第六六話 呪いへの道程 五
ロギシーン庁舎地下一階に位置する一室で我々は、ある人物の到着をしばし待つ。
傍らには壁に背中をもたれたアッシュが立っている。監視役の名目でここに居るはずなのに顔つきだけなら立派に注意散漫だ。
表情がどうあれ本当の意味では油断などしていないだろうが、かなり集中して何かを考えているのは間違いない。
対話を経て我々とユニティは休戦した。マディオフ軍がロギシーン奪還に向けて攻め込んでくる可能性も限りなく低い。解決の見えない問題は他にまだまだあるとはいえ、一定水準の平和を取り戻したと言って差し支えないだろう。
その立役者となったアッシュが思うことや如何に。
長い時間話しても我々は最後までスターシャ案の詳細を掴めなかった。究極目標がはっきりしているとはいえ、具体案が分からぬままアッシュの内心を推し量ったところで大したものは見えてこないだろう。
ソボフトゥルを使えばスターシャがどういった策を練っているのか突き止められなくもない。だが、ロギシーンはどうやら思った以上に魔眼持ちの多い土地らしい。
光り油虫をスターシャの居場所に遣わすのは訳ない作業でも、ソボフトゥルを隠密裏にスターシャの傍まで誘導するのは難しい。
スターシャ本人は魔眼持ちではない……と思うが、万が一がある。魔力視を可能にする魔道具があってもおかしくない。
アッシュはポジェムニバダンが見えていたかもしれないが、あれは最初から最後まで相手の目の前で堂々と使っていた。
ソボフトゥルの場合は特性上、どうしても存在を隠さなければならない。コソコソと動かして、結果見破られた場合は悲惨だ。
情報は得られない。どん底からなんとか築き上げようとしている信頼関係は破綻する。救いがない。
スターシャが見通しているのはロギシーンやマディオフといった局所的なものではない。“砂”より北の世界全体だ。そして、“砂”の北において重心はゴルティアにある。
スターシャ案がゴルティアの権力者たちを強く意識したものなのは明白で、ならばゴルティアに行けば正解が自ずと見えてくる。
アッシュもスターシャも我々と積極的に対立したいとは思っていないのだから、敵対姿勢と捉えられかねない行動を我々がしてどうする。
我々はロギシーンの人間もロレアル出身の人間も大勢殺した。ロギシーンの民から信頼を得る日は永劫こない。得られぬものを得ようとしなくてもいい。
我々がすべきはアッシュとスターシャに手を組む価値を示しておくことだ。そうすれば、下がどれだけ我々に敵意を抱こうとも上は我々と休戦以上の関係、相互受益の道を選び、下の不満を封殺する。
アッシュもまた相当な憎しみを抱いているだろうが、アッシュは理性で感情を抑え込める人間だ。
上の空のアッシュから私は目を切り、室内を見回す。
傀儡の走査で空間の広さは事前に知っていた。それでもこうやって足を踏み入れてみると広く感じる。
実際、ウラスで慣れ親しんだ一室よりもここはかなり広い。最初からそれ用に設計された専用部屋ではなく、後から用意したものなのだから、無駄に広いのは当然と言えば当然か。
最適な広さの部屋がないならば、狭いより広い場所を選ぶに決まっている。
室内に充満する沈黙の不味さを味わいつつ、別の場所に配置したラムサスと先の対話について振り返ることしばし、我々の呼び出した人物が到着する。
アッシュが到着した男を見て、それから我々を見て言う。
「こいつでいいんだな」
「確カメヨウ」
私は、従者に連れてこられた哀れな実験台に名前を問おうとして気付く。
いかん。
問おうにも問えない。名前を失念してしまった。
またこれだ。興味がないものは、よほど気をつけていないとすぐに記憶から消え去る。
名前を覚えるのが苦手なのは自覚していたから、ヒトとして生きていた時はなるべく注意を払っていたが、最近は注意力そのものがめっきり落ちてしまっている。
仕方がないので予定表を引っ張りだそうとしたところで、ラムサスが言う。
「ミロスワフ・トラーチュ」
先回りされた……。ポカがバレると、また呆れられてしまうから、敢えてラムサスには聞かなかったのに……。
これだけ不自然に間が空いたのだ。名軍略コンサルタントを気取るラムサスが、私がどういうやらかしをしそうか見当をつけて決め打ちしてくるのも道理である。
自分の不甲斐なさを隠そうとする小細工ごと見透かされた気がして恥ずかしいったらない。
気落ちする自分を励まし、改めて男に問おうとするも、まだ何も問われていない男はなぜか取り乱している。
ややや、これは一体どういうことか。
するとまたラムサスが答えを教えてくれる。
……。
ふむふむ、なるほど。言われてみればそのとおりだ。
マディオフ軍人全員が我々の存在を知っているわけではない。
うっかりしていた。
ミロスワフは知らない側の人間だ。
いきなり連行された部屋にアンデッドがいるのだ。非マディオフ人でも突然アンデッドを見せられれば驚く。ましてやミロスワフはマディオフ人、取り乱すな、と言うほうが無理がある。
男が不穏になっている理由が分かり、私は安心して質問に戻る。
いちいち説明するのは面倒なので飛ばす。
「オ前ノ名ハ『みろすわふ・とらーちゅ』ダナ。正シケレバ沈黙ヲ守ルコトデ肯定ノ意ヲ示セ」
やや複雑な言い回しをされたせいか、男の不穏に拍車がかかる。
私がこういう言い回しを選んだのは、一応、沈黙された場合の対策であり、混乱を目的としたものではない。そもそもこいつは我々のことを知らないのだから無意味な工夫と言われればそうかもしれない。
肌寒い室内で男の顔に汗が浮き出す。
真の名前を知られると身体を乗っ取られる、という妄想でもしているのかもしれない。
心配しなくていいぞ。私は名前なんて知らなくてもその気になれば操れるのだからな。
「みろすわふヲ所定ノ位置ニツケヨ」
黙したまま言葉を発さない男をミロスワフ本人と断定し、従者たちに行動開始を命じる。
確証はないが、きっとこいつはミロスワフだ。仮に違ったとしても大した問題はない。私には。
ミロスワフをここへ連行してきた従者他、ユニティの腕利きたちは私に命令されても動こうとしない。
彼らは目でアッシュに指示を仰ぎ、アッシュから小さな仕草で再命令されてミロスワフを部屋の中央に引っ張っていく。
ミロスワフは、されるがままではない。拘束具により自由が制限された身体で、それでもどうにかして従者たちに抗おうとする。
もしかしたらもう発動しているかもしれない。そこで私はミロスワフに語りかける。我々にもユニティにも王やマディオフ国家、そして何よりミロスワフ当人へ危害を加える意思が無い、と。
しかしながら、私の説明が悪いのか、はたまた発動などしておらず、ただ単に状況に恐怖しているだけなのか、ミロスワフが抵抗を止める気配はない。
ここでミロスワフと従者、双方のために鎮静魔法をかけてやりたくなるのは心情だろう。しかし、私はかけない。
ユニティの連中にとっては日常作業のひとつでも、私にとっては初の試みだ。何も分からぬうちにあれこれと手を加えると後の考察時に混乱は必至だ。
だから私のためにキリキリ働け、従者ども。
無言の声援を送り、私は手足を動かさずに用意が整うのを静かに待つ。
用意は比較的すぐに整い、私はアッシュ以外の全員に退室を命じる。
準備だけさせられて用が済んだら追い出されることに怒り心頭なのか、従者たちの表情は一様に反抗的だ。
それでもアッシュに促されて渋々彼らは退室する。そして、部屋から出たら、今度はそこで目にした人物に、我々に向けていた以上に悪意ある目を向ける。
敵対的な環視をすり抜けさせて、その人物を治療室に入れる。
室内で最初にぶつかるのがアッシュの視線だ。
アンデッドではなく油虫でもなく、ヒトの目で正面から向かい合うことでアッシュがどれだけ複雑な表情をしていたのか、ようやっと理解する。
ああ、アッシュ……なんという顔をしているのだ。これほど奥深く苦味走った顔が、アンデッドの目にはどうしてこんなに無味淡白にしか映らない。
「俺に言うことはあるか。クローシェ」
短く刺々しいが、どこか温かみもあるアッシュの言葉に、クローシェも私もそれぞれそこはかとなく心に傷を負う。
クローシェはアッシュに言いたいことが無数にある。私も、仮面を外し、何もかも投げ捨てて言ってしまいたいこと聞きたいことが山ほどある。
私はそこまで出かかった言葉を飲み込み、クローシェに頭を振らせて会話を拒否する。
話したところでそれはどこまでも無駄話、過去と幻想への執着に他ならない。私がここへ来たのは現実を見て、未来に向かって進むためだ。
無言でクローシェの歩を進め、治療台の横につかせる。
さあ、今日の正念場その三だ。対話とはまた別種の気合いを入れていかないとな。
アッシュの執務室に入室する時もそう。スターシャを交えての対話もそう。今日は重要局面の連続だ。
治療台に拘束されたミロスワフに張り切って手を伸ばすと、諦めの悪いアッシュがまた話しかけてくる。
「だんまりを決め込む気か。……まさか、声を奪われたんじゃ――」
「喋れます」
「あ……。そう……」
妙な方向に想像を膨らませ始めたアッシュに答えを一部、開示して現実へ引き戻してからクローシェの両手に魔力を集中させて“特殊治療”を開始する。
私やウリトラスの身体を調べた時の『実験のための実験』とは違う、本番形式の実験であり、本当の本番に向けて行う最初の練習だ。
魔力は魔法を形作り、体内へ滲入する手となってミロスワフの身体に入り込んでいく。
回復魔法を受けるときとは一風異なる情報魔法の体内滲入にミロスワフの恐怖が濃くなり、騒ぎ、暴れる。
もしも拘束が不完全であればミロスワフは直ちに拘束から抜け出し、彼の振るう暴力は彼の真隣りに立つクローシェの身を撃つだろう。
小妖精がいなかったら、そういった小細工の心配をしながら“特殊治療”……“呪破”にあたらなければならなかった。それも、かなりの長時間だ。冗談にもほどがある。
クローシェの記憶によると“呪破”はかなり集中力の要る作業、それはつまり、操る私にかかる負担も相応に大きいことを意味している。
長期戦を見据えるならば作業効率を上げる念入りな段取りが必要だ。
ユニティの本拠地で呪破を行う際に効率を最も低下させる要因になるのが、頭のすっからかんな従者たちだ。
確かにこいつらの戦闘力は高い。しかし、知性はアッシュたちと比べるべくもなく低い。
もし、そんなものがあったらクローシェをあんな目では見ない。
……。
バカに怒ってどうする。
くだらない思考に時間を費やしてしまった。呪破を進めよう。
体内へ滲入する手をミロスワフの中で機敏に動かす。
より強くなった非物理的な異物感に反応し、ミロスワフの体内で魔力が跳ねる。
嚆矢に驚いて飛び立つ鳥や遡上時に飛び跳ねる魚と同じだ。飛ぶから矢で射られる。跳ねるから咥えられる。
顕になった魔力網をすかさず魔力の手で掴み、そのまま本幹まで伝っていく。
すぐに魔力の中心点に到達し、魔力の心臓とも呼ぶべき中枢部を手の上で転がす。
「やめろ! やめてくれえええぇぇぇ!!」
心臓を転がすと言っても、ミロスワフの体内に入っているのは干渉力がほとんどない、鑑賞力が専らの魔法だ。
ミロスワフは痛みを感じていないはずだというのに、まるで殺されるかのような喚き様である。
力ずくで押さえ込まれて貫かれる少年は、ちょうどこんな具合に叫喚する。組み敷く側は、哀れに泣き叫ぶ標的の姿にこれ以上ないほど嗜虐心をそそられ、強く官能を刺激される。
そういう趣味の者がいれば金を取れそうなほど見事なミロスワフの乱れ様に、室内の誰も反応しない。アッシュにとってもクローシェにとってもこれは代わり映えのない日常、アンデッドにとって生者の情動は興味の対象外だ。
暴れる魔力を、粘液でヌメる魚介の類を捌くときに似た要領で取り零さないよう把持し、今度は幹から枝へ手を滑らせて魔力網の中に隠れ潜む王家の魔力を探す。
魔力の手で一度に調べられる範囲の狭さに比べると、ヒト一人が持つ魔力網は漠漠たる広さがある。どこに潜んでいるとも知れぬ、そもそも本当に潜んでいるかどうかも分からぬ王族の呪いをこの広い魔力網の中から探し当てるのは冗談抜きに気の遠くなる作業である。
それをクローシェは何度となく成功させてきた。その証拠に、敵に決して寝返らぬはずのマディオフ軍人が少なからずユニティに寝返っている。
呪破はまだ始まったばかり。嘆いても詮方無い。
室外に目を向けても不穏な動きはない。
呪破に集中しろ。
◇◇
進展のない間違い探しに勤しむ時間はあっという間に流れていく。
空の闇はじきに明ける。
地下にある治療室からだと傀儡なしに外の様子は窺えない。それでもアッシュは地下天井越しに白み始めた空を仰ぎ見る。
高齢のアッシュに夜通しの警護は辛かろう。疲れと眠気が透けて見えている。
呪破に立ち会うアッシュはユニティ視点だと監視だろうが、我々の立場からすると従者他、不明な者たちの暴走を防ぐ予防線だ。本意ならずとも我々の守りになっている。
お疲れのアッシュと違い、若いクローシェは体力十分だ。我々もまだまだ十分に続けられる。しかしながら、このまま突っ走るのは安易だろう。
私は取るべき休息を取らなかったせいで劣悪な体調でクローシェや鎮圧部隊と戦う羽目になり、結果あの様となった。
同じ轍は踏まない。
ちょうどミロスワフの魔力網は全身隅から隅まで五回、調べ終わった。それらしきものはどこにも見つかっていない。
これをもって調査完了とするか、それとも後で、もう一度調べるかは別にしても、休むには適当な頃合いだ。
完全に入り込んでいた意識と魔力の手をミロスワフの体内から引き上げさせようとして……瞬間、ほんのわずかな違和を感じる。
異常と判断するには、あまりにも毫末な感覚だ。
私に分かるのは、『クローシェが違和を感じた』という事実だけで、具体的にどこがどうおかしいのかまるで分からない。
休憩を取るつもりだったのだが……さあて、どうしたものか。
もし、これが当たりであれば、ここから先もそれなりに長い。だが、予想完了時間の見積もり困難な呪い検出と違って、呪い解除は道程こそ少し長いものの終わりが見えている作業だ。
操者である私が不慣れな分、クローシェの予想よりも長時間を要する公算が大きいにせよ、完走時点でクローシェと我々が疲労困憊になっていることはないだろう。
作業開始からずっとミロスワフに注ぎ続けてきたクローシェの視線をヴィゾークへ流し、首肯してみせる。私にとっては特に意味のない、アッシュに勘違いを続けてもらうことだけを目的として行った、一種の小芝居だ。
分かりやすく合図を送られたヴィゾークをミロスワフの横に動かし、ヴィゾークにも魔力の手を作らせてミロスワフの身体を調べさせる。
一旦、始まってしまえば後はずっと一人旅のはずの呪破作業に横から新参者が割って入る。
我々からしてみれば何でもないクローシェとヴィゾークの動作が、アッシュにとっては異常事態、普段と違う光景だ。変化に反応したアッシュが緊張を高める。
とはいえ、アッシュが緊張を暴発させて無闇に手出しする心配はないだろう。これで横にイオスがいたら、そういう無茶をしそうな人間ではあるが、アッシュは単独になると意外にも慎重派だ。これは、指導的立場に置かれてそうなったのではなく、現役ハンターの頃からそうだったらしい。
要は、アッシュの纏う空気がヒリついた程度で私が狼狽える必要はない、ということだ。
クローシェの魔力の手は長時間かかって見つけた誤りを見失わぬよう、はっしと掴んでいる。
ヴィゾークの仕事はクローシェから『ハイ、どうぞ見てください』と提示された解答に目を通して内容を理解するだけの簡単なものなのだが、意外や意外、それができない。
クローシェが見つけた異常部をヴィゾークの魔力の手でどれだけ丹念に撫でども擦れどもヴィゾークは誤りを認識できない。
ヴィゾークの体内へ滲入する手が真似できているのは形だけで中身が伴っていないのだろう。
卑屈にも傲慢にもならずできるだけ中庸に努めて己を見つめても、私の操作にそこまで落ち度があるとは思えない。
それが意味するところは肉体ごとの適性の違い、技術の精度差、才能の優劣。
呪い検出は情報魔法の一種であり、情報魔法は変性魔法のひとつである。私の手足の中で最も変性魔法を得意としているヴィゾークでも分からないのだから、おそらく他の手足に試させても結果は同じだろう。
もちろん例外というものがあるから、別の機会に試しておく必要はあるが、今でなくともよい。試したいことを全部やっていては時間が無限にかかる。
ヴィゾークの試みは短時間で見切りをつけ、再びクローシェに単独航海させる。
ミロスワフは叫ぶのに飽きたのか、それとも疲れてしまったのか、途中から眠り込んでしまい、今なお眠っている。しかも眠りの深度はそこまで浅くないらしく、クローシェとヴィゾーク、二人がかりで魔力網を探られたというのに全く起きる気配がない。
慣れとは恐ろしいもので、疲れと組み合わさると、魔力的な心臓を眺められながらでもヒトは寝てしまう。そういうことだ。
私としては作業終了までこのままずっと眠ってもらっていても構わないが、呑気に寝ていられる時間はおそらくもう終わる。
触るだけだったクローシェの手先を動かし、摘んだ異常部にピリとほんの少し裂け目を入れる。
すると寝入っていたミロスワフの双眸がかっと開く。覚醒したミロスワフが咆哮を上げ、目を血走らせて治療台の上で暴れる。
呪破開始時の哀れに慈悲を嘆願する暴れ方とはまったく異種の、命の危機に直面した野獣を思わせる暴れ狂い様だ。
間違いない。
これはミロスワフ本人の意思とは違う、呪いによる強制的な狂乱だ。
私は今、王族の呪いの発動条件を満たした。
この呪いには本格的発動に必要な条件あり、それを満たされるとこうやって被術者を狂乱状態へ移行させる。
条件はおそらく単一ではなく複数で、そのうちのひとつが『マディオフ王族への敵対』だろうと私は推測している。私が鎮圧部隊との戦闘で満たしてしまったのがそちらだ。
ミロスワフの場合に満たされた条件は『呪いへの干渉』だ。呪いは『解かれそうになっている』と自覚すると被術者を暴れさせて己を守る。生者で言うところの自己防衛本能のようなものがある。
もし、呪破開始前にミロスワフに『これからあなたの身体にかかっている王族の呪いを解く』と宣言していたら、その時点で呪いが発動していたであろう。王族の呪いは守りの意識がそれなりに高い。
尋常ならざるミロスワフの抗う力に頑丈な拘束具が悲鳴を上げる。腕や足を縛り止める単品が引き伸ばされるのみならず、治療台そのものが動かんばかりだ。このままだと治療台かミロスワフの身体が壊れてしまいそうだ。
これは決して誇張ではない。事実、リディアの利き腕は壊れてしまった。マディオフの未来を背負って立つ天才剣士に比べたら、ミロスワフの身体の安危など吹いて飛ばしてしまって構わないくらい、どうでもいいことでしかないが、壊さず治すに越したことはない。それはミロスワフ本人のためではなく、長い目で見て私のためになる。
危険の最小化に何よりも必要なのが早さだ。迅速な呪破完了が何にも増して被術者の健康を守る。
もちろん他にもできる手立てはあるが、ユニティはそれを選ばなかった。手立てを引っ張ってこようとすると引き抜かれた側の支障が必発で、その支障を厭ってユニティは……いや、クローシェは小細工を弄さず最初から最後まで単純な身体拘束だけで呪破を完遂するべき、と考えている。
盲目的に前例を踏襲するのは愚昧と私は考えている。しかしながら、今はまだ変化を求めない。
まずは常道を知る。前後左右に、それから足元を入念に確かめて一歩一歩踏みしめながら着実に歩む。
意味のない慣例を撤廃したつもりで成功に不可欠な要素や安全機構を取り払ってしまい大惨事を引き起こす、というのはありがちな失敗談だ。
鑑賞力しかなかった体内へ滲入する手は呪い解除のための干渉力を発揮してミロスワフの魔力網にへばり付いた呪いを一枚一枚、薄皮を剥ぐように慎重に剥いでいく。
呪い解除もまた集中力の要る作業ではあるが呪い検出に比べれば随分と易しい。実際、クローシェの神経はそこまで張り詰めていない。
普通に集中してやれば普通にできる。その程度のものだ。
余裕が生じると欲が生まれ、試してみたい変化がいくつも頭に浮かぶ。危険な衝動をグッと堪え、雑念を排して解除に専念する。
このまま順調にいけば、時間的にはぎりぎり朝食を摂取できそうだ。
暫定的な目標を設定し、王族の呪い初解除に向けてひた走る。
◇◇
「気分はどうですか。トラーチュさん」
呪破が完了して放心顔のミロスワフに具合を尋ねるも、問われたミロスワフは非友好的な視線をこちらに向けるばかりだ。
私はてっきり、『呪いが解けて最高の気分だ。恩に着る。ありがとな!』と感謝してもらえるものと思い込んでいた。実際、クローシェ本人が治療した時にはそれにちかい会話が被術者との間でなされたこともあるようだが、反応は人それぞれ……。
ふとアッシュの視線に疑念の色が浮かんでいることに気づく。
私は、自分の仕事に何か手落ちがあったのではないかと不安になり、呪破の工程を振り返る。
……。
そうだ、分かった。私はミロスワフ本人にこの作業が呪破であることをまだ説明していない。呪破そのものに集中するあまり周辺作業が疎かになっていた。
ミロスワフ視点からしてみれば、いきなりなんの説明もなく拷問部屋のような場所に連れてこられて治療台に拘束され、途中謎の精神暴走が起こり現在に至っている。
圧倒的なまでに説明が不足している。
「あなたの心を縛っていた王族の呪いは解けました」
クローシェが普段、行っていた説諭をなぞりミロスワフの心に変容を促す。
完璧は目指さない。完全再現を試みると、かえってボロを出すことに繋がる。
ミロスワフはマディオフにとってもユニティにとっても重要度の低い人物であり、だからこそ最初期に捕まっていながらこれまで呪破されずに拘束下で延々茶を挽いてきた。
もちろん私にとっても生きようが死のうが問題にならない存在で、だからこそ最初の実験台として適当だった。
失敗しても構わない挑戦だったが、呪いは無事に解けた。私にとって大事なのは呪破が成功したところまでであり、そこから先、解き放たれた被術者がユニティに加入するかどうかは私の与り知るところではない。
説諭を手短に終わらせ、区切りをアッシュに合図で示す。
するとアッシュは治療室の扉を開け、室外で待機していた従者たちにミロスワフを連れて行かせる。
再び我々だけになった治療室で少しばかりの達成感に浸っているとアッシュが無感情に言う。
「どうする。次をすぐに連れてくるか」
「次?」
アッシュの一言にはこれといって悪意がなかった。分かっているのに、私はなんの気なく放たれた一言に著しく気分不快になる。
「なぜクローシェを休ませない」
半ば無意識に操作していた魔道具の蛍光石が赤く輝く。
目敏いアッシュは光色変化を見逃さない。
「俺は尋ねただけだ。休ませるな、とは一言も言っていない」
従者たちがクローシェを白眼視したのも私は不愉快だった。
クローシェの実態はドミネートによる強制従属だが、従者たちの曇った目にはそう映っていない。自らの意志で我々の一員になったように見えている。
いや、たとえ本人の意志で我々と手を組んだのだとしても、従者たちはそこにあるなんらかの事情を察して然るべきだ。
そんな当たり前を従者たちは察せない。察したとしても、感情が理性を上回り、ああやって敵意をクローシェに向ける。
クローシェが我々に対して取った行動は賢いとは言えないものだった。しかし、こいつらにクローシェを責める資格はない。こいつらはクローシェと同等以下の愚か者だ。
アッシュは阿呆な従者たちと同列の無神経な発言をした。もっと言えば、アッシュは前々からクローシェに無理をさせてきた。状況的に無理させざるを得なかったのかもしれないし、クローシェ本人も望んで無理をしたのだろうが……。
ああ、なんにせよ腹が立つ。
怒りを押し殺して私は答える。
「食事と睡眠、常識的な休息が取れてから次の呪破を行う」
「随分と仲間思いだな。アンデッドを気取るには、らしくないんじゃないか? 創始者様」
アッシュは、耐える私を挑発するかのように嫌味を言う。
私はイオスと同様、アッシュに対しても一定の尊敬の念を抱いている。尊敬している相手から侮蔑されるのはイヤなものに違いないが、先の一言ほどは不愉快に感じない。
思えばこの数年で私が強く苛立った場面は、どれも根底に共通の理由がある。
自己犠牲の精神と、それを無言で強要する気風、その恩恵に相応の代価も払わずに臆面もなく浴する無能ども。そして、自分もその無能の範疇から脱せられていない現実。
自分の力ではどうにもできないから、何も変えられないから、だから苛立つ。
ラムサスの場合、“因子”とは無関係の単なる性根の良さなのだろうが……。
「まただんまりか」
口喧嘩に付き合う気になれない私は淡々と次の呪破開始時刻を告げる。
無機質な喋り方が、また『気取っている』と思われたようで、アッシュが私を鼻で笑う。
我々は無駄口を叩かず治療室を後にする。
◇◇
何かに没頭した後は寝付くのが難しい。どうにか眠っても眠りは極端に浅いことが多く、しかも、没頭した事象が夢にまで出てくる。
呪破は私にとって技術的関心の対象ではなかったが、いざやってみたら想定よりもずっと興味をそそられてしまった。
呪破の最中に思いついた沢山の試したいことを夢の中で私は試し、そしてなぜか何も結果が得られない。そりゃそうだ。だって夢だもの。
試行の結果を知りたい。失敗でもいい。成功でもいい。どうなるか気になる。
新しい技術に触れ、私はかなり入れ込んでしまっている。呪いはかけるも解くも魔法技術の範疇であり、私が興味を持つのは当然と言えば当然なのかもしれない。
休息後、治療室に連れてこられた二番目の実験対象が治療台の上に固定されたら、私はアッシュを含め全員を追い出す。
アッシュは臨席できないことに難色を示し、理由を尋ねてくる。
後の安全のために危険な試みをすると私が告げると、アッシュはユニティの指導者らしく憤慨し、文句を言うだけ言った後、なぜか勝手に納得して出ていった。
アッシュを言いくるめる口上を私は色々と考えていたのに全部無駄になった。アッシュの行動はよく分からない。
もしかしたら、試みに伴う危険性を巧言で包み隠そうとせずにそのままズバリと言ったのが案外、良い方向に作用したのかもしれない。
なにはともあれ呪破である。
今日の実験対象も境遇的にはミロスワフと似たりよったり、放置されてほとんど忘れられていた人物だ。
前回の失敗を活かして、今日はちゃんと名前を覚えてある。ええっと……。
突如、ラムサスが発言する。
「チッパー・リゾ」
おぉい!
せっかく覚えておいたのに……。きちんと覚えておいたのに……。頑張って覚えたのに……。
この情報魔法使い、聞かれてもいないのに実験対象の名前を言った。私が絶対に忘れているという浅はかな決めつけ、いやこれは助力を装った巧妙な侮辱に違いない。
無理解を託つのは心中だけにして、ラムサスには当たり障りないように感謝を述べておく。
気を取り直してチッパーに向き直り、緊張をほぐすために取り留めのない話をしながら呪破を進めていく。
対象に「私の身体に何をしているのか」と問われたら「治療」と簡潔に答えておく。
ここで『呪破』と告げてしまうのも、いずれは試してみたい変化のひとつではあるが、より優先してやりたいことがあるので今日はやめておく。
序盤は前回と同じで、手早く魔力網を捕まえる。
クローシェの意識は、魔力網の捕捉が早いことを相変わらず驚く。
私の手足として呪破に臨むのは、父と私の調査を含めると、これで数えて四度目だというのに学ばない奴だ。
クローシェは我々と違って魔力視ができない。そのため、自分で呪破に臨むときは魔力網捕捉に少々時間を取られるらしい。
私の手足になったからといってクローシェ本人が魔力視可能になったわけではないが、操作者たる私が魔力の局在も流れも把握している以上、魔力網捕捉になんら支障はない。
問題はその次の段階、呪い検出だ。呪破の全工程中、ここが最も時間がかかる。
この工程の時間短縮も将来的には必須だ。もちろん、そのための方策は既にいくつか考えてある。ただし、今回の主目的ではないため、敢えて変化は加えずに前回同様、愚直に地道に魔力網浚いを続ける。
……。
…………。
二回目だからか、ただの幸運か、魔力網浚いが三周完了する前に誤りを発見する。良い調子だ。
クローシェ的には、三周は特に早くないどころかやや遅い。
見つけた異常部分をヴィゾーク他、手足で寄ってたかって調べてみる。けれども揃いも揃って手足たちは異常を認識できない。違和を感じるどころではなく、正常部分と異常部分の違いが本当にこれぽっちも分からない。
これはマルティナの身体を使って魔法を行使し、怪我の部位や程度を調べたときと、マルティナ以外の手足で魔法を行使したときの差と似ている。
魔法の精度が違うから、情報魔法が術者に返してくる結果の明瞭度や解像度が全然違うのである。
クローシェが使う体内へ滲入する手は感覚が鋭敏、繊細で、他の手足が使う魔法の手は雑なのだ。
この先いくら他の手足で体内へ滲入する手を練習してもこの技術の要を会得することはないだろうと思う。
さて、ここまでの流れは前回と概ね同じ、大きく違うのはここからだ。
クローシェの魔力の手で呪いに干渉を始める。
すると呪いは標的の身体に働きかけて暴走させる。
暴走が確認できたところで標的にドミネートをかけ、さらに新魔法“パララス・スウーン”で眠りにつかせる。
ノスタルジアをかけっぱなしにするとプリザーブ有りでも対象は死ぬ。短時間であれば対象は死なないし、それくらいの短時間で呪破を完了させられるようになるのも最終的な目標のひとつではあるが、少なくとも今日明日そこまで時間短縮させられる見込みはない。
そこでかけるのが深昏睡の二歩か三歩くらい手前の深さに意識を落とす魔法だ。これなら対象の身体にかかる負担はノスタルジアよりもずっと少ない。魔法的な難易度もノスタルジアよりよほど易しい。細かい作用一つひとつに目を向けると実はノスタルジアとはかなり違う魔法なのだが、最終的に対象の身体に期待する結果だけに目を向ければノスタルジアの低負荷版のようなものだ。
王族の呪いは被術者の思考にはたらきかけて術者に利する行動を取らせる。しかしながら、満足に機能するのは術者が覚醒状態のときに限定される。被術者が起きていないと操れないという意味ではドミネートと同じで、これは事前の予想どおりだ。
問題は、完全に眠ってしまうと魔力網の異常部が一層、分かり辛くなってしまう点だ。とはいえ、クローシェの魔力の手は異常部をがっちりと把持しており見失ってはいない。速度は落ちるかもしれないが、このまま呪い解除を続けられるだろう。
ただ、私はこのまま続けるつもりなど毛頭ない。ここから変化させるから実験二回目は面白くなる。
私はチッパーにかけたパララス・スウーンの深度を徐々に浅くしていく。
パララス・スウーンは『かけたら終わり』の単発魔法ではなく、昏睡状態を維持するためには、ずっとかけ続けていなければならない。ともすると少々面倒ではあるが、昏睡深度を変えたいと思ったとき比較的速やかに変えられるのは、ノスタルジアにはない長所だ。
昏睡と覚醒の狭間に至ったチッパーが拘束下でもがき始める。ドミネートがかかっているため、そこまで派手には動かないが。純粋な自意識による身体への命令では、ドミネートに抗ってここまで動くことができない。
これもある意味、予想どおりの展開だ。王族の呪いによる暴走は能動的な動作とは趣を異にする側面、例えばステラが恐怖したときに私のドミネートとは関係なく毛が逆立つとかフルードが痒い箇所を後脚で掻くとかに似た、自律反応や無意識の動作と類似した特徴がある。
ふふふ、いいぞ。素晴らしい。理想的な展開だ。
試みが順調すぎて私の気分は自覚できるくらい高揚する。
チッパーの意識が半覚醒したことで呪いは正常に機能し始めた。呪破から逃れんとして全力で精神に働きかけている。
一方、冒された精神は全身の筋肉に『動け』と必死に命令するが、ドミネートで抑え込まれているから身体は満足に動かない。
呪いは機能して身体と意識はあまり機能しない。これぞ正に私が作り上げたかった状態である。
愉悦の笑いを堪えながら、ヴィゾークに魔力の手を作らせてチッパーの身体に沈み込ませる。
「……ははっ、あははは」
どうにも堪えきれず、私は本当に笑ってしまう。
本物の体内へ滲入する手には遠く届かない贋作の魔力の手でも呪いが認識できる。繊細な感覚も高い情報解像度も必要ない。
呪いは『ここにいるぞ!』と言わんばかりにピッチピチに跳ね回っている。こちらから頑張って探り当ててやる必要は一切ない。
喩えるならば、手を中に入れさえすれば、呪いの方から勝手に当たってきてくれる。それくらい簡単だ。
検証目的半分、遊び心半分で呪いからクローシェの手を離してみる。それでもヴィゾークの魔力の手は問題なく異常部を把持できる。
試しにそのまま呪い解除をやってみると、これまた難なくできてしまう。
わぁーお、できちゃったよ。
いやあ、参った。
必要に迫られてやっているはずなのに楽しくって仕方ない。
目論見がハマって楽しい。
上手くいきすぎて凄く楽しい。
魔法ってやっぱり……楽しい!
試みが成功した喜びを一頻り堪能してからやっと心が平静を取り戻す。
やれやれ、魔法とそれに関連した事象は私から時間と正気を盗んでいくから困る。
実験は順調、むしろこういうときこそ大きな失敗を犯さぬよう注意が必要だ。
決めておいた試行の続きを冷静に遂行しろ。
呪い解除に勤しむヴィゾークはそのままに、別の手足も更に参入させる。
やはり呪い検出は問題なくできる。呪い解除もできる。
自信が深まり、別の手足からまた別の手足へ順番に試させ、そして私は確信する。
ヴィゾークに比べて魔法適性に劣るアンデッドたちでも、こうやって念入りに環境を整えれば問題なく呪破を担う歯車のひとつになれる。
これなら、アッシュたちに言ったことは大言壮語にならずに済みそうだ。
よしよし。
実験第二弾は文句なしに上手くいった。後はこのまま呪破を完成させ、早く実験第三弾、第四弾を行いたい。
なにせ今回検証したのは私が発案したものではない。クローシェが発案したものだ。
クローシェは、『王族の呪い解除において難易度が際立って高いのは前工程の呪い検出であって、後工程は少し腕が立つ程度の治癒師でもできるのではないか』と推測していた。
しかしながら、検出した呪いの受け渡し作業ができなかったからやむを得ず自分ひとりで全行程を行っていた。
私は云わば、クローシェが書き起こした図面を参考にして、物品を工作したようなものだ。私独自の案を試すのはこれからであり、だからこそ早く第二弾を完了しなければならない。
逸る気持ちを抑えつつ、私は手足複数本がかりでチッパーの呪いを解いていく。




