第六八話 ワイルドハント 一
成長に伴い幼少期とは顔つきが変わる。どこもおかしくない、実にありふれた現象だ。
一定の割合で例外があるものの、普通は子供の頃と同じ顔、同じ体型でそのまま大きくはならずに大人の顔、大人の体型になっていく。
幼少期に親にそこまで似ていなかった子供が成人後に親とそっくりになる。これもまた珍しくない。
よくある現象、よくある話、単なる生物の基本原則を目の当たりにしただけでしかないのに、私の脆くちっぽけな理性は矮小さに不釣り合いな轟音を立てて崩れ始める。
崩壊を背中で押し止めながら、私は今一度エルザを見る。
家族愛に基づいて前向きに受け止めるために見たのではない。罪の吸引力に引き寄せられた受動的な視行動。見誤りであってほしい、という利己的な自己防衛反応のひとつに他ならない。
しかし、二度見ようと三度見ようと現実は蟠踞し、私の不実な願いを跳ね返す。
ああ、エルザ。どうしてエルザは母に似た。才能は父譲りなのに、なぜ面立ちは母なのだ。
エルザもまた沈黙を守る我々を見る。面立ちはキーラでも、眼差しが含む感情はあの時と違う。怜悧な目で我々を観察し、アッシュらを一瞥してからまた我々を見て吐き捨てる。
「やはり嘘をついていた」
顔が母に似ているならば、声も母に似ている。幼い頃の響きを残しつつ若き日のキーラの色を帯びたエルザの声が私の鼓膜を震わせる。
簡潔な追及が私を心の底からギクリとさせる。
「はてさて、何の話をしているのかな」
動じないアッシュが少しとぼけた声色で我々とエルザに説明を求めた。
動じに動じている私は己の心に言い聞かせる。
慌てるな。エルザが言っているのはそんな昔の話ではない。断じて一緒に暮らしていた時の話ではない。もっと最近のことだ。
だから落ち着け。落ち着いて呼吸しろ。静かに、ゆっくりとだ。思い切り深くは吸うな。
アンデッドは呼吸しない。アンデッドは慌てない。少しだけ……ここにいる者たちに気取られない程度にほんの少しだけ深く吸え。それで十分に息は整う。
状況は鎮静魔法の利用を許さない。魔法に頼るな。崩れかかった心は鋼の意志で立て直せ。家族が大事ならば、音を立てずに歯を食いしばれ。
「不適当ナ指摘ダ。ドコニモ嘘ハ無イ」
呼吸は完全に整わず、心は安定を失い、それでも傀儡は感情を伴わない平板なアンデッドの声で答える。
私本体が会話に応じていた日には、声が震えに震えていたのは間違いない。
傀儡に私の感情変動は伝播しない。私本体の情緒が変調をきたし心因的な反応が身体に表れ、口がカラカラに乾き喉に力が入りすぎて声すらまともに出せない状態であっても、傀儡操作さえ間違えなければこうやって平然を装い回答できる。
以前から何度となく私を助けてくれている、ドミネートの確かな長所だ。
「よく言う」
エルザは鼻で笑うと、今度はアッシュたちを強く睨む。
「今日は何用でここへ来た。ユニティは、世にも珍しい言い訳するアンデッドを飼い慣らしたと自慢にでも来たのか」
敵愾心に溢れるエルザの物言いは、私の記憶の中で屈託なく笑う愛らしい妹からは想像もつかない。私はもどかしいやら悲しいやら切ないやら、言いようのない辛さに襲われて思わず身悶えしそうになる。
感情に翻弄されているのは当然ながら私ばかりで、アッシュもスターシャも懊悩しない。ただ、思うところはあるらしく、少々苦い顔をしている。
「悪口ぶりは変わらないな……」
アッシュが溜め息まじりに首を振る。
「それでも、あらぬ罪を押し着せられかけたこの間に比べたらまだマシか」
「あらぬ罪……ですか」
スターシャは嫌味にくつくつと笑いながら続ける。
「知っていますか、総大将。無実の完全な証明は非常に難しいと」
アッシュは辟易した顔を作り、無言で嫌味への返答とする。
弁えを知る従者たちは口を挟まないが、さも気まずいと言わんばかりに目を泳がせている。
偽りの対立構造について知っている私は、ややもすると演技過剰なアッシュとスターシャのやり取りを冷ややかに眺めていられ、それが思いがけず心の安定化に寄与してくれる。
不仲を装っている件に関しても、あらぬ罪に関しても、もし私が事前に知らず、いきなりこの場で聞かされていたら動揺に拍車がかかっていたであろう。
特にあらぬ罪の方は内容が内容だけに、中身を半分聞きかじったところで怒り心頭となり、事実関係を調べることなく目に映る者、全員の命を奪っていたかもしれない。
なにせアッシュの女好きは筋金入りだからな。
渋面のままのアッシュをマジマジと見る。年齢を感じさせる深い皺を数えているうちにふと思う。
若い頃のアッシュの女好きは私だけでなく誰もが知るところだ。しかし、それは本当に正しいのだろうか?
アッシュはクリフォード・グワートと根本からして違う。この地で更新した情報を基に過去を振り返ってみると、アッシュの女漁りがこいつなりの将来への布石だった可能性は否定できない。私の買い被りかもしれないがな……。
狭まっていた己の視野が少し広がるのを感じる。
苦しみ足掻いているのは私だけではない。ここにいる皆そうだ。
誰もが悩み、誰もが戦っている。賢ければ賢いほど遠くまで見通し、未来の戦況を予想しながら戦っている。
アッシュも、スターシャも、そして勿論エルザだってそうだ。私という、人生を阻害する最悪の要因に道を阻まれながら、それでもエルザはここまできた。
私やウリトラスが邪魔しなければ本当はもっと……。
ああ、やめだ、やめ。
せっかく少し混乱が落ち着いてきたのに、途端に後悔を始めてどうする。後悔も懺悔も、後でいくらでもできる。
私は、今やるべきたったひとつの明確なことをやればいい。
黙り込むアッシュは重ねてエルザから非難されている。
下手に演技しているせいで誰からも助けてもらえない不便なアッシュに私は手で合図を送る。
するとアッシュはそれを見て従者たちに指示を出す。
指示に従い従者たち全員が房から出てもアッシュとスターシャは動こうとしない。退室を求める我々の視線にアッシュが応える。
「今日は俺たちも立ち会わせてもらう」
我々の承諾を求めずに宣言するアッシュにスターシャが補足する。
「あなた方は『安全を目指す』なることを総大将に言ったそうではありませんか。それなのに、ここのところ驚くべき速さで数を捌いています。安全性と速さ、両立の難しい二つを本当に両立させられているか確かめるのは道理でしょう」
聞いてもいないのに立ち会い理由をツラツラと語るスターシャに小妖精が反応を示す。
完全な嘘……とまでは言えないだろうが、おそらくスターシャは本音を巧妙に伏せた言い回しを選んでいる。
二人が懸念しているのは単純な呪破対象の身の安全ではない。我々が呪破ついでにマディオフ軍人を洗脳していないかどうか、その見極めこそが真の立ち会い理由と私は考える。
私がリディアに負わせてしまった傷を考えると、鎮圧部隊の事実上の最高戦力はエルザだ。保護の重要度は他の兵の比ではなく高い。
私も傀儡化前のクローシェが行っていた“特殊治療”に同じ懸念を抱いていたから、彼らの不安は重々分かる。
では、現場で検分したら洗脳の有無について分かるものだろうか。魔道具をはじめとするユニティの情報力次第ではあるが、おそらく難しいのではないかと思う。
ただ、アッシュには特別な目がある。その目が洗脳判定に役立つかはこの際、どうでもいい。
魔力視可能な目を持つアッシュがドミネートの秘密を看破りはしないだろうか。私が気になるのはその点だ。
一般的にドミネートでは強者を傀儡にできない。だからアッシュたちはクローシェが我々に魔法で操られている可能性は考えてすらいないわけだが、ドミネートの秘密に気付いたら間違いなく二人はクローシェが我々に随従している理由を疑う。
疑われたが最後、交戦は避けられない。
本音としては我々の特殊すぎる呪破を誰にも見られたくない。交戦回避という意味では、ここに居座らんとするアッシュとスターシャをなんとしても追い出すべきである。
私の下手な口車でも、もしかしたらアッシュひとりくらいならチッパー・リゾのときと同じく追い出せたかもしれないが、あいにく今日はスターシャがいる。
それに、この場を無理矢理ごまかしたところで不信感を煽ることになり、さらに悪いことに大物はエルザの後にも控えている。ここで追い出せば、次はもっと大人数で押しかけてくるかもしれないのだ。
いずれどこかで誰かに見られるならば、アッシュとスターシャの二人しかいないこの場で堂々と見せてやればいい。これは前から覚悟していたことだ。
「立チ会イヲ許可シヨウ。タダシ、コノ場デ見タコトハ他言無用ダ」
「それは見る内容次第です。確約できません」
確かに我々が被術者に洗脳やそれに類いする事を行っていたならば、口外するな、とは無理のある注文だ。
私が他言してほしくないのは信頼の前提を覆す決定的な裏切り行為についてではなく技術的な部分なのだが、こちらからは言及できない。こういう意思疎通における微妙な行き違いをアンデッドが正すのは不自然だ。そういう感覚はアンデッドにはない。
私本体が言及するなら不自然さはなくなるが、それはそれで重大な過ちだ。
なぜなら、エルザはまだ起きている。その耳で我々のやり取りをしっかりと聞いている。
決してエルザに私の声を聞かせてはならない。呪破の導入部で記憶は消えるが、記憶の消去は不完全であり、それ頼みに物事を考えるのは厳禁だ。
発言が著しく制限されているのはなにも我々だけではない。アッシュたちにとってエルザは敵……という表現は適当ではないかもしれないが、少なくとも今は味方ではない軍人であり、エルザの前ではアッシュたちも言葉を選ばなければならない。
つまりは我々もユニティもお互いこの場、この状況では言いたいことが言えない。
ならば補足も反論も飲み込んで、本懐を遂げるしかあるまい。
私はもう何も言わず、治療に適した位置へ手足を動かす。スターシャも明確に返答しない我々を追及しない。
アンデッドに四方を囲まれるエルザの顔に浮かぶは、『何をされても屈しない』という不屈の闘志ばかりで、恐れは全く表に出ていない。
しかし、内心はさぞかし怖がっているはずだ。
味わっている恐怖を肩代わりしてやりたいのは山々だが、私も怖いんだよ、エルザ。
薬師、治癒師が家族の頭を割ったり腹を切ったりする治療は禁忌とされている。他人の腸をいじり慣れて鼻歌交じりに治療をこなせる熟練の癒やし手でも、治療の対象が家族となると途端に正常な判断力を失い、手元が狂ってしまうからだと言う。
それは根も葉もない俗説ではなく、実際に起った事故の教訓なのだろう。その証拠に私の膝は今にも震えだしそうだ。理性がほんの少しでも感情を抑える力を緩めた瞬間、本当に震え始めるだろう。それも、真っ直ぐに立っていられないほど激しく。
始める前からこのザマだと、このまま始めても喜ばしい結果は絶対に得られない。
皮肉なものだ。ヒトは家族を想う気持ちがあるから、家族を愛しているから助けようとする。そして、愛ゆえに失うことを恐れて足が竦む。
ならば話は簡単だ。ヒトであることをやめればいい。
家族を手に掛けようとした前科はあるが、あのときとは状況が違う。それに私はヒトではなくなっても探究心は失わない。
生命を無くそうとも、愛を無くそうとも、私の根幹をなしている探求心は無くならない。
私は想いを顕にしない。願いは言わない。技術は隠す。
大事なものを全て隠して、それでも私は成し遂げる!
もはや準備万端、後は放つだけとなっていた魔法ノスタルジアを私にかける。
アッシュとスターシャの視線は、エルザの真横に立って魔法を練り上げているヴィゾークに注がれていた。彼らはその魔法がエルザにかけられるものと思っていたはずで、それが私にかけられたものだから、視線移動が一瞬遅れる。
対象を破壊する攻撃魔法や対象を治す回復魔法は、見ればすぐに効果が分かる。しかし、内部に効果をもたらすノスタルジアは見ただけだと効果が分からない。それでも効果を見抜こうとして彼らは私を注視し、それによって私以外への注意力が低下する。
監視者たちの視中心から外れたエルザの魔力を、エルザの両横と後方に立つ手足たちで吸い上げる。すると、監視の視線はすぐさまエルザへ戻る。
そうしたら今度は、意識の一瞬の暗転から復帰した私がエルザにドミネートをかける。
魔力回線を奪ってしまえば、クローシェのような特殊体質でもないかぎりドミネートを抵抗されるおそれはない。支配は速やかに確立する。
魔力吸収魔法とドミネートに抗わんとして、身体の操作権を私に奪われる直前までエルザが拘束下で暴れ、叫んでいたのは、この監視下で細工するには実に都合がいい。
ドミネートしたエルザをドミネート前そのままに暴れさせ、叫ばせる。叫んでいるのだから口が大きく開いているのは自然で、その自然な投入口をクローシェの手で塞ぎ、手掌に忍ばせておいた薬をエルザに含ませる。
それと並行してエルザの体内で暴れ狂う魔力を体内へ滲入する手で正確に掴む。把持が完全になったら遅滞なくパララス・スウーンを施してエルザの意識を落とす。
ここまで時間はほとんどかかっていない。この極めて短い時間に魔法も物理的な細工も右から左から我々は連続して行った。アッシュたちの視線は我々の動作一つひとつに追従して、右へ左へと行ったり来たりした。
事の本質を見抜かれるおそれが最も高まるのはアッシュにエルザを注視され、『魔力を吸っている』と気付かれた場合だったが、もうその作業は終わった。
ここから先に見られて困る作業はない。
アッシュの鋭い眼光はクローシェの手から伸びる体内へ滲入する手を正確に捉えている。
アンデッドの目でアッシュを見ても感情を正確に推し量るのは難しいが、どうやらアッシュは集中しているだけで、何か疑念を抱いているようには見受けられない。
私は確信を深めつつ呪い検出を進めていく。
法則に従って候補箇所を順番に調べていき、一巡目でなんの問題もなく“異常部”を特定する。
想定される所要時間を大幅に下回り呪破をここまで進められた。監視下の作業で予想される難所は大きく二つ、導入部と呪い検出で、どちらも想定以上に順調に完了した。もう難所と呼ぶべき部分は無い。
私はパララス・スウーンを調整して昏睡するエルザの意識をより深く落とし、呪い解除に取り掛かる。また、私本体にはリヴァースをかける。
蘇生の苦しみに私はそこはかとなく満ち足りた感を得る。
ノスタルジアを長く使う場合、ノックダウンは避けられない。ノックダウンに至らない時間で前工程を終わらせられたのは、ひとえに運が良かった。
私はあまり自分を幸運と思ったことはないから意外だ。もしかしたら私の運ではなく、エルザの運に助けられたのかもしれない。エルザはかわいいだけでなく今ではキーラ譲りの美しさを備え、さらに運まで良いときた。
何はともあれ幸運に助けられた。脆いヒトの精神状態では、何も悪条件が重ならずとも勝手に焦って恐慌に陥り、特定できるはずの“異常部”を特定できなくなるおそれがあった。だからこそ、前工程は何が何でもノスタルジアの作用下で終わらせておきたかった。
欲を言うならば、時間にはまだ余裕があったのだからノックダウンの制限時間ギリギリまで後工程を進め、そのうえで蘇生してほしかったのだが、アンデッド時の私の理性はノックダウンに到らない範囲であってもノスタルジアを長引かせることを危険と判断した。
その判断はおそらく正解だろう。理性の適切な判断を邪魔するのはいつだって愚かな感情だ。
こうやって自分で自分に文句をつけるのもあながち無駄な行いではない。おいそれとは鎮静魔法を使えぬ現環境で心を落ち着けるのに一役買っている。
後工程完了までは今しばらくの時間を要する。重い外傷を負ったリディアに回復魔法を施していた時のように集中力が一定の域に達していれば余計なことを考えずに済むが、今は余裕がある分、放っておくと考えなくてもいいことを考えてしまう。
色々と足りない自分に文句を言っているくらいが丁度いいさ。
◇◇
呪破が完了し、微睡みから覚めやらぬエルザをユニティに託して我々は独居房を後にする。
前置き無くその場を任されたアッシュは我々の背中に向かって文句を言い、スターシャは不満をおくびにも出さず淡々と従者に指示を出す。
これでいいのだ。後はこいつらが上手くやってくれる。
私はやるべきことをやった。工程は細部にいたるまで全てが上手くいった。上出来も上出来、特上だ。今までのどの呪破よりも良くできた会心の呪破と断言できる。
本音を言うならば、間近でエルザの目覚めを見届け、更に喋らせたり身体を動かさせたりして呪破の悪影響が一切、生じていないことを確認したい。
しかしながら、私はあの場に居るべきではない。
私が近くにいればいるほどエルザは不幸になる。エルザの横にいる私をほんの少し想像しただけでも、目覚めた後に引き起こしかねない不幸が山ほど浮かぶ。
エルザがユニティ撹乱を目的として新たに揺さぶりをかけ始めでもしてみろ。ユニティが撹乱される前に私が正気を失うのは必定だ。トチ狂ったら何を仕出かすか自分でも分かったものではない。
感情任せの暴走で成功を台無しにする前に私は身を引く。私には珍しい、自分でも驚くほどの賢明な判断だ。
これでいいのだ、これでいいのだ、と私は繰り返し自分を諭す。
ユニティと鎮圧部隊、総出となった大掛かりな練習の詮があり、本番は見事に成功した。見えている失敗は断腸の思いで回避した。
私には今後、今ほど手放しで喜べる場面があるか分からない。
だから、泣くな。喜んでおけ、今だけは。
まったくもってこの肉体の情緒不安定さには困らされる……。
◇◇
応接室に戻り待機することしばし、心ゆくまで事後検証を行ったアッシュたちがやってくる。
彼らは我々に不自然な退室の理由を問う。アッシュはどうやら呪破の立ち会いを無理強いしたせいで我々が気分を害したのではないかと思っているらしく、いつもの攻撃的な姿勢が全く見られなかった。我々にとっては都合の良い勘違いだ。そのままずっと勘違いしていろ。
ただし、遠慮しているのはアッシュだけで、スターシャに遠慮する様子は見られない。やはり私はこいつが苦手だ。
重大な用件が済んだことで、私はすっかり意識の外にあったスターシャへの苦手意識をばっちり思い出してしまう。
思い出すと途端に億劫になるが、面倒がっても逃げられるものではない。
そこで、私は仕方なしに『彼らが呪破に立ち会おうとした本当の理由』について言及する。
私のやった呪破は我ながら速かった。初見で見切るには速すぎるくらい速かった。種々の事情でそうせざるを得なかったわけだが、内容を吟味したいアッシュたちにとって速すぎる呪破は具合が悪い。
呪破の最中に内容を精査できないなら、呪破後に精査するしかない。それには我々の存在が目障りだ。
早く精査したいユニティ側に配意した、という旨を遠回しに説明すると、二人は、得心がいった、という様子で、それ以上の追及をやめる。
上辺はともかく、スターシャが本当に納得してくれたかは確信が持てない。だが、追及の手が止まったおかげで私は嵐がひとつ過ぎ去ったかのような安堵を感じてしまう。
そして、次に始まるのが今後の動向についての探りだ。それは即ちアッシュの執務室での対話の続きでもある。
彼らは再度、我々の目的を問う。
あの日あの部屋で問われてから私はずっと考えていた。
私の目的、私が成すべきこと、私が思い描く理想の未来。
彼らは信念を示した。いや、最初からずっと示している。
翻って私には今も昔も表明に値する理念がない。信じるものがない。
無定見が必ずしも直すべき欠点とは思っていないが、確固たる考えのある彼らを見て思うところがあるのは事実だ。
私はエルザの幸せを願っていて、エルザの幸せを妨げる、ありとあらゆるものを排除したいと思っている。ドラゴンがエルザの歩む道に影を落とすと言うならば、この世に這い出てくる全てのドラゴンを狩りたい。それが私の素直な感情だ。
そして私は感情に相反する思いを持っている。現実には私がドラゴンを狩り尽くすなど不可能だ。これからの時代、空にドラゴンが舞っているのが当たり前なのであれば、そんな世界でも生きていられるくらいエルザは強くなければならない。私の理性は、そう主張している。もちろん、その前提には王族の呪いの除去があり、それはもう達成した。
短期から中期の観点では、呪いが再びエルザにかけられはしないだろうか、という懸念がある。しかしながら、それに関して深く考えるには情報が足りない。私はもう少しマディオフ王族について知る必要がある。
鎮圧部隊との衝突を経て、この呪いは案外に不便なものだと知った。
王族の呪いの究極目標とは何なのだろう。
マディオフの軍人を王に絶対忠実な駒と変え、敵を排除する。
それがゴルティア軍やジバクマ軍の見解で、私も概ねその認識に同意する。
ところが奇妙なことに、この呪いはアンデッドに特別な反応を示さない。
私は鎮圧部隊との戦闘で瘴気を展開した。アンデッドに特別詳しくないとはいえ、その時点で鎮圧部隊は我々をアンデッドと認識したはずだ。ややあってから彼らにかけられた呪いが発動したものの、説得が奏功して呪いは機能停止した。王族の呪いがアンデッドを敵と設定していたら起こり得ない事の運びだ。
そもそもアンデッドを滅すべき絶対の敵と定めているのは紅炎教であって国家そのものではなく、紅炎教が国教に定められたのは比較的近年の話だから矛盾はない、と言われればそれまでかもしれないが、死没まで秒読みの老兵ならいざしらず、エルザをはじめとする比較的年齢の若い軍人たちまで一律に物分かりが良いのは、どうにも妙だ。
私はオルシネーヴァに対応した際、アンデッドを受け入れる下地作りにかなりの時間と労力を割いた。苦労は報われて無事ジバクマとオルシネーヴァを和睦させられたわけだが、マディオフでは肝心の下地作りをまだ何もやっていない。
私が知らないだけで、下地は最初から存在していたのだろうか。
いつぞや、グレイブレイダーのセルツァも『マディオフの王族は怪しい』と言っていた。ひょっとすると王本人が……いや、それだと頻繁な代替わりの説明がつかなくなる。
やはり情報が足りない。情報に欠けた状態で私が推理しても“真実探し”まっしぐらだ。
現時点で言えるのは、マディオフ王の正体がいかなるものであっても、迂闊に敵対すべきではない、ということだ。
現にユニティはロギシーンを実効支配しているにもかかわらず、マディオフへの敵対姿勢を明示しておらず、庁舎前ではマディオフの旗がユニティ蜂起前と変わらず翩翻と翻っている。
私は全然気付かなかったが、ラムサスに言わせるとユニティの紋章旗はマディオフ国旗や王家の紋章旗より低く掲げられていて、それが極めて重要らしい。
私としては武装蜂起した時点で旗の高低で示す敬意にこれといって意味は無い気がする。軍人や王族の価値観は時に理解困難だ。
旗についてごちゃごちゃと考え旗幟を鮮明にしない我々をどう思ったのか、スターシャが言う。
「“砂”の北の世界はワイルドハントの脅威に晒されています」
我々の価値を諮るために発された言葉に私はまた悩む。
我々は当初、ゴルティアという脅威を押し返すために武力行使を始めた。それなのに不本意ながら我々がヒト社会の脅威になってしまっている。
我々が邪魔立てしなければ、今頃はゴルティアがこの国を飲み込んでいたはずだ。大氾濫によって東の戦線は大規模な会戦を経るまでもなく維持困難となり、戦死者は極めて少ないままにマディオフは降伏していただろう。
ゴルティアはマディオフを統治下に置いてから大氾濫を収束させる。それだと、私が収束させたときよりも人的被害が多く出るかもしれないが、私がゴルティア軍やマディオフ軍、ユニティ戦闘部隊に出した被害よりはずっと少なく済んだだろう。
スターシャが現在、思い描いている案はおそらく大氾濫前からすれば次善案ですらない、存在しなかった案だ。
私が動いたせいで被害は劇的に増大し、マディオフの様相が全く変わってしまったのだから、案をまったく新しく練り直すのは当然と言えよう。
後悔しても遅いが、私の行動は何から何まで事態悪化にしか働いていないように思う。
私はこれから王都ジェゾラヴェルカに戻る。これは確定している。王都でどう動くかは、呪破後のエルザの選択によって変わってくるわけだがエルザの選択如何によらず今後、私の取る行動がまたも事態を悪化させそうで甚だ不安だ。
考えても考えても質問に対する適切な返答が思い浮かばない。そこで取り敢えず、ロギシーンに居る軍人たちの呪破を完遂すること、呪いの解けたマディオフ軍人たちの選択を見届けたら王都へ行くこと、の二点を告げておき、ついでに一言付け加える。
「結果はどうあれ、脅威たらんと考えたことはない。これから先もそれは同じだ」
「分かっていますよ。言われるまでもなく、そんなことは」
含みあるスターシャの合いの手が私の混迷をより深める。
小妖精の反応を確かめても、スターシャの発言に嘘はない。こちらを諮ろうとしているのは最初から変わらないが……具体的にこいつはこのやり取りから何を確かめようとしている。
スターシャは対話を通して私の究極目標を聞き出すことを目的としていない。
私の根源的な願いである魔法探求はこの件に関係ない。ここでの私の究極目標とは『アールの家族を守ること』を指すわけだが、私はそれを絶対に口にしない。賢しいスターシャがそれを薄々分かったうえで話を進めているのだとしたら、こいつの目的は……。
「次将にあれだけ執着していたあなた方のことですからね。仮にあなた方の主たる目的が破壊と混沌だったとしても、フランシス次将を真に仲間に引き入れたくば危険な野望を手放さざるを得ないでしょう」
アッシュとスターシャが不仲を演じていた目的のひとつはおそらく組織内に潜む危険人物の炙り出しと推測される。もちろん、クローシェも危険人物に該当していた。
クローシェはユニティ次将という指導的立ち場にありながら、クローシェ以外の指導者たちからしてみると、いつ離反するか知れない危うい存在だった。
我々の手足になったクローシェをスターシャが今もなお『次将』と呼ぶのは、なんの意味があってのことかは分かりかねる。
「それに名前が物語っているではありませんか」
スターシャがごく薄く笑う。
「リリーバー。あなた方は救世あるいは解放という名の下に集まっています」
またこちらの名前を論い、からかってからに……。スターシャには名前に関連した冗談を好むアンデッドの知り合いでもいるのだろうか。
それにその名前は、いかにもハンターが好みそうな大仰さや身の程知らずな響きを求めてつけたものであり、内に秘める理念を投影させたものではない。
あまり言葉の端々に気を取られていると、こいつの話術に飲まれかねない。スターシャの調子に合わせるな。
自分のやり方を思い出せ。いつもどおり、私は私が望んだ拍で望む主張をしていればいい。
それにしても、我々はロギシーンに入り潜伏生活を開始してからパーティー名を名乗る場面が一度も無かったはずなのだが、こいつらは当然のようにこちらの名前を知っている。
クローシェによれば、ゴルティア軍との連絡は年を越す前後からほとんど絶えていたらしいが、ユニティはユニティでゴルティアとは別の情報網を持っているらしいから、知っていて然りか。
「名前があったほうが何かと便利だから、つけておいただけだ。そこに込められている心などない。それより、ユニティは王都に人を忍ばせているはずだ。入用になったときに我々がどうやったらその者と接触できるか教えてほしい」
「おいおい……」
呆れ顔のアッシュが身を前に乗り出す。
「口を開けば開くほど傲慢さが鼻につく。俺たちの問いにはロクに答えず、それでいて自分は質問も要求もいけしゃあしゃあとする」
「最初に言ったはずだ。お前たちも答えたくないなら答えなければいい。我々は強制しない」
「その姿勢に終始していては、いつまで経っても対話にならない。創始者様には自覚が無いようだから、俺がこうやって指摘している」
アッシュは不快感こそ表に出すものの、決して怒りを爆発させない。それでも対話の邪魔になると判断されたのかスターシャに手で制され、アッシュはそれ以上の言葉を噤む。
スターシャのほうは自分勝手なこちらの発言を特に気にする風もなく、何もないところを見ながら次の質問を考えている。
これは根拠のない私の勘なのだが、スターシャは何か特定の言葉をこちらに言わせようと試行しているような気がする。それも、こちらからその言葉が出てこなければ意味が無いようで、それまでは自分たちも直に言及せず、ボカしにボカして、どうにか我々に一言目を言わせたがっている。
私の考えすぎの可能性は否定できないが、こちらにはクローシェがいるからな……。
とはいえ、ユニティが一言目を口に出せない理由がクローシェの同席にあるのだとしたら、部屋からクローシェを追い出すのが手っ取り早い。それならスターシャはズバリそう言うだろう。フランシス次将は席を外していただけませんか、と。
クローシェが邪魔で言えないのではないなら、ユニティが我々から引き出したい言葉とはなんだろう。
……分からない。
少し考え方を変えてみよう。ユニティから……いや、もっと絞ってスターシャという人間からは我々がどのように見えている。
私は、自分の持つスターシャという人間の情報を整理し、もし自分がスターシャだったら我々がどのように見えているか考える。
スターシャは元々ゼトラケイン人で、ロレアルが独立してからはしばらくの間ロレアル人で、ロレアルがいよいよ滅ぶよりも少し前にゴルティアに逃れてそこで大きく見聞を広げ、再起支援の名目でゴルティアの駒となってここロギシーンに渡ってきた。
支援者兼支配者であるゴルティアを真には信用しておらず、ドラゴンの 大発生 後もヒト種を存続させるための何らかの策を隠し持っている。
……ダメだ。いい線をいっていると思ったのだが、この視点から推測を進めていくのは、少なくとも現時点では私には無理だ。
では、ここにクローシェの視点を絡めてみるとどうだろう。
クローシェは我々を『ゴルティアの権力者“ギキサント”が北世界統一を妨害するために放った刺客』と思い込んでいた。
そして、己をギキサントの邪な考えに抗う組織“アウェル”の同志と認識している。
ギキサントは定義次第で有るとも無いとも言えるから、定義を論ずるならともかく、有無を論じてもあまり意味はない。
問題なのはアウェルのほうだ。クローシェに行った判定試験風の演劇の中で私はアウェルの構成員を装ったが、実際のところ、私はそんな組織を「前」も「今」も聞いた覚えがない。傀儡化後のクローシェを調査して知ったのが正真正銘、初めてだ。
このアウェルなる組織は、はたして存在するのだろうか。ホーリエがクローシェを体よく操るために作り上げた架空の組織なのではなかろうか。私はかなり実在を危ぶんでいる。
とはいえ、まさかスターシャに『アウェルって知ってる? 実際あると思う?』と聞くわけにもいかない。それなら、『我々はギキサントとは無関係だ』と言ってみるのはどうだろうか。
一時とはいえスターシャはゴルティアで暮らした人間だ。ギキサントという概念は少なくとも知っているはずだ。だが、これでスターシャがギキサントと深く通じている人物だと、その発言はこちらの首を絞めることになる。
私が話の持っていき方に苦慮していると、スターシャのほうがまた新しく提案する。
「では、焦点を少しだけずらしてみましょう。フランシス次将はこの先、あなた方と行動を共にして、次将本人の目的を達成できそうですか」
これは私では思いつかない切り口だ。スターシャは面白い考え方をする。これなら私でも答えられるかもしれない。
クローシェが見ている大きな夢はスターシャたちと大きく違わない。
ドラゴンの 大発生 によりヒト種にはこれから暗黒の時代が訪れる。たとえ世界の変化が不可避だとしても、完全なる闇が世界を覆いつくすのを座して待つのではなく、ほんの幽かでもいいから足元を照らす光を灯しておきたい。そのためには命すら惜しまない。
クローシェ・フランシスとはそういうバカだ。因子保有者と言えば保有者らしい。自己犠牲を厭わないこの“博愛”の心は私の気分を著しく害する。自分がどうして苛立つのか、私はもう分かっているが、それでも感情は抑制がきかない。
「私の願いは――」
「私はあなたに聞いているのですよ、エル」
喋りかけたクローシェをぴしゃりと遮り、スターシャが私を真っ直ぐに見る。
「我々はヒト種を遍く保護しようとは考えていない。だが……」
自分のことなら夢と目的はある程度区別できるが、我々の情報力を用いても他者の夢と目的を区別するのは難しい。
クローシェの夢は分不相応に大きい。母国ゴルティアの未来のみならずマディオフやジバクマ等の外国の未来を憂い、ウリトラスを案じ、演劇の途中では私まで救いたいと思い始める始末。“博愛因子”は因子保有者にとってとんでもない毒だ。
クローシェの意志を置いておいたとしても、このどうにもならなさそうなマディオフという国を私はどうにかしないとならん。エルザやキーラ、リラードのために。
「我々の手足として尽力すればクローシェ・フランシスの願望の一部は間違いなく達成が近づく」
「なるほど。ご回答ありがとうございます」
ごく薄かったスターシャの笑いが少しだけ深みを増す。
「やっと価値の高い答えが聞けて大変うれしく思います。さて、それでは、次の質問は少し難易度を上げましょう。あなたが今言った『願望の一部』とはマディオフが新しいかたちで安定すること。そうですね?」
スターシャの話す速度いきなり上がり、私は理解に躓く。
耳に残る言葉を反芻して内容を理解し、そうだ、と私が言おうと思った矢先、スターシャは首を左右に振る。
「あなたは言いました。『達成が近づく』と。『達成できる』とは言わずに『近づく』と言いました」
ただならぬ雰囲気のスターシャに私は圧倒される。そして私は再び直感する。
スターシャはもう、私がまだ思いついていないその言葉から判断できる何かについて確信し、その次の段階に踏み込んでいる。
「あなたはそれがどれだけ難しいか概ね理解しています。しかし、敢えて言いましょう」
スターシャは息が切れたわけでもないだろうに、ひと呼吸置いてから続ける。
「あなた方の想定とは異なる困難がマディオフの安定を決して許しません。私はそう断言します」
てっきり新たな探りを入れられるものと思い待ち構えていた私の心にスターシャの予告ならぬ予言が深々と刺さる。
与えられた予言を正しく読み解くには端緒が……相応の鍵が必要になる。そしてそれは目に異様な光を宿すスターシャを凝視しても得られない。
私は、スターシャの横で沈黙を守るアッシュに視線を滑らせる。
アッシュは呆気に取られるでもなく訝しむでもなく、なんと表現したらいいか、『既知の絶望の再告知』に耐えているかのような顔をしている。
開けていたはずの私の視野が急速に狭まっていく。
大切な妹の呪破を終えた後、私は悲しんだり嘆いたりしたが、それでも一定の達成感を得て、この対話に臨んでいた。それが今や自分の心をぐるりと見回しても、もう達成感も満足感もどこにも見当たらない。




