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第五六話 ■■■女■■■■ 第一日

 視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚。


 五感の名を冠するこれらの感覚は生者にとって極めて重要な基本機能だ。


 感覚の役割は、突き詰めて言うと、死を回避し生命を維持することにある。


 数え切れないほどの淘汰と適者生存を経て洗練された感覚器官各種からもたらされる情報の量は途方も無く膨大で、仮になんらかの技法によって情報量を数値化した場合、その桁違いの大きさに理性は数値の真正性を真っ先に疑うであろう。


 この世を生きていくということは、情報の大波に揉まれることを意味する。しかしながら、己がどれほど大量の情報に曝されているか正確に認識して生きている者は皆無と言っていいほど少ない。


 それもそのはずで、情報は無意識下、自動的に取捨選択されており、表層意識は(ふるい)にかけられた後の、元情報と比較して極少量の情報しか認識しない。


 例えば、『集中していて、人から話しかけられても気付かない』とは、よくある話だ。


 絵画を観ていれば視覚由来の情報が強調処理され、聴覚、触覚など視覚以外の情報は脳内で抑制処理を施される。音楽を聴いていれば聴覚が優先されるのは、改めて言うまでもないだろう。


 情報処理には優先順位があり、順位はその時その場に応じて頻繁かつ瞬時に入れ替わる。この優先順位を決定する最重要因子が前述の死の回避である。


 認識し損じると死に至る情報は過剰なまでに強調処理され、否応なしに意識の最前面に提示される。


 どこかから同胞の絶叫が響けば聴覚が敏感になり、新しい土地で未知の食物を口に含む際は嗅覚と味覚が鋭敏になる。


 では、体温が低下したときはどうなるか。


 この場合、広義の触覚の中に含まれる温度覚と痛覚が強調される。これもまた死の回避という生命の原則に沿った自然な応答に他ならない。




 非覚醒時、あらゆる五感は抑制されていて、取るに足らない小さな感覚刺激は一切、意識まで届かない。届くのはある程度、大きな刺激、生命に害を及ぼしかねない情報に限られる。


 一定以上の体温の低下は、抑制を破るに相応しい、十分に大きな刺激と言って差し支えない。


 芯まで冷えた身体が忍び寄る生命の危機を感じ取り、未だ目覚めぬ意識に働きかける。


 視覚や聴覚はまだ強く抑制されており、結果、意識は『寒い』の一色に染まる。


 寒冷と言う名の危機を脱するべく意識がほんの少しだけ覚醒し、身体に対して働きかけを開始する。


 ところが、意識からの命令に対して従順なはずの身体が何の反応も示さない。


 目を(まばた)く。


 これはできない。


 冷えた身体を手で(さす)る。


 これもできない。


 寝返りをうつ。


 これもできない。


 ずれ落ちた寝具を探り当てて身体にかけ直す。


 手が動かないのだから、寝具をかけ直すも探り当てるもできない。


 身体が動かない。


 迫る危機が、寝冷え、などという穏やかなものではないことを覚知し、意識は微睡(まどろ)みの状態から急激な勢いで完全な覚醒状態に移行する。


 完全覚醒と同時に触覚とは別系統の感覚情報が意識へ入力される。


 情報として届いていなかっただけで、刺激はずっと入っていた。


 半開(はんびら)きの目から得られる視覚情報は意識の覚醒によってはじめて遮断に等しい抑制処理が解除されて意識まで到達する。


 視覚情報の正常処理再開に少し遅れて聴覚の処理も始まる。けれども空間を行き交う音はあまりにも少なく、耳鳴りというかたちで意識にその場の閑寂を通知する。


 聴覚が有用でなければ、情報源として視覚に最大の期待がかかり、触覚と同等かそれ以上に視覚が強調処理される。


 ところが強調処理されてなお意識は視覚から大きな情報を入手できない。


 意識があり、半分ながら目は開き、視覚が視覚として機能していて、それでも情報が得られない。


 それは即ち、その場が闇に包まれていることを意味している。




 クローシェ・フランシスは暗く、静かで、そしてなによりとても寒い場所で目を覚ました。


 目は闇に蓋され、耳は静寂に封じられている。すると、温痛覚以外の触覚や表在感覚とはまた別の体性感覚、三半規管を主体とした平衡覚等が意識の表に上る。


 (にわか)に主役の座を与えられた各種の感覚が、意識に己の身体のあり様を生き生きと朗詠する。


 クローシェは、完全に立ってはおらず、かといって完全に座ってもおらず、はたまた横たわってもいない。


 垂直にちかい後傾壁のような、あるいは立ち椅子のような、そんな支えに身体背側(はいそく)でもたれかかった立位(りつい)、そんな体勢になっていた。


 目は既に暗順応が完了している。どれだけ時間が経過しようとも暗所視に特別に秀でているとは言えないクローシェの目はこれ以上、暗さに慣れない。


 寒く静かな闇に突如、光が射す。陽光よりもずっと小さい、しかしながら暖かみのある光だ。


 松明(たいまつ)やランタンの炎から放たれる光と違ってゆらぎこそ目立たないものの、火の生み出す光特有の落ち着いた色合いをしている。


 ヒトの視野はおおよそ左右に一八〇度、上下に一二〇度広がっている。ただし、広がった視野が万遍なく見えているわけではなく、視力は視中心において最も高い。


 視中心からほんの少し外れると視力は急激に低下し、仮に何かが見えても、その見えたものがなんなのか識別するのはかなり難しい。


 ましてや微小な光が灯るだけの暗がりともなると周辺視野ではそこに何かが有るのか、それとも何も無いのか弁別することすら困難だ。


 だが、視対象にほんの少しでも動きがあれば弁別難度は劇的に低下する。


 暗い闇に溶け込んでいた、闇に比べるとほんの少しだけ薄い黒を纏った“影”がヌルリと動く。


 静止状態では捉えられなかった“影”の輪郭をクローシェは周辺視野で正確に認識する。


“影”はゆっくりと、かつ音もなく歩き、クローシェの三歩ほど前で立ち止まる。


 クローシェの視線は前方やや下方を向いている。視中心はちょうど“影”の足元を見ている。


 そのまま少し視線を上にずらすだけで“影”の顔を見られるが、クローシェが何を思い、何を身体に命じようとも眼球はピクリとも動かない。


“影”が立ち止まっても“影”の歩行によって生じた風の流れは止まらない。緩やかな風がクローシェに届き、それがクローシェにこの空間の温度の低さを改めて痛感させる。


 全身で感じる風に、クローシェは体表面の状態を悟る。


 クローシェは身を切るような寒さの中、何も纏わずに立っていた。


「気分はどうだ。クローシェ・フランシス」


 意識が覚醒して以来、情報らしき情報をもたらさなかった聴覚が初めて有用な情報をもたらし、クローシェの意識が強い反応を呈する。


 関心を寄せているのは言葉の意味ではない。声の質だ。


 喉から出ているのか頭蓋全体から出ているのか判然としないアンデッド特有の乾ききった声とは明らかに違う、生命を感じさせる湿潤な響きがクローシェの思考、心理の両方に火を灯す。


 声からクローシェが想起する人物はたったひとり、クローシェが憎んでやまない“邪悪な力”から送り込まれた尖兵集団の(コア)をなす者である。


「寒熱どちらの環境変化にも脆弱なヒトの身体で、この地下室に裸で立っているのだ。さぞかし寒かろう」


 クローシェは『地下』という単語にも反応し、小さな感情変化を示す。地下空間に一時拠点を築いた尖兵集団を憎むあまり、地下という概念にまで反射的に憎しみを抱くようになっている。


 憎んでやまない尖兵の領袖に怨みつらみを吐きたくとも、クローシェは喋ることはおろか能動的には発声すら不可能だ。


 腕も、脚も、目も、口も、喉もクローシェの意思に従わない。


 呼吸は規則正しく行っている。しかしながら、それはあくまで肉体が自動的に行う単純動作の反復に過ぎず、意図して胸や腹を膨らませたり凹ませたりして吸息と呼息を制御することはできない。


「それでも、吹き曝しの雪原で(たお)れ、今なお放り置かれている者たちを思えば、ここはよほど暖かい」


“影”の感傷的な物言いにクローシェは更に怒り、同時に少しだけ戸惑いを覚える。


“影”はまたゆっくりと歩き始め、クローシェの視界を横切るように右へ左へ何度も往復する。


「なあ、教えてくれよ。お前はどうしてクローシェ・フランシスなんだ?」


 意図のはっきりしない“影”の問いをクローシェはただ訝る。


「質問の意味が分からないか。では、もう少し分かりやすく聞いてやろう。お前の名前はなぜクローシェ・ラソーダではない?」


 ラソーダの名前が出た瞬間にクローシェの心拍数が跳ね上がる。


 それこそが、クローシェが“影”に尋ねたかったこと、任務と責務を優先して心の奥に鍵をかけて封じた願いである。


 願望は、錠が破られて開け放たれた正面扉から手を引き誘導されるのではなく、堅牢極まる側壁を破られて脚から引きずり出されるかたちで外界に曝された。


 唐突に胸と腹が暴かれたクローシェは(おのの)き、じっとりと汗で肌を湿らせる。


 唇がカタカタと震えているのは寒冷に抗うための熱産生行動ではなく、純粋な情動反応だ。


「質問ひとつでこの怯えよう、なんとも度し難い。我が手足の殲滅に異常に執着し、死にゆく部下たちのことは歯牙にもかけなかったというのに、自分の大切なものは名前を出されることすら強烈に拒否反応を示す。お前はつくづく理解の埒外にある」


 意味なく左右に行ったり来たりするばかりだった“影”が不意にクローシェの真ん前まで来て顔を覗き込む。


 クローシェの目に入り込んだのは、深い皺と濃淡不均一な無数のシミにまみれた老齢の男性だった。


 神経難病でも患っているかのごとく固い表情をしていながら、白く濁った目だけはギョロギョロと忙しなく動き、寄生虫に乗っ取られたスネイル(カタツムリ)の触覚を彷彿とさせる。


 老人から漂う臭気がクローシェの鼻孔をくすぐる。甘ったるい加齢臭ではない。特徴的な化学的臭気、死体保存処理(エンバーミング)の薬品臭だ。


“影”が覗き込みをやめて再び彽徊(ていかい)を始める。


「我々の最優先目標は“真実”の探求だった。いかなる“真実”が得られるかにもよるが、必ずしも事を荒立てるつもりはなかった。指揮官のお前がこれほど刹那主義でなければ死者はおろか怪我人すら出さずに終わる可能性も十分にあった」


 尖兵集団の統率者を務める“影”が晒した、嘆き怒り狂う様はクローシェの記憶に強く残っている。だからこそ、クローシェは“影”の主張する対話意志が口先のものではなく本心から発せられたものであると理解し、理解がクローシェから自信や確信といった心の支柱を削いでいく。


「私は知っているぞ、クローシェ。お前は一本でも多く我々の手足を奪えればそれで良かった。お前を信じて付き従ってきたユニティの部下たちの生死は顧みていなかった。だがな、私は言っておこう。仮に我々を殲滅できていたとしても、その先に理想など存在しない。お前は知らない。そもそもお前の憎むものと信じるもの、どちらも幻だ。お前の部下たちは尊い犠牲にも未来への礎にもなってはいない。ただ、お前の幻想に振り回され、無駄に生命を散らした」


“影”の語る言葉がどれだけクローシェの心に(きず)を刻もうとも、心の支柱の中心を走る柔らかな芯鉄(しんがね)には(きず)もヒビも入らない。


「何も知らないクローシェ・フランシス。お前にはこれから“罰”を与える。お前が犯した罪に相応しい“罰”をな。ただ、お前は暗愚がゆえに自らの罪深さも、私の言っている意味もまだ分かっていない。そこでだ。我々の持つ情報と、そこから導き出した仮説を特別にお前にも一部、開示してやろう。一度に全部ではない。少しずつだ。さて、では何から教えるか」


“影”が己の顎に手を伸ばし、モゾモゾと動かす。


 眼球を上下左右に動かせないクローシェは周辺視野でしか“影”の動きが見られない。低い中心外視力では、“影”の手が何を目的として、具体的にどのような動作を行っているのかまでは認識できない。


「……そうだな。結論を最後に持ってくる手法もあるが、今回は結論から……最重要情報から教えるとしよう」


“影”は手を動かすのも彽徊もやめ、クローシェの真正面に立ってはっきりと言う。


「お前は、アウェルの一員ではない」


 アウェル。


 それはクローシェの心が真に帰属する先であり、目的であり、拠り所であり、支えであり、そして同志以外には存在すら開示できない機密そのものである。


 自己同一性の根幹と呼んでも過言ではないアウェルとの関係を唐突に否定され、クローシェの思考が凍り固まる。


「結論だけを言われても(にわか)には信じがたいだろう。だが、お前が信じずとも、私は講義を続ける。お前は、今まで自分が信じてきたものと私の教えの二つを並べ、心ゆくまで比較すればいい」


 いまだ凍結の解除されないクローシェの思考の上を“影”の言葉がスルスルと滑っては消えていく。


“影”はそれを気に留めた様子もなく袖からじゃらりと物を取り出し、目を落とす。


「私の記憶が正しければ、これは元々フスの所有物だった。それをなぜかお前が持っている。経緯を詳しく調べずとも、なんとなくは想像がつく。ホーリエ……やはり奴は信用ならん」


 同志ホーリエの名前が硬い氷に一条の亀裂を作る。


「私はこのように推測している。ホーリエがお前に、『アウェルの一員として悪の枢軸を滅せよ』と命じ、この魔道具を渡したのではないか、と。私の予想が正しければ、お前を(たぶら)かし、道を誤らせたのは他の誰でもない、ホーリエ・ヒューランだ。奴は、厳密にはアウェルの一員ではない。アウェルと深く関わっているのは事実だが、所詮奴は出向員、云わば一種の傀儡だ。出向元は……。そのあたりの込み入った話は、今は言及を避けよう。とにかく、アウェルにおけるホーリエの立場は、ユニティにおけるお前の立場と少しばかり似ている」


 クローシェはユニティの次将、表向きには組織の第二位として活動している。その立ち位置は嘘ではないが、背景解釈には注意が要る。


 クローシェはユニティの純構成員ではなく、あくまでもゴルティアからの一時的な派遣協力員としてユニティの活動を内から支援している。


 もっと言うと、ゴルティアの工作員という立ち位置が主で、ユニティの一員という立ち位置は従なのである。ゴルティア本国からの指令次第で、ユニティ次将というクローシェの肩書は容易に消失する。


 凍りついたクローシェの思考が徐々に溶けていくつもの氷裂(クレヴァス)を生じ、“影”の言葉はばっくりと空いた亀裂に次々と滑り込む。


「我々は憶測や妄想で言っているのではない。そう言いきれるだけの根拠がある。なぜなら……」


 クローシェの真ん前に立っていた“影”がクローシェの斜め前に移動し、少し伸びたクローシェの髪を掴んで無理やりに顔を“影”に向かせる。


「我々がアウェルだからだ」


 溶けかかっていたクローシェの思考が不穏な熱を帯びた“影”の言葉ひとつによって、溶けるどころか逆に再び完全凍結する。


 新たに告げられた情報は感情面からも理性からも到底、受容できるものではなく、クローシェはもはや考えること自体を放棄してしまう。


 精神活動の停止したクローシェに“影”はすぐに言葉を重ねない。


 白く濁った瞳が細かく動き、クローシェの目の奥を(すみ)から隅まで撫で回すように眺める。


 思考制止からしばし、理性の活動再開に先んじて感情が動き始める。


 心にヒタヒタと恐怖の足音が近付く。反発心の足音もかすかに聞こえるが音源はまだはるか遠くにあり、音源が心に接するまでは今しばらくの時間を要するだろう。


“影”は物を愛護的に袖の中へ直すと、処理しきれない感情で一杯になったクローシェに穏やかに語り掛ける。


「もっとも、私自身、そんなことは数十年間、完全に忘れていた。思い出したのはほんの最近だ。さあ、中核情報を教えたところで、本日の講義は終わりだ。次回の講義まで、知性に欠けた頭で存分に考えるといい。細かく砕けた“真実”の欠片(かけら)から全体像を導きだせるのは、ヒトの中ではほんのひと握りの慧眼の持ち主だけだ。そして、暗愚な者にいたっては、全体像を丁寧に教えられてもなお自分の信じたいもの、自分にとって都合のいいものしか信じない。講義を最後まで聞いたお前が何を思い何を信じるか、今からとても楽しみだ」


 信じるどころか向き合うことにすら多大な努力を要する新情報が、少なくとも本日はこれ以上、投げつけられないと分かり、感情に遅れてクローシェの理性もようやく正常な活動を再開する。


“影”の片手はクローシェの髪を握っており、逆の手は空いている。空の手がクローシェの視界端に入るか入らないかギリギリの所で動く。


「本日の残り時間に行うのは“罰”に関する簡単な検討と説明、それから導入だ」


 それまで空だった“影”の片手が銀色に閃く。次の瞬間、クローシェの左前胸部に小さいながらも鋭い痛みが走る。


 痛みの発生に続き、温かい液体が胸から腹へ伝い落ちていく。


 流れる液に興奮したかのように“影”が口調を荒らげる。


「お前はヒトの皮を被ったクズだ! ゴルティアの汚らわしいサルどもの典型、忌むべき人外だ! ()()()()()はヴィングリングを選別に落ちたクズどもの自由にさせ過ぎた。管理を怠るからこうやって暴力性向の高い個体が域外で暴走する。クローシェ……お前は“砂”以北の世界統一に(かこつ)けて好き勝手に暴れ、殺し、死の中心にいたかっただけだ! 違うか!?」


 単時間あたりに心が蓄え、処理できる情報の量には限界がある。


 限界を超えると、場合によっては頭が真っ白になり、場合によっては感情が制御不能になる。


 ようやっと思考が再稼働したばかりの心の容量に余裕などあるわけがなく、己の行いを全否定され、反論という名の感情処理法すらも封じられたクローシェの心の容量が直ちに限界を再超過する。


 涙で(にじ)むクローシェの視界の中で“影”がナイフを一振りし、懐へしまい込む。


「私はな、本当は肌に当たらないギリギリの所に刃先を持っていくつもりだった。だが、アンデッドの腕は精緻な動作を得意としていない。だから刃はお前の皮膚を裂いた。これをもう少し深く述べると、お前が胸から血を流している理由の何割かは、名も知らぬヴィングリングの阿呆が、マディオフでヒトとして生きていた私の腕を奪えと、愚か極まりない指示を出したせいだ。それも更に元を辿ればヴィングリングで知性と倫理観に著しく劣った個体が過剰繁殖したことに起因する。では、それらの事実を踏まえてどうすべきか。お前に、いや、お前たちにどんな“罰”を下すのが相応(ふさわ)しいか」


“影”はクローシェから手を離し、クローシェから向かって右側へ歩みを進める。


 クローシェの眼球が目覚めて以来初めて上下左右への運動を開始し、“影”の動きに追従する。


「ヒト種は世界に十分すぎるほど生息している。わざわざヴィングリングで劣等個体を()やす意味はない。管理不行き届きのあの土地はもはや集約畜産地とは呼べない。毒焔を吐く病巣だ。欲が深いばかりでまるで働かない権力者たちはもとより、ホーリエにも任せてはおけん。我々がヴィングリング全土に及んでしまった()()を一掃しよう」


 母国や母国に住まう同胞を『畜産地』だの『汚染』だのと低俗な表現でまとめられ、それまでは混乱し、動揺するばかりだったクローシェの心に怒りの火が(とも)り、燃焼の求心力が散乱するばかりだった思考を収束させ、ひとつにまとめ上げていく。


 突き当たって立ち止まった“影”を見るクローシェの目に意志の力が戻る。


「ヴィングリングで家畜としておとなしく生を全うしていればよかったものを、お前たちは域外に干渉して私の腕を奪った。私が代替として手足を集めたら、今度はお前がそれを奪いに奪った。大森林まで行き、死の寸前で助けだしたウリトラス・ネイゲルまで危うくお前に(とど)めを刺されるところだった。ドラゴンに関連した“真実”のひと欠片を持つウリトラスを消せれば、お前たちにとってさぞかし都合が良かったのだろうが、そうはいかん」


 ゴルティアがウリトラスに対して長い時間をかけて行った調略は最終的に失敗に終わり、ウリトラスはゴルティア軍に魔法を向け、さらにドラゴンまでけしかけた。


 ゴルティアからしてみればウリトラスは許されざる存在だが、それでもクローシェは心の片隅でウリトラスを救う手立てを探していた。


 手立てを考えるに先立ち、そもそもウリトラスがなぜゴルティアの誘いを蹴ったのか考えなければならない。


 クローシェはその理由を“邪悪な力”の干渉と考えていた。


 ところが、“邪悪な力”とほぼ一体の存在と思われていた“影”から、『大森林でウリトラスを救出した』と告げられる。


 クローシェの掴んでいる確実な“影”の行動履歴、未だ謎に包まれたアッシュとの過去の繋がり、そして交戦の後になって初めて耳にする“影”の身分と行動の主張。


 確固たる形を持っていた“影”に対する憎しみが崩壊し、形状を失って安定感なく心の中を漂う。


 憎悪が心理空間の大幅な占有を()めると、代わって場所を取り始めるのが不安だ。


 敵であったはずの“影”が実は真の敵でなかった場合、クローシェの行動から根拠や正義が半分どころではなく失われる。


 クローシェの思考をまとめ上げていた怒りの炎が、不安という燃焼阻害剤によって大きく火勢を落とす。


「認容限界はとうに超えた。お前たちにはいかなる申し開きの機会も与えない。私はもう十分に奪われた。今度は私が奪う。実力行使の前によく話し合うべきだと思うか、クローシェ。思わないよなあ。我々との対話を徹底的に拒んだお前だ。話し合いによる解決などという生温いやり口を、よもや今更になって主張するはずがない。ははっ、くはははっ!」


 誤解を正し、溝を埋める対話の機会がこの先、永遠に無いと“影”から嘲りと共に言われ、クローシェは自由を奪われて以来、最も強く身体の自由を(こいねが)う。


 心の中で懇願するクローシェの前で“影”は嗤う。


「精々、己の愚かさを嘆くがいい。全体責任に対する“罰”を下すのはしばらく先の話だ。だが、お前の個人的な罪になら今ここで“罰”を与えられる」


“影”の立つ場所の前には机があり、机の上にはいくつもの道具が所狭しと並んでいる。


“影”が手を伸ばし、禍々しい形状をしたそれらの道具を一つひとつ順番に取ってはかざす。


「お前も見たことくらいはあるだろう。……待てよ。そういえばお前は工作員の身でありながら拷問の知識を持っていなかったな。マルティナを“治療”する際の前準備……あれは酷かった」


 道具を(あらた)めながら“影”がくつくつと嗤う。


「まず、姿勢がダメだ。長時間が想定されるならば、神経損傷や血流途絶を引き起こしやすい無理な体位は徹底的に避けなければならない。生物として自然な体位を作ったうえで、体重のかかる部位に、壊れ物を運搬する際の梱包に用いるような緩衝材をたっぷりと当てるのが基本だ。一度(ひとたび)神経が損傷してしまうと、損傷部位より遠位に傷を作っても、満足のいく痛みを与えられない。そうだというのにお前の部下たちは、短時間使用でも軟部組織損傷に繋がりかねない窮屈すぎる拘束具を使っていた。わずかながらも拷問について知る者として、見ていられたものではない。いいか。たとえ自分の専門ではないとしても、積極的に学ぼうとする姿勢や意欲は大切だ。化学を操りたければ化学を学び、言語を修得したければ言語学習に勤しむのと同様、拷問にちかい行為をするならば拷問について学ぶことを我々は推奨する」


 一端(いっぱし)の教官や教鞭をとって長い大学講師のように気取った口調で淀みなく薀蓄(うんちく)を語られ、それまでとは別種の驚きがクローシェを包む。


“影”は教鞭代わりとばかりに持っていた金属をすっと傾け、いつの間にやらその場に出現していた蝋燭の光をクローシェの目に反射させて遊ぶ。


「我々は誰も拷問を好いていない。時間がかなり取られる割に、成果は芳しくないことが多々ある。私は好きどころか、むしろ嫌いだ。だが、好きかどうかと得意かどうかは、また別の話だ」


 チャチな嫌がらせを()めた“影”が金属具を横にかざす。するとそこに別の構成員が現れて火魔法で金属具を炙る。


 熱せられた金属具が次第に暗赤の光を帯び、高熱の金属特有のニオイが空間を漂う。


 暗かった赤がいつしか冴え冴えと明るい赤に変わる。見るからに高温の金属具を“影”はちんまりと足元に佇む容器の中へ沈める。


 立ち上る湯気、肉を焼く時にも似た急速沸騰の音、鼻から離れない金物のニオイ、それらが渾然一体(こんぜんいったい)となってクローシェの原始的恐怖を煽る。


「期せずして学びは我々に世界でも有数の優秀な拷問官になれる能力を授けてくれた。情報の問いただしが目的ではないことから、拷問よりも私的処刑( リンチ )加虐(トーチャー)と表現したほうが適切だ。合間に講義を交える今回の場合、脱洗脳(リフレッシュ)なる言い回しも許容できる。我々はこれからお前の肉体を傷つけ、痛苦を与える。損傷程度が一定に達したら治す。その段でも勤勉性の産物が力を発揮する。我々は世界各国の薬学と回復魔法を修めている。ロギシーンでは最優秀治癒師から得難い知識と技術を授かった。今では、誰に頼らずとも、相当な損傷を独自に回復可能だ。さすがに欠損修復まではできないが心配には及ばない。欠損は終盤まで取っておくのが一般的な作法だ。“罰”の早々にお前の身体を離断はしない。本当はすぐにでも斬り落としたい。しかし、私は我慢を知っている。我慢すればするほど解き放った時の喜びは大きくなる。だから、我慢するさ。ふふふ」


 人に説明するには適さない、聞き取り困難なほどの早口で“影”は語り、金属具を容器から引き上げる。


 クローシェの目の前に突き出された金属具は飾り気のない、握り(グリップ)部分が申し訳程度にあるだけの、少し長い単なる延べ棒だった。


 最初はヌラリと濡れ輝いていた延べ棒だったが、水分はすぐに蒸発して乾いた延べ棒に早変わりする。


 クローシェの冷えた身体を撫でる湿った熱気は少しだけ心地よく、そしてその何百倍も恐ろしい。


 熱い金棒を見るクローシェの周辺視野に小さなモノがひとつ入り込む。


 現れたのは一匹のネズミだった。


 ネズミが“影”の身体を駆け登る。脚から出発して腹を駆け、胸をよじ登り、肩、腕と伝い渡って最後に金棒の上へ身を躍らせる。


 握り(グリップ)の近辺を歩くうちは何事も起きない。しかし、ネズミの細い肢が金棒の先へ進むに従って変化は起こる。


 ネズミは肢の先が焦げるのも(いと)わずに更に金棒の先へと進み、その場に肉の焼ける香ばしいニオイが充満する。


 香りにのぼせたかのように“影”はペラペラと喋る。


「拷問は心理学実験と極めて密接な関係がある。それなりに拷問に精通していれば、被拷問者に……ここでは被験者とでも呼ぼうか。被験者に口頭で指示を下し、また別の被験者の命を奪わせることは難しくない。従命性の確立に重要なのが痛みの設定で、適度な痛みは高度な行動制御を可能にする。忘れてはならないのが、疼痛発生条件の明確化だ。指示に従ったのにある時は疼痛が発生し、ある時は発生しない、となっては、被験者はなかなか従順にならない。実験を設計(デザイン)した側は理解容易な条件にしたつもりでも、被験者はなかなか条件を正確に理解してくれないものだ。話が脇道に逸れてしまったな。本筋に戻ると、拷問官や試験官がある程度、優秀であれば、被験者に非人道的な暴力行動を取らせることが可能だ。しかしながら、試験官がある程度どころか相当に優秀だったとしても、被験者に己の四肢を切り落とさせるのは困難だ。ある意味、自殺させるより難しい。それが私の場合、簡単にできる」


“影”が空の左手を懐へ差し入れ、すぐさま引き出す。出てきた左手はナイフを握っている。先程クローシェの胸に一条の線を引いたナイフだ。


 クローシェは、まるで鏡に写った虚像のように右の手で空虚な自分の懐をまさぐり、ナイフを取り出す仕草をする。


“影”は左手に持ったナイフを己の右腕、手首の近辺に押し当てて(こす)り動かす。ゴシゴシ、ゴシゴシと。


 クローシェもそれに倣い、自分の右手を左腕の手関節近くに押し付け、ゴシゴシと往復させる。


 両者のその動きが次第に激しさを増していく。


 度重なる往復運動の末にナイフが“影”の右手を切り落とし、右手は握った金棒ごと地面にゴトリと落下する。


 クローシェの目が、落ちた手と金棒に焦点を合わせる。


 金棒に乗っていたネズミは熱に身を焼かれ、絶命していた。


 視点は次にクローシェの左腕に移る。(こす)った部分が少々赤くなっているものの、損傷はしていない。


 実演(デモンストレーション)の意味を理解したクローシェの左手の先が途端に冷たくなり、胸の奥にキュウと鋭く恐怖に由来した痛みが走る。


 すると、四肢離断の恐怖に誘われたかのように、クローシェの脇に一頭の獣が現れる。


 獣は臭く湿った息を吐き、クローシェの脇腹をザラリと舐める。吐息とは対照的に湿り気のあまりない獣の舌が脇腹からそのまま前胸部中央、胸骨の真ん中までをザラザラと舐め上げ、それから頸囲、腋窩、陰部と順番にニオイを嗅いでいく。


「生者は身体の様々な部分から体液を分泌する。唾液、鼻汁、腸液、全て別物だ。では、同じ部位の分泌腺から出てくる体液の内容が常に同一かと言うと、実はこれもまた違う。眼球を潤すための涙液と悲しくて流す涙液、運動によって体温が上昇した際の発汗と緊張や恐怖による発汗、いずれも別物だ。成分はかなり違う」


 獣が乾燥気味の舌でクローシェの全身を舐め回す傍ら、“影”は左腕をクローシェの前に掲げる。


 既に手の中にナイフはなく、代わりに新しい無垢のネズミを一匹、握っている。


 ネズミは己の身体を握るメタルグローブのニオイを嗅いだり軽く噛んだりして寛いだ様子を見せる。


 気楽なネズミを包む“影”の左手が、不意に強く握り込まれる。


 ネズミは、キュッ、と一鳴きして血と臓物、漿液を撒き散らし事切れる。


「アンデッドの腕は不便だ。巧緻性が低いせいで文字は上手く書けない、食器は使いこなせない、物を作ろうとすると逆に壊してしまう始末だ。ナイフ捌きも剣捌きも精緻や流麗とは程遠い。生きた身体とは導魔性が違いすぎて魔法は安定して発動させられず、闘衣は鈍重で低出力ときた。魔法の上達と戦闘力上昇を追い求めてきた私にとって、それがどれだけ辛いことか分かるか。なあ、分かるか!? 分からないよなあああ!!」


“影”が左腕を振りかぶり、クローシェの顔面に拳を叩き込む。


 メタルグローブが顔にめり込み、打たれた鼻から血がボタボタと垂れ、歯で唇が切れて口内に鉄の味が広がる。


 痛み、恐怖、寒さ、不安、重なった複数の要因がクローシェの身体の震えを何倍にも強くする。


「寒さに震える一方で、かなり発汗している。体温は一時的に上昇するかもしれないが、いずれかならず低下する。体温低下は感冒の発症要因として、よく知られている。感冒が悪化して肺炎を患おうが、鼻の骨が折れようが、口の粘膜が切れようが、我々はいずれも治せる。心配は無用だ」


 先程までクローシェを舐め回していた獣が床に落ちた“影”の右手を咥え上げ、“影”がそこへ左手を伸ばす。


 左手に触れた右手は思い出したかのように動き始め、多肢虫を思わせる動きで左腕を伝い、左の肩から右の肩へ渡り、さらに右腕を伝って最終的に右腕の断端に手首の断端部を重ねた。


 再接続を果たした右手が滑らかに手指の屈曲、把握と伸展を数回繰り返し、後は何事もなかったかのように普通の右手として静かになる。


 右手が元に戻ると、“影”は再び机の前へ行く。火魔法で金棒を炙っていた構成員も“影”の後を追い、二人は机上の道具をいくつも拾い上げる。


 さらにまた別の構成員がひとり闇の中から姿を現し、クローシェの前に土魔法の台を作り上げる。


 机から戻った二人が持ってきた道具を台の上に並べる。


 整然と並ぶ奇怪な道具の数は十を優に上回る。どれも同じ形状だ。


「長く続いた説明は終わり、ここからは導入だ。お前はこれからこの道具を自分で装着し、道具の機能を自分の身体で理解する。生きていた頃の私であったら、自分に使われることを恐れて泣き叫んでしまったかもしれない素敵な道具だ」


 クローシェの身体がまた自意識とは無関係に動いて道具を掴む。きんと冷えた金属はクローシェの冷たい肌から更に体温を奪う。


 うっかり面張り工程を飛ばしてしまったかのような無骨な枠組みばかりが目立つ、およそ筒型の形状をした道具をクローシェは自分の足の指にはめていく。


 筒にはネジ状の固定具が外側から内側へ向かって何本も生えている。


 固定具を右に回し進めると、やがて尖端がクローシェの指の肉にぶすりと刺さる。


 ネジ複数本を回すことで、複数のネジ尖端がクローシェの指に深々と刺さって肉を押し潰し、最終的に尖端は指の骨にぶつかって道具と指の位置関係を強力に固定する。


 固定が完了しただけでクローシェは指に強い痛みを感じる。


 下準備はそこからまだ続く。


 筒は先端にも一本のネジを備えている。ただし、そのネジは少々径が大きかった他のネジと違い、先が針のように細く長く尖っている。


 ネジをクルクルと回すとクローシェの指と爪の間にチクリと点状の感覚が生じる。


 道具の使途を完全に理解したクローシェの全身に、またもや大量の汗が噴き出す。


「ヒトの指は不思議な器官だ。無くなっても生命存続には必ずしも支障をきたさず、損傷により極めて強い疼痛が発生し、しかも上下左右で合計二十本もある。十本の指に針を刺し、爪をはぎ、切り落としても、それでもまだ十本も残る。多くもなければ少なくもない、極めて絶妙な数だ。一日で一本使い切ったとしても、二十日も()つ。拷問のために生えているとしか思えない」


 クローシェの(まぶた)がゆっくりと下りる。


 閉じた瞼の上に柔らかな布が巻かれる。


 視覚から外界の情報が入らなくなると視覚以外の感覚が鋭くなり、脈も呼吸も速度を増す。


 闇に落ちたクローシェの全手指に道具が次々と装着されていく。


 手、足、全ての指に道具が装着され、しばし間をおいてからキリキリ、キリキリと不快な音が響く。


 黒一色だったクローシェの感覚世界に嵐のような白い閃光が走る。


「くく、ははは。あははっ、ハハハハハハハハハハ!!」


 クローシェの感じる痛みが強くなればなるほど“影”は高く嗤う。


 右第二趾は、先端から根本まで全て痛みを発する器官に変わった。脳を荒らすだけだと満足できない痛みがクローシェの全身を隅々まで這いずり回る。


 身体のいたる所から体液が流れ出る。


 指先からはトロリと温かな液体が滴り、肌は汗を吹き、両目からは涙が(こぼ)れ、口内に唾液が満ちる。自分の意思で飲み下すことのできない唾液が溢れ、口角からダラダラと流れ落ちていく。


 強すぎる痛みがクローシェの正常な思考を完全に奪うと、今度は痛みへの抵抗が始まる。


 疼痛克服の起点が心の中に現れ、クローシェの感情から恐怖や後悔といった負の感情を消し飛ばす。黒い感情が一瞬で白く塗り替えられる様は、水面を覆う茶褐色の脂肪油に洗浄液を一滴、垂らしたときの光景にどこか似ている。


 痛みに克ったクローシェは“影”に対する不服従の念を新たにする。


「はぁ……。なんともかわいがりがいの無い奴だ。“罰”の本来の目的は相手に反省を促すことにある。それなのに、お前はごく短い時間しか自分の愚かさを悔いなかった。これでは“罰”として妥当とは言い難い。ただ、お前の反抗は想定内だ。我々は前もってお前に適した趣向を凝らすべく準備を整えてある」


 目を覆っていた布が外れ、クローシェの目がゆっくりと開く。


 すると、閉眼前まであった土の台が無くなっており、代わりに藁束(わらたば)がいくつか転がっている。


“影”が藁束のひとつに蹴りを入れる。


 見た目は軽そうな藁束だが、蹴られても空を舞わない。鈍い衝撃音を立ててゴロリと横に転がり、半回転だけして止まった。


「中身はいずれも生きている。名前は……はて、なんだったか。回収時に一応、全員の名前を確かめたのだが、私は興味のない対象の名前を覚えるのが大の苦手だ。有象無象の従者どもの名前など長期保持できない」


“影”は己の記銘力の低さを恥じるでも嘆くでもなく、藁の後ろに立ち並んだ桶状の構造物の中へ藁束を投げ入れていく。


 桶ひとつにつき藁束がひとつ投入され、全ての藁束投入が完了すると、今度はチョロチョロと水の流れる音がし始める。


 桶の縁には(とい)が走っており、水は樋の中を流れている。


 樋の側壁に設けられた小穴からピチョン、ピチョンと桶に水が滴り落ちる。


「我々は申し開きの機会を与えない。だが、反省の機会だけは与えてやろう。お前が罪を認めて反抗を()め、ロギシーンに大量の死を引き起こした主犯として痛みを痛みとして受け入れ、さらに死んでいった者たちや我々に対して心から謝罪の念を抱いたとき、我々は注水を止める。従者は全員解放し、痛苦はお前ひとりに与えよう。もし、お前が反抗を止めなければ我々も注水を止めない。元ロレアル人は我々が初期に設定した保護対象には含まれていない。それに、指揮官であるお前の脱洗脳(リフレッシュ)が成功しないままにお前の下僕を解き放つなど馬鹿げている。世界の混沌に拍車をかけることにしかならない」


“影”の理不尽かつ一方的な説明にクローシェの反発心は一層膨れ上がる。身体の自由が利けば、無手のままでも“影”に殴りかかっていたことだろう。


「解放条件を理解しても心が揺るがない。やはりお前はマディオフ人の命も元ロレアル人の命も、微塵も(たっと)んでいない。こいつらが命を懸けて信じた指揮官は根から腐っている。まあ、信じる相手を見極める眼力の無さも、こいつらの罪だ。眼力も知力も、どちらも紛うことなき力のひとつであり、『全ての者は力を求めなければならない』のだからな」


 教理を引用して嘲弄(ちょうろう)されてもクローシェの正義は挫けない。正義に燃えたところで従者を死なせることにしかならないと分かっていても、それでもクローシェの正義は熱く燃え上がる。強い怒りや憎しみと同じで、理性が制御できる代物ではない。


「講義も“罰”もこの先、何日も続く。お前の歪んだ正義がこの先、どう変わっていくのか、あるいは全く変わらないのか、見ものだな」


 瞼が再び下り、クローシェは視界を失う。


 チョロチョロ、ピチョンピチョンと水音だけが響く静かな時間が数分流れる。


 平和を破るのはキリキリと鋭い金属音だ。今度は右手、示指(ひとさしゆび)の先に鋭い痛みが走った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 圧倒的な文章力 [気になる点] 物語自体があまり進まなかったこと [一言] 更新お疲れ様です。 低下した戦力の補強とか、セルツァ達とは合流するのか等、これからの展開が気になって仕方がないで…
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