第五五話 呪いへの道程 四
徹底して期待を裏切るクローシェに私の怒りは瞬時に沸点を超え、そのまま怒りという領域すらも超えて私をある種の自失に至らしめる。
一体全体、いかなる勘違いをすればラムサスがこのパーティーの首領に見える。
あまりにも予想外、度を越して的はずれ、極度の愚かさが生んだ脅威であり、災厄であり、そして“悪”だ。
一瞬の自失から立ち直りクローシェ制圧のためにまったく新しい下描きを完成させ、こういう不測の展開に備えて遊撃役としてパーティーのやや外に配置しておいたフルードを走らせる。
……が、一歩を踏み出した直後にフルードの脚が一本空転し、転倒してしまう。
身体の感覚では何が起こったのかまったく理解できない。視界専用の目をフルードの脚に向け、そこで起こった出来事がなんなのか観察する。
すると、なにやらわけの分からないものが脚の近位に絡みついている。一言で、コレ、と明言できないゴミのような何かを蹴りの動作で振り払おうとしても、どうにもそれは取れてくれない。
浜辺に打ち上がった廃棄網のようにフルードの身体にがっしりと絡みつく、ニクズクの割面じみた外観の物体を更によく見てみる。
物体には装備の残骸と思しき金属屑が所々へばりついている。その屑が少なくない靄を纏っていると気付いた瞬間に感じた私の戦慄と言ったら無い。
それは、ゴブリンに斬られ叩かれグズグズの状態にされた女従者グレータだった。グレータは偶然フルードの毛皮に引っかかっているのではない。紛れもなく己の意志でフルードにしがみついている。
嘘だ嘘だ嘘だ。こんなことはありえない。
あの時、グレータは死んだ。アンデッドの目が生命の火の消失を見届けた。
間違いなく死亡したこいつが、なぜ今になって動く。
仮死状態から復活した?
違う。
グレータの身体に生命の火は灯っていない。
では、アンデッド化? 誰もアンデッド作成魔法を使っていないのに、こんな短時間で?
違う、それも違う。
では、どうして死体が動く。
愛? 友情? 信念? 執念?
そんな非現実的な話があってたまるか! そんなもので死体は動かない。
物事には必ず納得のいく理屈がある。たとえ、それがどれだけ嘘みたいな出来事であったとしても……。
……嘘?
『嘘みたいな』ではなく、『嘘』なのだとしたら……。
嘘という概念が脳裏に浮かび、消え去ったはずの小妖精を私は空見する。
幻覚の小妖精が私に真実を伝える。
そうか……分かった。
こいつは死してなお動いているのでも蘇ったのでもない。
グレータは最初から死んでいなかった。
魔法か魔道具の力による死の偽装、アンデッドの目を欺く偽装魔法だ!
肉塊もどきがボソボソと喋る。
「このニオイ……。なんだよ、お前ウルフ系の魔物じゃん」
死が偽装だったとしても、グレータが瀕死なのは真実だ。しかし、フルードがどれだけ身体を乱暴に動かしても、力がほとんど残っていないはずのグレータを振り払えない。
「グッ……そう暴れるなって。ちょうどお前にぴったりの物を持ってるんだ。それをやるからさ、だから、お前も私と一緒に逝け!」
グレータが片手を振りかぶり、瓶状の物体を己の身体に打ち付ける。
瓶を構成していた硝子が弾け、中に入っていた液体がキラキラと舞う。
その液体が回復剤であると私が察するよりも早く、グレータはガサガサと、およそヒトとは思えぬ速度でフルードの身体を這い上がる。
フルードの頸部まで登ったグレータが振りかぶる。此度、その手が持つは瓶ではなく、細いながらもそれなりの刃渡りがある剣だった。
「くらえ!!」
闘衣を纏った凶器がフルードの頭蓋骨やや下方に刺さる。それはまるで泥に打ち込まれる杭のように、防御に全力を注ぐフルードの闘衣を無視して深々と沈み込んでいく。
刺入はあまりにも滑らかだった。グレータが武器に纏わせた闘衣は弱々しく、仮に刃物の尖端が恐ろしく鋭利だったとしても、それだけでは刺入の滑らかさに到底説明がつけられない。グレータの発言からして、どうやら剣にはウルフ種に特化して攻撃力を増す魔法が付与されているらしかった。
生者、アンデッド、いずれであっても共通して守るべき中枢構造たる脊髄を断たれ、フルードの身体が私の操作を受け付けなくなる。
パーティーを支えたブルーウォーウルフは最期にビンと身体を伸展させると、その姿勢のままドウと雪原に倒れた。
大きな雪煙が上がり、フルードの絶命に少し遅れてグレータの身体が動かなくなる。
パーティーの外周部でフルードがグレータともつれている間にクローシェがラムサスに急接近する。
クローシェの殺意に晒されてもラムサスは反応を示さない。それだけ深く意識を失っている。
イデナにクローシェの剣を防げるだろうか。
防ぐには防げる。一合程度であれば、滅びを免れる守りの剣は撃てる。
しかし、滅びを免れるのはイデナだけだ。背に負ったラムサスの生命は守れない。
クローシェの剣はイデナの剣を弾き、身体を貫いてそのままラムサスに達する。
胸部や腹部を破壊された程度でイデナは滅ばないが、ラムサスは死ぬ。
足りない。
イデナの一手ではどうしても足りない。
フルードが遊撃役として機能する前提で組んだ配置だ。フルードが機能しないと脇の守備力が極端に落ちる。
並びの悪さ、生きていたグレータ、妨害された遊撃役、私の反応遅れ、目を覆いたくなるほど悪条件が重なった。
一手ではなく二手、それも完璧に防がないことには取り返しのつかない被害が出る。
無被害?
まだそんなことを考えているのか、私は。
きれいに制圧しようとするな。
黙ってやられるな。
優先順位を間違えるな。
全部は守れない。
なにを捨てて、なにを守るか。それは最初から決まっている。
完成度の低い間に合せのヒートロッドをヴィゾークとイデナで放つ。
クローシェの刺突剣は、非利き手に持っているとは思えない鮮やかさで炎の剣二本を払う。
よもやこんな短期間に二度、同じ防がれ方をされるとは思わなんだ。
一手には届かないが、それでも半手は遅らせた。
稼いだ半手を無駄にせず、クローシェが突きを繰り出す直前、ルカの身体を間に差し入れる。
「くっ!!」
刺突剣の先が一瞬だけぶれ、狙いはルカの胸部に変わる。
短剣をかざそうとも、闘衣で守りを固めようとも、腕力も魔力も弱いルカにクローシェの突きは防げない。
防げないものは最初から防がない。
総量の限られたルカの魔力を胸部ではなく別の部分に集中させる。
ルカの胸部正中からやや左、フルルが攻撃を受けた部位よりほんの少しだけ左に凶々しい一撃が突き刺さる。
そのままでは突きの勢いでルカの身体はゴブリン同様、後方へ吹っ飛ばされる。
突きを撃った本人のクローシェもそのように展開を予測しているはずだ。
“敵”が思い描く未来を、私は“断崖踏破”のスキルで拒絶する。
安定性に欠ける白い足元をスキルの力で思いきり掴み、吹き飛ばされるはずだった身体を無理矢理その場に固定する。
運動量に耐えきったら、そのままクローシェに抱きつき身体で身体を拘束する。
「は、離せ!!」
クローシェは闘衣を振り絞り、外骨格と外紋で身体を捻る勢いでルカの身体を剥がそうとする。
その程度でこの拘束から逃れられるものか。
事情を知らない者には、ルカがクローシェにもたれ掛かり、じゃれ合っている様にしか見えないだろう。剛の者たるクローシェがその気になれば、ルカなど簡単に吹き飛ばされるとしか思えないはずだ。
しかし、実態は異なる。
ルカは、剣を持ったクローシェの非利き腕を折りたたむようにしてクローシェの身体を己の身体で包み込んでいる。
拘束に最も重要な役割を果たしているのが、ルカの身体をクローシェに強力に接着させる“断崖踏破”のスキルだ。崖の底から這い上がるために身に付けたこのスキルは身体の部位を選ばず発動させられる。習熟すれば、手先足先だけでなく腿でも腹でも、それこそ顔でも、あらゆる部位で発動できる。
クローシェからしてみれば強い粘着力のある軟性樹脂に全身を包まれているようなものだ。
身体が自由に動かせないとなると、次に考えるのは魔力による脱出、闘衣でルカを剥がすことだが、その闘衣には安定した魔力供給がいる。
闘衣の出力が上がりきらないことにクローシェは困惑し、怒る。
「力が……闘衣が上手く構築できない!? くそっ、魔力吸収魔法か、ドレーナめ!」
この期に及んでまだ勘違いしているクローシェに、私は何も応答せず静かにドミネートを放つ。
魔力回線を二つ奪った程度では魔法抵抗が十分下げられず、ドミネートはあえなく抵抗されてしまう。
「離れないならば、こうするまでだ!」
クローシェが刺突剣の握りをクルリと変えて振りかぶる。
「くらえ!」
魔力吸収魔法が妨げられるのは闘衣の出力であって、純粋な筋肉から生み出される力は十分に妨げられない。
クローシェはルカに抱きつかれたまま身体を捩り動かし、ほんの少し自由の利く肘関節と手関節の可動域を目一杯使って刺突剣に大きな速度と極限の魔力を与え、握りを離す。
究極に効率化された小さな投擲動作を完了したクローシェの目がラムサスに固定される。
核の破壊という悲願を託した掉尾の一擲の結果を見届けんと瞠目する。
[掉尾――ちょうび。最後。とうびは慣用読み]
蝋人形のように固定されていた確信の瞳が一秒とかからずに揺らぎ始める。
「……け、剣はどこに?」
放った刺突剣がいつまで経っても視界に入ってこず、クローシェの目がキョロキョロと動く。
右の空にも、左の空にも、己の手を離れた刺突剣は浮かんでいない。
クローシェはぽかんとした顔で最後に自分の腕の先に視線を置き、真実を知る。
クローシェの非利き腕は肘の先、手首より少し胴側で二股に分岐し、その分岐の先に刺突剣はあった。
眼球が感覚器官として正常に機能していても、全く想定外の映像にいきなり飛び込んでこられると脳は映像を上手く処理できない。クローシェは見えているものがなんなのか即座に理解できていない。
音もなく開閉を繰り返すクローシェの口が混乱した胸の内を赤裸に表現している。
クローシェの腕そのものは別にどうもなっていない。単に腕から腕が生えているだけだ。
まるで接ぎ木のようにニョッキリとクローシェの腕に生えた不自然なその腕は、クローシェが消し飛ばしたフルルの左肩の先、辛うじて原型を留めていた左前腕だ。
残存した前腕部はかなり短く、『左前腕』というよりは『左手首』と言ったほうが実情に即しているかもしれない。
ユニティが噴水芸をしている間にルカに回収させておいたのは正解だった。
「これは……私が吹き飛ばした構成員の腕?」
現実を受け入れられないクローシェの心理が眼振というかたちで肉体に投影される。
「……なぜだ、なぜ動く? たとえアンデッドでも、断たれた手足は動かせない……」
憤慨、憎悪、絶望、負の万感交々を込め、項垂れるラムサスの頭にクローシェが敗者の弁を語る。
クローシェは本当に最初から最後まで“真実”が見えていない。“真実”を掴み取るには理にも利にも聡い物事をよく考えられる頭と大量の知見が必要だ。そのどちらもクローシェは全く足りていない。
クローシェが喚くとおり、アンデッドとて断たれた手足は動かせない。それは生者と変わらない原則だ。しかし、それは例外を許さぬ絶対の原則ではなく、アンデッドにのみ許された抜け道がある。
「返せ、返せ。私の……剣を……返せ!!」
すぐそこに浮かぶ刺突剣を掴まんとしてクローシェが腕を動かす。
しかし、クローシェが腕を動かせば、クローシェの腕から生えたフルルの左腕もまた動き、クローシェの手は決して刺突剣に届かない。自分の尾を噛もうとしてグルグル回るイヌと構図は同じだ。
我々も、アッシュも、ユニティも、マディオフ軍も、イヌ程度の知性しかない相手に踊らされていた。
頭の悪さが本物とはいえ、フルルの左腕でそのまま刺突剣を握っていては、なんの拍子にクローシェに取り返されてしまうか分からない。
握った刺突剣を手首の返しでこちらへ軽く放り投げる。そして空になった手掌で再びクローシェの魔力を吸い出す。
目的は魔力吸収そのものではなく当然ドミネートだ。二回線で無理ならば、三つでも四つでも回線を奪えばいい。簡単な話だ。
フルル本体をクローシェに近寄らせて魔剣クシャヴィトロをかざす。
剣の先端を向けられてクローシェの抵抗が大きくなる。
あまり暴れるな。暴れられると小さく創を刻むのが難しくなる。
死にものぐるいの抵抗をみせるクローシェを積極的に浅く斬るのは難しい。そこで、こちらからは剣を動かさず空中に固定する。すると、特になにをせずとも暴れたクローシェの首が刃に勝手にあたるので、それに合わせてスッと剣身を引く。
クローシェの頸部にひと筋の赤い線条が走る。
クシャヴィトロが魔力を吸うのに創の深浅は関係ない。どんなに浅くともひと度その刃で創傷を刻み込めば、対象との距離が少々空いても魔力を吸い出せる。
これで計三回線、三つも奪えばもういけると思うが、念の為、さらにもう一回線奪取しておこう。
魔剣を鞘にしまい、フルルの右手でクローシェの身体から魔力を吸う。これで合計四回線、これだけやればイヌ並みクローシェとて抵抗は無理だろう。
二度目のドミネートをクローシェにかける。ところが、クローシェはまだ抵抗する。
「このっ……このドレーナさえ離れれば!」
往生際の悪いクローシェが肘鉄の要領でルカの身体を押し剥がそうとする。
大量に血を失い片肺が潰れて呼吸のままならないルカの身体は筋力を発揮できないばかりか、スキルの維持すら怪しくなりつつある。
あちらはもう終わった。こちらもさっさと終わらせよう。
イデナとヴィゾークの手を伸ばし、頭部、首、腕、胸、とにかくクローシェの身体の掴める部分を掴んで物理的に拘束すると同時に魔力吸収を行う。
魔力を八回線奪われたクローシェの体内にはまだ豊富に魔力が残存しているが、同時吸引の影響なのだろう、魔力欠乏に似た状態に陥っている。
辿々しい滑舌でクローシェが呪詛を垂れ流す。
「私が死んでも……しぇ……世界は……貴様らの思いどおりには……ならんずぉ……」
構音障害のイヌは我々の目標が世界征服と思い込んでいる。
見当外れの遺言を聞き流し、三度目のドミネートをクローシェにかける。
闘衣だけでなく筋肉にも弛緩が見られ始めたクローシェは、それでもまた私の魔法を抵抗する。
……はあ?
これはおかしい。あまりにも異常だ。なぜこれだけ魔力回線を奪われていながら抵抗できる。
ドミネート不成功の原因として、私は真っ先に魔道具の関与を疑いアンデッドの目を凝らす。
クローシェの身体を上から下まで見てもそれらしき魔力の挙動はない。だが、魔道具の存在を思わせる怪しい魔力の動きはなくとも、魔力の量がどうにもおかしい。
八方向から同時に魔力を吸われているというのに、クローシェの魔力量は魔力吸収を始める前と比べてあまり減っていない。
クローシェは不完全ながら魔力吸収に抗っている……?
そうだ。だから、これだけ一斉に魔力を吸われても、期待したほど魔法抵抗が落ちない。
先天的な特殊形質か、後天的に習得したスキルか……。
いずれにしても、魔力吸収による魔法抵抗降下だけでドミネートをかけようと思ったら、本当の魔力欠乏になるまで何時間、何十時間、下手をしたら数日がかりで魔力を吸わなければならない。
「フランシスさん!」
ドミネートに手間取る間に、担当分を片付けて手の空いた奴らがこちらへ駆けてくる。
次だ。次で最後にする。次の試行が失敗したら、メスイヌのドミネートは一時諦め、“環境整備”に全力を尽くす。
うるさいもの、目障りなもの、邪魔するもの、私の障害になるものは全て完全に排除する。
では、最後に何を試行する。
私の頭に、徴兵以来一度も実用機会のなかった魔法が浮かぶ。
ずっと使ってこなかった魔法だ。これで魔法ではなく金物だったら、既に錆に錆びたナマクラと化している。
魔法そのものは錆びずとも、私の腕は錆びて鈍っている。こんなものがこいつに効くだろうか。
元から実用性に乏しかった魔法だ。これで効かなければ、もう一生使わん。
初めての実用で、いきなり重大な責任を負わせる自分に諧謔さを覚えつつ、懐かしの魔法をクローシェに放つ。
標的の魔法抵抗を減少させるその魔法、センシタイズがクローシェの全身を覆い、滲入箇所を探す。
弱体化魔法に属する魔法抵抗減少魔法はドミネートほどではないものの比較的抵抗されやすい。
ドミネートを何度も弾いたこいつのことだ。素の状態にそのまま魔法抵抗減少魔法かけたらば、まず間違いなく抵抗される。
しかしながら、ほんの少しずつとはいえ、クローシェの身体から魔力を吸い出すドレーナ由来の魔力吸収魔法とオルシネーヴァの魔剣クシャヴィトロの涙ぐましい尽力により、クローシェの魔法抵抗はこれまたほんの少し減少している。
何回も何回も私の期待を裏切り、何度も何度も私の魔法を弾いたクローシェがついに魔法の滲入を許す。
魔法抵抗減少魔法が効果を発揮した瞬間からクローシェの魔法抵抗はガタ落ちとなり、クローシェの身体を掴む手足に大量の魔力が流入する。
「今度こそ終わりだ、クローシェ・フランシス!」
四度目のドミネートを私自ら目で放つ。
白く濁っていようが、物がよく見えなかろうが、幸いにもドミネート行使の妨げにはならない。
ようやく……本当にようやくクローシェの身体が私の意識に接続される。
ドミネート成功だ。
「フランシスさん、今、加勢する!」
試行の帰結を知らないミレイリがユニティの生き残りを率いて先頭に立ち、剣を振り上げる。
やれやれ。最後の最後に拾った生命を無駄にする気か、お前は。
制止の意味でクローシェの片手をかざそうとすると、肩関節に激痛が走る。
ああ、そうだ。利き腕の肩は壊れているのだった。完治させるまでこちらは動かせない。
利き腕での意思表示にこだわる理由はない。
クローシェの身体拘束を解き、自由になった胸に空気を含んで小さく「止まれ」と命じる。
突然の制止を受けたミレイリが即座に攻撃動作を止める。
納得しての攻撃停止ではない。共闘者たるクローシェから、止まれ、と言われて、真意不明ながらも取り敢えず止まっただけだ。ミレイリの顔にそう書いてある。
それでも、こうやって止まってくれただけで感涙もの、聞く耳を持たないクローシェに比べると、良すぎるほどの物分かりの良さだ。
ミレイリが、あまりにも物分かりが良いものだから、私は一抹のやるせなさを覚えてしまう。
これもまた今更な、周回遅れの感想ではあるが、あらゆる元凶は本当にクローシェ・フランシスだった。
もし私がもっと早くクローシェを手中に収めていれば、マディオフ軍も、ユニティも、衛兵たちも、一帯に生じるありとあらゆる被害がずっと少なく済んでいた。
ミレイリの攻撃停止は無駄死にの回避成功を意味している。
あれだけ困難だったのに、たったひとり“敵”が消えただけで、こんなにもあっさりと生命を拾えるのだ、と改めて驚き、そして安堵する。
安堵は本来、心身に良好な影響をもたらすものだが、現在の私にはそれが当てはまらない。
安堵によって緊張が解け、緊張が解けた途端、体調不良が思い出したように暴れ始める。
我ながらよくぞここまで戦った。もう戦うどころではない。立っているのも呼吸するのも辛い。どこが苦しいだの、どこが痛いだの論じられる段階ではない。
視界はすぐにでも暗転し、意識がなくなりそうだ。けれども、まだだ。まだ倒れてはいけない。もう少しだけ踏みとどまれ。
あるかないかの僅かな気力を絞って周囲の状況を確かめる。
私がクローシェの魔法抵抗突破に躍起になっている間も各所で戦闘は続き、リジッドは奮戦及ばず滅びてしまったが、シーワは向かいくるもの全てを斃し、クローシェの率いる魚鱗を完全に壊滅させていた。
もうひとつの魚鱗、ミレイリの隊はクルーヴァとゴブリンたちを討ち倒し、且つ、ほぼ全員が生存した。
あれだけ大量にいたゴブリンが今やほとんど全て斃死し、もはや波とも群れとも呼べない両手で数えられそうな少数のゴブリンが遠くで呆然と立ち尽くしているのが精々だ。
絶命直前にクルーヴァから伝わってきた感覚を思い返す。
この周囲には正真正銘、生き残ったゴブリンがほとんどいない。
ほんの僅かに残ったゴブリンたちの様子からしても、二度目の“王位継承”は起こっていない。
おめでとう、ミレイリ。
お前はゴブリンキング討伐という大望を遂げた。胸を張っていい。
だから……だから、そんな顔をするな。
成し遂げたミレイリが達成感とはほど遠い顔で言う。
「おい……フランシスさん」
それはもうハンターの声でも剣士の声でもなかった。
私がマルティナ越しに治癒院で聞いたのと同じ、傷病に苦しみ、希望を失い、人生に迷った者たちの声をしていた。
「フランシスさん。聞こえているんだろ。おいってば……」
ミレイリが借り物の剣を縦にひと振りして血を払う。
ミレイリが払い、晴らしたかったものはもちろん血糊などではない。どれだけ剣に愛され、どれだけ強かろうとも、晴らせぬものがこの世には無数にある。
「フランシスさん! 俺は……俺たちはゴブリンキングを討伐した。そっちは被害甚大かもしれないが、それでもあんたはまだ生きている!!」
ミレイリを最も苦しめているのは死体となった戦闘員たちでも、生き残ったクローシェでもなく、クローシェがルカを抱きとめている事実だ。
「なのに、どうして戦わない。なんでワイルドハントの真ん中に立って、そんなに愛おしげに敵の身体を抱いている。核はどうした! 首領は倒せたのか!?」
身体の前で抱いていたルカをクローシェの背に負い直し、ミレイリは見ずに必要事項だけ述べる。
「生き残りは他にもいます。ビークの配置場所近辺に数名と、少し西の地点にも若干名。全員重傷ですが、中には一命を取り留める者がいるかもしれません。彼らを連れて街に帰ってください、ミレイリさん」
「なんだ、それ……。意味が分からん……」
受容困難な現実を突きつけられたミレイリが立ったままボロボロと涙を零し始める。
旗頭を代行していたミレイリが武人であることをやめてしまうと、もう他の者も戦闘員で居続けられない。
ある者は武器を落とし、ある者は分厚い雲のかかる天を仰ぎ、ある者はすすり泣く。
私には彼らにかけられる言葉が無い。
シーワを動かしてフルードの身体状態を確かめる。
剣の刺入部周囲は損壊が思ったよりも激しい。それに、そもそも脊髄が断たれている。たとえアンデッド作成魔法を使っても、この肉体に偽りの生命が宿ることはない。
肉塊にしか見えないグレータのほうは生きているのか死んでいるのか私にも分からない。呼吸している様子はないから、おそらくは死んでいるのだと思うが、それを確かめるつもりはない。
無意味な試みはせず、大きすぎるほど大きい遺体を無言で担ぐ。他の遺体も手の空いた手足で担ぎ、全員で退却を始める。
ミレイリのすぐ横を通り過ぎても、ミレイリは剣を撃たず、代わりに乞う。
「結局さ……あんたは最初からワイルドハントとグルだったのか……?」
ミレイリはクローシェと共闘していたが、私たちと同じく、クローシェのことは通り一遍にしか知らなかったのだろう。
私はこれからクローシェ固有の“真実”を暴く。しかし、それができるのはもう少し先だ。
「たとえ全部ウソだったとしても答えぐらいは教えてくれよ。死んでしまったそいつらも、生き残ったこいつらも、皆あんたを信じていたんだ、心の底から。それを一言も言わずに捨てていくなんて……いくらなんでもあんまりだ!」
現実の無常を歌うゴブリンキング討伐の英雄をその場に残し、我々はフィールドの奥を目指して走る。どれだけ無念であっても立ち止まることは許されない。
我々に触発されたかのように、生き残ったわずかなゴブリンたちが住み慣れたフィールドを目指してノロノロと歩き始める。
◇◇
ヒトの気配も魔物も気配もどこにも感じられない暫定的な安全地帯で、血まみれのルカの身体に魔力欠乏から脱しきれない虚ろな顔のラムサスが縋り付く。大粒の涙を流し、何度も何度も「早く治して!」と私を責める。
「もう死んでいる」
自分の言葉が自分を深く抉る。
胸が痛い、なる言い回しが比喩でもなんでもなく事実を伝えたものであると身をもって学ぶ。
「どうして? なんで……? どんな理由があってルカを治さなかったの? どんな経緯でルカを見捨てたの?」
「ルカが負った損傷は――」
「聞きたくない聞きたくない聞きたくない! 今まであなたはどんな怪我でも治してくれた! 言い訳なんて聞きたくない!!」
ラムサスが求めているのは事実を告げられることでも事情を説明されることでも、ましてや言い訳を聞かされることでもない。どれだけ鈍い私でもそれくらいは分かる。
ルカは、クローシェの一撃を心臓に受けることだけは免れたが、左の胸部を完全に吹き飛ばされた。
断たれた肺動脈からはぽっかりと空いた自由空間へ止めどなく血が流れた。右の胸部は構造的には無事だったものの左側が空虚になった影響でうまく肺に空気を充満させられず、生命維持に足る呼吸ができなかった。
クローシェのドミネートに成功した時点で、ルカの命の火は消える寸前だった。
戦場から撤退を始めてすぐに私ができる最高の回復魔法を施したが、出血過多となっていたルカの身体が魔法に反応することはなかった。そもそも、この肉体が救命不可能なことは、クローシェの剣が胸を貫く瞬間から分かっていた。
ルカの肉体は、この安全地帯を見つける随分前に命の火が消えている。たとえこの場に聖女がいたとしても、もう手の施しようはない。
皮肉なことに、ルカを刺したクローシェの背中の上で、ルカは息を引き取った。
私の魔法はなんら回復効果を示さず、功を奏したのは死の寸前の苦しみを和らげる鎮痛魔法だけだった。
生体を扱う者として、悲しみに暮れるラムサスを慰めるのは私の義務だ。だが、行動目標ははっきりしていても適切な手段を私は分かっていない。
私が何を言っても、何をしても彼女を怒らせるだけ。それでも意識が途絶える前に、最後にやっておかなければいけないことがある。
いつまでも泣き止まずに私を罵倒するラムサスへ命じる。
「下がれ。アンチアンデッド化処理をする」
せめて私の手で。
その思いから、自らの手で剣を構える。
「な……断頭なんて絶対に許さない。バニシュをかけてあげて!」
「私はバニシュの魔法は……」
技術そのものは習得している。けれども、アンデッドの手足ではいかなる聖属性魔法も使えない。
クルーヴァは息絶え、ウリトラスは目覚めるかどうか少々危うい深い眠りに就いている。
残る選択肢は……。
こいつにやらせたくはないが、他にバニシュを扱える手足がない。
ルカの真横にクローシェを立たせると、苦渋の表情でラムサスが身を引く。
聖魔法を使うのは何年ぶりだろう。最後に使ったのがいつだったのか、もはや思い出せない。魔法抵抗減少魔法と違っておざなりな練習すらしていない。
それだけ長く使わずとも、使い方までは忘れないのが、身についた技術の不思議なところだ。
バニシュの魔法がルカの身体を包み込み、身体から放たれる淡い聖なる光が私の腕と傀儡たち、その場に並んだアンデッドの身体表面を少しだけ焦がす。
魔法を行使しているクローシェ本人が何を思うかと言うと、死したルカに対してほんの少しだけ申し訳無さを感じ、また、聖魔法を行使する感覚に新鮮な驚きを覚えている。
聖魔法未習得だった点は別にどうでもいいが、殺した張本人のクローシェがルカの死を多少なりとも悼んでいるという事実に私はやりきれない思いを抱く。
こいつは上からの命令でやむなく我々と戦ったのではない。命令とは別個に、憎悪や憤怒といった我々に対する個人的感情を明らかに抱いていた。そのくせ今になって罪の意識を抱くのだから、私の神経を思いきり逆撫でしている。
怒りに耐えてバニシュを完了させる。
クローシェが数歩下がると、ラムサスが再びルカの身体の横にしゃがみ、白く澄んだルカの頬を愛おしそうに擦っては消え入るような声で呟く。
「ルカの……この女性の本当の名前を教えて」
他意のない純粋なラムサスの問いが私に沈黙を強いる。
この問いに正答できれば、多少なりともラムサスの傷心を癒やせるというのに……。
問うたラムサスは難しい問いと思っていない。だが、私にとっては解法の見えない難問だ。しかも、情報魔法使いのラムサスが相手では、適当な嘘で逃れることができない。
時間稼ぎに意味はなく、黙っていても逃げ道がどこからともなく現れることもない。
真実を告げるしかない。
「知らない」
「え……」
予想外の返答に、ラムサスが呆気に取られる。
「今、なんて……?」
「私は、その女の名前を知らない」
悲しみ一色に染まりつつあったラムサスの瞳に再び激情が宿る。
「知らないって……一体どんな神経をしていればそんなふざけた言葉が言える!」
「その女は、ヒトとして生きることを放棄して間もない頃の私が偶然、見つけた犯罪者集団の一員だ」
アーチボルクのダンジョン、墳墓の奥深くで上質の手足を入手し、いざ地上へ戻ろうとした日の出来事を思い出す。
女が所属していた集団スペルジーチェは矮石化蛇に唆され、信学校の人間を誘拐して身代金をせしめる計画を立てていた。もし誘拐対象が教会や信学校ではなく商人や為政者に関係した者たちであれば、私はこいつらを放っておいたかもしれない。
キーラやリラードの所属している教会の関係者を狙い、しかも私と出くわしたのがこいつらの運の尽きだ。
計画の全貌や首謀者たちの情報各種は今でも記憶しているが、中心人物ではないこの女の情報は、首領の女、ということくらいしか覚えていない。事情聴取の過程で仲間内での呼称を一度くらいは耳にしたのだろうが、本名のほうは一度も聞いた覚えがない。そもそも生まれや育ちによっては本名が無い可能性もある。
女を手足に組み入れた経緯を、かいつまんで説明する。
「そんなのってないよ……。私は……ルカを……」
泣き止んだはずのラムサスが、また涙を零し始める。
「あなたは悲しくないの? 悔しくないの? 辛くないの? 怒ってないの? なんでそんなに平気そうにしている!」
私は元来、無感動でも冷静沈着でもない。冷静でありたいとは思っているが、なかなかどうして己の感情制御が上手くできない。
現に今、私の胸中では様々な感情が渦巻いている。
悲しいし、辛いし、悔しいし、腹立たしい。
しかし、最も大きな割合を占めているのはそれら負の感情ではない。安堵だ。
その安堵も内訳を覗いてみると、理由、事情、しがらみがいくつも複雑に絡み、混じり合っている。
我が身が死を免れた、というのは、安堵理由の中では一割程度に過ぎない。私が安堵している理由は、自分の生命とはまた別の部分にある。
理性的なようでいて非理性的なその理由に、自分自身、強い忌避を感じる。
自分でも直視できないその理由を他者へ開示するなど考えられない。
魔力欠乏を自力で脱したばかりのラムサスの周囲に小妖精はいないが、それでも嘘は無用だ。後々必ずバレる。
いつもどおり、嘘は弄さず本心を隠せ。
「辛いし悔しいさ。では、感情任せに振る舞えばいいのか。私が感情を表出すれば満足するか?」
感情に沿った言動は、時に感情を発散させて事態の安定化に寄与するが、時に感情を増幅させてしまい、事態の悪化を引き起こす。
感情増幅が事態を好転させる可能性は皆無ではないが、かなり低い。だから、私は今まで可能なかぎりの感情表現を傀儡のルカに行わせてきた。
代償行動は概ね期待どおりに奏功して私の抱いた感情を適度に発散させ、おかげで私は無意味な感情増幅を幾度となく回避してきた。
手足加入の経緯や加入後に担った役割は違えども、シーワやヴィゾークと同じと言っていいくらい、ルカは私の支えになってくれていた。
私は、自分の感情を表現し、感情を安定化させるための手足を失った。
その結果、二言、三言、思いの丈を言葉に変換し表出しただけで感情が大きく膨れ上がっていく。
「サナは四つ、感情を列挙したな。私の中で、どれが最も強く大きいと思う?」
喋れば喋るほどその感情は増幅されていき、最大だった安堵を超えてなおも巨大化する。
過ちに気付いたラムサスの顔色が変わる。
「それはな……怒りだ。腹が立って仕方がない。なぜ、この時期にゴブリンが 大発生 を起こし、ゴブリンキングが誕生する。これまでさんざん作ろうと思っても作れなかったのに、どうして今になってクルーヴァがゴブリンキングとなる。せっかく逃げたのに、誰も殺さずに済まそうと思っていたのに、この馬鹿が追いかけてきたせいで全部台無しだ! マディオフ軍だってそうだ。半端な義心に駆られるから、結果的に被害が拡大した。全部だ! 全部そうだった! 世界全てが私の努力をふいにした! 私から奪い、私を苦しめるために動いていた!!」
感情は既に私の制御できる域を超えている。荒れ狂う感情が私に支離滅裂な発言をさせる。
「時間をかけて集めた手足を何本も失い、手に入ったのは世にも稀に見る馬鹿、イヌと同程度の知性しかない盲信者だけだ! こいつは私から奪った手足数本分を超えるはたらきができるのか? 私を執拗なまでに敵視し、あらゆる責任の所在を私になすりつけ、何本も手足を潰してくれたこの女が! こいつの顔を見ていると腹が立つんだよ!! 面だけエヴァと同じの、この最低最悪のクズの顔がなあああああああ!!!!!!!!」
感情に任せ、全力で握り拳を作る。
振りかぶり、腕を伸ばし、そしてそれがクローシェの腹に届く直前、ギリギリになって理性が働く。
クローシェは私の傀儡だ。
私が操作しなければ防御は一切できない。完全無抵抗の状態で、重要臓器が集まる腹部に闘衣を纏った本気の拳打を受けてしまうと一撃で死に至る。
アンデッド化した私の腕を覆う拙い闘衣は急ぎどうにか散らすものの、拳についた勢いばかりは完全に止められず、胴軽装越しにクローシェの腹部へ衝撃を伝える。
撃力によってクローシェの身体が小さく浮き、後ろへ下がる。
臓腑の潰れる痛みがクローシェの身体を襲う。鋭い痛みが走ると同時に横隔膜が急速に収縮し、少し遅れてねっとりとした鈍く強い痛みが腹部全体に広がる。
クローシェの呼吸は一瞬だけ止まり、それから一気に荒くなる。
全身の皮膚からブワッと汗が滲み出し、涙によって視界がジワリと滲む。
突然かつ急激な腹圧上昇に反応した腸は逆蠕動を開始し、喉に酸いものがこみ上げる。ドミネートでの傀儡操作を超える肉体の自然応答によりクローシェは咽び嘔吐く。
「ゲエェ……オグアァァ……コフォォオオオォォ……オッ、グェアアァア……」
私が身体操作の一部を放棄すると、クローシェの身体は地面に横倒しとなる。
クローシェは腹を押さえて身体を丸め、胃液を混じた有色の泡を口角からダラダラと流し、腹を打ったもの特有の嘔吐きと奇妙な呼吸を交互に行う。
ラムサスがルカの身体から手を放してガバと立ち上がると、クローシェと私の真ん中に入って大声を出す。
「こんなことをしろとは言ってない!」
感情を出せだの、手はあげるなだの、ピーチクパーチクうるさい。
慰めを欲しているのはラムサスだけではない。ヒトの肉体を借りている私も一時の慰め、怒りの矛先を欲している。
「前」を含めて私は何度となく人に痛苦を与え、時にその行為をそれなりに楽しんだが、嗜好の問題か、娯楽と言えるほどの快感を得たことは無い。そんな私でも相手がクローシェとなると、どうやら話が変わるらしい。
ドミネート越しに伝わるクローシェの苦しみは思いの外、私の心に快の感情をもたらしている。
もっとこいつを殴ったら、私の心はもっともっと癒やされる。
うるさいラムサスなど無視すればいい。
心ゆくまでクローシェを殴ったら、さぞかし気分爽快となるであろう。
幸いにも私は回復魔法をそれなりの水準で習得している。
快感は繰り返し味わえる。
二回壊したら、二回治せばいい。十回壊したら、十回治せばいい。
やり過ぎさえしなければ魔力が底を尽くまで何度だって壊せる。
何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも何度でも。
約束された強烈な快感への期待に口角が吊り上がっていくのを感じる。
そうと決まったら腹部の負傷程度を確認しよう。
イデナをクローシェに近付けようとすると、ラムサスがその前に立ちはだかる。
「どいてくれ。そいつを治す」
小妖精のいないラムサスは私の言葉の意味が深く分からない。言葉を額面どおりに受け取っていいものか迷う彼女の肩を押して横を通り、クローシェの身体に魔法をかける。
その魔法が攻撃魔法ではなく治療前段階として用いる変性魔法と分かったラムサスがホッと息を吐く。
私の苦手な変性魔法がクローシェの身体状態を解析する。
マルティナの身体を介して同魔法を使った時に比べ、得られる身体情報の解像度は著しく低い。
それでも分かるのは、クローシェが微小な内臓破裂を起こしている、ということだ。
放っておけば致命的となる可能性が僅かにあるが、速やかに適切な治療を施せば重症化にすら至らない。
そこまで治療を急ぐ必要はない。もう少しこのまま放っておくか。
殴られたばかりの腹部は時間経過と共に痛みが増しており、まだまだ軽減する気配はない。
過剰なほど強い痛みの信号により、痛みを痛みとして感じ取るクローシェの脳が処理限界を超えて過熱する。
過熱した脳が行き着く先は白い消失、星々の瞬き、沸騰する鍋、要は痛くて何も考えられなくなる。
ところが、限界を超えたはずのクローシェの脳が急速に冷え始め、波が引いたようにスッと静かになる。
腹部の痛みが消えたわけではない。痛む腹はそのまま痛い。脳が痛みの処理を拒絶したのではない。痛みを痛みと認識したうえで、なぜか正常な機能を再開した。
いや、正常な機能どころかそれ以上……。
やる気、活力、現状打開への意気、未来を掴み取る決意。
単純な“生きる力”とは違う。これは“救済への意志”だ。
痛みによって生み出されるはずの負の感情はどこにも見当たらない。ありとあらゆる正の感情がとめどなく湧き上がってくる。
脳が痛みを克服した、とでも言おうか。脳が強くなれば、身体の反応もまた変わる。
痛みが痛みを呼ぶ悪循環は停止し、嘔吐反射が落ち着き脂汗はひいていく。
突然の疼痛克服に私は困惑せざるをえない。
「なにがどうなっている……?」
私に操作されているクローシェは自らの意志で何らかの魔法やスキルを発動させることはできない。
ただ、本人の意志とは無関係に機能する魔道具や自動発動型のスキル、あるいは常時発動型スキルであれば、そのかぎりではない。
一部始終を見ていたヴィゾークたちの目には、魔道具の効果発現を思わせる魔力の動きは見えなかった。魔道具の線は薄い。
そうなると、体外から干渉を受けたのではなく、体内で起こった現象と考えるのが自然だ。
目の前の不可解極まりない現象を理解すべく真剣に考察する私をラムサスが邪魔する。
「ノエルこそ、本当にどうしてしまったの」
ラムサスの発言には応答する価値がない。無視だ、無視。
考察に戻ろう。
私はこれにちかい感覚を知っている。
一体、なんの感覚だ?
つい最近も何度となく体感したような……。
まさか……。
いや、そうだ。
この感覚は自動再生にどことなく似ている。効果のほうは似ているとは言えないが、系統的には近い、なんらかの共通項を持つスキルに違いない。
クローシェはこのスキルをどこでどうやって手に入れた。こいつの正体はなんだ。敵国が送り込んできた工作員だから、という簡単な説明では到底納得できない。
こいつのことは、小妖精と審理の結界陣を使ってつま先から頭の天辺まで調べ上げる。それは誰になんと言われようと行う確定事項だ。
だが、精査云々以前に私の深層意識はこいつの正体の一部を突き止めている気がする。
表層意識と深層意識の間に生じた溝を埋める材料を求め、比較的新しく積まれた記憶の山を掘り返す。
クローシェの出身はゴルティア……驚くほど高水準の解呪能力……歪んだ正義を盲信し、それに向かって突き進む常人離れした意志力……痛みに克ち、意志を増大させる謎のスキル……。
一見すると繋がりがない、孤立しているとしか思えないこれらの事実を結びつける鍵がどこかにある。私は知っているはずだ。
それはなんだ。
……。
…………。
ダメだ、思い出せない。
ゴルティアに関連したことなのだから、ゴルティア出身であるはずのダグラスの記憶なのだ。
どうして私は今になってもダグラスの記憶を思い出せない。私が、私自身が今、心から欲しているのだ。それなのに、なぜダグラスの記憶は復活しない。
ああああああああ!!!!!
考えても考えても通底を見つけられずに激しく苛立った瞬間、鍵の代わりにその苛立ちの感情が乱雑に散らばっていた事実の中心へコトリと音を立ててはまる。
「ああ、そうか……。そういうことだったのか」
それは純正の鍵ではない。そもそも複製鍵ですらない、少しばかり形が似ているだけの別物だ。
それでも鍵の代わりとして機能し、錠は開いた。
表層意識と深層意識の間を固く安定した土で埋め立てるつもりが、今や溝には濁った感情がドクドクと流れ、離開を徐々に広げていく。
悲哀、憤怒、羨望、無力感。
複雑怪奇な流れをひと掬いしてみると、手柄杓の中にあったのは喜びだった。
これは私が心から欲したものではない。しかし、だからこそ欲望の赴くままにやっていい。遠慮も気兼ねも無用だ。
「ふふふ、あははあぁ……」
濁った私の空笑にラムサスが身体をビクリと強張らせる。
「……分かったぞ」
「なにか分かったと言うなら、独り笑いなんかしてないで私にも教えてよ。気持ち悪い」
情報共有を求めるラムサスをグルリと振り向くと、ラムサスは心底気色悪そうに身を後ろに引く。
自分から求めておきながら失礼な反応だ。
「こいつはな、因子保有者だ」
「キャリア?」
「クローシェ・フランシスは最高だ。最高の実験材料だ。若く、強い因子保有者を重大な破損なく、私は手に入れた。私が手に入れた因子保有者は私の命令を全て受け入れる。これが笑わずにいられるか。はははっ。あっはっはっは!!」
ロギシーンでの損失は確かに大きい。だが、思いがけず、損失分を補って余りある利を食えた。しかも、その利が私のこれからのやり方次第でいくらでも大きくなる。
どうして私は今の今までクローシェの正体に気付かなかったのだろう。気付いた今となってはむしろ気付かなかったのが不思議で仕方ない。
悲しみも怒りも後悔も未来の不安も、今だけは忘れよう。汚れた期待が既に真正面だけは塗り替えてくれている。
足元を見ず、後ろは振り返らず、前の前は見ないようにしておけば、ほんの少しの間、喜び一色の道を歩いていられる。
喜び笑う私にラムサスが魔法をひとつかけようとする。
私は傀儡を動かし、ラムサスの片手を掴み上げる。
「頼まれもしない魔法をかけようとするな」
片手を掴み上げられてなお鎮静魔法を私にかけようとするラムサスが、もう片手で魔力を練って言う。
「あなたは疲労と動揺で正常な思考ができなくなっている」
幻惑魔法がいくら省魔力とは言え、魔力の足りない今のラムサスが鎮静魔法を放つのは危険極まりない。
魔法を妨げるべくラムサスのもう片方の手を掴もうとするものの、『疲労』という言葉の意味を考えて、つい私は動きを止めてしまう。
そういえば、私は疲労の極致にあった気がする。
そうだ。すごく疲れて、すごく眠くて、すごくしんどくて……。
正体発覚に興奮して忘れていた疲労が私の身を襲い、それに少し遅れてラムサスの鎮静魔法が私に適用される。
身体を支えていた強い感情が抑制されると、途端に身体が動かなくなり天地が揺らぐ。
雪に倒れ込んだ私に誰かが何かを喋っている。おそらくラムサスが私に向かって話しているのだとは思うが言葉の意味は分からない。そもそも本当に聞こえている音ではなく私が勝手に聞いている幻聴かもしれない。
倒れ込んだ地面は雪のはずなのに温かさに包まれている感覚がある。雪がこれほど良い寝具だとは知らなかった。
しかし、眠るにしてはあまりにも眩しい。雪は木漏れ日の眩しさを増幅させる。
白い、白い、白い。
温もりと眩しさとほんの少しの雑音に囲まれて、私は意識を失った。




