第五七話 ■正■女■■■■ 第三日
静かな空間にゴクリ、ゴクリと嚥下音が木霊する。
クローシェが飲み下している液体にはドロリと粘り気があり、舌に残る味だけでなく鼻腔を通り抜けるニオイからして刺激的に苦い。
粘稠性の高さゆえに液体は胃までサラリと速やかに流れ落ちない。口、喉、食道を執念深く灼き、胃に達してなお存在を自己主張する。
打撲傷とも切創ともまた異なる、熱傷に類似した痛みがクローシェの全身を荒々しく駆け巡る。
熱く苦い液体をやっとの思いで飲み干したクローシェが呼吸を荒らげる。息苦しさから自動的に頻回となっているその呼吸はイィー、イィーと経年劣化によって癖のついたふいごのような、奇妙な音を伴っている。
液体の持つ、炎症惹起、という危険な特性により粘膜各所が尋常ならざる腫れ上がり方をしており、狭まった気道が呼吸を妨げ、それが喘鳴となって表れている。
クローシェの手から空になった容器を“影”が奪うように取り、苛立った素振りで中を見る。
「内容の選定、材料の調達、製作、温度調整、そして最後に実飲。水分補給ひとつ取っても“罰”は骨が折れる」
しみじみと語る“影”の言葉は痛みと呼吸困難に悶えるクローシェの頭にほとんど入っていかない。
「刺激が強すぎると反抗的なお前は痛みも苦しみも克服してしまう。かといって水を飲ませないわけにもいかん。ヒトは、飢えに数週間耐えられるが、完全な渇きには一週間と耐えられない。生かさず殺さずお前に水分を補給するのは、繊細さの求められる作業だ」
独り言の領域に片足を踏み入れている語りを“影”は続ける。
「思えば、お前への“罰”は失敗の連続だ。普通は異種との目合を嫌悪するものだというのに、お前はオークを相手にしても快感を得るばかりで嫌悪も恥辱も感じない。オークからレッサーオーガに相手を変えても結果は同じ。寸法の不適合に起因する痛みはそれなりでしかなく、単純に疼痛を目的とするならば、はるかに手っ取り早いやり方がいくらでもある。手間を考えるとまるで割に合わない」
“影”が深く大きく息を吐く。演技でも誇張でもない、心の底から疲れを吐き出す真実の溜め息だ。
「お前は我々に身体を支配されてなお何度も期待を裏切る。閉口させられるよ、本当に……。だが、相手の選定に関しては我々の期待の方が間違っていたと認めざるをえない。愚かなウィングリングの家畜共は多種族融和の理念を掲げている。家畜の視点で評価するならば、亜人との交わりを厭うどころか悦んでいたお前は理念の先駆的実践者と言える」
“影”がユラユラと歩いて桶の横へ行き、膨らんだ藁束を引きずり上げてクローシェの前に放り投げる。
水を吸って重くなった藁束がドシャリと冷たく鈍い音を立てる。
「お前が自省というものを知っていればそいつは死ななかった。これで生存率は八割を切った。加温してある水でも、体力が低下しているとこれだけ早く低体温症から死に至る。我々も新しい知見が得られた」
“影”は別の桶に腕を入れ、藁束を数回小突いて内部の状態を確認する。
「お前の指と同じで、こいつらは事前の想定よりもかなり早く全滅しそうだ。そうなると、新鮮味のある“罰”がない、講義だけの、しまりに欠けた日が来てしまう。……やれやれ、仕方がない。講義も前倒しで消化していくか」
未だに喘ぎ、話を聞くどころではないクローシェの身体に魔法がかかる。
魔法は、粘膜腫脹を引き起こしている原因物質を活性の無い状態に変換する。原因が取り除かれても腫れが直ちに引くわけではなく、息苦しさが軽くなるには多少の時間がかかる。
その時間を見越し、“影”は世界の歴史を簡単に振り返るところから講義を始める。
かつて世界は現代よりもずっと盛んに戦い、争っていた。戦争は時に国を滅ぼし、時に国と国を融合させ、時に新しい国を生み出す。
近現代では滅ぶ勢いが興る勢いに勝って国の総数は次第に減り、代わりに一つひとつの国が巨大になっている。少なくとも巨大な乾燥帯以北では。
乾燥帯は“砂”の通称で呼ばれており、人々の往来を拒む関門に似た役割を果たしている。特にジバクマの南側において“砂”はただ乾いているのみならず高熱を帯び、“熱砂”と畏怖されている。
“砂”の南は、北とは比べ物にならないほど世界が広い。ただし、北と南、両方の世界を経験した者はほんの少数しかおらず、南の最新事情を知っている者となると更に少ない。南の世界における国家数の推移など、いち民間人の知るところではない。
北世界で覇権に最もちかいとされているのがゴルティア公国だ。国の名が示すとおり、ゴルティアには貴族がいて、爵位持ちの諸侯が領地を治めている。
国全体で見た場合、単一の君主はいないため、公国ではなく連合公国を名乗るべきという意見が根強く存在する。しかしながら、肝心のゴルティアを統べる者たちが正式名称の変更に関心を示していないため、ゴルティア公国の名で通して長い。
名前が実情に即していようがいまいが、国があればそこには民がいる。民とは噂を好むものであり、そして噂と陰謀論は実に親和性が高い。ゴルティアで語られる陰謀論によれば、ゴルティア公国には国の内外に公示されている貴族とは別に真の支配者たち、いわゆる黒幕のような者たちがいて、彼らが国を操っているとされる。
噂の中でこの黒幕たちは極めて精力的に活動し、それが国家繁栄を驚くほど効率的に阻害している。
この黒幕たちを指す“ギキサント”という符牒はゴルティアの民の間によく浸透している。お伽噺として子供たちに高い人気を誇る“四勇者”や“精霊殺し”と比べても勝るに劣らない知名度があるのだから、隠語の域から逸脱している。
では、有名ならば深く信じられているかというとそんなわけはなく、大半の大人は噂を噂と聞き流す。
だが、陰謀論に強い関心を示し、真相究明に向けて奔走する者が常に一定の割合で存在する。マディオフの王族の呪い私的調査団諸氏にあたるのが、ゴルティアのギキサント調査団だ。
探偵たちの一部は事実関係を捜査するだけで満足せず、社会に影響を与える行動に出る。
「陰謀論の是非については忘れるとして、大きな発言力を持った支配者気取りの権力者たちが貴族以外にもいるのは事実だ。ここでは貴族も貴族以外も、彼らをまとめてギキサントと定義しよう。では、ギキサントの枠組みが大まかに決まったところで、クローシェ。アウェルとは何を目的とした集団か分かるか?」
通常の呼吸に復帰したクローシェの心中に、アウェルとギキサントに対する交々の思いが浮かび上がる。
ゴルティアの建国理念のひとつ、多種族融和。
それは決して目的ではなく、あくまでも過程や手段と位置付けられている。
過程があるならば最終的な目標もまたあり、それは簡潔に言うと『人類の存続』である。
前提に多種族融和あるからこそ、人類はヒト種のみならず、ドレーナやヴィポースといったヒト型吸血種を当然に含んでいる。
さらに、蜥蜴人や人狼も人間、ゴブリンやオークなどの亜人も、果ては四脚の魔物やアンデッドですら知性を有し共存共栄ができれば人間なのだから、間口の広さは他国に類を見ない。
その多様性の概念はあまりにも先進的すぎて国内から高支持を得ているとは言い難く、ましてや国外ともなると評価は落ちに落ちる。建前がどうあれゴルティアは覇権主義国家であり、長年友好関係を維持している国以外から好かれる道理はない。
さて、内外から上がる不満の声や痛烈な批判を黙殺するゴルティアは、はたして本当に融和が上手くいっているだろうか。
何をもって融和成功と考えるかにもよるが、ゴルティア全国各地の人口構成内訳を見て、多種族融和に成功していると判定する者は稀と思われる。
分かりやすいのが、厳密に規定されたヒトの居住区だ。ゴルティア公国の臍にあたる国土中央、ヴィングリング地方がそれである。
ゴルティアに生きるヒト種の人口はマディオフ、ゼトラケイン、ジバクマ三国を合計した数に匹敵する。ヴィングリング地方はそれだけの人口を、ゆとりをもって抱えられるだけの面積がある。
各貴族領と違ってヴィングリング地方だけは領主がおらず、民主的に選出された首長が最高権力者となって域内を自治、運営している。
全方位を貴族領に囲まれて他国から直接侵略されるおそれのないこの土地は大きな後退を経ることなく長年、成長の道を歩んできた。
ヴィングリングの科学力や総人口、総生産力はゴルティアの国力も同義で、ヴィングリングが安定して成長してきたからこそ、ゴルティアは勢力も国土も拡大を続けてきた。しかし、ゴルティアの勢力拡大速度は年々鈍化している。
ここまでが一般的な社会常識で、ここから先は人によって見解が分かれる。
企業だろうが国家だろうが右肩上がりの成長はいつまでも続かない。いつかどこかで頭打ちになる。成長の終わりは当然のことだというのに、必ずしもそれで納得しない者がいる。
ギキサントの存在と暗躍を信じて疑わない陰謀論支持者たちは、ゴルティア成長鈍化の原因が、ギキサントによって成長を阻害されているためと考える。
ならばギキサントを排除しようと思うのは自然な流れであり、アウェルはギキサント打倒を目的として、信念ある有志たちによって設立された秘密結社だ。
「お前の迷妄ぶりを見たかぎりでは、誰かからそういったいかにもありそうな嘘を吹き込まれ、その赤嘘を信じきっているとしか思えない。もし、お前にまともな知性があれば、せっかくホーリエと接点があったのだ。アウェルの目的がギキサント打倒ではないことくらい簡単に分かったはずだ」
組織は規模が大きくなればなるほど利害が複雑に絡み合う。大きな組織が複数、関与する場合、交錯する関係性を正確に認識するのはほとんど不可能になる。
たとえ最初は円満に協力していたとしても、時間経過に従い意見や方向性の違いが目立つようになるのが通例だ。
歪みが小さなうちは簡単な話し合いで歩み寄りを模索できる。しかし、利害関係者が増えると折衝は急激に難化する。話し合いは次第に各員が各員の利益や都合を主張するだけの場となり、譲歩から遠ざかる。
いつ大崩壊を起こすともしれない巨大な歪みを抱えながら、それでも大抵は関係が続く。
退くも進むもできなくなって往生した利害関係は、場合により当事者よりもむしろ外部の第三者のほうが容易に調整できる。
「ゴルティアの力ある欲深き者たち、つまりはギキサントから一定の独立を保って利害を調整し、全体破滅に繋がりかねない大崩壊を回避する。それこそがアウェルの目的であり役割だ。アウェルにとってギキサントは敵でも味方でもない」
おそらくはホーリエ・ヒューランも大崩壊を願っていない。けれども、彼女には特定の権力者の息が濃厚にかかっている。アウェルとは現在でも提携を続けているかもしれないが、背景を考慮すると正式なアウェルの一員とは到底、言えない。
そんなホーリエからクローシェは、アウェルの存在理由も詳しい利害関係も細かな事情も、まるで教えられていない。
「お前がユニティの部下たちに何も教えず生命を使い捨てたのと同じだ。ホーリエにとってお前は腹心の部下でも信頼に足る仲間でもない。知性の低さゆえに“真実”を教える価値は無く、しかしながら、低知性だからこそ御すに容易い捨て駒だ」
ずっと閉じているばかりだったクローシェの両目が開く。
右の目に映し出されるのは代わり映えしない、仄暗い空間だ。
左の目は開眼しても像を明瞭に結ばない。朧な光が目に入っていることはかろうじて分かるが、それ以上の情報は得られない。見るための感覚器官でありながら、視覚情報よりも開眼に伴う疼痛情報のほうがはるかに多く脳に入力される。
視力の保たれたクローシェの右目が見るは、“影”の手がぶら提げる破邪の魔道具ヴェレパスムだ。
ホーリエの安否不明な現状では、ヴェレパスムが形見となる可能性は否定できない。目的を共有する同志としての関係性に揺らぎが生じている今でもクローシェはヴェレパスムに強い思いを抱いている。
大切な魔道具だというのに、“影”はそれをあたかも雑貨露店で買った安手の玩具かのようにぶらんぶらんと弄ぶ。
「今も昔も私はホーリエと直接相対したことはない。記憶の混乱による活動準停止期間もあった。だが、ここ数年の活動は十分に世界の注目を集めた。ホーリエがこちらの正体に気付いていなかったとは考えにくい。奴は我々の正体に気付いていながら、切り札として取っておくからこそ価値が最大化するヴェレパスムをあっさりと使った。アウェルとの提携を完全に終了したのか、はたまた権力者たちの勢力図に予測困難な変化でも生じたか……。空白期間のせいで我々はとんだ情報弱者になってしまった。調べるべきことが山ほどある」
クローシェは、講義というより愚痴にちかくなっている“影”の呟きに耳をそばだて、真否不明の情報を真剣に考察する。身体を蝕む疼痛は彼女の思考を妨げられない。
口や喉などの上部消化管は腫れが引き、痛みもほぼ消失している。しかし、それ以外の場所は改善していない。それ以外の場所とは、即ち全身である。
身体全てが発痛器官となってしまったのではないかと錯覚してもおかしくないほど、あらゆる箇所が多彩に痛む。
低温が作るかじかむ痛み、高温が作る火傷の痛み、刃器が作る切創の痛みと刺創の痛み、鈍器が作る骨と筋の痛み、生皮を剥がされた痛み、皮を剥がされてむき出しになった肉に塩を擦り込まれた痛み、齧り取られた痛み、抉られた痛み、視力の激減した片目の痛み、聴力の低下した片耳の痛み、疼くような陰部の痛み、吐き気と隣り合わせの得も言われぬ内臓の痛み、実に多種多様だ。
常人であれば思考は死に囚われ、他は何も考えられなくなる。それほどの痛みに曝されながら、それでもクローシェは考える。
痛みを跳ね除け、どれだけ集中しても思考材料の絶対的な不足は否めない。新情報を何遍、多角的に検討しても、出せて暫定的な判断で、完全な結論は下すに下せない。
ヒトは足りないから求める。クローシェの心は新しい中核情報を求めて、渇望一色に染まっている。
「ギキサントにもヒトの構成員が少しだけいる。しかし、そいつらもヒト種の繁栄は大して願っていない。心地良くふんぞり返っていられる縄張りさえ維持できれば後はどうだっていい。拡大路線を貫くゴルティアの軍人が異国の地で何人死のうが気に留めやしない。なんなら、中の安寧を保つという意味では、拡大しないほうがいいくらいだ。そして、仔細は違えども、拡大路線が純粋な『種の保全』にさして有用でないという意見には我々も強く賛同する。だからこそ、こうやって不穏の芽を潰して回っている。ロギシーンへの対応はかなり遅れてしまったがな……」
戦うには、戦う相手、つまりは敵の存在が欠かせない。“影”が、クローシェの思い描いていた絶対の敵にどうやら該当しないことは既にクローシェ本人も分かっている。
“影”の言い分をそっくりそのまま信じるならば、“影”はアウェルの一員として活動している。ギキサントと敵対関係ではなく、それでいてゴルティアの軍事行動を妨害し、しかもホーリエと反目している。
これでホーリエがクローシェにとって真の同志であるならば、クローシェもホーリエに倣って“影”と対立すればいい。
では、ホーリエが本当にギキサント側の人間だった場合、クローシェにとって誰が手を組むべき相手で、誰が邪魔な存在なのか。どう動けば最良の未来に繋がるのか。
それらを考えるには、講義を聞いてもなお情報がまるで足りない。
「改めて考えるとホーリエの選択は中途半端だ。クローシェにヴェレパスムを持たせた程度で我々を殲滅できるとでも思っていたのだろうか。仮に殲滅できたとしても、己の立場は確実に苦しくなる。あの聖光が奴なりの絶縁状だとして、そこから先、どうやって事を収拾させる気でいた。……絶縁状ではなく、挑戦状と解釈もできる。誘いに乗って正面からぶつかるか、それとも少しばかり時間をかけて舞台裏から奴の狙いを探るか……」
講義だった語りは愚痴の段階を通り過ぎて“影”の独り検討会の色を帯び始める。
攻撃姿勢なくブツブツと呟く“影”を見たクローシェは希望を膨らませる。
変化させた光に“影”が鈍重な反応を示す。
「ん……?」
“影”が独語をやめ、スルスルとクローシェの前に寄ってきて胸に手を伸ばす。
クローシェの首から下がる魔道具の色に“影”が目を細める。
「何か勘違いしているようだが、ホーリエがよほどのことを企んでいないかぎり私がヴィングリングの出来損ない共に“罰”を与える方針に変わりはない」
魔道具の前面中央には、よく目立つ蛍光石がはめ込んであり、それをクローシェの主たる感情に従い様々な色で光らせている。
攻撃的な感情を抱いたときは赤、悔いたときは緑、恐れたときは橙、迷ったり不安になったりしたときは黄色、等などだ。
蛍光石は今、青く輝いている。青が対応しているのは前向きな心や希望、期待といった感情である。それはつまりクローシェが反抗する度、蛍光石が青く光るということでもある。
誤りを指摘されても光量は落ちない。なぜなら、クローシェの感情が一向に弱まらないからだ。
「お前がゴルティアの同胞をどれだけ救いたいかよく分かっている。そして、その情けの心が決して同胞の命を救うことにならないと私はもう何度も説明した」
“影”は魔道具から手を離し、元の立ち位置にユルユルと戻る。
「いい加減、諦めを覚えろ。ホーリエがアウェルに反旗を翻したのであれば、我々の行動如何によらずヴィングリングのヒト種の個体数は激減を免れない。お前が反抗しようがしまいがヴィングリングの未来はそう大きく変わらない。ほぼ確実に一定の範囲に収束する。敢えて陳腐な表現をさせてもらうと、それが運命というものだ」
空の見えない地下空間で“影”が天を仰ぐ。
「極論、ホーリエが無実であってもヒトは死んでいく。これから先、困難は全ての人間を襲う。権力者たちですら完全な回避が叶わない、これもまたひとつの運命だ。困難の降りかかり方が平等とか公平といった概念からかけ離れている点がお前にとっては我慢ならないのかもしれんが、強者が弱者を糧にするのは東天教の理念に反していない」
水圧は低い点、深い点においてより高くなる。水圧と同様、選択圧は下方になればなるほど強くなる。要は、弱い者ほど強い圧に曝される。これは誰が定めたものではない、古から続く世界の真理だ。
広義の人間という枠組みの中では、ヒトは最弱の位置こそ免れているものの、それでも下から数えたほうが早い脆弱な種族である。
これでアンデッドのようにごく少量の資源しか要求せずに存在し続けられるならまだしも、ヒトは偽りの生命ではなく真の生命を持つがゆえに屈強頑健な種と同等に多量の資源を要求し、だからこそ圧が自ずと強くなる。
「先に述べたようにアウェルの目的は利害調整だ。ヒト種が大量に生き残ったら生き残ったで、利はあまり増えずに害ばかりが増大し、結局はなんらかの調整が必要になる。自然が間引くか、我々が間引くか、それだけの違いでしかない」
クローシェが人為的な間引きを肯定するわけがなく、疼痛が閾値に届いてもいないのに正義の心を燃え上がらせる。
感情の強さを蛍光石の光として反映させる。
「聴講者の知力に合わせて、講義は分かりやすさに重きをおいたつもりなのだが、お前はどこまでも反抗的だ。お前が闇弱ぶりと歪んだ倫理観を晒せば晒すほど、汚染除去の正当性に関する私の確信は深まる」
“影”が腕を前方に突き出し、拳をギリギリと握り込む。
「“真実”を教えられても、お前はヒトを救う名目でヒト殺しに走ろうとする。罪を重ねる一方だ。未来永劫、罪を償おうとしない。たとえ償いきれない罪だとしても、せめて向き合え!」
空を掴むばかりだった“影”の拳が開き、ローブの中から一振りの剣を取り出す。
“影”は鞘を持ってクローシェの前に剣を掲げ、クローシェの右手が剣の柄を握る。
痛めたはずの右手を動かすことにクローシェは恐怖したものの、肩に痛みが走ることはなく、予期恐怖は行き場を失って彷徨う。
クローシェは忘れている。二日前の実演を。
予期恐怖や記憶はどうあれ、鞘から抜かれた剣はクローシェの手に実によく馴染む。
手が道具を掴んだというよりも、失っていた身体の一部を取り戻したかのような、実にしっくりとくる自然な感覚だ。
「先日、私はお前にクズと言った。あの発言は撤回しよう。今は私も分かる。お前は本来、情の深い人間だ。ホーリエはそこに目をつけた。情けや愛をヴィングリングのヒトにだけ向けるよう、思考を操った。私はそれを脱洗脳しよう。ヴィングリングにヒトがいるからお前は延々、過ちを繰り返す。あの土地に生きる選別落ちの不良個体たちはお前の原罪だ。だから、お前が殺せ。我が手足としてできる罪滅ぼしだ」
同胞殺害を教唆され、身体と一体化していたはずの刺突剣が急激に重さを増す。
「贖罪の道を示されても青い光は出ず、か……。脱洗脳までの距離はなかなかに遠い」
定点に立つばかりだったクローシェの足が動き、一歩を踏み出す。
動作の発生により、静止時には無かった感覚がクローシェの脳に入力される。
右足から伝わる激痛は、靴越しでも皮膚越しでもない究極の素足で土を踏む感覚とほぼ同一だ。
二歩目、左足から伝わる感覚は右足と全く異なる。
最初に踵が接地し、次に接地するのは中足骨遠位端に相当する部位、足趾の付け根だ。足の状態が正常であれば、最後に足趾先端が接地し、つま先に体重が乗る。
身体を様々にいじられたクローシェは強く踏み込んでも、つま先から返ってくるはずの地を押す感覚が返ってこない。
二足歩行を始めてから二十数年、なんの不自由もなくできた当たり前の歩き方ができずにクローシェが体勢を崩す。
クローシェの無様な歩行を“影”がくつくつと笑う。
「趾が無いと歩きづらそうだな。せっかくだ。ついでに手の様子も見てみるがいい」
クローシェの左腕をグイと前方に上げ、クローシェからよく見える位置に左手を置く。
クローシェの右目が見るのは、不格好な杓子のようにゴロンと丸い掌だ。細く、長く、よく動いた五本はどこにも見当たらない。
手の状態を視覚で改めて認識した途端に、指から伝わる痛みが急激に激しさを増す。
「どうだ、痛いか。知っているだろうが、それが幻肢痛だ。無いはずの手足が訴える痛み……私も何年も苦しんだ。幻肢から伝わってくるのは痛みばかりではない。物を握る感覚、剣を撃つ感覚、魔法を構築する感覚。実在していないのに、実の腕以上に生々しい感覚が得られる。不思議で、そして厄介な現象だ」
痛みに由来する恐怖とは質の異なる、吐き気を催す恐怖がネットリとクローシェにへばりつき、全身を冒していく。
「魔道具の色が変わった。怖いか、クローシェ。だが、安心しろ。手指や足趾の喪失により運動能力と戦闘力がガタ落ちとなるのはスキルが満足にない場合の話だ。私の手足として動くかぎり不自由はない。戦闘力が低下するどころか、今まで以上の戦闘力を発揮できる」
クローシェは、右手に握っていた刺突剣を左手に持ち替える。
左手に触れた剣の柄がピタリと手掌に吸い付く。指を使って握り込まずとも剣と左手はしっかりと繋がっている。
そのままクローシェは何もない空間に向かって突きを二度、三度と撃つ。
五本の指で握り込んだときほどの安定感はないが、それでも剣はすっぽ抜けることなくクローシェの動作にきちんと追従する。
指を使って握りしめずとも、手掌を丸め込むことで刺突剣の細い柄ならば半分強は握り込める。
手掌をグッと丸めた状態でまた突きを数回撃つ。
“断崖踏破”によってもたらされる接着力とも相まり、剣と手には戦いに十分耐えられるだけの安定感が生まれる。
「多少の欠損は必ずしも戦闘の不利にならないことが実感できたはずだ。お前にとっても私の手足に加わる利点は無数にある。これはその証明のひとつだ」
試し撃ちを終え、剣を右手に持ち直してクローシェが歩く。
進んだ先にあるのは桶だ。
クローシェは桶の真横に立ち、右手を頭上に掲げて下向きに剣を握る。
恐怖、抵抗、反発心、そして“影”への憎しみ。
様々な感情が胸の中に乱流を作る。
「私の予想は何度も外れた。従者たちの死に方もそうだ。私は最初、彼らの大半が溺死すると思っていた。しかし、ここまで誰も溺死していない。死因は全て低体温症だ。このまま全員、低体温症で死んでいくのだろうな、とさっきまでは思っていたが、ここで第三の死の可能性をお前に問う。決定権はお前にある」
“影”が音もなくクローシェに近づき、薬品の臭気を濃厚に放ちながらクローシェの耳元で囁く。
「お前はこれから従者たちに剣を刺す。なに、どうせ全員死ぬのだ。遅いか早いかの違いだ。もし……もしもだ。万が一、お前が従者たちを救いたいと思うのであれば、反省しろ。自らが犯した罪を深く悔い、ヴィングリングのゴミ共を粛清すると心に誓え。正しい思いは魔道具を紫に光らせる。一瞬だけ微かな光を放っただけではダメだ。持続的に眩く光り輝いたとき、私はお前が反省したと判定する。さすれば私は注水を即座にやめ、まだ息のある従者たちに治療を施して生きたまま解放する」
魔道具という付帯条件が加わった以外、解放条件の大筋は初日と同じだ。大きな違いは、条件が達成できない場合、クローシェが自らの手で従者たちの命を奪うことである。
解放条件達成に必要なのは感情制御だけで、他には何も要らない。
しかしながら、感情を完全に制御できる者などいない。反省もそれと同じで、しようと思ってできるものではない。特にクローシェの場合、内在する能力が深い後悔を許さない。
それでも従者の命を救うために自分の心をどうにかして誤魔化そうとするが、正義にもとる誓いは疎か、反省の念が湧き出るはずがなく、かろうじて膨れ上がるのが恐怖だ。
恐怖が一定の域に達すると、クローシェの思いとは無関係に負の感情が抑制され、正の感情が全身から萌出する。
青い光がその場を包む。
正の感情がこの状況でどれだけ悪く働くか、クローシェの理性は理解していて、だからこそ慌てふためく。
正の感情が焦りを生み出し、焦りはそのまま負の感情となり、負の感情がより一層、正の感情を生み出すという、終わりのない循環が完成する。
「忙しなく色が変わる……。娼館の照明代わりにでもしたら劣情を催している客たちに大層、受けそうだ」
下品にからかわれても、それについて考える余裕がクローシェにはなく、色調変化は定間隔で続く。
「冗談を言ったんだ。何か反応を示してくれないとつまらん。……ああ、もういい。やれ」
“影”が命令すると同時にクローシェの右手が動く。
剣尖が水を割り、藁を突き抜け、水の中で固く締まった肉にズプリと刺さる。
透明だった水にジワジワと濃色の液体が滲み出し、屎尿臭に血のニオイが割って入る。
「もう一回、刺したいか。クローシェ」
クローシェの心と理性が再刺入を全力で拒絶する。
“影”は魔道具の光を見て力なく言う。
「そうか。その気は無いか。残念だ。剣は重要臓器を貫かなかった。こうやってジワジワと失血させると、刺された側は即死しない。苦しんで苦しんで苦しんだ末に死ぬ。私としては長く苦しませずに死なせてやりたいのだが、お前が願うのだ。ひとつくらいは叶えてやってもいいだろう」
光は理性を反映せず、身体は意思に従わない。思いを伝える術のないクローシェは心の中で首を横に振る。
千切れるほど首を振っても、現実には何も起こらず、何も変わらない。ただ桶の水の色と空間を漂う血のニオイが少しずつ濃くなっていくだけだ。
「さて、最もしぶとそうな従者の血抜きはこれでいいだろう。講義も前倒しで行った。そろそろ“罰”に戻ろう」
“影”はクローシェの右手から刺突剣を取り、さっさと机の前に行く。
手が空になったクローシェはクローシェで定位置に帰る。視線は下を見ず、ソロリソロリと足の踏み位置に細心の注意を払って歩を進める。
“影”は机を向いたまま、背中でクローシェに語る。
「本当は三日目が終了した時点でお前の指は十四本残っているはずだった。それがどうだ。まだ三日目の途中だというのに、残りは十本しかない。悪いのは私ではない。お前だ。お前の苦しむ様が私をあまりにも楽しませるものだから、私も我慢しきれなくなる。お前が悪いのだ。全部、お前が……」
不気味な“影”の独り言を聞き、クローシェの感情が恐怖に傾く。
それに合わせて蛍光石の色を橙に変え、“影”は机に向かってなおも呟き続ける。




