第五四話 呪いへの道程 三
真夏の直射日光に素肌を晒したときに似た、チリチリとした微弱な痛みをいたる手足から感じながら歯噛みする。
こんな……こんなことは許されない。
まさかクローシェが切り札であるはずのヴェレパスムを手放し、しかもそれを四方に展開した中で最も小勢の部隊に持たせるとは……。
もし私が左に回ったケイドの部隊ではなく、前方に回り込んだ騎馬部隊へ最初から魔法攻撃を集中させていれば、事実上それで決着がついていた。
クローシェは、とても正気とは思えない狂った賭けに出たものだ。
しかし、実際私は四択を外した。
……だからなんだ。まだ決着はついていない。賭けの結果がそのままこの戦闘の結果とはならない。
幸いにもヴェレパスム持ちの部隊は我々から少し離れた位置にいる。
手足が聖光によって受ける痛みはそこまで強くない。私の思考はまだ機能している。手足の戦闘力低下も無視できる程度だ。
頭は働き、手足が動く。まだいくらでもやり様はある。もう一度、あの騎馬部隊に魔法を撃って……。
……。
いや、それではダメだ。
先と同程度の魔法を繰り返したところであの防御魔法とグレータとかいう女従者の守りは突破できない。
ではどうする。従者どもを確実に葬る高威力の魔法を構築しようにも、我々の目の前にいるクローシェがそんな余裕を与えない。
魔法で無理なら近接して……。
いや、それも無理だ。
奴らが馬に騎乗している理由を考えろ。
我々が寄れば従者どもは退く。そのための騎馬だ。
では、どうすればいい。
なにか、なにか手はないのか!?
私が次の一手を打てずにいる間に、ラムサスが風魔法を放つ。
狙いはヴェレパスムを持つ従者ビーク、弾速は速く照準も申し分ない。ただし、他になにも奇をてらったところがない。
残念ながら、風魔法は火魔法と並んで撃力に乏しい属性だ。
あわれラムサスの風魔法は、張り直された防御障壁によって簡単に弾かれてしまう。
こちらの攻撃魔法が向こうに届かない一方で、騎馬部隊から放たれる聖光はこちらへ届く。純粋な攻撃魔法ではない聖属性魔法は僚員の展開する防御障壁が彼我の間に張られていようがお構いなしに通り抜けてくる。
これほど忌々しいことはない。
「滅びの時だ!」
あたかも日光を浴びて植物が生命力を漲らせるように、聖光がその場を照らすと同時にクローシェの剣の躍動性が一気に増す。
魔道具保護という名の戒めを解かれたクローシェは実力を出し切っているものとばかり思っていたが、まだ戦闘力を引き上げる余地を残していたらしい。
ヴェレパスムの聖光とクローシェの剣気に導かれ、偽従者たちも攻勢に転じる。絶空を使いこなせていなかったのはふりでしかなかった。
下手が上手になったわけではない。ド下手が下手になった、という程度の、極めて次元の低い変化でしかない。それでも、その拙い剣撃が十分以上に我々を苦しめる。
たとえ聖光被害がそこまで大きくなかろうとも、ユニティ側の攻めの意識が増しただけで我々はもう手が追いつかなかなくなる。
特にクローシェの相手が厳しい。
後手の対応ながら、フルードをシーワの支援に回らせる。
貴重な戦力であるフルードをクローシェ対応に回らせても余裕は全く生まれない。
クローシェは四脚の魔物との戦いに慣れつつあり、対するフルードは創と疲労が増していくばかりだ。
思考の余裕があるならば相手を下す方法を考えればいいものを、私は考えなくてもいいことばかり考えてしまう。
ラムサスの意見に従っていれば。
四択を当てていれば。
相手方の被害減少など無視して思いきり攻め手を打っていれば。
この窮地を避けるための手段はいくらでもあった。
全ては私の愚かな選択が生んだ必然だ。
私が無価値なことを考えていると、クローシェが叫ぶ。
「ニーアコム!」
叫びは従者への合図だった。
クローシェの命令に従い、騎馬部隊が我々との距離を少しずつ詰め始める。
今更追い打ちをかけずとも、このまま戦闘が続くだけで我々は滅びる。
ただ滅ぼすだけでは満足できず、完膚なきまでに打ち倒し、完全勝利に酔いしれたいのか。
半ば呆れてクローシェの顔を見やる。
さぞかし腹黒い笑みを浮かべているかと思いきや、意外や意外、クローシェの表情はこれ以上ないほど切羽詰まっていた。
その顔に、私はまだこの肉体が小さかった頃、初めてリディアと剣を撃ち合った日のことを思い出した。
クローシェとリディア。顔立ちは似ても似つかないというのに……。
クローシェの顔に浮かぶ焦りが私に少しだけ冷静さを取り戻させる。
追い詰められているのは我々だけではなかった。
圧倒的に有利な形勢を作り上げたユニティにも、彼ら本人たちにしか分からない焦りや苛立ちがあり、余裕などどこにもない。
そうだ。
自分たちだけでなく相手方も苦しい。
そう気づいただけで、それまで見えなかったもの、分からなかったものが分かるようになる。
形勢の悪さを理解しているのは私やラムサスばかりではない。
ドミネートによって操られた物言わぬ手足も手足なりに形勢不利を理解し、打開策を心中で考えている。
手足それぞれが思い描く打開策の中で、実現性及び即効性の面で最も有望と思われる一案。
傀儡の思い描くイメージは伝わっても思考までは伝わらない。ゆえに案として採用できるのは複雑なものではなく、単純なものに限られる。
だが、実用どころか試用経験すらないそのスキルがこのぶっつけ本番で用をなすのだろうか。それも、こんな知性の低そうな魔物の発案を……。
そういえば、私がイメージを採用するのはヴィゾークとシーワ、ルカばかりで、それ以外の傀儡のイメージを採り入れた例は皆無に等しい。
最後になるかもしれないのだから、この青くて茶色い、表現の難しい色になった手足のイメージを一度くらいは現実に投影してみようではないか。
そうと決まれば、思いついたばかりの自案も使っておかぬ手はない。心残りは最小限に。
いっそ手足が思い描く案を全てやりたいところではあるが、慣れない操作をあれもこれも同時に行うのは非現実的だ。
投入するのは二つ。うち、ひとつでも機能すれば、この劣悪な流れが少しは変わるはずだ。
クローシェの相手と瘴気の展開、重要な作業を二つ担当させていたシーワにもうひとつ作業を追加する。シーワの不得意な変性魔法に該当する、少々無理のある追加注文だ。
その無理な依頼を土壇場でシーワがこなす。
「これは!?」
シーワと対峙するクローシェが、生じた変化に誰よりも早く気付く。
「瘴気に再注意しろ!」
精々無駄に注意するがいい。よほどの幸運にでも恵まれないかぎり、お前たちではこの新しい瘴気の効果を見抜けない。
“絶空”を使いこなせるクローシェでも、新瘴気の未知の効果を恐れてほんの僅かに剣の冴えが落ちる。
闘衣の技量が半端な者たちは、新瘴気を展開させた張本人である私自身、驚いてしまうほど顕著に動きが悪化している。
そういう狙いは無かったのだが、くくく、悪くない。これは思わぬ副次効果だ。
ミレイリにいたっては瘴気の変化を察知した瞬間に攻撃を完全に止め、クルーヴァから間合いを取っている。
ソロハンターらしいと言えばらしい、危険回避に重きを置いた判断だ。
これも私にとっては好都合な想定外だ。おかげで、私が最も欲していたクルーヴァの“ひと呼吸”が手に入った。“ひと呼吸”を設けるために必死に考えていた手筋のあれやこれやは全て省略できる。
転がりこんだ好機を逃さず、ブルーゴブリンの肺一杯に思い切り空気を吸い込む。これ以上吸いきれないほど空気を溜め込んだら、あとは余計なことを考えずに一気に吐き出す。
特別意識せずとも“王成り”したブルーゴブリンの喉からゴブリンキングの名に相応しい叫びが飛び出す。
およそゴブリンの喉から出てきたとは思えぬ重厚な響きが邪悪な聖光に染まった一帯の空気を激しく振動させる。
突然の叫びを聞き、その場のヒトたちはわずかな動揺を示す。ただし、あくまで腹にまで響く大音量に対して当たり前の反応を呈しただけで、ドラゴンの咆哮を浴びせられたときのような恐慌にちかい特別な衝撃を受けている様子はない。
「今更になってゴブリンキングらしい真似をしたものだ」
長年のハンター経験に基づくものか、それともごく最近オレツノで経験したのか、ミレイリがクルーヴァの“叫び”の意味をよく理解した風に言う。
話し方こそ落ち着いているものの、ミレイリの眉間にはくっきりと青筋が立っている。怒れるミレイリは静かに周囲の様子を窺う。
「どうやら、誰も今の雄叫びの意味が分かっていないようだな……」
クルーヴァに倣うようにミレイリも大きく息を吸い、大声で叫ぶ。
「急ぎ決着をつけるぞ、フランシスさん! すぐにゴブリンの大波が押し寄せる!」
ミレイリから“叫び”の意味を告げられてもクローシェはミレイリをチラリとも見ない。
指揮官と違って容易に心を乱される部下たちは一層動揺した様子で東の方角に目を向ける。
「ビーク!!!!」
クローシェは、もう軍事符牒すら使わずに従者の名前一言で簡潔に指示を飛ばした。
情報魔法に頼らずとも指示内容は明快だ。
我々にダメージを与えるには、ヴェレパスムの位置があまりにも遠い。
距離をもっと詰めろ、と言っている。
クローシェは部下を鼓舞するように、より勇ましい動きでシーワに剣を撃つ。剣術としてより強く、より巧緻になったわけではないが、大きく派手な動作が部下を触発する。
クローシェの一言で新瘴気に及び腰になっていた前衛戦闘員たちが、これまたクローシェによって刺激され、ひとりまたひとりと戦意を取り戻し、我々への攻撃を再開する。
彼らはたった一合撃ち合っただけで気付く。クローシェやミレイリでは気付けぬ事実に、“絶空”が満足にできない彼らだからこそ気付いてしまう。
「この瘴気……もしや曝露しても身体が冒されない?」
「た、たしかに。撃ち合っても身体はなんともない!」
「新しい瘴気は見掛け倒しだ。“絶空”は要らない! 普通に“絶”を使って戦え!」
闘衣の失敗一度で絶命に至らないと悟り、ユニティ勢の士気が俄然高揚する。
勢いの力は侮れないものがある。
自らを正義と信じ、勝利を確信した知恵なき暴力が我々の手足に次から次へと襲いかかる。
数の暴力に曝され、我々は守勢一辺倒になる。攻める手は撃たず、守って守ってとにかく守る。
勢いはユニティ戦闘員と衛兵たちを後押しした。
では、ミレイリやクローシェもまた勢いづいているかというと、それは全く違う。
曲がりなりにも現状を理解しているがために、迷いや焦りが生まれ、勝負を急いて強い剣を撃っている。
ミレイリの剣もクローシェの剣も、それぞれ独自の特徴を持つが、技巧派という点では共通している。確かに破壊力は一流の剣士として申し分ない。しかし、レヴィが撃つ威力型の剣と比べれば、ミレイリもクローシェも、共に圧倒的に技巧派だ。
技巧派の剣は巧緻性が命だ。それが力みの隠しきれない強い剣を撃ってしまっては、長所を自ら捨てているに等しい。
特にミレイリのほうは借り物の武器で正道の剣を撃ち、そしてそれが絶妙なバランスを生んでいたというのに、ほんの少し力んでしまったがゆえに全体の調和が取れないガタガタの剣になってしまっている。
力に頼った青い剣……今ならカウンターが取れる。
徹底して守らせていたクルーヴァに、反撃を狙える防ぎ方をさせる。
すると、そこはさすがのミレイリ、すぐさま受け方の変化を察知する。
「むっ!? その捌き方は……」
ミレイリの剣が、それまでとはまた違った迷い方を見せ、代わりに焦りが消失する。
ミレイリはもうクルーヴァを倒すことに執着していない。斬り結ぶ中でなにかを思い出そうとしている。
これは非常に良くない記憶探訪だ。
グレンと同類の、知性とは無縁の馬鹿剣士のくせして、どうして思い出さなくていいことだけは思い出そうとする。
ミレイリ相手に、部室で使い倒した守りの型を披露したのは迂闊だった。
それに、ミレイリが力押しをやめてしまっては、私がこれ以上カウンター狙いを続けることに意味はなくなる。
記憶漁りに励む悪いミレイリから、考え事をする余裕を奪うため、こちらから積極的に手を繰り出していく。
過去に私が部室で撃っていた剣とは似ても似つかぬ、ゴブリンの本能から放たれる魔物の剣だ。
「なんだ、また型が変化した?」
クルーヴァの撃つ剣からヒトの剣術のニオイが消えると、ミレイリの対応もまた変わる。
「ゴブリンとは思えぬほど多様な剣を撃つ……が!!」
迷いに迷っていたはずのミレイリの剣が一瞬で鋭さを取り戻す。
ミレイリはそれまで、クルーヴァをゴブリンキング、つまりは魔物として認識していながらも出会い頭以降は概ね対人剣を撃っていた。なぜならクルーヴァの撃つ剣が完全にヒトの型をしていたからだ。
それが、クルーヴァが魔物の動きを始めたことにより、ミレイリも対人剣を撃つのを止めて対魔物の剣を撃ち始める。
動作一切を風魔法で加減速した、剣士ではないハンターとしての戦い方だ。
「らあああっ!」
ミレイリは部室では見せたことのない複雑怪奇な身体捌きでクルーヴァの剣を躱しては返しの剣を撃つ。
初見殺しの剣とも正道の剣とも違う、初めて見せるミレイリの動きに私の対応が後手後手となる。
経験ではどうにも対応できず、身体能力頼みで回避を試みる。
また一合、ミレイリが剣を撃つ。
クルーヴァの身を全力で捩り、斬撃が体幹に直撃することはどうにか免れるも、避けきれなかった片腕が接続を断たれて空を舞う。
「とったああっ!」
体勢を崩したクルーヴァにミレイリは討伐を確信した剣を撃つ。
そこへ一陣の突風が舞い込む。
「なにっ!?」
風によって軌道を逸らされた剣が、クルーヴァのほんの首横を掠める。
間一髪の窮地をラムサスが救った。
横槍によって一瞬動きが停止したミレイリの身体を、長いとは言えないクルーヴァの足で全力で蹴り飛ばし、ミレイリの体勢を崩しがてらに距離を取る。
ミレイリに苦戦する間に、クローシェ他との戦いにも進展もとい後退が見られる。
焦るクローシェと勢い付く戦闘員らの怒涛の攻撃をひたすら守って耐えていても、致命傷には至らない創が手足の身体に新しく数え切れないほど刻まれてしまう。
我々が損害を負うのはユニティにとって朗報のはずなのだが、彼らは我々の傷が増えるほどに狼狽の色を濃くしていく。
「おい……。あのウルフみたいな動きをする巨大馬の目。あれ、完全に潰れているよな……?」
「多分……いや、絶対に潰れている」
「なら、どうして戦闘が継続できる!? それも、見えているとしか思えない動きで!」
「知るかよ、そんなの」
「ワイルドハントの構成員だから……なのか?」
アンデッドは心臓を突かれても動く。首が三分の一ほど断たれても戦い続ける。
アンデッドをよく知る者は、アンデッドの継戦能力の高さを目の当たりにしてもイチイチ狼狽えない。
しかし、偽りの生しか持たぬアンデッドは、なりたてでもないかぎり、たとえ負傷しても乾いた身体から血を流すことはない。
では、我々の重要戦力たるフルードは彼らの目にどう映るか。
フルードの眼窩は貫かれ、わずかな血液とゼリー状の硝子体で目元が濡れている。眼以外の全身も赤く染まり、しかもその赤い範囲がジワリジワリと広がっている。それが返り血ではなく内から流れ出ているものなのは誰の目にも明白だ。
素人目にもフルードはアンデッドではなく生者である。だからこそ、継戦不能な傷を負ったまま戦うフルードの姿はユニティを戸惑わせる。
そしてその姿には、指揮官たるクローシェにも動揺を与えている。
フルードに浅からぬ傷を負わせたのだから、クローシェは自信を得て、剣の鋭さが更に増しても不思議はない。ところが実際には剣の勢いが急激に低下している。
それはそうだろう。
生者が生者らしからぬ様で戦っているのだ。
はたしてフルードの心臓を突いて絶命するのか、首を切り落して動かなくなるのか、理非や道理の分からぬクローシェでもそれくらいは考え、そして大いに不安になっているであろう。
生者に生者の常識が通じない。では、アンデッドにアンデッドの常識が通じるのか。シーワの首を落としても、頭を潰しても偽りの生命が尽きなかったら……。
フルードが戦い続けられる理由に見当のつかないクローシェたちは今、ありもしない幻覚に苛まれている。
私の狙った展開とは少々違ってしまったが、結果的に時間は稼げた。不満と言えるほどのものではない。
ヴェレパスムを大事に掲げてにじり寄り続けていた従者ビークが、時間経過によってその場に姿を現した災厄を高らかに叫ぶ。
「次将!」
わざわざ声に出さずとも、ビークの言わんとすることがなんなのか、その場の全員が分かっている。
「ゴブリンの波が、もうそこまで迫っています!!」
ギャアギャアという独特な鳴き声と雪を踏みしめ走る大量の足音をこれだけ賑やかに立てているのだ。
どれだけ激しく斬り結んでいようとも、気付くな、というほうが無理な頼みだ。
鈍いながらも剣を撃ち続けていたクローシェの動きがついに止まる。
奴の目はシーワから離れない。ゴブリンの接近は耳だけで確認している。
クローシェが不審に思っているのは、光を失って戦い続けるフルードだけではない。
ヴェレパスムとの距離が狭まり、強い聖光を浴びながらも戦闘力の低下しないシーワらアンデッドたちを訝っている。
クローシェだけではない。口には出さずとも、他の戦闘員たちも内心、動きの鈍らないアンデッドたちを不思議に思い、そしてその理由に薄々ながらでも察しがついているはずだ。
聖光曝露下でもアンデッドの手足が動き続けられる理由は多分に漏れず新瘴気にある。
この新しい瘴気は生体侵害性に乏しい。長期的にも無害なものかどうかまでは私もまだ分かっていないが、少なくとも短期的な影響がほぼないことは彼らの予想に違わない。
生体侵害性を喪失し、代わりに得たのが聖光遮蔽特性だ。ただ、我々が戦闘力を維持できている理由は新瘴気が機能したことよりも、ヴェレパスムの聖光が弱まっていることが大きい。
可視光という観点においては、ヴェレパスムの光量は維持されている。しかし、保たれているのはあくまでも明るさだけだ。肝心の聖なる波動は見る影もないほど減弱している。
クローシェが焦っていた理由はもしかすると波の到来が迫っているからではなく、ヴェレパスムに装填された精石の魔力残量が僅少であると知っていたからかもしれない。
少しだけ穏やかな気持ちとなってクローシェの様子を改めて観察する。
クローシェは声をほぼ出さずに唇だけを動かしている。どこかに合図を送っているのではなく、無意識に発している独り言のようだ。
聞き取り困難なクローシェの発言を唇の動きから読み取る。
『ドメスカと同じ……を叩かないと……』
クローシェはそれだけ言うと力の抜けた動きで構えを取り、濃密な魔力を練り上げていく。
大掛かりな溜めから放たれるは十中八九、街中で披露し損ねた必殺技だ。
我々がこれに力で対抗できたらどれだけ話は楽か……。
クローシェは稀に見る明確な敵、この場におけるたったひとりの真の敵だというのに、私が殺してはならないのもクローシェただひとり、なんとも皮肉な話だ。
あろうことかクローシェはレヴィとは比較にならないほどの軽装備しか纏っていない。私がクローシェの必殺技に張り合ってジオバスターを撃ちこんだ日にはクローシェを死に至らしめてしまう可能性が高い。
はてさて、これはどうしたものか。
私がどれだけ難題に直面しているか知らないクローシェは練り上げた魔力の集中する刺突剣の先端をゆらりと揺らし、あとはなんの前置きもなしに突っ込んできた。
仕掛けてきたクローシェが小妖精の能力圏に入り、ポジェムニバダンが反応を見せる。
小妖精はなにかしらの情報を召喚主であるラムサスに送ったのは間違いない。しかし、ラムサスは沈黙を守っている。
小妖精が拾ったのはことさら言う価値のない情報なのだろうか。
ええい、今はそれ以上考えるまい。
私は私なりに自分の眼力でクローシェが放たんとしている技特性について推測する。
奴の身体と剣身に籠められた魔力量は魔力密度こそまずまず高いものの、絶対量はそこまで多くない。すなわち、レヴィのディスピューションやミスリルクラスの魔法使いが放つ大魔法ほどの広範囲殲滅攻撃が撃たれる可能性は極めて低い。
刺突剣という武器特性や剣士としての奴の方向性からしても、威力特化の一撃ではなく連撃型のスキルが放たれるはずだ。
私は連撃防御が得意ではないが、得手不得手を言ってはいられない。
波はすぐそこだ。私は無理にカウンターを狙わなくていい。損害を最小限に防ぐことだけ意識しろ。
重要局面を迎え、シーワの操作に無意識に力が入る。
落ち着け。緊張と弛緩の釣り合いが取れていない。
連撃防御に尋常ならざる膂力は求められない。力まずともシーワは十分以上の膂力を備えている。
必要なのは速さ、精緻さ、そしてなによりやわらかさだ。
手本として思い描くべきは、ジャイアントアイスオーガに代表される力の剣ではない。理想に最もちかいのがリディアの剣だ。
……リディア・カーター、マディオフの未来を背負って立つ天才剣士。そんな彼女の利き腕に私が与えてしまった負傷……あれは、完全に元には戻らない。
私が刻み込んだ怪我ではあるが、そうならざるをえない状況に追い込んだのはゴルティアとクローシェ・フランシスだ。
実行犯ではない、と空惚けられるとは思うなよ!
私に似つかわしくない滾る思いを込め、しかしながら無駄な力は込めずに剣を撃つ。
振り下ろしたシーワの剣をクローシェが受ける。
今までの奴とは違う、かなり無理のある受け方だ。
振り下ろしは最も力の乗る斬撃だ。その撃力に女の身体で、しかも無理な体勢で受け止められるわけがなく、クローシェの利き腕の肩関節が正常な可動域を超えて動く。
クローシェは肩の犠牲を厭わずにそのまま力ずくでシーワの剣を後ろへ受け流し、己の身体を前に滑り込ませてシーワの脇を通り抜けていく。
クローシェは使い物にならなくなった利き腕から一瞬で武器を逆の手に持ち替え、今度はフルルに狙いを定める。
戦闘力でシーワに劣るフルルなら容易に討てると思ったか。アデーレ・ウルナードと同じ失敗の道を辿るがいい。
思いがけず生じたカウンターの好機に、狙う気のなかったカウンターを叩き込むつもりでフルルを操作する。
だが、クローシェの動きが私の想定を上回って加速する。余裕で避けられると思われたクローシェの剣が急速にフルルに迫る。
判断を誤った。欲を出してカウンターを狙おうとはせず、最初に決めていたとおり守りに徹するべきだった。
もう完全に避けるも防ぐもできない。
無傷で乗り切るのはどうやっても無理、ならばわずかなりとも返しておく。
クローシェの突きがフルルの左上半身を撃ち、フルルの薙ぎはクローシェの胸部をそれぞれ撃つ。
フルルの左胸は内側三分の一ほどを残して肩、上腕一緒に消し飛び、左前腕中央から先は血飛沫も上げずに聖光に照らされた空を滑り飛んでいく。
手足に受けた損害は大きい。だが、クローシェに与えられた被害は期待したほど大きくない。ヴェレパスムの聖光は私が自覚する以上にフルルを冒し弱体化させ、カウンターの威力を削いでいた。
フルルのカウンターは、クローシェの胴防具に亀裂を入れて皮と肉にほんの浅く割を入れただけにすぎない。
失ったものは大きく、得たものは小さい。だが、取り返しのつかない悪手はない。まだまだここからだ。
クローシェとフルルの衝突から間髪を容れずにフルードで追撃をかける。
クローシェは迷わずに前へ跳んでフルードの牙を躱すと、己の背をがら空きにして前に進む。
とにかく前へ前へ。
敵ながら呆れた盲目的な前進姿勢だ。
前衛として私の並べたシーワ、フルル、フルードの壁三枚を抜き、クローシェはなおもパーティー深くへ切り込む。
それを迎え撃つため、私は慌てて手足を動かす。
ところが、槍の雨が降ろうとも決して止まらぬと思われたクローシェの脚がなぜかそこではたと止まる。
命を顧みない切り込み方をしていたクローシェが立ち止まってなにを始めるかと思えば、具体的になにをするでもなく視線を左右へ泳がせる。
妙な発作にでも襲われているかのようなクローシェの奇行にどう対応したものか、私まで小さな混乱に陥ってしまう。
四方を敵に囲まれた状態で、こいつはなにがしたい。
なにか目的があってのことなのだ。
チラチラと動いていたクローシェの目に不意に確信が宿る。
……なにかを探していた?
クローシェの探しものがなんであれ、私が手を止める理由にはならない。
奴の背中からシーワに剣を撃たせるも一手、いや半手遅かった。
クローシェは側方へ飛び退きシーワの剣を逃れると、そのまま躊躇なく剣の届く距離から離脱する。
ここまで突っ込んできたクローシェが、これほどあっさりと見切りをつけて離脱すると思っていなかった私に奴を取り押さえる術はなく、まんまと逃げられてしまう。
クローシェの離脱とほぼ同時にゴブリンの波が到達し、ミレイリを含めたユニティ勢全員を西へ押し流す。
波は最初、我々に対しても攻撃していたが、クルーヴァが一喝すると即座に攻撃を停止した。
ゴブリンキングと化したクルーヴァから支配者としての感覚が私に流れ込む。
この感じ……波の操作に大きな問題はなさそうだ。
このゴブリン群はクルーヴァの意に忠実に従う。私の意ではなく、あくまでもクルーヴァの意ではあるが、クルーヴァは我々全員を味方と認識し、ユニティ勢を敵と認識している。
しかもそのクルーヴァの認識が長ったらしい言語説明を介さずとも、唸り声やら吠え声やらをあげるだけで、声の届いた範囲全ての個体に共有される。ゴブリン語翻訳をせずに済むのはなによりだ。
もしこれでクルーヴァが己の身を操る我々に対して今なお敵対感情を抱き続けていたら、波は我々を標的として襲いかかってきただろう。肝が冷える思いである。
波に抗ってゴブリンと戦うユニティを眺めながらしばし物思いに耽る。
私は手足を増やす際、往々にして手足候補の個体やその同胞に暴力を浴びせる。クルーヴァがいた群れの個体は追い払っただけで一体も害していないが、ルカが属していた集団の人員はルカ以外全員殺した。
彼らは加入当初、例外なく我々を恨み、憎しみ、そしてなにより恐れていた。
仲間や家族を失い、身体は全く自由にならず、見慣れぬものを飲み食いさせられ、身体を好き勝手いじくられ、連れて行かれる場所はどことも分からない。
いつ何時我々に殺されるか分からぬ恐怖は、ドラゴンが呼び覚ます原恐怖に準ずる著しいものだった。
鎮静魔法を要さないくらい恐怖が薄れるまでに、それなりに長い期間がかかるものと思われた。
意外なことに、私の予想は大きく外れた。
一般的な調教師が秘伝のスキルや特殊な魔道具を使わずに野生の魔物を調教する場合、従命訓練の前にまず恐怖と敵対感情緩和の工程が必要になる。
我々の場合、そうした関係性構築の工程を省略して最初から思いどおりに手足として動かせる。
共に食べ、共に寝起きし、共通の標的を相手に戦い、戦闘で負傷すれば遅滞なく治療する。治すのは真新しい外傷ばかりではない。古傷の痛みも、関節のきしみも、虫刺されの痒みも、爪周りのささくれも、口内のただれも、腹の不調も、治せるものはなんでも治す。
傀儡は傀儡なりに言語を介した説明を受けずとも、我々から治療を施された、という事実を見て感じて理解する。
あらゆる行動を共にした結果、傀儡が我々に対して抱いていた恐怖は風に吹かれた煙のように速やかにかき消えて鎮静魔法が不要となり、永遠に続くかと思われた敵対感情は極めて短い期間で薄れていった。
そして敵対感情の減少と喪失に反比例するかのように、どの傀儡も程度の差はあれ我々に対して好感を抱くようになった。
仇敵への悪感情喪失や共感現象自体は各種先行研究に矛盾しない、生物の生存戦略における妥当な心理反応だ。それでも、敵対心が完全喪失するまでの時間の短さには驚かざるをえない。
特に、本来は集団生活を営まないレッドキャットのジーモンが驚くほどの短期間で傀儡生活に順応して我々に対して仲間意識を抱いたという事実に、私は色々と考えさせられた。
ジーモンをドミネートしたばかりの頃に、フルードに幼体じみた振る舞いをさせるなど小細工をいくつか弄したが、それらの目的はあくまでの悪感情の緩和であって、まさか単独行動主義のレッドキャットに仲間意識を抱かせるほどの効果があるとは思っていなかった。
予想外の考察材料数個を得て、私はこう推測した。
彼らは敵対心を長期保持してしかるべき正当かつ妥当な理由があった。それにもかかわらず、敵対心を早くに失った理由は、「恐怖の消滅」にあったのではないか、と。
魔物だろうとヒトだろうと理性と感情は完全な一致をみない。敵対心とは結局のところ恐怖の裏返しに過ぎず、度重なる鎮静魔法の使用や仲間として矛盾しない共同生活を送ることで恐怖が霧消してしまうと、同胞の殺害や自由の剥奪、行動の強制といった敵対すべき正当な事由を理性のほうが覚えていたとしても、肝心の感情のほうが敵対心を維持できない。
レッドキャットが単独行動を取る理由にしても根本は同じだ。たとえ同種であっても争いとなる可能性が高いから、相手が怖いからレッドキャットは防衛機制として敵意を抱いて好戦的となり、結果的に集団生活を拒む。
恐怖を丹念に除去されると、レッドキャットであっても集団生活をもはや忌避しない。つまり彼らは純粋に好きで単独行動を取っていたのではなく、恐いから集団生活を避けていた。恐怖が彼らを戦わせ、孤立させていた。
もちろん、これら一連の解釈や推測には論理矛盾や検証不十分な箇所が無数にある。だが、私は本職の生物学者でも心理学者でもない。細かな不備など、どうだっていい。
本質の理解が大筋で合っていればそれで不満はない。
目の前に転がっている大問題の解決に結びつかない思考課題について考えるのを止めた私は、改めてここからの手順を考える。
クルーヴァの意に従って動くゴブリンは我々のパーティー全体に貴重なひと呼吸を与えてくれた。しかし悲しいかな、彼らはどこまでいってもゴブリンの波だ。総数がどれだけ多かろうと、ゴブリンキングの影響により個々の戦闘力が底上げされていようと、ユニティを滅ぼすまではできない。
現に、ユニティ勢の奮戦により生存個体数がみるみる減っている。あまりぼんやりしていると波はクローシェらによって完全殲滅されるだろう。
では、どこから手を入れるか。
クローシェとミレイリの二人は苦戦とは程遠い圧倒的な戦いをしている。波に乗じてこの二人に攻撃する価値はさして高くない。
そうなると狙うのは本隊から少し離れた場所で戦う騎馬部隊以外にない。従者以外も実力者を揃えたこの騎馬部隊は波に押し流されることなく善戦しているものの、だからといって波に流された本隊の所まで楽に泳いでいけるほど余裕綽々でもない。
それもこれもヴェレパスムを任されているビークがこの期に及んで魔道具をしまわず、聖光照射に固執しているせいだ。
ヒトは手がたった二つしかない。私が持つ“断崖踏破”のようなスキルも無しに馬に跨り片手に魔道具を抱えていては、もうそれだけで武器を持つ手が無くなる。
ビークはせっかく高い戦闘能力を持っているのに僚員に守ってもらうばかりなのだから笑い種だ。聖波動が減弱しているヴェレパスムをこの距離で使い続けることに意味など無いというのに、魔道具の使用を止めて剣を撃つという判断ができない。クローシェに忠誠を捧げているだけあり、主人同様ビークの不明さもまた保証付きだ。
今この瞬間においてヴェレパスムは我々の脅威になっていないが、新しい精石を装填するなどして再度、脅威と化す可能性は否定できない。
憂いは今のうちに断つ。
近距離で聖光に暴露しても問題のないフルードとクルーヴァを騎馬部隊に差し向ける。
従者たちは目の前のゴブリンを倒すのに夢中だ。静かに近付く我々の手足にすぐには気付かない。
それでもやはりというべきか、フルードの大きな体躯は限界まで低く屈んでもゴブリンの波よりも高く目立ち、飛びかからんとする少し前に接近がバレてしまう。
「グレータ!! レッドキャットがすぐそぉぶ……」
バレたのならコソコソ近付く意味はない。猛然と駆けてビークの右肩、首、そして頭の右半分を大口の中に包み込み、そのまま左右に振って馬から引き剥がす。
ビークは魔道具の守護を第一に考えていたせいか抗戦意識が希薄で、武器を抜く素振りすらなくフルードの口の中に収まった。
なんとか自由の利く左腕と両脚をバタつかせたところでブルーウォーウルフの咬合力の前では無意味だ。
ビークの死の乱舞はとても滑稽で、同時に少しだけ切ない。
フルードの口から生えるヒトの身体に向かってグレータが叫ぶ。
「ビーク!!!!」
私が従者たちについて知っていることは多くない。マルティナたちを通し、ユニティの戦闘員から従者たちの戦闘力関連の情報を少しだけ入手していたのが精々だ。クローシェとアッシュがウラスに訪問してきた時にもこいつら従者はいたが、どれが誰かは識別できず、ようやく今さっきになってビークとグレータの二人だけ個人識別がつくようになった。
高い戦闘力もクローシェからの信頼が篤いことも事実だった。それだけの信頼を勝ち取るまでには紆余曲折があったはずだ。戦闘訓練だって、血を吐くほどしてきたに違いない。
信頼、才能、希望、努力、夢、未来、ビークは数少ない持つ者だ。そして、持っているからこそ執着は強くなる。人間として生きた期間があり、今でも人間の側面を持つ私だからそれが分かる。
ビークがフルードの牙にかかった最大の原因はビークの執着にある。クローシェの命令を無視して逃亡するとか、ヴェレパスムなんてさっさと投げ捨てて剣を抜いていれば、ビークはこの状態になっていなかった。
今からでも執着を捨てればビークは生き残れる。捨てられなければ、結末はひとつだ。
私はビークを『馬鹿だ』とは思っても『憎い』とは思っていない。敵として一定の敬意を持っている。
敬意を慈悲に変換してビークを雪面に叩きつける。
底付近の根雪ともなるとそれなりに固いとはいえ、降り積もった雪は厚く深い。そこに身体を一度叩きつけられたくらいで鍛え上げられたビークの肉体は大きなダメージを負わない。
一回でどうにかなるとは思っていない。時間が許すかぎり十回でも百回でも叩きつける。
「ビーク、今助ける!」
グレータが波を押し退けビーク救出に向かわんとする。
人の心配とは大した余裕だ。
そういえばこの女従者は確か、『我々の攻撃をいくらでも防げる』と豪語していた。
どれほどの実力があればそこまで大層な自信を持てるのか、実際にこの場で見せてもらおう。
他の騎馬粗方を倒したクルーヴァにグレータの相手をさせる。
さて、グレータはゴブリンキングにどれだけ対応できる。ミレイリはクルーヴァ相手に互角以上に戦った。グレータの魔力はミレイリに引けを取らないのだから、隻腕のクルーヴァ程度、楽に下せなければ嘘になる。
傲慢な女従者をクルーヴァに一任し、再びビークの経過に傾注する。
二回、三回と叩きつけてもビークはヴェレパスムを放さない。
ビークの頑迷さが私を苛立たせる。
さっさと捨ててしまえ、そんなつまらないもの。捨てさえすれば生き残れるというのに……。
苛立ちが慈悲の心を加速させる。
ビークの身体を五回、六回と叩きつける。
度重なる衝撃により、ビークの身体を打ちつける部分から徐々に雪が弾き飛ばされていく。
ビークはなおも足をバタバタと動かし牙から逃れようともがく。魔道具を手放す気配はない。
九回、一〇回と叩きつける。
土の地面はまだ見えない。表面に露出するは重く固い根雪だ。装着者を守る従者の恵まれた防具が度重なる根雪との衝突により耐久限界を超えて徐々に壊れていき、防具の損傷に概ね一致してビークの身体から力が抜けていく。だが、ヴェレパスムはまだ放さない。
二〇回、三〇回と叩きつける。
ビークの身体が完全に弛緩する。まだ生命は尽きていない。アンデッドの目には揺らぐビークの生命が見えている。死んではいないが死んだふりでもない、意識不明の瀕死状態だ。
叩きつけるのをやめてビークを今一度観察する。ヴェレパスムを持つ手は半開きになっている。だが、手甲かなにかにでもひっかかっているのか、魔道具がビークの手から離れる様子はない。
やれやれ、仕方がない。
半死半生のビークから反撃を受けるおそれなし、と確信し、魔道具回収のためにルカを差し向ける。
ルカがひっかかりを外すのに少し手間取っても、脱力したビークの手がヴェレパスムを奪われまいと動き出すことはなく、我々はついに散々に苦しめられた魔道具を手中に収める。
もはや光を放たなくなったヴェレパスムをルカの目とアンデッドの目でしげしげと眺める。
叩きつけの衝撃で魔道具の外装にはいくつか損壊が生じている。だが、外観上の損壊具合からして内部機構に修復不可能な損傷は生じていなさそうに思われる。
聖光の途絶は故障によるものではなく、精石の魔力が完全に枯渇したため、と暫定的結論を下す。
さて、無力化した魔道具について長々と考えるのは非生産的だ。
推測の当否を確認するのは残る目の前の問題を処理してからのお楽しみとしよう。
騎馬部隊へ放ったクルーヴァたちを手元へ引き戻す。
ビークは瀕死ながらもまだ生きている。
クルーヴァに善戦したグレータも無事と言えるほど無事ではないが、かといって瀕死でもない、まずまず良い按配に負傷している。これなら我々の邪魔にはならず、それでいて生存に支障はな……あっ。
クルーヴァが騎馬部隊の前を離れると同時に、波が負傷した隊員たちに一気に集中する。
私がビークたちに明確な敵意を抱いておらずとも、それはあくまで私の話であってクルーヴァは違う。
クルーヴァの敵意を汲んだゴブリンの波は遠慮無しに武器を振り下ろし、十秒とかからずに私の慈悲を無へと帰してその場に新たな肉塊を作り上げた。
……。
是が非でも生き残らせたいとまでは思っていなかった。
そもそもこいつらはクローシェの操り人形であり、私にもアールの家族にも害をなす存在だ。消せるうちに消すべきだと理性が断じている。
それでも、死に至らしめた過程があまりにも想定と違う。“悪”に最もちかい存在であるクローシェに操られて死んでいった者に少しだけ憐憫の情を抱いてしまう。
それから、この波……。
クルーヴァをどうするかは色々と考えていたが、“王成り”の解除後に波のほうをどうするかはあまり考えていなかった。
従者たちの死が私の心を固める。
波は、私の道具には適さない。利用するのは今だけに留め、事が済んだら完全に処分すべきだ。
雑事に対しての方針がひとつ決まり、意識を本題へ移す。
ユニティは波に揉まれるうちにいつしか魚鱗を二つ並べたような隊形を作り上げている。
私の浅い軍事知識では、魚鱗とは指揮官を隊や陣の中心に抱くものだったように記憶している。ところが、当然といえば当然かもしれないが、クローシェは隊の最前部に立って他の誰よりもゴブリンを倒している。
同じくミレイリも、もうひとつの魚鱗の最前部でクローシェに負けじとゴブリンを屠っている。
殺到するゴブリンを爆散させるクローシェの姿はその昔、私が初めて南の森を訪れた時に、群がるゴロンアントを爆発四散させて蹂躙していたエヴァの姿に瓜二つで、それが私の心をまた一段と苛立たせる。
通常の運用法からは逸脱しているにせよ、あの隊形は波に対してそれなりに機能している。ユニティは遡上という明確な意志を持ってこちらに進んできている。
そうでなくとも波は果てがちかい。幸か不幸か、ユニティは波が果てる前にここまで辿り着く。
虚ろな目をしたラムサスが散っていくゴブリンの生命を見て、吐き捨てるように言う。
「気色の悪い噴水」
私が黙っていると、ラムサスは詰問調で言葉を続ける。
「さっきのクローシェの特攻には確固たる意味があった。あなたは分かっている?」
情報魔法使いからの突然の試問に、私はクローシェの奇行を振り返る。
「あそこで立ち止まったのは千載一遇の好機を逃すようなものです。それが惜しくない、クローシェの本当の狙い……」
この数時間の間に目にした光景複数が一瞬、脳裏に浮かんでは消えてを繰り返す。
倒し方に骨の要る魔物ドメスカ、仕掛ける直前のクローシェの独り言、離脱直前に奴の目に宿った確信。
そうか、分かったぞ。クローシェが探していたのはおそらく……。
私が答えを閃いた直後、ラムサスが解答を提示する。
「クローシェはこのパーティーの核を……首領を探していた。そして、私たちが無意識に示した小さな反応から誰がこのパーティーの首領なのか確信を得た。確実に仕留めるために一旦離脱したけれど、次の特攻では、もう立ち止まらない」
愚かで危険なクローシェの発想に私は目眩を覚える。
「どうしてこうも最悪中の最悪ばかりを選択できるのか……私には理解できません」
自分の生命を顧みないだけならまだしも、奴の正義がまかり通ったらこの土地全てが犠牲になる。しかも、クローシェ本人はどれだけ多くの犠牲を出すことになるか正確に予測できていない。
こんなふざけた話があってたまるか。
たとえ“敵”であっても許されざる愚かさだ!
怒りを声には乗せぬようにしてラムサスに尋ねる。
「クローシェが誰を首領と判断したか分かりますか」
ラムサスが苦悶の表情で答える。彼女も限界がちかい。
「そこまでは分からない。でも……」
言葉の途中でラムサスが崩れ落ちる。
それに呼応して、形と言える形を持たない小妖精の魔力がまとまりを失い、ロギシーンの空気に溶けていく。
意識を失ったラムサスを担ぎ上げてイデナの背中に負う。
限界がちかいどころではない。ラムサスはとっくに限界を超えていた。
今日だけでラムサスはパーティー崩壊の危機を何度も救った。魔力欠乏になってまで魔法を撃ち、そのまま意識を失ってもおかしくないのに、最後の最後に手に入れた情報を私に伝えて、それから意識を手放した。
よくやったラムサス。ゆっくり休め。
心配せずとも、私がこれからするのは正義執行だ。愚かなるクローシェを止めれば、それがそのまま正義として世界に良い作用をもたらす。
後になって目を覚ましたラムサスからグチグチと文句をつけられぬよう、私はここできっちりと結果を出す。
失敗は許されない。想定は入念に行っておかなければならない。
仮にクローシェが我々の主従関係を正確に見抜いた場合、奴が長と判断するのは私だ。
ただ、クローシェの目は腐りきっている。勘違いしていた場合の対応も要策定だ。
私以外に長らしく見えるのは、私本体に次いで守りの重点を置いていた体調不良のウリトラスか、最重要戦力のひとつであるヴィゾークだろう。
戦闘力だけならシーワも候補に挙がるが、クローシェは特攻時、シーワの横を素通りしてこちら側の観察に全力を注いでいた。
あの観察の結果、シーワを長と誤認することは、いくら愚かなるクローシェとてありえない。あってはならない。
ルカも比較的、長と勘違いされやすい立ち位置を担っているが、クローシェの視線はルカにほとんど向いていなかった。
誰に最も長時間、視線を向けていたか、と言われると、これがハッキリしないのだが、とにかくルカを長と誤認した可能性も低い。他に確実な根拠はないのだが、私の直感がそう断言している。
クローシェの最後の一撃が狙うのは、私、ウリトラス、ヴィゾーク、この三者のうちの誰かだ。
対応を考える間に噴水との距離が詰まっていく。
情けないことに、刺突剣が私を狙うことを考えると、それだけで弱気が顔を覗かせる。
今更ながらではあるが、逃げて衝突を回避するのは一案だ。
私自身を含め、パーティーの状態は著しく悪い。波はあともう少しの間、ユニティを足止めできる。我々が被った損害は大きいが致命的ではない。最悪の結果を回避する、という意味では、撤退案は一概に否定したものではない。
では、先々を見据えたとき、逃亡の価値はいかほどだろうか。
我々がユニティに与えた損害はこれまた小さくないが、ユニティの全戦力からしてみればあまりにも軽微だ。
最も厄介な戦力の筆頭たるヴェレパスムこそ奪取に成功したものの、同等品がいつまたゴルティア本国から供給されるか分かったものではない。
魔道具の追加配備が無かったとしても、アッシュ以下、精鋭連中が帰還した後のユニティを我々が力でどうこうするのは不可能にちかい。これは少し前に検討したとおりだ。
それに、我々は生粋のロギシーン人と元ロレアル人、どちらも相当数を殺めてしまった。やむを得なかったとはいえ、これがかなり痛い。
死者が出てしまった以上、たとえ話の分かるアッシュが指揮官であっても、対話だけで戦いを完全な終結に導くのはかなり難しい。
これで指揮官と幹部連中が全員常識人だったならば、我々は搦め手を駆使してユニティの戦力を削りに削り、徹底的に戦意を削ぐことで降伏を引きずり出すのも不可能ではない。
しかし、ユニティの副官はあの愚かなるクローシェだ。アッシュが無条件降伏したいと言い出しても、クローシェは決してそれを許容しない。最後のひとりが生命尽きるまで戦うようアッシュに強要する。
本当に……クローシェは本当にどこまでも目障りな“敵”だ。
認識を新たにしたことで萎みかけていた戦意が息を吹き返す。
ここで逃げても“敵”は“敵”であり続け、私の前にずっと立ちはだかる。
道は無数に伸びている。しかし、いずれの道もすぐに先が途絶えるか同じ所をグルグル回るばかりで前に進めない。前に進むためには“敵”の排除が絶対要件だ。我々はクローシェを排除できないかぎり一歩たりとも前に進めない。
私はずっと逃げてきた。この肉体に宿り自意識を持ってから……いや、きっと逃げていたのは、「前」からずっと……。
もう十分に逃げた。
我々はここから逃げない。
奴の悪行は今日、この場で終わらせる。
手足のアンデッドたちは私と違って慈悲の心を持ち合わせていない。クルーヴァと違って仲間意識を抱かない。どれだけ時間を共有しても、どれだけ共に戦っても、情を抱くことは決してない。我々にも、我々以外の生命にも。
私の肉体が生命を失うだけであれば分からないが、偽りの生命を含めて完全な滅びを迎え、かつ手足が滅びを免れた場合、待っているのは惨劇だ。
クローシェやこの場の戦闘員が死ぬだけでは済まない。おそらくロギシーン一帯から未来が消える。消せるだけの力がある。
愚かなるクローシェの野望を打ち砕くのはロギシーンの未来を守ることに直結する。たとえ本意ではなくとも、我々は人知れず救世主の役を担うわけだ。
噴水を眺めながら、クローシェの技の破り方を模索する。
奴がフルルに撃った技は私の予想と異なり連撃ではなく威力型の一撃だった。
戦いに関してはそこそこ目鼻が利くつもりでいたのに、クローシェはことごとく私の期待を裏切る。
あのスキルは、単純な破壊力とは別の油断ならない特性を持っている。現にフルルは非利き手から撃たれた剣による被害とは思えないほどの破壊を受けた。被害をよく観察すると、装備の損壊と身体の損傷には理に即さない乖離が生じている。
簡単に言えば、強固な外殻をすり抜け脆い内側に優先して作用し損傷させる、内部破壊型の技なのだろう。すり抜けると言っても装備はまあまあ壊されているが、いずれにしても防具に頼ってあの技から身を守るのは無理だ。突きを身体捌きで躱すのが難しい以上、武器で防ぐしか身を守る選択肢がない。
被害なく切り抜けようとしてもかえって被害を大きくしてしまうだけ。こちらもそれなりの被害を覚悟しておく必要がある。
かなりの難作業だが、やり様はある。完全無欠の技などないし、仮に技そのものが完全だったとしても、それを撃つクローシェが完全ではないのだから。
奴にはいくつもの迷いがある。フルルの頭部ではなく胸部を撃ったのがその証明、アンデッドを殲滅するなら胸ではなく頭を潰すべきなのに、クローシェは胸を選んだ。
攻撃の的として考えたとき、胴体に比べて頭部は小さく狙いづらい。だが、クローシェの武器は刺突剣だ。長剣を操るよりもずっと頭部を狙いやすい。
狙うのが難しいから頭部を避けたのではない。両目が潰れてもなお戦うフルードを見て生じた疑念が、クローシェに胸部を狙わせた。このアンデッドは頭を潰しても活動を停止しないのではないか、という不安があったから頭を狙えなかった。
クローシェほどの盲信者でも迷いからは逃れられない。
噴水との衝突に備えて手足の配置に微調整を施し、戦闘結果に影響をもたらす外部要因の有無を探して辺りを見回す。
この辺りでは胞子も発芽後の個体も見かけない。
来光を目前に控えた東の空はよく晴れているが、東以外の全天には反発力の強そうな雲が厚くかかっている。周期と時間帯からして東の空にあの天体が現れる可能性はない。
つまりドメスカに茶々を入れられる心配はしなくていいし、魔剣クシャヴィトロに異変が再度起こる可能性もない。異変が起こったらどうなるというわけではないが、気味が悪くてどうにも気になる。異変が無いに越したことはない。
空が問題ないことを確認して意識を地上に戻す。
魚鱗のひとつは真っ直ぐこちらに来ず、斜めに逸れている。微調整の結果だ。
我々本隊に向かって真っ直ぐに突き進んできているのがクローシェの率いる魚鱗で、逸れているのがミレイリの率いる魚鱗だ。ミレイリは私の思惑どおりクルーヴァに引き寄せられている。
残り少ない波が大きくひとつ魚鱗に打ち寄せた直後、ゴブリンの身体がひとつ我々の方へ吹き飛ばされる。
爆散はせず、風通しのよさそうな穴を胴の央にひとつ開けて飛ぶゴブリンの予想軌道はちょうどシーワに向かって伸びている。
偶然に飛んできたものではない。
最終衝突に対するクローシェなりの悪趣味な嚆矢だ。
ゴブリンの形をした矢を軽く払いのけると、その真後ろから刺突剣が飛び出す。
巨体を捩って殺意に乏しい突きを避けると、半身となったシーワの横をクローシェがスルリと抜けていく。
クローシェのやっていることは前の特攻とほぼ同じだ。ゴブリンの嚆矢程度は変化と評価するに値しない。
無防備に晒されたクローシェの背にシーワの剣を振り下ろそうとした矢先、ユニティの戦闘員がひとり間に割って入る。
なぜひとつしかない自分の生命をこれほど愚かな奴に懸ける。
クローシェの正義の異常性をどうして自分の頭で考えない。
滅びへの道を驀進することにどんな意味が見いだせる。
贄となることを望んだ愚かな戦闘員に私は剣を撃つ。
贄にあったのは生命を捧げる覚悟だけで、シーワの剣を受ける実力はない。
ただの一撃で剣は折れ、肩口から逆の腰骨上にかけて身体が真っ二つとなる。
それでも贄は贄であることをやめない。
死の確定したぶつ切りの身を動かし、片手だけでシーワの身体にしがみつこうとする。意識が途切れる最後の最後まで悪あがきする。
王族の呪いにも引けを取らない恐るべき洗脳力だ。
贄はそいつひとりではない。
波に身体を削られるのも厭わず、ただただ挺身だけを目的として列をなす贄たちが我々に迫る。
盲信者に導かれた人身御供の道を閉ざすべく、やむをえずシーワに門の役割を与える。
扉代わりに広がるのはシーワの身体から展開する瘴気だ。聖光遮蔽を目的とした新瘴気ではない。殺生が目的の古典的瘴気だ。
“絶空”どころか闘衣すら使いこなせないゴブリンたちが瘴気に触れてバタバタと斃れていく。
ゴブリンが果てていく様を目の当たりにしても狂気に染まった贄は足を止めない。目の前に古典的瘴気が展がろうとも死体の山が築かれようともお構いなしだ。
クローシェを一歩前に進ませる。たったそれだけのために喜んで生命を捧げる。
左上半身の無いフルルが残された右上半身で剣を撃てば戦闘員が飛び出して身体を断たせ、リジッドが牙を見せればまた別の戦闘員が口の中へ飛び込み身体を砕かせる。
先頭は狂気、後続も狂気、その後ろも、そのまた後ろも狂気、狂気、狂気、狂気。
クローシェの狂気は恐るべき感染力で全ての戦闘員から正気を奪っていた。
クローシェは後ろを見ない。奴は狂人たちの死に興味がない。背中に撃たれる剣を狂人たちが妨いでくれれば、それでいいのだ。
斬られて死のうが、潰されて死のうが、焼かれて死のうが、冒されて死のうが、前進を止めない。死地の最奥を目指して突き進む。
最奥の直前に待ち受けるは選択機会が一度きりの岐路だ。
中央の道は私本体へ通じ、左の道はウリトラスへ通じ、右の道はヴィゾークへ通じている。
クローシェの目には、どの道もギリギリ目標に届きそうに見えているはずだ。
岐路での一時停止を許すと、愚かなるクローシェがどんな良からぬことを企むとも分からない。
背中を押すつもりで私は魔法を放つ。
クローシェが、低い重心を更に低くしてクレイスパイクを弾く。
弾かれた魔法は不安定な軌道を描いて後ろへ跳び、狂人の生命をひとつ奪う。
魔法を弾いた勢いそのままにクローシェは道を選ぶ。
選んだのは、私が奴のために丁寧に拓いた正道ではなく、かといって側道でもなく、側道のさらに脇、道とは呼べない道なき道だった。
眦を決しクローシェが吠える。
「お前が核だ!!」
「……は?」
盲信者クローシェの凶刃はイデナに向いていた。
否、イデナはクローシェの視線を感じていない。
クローシェが見ているのはイデナではなく、イデナの背中で意識を失っているラムサスだった。




