第五二話 呪いへの道程 一
ゴブリンと戦う鎮圧部隊。
目の前の事実を事実と受け入れられずに頭が混乱する。
鎮圧部隊は一体全体どうしてゴブリンなんかと戦っている。指揮官はなにを考えている。頭がどうかしていなければ、こんな無益なことは行わない。
夜の樹氷の足元には積もった雪を隠さんばかりにゴブリンの死体、死体、死体が広がっている。死体の量が戦闘時間の長さを物語る。
いつから、どうして、誰に命じられてここでゴブリンと戦っている!?
ゴブリンの波の襲来はユニティに仇をなす一方で、鎮圧部隊に利するものだ。
ユニティの二大戦力たるアッシュはストライカーチームを率いてオレツノに向かっているため不在、残留組のほうは波相手の防衛戦によって消耗している。つまり、鎮圧部隊は今なら楽にロギシーンを奪還できる。
こんな簡単な論理展開に兵法も軍略も必要ない。無知な私でも分かる。今はマディオフ軍にとって絶好機だ。
それなのに、なぜ敵である反乱軍を助ける真似をする。
混乱する私にラムサスが行動開始を促す。
「東に鎮圧部隊がいるんでしょ? 進路変更して速やかに遠ざかろう。さもないと見つかってしまう」
「……恥ずかしながらしくじってしまいました。もう捕捉されています」
我々の視線を感知できる能力者は西伐軍遊撃小隊のコリン・サザンランドやグレイブレイダーのフォニアだけではなかった。
鎮圧部隊所属の名も知らぬ兵のひとりもまた私の傀儡から向けられる視線を感知できる。
集中力の欠如により私の気配遮断の精度が落ちていたのは否めないが、それは些末な問題だ。
相手の気配察知能力が高く、私の隠密能力が低かった。全てはそれに尽きる。
混乱からの棒立ち時間をたっぷりと取ってから正気を取り戻し、進行方向を南へ変えて恐る恐る移動を開始する。
相手に見られながら抜き足差し足忍び足しても意味はないことに気付いて移動速度を引き上げる。
すると鎮圧部隊も我々の行動を『逃走』と判断したのか、部隊の一部がゴブリン駆除の手を止めてこちらの追跡を開始する。
やめろ。こっちへ来るな。
ゴブリンを狩りたいんだろ?
こっちにゴブリンはいない。でかくて青茶けたのが一体しか……。
我々など見なかったことにして、それまでどおりに野生ゴブリン討伐に励んでいろ。
嘆願にも似た私の心の声が届くはずもなく、追跡部隊が速度を上げる。軍隊だけあって追跡部隊の先頭を構成するのは騎兵ばかりだ。しかも、数がそれなりにいる。
馬はただでさえ高い。軍馬はそれに輪をかけて高額だ。そんな高いものを買うなよ! 買うから追いかけてくるんだろ!
自分でもわけの分からない文句を心の中で垂れながら走り逃げる。
ゴブリンとの戦闘により軍人たちだけでなく軍馬のほうもおそらくかなり疲れているだろうに追跡速度は結構なものだ。
我々の走りもそれほど遅くないはずだが、それでも『ヒトの走りに比べれば』という但し書きが付く。
なんの工夫もなく馬と追いかけっこしていては到底逃げ切れない。速度が違いすぎる。
アンデッド化しているブルーウォーウルフのリジッドはいざしらず、生者のフルードは手足を五本も六本も乗せて雪上を長距離走破できない。
集団が移動する際の律速因子は足が速いものの速度でも構成員たちの速度中央値でもない。
足が最も遅いもの。
それで集団の移動速度が決まる。
このパーティーの中で最も足が遅いのは生者かつ疲労困憊状態にある私だ。足が速いつもりでいた私がまさか足手まといになる日が来るとは……。
今更ながら、突破した防衛線で馬を何頭か盗んでおくべきだった。
……防衛線に馬は配置されていただろうか?
防衛線の様子がまるで思い出せない。
思い出せるのは、クローシェやミレイリに扮した我々に対して阿呆面で間の抜けたことを叫ぶ守勢の姿だけだ。涙が出るほどどうでもいい。
事実として涙が出ているのは欠伸ばかりしているせいだろうか。ヒトの身体は走りながらでも欠伸ができるものなのだな。ウルフは走りながら遠吠えできないのに。
「私でも鎮圧部隊の気配を感じるようになってきた。普通に走っていては振り切れない。ここから交戦を回避するための手はなにか考えてある?」
「そうだ! 軍馬の値段を高騰させましょう」
「は……。なにを言っている?」
「いえね。たしかユニティの防衛線には軍馬に相当する馬がいなかったはずなんです。なにせ値が張りますからね。それと同じで、軍馬の値段が今よりももっともっと高ければマディオフ軍だって――」
説明途中の私にラムサスが無言で魔法を放つ。
すると途端に乱雑にとっ散らかるばかりだった私の思考がまとまり始める。
「どう。筋道立てて物事を考えられるようになった?」
鎮静魔法を放ったラムサスが私の顔をマジマジと見る。
鎮静魔法で思考が冴えるということは、私はまだ混乱の最中にあったのか。
軍馬の市場価格が上がろうが下がろうが、目の前にいる軍馬が消え去りはしない。混乱しているととんでもないことを考えるものだ。
鎮静魔法は効いたには効いた。だが、その代わりに……。
「拙いです。落ち着いたには落ち着いたんですが、破滅的に眠くなってきました」
「勘弁してよ……。覚醒魔法なんてものを私は知らない」
覚醒度を向上させる薬物も存在するにはするが、使用に値する効果を持つものに限って身体依存性はかなり高い。自ら使うつもりはなかったため携行はしていない。
持っていない覚醒薬物の代替として舌をガリと噛む。口内に広がる血の味が意識を赤く澄み渡らせる。
「大丈夫です。少しだけ目が覚めました。けれども、足の差はいかんともし難いです。一戦交えることになります」
「また諦めの早いことを言う。なにがなんでも交戦回避する方法を考えて。妹さんのためにも!」
妹……エルザ……。
私が守るべきもの……。
私がクローシェ・フランシスを殺せない理由……。
私はクローシェ・フランシスを殺すつもりがない。それは当初、“真実”を掴み取るためだった。クローシェの正体がエヴァだと考えていたためだ。
しかし、クローシェはエヴァではなかった。魔力指紋法により、クローシェとエヴァは別人物と確定している。
別人だとしても、クローシェは“真実”の断片をまだまだいくらでも持っている。ゴルティア軍が送り込んできた工作員なのだ。持っていないはずがない。苦労してでも生け捕るべき高い情報価値を有しているのは今なお変わらない。
情報価値を追い越して最上位となった理由。それは、エルザにかけられている王族の呪いをこの盲信者に解かせることにある。
クローシェ以外に王族の呪いを解除できる能力者を私は知らない。
私だけではない。少なくとも私が調査した限りでは、ロギシーンの誰も知らなかった。
それもそのはず。王族の呪いは国民の間で噂されるばかりで実在が確認されていなかった秘中の秘だ。
解呪に長けた治癒師を見つけて『お前は王族の呪いを解けるか?』と尋ねたとしても、治癒師だって解いたことどころか診たことがないのだ。返答のしようがない。
実は王族の呪いを解除できるのが世界で唯一クローシェだけだった場合、クローシェを殺すとどうしようもなくなる。
呪いというものは厄介なことに毒と同様、かけた本人にも解けないことがままあるらしいから、エルザに王族の呪いをかけた王家の人間が必ずしも解けるとは限らない。
私にとって信用ならないのはゴルティアだけではない。今やマディオフも信用の置けない危険国家だ。エルザはそのマディオフに身を寄せているのだから、呪いを即、解くべきかどうかは別にしても解除の手段は用意しておかなければ……。
「きれいな城やドラゴンから逃げる時に使った閃光魔法を使おう!」
「バーニンググレネードですか……」
光量に特化させたバーニンググレネードを暗中で無防備な人間に至近距離から浴びせれば昏倒させるだけの効果がある。昏倒までいかなかったとしても、視覚器官の露光程度によっては数分から数十分の間、視界を奪う。
交戦中の数分は永遠にも等しい。
しかし、バーニンググレネードも万能ではない。特に集団戦闘においては実用に色々と問題がある。
まず、ここは場所が良くない。樹氷が並ぶ林内は城内に比べてずっと視界が開けていて、しかも標的の数がそれなりに多い。
バーニンググレネードを使用する場合、直接の目撃者は一挙に視力を奪わなければならない。この魔法は二度目になると効果が激減する、一発芸的な側面がある。
ここでは標的は広く散開していて、しかも視界は完全に開けておらず中途半端に遮蔽物がある。
手足全てを使ってバーニンググレネードを放ったとしても追跡部隊全員の目を眩ますことは到底できない。必ず少なからぬ者が視力喪失を免れる。
追跡部隊にたったひとりでも視力を保った者がいると、もうそれだけで対フチヴィラス戦でやったように地中や雪中に隠れてやり過ごす手は使えない。
懸念は他にもまだまだあり、バーニンググレネードは最良の選択肢ではない。
「撃破目的ならいざ知らず、この場所で逃走目的にバーニンググレネードを使っても効果薄でしょう」
「くっ……! なら、こちらからは一切攻撃せずに防戦だけして逃げ切るか――」
「無理ですよ。交戦しながらでは移動速度がガタ落ちします。どこまでも追ってきます」
ヴェギエリ砦で大軍相手に突っ込めたのは確実な逃走経路を用意できていたからだ。しかも、目論見どおりドラゴンも誘き出せた。
事前準備も無いのに部隊を殺すも倒しもせずに逃げようとは土台無理な話だ。
「最小被害で倒して逃げるしかない……? 鎮圧部隊はユニティとの戦闘から何度も逃げおおせている。でも、それは戦力がある程度拮抗していたからの話……。寡勢の私たちを捕虜にするために無理な攻め方をしてくる可能性も……」
ラムサスは交戦回避手段を考えながら、雪上を駆ける鎮圧部隊の足音迫る斜め後方を睨む。
捕虜としたマディオフの軍人に対してクローシェが特殊な“治療”を施しているという事実を、私はロギシーン入りして早々に突き止めた。
“治療”は表向き王族の呪いの解除ということになっているが、内実はゴルティアの操り人形とするための洗脳に違いないと私は考えた。
そんな私の解釈にラムサスは真っ向から異を唱えた。
クローシェが“治療”を行った相手は衛兵のごく一部を除き、ほぼすべてが軍人だ。“治療”の正体が洗脳ならば、対象選択が明らかにおかしい。
優先順位から考えて、洗脳すべきは木っ端軍人よりもむしろロギシーンの首長や大企業の幹部連中だ。しかし、どれだけ調査を進めても、それら民間の要人に対して“治療”が行われた形跡はまるで見つからない。
完了までにかなりの長時間を要するうえに中断できない“治療”を多忙な身のクローシェがわざわざ行い、しかも各界要人には実施していない。“治療”は洗脳などではなく、ユニティの謳い文句どおり高度な呪いである王族の呪いの解除と考えるのが妥当。ラムサスはそう主張した。
ラムサスの意見を支持する状況証拠は“治療”の対象選択以外にもいくつかあった。
来歴不明だったユニティ構成員たちの正体、ロギシーンにおけるユニティの支配体制、不自然な鎮圧部隊との戦い方、他にも諸々の事情があり、それらを踏まえて最終的には私も、『クローシェは捕虜に解呪を行っている』というラムサスの主張に納得した。
ただし、解呪と同時に洗脳を施していない、という確信までは得られていない。事実、“治療”を受けたマディオフ軍人たちは少なくない人数がユニティに寝返っている。クローシェが対象者にどちらもやっていた可能性は未だに残っている。
「せめて更新時に変装魔法を元のほうに戻しておくべきでした」
走り寝さえしていなければこんな失敗は……。
それは違うか。
ゴブリンの溢れるロギシーン東のフィールドで鎮圧部隊と接触する事態を私は想定していなかった。
寝ぼけ頭でなかったとしても、ユニティに扮した変装魔法をしばらく続けていただろう。
「私たちはよりにもよって鎮圧部隊の最大の攻撃目標になってしまっている」
ラムサスがギリリと歯噛みする。
ユニティの姿をしていないのはハンターであるミレイリに扮したラムサスくらいのもので、二足歩行する他の手足は全てユニティ戦闘員に化けさせてある。
ルカにいたってはユニティ筆頭たるクローシェの見た目になっている。それがノコノコ目の前に現れたのだ。私が鎮圧部隊の指揮官なら、自軍の被害がかなり大きくなったとしてもクローシェ打破を目標として部隊に奮戦を促す。
「まさか鎮圧部隊がこちら側に回り込んでゴブリンと戦う奇行に走るとは想像もつきませんでした。実際に追われている今でもまだ信じられないくらいです」
「多分、鎮圧部隊の参謀か誰かがロギシーンという土地に精通している。ゴブリンの 大発生 が起こった場合にどんな悲劇が連鎖して起こりうるか分かっていたからこそ、ロギシーン奪還ではなく遠回りに街を防衛する策を選んだ」
ラムサスの指摘する『悲劇』の最たるものがグイツァ復活だろう。
「私なら手早く街を奪還し、然る後ゴブリン処理とグイツァの封印保護に着手します」
私の意見にラムサスは首を横に振る。
「アッシュ不在の街に鎮圧部隊が攻め入ってきたら、ユニティはロギシーンを明け渡して逃げ出す。ユニティに逃げられると、鎮圧部隊はユニティに代わってゴブリンの波からロギシーンを守らなければならなくなる」
「そこにどんな問題があるのか分かりません」
「問題ないどころか大問題がある。鎮圧部隊は一旦、ロギシーン入りするともう街の外へ出られない」
「街の防衛とグイツァの封印保護、部隊を二つに分ければ――」
「考えなしに戦力を分割するのは典型的下策。各個撃破されることにしかならない」
「でも、ユニティは戦力を二分しています」
これが私の分からない点だ。実際問題としてユニティはストライカーチームとロギシーン防衛組、戦力を二つに分けている。しかし、一方のマディオフは戦力分割できないとラムサスは言う。
ここまで説明されてもまだ私には何が愚なのか分からないのだから、兵法というのも奥が深い。もしかしたら、これは兵法以前の問題なのかもしれないが……。
「ロギシーンを明け渡すのはユニティだからできる選択であって、マディオフ正規軍である鎮圧部隊は一旦街を取り返したら、その後、戦況不利になったとしてもロギシーンをユニティに明け渡して逃げ出すことができない」
「防衛困難なら逃げるでしょう」
「民の忠心を手放してもいいならね。奇襲を受けるかたちとなったユニティ蜂起時のみならず、奪還後に再度、簡単に都市を見捨てる軍隊をどこの国の民が信用する。物や金と違って一度失った人心は簡単には取り返せない」
フィールドに足を踏み入れてゴブリン退治に部下の力を注がせるマディオフの指揮官は頭がどうかしている、と私は思ったが、高度な軍事判断力のあるラムサスからしてみれば、案外に合理的な選択のようだ。
話している間に我々と鎮圧部隊の距離はみるみる縮まっていく。
彼我の距離が魔法の射程内となり、軍人複数名が魔法構築を始める。
始まってしまった戦闘を終わらせるべく努力することを思えば、開戦を防ぐべく苦労するほうがまだ易しいだろう。
交戦回避に漕ぎ着けるべく、ルカで大声を張り上げる。
「あなた方と敵対するつもりはありません。話し合いましょう」
我ながら陳腐な呼びかけだ。停戦提案というより泣き言に聞こえる。
停戦の呼びかけが功を奏すのは呼びかけ側が優勢にあるか、両者の力が拮抗している時だ。
追跡部隊は我々を戦闘目標とすら思っていない。馬鹿が寡勢でわざわざ捕虜となるために自分からやってきた、くらいにしか考えていないはずだ。
努力虚しく停戦の呼びかけが合図になってしまい、駒兵は躊躇なく魔法をこちらに放った。
飛来する魔法の中でも特に美しく大きな一発のファイアーボールが我々の目を引く。並大抵の代物ではない。火魔法という範疇においては、よりにもよって私がこれまで見てきた中で最も高威力の一発だ。
ウリトラスを失った今、マディオフ軍にあれだけの火魔法を使える軍人はひとりしかいない。事前調査でそれははっきりしている。
嬉しくも悔しくも悲しくも、そして一周回ってまた嬉しくもあるぞ、エルザああぁぁ!
私を遥かに超える魔法使いになり、マディオフ軍随一の火魔法を私に撃ってきていることがな!!
「あれは相殺しきれません。こちらに届きます!」
魔法の着弾に備え、ラムサスが体内に魔力を練り上げる。
私は私でヴィゾークにファイアーボールを作らせる。
しかし、結果は魔法がぶつかり合う前から分かっている。
その昔、大学でブレアとファイアーボールをぶつけ合った時と同じだ。
当時も今も、相手方のファイアーボールは明らかに私のファイアーボールよりも完成度が高い。
しかも、今のヴィゾークはボロボロだ。聖光による肉体の損傷は通常の損傷に比べて修復が格段に遅い。遅いどころか、修復が進んでいるのかかなり怪しい。
内心で泣き言を並べながら急造のファイアーボールを放つ。
エルザの巨大なファイアーボールに私の貧相なファイアーボールが向かっていく様は破れかぶれの決死突撃さながらだ。
私のファイアーボールは壁のように大きなファイアーボールにぶつかると、ぐにゃりと変形して弾けた。
本来であればそこから相手に向かって降り注ぐはずの主席火弾と子弾の全てが相手のファイアーボールに飲み込まれてしまう。
「起爆すらさせられないとは……」
私のファイアーボールを飲み込んでなおも迫りくるファイアーボールに次に突撃するのはイデナに放たせたクレイスパイクだ。
物理的破壊力に秀でた土魔法がエルザのファイアーボールに突き刺さり、なんとか炸裂させることに成功する。
試みが成功しても気はまるで抜けない。火魔法が凶悪さを発揮するのはここからだ。
巨大なファイアーボールは炸裂後の主席火弾もまた巨大であり、子弾は瞬時には数え切れないほど数が多い。それら一切合切が我々の頭上に降り注ぐ。
私のファイアーボール丸一個分に相当しそうなほど大きな主席火弾の迎撃はこの際諦めて主だった子弾のいくつかを魔法の不得意なシーワやフルルたちに作らせたファイアーボール本体で迎撃し、相殺する。
相殺しきれなかった残りの火の凶器から身を守るべく防御魔法を展開する。
半透明の魔法障壁に炎の塊がズシンとぶつかり、粘性を持ってべったりとへばりついては激しく燃え上がる。
術者の手を離れて炎上を続ける魔法にラムサスが忌々しげに言う。
「これだから火魔法は厄介!」
「使用条件が限定される代わりに他のどの属性よりも殺傷力に秀でていますからね……」
防御障壁に接してなおしつこく燃え続けるのは厄介には厄介だが、ドラゴンブレスを思えばまだ易しい。フチヴィラスのドラゴンブレスは全力の防御障壁にジリジリと滲み入ってきた。
それに対し、このファイアーボールは執念深く防御障壁の向こう側で燃え上がるばかりで、こちら側には熱も魔力も入ってこない。
私よりもずっと強力とはいえ、所詮はヒトが放つ魔法に過ぎない。
「炎の向こうはどうなっている!?」
傀儡の目を持たぬラムサスは炎で視界が塞がれていて、私を通してしか鎮圧部隊の動きを知る術がない。
「騎兵は南側と東西方向に回り込んでいます。北側は少し遅れてくる歩兵に蓋をさせるつもりなのでしょう。態勢からして遠距離攻撃の打ち合いではなく白兵戦を所望のようです」
我々を取り囲む追跡部隊がジリジリと包囲面積を縮小していく。
主席火弾は一向に消える様子がない。それでも主席火弾以外の子弾は防御障壁との鬩ぎ合いによってひとつ、またひとつと消えていく。
最後の子弾が大きく燃え上がってかき消えた瞬間、それを合図にして部隊が突撃を開始する。
主席火弾の鎮火には拘っていられない。
近接戦闘を行うために防御魔法を終えると主席火弾が雪面に落下し、大量の湯気を上げて雪を溶かしていく。
火の照明が作る視界を湯気が覆い、その中へ三方向から同時に前衛人員が襲いくる。
一部の軍人は白兵戦に加わらず、僚兵の突撃に合わせて中衛の距離から魔法を放っている。魔法はイデナとイデナに乗るラムサスに狙いを定めている。
魔法はファイアボルトに似ているが、攻撃魔法にしてはやや小さく魔力量は少なく、それでいて複雑さがある。
あの魔法にはどことなく見覚えが……。
!?
いつまで寝ぼけている。どことなくどころではない。私はあれを知っている!
「閃光弾!」
私が理解すると同時にラムサスが叫んだ。
主席火弾の焔から放たれる光が、より眩しくより白い閃光に上書きされる。
咄嗟に目を覆って昏倒も視覚の長時間喪失も回避する。しかし、光量が最大期を過ぎるまでのごく短時間の視界喪失までは回避できない。そしてそれは追跡部隊も同じである。
視界が無くともできること、追跡部隊前衛にとってそれは剣の間合いまで接近することだ。
間合いに入り込んだ軍人たちは、光量が低下して視界を取り戻すと同時に白刃を我々に振り下ろす。
鎮圧部隊はリクヴァス防衛に向かわなかったマディオフ軍人の中では精鋭であり、その中でも軍馬に乗れるのは更に精選された人員だ。
その精選人員の中にもまた優劣がある。前衛軍人たちの中で最も優秀な魔力を有する者、そいつの剣をシーワで受ける。
奇抜さのない、純粋に鋭く強い一撃だ。
万全の体勢で応じるシーワの両脚が固い根雪の中へ沈む。
この威力……ミレイリや西伐軍のアデーレ・ウルナード以上に重い。間違いなくミスリルクラス相当だ!
その軍人は、型こそ似ても似つかないものの西伐軍遊撃小隊隊長レヴィ・グレファスに勝るとも劣らない威力に秀でた剣を続けざまにシーワに撃つ。
マディオフ屈指間違いなしの豪剣にシーワがギリギリで応じる。
相手を怪我させぬように、とか、生け捕りを、などと考える余裕など全く無い、正真正銘のギリギリだ。
それくらい緊迫した戦闘だというのに、撃たれる剣の筋や斬撃が作り上げる一種の拍に、戦闘中にあらざる懐かしさがこみ上げる。
これほどの威力がありながら、他にはない流水の如き精妙さ。
間違いない!
この軍人がリディア・カーターだ!!
マディオフを訪れる前から、いずれこのような再会になるのではと思っていたが、まさしくそのとおりではないか。
懐かしく感じられたのはほんの一瞬で、すぐに剣の奏でる滅びの旋律が無駄な感情をかき消す。
リディアの猛撃を必死にシーワで受けながら、さらに四方八方から撃たれる他の軍人たちの剣を捌く。
我々が閃光弾によって視界を完全喪失していないという事実に驚く兵はひとりもいない。こいつらは閃光弾が効果的ではないと最初から分かっていた。つまり、何度もユニティに対して使っている。
こいつらが放った閃光弾は手製の魔法ではない。魔道具から放たれたものだ。さしずめ軍と大学の共同開発品といったところなのだろう。
軍学連携という不快極まりない言葉が頭をよぎる。
そんなところだろうとは思っていた。
これでもしも私がクローシェと交戦した時に切り札のつもりでバーニンググレネードを使い、無理なクローシェ捕獲法を試みていたらと思うと背筋が冷える。
自ら使う前に相手に使われることで失敗を未然に回避できた。しかし、失敗回避は事態の好転を意味しない。
追跡部隊において強い前衛はリディアだけではない。チタンクラス相当の戦闘力を持つ者がひとり二人どころではなくいて、そのいずれもが致死的な威力の剣を撃ってくる。
おかしい。
鎮圧部隊は明らかに先程交戦したユニティよりも強い。我々が聖光被害を受けていなかったとしても苦戦は必至、それだけの強さがある。
これほど強くて、なぜユニティと分けを繰り返す。
……それもそうか。
なにせ、ロギシーンに残っているユニティの戦闘員たちは云わば二軍だ。
アッシュたちストライカーチームの一軍を加えたユニティ完全体と渡り合えるのだから、鎮圧部隊もまたそれだけ強いに決まっている。
断じて侮ってはいなかった……が、それでもまた認識が甘かった、足りていなかった。
アンデッドを滅する聖光が無くなった代わりに、ロギシーンに残留したユニティの倍を超す戦力が鎮圧部隊にはある。交戦前にそう想定しておいて然るべきだった。
頭が良くないと想定すら満足にできない。では、頭が良かったらロギシーンを脱出する時に東ではなく南を選んでいたのか。
無い無い無い無い無い。
それは無い。
これでタイムループなる現象が起こって南に逃げたら逃げたで今度は南からロギシーンに攻め込んできた鎮圧部隊と鉢合わせになるのだろう。創作の読み物では大体そうだ。
ああ……。私はなにを要らないことばかり考えている。
黙って目の前の戦闘に集中しろ。
混乱しているのは私の頭の中ばかりではない。戦場は敵、味方が混じり合い、立ち位置が目まぐるしく変わる乱戦となっている。
乱戦は私にとって有利だ。手足の数だけ視野が広がる私と違い、相手方は常に自分ひとり分の視野しかない。
私は取り立てて気をつけずとも同士討ちなどしない。相手方は誤って味方を攻撃せぬよう、常に味方の動きも考えなければならない。
そして乱戦は遠距離攻撃の抑制にも繋がる。敵味方が入り乱れると、追跡部隊の後衛はおいそれと矢と魔法を放てない。
不意にリディアが叫ぶ。
「ブルーノ!!」
声の質感こそ少女時代とは違うものの奥底の響きは変わらない、懐かしいリディアの声だ。
集中力散漫な私は考えるべきことを考えずにまたもや考えなくてもいいことを考えてしまう。
幸いだったのは、謎の言葉が考えるまでもなく軍事符牒であったことだ。その意味するところは後衛への支援攻撃要請だ。
近接戦闘が始まってから沈黙を守っていた後衛部隊が再び遠距離攻撃を始める。
ただし数は多くない。火魔法がひとつ、それだけだ。
その火魔法はファイアーボールでもファイアボルトでもない。術者の手から連続性を保ってこちらに迫る様はヒートロッドを彷彿とさせる。弾速はそこまで速くない代わりに、単純な一方向への軌道変化に留まらないまずまずの追尾性をもって我々を正確に追いかけてくる。
追尾性のある魔法は回避にかなり難儀する。
まるで水面を泳ぐスネークのように迫りくる火魔法から身を守るために局所的に防御障壁を展開する。
火魔法の先端は防御障壁にぶつかるとほとんど減速なく跳ね返る。入射角よりもやや大きな反射角で跳ね返り突き進む様は光の反射よりもコイルスプリングなる玩具を思わせる。
防御障壁には意図をもって角度をつけた。火魔法が反射した先にいるのはもちろんマディオフ軍人だ。
誤射されそうになった兵士が慌てて回避行動を取ると、火魔法はその先にあった樹氷にぶつかる。
どうにか僚兵の誤射は免れたものの、高度とまではいえない追尾性では我々に狙いを定め直すことはできないらしく、火魔法の先端が一気に術者の手元近くまで引き戻される。
戻る速度は飛来速度よりもずっと速く、そのせいでますますコイルスプリングらしく見えてしまう。
あわれ火魔法の餌食となった樹氷はネバネバした乾留液のような燃焼体にまとわりつかれて燃え上がる。
火魔法の反射という大役を果たした防御魔法へ注ぐ魔力を切ると当然ながら障壁は消え、障壁にへばりついていた燃焼体がボトリと雪上に落ちてシュワシュワと泡酒のような音を立てて根雪を溶かし瞬く間に沈んでいく。
これが火炎放射か……。
ユニティに幾度となく大きな被害をもたらしているエルザの代名詞とも言える固有魔法だ。
この魔法について私はユニティ戦闘員から何度も聞いた。そしてなによりも私は火炎放射が作り上げた無残な火傷を診て、治療した経験がある。私はこの魔法をよく知っている。
実際に自分で見た感想としては、追尾性能はイオス直伝のヒートロッドよりも低い。ヒートロッドと違って穿孔力も切断力もない。しかしながら純粋な燃焼持続力とそれによってもたらされる被害拡大効果は圧倒的に火炎放射のほうが上だ。
しつこくまとわりついて相手を焼き殺すという点においてはウリトラスの得意技の数々に通じるものがある。直接ウリトラスから教わったのか、それとも自分で編み出したのか。いずれにしろ、血の繋がりを強く感じさせる。
喜べウリトラス。
お前は浮気をしていたが、エルザはキーラの不義から生まれた子供ではなさそうだ。
ああ、また要らないことを考えてしまっている。
集中しろ、戦闘に!
集中して安全にこの場を切り抜けないことにはいつまで経っても暖かい寝床で新魔法について考えながらゆっくり眠ってその後クルーヴァの王成りを解除してフルードを満腹にするためにハントに出かけて久しぶりにラムサスにカードで大勝して風魔法も水魔法もラムサスに追い抜かれた悲しみを癒やすことはできないんだぞ!?
あっ、なぜか分からないが今、凄く頭が冴えているように感じる。
戦闘から中座して魔法練習を始めたら素晴らしい新魔法が開発できそうだ。
わわわわ!!
こともあろうに早速、新魔法というか新スキルの着想が得られてしまった。
考えている場合ではない……が、もしも新スキルを実用化させられれば……。
ふおん。
大事な大事な考え事の最中にひと筋の風が私本体の首元を薙ぐ。
風?
違う、斬撃だ!
完全絶命していてもおかしくない一撃に肝を冷やし、改めてここが戦場であると認識する。
対西伐軍戦と同じで、対鎮圧部隊戦も私にとっては格上との戦闘だ。
剣は私よりも強いリディアがいて、魔法も私より巧みなエルザがいて、兵数は私の手足よりも圧倒的に多く、質にしてもチタンクラス相当の人材がゴロゴロといて、手足の質に引けを取らない。
正攻法で戦い、相手の長所にバカ正直に付き合うのは愚の骨頂だ。
こちらが秀でている部分を活かさないと……。
……。
私の秀でている部分……だと……?
あるのか、そんなもの?
あったとしても、私はこいつらを殺してはならないんだぞ。
戦力拮抗どころか自分よりも強い相手を殺さずに倒す。
無理だろ、そんなの。
またひと筋の斬撃がニグンの右上腕を撫でていく。
生者であれば大量出血間違いなし、アンデッドであっても骨連続性大半が断たれて当面使用不能になるほどの深い傷だ。
スキル断崖踏破の応用で、ちぎれかけた腕をなんとか繋ぎ止める。
大丈夫だ。
戦える。
ニグンも、それ以外の手足もまだ戦える。
しかし、押されているのは紛れもない事実だ。
突破口は……何か突破口は無いのか?
比喩無しに骨身を削る戦闘を続けながら今一度、戦闘各所の状況把握に努める。
シーワは防戦一方、フルルとニグン、それにクルーヴァは瞬間的には手が空くものの、近接戦闘能力の低い各手足の支援で結局は手一杯、ヴィゾークとイデナは撃ち込まれる近接攻撃のせいで大きな魔法を放つ時間を作れない。
ウリトラスは魔力の枯渇が近付きつつある。枯渇どころかそもそも最初から弱っている。無理をせずともいつ生命の火が消えてもおかしくない。それに万全の状態であったとしても、マディオフ軍相手に全力で魔法を放っていいわけがない。
ラムサスはともすれば私の手足だったかと思ってしまうほど信じがたい好戦を見せてくれているものの、かなり無理をしている感がある。
突破口か……。
一応ある。
髪の毛よりも細い希望は繋がっている。
対ユニティ戦と同じだ。
ゴブリン狩りに邁進していようとも所詮は素人、こいつらは対魔物戦に慣れていない。
フルードとリジッドが馬の見た目となっているせいもあるだろうが、軍人たちはこの二頭を前にするとどいつもこいつも途端に攻撃の手が止まって後手に回り始める。
フルードたちになんとか包囲網を崩させて、そこから全体を押し返し……たいところなのだが、ヴェレパスムの聖光被害を受けたリジッドよりもむしろ生者であるフルードの消耗のほうがひどい。
対ユニティ戦ではクルーヴァと並んで死力を尽くして戦い、戦闘後はここまで足の遅い手足を背負って走り詰めだった。
あちらは疲れ、こちらはボロボロ、どれそれの手筋は当方の状態如何によらず使用厳禁。
これではユニティ戦と同じで、私だけが禁忌尽くしではないか。
不利な条件の大半は最初から分かっていたことだ。今更嘆いてなんになる。
嘆いている暇があるなら一秒でも一呼吸でも早く手を打たなければ、今ならまだかろうじて打てる手筋すらすぐに消えていってしまう。
リディアが撃つヒト種に非ざる高威力の剣により、レヴィと斬り結んだ時以上の速さでシーワの身体が損傷していく。
万屋セルツァで防具を強化していてこれなのだ。防具強化前にリディアと戦っていたら、頭頸部などの数少ないアンデッドの急所を撃たれるまでもなく瞬殺されていたかもしれない。
シーワだけではない。ヴィゾークもイデナもフルルもニグンもフルードもリジッドもクルーヴァも、そして私自身も、手足という手足が全て次々と創を刻まれ、魔力は急速に消耗していく。
包囲を崩す一縷の望みと思われたフルードとリジッドすら、あれよあれよという間にどちらも押し込まれ危殆に瀕しつつある。
それというのも追跡部隊の中にハンター顔負けの対魔物の剣を撃つ者がいるせいだ。そいつが他の手足への相手を止めてフルードとリジッドへの対応に専念し始めたせいで、フルードたちの立ち回りが一気に制限されてしまった。
フルードとリジッドが窮屈な戦い方を強いられる一方で、追跡部隊の戦い方が躍動性を増していく。
まずいまずいまずいまずい。
北から歩兵も近づいてきた。
四脚の魔物頼みではない別の打開策を……何か打開策を閃かねば、このまま押し込まれてしまう。
「ああっ!!」
歩兵が追いつくまでもなかった。
騎兵のひとりがイデナの背後に剣を撃ち、それを躱しきれなかったがためにラムサスが背中に剣を浴びた。
頑丈性よりも快適性重視にしていた背負子が衝撃によって脆くも壊れ、ラムサスが地面に放り出される。
雪上に倒れ伏した隙を鎮圧部隊は見逃さない。
ラムサスは死ぬ。
あるだろ……打開策なんて、最初から……。
私はいつも捨てられなかった。
魔法を追究したかったはずなのに文句を言いながらも未練がましく剣を握り、属性を絞るべきはずだったのに水も風も使い続けた。
才能も無いのに変性魔法に手を伸ばし、魔道具作りを試し、選ぶこと捨てることができなかった。
捨てないから、選ばないから結果的に失うことになる。
全ての問題を好転させようとするから手詰まりとなる。
真に優先すべきものなど、はじめから分かりきっていた。
エルザさえ生き残れば、それでいい。それ以上は望まない。
降りしきる斬撃の雨を甘んじて受けながらイデナにラムサスを守らせ、ヴィゾークにはノスタルジアを私にかけさせる。
一瞬の視界暗転から復帰した直後に瘴気を展開する。
ごく狭い範囲で行われていた近接戦闘の全てが瘴気に包まれる。
睡眠不足なる状態異常は生者だからこそ陥るものであって、アンデッドにそんな状態異常は存在しない。
冴えた頭で戦場を俯瞰する。
大半は魔性瘴気を見るのが初めてなのだろう。軍人たちは慌てふためいている。無様な動揺が少しだけ私の気分を良くする。
純粋なアンデッドは生者の苦しみや恐れに喜びを感じない。ヒトの感性を保有する私だからこそ感じられる、純粋なアンデッドでは決して味わうことのできない愉悦だ。
「なんだ、この霧のようなものは?」
「これはっ……瘴気だ! 全員、闘衣を一瞬たりともたやすな!」
「瘴気だと!? 一体どこから湧いて出た!」
瘴気の発生源を探して兵士たちの目が右へ左へ泳ぎ、そしてそれらは全て最終的にシーワに集中した。
「雪の下から……ではないぞ!」
「そいつからっ! カーター少佐と戦っているデカい奴の身体から瘴気が噴き出している!」
瘴気が自然の産物ではないと悟った途端に兵士たちの目の色が変わる。
動揺から混乱、果ては恐慌に陥ると思っていたのに意外や意外、より一層の闘争心を燃え上がらせている。
予想外の反応ではあるが、かといって私を困らせるものではない。
闘志の増大は必ずしも不足した技量の填補にならない。それを今から証明しよう。
瘴気の展開は云わば有利な環境の構築に過ぎず、私にとっては絶対の攻撃行動ではない。部隊の士気が低下するどころか上昇したことを確認して、遅滞なく本物の攻撃行動を開始する。
魔法を撃つ手はしばし完全に止めて剣を撃つ。
私は生者の状態のほうが剣の技量は高い。元に戻ると剣の技量が若干落ちてしまう代わりに魔法技量は全般的にグンと向上する。得手不得手というやつだ。
では、アンデッドに戻ったら魔法を撃つべきなのかというと、そうとは限らない。何事にも時機というものがある。
いつぞやの遊撃小隊と違い、追跡部隊の前衛は一撃と離脱の戦法を取らずに乱戦を続けている。そんな相手に魔法を撃とうと拘るのは愚かという他ない。
魔法を撃つに相応しい環境が整うまでは剣を撃つ。
この環境下においては剣技の多少の浮沈など問題ではない。岸壁で駄ウルフどもと戦った時と同じだ。
剣を撃つか撃たぬか。
それが最も大きな意味を持つ。
闘志溢れる兵士たちは私から撃たれた軽い剣を強い力で受ける。
軽い一撃を強く受けてもなんら意味はない。意味が無いどころか戦闘効率という観点からは間違いだ。しかし、より大きな間違いが別にある。
技量不足の前衛は斬り結ぶ一合から即座に瘴気に身体を蝕まれる。訓練で染み付いた癖で反射的に“絶”を使うからだ。
悶絶して転がり口に含む泥混じりの根雪はさぞかし不味いであろう。それを理解できるのも、生者の感性を持つ私ならではだ。
私の秀でた部分をひとつ見つけた。私はアンデッド界一、生者への共感力を有している。間違いない。
いずれにしろ、“絶空”未習得者はこの場において近接戦闘に臨む資格が無い。
絶を使えば瘴気に倒れ、絶を使わねば身体が硬直する。戦場において動けぬ兵士など肉の的に過ぎない。
無資格に戦場に踏み込んだ半端者たちが次々と脱落していく。
精鋭とはいえ所詮はこの程度、瘴気ひとつで雑兵の山に早変わりする。
最低でもゴールドクラス上位相当の戦闘力があり、玉としての高い価値を持っていた軍人たちは今やほとんどが無価値な石、ただの障害物と化した。
動作不良の障害物をひとつずつ撫で倒していく。
生者の状態で戦っていた時は追跡部隊の兵数を随分と多く感じたものだが、減り始めると元の数からして実は案外に少ないことに気付く。
押すだけで倒れる石にはもうあまり集中力を割かずとも済む。
雑兵化を免れ、朝日昇らぬ未明の林の中で今なお玉として輝きを放ち戦い続けている前衛たちに意識を集中させる。
リディア以外に攻防を成立させられているのはたった数名だ。
ヒトの感性を持つ私でも、その数が多いのか少ないのか評しかねる。
そして追跡部隊前衛の最高戦力であるリディアですら絶空という高難度の技巧に集中力を持っていかれているのか、剣の冴えがほんの少しだけ落ちている。
そのほんの少しの冴えの低下を補うためなのだろう、殺意は急激に増して闘衣が強力となり、斬撃ひとつひとつが一段と重くなっている。
殺意に逸った剣はそれはそれで強力ではあるが、リディアならではの天才性が大きく損なわれている。術として洗練されていない。
暴力としての剣ならば、ジャイアントアイスオーガの撃つ剣のほうがよほど見所があった。リディアが剣に込めた殺意は『落ちたほんの少しの冴え』を埋めるどころか、むしろ応手を容易にしてしまっている。
剣術の天才は剣の操作に関して超一流の域に達している。しかしながら、闘衣の操作は一流の域を脱していない。闘衣を極めて絶空を完璧に使いこなすには、ヒトという種に稀に見る天才であってもまだしばらくの時間と魔力を要する。そういうことなのだろう。
鈍くなったとはいえ、それでもなおリディアの撃つ剣は私よりも優秀だ。しかし……。
こんなものなのか?
私が恐怖したリディア・カーターの才能とは、この程度のものなのだろうか。
体調不良や、無意識に抱いていたリディアへの恐怖に惑わされて生者の状態では気付かなかったが、アンデッド化により冷静になった頭で改めて評価するに、現実のリディアの戦闘力は想定よりもだいぶ低い。
ゴブリンと戦い続けた疲労はあるだろう。だが、現実と想定の差の本質はそこにはなさそうだ。
確かに私よりはずっと強い。しかし、当時のリディアの強さや成長曲線を考えると、それではまるで物足りない。
実は早熟型で、意外に早く成長が頭打ちになったのか……?
いや、おそらく違う。
リディアの剣は何かに縛られている。そんな印象を受ける。
呪縛といっても、王族の呪いに代表される呪術の類ではない。己の心の弱さに端を発する幻影に振り回されているような、そんな妙な感じだ。
幻影とは、はたして何なのか。
……。
私が知るは、少年期半ばから青年期突入直前にかけての、修練場で剣を撃つリディアだけだ。他は何も知らぬ。修練場への道すがら、この人間の人生について語らった例などない。
しかも、剣を競い合った日が終わってからそれなりの時が流れた。
考える材料を持たぬ私に分かるものでもないだろう。
幻影の正体についてはもはや考えぬ。肝心の力の底は概ね理解した。
これ以上、戦いを長引かせる理由はない。
さて、ではどうするか。
生命を奪うだけなら容易い。
しかし、それは選択肢としてありえない。深く考えずとも簡単に分かるというのに、私はエルザ以外の全員を殺すつもりで自分にノスタルジアをかけた。
ヒト社会における先行きはアンデッドの状態ではなく生者の状態でこそ見通しやすい、見通すべきものなのだというのに生者のままでは、アールの頭ではそれが分からない。
体調不良は修飾的事象に過ぎない。根本はアールという肉体の知力の低さだ。
科学思考力であればヴィゾークが、戦闘思考力であればシーワが、戦術戦略思考力ではラムサスのほうが圧倒的に高い。賢さをアールに求めるのは要求として不適だ。
あれやこれやと考えているうちに石と化した前衛を粗方倒し終える。
残るはリディアを含め数名、この者たちが戦意喪失せずに戦う者として立っている間は後衛からの攻撃が激化する可能性は低い。云わば弾除けとして機能してくれる。
棒立ちする石と違い、大きな被害を出さずにこの弾除けたちを倒すのは難しい。どうしてもそれなりの被害を与えてしまう。
ここからマディオフ軍への被害を最小限に抑えて戦闘終了へ持ち込むにはやはりリディアを制圧するのが最善か。殺害よりもずっと難しくはあるが……。
物理手法では防御困難な魔法であるヒートロッドを手空きとなった手足で構築する。
リディアは殺さない。しかし、それはリディアという個人を尊んでいるからではない。そんな感情、今の私には残滓程度しか存在しない。
アールの家族やライゼンの子供ではないのだ。殺害が適当と理性が判断した場合、その判断を感情が押し止めることは決してない。
リディア殺害はマディオフ軍を大幅に弱体化させるのみならず、エルザにいくつもの不利益をもたらす。
マディオフという国が存続するにあたってリディアは絶対に必要な人材であり、その喪失はエルザへの負担集中に直結する。
いくら知力、思考力に劣っているにしても、直感でそれくらいは分かって然るべきだ。
思うにアールの肉体は直感力も高くない。
手足を含めて考えたとき、生者としての直感力に秀でているのはルカで、アンデッドとしての直感力に秀でているのがヴィゾークだ。
ヴィゾークの直感は、生者の直感とはまるで質が異なる。より具体的で正確で、真に迫る感がある。
ヴィゾークもアンデッド化した私もリディアを殺さずに制圧すべきと直感している。
理性と直感の両方に従ってヒートロッドを伸ばす。
雪の上で顔だけ持ち上げたラムサスがリディアの身体に迫るヒートロッドを見て大声を張り上げる。
「殺すなっ!!」
ラムサスの制止に強烈な違和を感じる。
ヒートロッドには命を奪う意図が微塵もない。小妖精を使えるラムサスが私の放つ魔法の意図をなぜここまで誤って受け止める。
誤解からの制止がリディアへの警告となってしまい、迫るヒートロッドに気付いたリディアは炎の剣を己の剣でしなやかに弾く。
力で払うのは難しいはずの流体に近い炎の剣がリディアの巧みな技によって撓み逸れていく。
剣の天才は、私では思いつかない、思いついたとしても実現困難な絶技を瞬時に閃き、やってのけた。
ただ、技そのものは想定外でも、防がれること自体は私の想定内だ。
伸びるヒートロッドの影、リディアの死角を滑るように飛んでいたひとつの魔法がリディアの眼前に現れる。
リディアは動じずに魔法軌道を見抜き、斜め後方へ小さく跳ねて回避する。
魔法はリディアとシーワの間を通り過ぎ、すぐ横で雪面にぶつかって爆発した。
炸裂時の光量と燃焼力を切り詰めた代わりに爆発風圧を最大化したバーニンググレネードが地に足の着いていないリディアの身体を吹き飛ばす。
魔法の特性を見抜いての回避ではない。リディアは反射神経と天性の勘の良さでバーニンググレネードを避け、さらに闘衣を展開して爆発から完全に身を守った。
吹き飛ばされてはいるものの、すぐさま空中で体勢を制御し始める。
軍学連携などというものがなければバーニンググレネードの光量をもう少し上げることでリディアの視機能を少なくとも数秒間は低下させられた。詰めに要する手数ももっと少なく済んだ。
……が、それはもはやどうでもいいことだ。
空を滑るリディアが完全に体勢を立て直す直前、クレイスパイクが横腹を直撃する。
ヒートロッドもバーニンググレネードも対応されると想定した上で前もって撃っておいた威力偏重型の置きクレイスパイクだ。
一撃。
やっと一撃だ。
天才剣士にたった一撃入れるために何合斬り結び、どれだけ身体を削られ、魔力を削られ、手数を費やしたか。
針の穴を通す難しさとはまさにこのことだ。困難ではあったが、盤上遊戯にも似た一手一手詰めていく楽しさがあったのは否めない。
痛恨打をもらったリディアが受け身も取れずに雪の上を転がる。
三度、四度とゴロゴロ転がり、長い滑走痕を雪に刻んでようやく止まると、リディアは即座に顔を上げた。
眼前に迫るは追撃のヒートロッドだ。
リディアは上体だけを起こすと、やや鈍重な感のあるまた更に冴えが落ちた剣で、それでもヒートロッドを一本弾く。しかし、二本目のヒートロッドまでは捌ききれずにゴロリと身体を転がして回避する。
最後の悪あがきだ。
ヒートロッドは火炎放射より遥かに素直に術者の手元の操作に追従する。
弾かれた一本目のヒートロッド、避けられた二本目のヒートロッド、いずれも軌道を速やかに修正して未だ立ち上がれずにいるリディアの腹に飛び込ませる。
リディアはまたも身体を転がせて一本はヒートロッドを躱すが、進入角度の異なるもう一本の軌道からは逃れれられない。
火魔法にあらざる優れた穿孔力を与えられたヒートロッドが鎧を穿ち、腹を貫き、分厚い雪を突き抜けてその下の大地まで突き刺さる。
リディアはもう避けられない。
一度目は弾かれ、二度目は避けられたヒートロッドが三度目の正直でリディアの身体に飛び込む。
腹に二本、炎の剣を突き立てられてもリディアは叫喚しない。嗚咽じみた重い息を吐くばかりだ。
十分に役目を果たした炎の剣を消し去り、呼吸不要なアンデッドながらに精神的ひと呼吸を衝く。
脅威となる前衛は排除できた。弾除けは監視さえしておけば脅威にならない。
前衛戦力は壊滅に等しい。遅れてやってきた歩兵は後衛の真横まで来ているが、歩兵も後衛ももはや戦意は皆無であろう。
あとは我々がこのままこの場から立ち去れば、無傷の者たちが転がる前衛たちを救助する。
撤退戦の完全成功を確信して北の後衛たちを見る。
そして即座に確信が誤っていたと知る。
魔法使いは破壊力だけを意識した強力な攻撃魔法を構築し、弓手は引き絞った弓矢に目一杯の魔力を込め、歩兵たちは殺意を漲らせてこちらへ猛進している。
馬鹿な……。
こいつらは何を考えている。いかにヒトが愚かといえど、何の意味もなくこれほどの愚を犯そうとは信じがたい。
後衛たちが放とうとしている矢と魔法の斉射がどれだけ強力だったとしても、我々は一本たりとも手足を失わない。
今の今まで戦闘模様を眺めていたのだ。それが分からぬマディオフ軍ではあるまい。
斉射が奪えるのは僚兵の生命だけ、歩兵にもリディア以上の強者がいるようには見受けられない。
どこか私の気付かぬ場所に搦手や伏兵でも用意してあるのか。
……。
無い。奇策など、どこにも見当たらぬ。
理解不能だ。
なぜ、鎮圧部隊は戦意を失わない。
ああ……そうか。これが……。
理解不能な鎮圧部隊の行動原理を悟った瞬間、二つの緊急情報を入手する。
生者よりも混乱をきたし辛いはずのアンデッドの思考が乱れ散らかる。
情報への理解が追いつかぬまま、応手としてやにわに三つ、魔法を放つ。
ひとつがノスタルジアとプリザーブを解除するためのリヴァースで、残る二つはいずれもヒートロッドだ。
急造の炎の剣二つがリディアの利き腕を貫く。
刺入口と刺出口、合計四つもの大穴を胴体に開けられて戦闘不能となっていたはずのリディアは跳ね起きて我々に再度攻撃を加えようとしていた。
腹から血と内臓を垂れ流し、展翅版上の虫のように利き腕が空に固定され、どこからどう見ても戦える状態にないリディアは、それでもなお我々と戦おうと、否、我々を滅ぼそうとしてもがく。
その勢い、その迫力たるや凄まじい。ヒートロッドに縫い留められている右腕を『邪魔』と吐き捨てて今にも引きちぎらんばかりだ。
およそヒトとは思えぬ咆哮を上げて殺意に狂ったリディアという衝撃の光景が、蘇生直後の体調不良を少しだけ忘れさせる。
私のヒートロッドはリディアの腹を貫いた。ただし、重要臓器は避けてある。
重傷であることに間違いはないが、適切な治療さえ受ければ死にはしない。完治すれば後遺症も戦闘力の低下もほとんどなく戦線復帰できる。
だが、こんな無理をしてしまっては回復どころではない。この場で落命する。
リディアだけではない。
瘴気や斬撃により戦闘不能になっていたはずの兵士たちが力の限りを振り絞って身体を起こし、我々に攻撃しようとしている。
後衛、歩兵、半死半生の前衛、全て狂っている。
目がおかしい。
これは……これはクローシェが我々を見る目と同じだ。
こいつらは我々を滅ぼすこと以外、何も考えていない。
理由は明快、クローシェだけはおそらく少々異なる事情があるにせよ、鎮圧部隊の狂気はいずれも王族の呪いによる強制力だ!
強いられていようが、狂っていようが、目は見え、耳は聞こえているはずだ。
有効とはついぞ思えないが、それでも説得でなんとかならないだろうか。
どうにか……どうにかなってくれ!
「もうやめてください、リディア・カーター。これ以上の戦闘に意味はありません。いや、そもそも戦闘にすら……」
対象を、王に忠実な死をも恐れぬ狂戦士と化す驚異の呪術。
それが王族の呪いだ。
鎮圧部隊との交戦前は、この呪術をどうすべきか、私の中にまだ確固たるものはなかった。
それが現実をまざまざと見せつけられたことで確信に変わる。
王族の呪いは危険だ。
正気を失って我々の討伐だけをひたすらに願い、身体の欠損すら厭わずに暴れるリディアは、明日のエルザの姿に他ならない。
断じてエルザの身体にかかっていていいものではない。
私は絶対にこの呪いを解く。
そのために必要なのはリディアたちを倒すことではない。それでは未来に繋がらない。
エルザを救うには……エルザの未来を守るにはどうしたらいい。
迷いが時を加速させる。
何も決められぬうちに後衛が魔法を完成させて弓を完全に引き絞る。斉射が今まさに放たれようという瞬間、傷を押して立ち上がったラムサスが叫ぶ。
「私たちは、ユニティではない!」
変装魔法によりラムサスはミレイリの姿をしている。ラムサスたったひとりがユニティ構成員ではなかったとしても、残りの我々全員がユニティの人員の顔をしてユニティの装備を着込んでいては、言い訳として意味をなさない。
「私たちは、あなたがたの敵ではない。私たちはユニティが占領するロギシーンに忍び込んでいた!」
歩兵が立ち止まり、後衛は即攻撃可能な姿勢を保持したままで静止する。
それは指揮官の号令を待っているようにも、ラムサスの説得に耳を傾けているようにも見える。
動きが止まったのはリディアを含めたボロボロの前衛たちも同様だ。
ラムサスの言葉が届いた?
私とラムサスの説得では何が違った? いかなる相違点がこのような結果の違いを生む。
まだ説得が成功したとまでは言えぬが、ラムサスはほぼ正解に辿り着いている。一体どうやって?
……考えたところで、私では分からない。思路は後で教えてもらえばいい。ラムサスの導き出した答えの核、最終正解だけは、私も分かった。
この世に完全なものなど存在しない。
クローシェが持つ呪破の能力以外に対抗手段が無いと思われた王族の呪いにも、攻略法は存在する。
私がジバクマで見つけた頭脳は、それを気づかせてくれた。
背中の痛みに耐えて正解の続きを語ろうとするラムサスを私が引き継ぐ。
「マディオフを統べる王への害意が無いことをここに誓う!」
ルカの宣誓に、リディアの身体からまた更に力が抜けていく。
やはりだ。
マディオフの王族が軍人以外には、ほぼ全くといっていいほど呪いをかけていなかった理由がこれではっきりした。
呪いをかけられないのでも、かけるのが面倒だったからでもない。
かけても意味がないからだ。
ラムサスが気付かせてくれた攻略法は、リディアにかかった王族の呪いには効いた。
攻撃態勢を未だ完全に解除しない後衛や、その中にいるであろう指揮官はどうだ。
言辞が揺さぶり以上の大きな効果を発揮しているのは間違いない。しかし、彼らの体内に潜む王族の呪いにいかほど作用しているかは不明だ。
仮に嘘を看破する情報系の能力者や魔道具を鎮圧部隊が保有しているとして、それは前衛ではなく指揮官のいる後衛に配置されているはず。
ラムサスの小妖精や審理の結界陣ですら欠点まみれなのだ。相手方だけが完全無欠の情報能力を有しているわけがない。
あとひと押しだ。真偽判定の能力があったとしても、それに絡め取られずに呪いを無力化しろ!
「この国に暮らす罪なき人々を助けたい! そのためにも、あなた方の力を必要としている。だから……だから剣を下ろしてくれ!」
前衛の構える武器の先が徐々に下がっていく。兜の奥にある目は、疑惑の色がまだ完全に消えていない。
それならば、と率先垂範すべく手足全ての魔法を霧散させ、剣は鞘に納めさせる。
ルカを背負子から下ろし、無手のままリディアへ歩み寄らせる。開いた両手掌から放たれるは回復魔法の光だ。
ルカは魔法が苦手で、総魔力量も少ない。しかし、全く行使できないほどでもない。
リディアの傷を完治させるにはまるで足りずとも、意思表示には十分足りる。
あと数歩までルカが近づくと、リディアは無事な手で剣を握って剣尖をルカに向ける。
それ以上近付くな。
リディアは無言で警告している。
それでもルカの歩みは止めない。
「私があなたを治す、リディア・カーター」
雪に膝をつくリディアの剣の先は、ちょうどルカの心臓の高さにある。
私だけではない。鎮圧部隊全員がルカとリディアの動向に注視している。
私もこれ以上、言辞を弄さない。
ルカがもうあと半歩、足を進めると剣が胸に刺さる。
そこまで近付いたところで、ついにリディアは剣を下ろした。
リディアが心の最後の一線を割った瞬間、鎮圧部隊後衛の中心に立っていた人物が控えめな声量で号令を発し、全後衛が攻撃態勢を解除する。
ある意味で支持力ともなっていた呪いの強制力を失ったリディアは、自らの内臓がこぼれ落ちる雪の上にベチャリと倒れた。




