第六三話 真実と現実と空を彩るものと 二
ロギシーン中央庁舎会議室の扉がやや強い勢いで開く。
中から最初に出てくるのはアッシュ付きの従者で、それに続きユニティ総大将のアッシュが出てくる。
足早に廊下を歩くアッシュら一行には、指導的立場の存在が常時湛えていて然るべき余裕が見当たらない。『忙しない』という表現が実によく合っている。
歩みは速いが、軽くはない。むしろ、一歩一歩がずしりと重い。アッシュに伸しかかる責務の重さが足取りに如実に表れている。
急ぎ足で廊下を進み、逃げ込むように自分の執務室に入ったアッシュは、従者の手で扉が閉められると同時に大きく深く溜め息を衝く。
皺の寄った眉間を押さえて机まで歩くと椅子に深々と腰掛け、またひとつ大きく息を吐き、そのままたっぷり数十秒、静止する。
ひと呼吸には長く、かといって休憩と呼ぶにはあまりにも短い静止の後、アッシュが活動を再開する。
机に積まれた書類を手に取って一つひとつ目を通していく。
文官との橋渡し役を担っていたクローシェが不在となり、その代役を務めるはユニティのもうひとりの代表とも呼ぶべき人物スターシャだ。
スターシャは毎夜、決まった時刻にアッシュの執務室を訪れる。
それまでの間、アッシュは自分ひとりでも最初から最後まで完遂できる決裁業務に精を出す。
扉の外には従者ゴラッソが番人として立ち、執務室の静謐を守る。
スターシャが訪れるか緊急事態に伴う伝令でもやって来ないかぎり執務室の平穏が乱されることはない。
集中するにはこれ以上ない環境でアッシュは黙々と己の役割を果たす。
◇◇
夜が更け、執務室に近付く者がひとり現れる。スターシャではない。アッシュの従者がひとり、ルシャーナだ。
一日の勤めを終えたゴラッソが、これから勤めに入るルシャーナに小声で諸事項を伝達すると、大きな身体に似つかわしくない静かな足取りでその場を去っていく。
鋭敏なアッシュは室外で恙無く行われた勤務交代の一幕を気配で察していた。
定例業務の一環に特別な関心は示さず、閉じた扉を着座のまま一瞥だけして、すぐに書類へ目を戻す。
ゴラッソがいなくなってから、またしばし時間が流れ、それでもスターシャ訪室まではあともう少しだけ時間がある。
また一部、書類に目を通し終えたアッシュがサラサラと署名し、読了した書類の山を小指半分ほど高くする。
同じ姿勢を続けて肩が凝ったのだろう。アッシュが、ううぅ、と小さく声を漏らしながら盛大に身体を伸ばす。
それを頃合いと判断し、執務室の扉を四度叩く。
公的な意味合いを帯びる四度の叩打音にアッシュは威儀を正してから在室を告げ、扉の外から発せられるはずの従者の言葉を待つ。
アッシュの許可無しに執務室の扉を開いてはならない。それが平常時の規則である。
平常時の規則は平常時のもの、非常時はその限りではない。
主の許可なく開いていく扉に異常を察し、アッシュは瞬時に席から離れて迷うことなく剣を抜き戦闘態勢を取る。
油断とは無縁の鋭いアッシュの視線が、自室に入り込む侵入者の列の中に混ざったものを発見し、より一層鋭さを増す。
「貴様ら……」
震える声がアッシュの激情をよく物語っている。
ルシャーナの首元と、そこに添えた小剣をアッシュに見せつけるようにしながら予定していた手足を全て執務室に入れる。
入室が完了したら速やかに、かつ、静かに扉を閉ざし、それから改めて部屋主を見る。
魔法使いに比べて剣士の全盛期は早い時期に訪れ、そして早く衰えていく。つまり、イオスと違ってアッシュは私の記憶よりずっと衰えているのが道理だ。
けれども傀儡と私の不自由な目を通して見るアッシュの姿は当時とそこまで変わらないように見える。マルティナの目で見たときよりも若く見えるくらいだ。それが意味するところは私の目の曇りか……。
アッシュの鋭い目にはおそらく殺意が滾っているのだろうが、こちらの目の問題のせいでそういった感情的な部分はなんとなくしか分からない。
これもルカを失った痛手のひとつだ。しかも、事前に想定できていなかった痛手だ。私の思慮が足りなかった。
手足の配置は最善のつもりだったが、出だしからこうでは先が思いやられる。
「さて……対話の前に、こいつはもう用済みだ。期待した役割は既に果たした」
意識を失い、無防備に首元を晒してアンデッドに抱きかかえられるルシャーナを静かに床に横たえる。
「過剰な心配は無用だ。ルシャーナもゴラッソも寝ているだけだ。対話の結果次第では目を覚まし、今後も変わりなくロギシーンの守り手としてお前の下で働くだろう」
眼前のルシャーナだけでなく、つい先程まで部屋の前に立っていたゴラッソもこちらの手に落ちていると知ったアッシュが一瞬、ゴラッソの控え室がある方角を向く。
「人質を取るこのやり口。貴様らの性格がよく分かる」
「いいや、お前は分かっていない。我々は確かに従者たちを眠らせた。だが、その最大の目的は交渉を有利に運ぶことではない。対話に漕ぎ着けることだ」
「ふざけるな! 対話を願うなら、こんな方法を選ぶ必要がどこにある!」
アッシュはクローシェよりずっと話が通じる相手だと思っていたが、かなり頭に血が上っている。この状態のアッシュに冷静な判断力を期待するのは無理がある。
「必要があるからやっている。報告を受けているはずだ。クローシェ・フランシスにあることないこと吹き込まれたミレイリが夜の街で出会い頭に我々に斬りかかってきたと。まさか、知らんとは言うまい」
「対話が目的なら、なぜあれほど殺した。あそこまで徹底的に殺す必要など絶対に無かった」
「お前と話すにあたり最大の障害となっていたのがクローシェだ。我々が成したかったのはクローシェの排除であって、その他、戦闘員たちの殺害ではない。事実、クローシェの排除に成功した後、我々は新たな死傷者をひとりも出していない。そして現に今、対話は成立している」
「詭弁だ!」
アッシュの体内で揺れていた魔力が集中し、形をなし始める。
「おおっと……。その道を我々は推奨しない。それは既にクローシェが駆け、そして脱落していった道だ。ヒトは過つ。それは仕方ない。だが、同じ過ちを繰り返すのは愚かに過ぎる」
「俺には無理だとでも思っているのか、ワイルドハント」
「仮に我々を倒したところでお前が統べることになるのは無人のロギシーンだ。我々が守ろうとしたのは、そんなものではない」
アッシュの表情がグシャリと歪む。
アンデッドの目ですらこう感じるのだ。もし生者の目で見ていたら、きっとアッシュの顔は正視できなかった。
「……くそっ!!」
動作開始を待つだけだったアッシュの魔力が熱と形を失っていく。
どうやら今、この瞬間の交戦は回避できたようだ。はてさて、命拾いしたのはアッシュか、我々か。
「それが賢明だ。もうしばらくすればここにスターシャが来る。その前に我々だけで話しておきたい」
アッシュの身体から緊張が少しだけ解けて、肩が落ちる。しかし、すぐに気力を取り戻し、表情筋を固くして抑揚なく言葉を発する。
「……オクシェキ団」
なんの脈絡もなく飛び出した固有名詞に適当な返事が思い浮かず、私は沈黙を守る。
オクシェキ団はマディオフでよく知られた芸人一座だ。演劇だけでなく曲芸披露や見世物小屋などもやっていたように思う。
通りすがりに路上興行のようなものを見かけたことはあっても、料金を払い腰を据えて観覧したことはないため詳しくは知らない。
アッシュはなぜ今その名前を口走った。
ユニティは我々の原点が曲芸団にあるとでも思っているのだろうか。
たしかに少し前まではブルーゴブリンがいて、ブルーウォーウルフがいて、ガダトリーヴァホークは今もいて、曲芸団さながらのパーティー構成だった。
自然な発想かもしれないが、短絡的とも言える。
いつまで待ってもアッシュが続きを言わないので、仕方なくこちらから喋る。
「いきなりどうした。唐突に曲芸でも見たくなったか。頼まれても我々は演らんぞ。演じて喜ばれそうな魔物は全部クローシェたちに殺されたからな」
「……なんでもない。今の一言は忘れてくれ」
アッシュは咳払いして威儀を繕う。
「ひとつ答えろ。クローシェは無事なんだろうな」
クローシェを奪った私が思うのも何だが、アッシュの立場でオクシェキ団とはクローシェの安否確認より先に言うべき事柄なのだろうか。
実際はある程度ユニティ内で想定を重ねたうえでの問答順序なのかもしれないが、真相は不明だ。
「いいだろう。質問に答えよう」
対話姿勢を新たにしたアッシュに応じるかたちで我々も戦闘の構えを少し緩め、それに連動させて魔道具にはまる蛍光石の光色を変更する。
疑り深い者、用心深い者は、語られた言葉はそうそう信じない。だが、なぜか非言語的に示された意思は容易に信じる。
アッシュは観察力や洞察力が高い。色の変化の法則に勝手に気付き、勝手に勘違いしてくれるであろう。
この魔道具は、ラムサスが初めて作ったものだ。
地下生活の退屈を持て余した彼女が、自分も魔道具を作ってみたい、と言い出したため、部材を与え作り方を教えた末、完成したのがこれである。
所有者の操作で色を変化させられるのが最大の特徴だ。装着者の感情を読み取り自動で色が変化する、などという高度な機能はない。私はそんな特殊機能の付与方法を知らない。
せっかく出来上がったのに、作った本人のラムサスはなぜか、『直ちに分解せ』と私に言う。
分解すなんてとんでもない!
これは私の弟子が初めて作った魔道具だぞ。
判定試験でクローシェに、『魔道具のせいで感情が筒抜けになっている』と思い込ませたり、今この場でやっているようにアッシュの思考をある程度誘導したりできる。
使う側の閃き次第で用途はいくらでも創出可能だ。
よしんば魔道具としての利用価値が無くなったとしても、我々は遠からず王都に戻る。オスカルから借りている家で休むこともあるだろう。そのときはよく目立つ所に飾ってもいい。
魔道具を眺めながら完成までの道程を思い返し、感慨深い時間に浸れること請け合いだ。
アッシュの執務室に入った当初、魔道具は赤色に光らせていた。そして我々が剣先を下げてからは緑色に光らせてある。
仮に対話の中でアッシュが我々の発言を不快に思ったとしても、緑の光を見て『こいつらにはまだ対話意思がある』と勝手に考え、対話中止を思いとどまってくれるのではないかと淡い期待を抱いている。
魔道具が今に至った経緯や今後について思考の片隅でボンヤリと考えながら、アッシュの質問に返答する。
「クローシェは今や我々の手足が一本、無事も無事だ。よく肥え、以前よりも強い肉体を手に入れている」
「手足とはどういう意味だ。しかも、強い肉体とは……。まさか――」
「我々は質問にひとつ答えた。今度はお前が我々の質問にひとつ答える番だ」
「はっ! その物言い、まるでアンデッド気取りだな」
アッシュは話し声から私を生者と断ずる。
上辺だけ取り繕ってアンデッドの喋り方を真似していると思い込み、私を揶揄している。
たしかにアンデッドが発する声は出処不明で実に特徴的だ。一声聞けば、誰でもそれが生者からではなくアンデッドから発せられたものと判別できるだろう。
操作している私自身、アンデッドがいかにして発声しているのか分かっていない。
音の響きだけで言えば、ヒトの真似して喋るステラのほうがよほどヒトの話し声にちかい。
私は揶揄に取り合わずアッシュに問いかける。
「なぜ信じた」
「……」
訝るアッシュが私により深く視線を注ぐ。
もしかしたら、あの日イオスと話し込むセリカを見ていた時と同じ目をしているのかもしれない。
並のハンターを圧倒する実力を有し、人から注目され、期待され、それでも重圧に潰れることなく冒険者として自由に逞しく生きる好青年。
それがセリカの目を通して見えたアッシュだ。
一方、アッシュの目にセリカがどう映っていたのかは分からない。
自分で振り返って思うに、彼ら二人にとってセリカは悪女以外の何者でもない。しかし、アッシュはイオスと私に口出ししてこなかった。
口出しはしないが、何かあったら全力でイオスを守る。
そんなつもりでいたのかもしれない。
真実はアッシュのみぞ知る。
私は真実などついぞ知らないが、それ以外はアッシュについて色々と知っている。
しかしながら、私の知るアッシュはイオスとパーティーを組んでいた頃のアッシュであり、結婚する前のアッシュであり、家名を持つ前のアッシュであり、ロギシーンに根を下ろす前のアッシュである。
輝かしい功績を挙げて偉大な二つ名を数え切れないほど授かっても、アッシュは望んでもいない授かりものに縛られない。
アッシュはアッシュ、ただのアッシュだった。
今のアッシュは、あの頃のアッシュとは違う。ただのアッシュはもう世界のどこにもいない。
「なにがお前にゴルティアの主張を信じさせた。無数のドラゴンが地上を支配し、それによりヒト種をはじめとした人類が絶滅の危機に瀕するというありがちな終末論を。教えてくれ、アッシュ・バーギル」
アッシュの視線が揺らぐ。
アッシュはもう我々を見ていない。見ているのは在りし日だ。
意識が現在に戻ってくるには少々時間がかかるだろう。
その間、私は私で取り留めのないことを思う。




