕の男は溢れ者たちの中で最も洞察力が高く、行動に移すまでの時間が最も早かった。加えて推定戦闘力も最も高かった。
そして赤髭は隻腕男に次いで推定戦闘力が高い。溢れ者たちの中では第二位の実力者だ。
全員と話し合っていたのでは時間がかかって仕方ない。押さるべきは第一位と第二位で、この二人さえ押さえてしまえば、あとは特別に誘導しなくても私の望む“真実”が現実のものになるだろう。
赤髭は冷や汗をかきながら言う。
「仮に命令に従ったとして、その後は何が起こる」
「決まっているではありませんか。次はあなたの番です」
赤髭がふうっと息を吐いて一際強く剣を握り込む。
どうやら四肢の喪失より生命の喪失を希望するらしい。
「待てっ!」
“話し合い”には直接関与していないはずのジャックが大声を上げた。
「もういい。認めよう。ああ、くそっ。これっぽっちも認めたくはないが……」
私はてっきりジャックがもう少し意地を張るものと思っていたが、意外だ。これほど早く折れるとは。
ジャックは続きを言い淀み、ちらりとテンゼルを見る。
テンゼルは諦観の表情で小さくコクリと頷く。ジャックとは視線を合わせず、卓の隅を斜めに見たままで。
ジャックは両目を固く瞑って口を強く結び、それから蚊が鳴くような声を絞り出す。
「俺の……負けだ」
……。
はい?
ジャックの意味不明な発言が私を混乱させる。




