第六二話 真実と現実と空を彩るものと 一
敗北感と罪責感、二つの苦難を私に与えた張本人たるラムサスは私の苦しみなど知る由もなく、彼女は彼女で突如そびえ立った高い壁に向き合っている。
その壁は地下茎を介して繋がる私の手足であり、ラムサスの前ではなく横に生えている。ラムサスが前へ進むにあたり、わざわざ壁を越える必要はない。
ところが、大の負けず嫌いラムサスは越えなくともよい壁に思いきり体当たりしては、『壁が越えられない』と声なき声で悔しがる。
壁の特性が生粋の剣士であることも、己の天稟が魔法使いであることもラムサスにとっては関係ない。
本人がそう言ったわけではないが、彼女の感情は推測容易だ。ラムサスが悔しがっているときにうねる思考を難しく考えずともよい。
『病み上がりのクローシェ相手に自分は手も足も出なかった。耐え難い屈辱である』
心の中でそんな風に思っているに違いない。
魔法では純魔に負けたくない。剣では純前衛に負けたくない。金を賭けない只の娯楽のカードですら、札打ちとして老練の域に達している私に負けたくない。
彼我の適性の違い、互いがそこに費やした時間の長短、注いだ情熱の熱量差、本気の勝負かはたまた娯楽か、これらはどれもラムサスにとって特別な意味を持たない。
勝ち負けが生じるならば、どこまでも貪欲に勝ちを狙う。
それがラムサス・ドロギスニグという人間だ。
敗北に泥むラムサスの心配ばかりはしていられない。私は私で、留まるところを知らずに肥大する己の感情と折り合いをつけなければならない。
思えば「前」を前世と思い込み、安穏と過去との再邂逅を願っていられた昔の私のなんと愚かで、なんと幸せだったことか。
記憶の再獲得は喜ばしいこととしか思っていなかった。魔法の追究に次いで重要な目的で、思い出せば思い出すほど心は満たされ、未来が輝きと共に大きく開けていく。そう信じて疑っていなかった。
ところが、過去を取り戻せば取り戻すほど、ただでさえ少ない自己肯定感が私の中から勢いよく流れ出す。流出によって生じた隙間にはドロドロと粘度の高い自己否定感が流れ込み、指を差し入れる隙間も無いほどに満ち満ちる。
もっと強く疑うべきだった。どうして私が「前」の記憶を自在に思い出せないのか。
幼少期は、『転生とはそういうものなのだろう』と簡単に考え、ほとんど思考放棄していた。
ジバクマを訪れ自分が混ざりものであると認識してからは、『“融合”を重ねる中で色褪せ、擦り切れ、塗り潰されたのだろう』と思うようになった。
物性瘴気に倒れ、始まりのアンデッドに戻る術を会得してからは、『生と死を反復したうえ、赤子と“融合”した時に設定を詰める余裕がなかったからだ』と考えるようになった。
しかし、いずれの理解も時間が経つにつれて砂の楼閣がごとく崩れてしまい、後に残るは基礎部分のみである。
どの理解も間違いではない。ただし、全て事の本質に迫れていない。
確かに赤子と融合する時、私は焦っていた。だが、本当に設定を誤ったのだろうか。今となってはそれすら怪しい。こればかりは情報魔法を操っても情報魔道具に頼っても事実確認不能だ。
やがて私は手足を引き連れて生家を再訪し、キーラに告解しながら、ついに気付く。
私が“融合”の事実を忘れていたのは、他ならぬ私の理性が『忘れるべき』と判断したからだ。
覚えていては、幼い心が罪の意識に耐えられないと思ったから。
私にヒトの心があったから。
だから私は扉に大きな錠をかけ、扉の向こうに記憶を封じた。
より率直に言うならば、思い出せなかったのではない。
思い出したくなかった。
それだけだ。
自分でも呆れてしまう自己防衛と自己欺瞞の構造はダグラスの記憶の封に関してもほぼ同様だ。
ひとつ違うのは、ダグラスの場合、便乗という悪質な罪が重なっている点だ。
自ら望んで封じておきながら、何も知らないフリして記憶の門を叩いては『錠が掛かっている』と自分に嘯く。
茶番はずっと続くはずだった。
クローシェが私を追い詰めなければ、クローシェが私の期待を裏切らなければ、クローシェが私を苛立たせなければ、クローシェがダグラスの夢に似ていなければ……。
両腕を失った私がゴルティアに向かわなかったのは、本当に異端者の計略から逃れるためだったのだろうか。
実際はそれもまた形を変えた逃避でしかなかったのかもしれない。
真相はどうあれ私は思い出した。
ふと、私の手足として忠実忠実しく作業するクローシェの背中を見る。
外見はまるで違う。選択は実に好戦的だ。だが、そういった表面的なものではなく根底を流れるもの……人間性が放つ精彩は実によく似ている。
だから私は思い出した。
分不相応な想いを、力なき者であることの罪深さを、現実から目を背けた後ろめたさを、己を欺きハンターの真似事に浸っていた微温湯の日々を……そして、私がゴルティアに戻らなければならない理由を。
◇◇
今日もラムサスはクローシェと食卓を囲む。
たった二人で食事を摂るなど、いかにも寂しい境遇のようではあるが、席に着く人数は連戦前後でひとりしか変わっていない。減少したのはブルーゴブリンのクルーヴァ分だけだ。手指巧緻性ほか諸々の都合上、元々私もウリトラスもラムサスと同時には食事していなかった。
クルーヴァは時折、生花代わりに卓の飾りとして一緒に食事させていたが、あれはヒトの言葉を喋らない、喋れない。
ルカは死んだが、ルカの席だった場所にはクローシェが座っている。
ガワは変わったが、中身が私であることに変化はない。交わそうと思えば前と変わらず取り留めのない話をいくらでも交わせるはずなのだが、前とは比べるべくもなく重く淀んた雰囲気が徒話を許さない。
クローシェ作の料理をラムサスは何も言わずに口に詰め込む。雑談どころか料理に対する感想もない。
判定試験終了直後はクローシェに特別な回復食を食べさせていたが、特別食は既に卒業している。クローシェの皿に盛り付けてある料理は、ラムサスが食べているのと同じものだ。
操る私に操られるクローシェ、二人共がいたたまれない気持ちとなりながら、料理を口に運ぶ。
……。
クローシェの舌で味わう料理は、稚拙な表現ながら、普通に美味しい。
あくまで普通だ。それ以上でも以下でもない。
自分から感想を言い出す様子のないラムサスに、私はやや気兼ねを感じながらも尋ねる。
「味はどうでしょう」
ラムサスは実につまらなさそうに答える。
「……美味しい」
この回答はダメだ。
ルカの存命時から、ラムサスは基本的に『美味しい』の一言で感想を済ませる。私によほどしつこく責付かれないかぎり、『またすぐにでも食べたいくらい素晴らしく美味しい』のか『好みではないけれど、かと言って二度と食べたくないほど嫌いではなく、忖度して美味しい』のか詳らかにしない。
ゆえに匙を口に運ぶ速度や総摂取量で好悪の程度を判断する必要がある。
あの戦いの後からラムサスの食事摂取量は減っている。それもそのはずで、パーティーの一員として情を抱いていたルカが死に、ルカを害した張本人のクローシェが目の前に座っているのだ。食欲が湧くはずはない。
その程度は私でも分かる。ただ、仇云々とはまた別の方向にもう一歩踏み込んだ情報を私は欲している。
問う側、問われる側、双方が辛くなると分かっている問いを私は投げかける。
「前と味は違うでしょうか」
聞かれたくないことを聞かれたラムサスは苦虫を噛み潰したような顔で小さく答える。
「……違う」
やはりそうだった。
質問の意図を拾う能力に長けたラムサスだ。『嫌いな者と一緒に食事させられているせいで料理を不味く感じる』などと的外れな回答はしない。
『純粋に味付けが前とは微妙に異なる』と言っている。
連戦前後で料理に使う食材は概ね同じ、調味料も同じ、器材や設備の関係上、制限はあれど調理法も大体は同じ、それでも厳密な意味で前と同じ味は絶対に再現できない。
ルカの身体ではできてクローシェの身体ではできないこと、それは味見だ。
普段、料理する人間であれば、味見不能がどれほど由々しき事態か分かってもらえるだろう。
もし私が先見性に長けていれば、この巨大すぎる問題も事前に回避できた。
私の手落ちだ。ルカに餌ではなく料理を作らせるようになってからも私は自分の舌で味見したことがない。
私が考えていたのは完成した品をできるだけ短時間で胃に流し込むことだけで、味の濃い薄いや美味い不味いには興味すら持っていなかった。
味に関して重要なのは、アリステル班の面々やラムサスが美味く感じるかどうかであって、私がどう感じるかではない。
美食に関心のない私ではあるが、シェルドンに紹介された食事処の味の違いがなんとなくでも分かったのだから、本気で料理に向き合っていれば、ルカを失った後も同じ味を作れたはずなのだ。
興味を持って学ぼうとしないから、技術、知識、経験にきちんとした敬意を払わないからこのような愚を犯す。
クローシェの舌で何度、料理を味見したところで、『旨味が物足りない』とか『あと少しだけ火を通したほうがいい』とか『これだと香味が強すぎてラムサスの口に合わない』といった繊細な部分は分からない。
これはロギシーンで事前に収集していた情報どおりではあるが、クローシェは食事にあまり関心がない。食べないと継戦不能に陥ってしまうから仕方なく食べている。
食事に娯楽性を見出さず、生きるため、戦うために必要な作業と見做しているのは私と同じだ。料理に関して私はクローシェを非難できる立場にない。
それでも敢えて言わせてもらうと、味見を含めて料理もまともにできないくせにクローシェは自分で自分を『様々なことをそつなく器用にこなせる』と思っているのだから滑稽だ。
クローシェが器用?
馬鹿を言うな。
焦点を手指巧緻性に絞り、クローシェを一般人集団に放り込んで価値を比較したとしよう。
上位組、下位組に二等分するならばクローシェは上半分に入る。そしてそれが限界だ。絶対に上位一割以内には入れない。
つまりクローシェに下される相対評価は「可」であって「優」ではない。
私が「優」と評価する基準は目一杯緩くしても上位一割以内だ。
まだ腕があった頃の私自身を参考にするならば、手指巧緻性は同級生比で上位一割に入るかどうかであり、つまり私も「優」ではない。「良」が精々だ。
私がクローシェの身体操作に完全に習熟するには今しばらくの時間を要するが、慣れの不足を考慮しても、クローシェの巧緻性は昔の私未満だ。
そんなクローシェが自分を『器用』と評価する。厚かましいにもほどがある。
クローシェが自己を呆れるほど高く評価する傾向は巧緻性以外でも確認できる。
闘衣の技量、知性、視覚、聴覚、味覚、様々な領域においてクローシェは己を高く買い被っている。
あちらの評価は緩い、こちらの評価も緩い。クローシェは緩い、緩すぎる。
こいつはペトラと同類の自信過剰な大馬鹿者だ。
[ペトラ――一章 第二三話に登場。容姿を頼みに主人公をハントに誘った]
自信に見合う実力の証明が成されているのは今のところ剣の操作だけだ。闘衣の技量も悪くはない。むしろ年齢を考えると驚異的な高さではあるが、剣の操作に比べると若干ながら見劣りする。
剣以外だと解呪能力も「優」の域に達している可能性が高い。ただし、まだ解呪能力については検証が十分にできていない。
ウリトラスの身体を調べても私の身体を調べても、クローシェは呪いを検出しなかった。その理由はおそらく私とウリトラスに本当に呪いがかかっていないからなのだろうが、それだけでは解呪能力の高低に評価を下せない。
これまで何度も私の期待を裏切ってきたクローシェだ。解呪能力が自己認識や私の想定より遙かに低かったとしてもなんら不思議はない。
過剰に期待してはならない。過ぎた期待は、いざ裏切られたときに刃となって私の心を長く鋭く抉る。
そうでなくとも私の心はかつてなく不安定だ。しかもこの動揺は鎮静魔法をかけてもどうにもならない。
私は何度となく感情に引っ張られて軽々に動いては失敗し、半端に考えては間違え、過ちを積み重ねてきた。
特に今は自分の判断が信用ならない。理性的に考えたつもりでいても、肝心の理性が感情に著しく侵食されている。
幸い、ラムサスは私に比べて遥かに正気を保っている。
単身で祖国を離れて精神に変調をきたしているところにルカとフルード、近しい存在を二つ失い、それでもなお彼女の強靭な意志は折れも砕けもしない。それどころか、負荷がかかればかかるほど底力を発揮するようにすら見える。
ラムサスが正気を保ち、全面的に協力してくれたからこそ判定試験は完遂できた。これでもしラムサスが参ってしまっていたら判定試験どうこう以前に、寒さでウリトラスが死んでいたかもしれない。
不明に拍車がかかっている己の判断を信じるな。ラムサスの判断に従え。少なくとも今だけは……。
相談役を超え、半ば意志の根源になりつつあるラムサスがさも不味そうに食事する姿を我々はじっと観察する。
◇◇
連戦と判定試験の事後処理がようやっと片付き、我々はいざロギシーンへ向かう。
感覚的な話をするならば、私の足取りは到底軽いとは言えない。私はあの都市を再訪することに忌避を感じている。
私が今一番行きたい場所はゴルティアだ。
今更、焦ったところでとっくに手遅れなのは十分承知している。それくらい長い時間が流れた。しかし、理屈は分かっていても感情はままならない。
逸る思いは、ゴルティアが無理ならアッシュの下に行かせようと私を責付く。
アッシュは、封印から解き放たれたドラゴン、グイツァを追い、討伐を目指して未だに雪深いフィールドを駆け回っているかもしれない。
アッシュと、アッシュ率いるストライカーチームだけでは討伐困難だったとしても、我々と手を組めばグイツァを倒せるかもしれない。
あるいは部下を全員失い、さらに体力も消耗品も全て使いきったアッシュがフィールドで往生し、今や遅しと救助を待っているかもしれない。
これらが現実に起こっている可能性の高い想定なのか、はたまた妄執が見せる幻想なのか、不明極まる私には判断がつかない。
判断できない以上、私はラムサスに従う。私が見つけた私よりもずっと明晰な頭脳に従い、それで失敗したならば諦めもつこう。
雪をかき分けてひたすら西へ進み、日が沈む少し前にプストゥーカの姿で空に浮かぶ目を介しロギシーンを眺める。
……。
遠くから通覧したかぎりでは、我々の離脱前後で街の内外に大きな変化は生じていないように思う。少なくとも都市機能の大幅な喪失は起こっていないと断言できる。
私は見えたままをラムサスに伝える。
軍略相談役を自称するラムサスは表情を変えずに映像情報を咀嚼する。
ラムサスの提案は時に私を驚天させる。では、本日はどういった提案をしてくるだろうか。
彼女の纏う雰囲気からして、過激な意見は出さなさそうな気がする。というか意欲的な意見は出さないでほしい。
今の私は不明化しているのみならず、無能化している可能性が高い。
ラムサスの過激な提案が実は理に即していて、その過激案を普段の私なら実現できたとしても、今の私ではおそらく実現できない。
本調子ではない私でも実現可能な、難度の低い案を求む。
我ながら情けない願いだ。
ラムサスはまだ無言で思案に暮れていて、すぐには何かを言い出しそうにない。
私は祈るような気分で、まだ明るさの残る空を見る。
そういえば、あの天体はいずこだろうか。
目当ての天体がこの時期、この時間に浮かんでいるであろう方向を凝視する。そこには、言葉で言い表し難いグニャグニャした形の雲が広く分布している。知識が足りないと、雲の形も満足に表現できない。
いずれにしても、雲の広がり方からして、今晩あの天体を眺める機会はなさそうだ。
そこまで見たかったわけではない。むしろあの天体が顔を出すと無用な不確定要素が生じてしまう。あの天体の心配をせずに済む夜は良い夜に決まっている。
……しかし、見られぬと分かると、見たい気持ちが膨れ上がるのが悲しいヒトの心の宿命と言えよう。
ああ、見たい。あの天体がとても見たい。
私は最近になって初めてあの天体の存在に気付いたはずなのに、なぜだかずっと前からあの天体を知っていたような気がする。
難しいことは何も考えずに、ただぼんやりと天体を眺めていたい。焚き火の炎にも似た、弱いながらも魔性の魅力があの天体にはある。
不思議な星だ。
ヒトの身を借りている私が星を眺めて情緒的になるのは自然な成り行きと言えよう。しかしながら私だけでなく、純アンデッドのシーワやヴィゾークたちもあの星を求めるそこはかとない思いを胸に抱いている。
ひょっとすると、あの天体が放つ光には生者アンデッド関係なしに特定の原感情を呼び覚ます幻惑系の魔法効果が秘められているのかもしれない。
見たい見たいと思ったところで今宵は見られず……。
胸の内でこれといって意味のない詩を詠みながら、空を舞わせていた目を回収する。
緩やかに旋回して高高度から一気に降下し、地面が間近に迫ったところで強く制動してフワリと杖の持ち手を掴む。
マディオフに暮らして長いとはいえ生まれは南国の鳥だ。同種には珍しく寒さをやや苦手としている。
ふくらスズメがごとく空気を含んで丸くなったステラを温めるべくクローシェの手を伸ばすと、途端にステラは恐怖を抱き、丸く膨らんだ羽毛が更にブワリと膨らむ。
「あっ……。すみません」
ステラを包む予定だった毛布を持ったままクローシェの手が所在なく空に浮く。そのまま佇立していても仕方ないので毛布をおずおずとラムサスに差し出すと、ラムサスはひったくるようにして無言で毛布を奪い、それから別人のように優しく優しくステラの身体に巻きつける。
予熱しておいた毛布の中でポカポカと暖まり、ステラの恐怖と敵対心が寒さと一緒にじわりじわりと溶けていく。
「鳥に謝るアンデッド……ふっ」
考え事に夢中でよく見ていなかったかと思いきや、ラムサスは私の失敗をばっちり見ていたらしく、私が咄嗟に放った一言をせせら笑う。
嘲笑されるのは別に構わないが、あらぬ勘違いが生まれている気がする。念の為、説明しておこう。
「ステラは現代共通語を理解しています。彼女に謝罪するのは何も――」
「そこを笑ったんじゃない」
ラムサスは訳知り顔で私の説明を遮っては、また笑う。
「ヒトの笑いの勘所を知りたいのなら、私がどこをどう面白く感じたのか解説してあげてもいい」
笑いの感性も笑う閾値もヒトそれぞれだ。解説されて納得できたとしても共感は難しい。それに、若者はなんでもかんでも面白がって大笑いするのが世の常だ。
クローシェの首を横に振ってやると、ラムサスは興が削がれたような顔で言う。
「はぁ……。せっかくステラはガダトリーヴァホークなんだから、お喋りができたらいいのに」
「あっ。あ゛あ゛ぁぁー」
ラムサスの要望に応えるため、少々ステラに発声練習させてから発語を開始する。
「空の様子を窺うに今夜は――」
「私は『ステラと話したい』と言った。『ステラ越しにあなたと話したい』とは言っていない」
「言い分は理解した。サナの要望には応えられない。ぷすん。ぷすん」
「そうやって私を馬鹿にする」
せっかく喉を作ったのでほんの一言二言ステラに会話口を担当させただけなのに、それが見事にラムサスの勘気に触れてしまった。
普段、ラムサスは我儘を言わない。私としてはできるかぎり彼女の要望に応えたいと思っている。ところが、なぜかラムサスは対応容易な要望はしない。叶えるにあたり障害が二つも三つもある願いばかりを決まって口にする。
ラムサス視点では、ステラは食べて飲んで飛んで、自由に気ままに過ごしているように見えるかもしれない。常時ドミネート下にあったクルーヴァやフルードらと比較すれば、ステラが自由を謳歌しているのは間違いないが、それでもステラは私によってそれなりに抑圧されている。
抑圧の最大理由、それは失言の回避にある。
ステラはもう若鳥という時期が過ぎた立派な成鳥だ。若鳥の時ほどベラベラと無駄口を叩かない。それでも気分次第でいつ何時おかしなことを言い出すともかぎらない。
精神緊張の緩和を目的として私はステラを適宜ドミネートから解放している。ただし、時間や場所は厳しく限定している。
時間を例に取るならば、ラムサスがまだ寝入っている未明の時間帯は好適だ。音漏れの心配がない土魔法の棺の中でステラは時に独り言を言い、時にアンデッド相手にクドクドと喋る。
文法の誤りは多々あるものの、十分に意味が通じる共通語を話す。
ステラを連れ歩きはじめた当初は、ヒトから聞いた言葉を意味も分からずそのまま復唱するばかりだったが、一年も経たずに単語の意味を覚え始め、今では文節三つ、四つからなる文章を構築して自分の考えを表現できる。
その言語力は、ヒトに置き換えるなら囂しい三歳児といったところだろう。
ステラの成長軌跡が脳裏に蘇る。
あれは、まだ私がヒトとして大学に在籍していた頃の話だ。いつからともなくステラがおかしなことを口走るようになる。
『エルザはどうしているかなあ。エルザに会いたいねえ。ぷすん。ぷすん』
初めて聞いたときは、いやはや全くもってそのとおりだ、と呑気に思ったが、何度か同じ台詞を聞かされるうちに私は段々と怖くなる。
一体全体このガダトリーヴァホークはどこでそんな台詞を覚えてきたのか。
どこもそこもない。
ステラは私と暮らしているのだから私の言葉を覚えたに決まっている。おそらく、無自覚に私が呟いている言葉を真似たのだ。
言語教育のつもりで私が積極的に教える言葉はなかなか真似ないのに、真似しなくていい言葉は狙いすましたかのように覚えて真似る。
エルザの近況は気になるし、エルザに会いたいのは事実だ。
けれども内容が真にせよ偽にせよ、エルザの話を節操なしに触れ回ってはならない。エルザのかわいさを説く相手は厳しく選ぶべきだ。そうでないと通りすがりにどんな悪人がステラの失言を耳にして良からぬことを考えぬとも分からない。
危険を予感した私はステラの口癖を変えようと試みる。
口癖とは正しく癖であり、己の身に染み付いたものであってもそう簡単には直せない。
しかも、今回の場合、己の癖ではなく他者の癖だ。矯正への道のりは険しく長い。
ステラには自我があり、ステラ自身は己の癖を直そうなどとこれっぽっちも思っていない。
癖をやめろと私に無理強いされてもステラは癖を直そうとはしないし、むしろ私に対する悪感情を生みだすことになる。
ステラに嫌われるということは即ち何かの拍子にステラに飛んで逃げられるということであり、ステラは逃げた先であの危険な口癖を全力で披露する。
型にはまった恐怖小説を軽く凌駕する、実際に起こりうる恐ろしい話だ。
そこで私は強制というかたちを取らず、説諭による改心を目指す。
当時のステラは言語発展途上だ。説諭を受けても説諭の意味を正確に解さない。こちらの思惑をステラに分かってもらうためにあの手この手を試みる。
モニカから聞いた絵本談義が、疎通性の低い対象に話を理解させる手段のひとつとして役に立った覚えがある。
時間も手間もかなりかかったが、努力実って見事ステラの口癖は変わった。
そう。
口癖は消えなかった。癖は無理に消そうとすると必ず大きな反動が生まれ、別の癖となって表れる。
『イオスはっ、気を抜くとすぐに同じ話をするっ!? アッシュの存在が大きすぎるっ!? 相方愛が重い。ぷすん。ぷすん』
ステラはイオスを罵倒する言葉を覚えた。
イオスに失言を聞かれぬよう、イオスとステラが接触する時は細心の注意を払ったものの、うっかり注意を疎かにしてしまった日に口癖がバレ、私はイオスにこっぴどく怒られた。
新しい口癖を矯正するため、私は根気強く説諭を続けた。
最終的にステラの口癖は、『そう怒らないでくれ、イオス。ぷすん。ぷすん』『あんまりカリカリするな、イオス。ぷすん。ぷすん』に落ち着いた。
たまに『控えよ、下郎! ぷすん。ぷすん』とも言うのだが、そんな言葉をどこで覚えてきたのか皆目不明だ。少なくとも私もイオスもそんな上位者じみた台詞を口走った験しはない。学園都市近郊に野生の王族でもいるのだろうか。
釣りに行くと、イオスとステラは長年の相棒がごとく掛け合いを始める。
『今日は何狙いだ、イオス。ぷすん。ぷすん』
鳥に尋ねられた釣りの到達者はその日の標的を饒舌に語り、鳥はそれを話半分に聞いて相槌を打つ。
『なるほどな。任せたぞ、イオス。ぷすん。ぷすん』
任された釣り人は鳥に向けて力強く親指を立てる。
鳥は釣り巧者の薀蓄の聞き手を務める。
公開弁論でも学術討論でもないのだから聞き手に当意の妙は求められない。大事なのは気の長さだ。
話し手に何を言われようと、聞き手は『そうだな、イオス』とか『凄いな、イオス』とか『やるじゃないか、イオス』とか『それは真の話か、下郎!』とか、定形文で答えるだけでいい。
短気さえ起こさずに相鎚を打っていれば鳥は釣り人から堂々と釣果を窃取できる。
話し相手に飢えた釣り好き水魔法使いとお喋りな空腹ホークは悪くない関係を構築した。
成立した関係は私がいなくなった後も存続し、おかげで私はボアハントに勤しむイオスを追いかけるついでにステラを再び傀儡化できた。
過去を懐かしんでいると、感情につられてひとつまたひとつと過去の記憶が鮮やかに蘇ってくるから面白い。
そういえば、エヴァの真の顔を比較的早い時期に看破できたのは他ならぬステラの功績だ。
マルティナ越しに初めてクローシェを見た時は大層驚いたものだ。あれは、最近受けた中では最も大きな衝撃だった。
ステラ越しに見えたエヴァがおそらくはエヴァの真の顔で、そのエヴァの真の顔を二十年ほど若返らせたような顔をクローシェがしていたのだから、私が驚いたのも当然と言えば当然だろう。
私は驚きのあまり、若返りの秘術でも存在するのかと一瞬、考えてしまった。
突拍子もない説だとは思いつつも、本人から情報を得るまでは仮説のひとつとして候補から消せない。
その後、クローシェを傀儡化し記憶を読み取って判明したのは、クローシェ・フランシスとは軍人としての名前で、本名がクローシェ・ラソーダということだ。
そして、クローシェ・ラソーダはゲイジ・ラソーダを実母と認識している。
つまり、私が探しているエヴァは本国ゴルティアでゲイジ・ラソーダを名乗っている。
ロギシーンでクローシェが名乗っている「フランシス」は父系名だ。クローシェ・フランシスは完全な本名でもなければ完全な偽名でもない。
軍の特殊部隊に所属する者が完全な暗号名を使わないのは珍しいように思うが、ユニティの代表者を務める以上、完全な偽名にしてしまうのは都合が悪かったのだろう。
何かの切っ掛けで追及されたときにどうとでも言い訳できるよう、本名とも偽名とも言い難い名前で活動する。そういう理屈だ。
クローシェの実母がゲイジ。
クローシェがそう認識しているのは間違いないが、ではその認識は事実を反映したものなのだろうか。
顔を比較する分には、血縁を強く感じさせる。戦う様を振り返っても、外から押し付けられる学びとは違う部分、例えばほんの少し体勢が崩れたときの筋肉の使い方や体勢の戻し方など、虚飾の入り込む余地のないところが似ている。
そして似ている点をもうひとつ挙げるとすれば、香水か……。ルカの代わりにクローシェに装備の着脱など、私の身の回りのことをやらせているうちに私は気付いてしまう。
気付きたくはなかったが、何も考えずに自然と気付いてしまったのだからどうしようもない。
ゲイジは……エヴァは香水を使っていなかった。
……私は面倒が大嫌いだ。もう本当、記憶を一部分、完全に抹消したい。
消したくても消せないのが罪と不要な記憶だ。消せないものを、消したい、消したいと喚くのは詮無きことである。
忘れられずとも、なるべく考えないようにはしている。
何はさておき、クローシェとゲイジの血が繋がっている可能性は極めて高い。しかしながら、直接の母子関係を担保するものは何もない。
しかもクローシェは因子保有者だ。
クローシェ本人は自分を因子保有者と認識していなかった。そもそもクローシェは聖女因子という事象にまつわる見識をほぼ全く有していない。
では、ゴルティア軍の中枢にいる連中はクローシェをどのような存在と捉えていたのだろうか。特にホーリエ・ヒューランの認識は気になる。
見方によっては、ゲイジはクローシェと血は繋がっていても実母ではなく、クローシェが実父と認識するアルブレヒト・ラソーダ、旧名アルブレヒト・フランシスにいたってはクローシェと全く血が繋がっていない可能性もある。
厄介なことに、クローシェは自分の父親を浅く、薄っぺらにしか理解していない。
クローシェの記憶に父親の職業を問うと、クローシェの記憶は『技術者』と答える。そして、それ以上、詳しくは答えられない。なぜなら知らないからだ。
大雑把すぎる。『技術者』とは具体的になんなのか。
錬金、化学、建設、材料加工、魔道具……大学だろうが国営企業だろうが民間企業だろうが、技術者はどこにだっている。
どこの組織に所属し、どの分野のどういった領域を任されているのか分からないことには、アルブレヒトがなんの技術者なのか推測しようがない。
考えれば考えるほど腹が立つ。
母親がほとんど家にいないのだから、実質的にこいつの家は父子家庭だ。親子の仲は悪くない。それなのに、どうしてクローシェは父親の仕事内容を詳しく把握していない。
親に興味を持て。この不人情者め!
本人にぶつけられない、行き場を失った怒りが私の胸の中でキャンキャンと喚き立てる。
……落ち着け。落ち着いて冷静に我が身を振り返ってみよ。
ウリトラスに対する私の理解はいつ深まった。
そう、徴兵期だ。
徴兵同期の話を聞いて初めて私は、ウリトラスが操る魔法の属性や得意技について知った。徴兵以前はウリトラスを『マディオフ軍の魔法使いの中で最も強い』くらいにしか認識していなかった。
過去の自分に心底がっかりする。
十分な下調べもせず、よくもまあ安易に融合相手を決めたものだ。いや、そもそも慎重だったら、成長性の不確実な赤子と融合して魔法技術を急激に向上させよう、などという夢想を現実のものにしようとは思わないか。
己の愚かさを自嘲しつつ、一本の年季が入った魔法杖を手に取る。
私の物ではない。ウリトラスの所有品だ。
軍の筆頭魔法使いが主兵装とするには不相応の、あまり質の高くない魔法杖である。
柄の端には隠れすぎず目立ちすぎず、適度に自己主張する刻印が施されている。アーチボルクの武具店、レプシャクラーサの印だ。
エヴァに連れられてレプシャクラーサを初訪問した時、私はこの刻印に既視を感じ、どこでその印を見かけたのか考えたが、突き止められないまま忘れ去ってしまった。
母キーラは決して弱くないが、それでもキーラの装備は実力に比べると過剰品質だ。武具にしろ装飾にしろ、安物を身に着けないキーラはレプシャクラーサの装備を持っていない。
カールは闘衣を使えないから闘衣対応装備を持っていない。
キーラでもカールでもないのであれば自然にウリトラスのことを思い浮かべてよさそうなものだが、徴兵明けで同期や上官の装備が思考の最表層をチラついていたせいか、父の装備には考えが及ばなかった。
ウリトラスは、役職手当こそ大して貰えていなかったかもしれないが、階級だけはそれなりだったのだから、本人さえ望めばもう少し質の高い装備を整えられたはずだ。
それなのに、稼いだ金の大半を家族に使うから地方武具店の装備を長年使うハメになる。
もしウリトラスが装備を気にする性質か、あるいは子供に対して人並みの関心を抱く人間だったならば、私の幼少期の生活水準がもう少し下がっていたかと思うと、心中は複雑だ。
ウリトラス……。いくら興味がなかろうとも、自分の子供の数くらいは把握しておけ!
ああ、自分を落ち着かせるつもりが、逆に苛立ってしまった。
興奮するな。光り油虫の個体数でも数えて心を鎮めろ。
……。
さて、落ち着いたところで私は何を考えていたのだったか。
そうだ、クローシェの出自だ。
クローシェは自分を養育してくれた二人を実の両親と思い、これまで血縁関係を疑ったことはない。しかしながら、私にはどうにも怪しく思える。
技術者として働いている父親が、実は飼育員だったとしてもおかしくない。
もしその仮説が正しいならば、ホーリエがクローシェに目をつけた理由はもはや説明不要だ。
ホーリエ・ヒューラン……。
私が殺めてしまったかもしれない西伐軍総指揮官は、私の当初の認識より解釈の難しい位置に立っていた。たとえ殺すとしても、もう少し情報を引き出してから死なせるべきだった。
私が重要物保管庫と思いミニベネリを撃った場所が、まさか司令室だったとは……。
それでも、ホーリエの死はまだ確定していない。そういう公式発表はされていないし、されていたとしても、ゴルティア軍が重要人物たるホーリエの生存を機密扱いして秘匿している可能性も否定できない。
これから先、“真実”を追求するにあたり、必然的にホーリエの秘密を探ることになる。本人が死んでしまっていては、入手可能な情報の精度は格段に落ちる。
今更ながら早まった真似をしたものだ。事前にラムサスに相談しておくべきだった。後悔してもし足りない。
負の感情続きで言うならば、クローシェが欠損修復に必須の因子を持っていないのも実に残念だ。
欠損修復ができればウリトラスの身体を治せたというのに……。
しかし、クローシェに欠損修復能力があったならユニティの戦闘員を治療しない道理はない。
記憶を探るまでもなくクローシェにウリトラスの火傷を治す力がないことは分かっていた。
判定試験にしても、欠損修復関連の因子確認の意図はない。
私がクローシェに判定試験を行った最大の理由は、因子の確認ではない。
己の心を後方視して思うに、私は過去を整理し、未練に区切りをつけるために判定試験を行った。要は現実的な意味に乏しい、儀式的な作業だ。
判定試験の準備と実施には細かい動作ができる手、つまりはヒトの手が必要だ。傀儡構成が大きく変わった関係上、私には試験に必要なヒトの手が無い。
となると自然、各種の作業はラムサスに頼んでやってもらうことになる。
私が選んだのは、数え切れないほど修正された判定試験の中でもかなり旧式の方法だ。無駄が多く、資源、手間、時間、いずれも大量に必要として、危険は大きく、しかも人倫に悖る。
これまでも非人道的な私の行いに一貫して反対意見を掲げてきたラムサスは、意外にも判定試験に強く反対しなかった。もちろん反対したにはしたのだが、今までの彼女の言動や、実際にこれから自分が手がけさせられる試験の内容を思えば極めてささやかな反対だった。
おそらくラムサスは『過去の整理』の意味を、ルカやフルードら手足を多数殺害されたことに対する復讐のひとつと考えていたのだと思う。だが、私に復讐心が無かったとまでは言わないが、そういった意味合いは非常に薄い。
まず私自身、判定試験を好意的に捉えていたか、と問われたら、答えは否だ。私は判定試験を嫌い、憎んでいる。
ところが、嫌悪すると同時に、判定試験を自ら行ってみたいという、自分ですら気付いていない密かな願望を抱いていた。
己が隠し持つ矛盾した感情をはっきりと自覚したのは、クローシェに試験を行っている最中だ。
厳密には判定試験を模した演劇でしかないが、自分にとっての価値を正確に理解するには、演劇でも十分だった。
あんなものを行ったところで歪んだ欲望も復讐心も、どちらも満たされることはない。ただ虚しく、ただ不快なだけだ。真の試験だろうが演劇だろうが、もう二度とやるつもりはない。
判定試験の功労者ラムサスを改めて見やる。
視線に気付いたラムサスは私を慰めるように言う。
「予想が外れたのは残念だったね。予想よりも願いと言ったほうが正確かもしれないけれど」
はて、彼女の指す『予想』とは何に関することだろうか。
考え事を始める前に私がラムサスと何を話していたのか思い返す。
……ああ、分かった。『予想』とは、ロギシーンの現在の状態のことだ。私の現況予想は完全に外れていた。
ラムサスはこう言ってくれているが、実際は喜びも悲しみもしていない。
クローシェは一応、喜んでいるようだが、訝る感情も少なからず併存している。
予想が外れたことを真に悲しんでいるのは私ひとりだ。
ヒトの表情から内心を推し量る能力は、当たり前ながらヒトが最も高い。私は元々ヒトを観察する力に秀でていない。
その点、ルカは表情だけでなく、ほんの小さな所作から相手の心理を見抜く洞察力に長けていた。
女性は一般に男性よりも他者を観察する能力に長じていることが多いが、クローシェの目を通してラムサスを見ても得られる情報が少ない。
ルカと違ってクローシェは魔道具の力で変装魔法の下にあるラムサスの真の顔を見られない、というのもあるが、根本的にクローシェは観察力や洞察力が低い。
美醜に対する感覚も女とは思えないほど鈍い。ルカは、操っていて鬱陶しくなるほど自他の美醜に敏感だった。
ルカを傀儡にする前であれば、『ヒトの女の美を判定する能力は、ヒトの男が最も高い』と考えただろうが、ルカの目を通して世界を見た今では、『ヒトの女の美は、ヒトの女が最も鋭敏に判定できる』と思う。
その思いは確信にちかいものがあったのだが、クローシェを操ることで確信はたちまち揺らぐ。
変装魔法のかかったラムサスの顔をクローシェが見ても、美醜に関する判定は私に伝わってこない。
ラムサスの上に作り上げてあるのは、男でなくとも思わず二度見してしまうほど酷い、究極のブス顔だ。
それなのに、クローシェはラムサスを見ても『ヒトの女』としか認識しない。
クローシェの美意識はあまりにも低い。その異常さは、ヒト非ざる者の私が、うすら寒く感じてしまうほどだ。
クローシェの異常性は育成手法に起因する後天的なものなのだろうか。それとも育ちとは直接関係のない、先天的なクローシェ個人の特性なのだろうか。
判定試験の最中に『醜男と交わらせる』と私に言われた時はそれなりに嫌悪していたから、美醜の感覚が欠落しているわけではないようなのだが……。
観察力の低いクローシェの目でもう一度マジマジとラムサスを見る。
美醜はギリギリ分かる……が、時間をかけて見すぎたせいか、美醜を判定しているのがクローシェなのやら自分なのやら分からなくなってしまう。
「いつまでジロジロと私を見る。何がそんなに気になる」
私の視線から逃れるようにラムサスはフードを目深に被り、彼方を向いて顔を隠す。
私の視線は確かに不躾だった。だが、ラムサスは私の無礼を嫌気したのではなく、明確に思うところあって逃げた。
ラムサスは私に隠し事をしている。私はそう思っている。
それもひとつではなく複数の事柄を隠している。
ラムサスの隠し事を最初に直感したのは対鎮圧部隊の感想戦だ。
勉学でも戦闘でも復習や振り返りは大切だ。やりっぱなしで復習しない者は学習速度が遅く、しかも低いところで成長が頭打ちになる。
魔物相手の戦闘だろうと、ヒト相手の戦闘だろうと、気付きを求めて一戦一戦を丁寧に振り返る。それが成長を加速させる。
ラムサスの場合、小妖精産の情報もある。戦闘中に完璧な情報共有はできないから、事後、改めて情報共有とすり合わせを行い、それから意見を出し合い情報を検討することで情報の価値がグンと上がる。
ラムサス曰く、王族の呪い発動前のリディアは我々に手加減していたらしい。
私が斬り結ぶ中で朧に感じた呪縛の正体は案外、簡単なものだった。
剣に秀でずとも超一流の剣士が振るう剣に潜む思いを読み取る。小妖精の力は相変わらず反則じみている。
リディアに手加減されていなければ、我々はあの場で倒れていた。
感想戦で検討すべきはリディアの手加減にかぎらない。他にも無数に見直しておくべき点がある。しかし、どうしたことか、ラムサスは多くを語りたがらない。
推測ではあるが、ラムサスは何か私に伝えたくない、後ろめたい情報を掴んでしまった。だから隠す。
では、はたしてその後ろめたい情報とは、どういった類のものだろうか。この義心が歩いているような人間が、私を騙し謀ろうとしているとは考えにくい。
力ずくで聞き出す手が頭をよぎるものの、私に代わって一時的にパーティーの舵取りを担うラムサスに現時点でこれ以上、負荷をかけるのは賢くない。
ならば、自力で答えに辿り着く他あるまい。
私はリディアが発した軍事符牒を思い返す。
リディアはあの時、確かに『ブルーノ』と言った。
マディオフでは一般的な人名だ。リディアに関連した特定の人物として、ブルーノなる者がいたような気はするが、それが誰だったか思い出せそうで思い出せない。
考えて考えてやっと思い出したのは、リディアの送迎を担当していた付き人だ。
付き人の名前を軍事符牒として使う理由は……どうにも分からない。少なくとも鎮圧部隊の中にブルーノその人はいなかったと記憶している。
ラムサスはブルーノの符牒が真に意味するところを理解している……?
若者は、特に年頃の女は不思議な事柄を秘密として隠したがるものではあるが、ことこの件に関しては納得のいく理由がありそうに思える。
視点をラムサスに移して考えてみろ。
私に知られるのはラムサスにとってどうマズい。軍事符牒の意味を隠してラムサスにどんな利得がある。
……。
ダメだ。分からない。私を謀るためであれば理由として適当だが、私の頭では計略以外に何も思い浮かばない。
私はラムサスの心中を推し量るのをやめて再び西を向く。
残存戦力の大半を失い、指導者二人を失ってなおユニティの旗が翩翻と翻るロギシーンの方角を見ていると、無意識に歯噛みしてしまう。




