第六四話 真実と現実と空を彩るものと 三
物事には必ず順番があり、そして順番とはまた別に優先順位というものがある。
私がロギシーンを訪れた目的は変化を繰り返し、それに伴って順番も優先順位も目まぐるしく変わっている。
私の究極の最優先は魔法の探求だというのに、今はそれを優先できない事情がある。
そしてその事情を考慮したら、順番はアッシュが先ではない。
私とラムサスの情報収集能力にはそれぞれ欠点があり、アッシュから強制的に情報を抜き出すのは困難を極める。
一方、ロギシーンの裏総大将とも呼ぶべき丞相スターシャからであれば、おそらくアッシュよりずっと簡単に情報を抜き出せる。
理性は、アッシュに接触するより前にスターシャに当たれ、と言う。
しかし、昏い私の感情は、せっかく理性が指し示してくれている賢い道を選ばせまいとする。
アールの身体で物心がついてから私はずっと“真実”を求めてきた。
ロギシーンに来て、大学在籍時以上に深く商人視点で世界を見たことにより、期待していたのとは全く別種の情報が思いがけず得られ、私が今まで興味すら持っていなかった“現実”がひとつ、またひとつと見えてきた。
予期せぬ“現実”は私に小さからぬ衝撃を与えた。だが、私をより大きく揺さぶったのはクローシェだ。
聖女因子保有者であったこともそうだし、そして何よりクローシェの記憶が私の確信にいくつも穴を掘り、瑕をつけた。
ただし、愚かなクローシェから得られる情報の信憑性は決して高くない。事実確認が取れないことが幸いし、穴はまだ貫通に至っていない。
傀儡を走らせて手に入れた情報、クローシェを調べて得た情報、新しい情報の数々は、思い出したくても思い出せなかった「前」の記憶の復活に大いに寄与してくれた。
特に私が鍵をかけて封印していた記憶は、思い出した途端、私の意識を大幅に占有する。
問題は、それだけではない。
私が追いかけてきた“真実”とは自分の心を守るために作り上げた偶像であり、ある意味では理想像である。
新しく手に入る情報には、相当程度、誤報や虚構が含まれているが、それでも一定程度の“現実”を含んでいる。
“真実”と“現実”、両者の齟齬が私を苦しめる。
それでも私の思い描く“真実”とは絶対の嘘ではない。事実を重ねていったら、案外、私の思い描いた“真実”にちかいものが出来上がるかもしれない。
しかし、私がこれまで良かれとの思いでやってきたことを徹底的に否定する“現実”が組み上がるとしら……。
考えるだけで、逃げ出したくなる。
ここまできて逃避は許されない。どれだけ怖くとも、どれほど辛くとも“現実”を直視しなければならない。
私はスターシャを調べるべきなのだ。理性ではそう分かっている。
それなのに、分かっているのに私の弱い心が私に正着を選ばせない。
これから私を待っているのが心を挫く“現実”だとして、それを縁もゆかりもないスターシャから突きつけられるのはイヤだ。
イオスは私が最も尊敬している人物の一人で、アッシュはそのイオスと友情で深く繋がっている人間だ。“現実”を突きつけられるなら、せめてアッシュから……。
それが、私の惰弱な心が導き出した妥協点だ。
実に自分本意で無様な願いではないか。
アッシュは確かにイオスの相棒で親友だったが、私にとっては親友どころか友人ですらない。
アッシュからしても、数十年前にたった数回見かけただけで、直接会話すら交わしたことのないセリカを覚えているはずがない。
知人という表現すら憚られる関係でしかないのに、私はアッシュに対して自分でも信じられないほどの親近感を抱いている。
それは、伝聞でアッシュの偉業を知っているせいかもしれないし、イオスからアッシュの無謀だったり、滑稽だったり、夢に燃えていたり、ずる賢かったりといった様々な逸話を何度も何度も聞かされて他人とは思えなくなっているせいかもしれないし、私の師であり数少ない友人でもあるイオスにとって大切な存在だからかもしれない。
理由はどうあれ、私はアッシュに特別な思い入れがある。無数の苦しみに打ちのめされているせいもあってか、私の屈折したアッシュへの思いはもはや依存にちかい、危険な域に足を踏み入れている。
スターシャは、情報源としてアッシュ以上に重要な意味を持っている。スターシャからの情報入手は決して避けて通れない。
けれども……いや、だからこそ、スターシャがここに来る前に、できるだけ重い情報をアッシュから聞いておきたい。
アッシュ……回顧はとっとと終わらせて、私の問いに答えてくれ。
ぼやぼやしているとスターシャがすぐにでも来てしまう。
長い長い沈黙の後、アッシュが笑う。
「信じちゃあ……いないさ」
「何? なんだと……?」
アッシュの返答の意味、そして笑いの意味を考える。
アンデッドの目でもアッシュが笑っていることは分かる。だが、笑いに含まれる感情は読み取れない。
屈託なく笑っているのか、我々を嗤っているのか、それとも自嘲しているのか。
こういった部分はアンデッドの目に頼ってもどうにもならない。己の持つヒトの耳で真意を探り当てるしかない。
「俺はゴルティアの干渉を受ける前から、大量のドラゴンが再び世界を支配する未来を確信していた。だから、一応は目標を同じくしているゴルティアと手を組んだ。話をドラゴンに限定するならば、最初から信じる信じないの話ではなく、当たり前の前提なんだよ」
アッシュはゴルティアの工作員と接触する前から、つまりバーギルの人間との婚姻契約が持ち上がる前から終末論を信じていた?
賢いアッシュが信じるからには、それなりの根拠があるはずだ。では、その根拠とは一体なんだ。
重ねてアッシュに質問したい欲求を抑えて、私は言う。
「では、今度は我々がお前の問いに答えよう。たしかクローシェの肉体に関してだったな」
「待て。その質問は取り下げる」
アッシュは手背で顎杖をつき眉間に皺を寄せてそれらしい表情を作り、私に尋ねる。
「お前たちは妙に俺のことを知っている。俺はどこでお前たちに会った」
この質問は先程の『オクシェキ団』発言に通ずるものがある。
アッシュもユニティも我々の前身を強く気にしている。今後を見据える上で、出自を突き止めておくのは極めて重要だと考えているのだろう。
私の「前」がセリカであることは、そこまで隠しておきたい秘密でもないが、接触地点がアーチボルクなのは厄介だ。
母キーラの住むアーチボルクに火の粉が飛ぶのは避けたい。
「言ってもお前は分からないさ。最初に会ったのは、とあるダンジョンの近くにある街の――」
「ダンジョン名を隠すな」
語気を荒らげるアッシュの要求を私は拒絶する。
「言うつもりはない」
「それでは質問に答えたことにならない」
「その指摘は……一理ある。では、ダンジョン名を言う代わりに、お前にもうひとつ続けて質問することを許可しよう。ああ、それから、我々が最後に会ったのが、そのとあるダンジョンの中だったことを付け加えておこう」
「中? それなら違うか……」
アッシュの声は実に残念そうだ。そこに演技や嘘はない。小妖精の前でそういった安い嘘はつけない。
アッシュには、我々と共通点を持つ知り合いがいるらしい。
私は沈黙を守り、アッシュからの新しい問いを待つ。すると、アッシュはまた笑い、皮肉たっぷりに言う。
「俺の質問権は一時保留にさせてもらう。スターシャが合流してから取っておいた分を行使する。それまでお前たちは好きに俺に質問すればいい。俺に聞きたいことが色々とあるんだろう? 俺の気が向いた分は答えてやろう」
アッシュのこの雰囲気……これはダメだな。
結局こうなってしまったか。
私の時間の使い方も拙かった。この流れと残り時間で肝心なことを聞き出すのは、どう考えても無理がある。
「そうか……。せっかくの提案だが、その前にやるべきことがある。我々はこれからルシャーナを起こす。スターシャが来た時に、こいつが部屋の前に立っていないと、スターシャは警戒して入室してこないだろうからな」
我々の反応がアッシュの思惑と違ったせいか、アッシュの肩から力が少し抜ける。
「目を覚ましたルシャーナが無駄に騒ぎ立てぬよう、そしてスターシャを穏便に部屋に招き入れるよう言い含めろ。それがお前の仕事だ」
「勝手に決めるな」
「お前が我々に提案したように、これは我々からの提案だ。引き続き対話するためのな。決定権はお前にある。対話をこれで終わりにしたいなら、好きにすればいい」
「言ってろ。アンデッド気取り」
憎まれ口を聞き流し、私はルシャーナを目覚めさせる。
アッシュはもう我々には向き合わない。上体だけ起こしてパチパチと瞬きを繰り返すルシャーナに語りかける、とても優しく。
語るアッシュと語られるルシャーナ、二人を見ていて私は徒事を思う。
アッシュは別に狙ってやっているわけではないだろうが、こいつは根っからの女誑しだ……。
◇◇
意識消失から復帰したばかりだというのに、平常時ですら即座には了解の難しい指示を主人から与えられたルシャーナは立ち上がり、力ない足取りで扉へ向かう。
私の思い込みかもしれないが、ルシャーナの顔は上気しているように見える。
下らないことを考えているうちに扉が開き、ルシャーナが部屋から出る。
開いた扉はすぐにでも閉まる。その前に、私は傀儡の口でアッシュに問う。
「すたーしゃガ来ル前ニ聞イテオク」
独特の質感があるアンデッドの声にアッシュの警戒度が一気に上がり、目がチラチラと動く。
「夜空ニ何ガ見エル」
質問の意味を解した瞬間にアッシュの眼球は浮動を止めて一点を凝視する。視線が向かうのは扉の外に見える窓、そこから見える外の光景だ。
アッシュの視線が外に届いた直後、扉は閉まる。
アッシュは閉じられた扉を真っ直ぐに見たまま、細い声で言う。
「お前たちは本当に……」
今の問いがアッシュを多少なりとも動揺させると予想はしていた。しかし、私の問いは揺さぶりを目的としていない。スターシャという参加者が増える前に最終確認しておきたかっただけだ。
優先順位でいうならば下も下だ。私はつくづく感情に従って行動してしまう。
「回答ヲ無理強イハシナイ。ダガ、モシ答エル気ガアルナラバ早クシロ」
私は心ならずもアッシュを急かす。
アッシュにとって答えづらい問いには違いない。だが、かといってアッシュからは絶対に黙秘しようと決め込んでいる様子も窺えない。
イオスを呆れさせるほど思い切りの良い人間が、なぜこんなグズグズする。
ほうら、そうこうするうちにスターシャがもう扉の前まで来てしまったではないか。
ああ、もうダメだ。
ルシャーナから簡単に事情を聞いた丞相スターシャは躊躇することなく扉を開けさせる。
そして招かれざる客に占拠された部屋の中に迷わず足を踏み入れる。
我々がここにいると知ったのは今の今だというのに、驚くべき胆力ではないか。
それとも前々からこういう展開を予想していたか……。
いずれにしてもスターシャが加わり、対話はここからが本番だ。今一度、私は気を引き締め直す必要がある。
あるのだが……回答がアッシュから得られなかったことで、出鼻を挫かれたとでも言おうか。気勢を殺がれた感は否めない。
アッシュにとっては大事な秘密なのだろう。なにせ、イオスにすら明かしていないのだ……多分。
イオスに明かしていない、というのは、私の推測でしかない。実際のところは当人同士しか分かり得ない話だ。
たとえどれだけアッシュにとって大事だとしても、我々はその秘密をほぼ確信しているのだから、答えてしまってもアッシュに損はない。
むしろアッシュは答えることで質問権をひとつ得られるわけで、私からすればアッシュにひとつ質問権をタダであげたようなものだ。
はああぁぁぁ……ウスノロアッシュ。私の気配りを無駄にしてくれてからに……。
ままならないもどかしさが募るあまり、切れ者スターシャを前にして考えるべきではない、感情的なくだらぬことをついつい考えてしまう。
私は目一杯頑張って気を取り直し、スターシャに従者を退室させるよう促す。
スターシャは抵抗することも表情を変えることもなくこちらの指示に応じ、供回りとして連れてきた従者に部屋から出るよう命じる。
すると、唐突にアッシュが言う。
「さっきの質問に答えよう、若いワイルドハント」
人払いはまだできていない。
従者の退室に時間は一分とかからないのに、なぜそれを待たずに答えようとするのか、こいつは。
理解不能なアッシュの行動原理に、私は戸惑いに戸惑う。
戸惑う私に構うことなく、アッシュは指導者らしい、堂々たる声で言う。
「出没の周期を考えるに、今日はもう月が見えない」
……。
今、こいつはなんと言った……。
月だと?
あの天体が……いや、まさか。
これはアッシュなりの揺さぶりなのでは?
私は、小妖精が解読した情報を縋り付く思いで聞く。しかし、揺さぶりの意図はどこにもないらしい。
アッシュは本心からあの天体を月だと言っている。
本当の本当にあれは月なのか。
見たい。
あの天体が見たい。
今、見たからと言って結果が変わるわけではないが、あの天体が見たい。
私は、あの天体が浮かんでいない、どんよりと曇ったロギシーンの夜空を見る。
視界の端を通ってスターシャの従者が退室し、すぐに扉は閉まってしまう。
人払いが済み、対話の場は整った。それなのに室内は静寂が支配している。
見たいものが見られない私は、仕方なしにスターシャの顔を見る。
スターシャは入室前、ルシャーナの説明を聞いている時から始まり、現在まで終始、変わらずつまらなさそうな顔をしている。
無学ならばいざ知らず、スターシャは紛れもなくユニティの頭脳だ。賢ければ賢いほど、月という言葉に驚きを示してよさそうものだが、スターシャは動揺をおくびにも出さない。
平静を取り繕っているのだろうか。まさか、こいつまで見えているとは言い出さないだろうな……。




