第六〇話 修正■女■定試■ 最終日 二
ジバクマの至宝ジェダ・ドロギスニグに匹敵すると目されたアルバート・ネイゲルの調略にゴルティアが失敗したのは、ジバクマ攻略延期が完全に決まる少し前のことだ。
調略計画の最終盤では、標的を重大犯罪の容疑者としてマディオフ衛兵に身柄を確保させ、嫌疑不十分で解放された後にゴルティアへ取り込むことになっていた。
第三者視点からすれば、およそ成功率が高いとは思えない危険な手法だ。
確かに事が理想的に上手く運べば標的から強く感謝されるかもしれないが、標的から強く恨まれる結果になったとしてもまるで不思議はない。
不可解な計画が採用された細かな経緯は実際に計画を遂行した現場の工作員と計画を承認、ともすると立案までした戦略部の人間のみぞ知る。上位者が下々の者に正気とは思えない命令を下すのは世の常だ。
下知がどれほど理不尽であっても下位者はそれを成功に導くべく行動する。転んだ場合の備えも欠かさない。
今回の事例で最も重要なのは『標的を逃さない』の一点に尽きる。
取り調べを拒否して逃走、拘置所から脱走、解放された後に失踪。
標的の目線に立ってみると、計画の中で行方を晦ましたくなる場面が無数にある。
計画を遂行する側の人間は、無数の逃走経路を全て事前に塞ぐ、それこそ病的なまでの入念さが求められる。計画を遂行した工作員たちは実際、万全の策を講じていたはずだ。
ところが、標的はマディオフ公権力からの完全解放を目前にして“再会の道”から霧のように消え去った。
事後に検討してもおよそ理に適わない、適した頃合いが他にいくらでもあったはずなのに、よりにもよってなぜそこを選んだのか理解に苦しむ場面での逐電だ。
標的が多数持っている二つ名のうちのひとつ、「奇矯のミスリル」の名に違わぬ行動と言われれば、なるほどそのとおりなのかもしれない。
過ぎた失敗を何度、洗い直し、何回嘆いたところで溢れた水は杯に戻らない。ゴルティアが二度、立て続けに黒化の可能性を秘めた若鶏をつかまえ損ねた事実は覆らない。
工作員は状況次第で標的と深い関係を構築する必要があるものの、たとえ物理的な距離が縮まり零を跨いだとしても心は一定の距離を堅持しなければならない。
アルバート調略の主担当となった工作員はそれができなかった。
担当者は激しく焦燥し、いなくなった標的の行方を探して東奔西走する。
思い虚しく、標的はその後、王都から遠く離れた土地で死体となって見つかった。
思い入れが過ぎたあまり、担当者は標的の死が受け入れられずに軍命を無視するようになり、もはや世界のどこにも存在しない標的をその後も捜し続け、最終的には軍から離反してしまう。
そうでなくとも行動と自由を制限される工作員が正式な手続きを経ずに軍から抜けたのだ。記録には残されていないものの、担当者が辿った結末は想像に難くない。
生前も没後も標的が国の内外に及ぼした波紋は大きい。
標的の死後早期に最も懸念されたのが、連鎖的にウリトラス・ネイゲルの調略まで失敗してしまうことだ。
なにせ、死なせてしまった標的は他ならぬウリトラスの長男なのだ。ウリトラスから激しく糾弾されてもゴルティアは弁解不能だ。
ところが意外や意外、ウリトラスは息子の死に大きな反応を示さない。
家族としての情が薄いのならば、それはそれで好都合、と戦略部は計画に大幅な修正を施さず粛々と調略を進めていく。
家長、長男に続いて狙いを定めたのが長女エルザ・ネイゲルだ。
エルザは父と同じくマディオフ軍に正規兵として属している。
ウリトラスの調略に成功した事実も、エルザとウリトラスの所属組織が同一という環境要因も、いずれもエルザの調略易化には繋がらない。
理由はひとえに王族の呪いが存在するからだ。
最初から呪いがかかっていなかったウリトラスとは違い、エルザにはほぼ間違いなく王族の呪いがかけられている。他の諸外国の軍人調略に比べてマディオフ軍人の調略は桁違いに難しい。
かつてウリトラスを調略した際、ゴルティアは是が非でも呪破を成功させるべく綿密に作戦を練って準備を整えていた。
だが、呪破の当日、衝撃の事実が判明する。
ウリトラスには、なぜか呪いがかかっていなかった。
末端の最下級兵ならいざ知らず、ウリトラスはマディオフ軍で文句なしに最強の魔法使いだ。そのウリトラスにマディオフが首輪を嵌めない理由はない。誰を差し置いてでも嵌めるべきだ。
『嵌めなかった』のではなく、『嵌めようとしたが、どうやっても嵌まらなかった』のが大方のところなのだろうと、戦略部は推し量る。
物理戦闘においてマディオフ軍最強を誇るネイド・カーターと比較すると、ウリトラスは軍の中での扱われ方が随分と悪い。ウリトラスが冷遇されているのは本人の出自の悪さと入軍した年齢の高さ、専らこの二点に起因するものと一般には理解されている。
その理由二つがウリトラスの足を引っ張っているのは事実かもしれないが、それ以外にも特大の原因が存在したことを思いがけずゴルティアは知る。
呪いをかけられなかった理由は色々と考えられるが、確定の術が無い以上、どれも想像の域を出ない。
ウリトラスが王族の呪いを免れていたからと言って、娘のエルザも同様に王族の呪いを免れている保証は全くない。
工作員たちはエルザの呪いを解くための手立てを二重三重に考え、呪破実現に向けて行動を開始する。
ところが、準備の段階で立て続けに問題が起こる。
偶然の問題多発ではない。どこの誰から命じられたとも分からぬ者たちが、まるでゴルティアの思惑を見抜いているかのごとく、徹底的に妨害してくる。
それはあたかも妹を偏愛していたことで有名なアルバートが死後も念の力で妹を守ろうとしているかのようであった。
死んだはずのアルバートが実は生きていてゴルティアの計画を妨害した、と生存説を唱えたくなるのは世の性、人の性かもしれないが、生憎それは短絡思考というものだ。
アルバートの手引きにしては妨害ひとつひとつが極めて雑で緻密さとは縁遠い。反発者が大量発生する原因となっていた度を越す冷徹さも全く窺えない、ヌルいやり方だ。
犯罪捜査風に言って『別人の手口』なのである。
ゴルティアの準備を妨害した個々の実行犯はそれなりに割れている。しかしながら、実行犯同士を結びつける共通の黒幕が見えてこない。
黒幕を突き止めずに呪破を強行しようとしても失敗するのは目に見えている。
正体不明の何者かの妨害により、ゴルティアはエルザの呪破断念を余儀なくされる。
呪破の成功なくしてマディオフ軍人の調略成功はありえない。戦略部はエルザ調略の無期延期を決定した。
長男の失敗は確定しても長女の調略はまだ成否確定していない。無理を通そうとせずにここは引き、時計の針を進めれば思わぬ機会がひょっこりと出てくるかもしれない。
戦略という大きな流れを掴まねばならないゴルティアは暗礁に乗り上げた船を早々に見切り、マディオフの本攻略開始に舵を切る。
マディオフ国外では西伐軍の戦力配置を大幅に変え、国内では国家の足元を揺らがせる混乱の種に水を撒いて開戦に備える。
大きな戦争の足音が日一日と近付くある日、ウリトラスが前触れ無く穏やかならざる発言を始めた。
彼は提言する。白楼の森で孵化の日を待つドラゴンの卵に魔力を注ぎ、ドラゴンの馴伏を試みたい、と。
凡百の鳥の卵とは違い、ドラゴンの卵は意図的に孵卵を早められる。方法は別に複雑でも難しくもない。卵に魔力を注ぎ込む。これだけだ。実際に孵卵早期化に成功した例が複数の古書に記されている。
ただし、孵卵早期化が可能という事実はドラゴン学精通者以外にあまり浸透していない。
歴史的な事実が比較的良く保存されているゴルティアでさえそうなのだから、戦乱と焚書により史実を喪失しがちなマディオフでヒト種の存続を危うくする情報が命脈を繋いでいるとは考えにくい。
では、ウリトラスがドラゴン学とは無関係に思いつきで言い出したのかと問われると、それもまた難しい問いだ。答えは当事者以外、知る由もない。
それに、孵らぬ卵を孵すのなら大問題だが、放っておいてもいずれは孵る卵だ。孵卵時期の調整で利得があるなら早期化が一概に問題とは言えない。
焦点は、はたして現実に利を得られるのか、という一点に絞られる。
歴史を振り返ると、ヒトは長年に渡りドラゴンやその他、屈強な種族から言葉どおり食い物にされ、弄ばれてきた。脆弱な種であるヒトが生き残るには目立たぬよう、目をつけられぬように息を潜め、隠れて生きるのが習わしだった。
力関係の逆転を図ってドラゴン馴伏に挑んだ例は記録として残っているものだけでも一〇や二〇ではきかず、記録に残っていないものも含めれば数知れない。
しかしながら、それらの果敢な試みが成功した例はひとつたりとも無い。
提言と呼ぶのが憚られるウリトラスの危険極まりない妄言を、どういうわけか戦略部は承認する。
ことネイゲル家に関連した事案になると、元より高いとは言えなかった戦略部の判断力は理解不能なほど低下する。
戦略部の決定を知ったクローシェは大いに落胆し、同時に憤慨する。
裏に隠す思惑がない愚かさの表象だろうと、ギキサントによる下劣な差し金だろうと、決定に腹が立って仕方ないことに変わりはない。
いち工作員でしかないクローシェの怒りに戦略部の決定を覆す力があるはずもなく、やがてウリトラスはマディオフ軍の指揮下から離脱して少数の腹心たちと共に白楼の森へ向かう。
ゴルティアの工作員はウリトラス一行をドラゴンの卵がある場所まで送り届け、現場を去る。そこから先に広がる物語はウリトラスたちしか知らない。
きっとあったのであろう迂曲の末に新たなドラゴンが一柱この世に生まれ出る。
後にフチヴィラスの名で呼ばれる若いドラゴンは空を翔け、王の帰還を高らかに世界に告げる。
それは大氾濫の源泉であり、 大発生 の起点であり、回帰の始まりである。
馴伏の試みがどのように帰結しようとも大氾濫が必発と予想していた戦略部はあらかじめホーリエに命令を下していた。
命令に付帯した条件が満たされ、ホーリエは準備万端の西伐軍を心ならずともマディオフ東端アウギュストへ進発させる。
かくして道は分岐し、戦争が始まった。
ギキサントの影はウリトラスの足元のみならず、クローシェらの足元にも伸びている。
足元には不安、背負う荷にも不安、上も下も前も後ろも不安な中、クローシェ率いるロギシーンの人員も行動を開始する。
四方を不安に囲まれようともクローシェはユニティという名の大きな船を任された身だ。ユニティ次将として任務の完遂を誓い、迷いなど無いかのようにクローシェは走る。
アッシュとクローシェが両翼を担うユニティは一帯を守る衛兵たちを迅速に無力化し、ロギシーンを制圧する。
際限なく勢力を拡大する必要はない。限られた人員で無理なく守れる範囲を守り、マディオフの力を削げば十分だ。
人員総数や継戦用の物資、資金などの量は限られているが人材の質には恵まれている。かつてロレアルで劣勢を強いられながらも粘りに粘った戦士たちが今はユニティ戦闘員としてロギシーンの守りに尽力している。
南東の王都方面や南のソリゴルイスク方面から鎮圧部隊が送り込まれれば都度、迎え撃って少しずつでもマディオフ軍人を生け捕る。
捕虜には王族の呪いがかかっている。時間をかけて、心と言葉を尽くしてもユニティに取り込むことは叶わない。
必要なのは説得ではない。呪破だ。そして、それができるのはユニティではたったひとりクローシェに限られる。
交代という概念のない長い難事に腹を据えて取り組む。スターシャら上層部の人間はクローシェを真に気にかけてくれている。傍らには従者が片時も離れず付いてくれている。
しかし、それでも呪破は孤独な戦いだ。本当の意味で呪破を助けられる者はどこにもいない。
視野を絞っても広げてもクローシェが身を投じる戦いは孤独だ。それでも、呪破という名の戦いからは手応えがそれなりに得られ、だからこそ続けられる。
概して数時間、時に丸一日以上かけてひとり、またひとりと呪いを解いていく。
呪破が順調でも不調でも鎮圧部隊は続々とやってくる。
マディオフ軍接近の報が届けば剣を取って走る。
街に戻ってはアッシュの参謀を務めるために難解な報告書を読み解く。
ユニティに強く反発する団体がいると聞けば現地へ急行し、できるかぎり武力行使を避けて平和的に事態の収拾を図る。
何度となく怒号を浴びた。数え切れないほど非難された。
集団効果で怒り猛る人々に取り囲まれて心無い言葉をぶつけられ、むき出しの悪意を向けられ、それでも感情的にならずに信念ある指導者として理性的な対応に努める。
疲れても立ち止まって後ろを振り返ることはおろか、歩くことすら許されない状況で、前だけ向いて走って走って走り続ける。
疾走するクローシェの熱はアッシュの人望と並んでユニティを動かす原動力となり、余剰熱はわずかながらも市井まで届く。
日を追うにつれて少し、また少しと賛同が得られるようになっていき、応援の声が走るクローシェの背中を押す。
ユニティの勢力圏で民の意識に良好な変化の兆しが現れる一方、ロギシーン以外のマディオフ国内からは朗報が全く聞こえてこない。
代わって聞こえてくるのは不穏当な報せだ。
白楼の森から始まった大氾濫は、信じられないほどの短期間に収束した。
マディオフ軍と睨み合うリクヴァスのゴルティア軍は歴史に残るほどの激甚な損害を被って撤退した。
情報絶対量の不足したロギシーンでは悪報を考察しようにも捗らないが、それでも推測容易なものはある。
魔物の波を飲み干したのも、ゴルティア軍を食い荒らしたのも、どちらも既知の“集団”の仕業だ。こんな常識外れをやろうと思ってできる者たちなど、そうはいない。
規格外の妨害によって生まれるはずのない余裕がマディオフ軍に生まれ、一転、ユニティは窮地に陥る。
弱体化の一途を辿るはずだったマディオフ軍鎮圧部隊にリディア・カーターやエルザ・ネイゲルをはじめとするマディオフ軍の筆頭人員が加わり、劇的に戦力が強化される。
予想外が生じてもユニティに選択の自由はない。
ロギシーンで耐える。
それが全てだ。
蜂起初期とは比較にならないほどの猛攻を受け、なお耐える。
ユニティがその気になれば、リディアやエルザらを倒すことは可能だ。しかし、一時を凌ぐために武力衝突で若い才能を死なせては本末転倒だ。
再起不能な傷痍を負わせずに捕獲という理想を実現するのが無理ならば追い払うのが次善となる。
ユニティが思うところある戦い方をすれば、交戦するマディオフ軍もまた察するところがある。
下手に言辞を弄さず行動で示したのは王族の呪いの発動回避に上々にはたらいた。
血で血を洗う凄惨な戦いは起こらず、あたかも厳しめの合同訓練かのような認容可能な被害しかでない衝突が何度も続く。
ただしこの訓練で、より力を加減するのがユニティ側なのは当然で、ならば軍事力向上が著しいのは鎮圧部隊側なのもまた然りである。
戦えば戦うほど鎮圧部隊は強くなっていく。
そうでなくとも鎮圧部隊には安定した補給があり、安心して下がれる後方がある。次第に強くなっていくマディオフ軍と後方支援も増援の当ても全く無い、ジワジワと弱るユニティ、両者の争いの結果は火を見るより明らかだ。
希望が見えずともクローシェは光が差すのを待ち、諦めずに戦う。
それぞれの想いが交錯するロギシーンには新しい年を迎えても光が差さない。その代わり、とっくに伸びていた“影”が厚みを増して具現化する。
明らかだった戦いの趨勢が、音もなく肉を生じ蠢き始めた“影”によって忽ち不明になる。
ウラス地下を中心に拠点を築いた“影”は毒の息を吐き散らし、あちらこちらへ魔の手を伸ばす。
何かを代価に、ロギシーン最優秀治癒師のマルティナを意のままに操った。
ゴブリンの 大発生 を引き起こし、ゴブリンキングを誕生させた。
不詳ながら、古の魔物ドメスカ再臨との関連も否定できない。
ユニティの頭脳、スターシャから苦言を呈されながらクローシェは“影”を追って走る。走る理由に、それまでに無かった私情が少しだけ混じる。
私情の芽生えは、ストライカーチームがゴブリンキング討伐に発つ直前だった。
ウラスに押しかけたクローシェとアッシュら一行は新マルティナから奇妙な反応を呈され、その解釈に悩みに悩んだが、結論は出ずに終わった。
解法不明だった謎を解く鍵は、スターシャがクローシェに呈した苦言に含まれていた。
『次将の顔は、本当にあなたの顔ですか?』
ユニティの顔を務めるクローシェが変装していないのは当たり前として、白粉や紅はおろか化粧水や乳液などの基礎化粧すらしていない。正真正銘、素のままの顔だ。
争点は顔の真贋などではなく、“影”に染まった新マルティナがクローシェの顔に過去を見出した部分にある。
その過去とはクローシェが憧れ、追いかけてきた背中に違いない。
“影”はクローシェの母親を知っている。
だからどうだと言うものではない……ないが、“影”はクローシェにとって一層因縁の深い存在になった。
朝も夜もなく走り、放縦に出ては消えるドメスカに剣を撃ち、押し寄せるゴブリンの波を防ぎ、オレツノから緊急帰還したミレイリと合流し、ウラス地下に掘られた縦坑の深さを知り、また走って走ってようやく“影”とゴブリンキングを見つける。
はたして読みどおりロギシーンに蠢いていた“影”は、かつてジバクマでゴルティアの正義を退けた悪の“集団”だった。
できれば個別に撃破したかった力ある凶悪な“影”の構成員はどうやら全員その場に揃っている。
状況はクローシェに圧倒的に不利だ。しかしながら、クローシェの横には信頼のおける従者たちに治安維持部隊の実力者、ロギシーン最強のハンターがいて、そして何よりクローシェはホーリエから託された魔道具ヴェレパスムを持っている。
魔道具の力を解き放つのに、これ以上の場面はない。
もしかしたら、いや、ほぼ間違いなく遺品なのであろうヴェレパスムが放つ光に助けられてクローシェは“影”を追い詰める。
しかし、敵も然るもの、ドメスカを操りその場から離脱する。
クローシェは苦しい選択を迫られる。
逃げる“影”を追うか、それとも、折れた剣でドメスカ二体と戦うミレイリに加勢するか。
ヴェレパスムの力で大幅に力を削いだとはいえ、“影”もゴブリンキングもまだまだ余力を残している。クローシェ単独だと撃破困難だ。“影”を追うならば必然、従者も連れて行かねばならない。
けれども、従者を連れて行った場合、楽観的に考えてもミレイリら街に残す者たちが無事で済むとは思えない。“影”が喚び出した二体のドメスカはこれまでにクローシェが相対してきたドメスカとは明らかに質が異なっている。
後ろ髪を引かれる思いで、クローシェはドメスカの撃破を選ぶ。
クローシェの加勢により形勢は即座に逆転する。二体のドメスカはドメスカにあらざる強さだが、それでもヒト換算でチタンクラス未満、戦う舞台の地均しを完璧にしておけばビークやグレータでもひとりで一体を倒せるだろう。
剣の折れたミレイリに従者が武器を一振り貸し与えると、ミレイリは武器に慣れるまでもなくドメスカを圧倒する。
ミレイリは特筆すべき技を使うでもなく普通に剣を撃って普通にドメスカの身体を斬り、ドメスカが実体を失って崩れゆく段になってから特別な一撃を繰り出す。
傍目には空振りにしか見えないその一撃は、おそらく核を撃つための『温めていた技』だったのだろう。ミレイリの表情に確信が宿る。
熟練ハンターの確信が、その場の者たちに伝わり、あともう少しで全員に伝播する、というところであえなく消失する。
完全な滅びを迎えたかに見えたドメスカが何事もなかったかのように復活したからだ。
これまで何度も討伐に失敗し、何度もドメスカを逃してきたクローシェや治安維持部隊隊員たちも、このような即座の復活劇には経験が無く、動揺を隠しきれない。
現役ハンターのミレイリと元ハンターのケイドは一度魔物を倒し損ねた程度で動揺も気落ちもしない。戦いながら大声で意見を交換しては作戦を練り、即興とは思えぬ剣と魔の連携で再びドメスカの完全討伐に挑む。
剣で斬り裂いても魔法で消し飛ばしてもドメスカはその度、復活する。
ハンターたちは諦めない。
試みがひとつ失敗する間に二つ、三つと新しい案を出す。
対人戦と対魔物戦の違いを肌で感じたクローシェは、軍人としても工作員としても味わったことのない独特の感情を抱く。
その感情はもしかしたら、ハンターがハントの世界に生きる理由と同じものなのかもしれない。
逃げた“影”を追うためではなく、ロギシーンを守るためでもなく、魔物を倒すために戦いたい。
不滅としか思えぬ魔物を滅ぼす、この世にまだ存在しない絶技を己の剣で撃ちたい。
クローシェの剣を握る力が強くなったのと同時に、二体のドメスカが強風を受けた蝋燭の火のごとく瞬く間に消える。
事態を飲み込めずにキョロキョロと辺りを見回すクローシェたちと対照的に、ミレイリは確信ある動きで天を仰ぐ。
ハンターの動作ひとつが、凡百のドメスカと一線を画す異能持ちのドメスカでも空の法則には抗えない、と非ハンターたちに告げる。
空を覆う雲は厚く風向きからしても、その晩はもうドメスカ被害を案じずともよいだろう。
空から目を切ったミレイリが今度は魔道具に視線を落とす。魔道具の光が意味するところは、ゴブリンキングの街の外縁到達だ。つまり、ゴブリンキングを従えた“影”は現在、ゴブリンの波を食い止めるための防衛線に差し掛かっている。
民衆の安全を優先するならばクローシェが街に留まるべきなのは考えるまでもない。だが、前からは波が押し寄せ、後ろからは“影”に迫られる防衛線は放り置けない。
それに、もし“影”が防衛線に紛れ込もうとしても、魔道具のあるクローシェたちは“影”を確実に見つけ出せる。“影”が防衛線を越えて逃げたとしても、追う気が続くかぎりどこまでだって追える。
クローシェは思案の末、ドメスカを撃ち漏らして力を余らせる実力者たちを束ねて“影”の追跡を開始する。
追う道すがら、クローシェはほんの少し前を回顧する。
“影”との初邂逅を果たすまでの間、魔道具の指針を頼りにロギシーンを走り回る一行は謎の交戦音を幾度となく耳にした。道や建物に残る戦いの痕を目にした回数も相当だ。
その時は“影”を見つけることに夢中で深く考えていなかったが、あれは何と何が戦っていたのだろうか。
一方が“影”とゴブリンキングだとして、では、もう一方は……?
ゾクリと不快な感覚がクローシェの背中を駆け抜ける。
後ろばかり見ていると足が滑り奈落へ落ちてしまう気がしてクローシェは回顧を中断し、思考の先を前方に向ける。
逃げる“影”の残した足跡は、ヴェレパスムが偽りの生命に刻んだ瑕の深さを物語っている。足跡を消すだけの余裕が“影”には無い。
追跡に不可欠な脚は再調達した。振り切られる心配はない。
そして何よりミレイリの持つ魔道具の光は好ましい変化を遂げている。クローシェらと“影”の距離は確実に縮まっている。必ず追いつける。
背中に吹く追い風がクローシェの意気を大きく膨れ上がらせる。今のクローシェは意気が込むあまり、従者から止められるまでフィールドの奥に際限なくどこまでも“影”を追いかけてしまいそうだ。
気炎万丈のクローシェを“影”が平野の終わりで待ち受ける。
罠が仕掛けられている様子も、“影”に有利な戦場補正があるとも思えぬ雪に覆われるばかりの原を“影”が決戦の地に選んだ理由は皆目見当がつかない。
訝りながらもクローシェは道中で立てた博打まがいの作戦を実行に移す。
真実、命が懸かった決死作戦により、部下たちもロギシーンの実力者たちも次々に命を落としていく。
温かな屍を踏み越えてクローシェは進む。足を止めては犠牲が全て無駄になる。だからクローシェは進む。
死んでは進み、死んでは進み、あと一歩踏み込んで剣を撃てば“影”の核に届く。
それほど“影”を追い込み、そこまで深く踏み込んでおきながら、最後の最後にクローシェの剣は失速する。
核を狙うクローシェの前を塞いだのは数多のヒトを惑わしてきた女ドレーナだ。
ドレーナは迷いあるクローシェの剣に胸を貫かれてなおヘドロのようにクローシェにしがみつき、ドレーナのスキルでクローシェから魔力を吸う。
クローシェが暴れてもドレーナは離れない。ドレーナを引き剥がすのはどうやら無理そうだ。
だが、しがみつかれて魔力を吸われながらでも、打つ手はまだある。
壊れていないほうの腕は少しだけ動かせる。剣に込めるだけの魔力も残っている。そして何より探し求めた“影”の核が目の前にいて、構成員一体の背で昏昏と眠っている。
千載一遇の好機は、あるまじき己の迷いで逃してしまったが、死んでいった者たちのためにも、せめて一矢報いたい。
ドレーナの拘束によりほんの僅かしか自由の利かない身体を究極の効率で動かして刺突剣を投擲する。
だが、最後の一擲が何かを成し遂げることはなかった。
ドレーナとアンデッド。稀に見る組み合わせが想定不能の効果を生み出し、クローシェの手から離れた刺突剣を掴んで止める。
胸に大穴が空いたドレーナはやがて力尽きるが、ドレーナの拘束が完全に外れる前に残りの構成員がクローシェの拘束を完全にする。
生との別れを悟ったクローシェは、捨て台詞と分かっていつつも己の想いを言葉として残す。
ところが、“影”はクローシェの命を奪おうとせず、何か良からぬ魔法をクローシェにかけようと企み謎の試行を繰り返す。
『今度こそ終わりだ、クローシェ・フランシス!』
その一言により“影”の真の核が判明し、“影”がクローシェにかけんとしていた魔法も同時に明らかになる。
アンデッドの代名詞たる魔法ドミネートがクローシェの身体を本人の意志とは無関係に動かす。
“影”は構成員の死体を担いでフィールドを進み、構成員のひとりと成り果てたクローシェもまた死んだドレーナを背負って進む。
混乱と失意に沈むミレイリの嘆き声がドレーナを負うクローシェの背中に突き刺さる。
雪をかきわけて進むうちに四つの死体にかけられた変装魔法が解けていき、正体が顕になる。
ひとつ、ゴブリンキングの死体は魔法が解けてもゴブリンキングだった。
ひとつ、事前情報ではレッドキャットとされていた重馬の死体はブルーウォーウルフになった。倒れたグレータは確かに正体を言い当てていた。
ひとつ、別の重馬の死体はブルーウォーウルフアンデッドになった。
最後のひとつ、クローシェが胸を貫いた女ドレーナは魔法が解けてもドレーナに戻らず、ヒトの姿を保っている。
クローシェは困惑に包まれる。
さらにフィールドを進み、辿り着いたフィールドらしからぬ静かな場所でクローシェはまたも予想外の光景を目にする。
クローシェが核と誤認した女魔法使いが目を醒ましてクローシェの殺した女に縋り付き、涙を零して真の核を責める。
失意で忘れていた迷いがクローシェの心に甦り、困惑を増大させる。
最初は苦渋に満ちた声で女魔法使いに応えていた核だったが、感情的に追及されるうちに激情をさらけ出す。
怒りの下にあるヒトとなんら変わらぬ慟哭が、クローシェの迷いと困惑をまた更に増大させる。
核に殴られて地に転がり嘔吐くクローシェは、ついに気付く。
理解という名の釦を掛け違っていた。それも、どこか最初のほうで、とてもとても大きく。
◇◇
温かくも冷たくもない水の上にクローシェが顔を出し、萎んだ肺に冷えた空気を充満させる。
勢いよく吸った空気は胸に冷たい痛みを与えるが、空気を吸える安堵と心地よさが圧倒的に勝っている。
頭と胸を押し潰してしまわんばかりに強い不安はもはや無用だ。鎮静魔法でかき消しておく。
濡れた身体を拭いたら、肌が完全に乾いてしまう前に二つの外用剤を塗布する。
最初に塗るのは優れた吸水性と保水性で皮膚を潤わせる水分増加剤で、その上から塗るのが蓄えた水分の蒸散を防ぐ閉塞剤だ。
判定試験の絶食期間でクローシェの身体は潤いをとことん失っている。
穀物の摂取を断てばもっぱら肝臓や筋肉が水分を失って萎み、油脂を断てば皮脂分泌が減って肌がカサカサに乾く。
そうでなくとも乾燥から皮膚に機能障害をきたしがちな冬のこの時期、美容的な意味を抜きにしても皮膚の手入れを怠ってはならない。
最も乾燥しやすい四肢末端から始めて体幹部、顔面、頭頂部まで外用剤を塗布し、それが終わったら清浄な衣服に身を包み、その上に防具を纏う。
痩せたことで二回りほど緩くなった服と防具の装備が完了したら、身体を楽にして椅子に腰掛け、あらかじめ作っておいた、もといラムサスに作らせておいた細く湯気を立ち上らせる温かい粥を口に運ぶ。
「それで、結果はどう?」
最終結果を教えられるのが待ちきれないラムサスに問われた私は現状そのままを回答する。
「結果はまだ出ていない。今はまだ検算中だ」
「検算中ということは、暫定的にでも結果が出ているはず」
「それほど気になるならば自分で計算してみるといい。私の検算が終わるのを待つより、そのほうが早い」
「ううぅ……。数学は苦手だから、私が誤った計算結果を出すことで混乱を招いてしまう……かも」
式は初日に全て私が完成させてある。既に出来ている式に数値を代入したら、後は単純計算するだけだ。
分類としては数学かもしれないが、かぎりなく算数にちかい。
通常、算数に対する苦手意識はもっぱら計算力の低さから生まれる。
思い切った切り捨てが肝要となる魔法領域の学習とは異なり、苦手意識を言い訳に算数を敬遠するのは全く推奨できない。
計算力は元が低ければ低いほど演習で簡単に、しかも急激に向上させられる。
「どんな道を選ぼうとも、ある程度の計算能力は必ず役に立つ。全日程の分をやれとは言わない。本日分だけでもやろう。何も難しくない」
「式はとても長い。それだけで十分難しい」
ラムサスは不平を言いながら、さも渋々といった様子で計算に取り掛かる。計算速度はお世辞にも褒められたものではない。
そうこうしている間に私は全日程の検算を終える。しかし、ラムサスは一日分の計算がまだしばらく終わりそうにない。
私が下手なことを言うとラムサスは計算を途中で投げ出す。ここは何も言わないでおこう。迂闊な発言さえしなければ、小妖精はそうそう反応しない。
クローシェの方は一番粥を食べ終わった。粥と呼ぶには極めて薄い、熱しただけの湯に麦粉、草粉、出汁粉をそれぞれひとつまみか二つまみまぶした程度のものだ。製法の観点から言っても、常人的な感覚からしても、あれは粥と呼ぶのは少々憚られる。
ラムサスは事前に一口味見した際、『粥じゃなくて白湯!』と自分の食事になるわけでもないのに苛立った様子で感想を述べていた。自分で作ったのだから、実食せずともおよその想像はつくだろうに……。
そんな薄い一番粥でも、飢餓に曝されたクローシェの舌は鋭敏に滋養を感じ取っていた。
クローシェに時間と手間のかかる安全な飢餓からの回復法を用いる必要はないかもしれないが、苦労して入手した利用価値の高い手足だ。相応の理由もなしに危険な橋を渡らせずともよいだろう。
「ああん、ここ計算間違ってる。あっ、ここもだ……。うえぇ、仕方ない。やり直そう……」
ラムサスの計算はいつまで経っても終わらない。
急かさず満足できるまでゆっくりと計算させ、こちらはこちらで作業を進める。なにせ器用かつ自在に動かせるルカという手足を失ったせいで、やるべき作業が溜まりに溜まっている。
長々と時間をかけ、味わって一番粥を平らげたら、今度はクローシェを二番粥作りに取り掛からせる。
必要物品は前もって全部、机の上に並べてあるというのに、クローシェは食材と調理器具を前にしても空腹を感じるばかりで料理する自分を全く想起しない。
心得ていないクローシェが料理に開眼するのを未練たらしく待っても時間の無駄だ。私が主体的にクローシェの身体を操作する。
傀儡側の意識や経験を活かした受動的な操作を諦めて能動的に私が操作したらしたで今度はルカとの指の長さの違いが障害となり、極めて簡単なはずの作業にありえないほど躓き手間取ってしまう。
「できた!」
たっぷりと時間をかけて計算を終わらせたラムサスが誇らしげな顔でズイと答案を私に差し出す。
見ろと言われてもよく見えないのが私の目だ。横で別の作業に勤しんでいた目を引っ張ってきてラムサスの答案板を見る。
何度も何度もやり直してグッチャグチャになった途中計算に、フィールドを歩いていて廃墟を見つけたときに似た無常の念を抱く……が、効率的な計算法を教えたいのではないのだから、今そんなところに着目する理由はない。
私はできるだけ感情を込めずに頷き、それをもってラムサスの答えが私の導き出した答えと同一であることを伝える。
「なら、間違いないよね」
「ああ」
最終日よりも前、実験五日目にして、私はもう結果をほぼ確信していた。
設定していた対照群との差がもはや計算不要なほど顕著になっていたためだ。
「クローシェは“聖女因子保有者”だ」
因子を持っていたのは実験前の予想どおりだ。しかしながら、私の最大の期待には応えられていない。
クローシェは私の手足になってなお期待を裏切ってくれる。
私の鬱積を知ってか知らずか、ラムサスは至極簡単なはずの二番粥作りに手間取るクローシェを忌々しげに睨んだ。




