表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
185/214

第五八話 ■正■女■定■■ 第五日

 初日、その場所には清潔な桶が整然と立ち並んでいた。


 桶と桶を結ぶように(とい)が走り、樋を清浄な水が流れていた。


 火魔法の灯りに照らされた桶の群は酒倉に通ずる美しさがあり、傷心に彩りを添えた。


 目を(つぶ)れば穏やかな流水の音がじわりと沁み入る。


 それはあたかも好事家が敷地内に作らせた慎ましい憩いの場のようであった。それが今や様変わりしている。


 心地よい調べを奏でていた樋は無残に壊れ、桶はほぼ全て横出しになっている。横倒しの桶の口からは例外なくブヨブヨに膨らんだ藁束が半分ほど飛び出て、藁からは強く臭う濁った液体が流れ出ている。


 冬の寒さの中でこれほどニオうのだ。これで地下空間が汗ばむ高温だった場合は想像を絶する悪臭となっていただろう。


 たったひとつ、寂しく立っている桶の中に“影”が手を入れ、藁を引き上げて外に出す。


 藁縄を切り、ガサガサと藁をかき分けて内容物をまんじりと見る。


「死んだ」


“影”は無感情に最後の死を通告すると、藁をクローシェの眼前に突き出し中身を見せつける。


 それは、子供が初めて()ね上げた、窯で焼き上げる前の黒パンのようにグチャグチャで、とてもヒトとは思えない見た目をしていた。


 クローシェは、それが己の率いた部下の成れの果てだと分かっていつつも少しだけ嘔気を催す。


「従者の名前は全て忘れてしまったが、最後に死んだこいつだけは覚えている。最も重傷だったのに、最も長く生きた」


“影”の声が哀愁を帯び、感情の動きが乏しくなりつつあるクローシェの心を揺り動かす。


「グレータ……。我々との戦闘で生死不明の傷を負っていながら、よく生き残ったものだ。おそらくはマルティナが救命したのだろう。彼女の傑出した治癒師の才能は未だに我々を驚かせてくれる」


 ついさっきまでの耗弱と鈍麻が嘘のように殺意は猛り、クローシェの胸中で乱舞する。


 諦めることを知らないクローシェは、拘束以降一度も思うままに動かぬ己の身体を動かそうとして必死に指令を発する。


 暴れ狂う感情がどれだけ強く指示しようとクローシェの身体はピクリとも動かない。心拍数の増加、体温上昇、瞳孔径の拡大等の感情に結びついた自動反応が精々だ。


「従者は全員逝った。クローシェには剥がす爪がもう無い。切り落とす指も残るは一本だけだ。まだ右目は残っているが我慢だ。右目を潰すのは、こいつに両親を殺させ、血の一滴から肉のひと欠片(かけら)まで全て食わせてからだ。だから我慢だ……」


 我慢、我慢と呟き、身体を左右に激しく揺らす“影”の姿は見るものを不安にさせる。


 欲望を(こら)えるために両手を握っては開き、握っては開き、ひとしきり身悶えしてから落ち着きを取り戻すと、静かに言う。


「“罰”の開始から五日。予定では今日までが前半だった。本当はもっと長く楽しめたはずなのに、欲望のおもむくままに先走った結果、終わりはもう目前だ。考えなしに動いて後から嘆くのはお前も私も同じだな」


 自嘲気味に“影”が嘲笑(わら)い、クローシェの胸で光る蛍光石を見てはまた嗤う。


「なぜ怒る。自覚が無いようだから教えておこう。私に怒りを向けるのは責任転嫁だ。私はお前に選択肢を与えた。お前は彼らを救う機会があった。投げ捨てたのはお前だ」


 クローシェの罪を諭す“影”の横に構成員がひとり現れ、その場に土魔法で物を作り始める。


 魔法産物は天井方向へグングンと成長し、成人男性の背丈より少し高くなったところで伸び止まる。


 背の高い直方体が出来上がると、今度は直方体の表面に加工を施す。


 素地作りより少し長くかかった表面加工が終わり、完成品をクローシェの右目が見る。


 その瞬間、魔法の灯火(ともしび)がいくつも(とも)り、鏡面仕上げされた直方体が姿見となってクローシェの身体を鮮明に映し出す。


 顔の左半分には皮膚が無く、まるで解剖教本の筋走行図がごとく筋線維が剥き出しとなっている。眼窩にはまる白く濁った眼球は焼き魚の目さながらだ。


 顔の右半分には皮膚が残っているものの正常からはかけ離れている。


 口角は裂け上がり奥歯が見え、裂けて分かれた上と下、頬と顎の皮膚は青黒く変色してブクブクに腫れ上がっている。


 鼻は削ぎ落とされて鼻腔が直接、外界と繋がっている。


 頭は目方にして八割の毛髪が抜け落ち、死期の迫る老婆然とした寂しい眺めだ。


 首から下も頭部と似たような様相で、皮膚は三割ほどが剥がれ、残存する七割にも火傷、打撲傷、刺傷、切創、獣咬創がびっしりと刻まれている。


「ホーリエの邪悪な教えに染まった醜い内面にお似合いの汚い身体だ。オークやオーガならいざ知らず、ヒトの男で今のお前を抱きたいと思う者はいまい。……いや、待てよ」


“影”の声が一段高くなり、小膝を打つ。


「お前は亜人との媾合(こうごう)を嫌忌するどころか楽しんでいたが、亜人ではなくヒトの男、それもとびきりの醜男ならどうだ」


 さも名案を閃いたとばかりに“影”の口が早くなる。


「王都の奴隷市場は平時でも商いが盛んだ。しかも、このご時世、経済変動のあおりを受けて売買が普段以上に活発化している可能性は高い。陳列品をじっくりと見比べ、お前が最も醜いと思い、最も嫌悪した男にお前の相手を務めさせてやろう」


 嬉々として語られる“影”の案にクローシェの肌がゾゾゾと粟立つ。


 感情の動きに合わせ、蛍光石の光を変化させる。


「拒絶の色……やはり思ったとおりだ。お前が亜人たちの相手を嫌がらなかったのは、他種族の美醜が分からなかったからだ。そうに違いない。確かに考えてみれば、木や霊石で作った模造品は金を払ってでも受け入れるのに、いざ男から実物を受け入れろと迫られると途端に難色を示す女は多い。それと同じようなものだ。なるほど、これは気付かなかった。ヒトとして生きた私でもヒトの感性を正確に推し量るのは難しい」


“影”は感慨の深さを表現するかのごとくしみじみと頷く。緩やかな首肯動作とは対照的に高回転していた舌と口が更に速度を増す。


「“罰”は、そのままだと留まる所を知らずに膨れ上がる私の心に一定の区切りをつける、大切な儀式だ。お前にとっても(みそぎ)として深い意味を持つ。しかしながら、必ずしも生産的な行為とは言えない。はっきりいって夢がない。だからここは敢えて夢のある話をしよう。まだかなり先の話になるが、いずれは交配実験を行い、ハーフオークやハーフオーガ等の創出に挑戦したいと考えている。お前の頭の出来は褒められたものではないが、肉体の素養に関しては大いに見どころがある。私が管理すれば、自然環境下では決して生まれてこない交配種をこの世に生み出すことが可能だ。お前はヒトと亜人の血を引いた仔を作る技術的難易度が分からないだろうから、今日はそれについて教えてやろう」


 交配技術の何たるかを“影”は真剣に語る。




 異種交配。


 それは、一般に考えられているほど簡単なものではない。


 まず発情条件が種によって異なるため、雄と雌を同一の環境で飼育していても、必ずしも種付けには至らない。


 ヒト種のように通年発情しているのは稀で、基本的には気温や栄養など、いくつかの発情条件を満たすことで発情期に入る。


 発情条件を満たすように生育環境を調整し、発情期に入ったら雄と雌の動静を観察し、雌雄双方が互いを繁殖相手と見做すか相性を見極める。ここでは特に慎重にならねばならない。


 それというのも、発情とは一種の興奮状態であり、普段は温厚な種でも発情期には攻撃性が増し、繁殖候補や繁殖の競争相手を傷つけたり殺したりすることが稀ならず起こるためだ。


 無事、相互認容(ペアリング)が成立しても、次に待っているのは交尾行動の発生有無だ。ヒトで言うところの奥手な性格は様々な生物に見られ、雌が体勢まで作っても雄の側が二の足を踏んだり、怖くなって逃げ出したりするとか、行動に移ろうとはするものの、純粋に()()で成立しないことが多々ある。


 短期間でも馬丁や厩務員としてウシやウマの繁殖に関わった経験があれば、種付けの介助がどれだけ大変かよく分かってもらえるだろう。




 本番当日は少なくとも人手が五、六人は要る。


 事前に、当て馬、という現実の縮図のような切ない作業によって発情させておいた牝馬(ひんば)を所定の場所に連れてきて、そこに興奮気味の本命の牡馬(ぼば)(なだ)めに宥めて連れてくる。それから、牝馬と牡馬を正しく位置取りさせる。


 牝馬に二人から三人、牡馬に三人以上がつきっきりになり、さらに牝馬が初産ではなく二頭目以降、つまり既に母馬だった場合は母馬の目の届く場所で仔馬をあやしておく係も必要になる。


 仔馬の姿が長時間、見えないと母馬は不安になって暴れる。仔馬が目の届く場所にいても、仔馬をあやしているのが自分の嫌いな厩務員だと、これまた母馬は暴れる。


 食べ物に関しても世話人に関しても馬は何かにつけて好みがうるさい。


 種付けが始まり雄が雌にまたがっても狙いが定まらないときは、照準合わせを人の手で行うことになるのだが、これはかなり危険な作業だ。


 顔に思い切りかけられる程度はただの笑い話で、昂ぶった牡馬に全力で蹴られでもしたら命に関わる大惨事だ。


 種付け介助と聞いて無邪気に楽しめるのは介助未経験者だけで、経験者は基本的にゲンナリした顔になる。




 数々の難所を越えて種付けを一度、完了させても、越えなければならない壁はまだまだいくらでもある。


 一度で種が付かなければ、同じ作業を二度、三度と繰り返す。付かないうちに発情期が過ぎると、次の発情期まで時間経過を待たねばならない。


 首尾よく種が付いたら今度は母体内で胎児が育つかどうかに気を揉まされる。


 食の好みが変わった母体の体重が落ちないように、かつ胎児の発生と発育に問題ないように栄養に気を遣いながら食餌を与え、流産の徴候が無いか日々観察し、順調に育ったら、次に待ち構える難所が出産だ。


 周産期死亡という言葉があることからも分かるように、出産とは命懸けの行為である。異種交配では同種交配以上に危険なのは当然で、同種でも交配によっては危険度が大幅に増す。


 種があまりにも遠いと理論的にも現実的にも交配が成立しないのはある程度、直感的に理解できるだろうが、同種交配で何が危険かは説明されないと想像がつきにくいに違いない。


 例えばイヌの同種交配を例に挙げるとして、身体の小さな雌に大きい雄の種を付けると母体の限界を超えて胎児が成長し、出産時に母仔共に死んでしまったり、ひどいと出産前に子宮が破裂してしまったりする。


 オークやオーガとの交配種をヒトの女性に産ませるのが難しい理由は、母児の大きさの不均衡が理由として非常に重い。


 条件によっては同種ですら出産が事実上不可能という現実からも分かるように、近縁種だと種付けまではかろうじてできても出産、誕生までいかないことが多い。


 それら各種の不可能を可能にするのが薬学、医学、そして回復魔法と変性魔法だ。




「命と引き換えにヒトの女がハーフオークを産んだ事例は既にいくつか報告がある。しかし、ヒトの女がハーフオーガの出産に成功した事例は未だかつてない。妊娠中期までは問題なく進行する。難しいのが妊娠後期だ。この先、畜産技術が発展してハーフオーガの胎児を取り上げられる日が来たとしても、母体を生存させるには更に技術が発展するのを待たねばならないとされている。だが、我々の技術をもってすれば現時点でも、胎児と母体の両生存が期待できる」


 世界がまだ達成したことのない試みに対して自信をのぞかせ、“影”が不敵に笑う。


 聞き手を務めるクローシェは異種交配の苦労や技術難度を教えられても全く感情が動かない。


 己が被験者となるのだから気乗りしないのは当然としても、科学技術の発展に関心を寄せないようだと、指導者としての資質に疑問が残る。


「……つまらん。知性が足りないと、それがどれだけの偉業なのかすら理解できない。せめてハーフオーガ出産の素晴らしさくらいは分かってもらいたいものだ」


“影”が肩を落として何もない場所を二度、三度と蹴り、感動が共有できなかった無念さを動作で表現する。


「では、お前でも分かる楽しい話をしよう。ザダルラークという名の衛兵は知っているか」


 唐突に出された人物名に、クローシェの心理も思考も特に反応を呈さない。


 工作員としてマディオフの要人の名前を暗記しているクローシェではあるが、脳内人物帳にザダルラークの名はない。


 光らぬ魔道具を見て“影”が言う。


「知らないようだな。ザダルラークは、監獄で私の拷問を担当した責任者だ。拷問には色々と内規があるのだが、こいつは全く規則を守らなかった。おそらく、最終的に私が死刑の判決を下されると思い込んでいたからだろう。理由はどうあれ、私は監獄で視力、外性器、爪、耳、後は皮膚の何割かをこいつとこいつの馬鹿な部下どもに持っていかれた」


“影”が肉厚な金棒を手に取り、癇癪でも起こしたようにガンガンと地面に打ち付ける。


 静止していたクローシェの心がゆっくりと再動する。


「今、思い出しても腹が立つ。なぜヒト種は正当な理由なく、こうも簡単に規則を破る。規則、約束、契約、誓約、ヒトはいずれも守らない劣等種だ!」


 頑丈だった金棒も叩かれに叩かれてついに折れ曲がる。


 苛立ちの発散道具として用を成さなくなった金棒を“影”が無造作に投げ捨てる。


「実行犯の馬鹿共には“制裁”が必要だ。だが、最も重い刑を下すべきは、こいつらを操り間接的に私の肉体を奪ったゴルティアのクズ共だ。そこまでだったら、慈悲深い私はウィングリングの一掃までは考えなかった。最後のひと押しになったのはゴルティアが調略したはずのウリトラスを殺そうとしたことだ。あれで私は確信した。あの土地のヒトもどき共を生かしておく価値は無い。そしてクローシェ。お前の愚かさは私の確信を更に深いものにした。私はこの先、何があっても決してお前たちを許さん!」


 その日、熱を持つのは講義に入れ込む“影”ばかりで、クローシェは何を思うでもなく冷ややかに聞いていた。


 全身は痛みを訴えていた。しかし、能力が発動するほどではなかった。


 負の感情はあるにはあった。だが、身も心も疲弊していたせいか、感情が膨化して能力の発動に繋がることはなかった。


 ある意味、クローシェの心はここ数日で最も落ち着いていた。


 痛みにも暗い思いにも眩しすぎる意志にも踊らされることなくクローシェは穏やかに“影”の話に耳を傾け、その結果、心に新たな意志を宿す。


 能力が生み出す半強制的な意志ではなく、心と理性が冷静に生み出した自然な意志だ。


 自発意志が今までになかった方向へ救済の手を伸ばそうと試みる。


 それはクローシェの特性からすれば想定されて然るべき成り行きだった。


 然るべき想定をしていなかったがために、意志を光として反映させるべきか迷い、わずかに遅延が生じる。


 クローシェは魔道具の不自然な挙動に何も思わない。おそらくは光始めが遅かったことに気付いてすらいない。


「……恩だろうと仇だろうと、私は自分が受けた分に納得のいく利息をつけて返す。本当ならばヴィングリングに生きるサル共、全てに返したいところなのだが、ヴィングリングの面積と推定総個体数を考えると時間的な猶予がない。返報の対象は絞る」


 土魔法が、その場に新しい物体を作り上げる。今度は姿見ではなく等身大の人体模型だ。


 起立姿勢の模型の表層を“影”が刃物で薄く削ぎ落とす。


「私は度重なる実験と試行の末、特別な返報を作り上げた。実行班の中心人物であるゲイジ・ラソーダに是非ともその特別返報を行いたいところだったが、お前という不測の因子のせいで中止になった。返報は、ゲイジとお前の二人を除いた、残りの共犯者たちに行う」


“影”は模型の目を突き、耳を突き、鼻を突く。


 感覚器官を三つ潰すと、今度は四肢を離断する。


 人体模型は後方からの支持棒によって固定されており、正面から見るとあたかも胸像が宙に浮かんでいるかのようだ。


「目を潰そうと、耳を抉ろうと、鼻を削ごうと、四肢を断とうと、罰としては重くない。なぜなら、他地域と違ってヴィングリングには聖女がゴロゴロいる。私は元々、聖女を『善』や『正義』に属する存在とは認識していない。聖女たちは己の行動がどれだけ社会に(ゆが)みを生じさせているか顧みない、自己の欲求に従って治したいものを治す社会悪だ。良かれとの思いで悪をなす、要はお前と同じだ」


“影”が(おもむろ)に胸像の左前胸部に手を突き刺す。


 手は深々と沈み、手首まで完全に胸の中に入る。


 そのまま数十秒経過した後、“影”は胸像の胸から手を抜いて言う。


「聖女の魔法も万能ではない。欠損修復魔法は潰れた目も断たれた肢も治せる。無論、焼けた皮膚もな。だが、治せない損傷もある」


“影”はクローシェの眼前に立つと、手尖のピンと伸びた右手をクローシェの左胸に当てる。


 刃器を模した“影”の手は胸の脂肪を押し潰して沈み込み、先端が肋骨骨膜にゴリと当たって止まる。


「科学や技術に対して敬意を払っていないお前だ。聖女に治せない損傷がなんなのか想像もつかないだろう。どうだ。身をもって学んでみたいか?」


 白く濁った“影”の目がクローシェの目を覗き込む。


 内臓を暴かれる恐怖、死体保存処理(エンバーミング)の化学臭に血と腐敗の臭い、乾いたアンデッドの手が胸を突き刺す痛み。


 クローシェの心臓がバクバクと強く早く打ち、肌から汗が吹き出し、口内がカラカラに乾燥する。


 クローシェが想起しているのはただひとつ、拍動する臓器の摘出だ。


「違うぞ、クローシェ」


 胸に突き立てた手を“影”が引き抜く。


「心外だよ。心臓を抜き去り対象をあっさり死に至らしめて満足すると思われていたとはね」


 右へ左へ彽徊(ていかい)しながら“影”が己の懐に右手を差し入れ、そして引き抜く。そこには身体をがっしりと握られる一匹のネズミがいた。


「特別返報が対象に与えるのは死ではない。苦しみを伴う適度な負荷だ」


“影”の左手が、握りからぴょいと飛び出したネズミの後肢一本を(つま)み、右手と左手がゆっくりと離れ始める。


 摘まれたネズミの後肢が無理矢理に伸ばされる。筋、腱、関節、皮膚の限界はすぐに超え、それでも更に伸びてついにぷつんと切れる。


 ジワジワと血の滴る後肢断端を、横に現れた構成員の小さな火魔法が炙る。


 四肢のひとつをちぎられ、断端を焼かれたネズミは、顎から前肢からがガクガクと震えている。


「生者は生きているからこそ苦しむ。時に苦しみの果てに困難を乗り越えて強くなり、時に乗り越えた代償として弱くなる。乗り越えられずに死ぬこともあるだろう。力を得るも、力を失うも、生存競争から降りるも、全て対象次第だ。対象は結果を選ぶ自由がある。我々は特定の結果を強制しない」


 止血が完了したネズミを“影”が無造作に投げる。


 ぽてんと地に落ちたネズミは肢一本の先端が欠損しているとは思えないほどの速度でその場から走り去る。


「これから浄化の進むヴィングリングの地で、対象個体が聖女ですら治せない損傷を乗り越え強さを得たならば、私はその個体の生を認めよう。それだけできるならば選別落ちのサルとは呼べまい。ヒトとして十分合格だ」


“影”が力強い動きで天に腕を突き上げ、そして振り下ろす。


 振り下ろした先にあるのは、ぽつんと浮かぶばかりだった胸像だ。


 退屈を持て余していた胸像が大きな音を立てて砕ける。


「怠惰に“罰”を与えるだけの緩やかな日々はもう終わらせる。終幕を飾るのは、最後まで取っておいたお前の()示指(ひとさしゆび)の離断だ。日数は予定よりずっと短くなってしまったが、その分、内容は充実していた」


 語られる“罰”の最終工程にクローシェの理性が強烈な違和を感ずる。


 思考は疑義を正すべく、けたたましく警報を鳴らす記憶の扉を次々に開けていく。


“影”の右手がクローシェの左示指を握り、乱暴に捻り上げる。


 痛みが記憶の照合作業を妨げて思考を瞬間的に空転させる。


 空転はすぐに治まるものの、もう照合作業には戻れない。代わりに、これから己を待ち受ける痛みの想定作業が自動的に始まる。


「明日からまた忙しくなる。ゴルティアに帰還する前にまずやらなければならないのが、お前らがロギシーンに残した汚染の除去だ。洗脳されたロレアルの残党は全て排除する。脱洗脳(リフレッシュ)もやろうと思えばできなくはないが、なにせ数が数だ。そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。効率的に動かなければ。除染完了後にどうするかは悩ましい。アッシュの試料採集(サンプリング)が絶望的となると、マディオフの地固め作業は思いきって全面的に中止し、行方を(くら)ましたホーリエの足跡を探すか……。奴があの程度で死ぬわけはない。もっと早く表に戻ってくると思ったが、今どこで何をしている……」


 ブツブツと独語を述べながら“影”は薄切器(スライサー)にクローシェの左示指を固定していく。


 不器用なアンデッドの手が、指の固定という細かい作業の中で何度も何度も同じ失敗を重ねる。


 固定作業に時間がかかればかかるほどクローシェの恐怖は肥大化していく。


「やっとできた。いいか、クローシェ。これでお前は全ての指を失う。我々がお前に対して行ってきたのは“罰”であり脱洗脳(リフレッシュ)であり我が手足になるための更生課程でもある。正真正銘、これが最後だ。たっぷりと堪能するがいい」


 薄切器(スライサー)に備え付けの取っ手(ハンドル)を“影”がゆっくりと手回しする。


 しゃきん。


 しゃきん。


 しゃきん。


 鋭利な刃と刃の擦れ合う音がクローシェの耳に突き刺さる。


 音がひとつ鳴るごとに薄切器(スライサー)はほんの僅かに前へ進む。


 最初に伝わったのは金属の冷感だった。


 冷感に少しだけ遅れてとびきりの熱さと痛さが左腕を上行してクローシェの脳髄を灼く。


 ずりゅん。


 ずりゅん。


 ずりゅん。


 肉の断ち切れる鈍い音がひとつ鳴るたびに新鮮な痛みが頭の中で雷鳴を轟かせる。


 ごりん。


 それまでとは違う音、鈍い衝撃、指先を支える末節骨が、軟部組織とは毛色の異なる痛みを発する。


「末節骨、中節骨、基節骨……残工程がたったこれだけと思うと一抹の寂寥感がある」


 ()()びに浸る“影”の言葉はクローシェの思考まで届かない。


 骨の断たれる音と過剰なほど強い痛みがクローシェの脳に強烈に作用し、音の言語処理を阻害する。


 因子が発動して高い疼痛耐性が脳と身体を守るその瞬間までクローシェの悶絶は続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] クリフォードに性的な目で見られるのをあんなに忌避してたのに、ドミネート下のクローシェを亜人と交合させた主人公は拷問でハイになりすぎて頭がどうかしてたのでしょうか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ