第五〇話 華麗なるトルカルト家料理長 カミル 二
先代当主ナラツィオ、当代当主バレンシー、そして細分化された屋敷内の各業務部門の長たちが大広間に着席し、“話し合い”が始まる。
どんな凄惨な“話し合い”が行われるのか、一同は恐れ慄きナラツィオの玉音を待つ。
見るに、ナラツィオはいたって落ち着いている。
これが先程まで全裸で大立ち回りを演じ、家族や使用人に恐ろしい“制裁”を科した人間なのだろうか。
それとはついぞ思えぬほどに平然としている。
挙措の裏を丹念に探っても、猛る心を隠している様子はない。
不気味なほどに落ち着き払ったナラツィオが気怠げに口を開く。
「……さて、この場に残った者たちにとっては今更言うまでもないことかもしれないが、話の前提は共有しておこう。私は長いこと檻の中に閉じ込められていた。そうだな?」
ナラツィオが屋敷牢に幽閉されていたのはおよそ三四半年だ。短い期間ではない。だが、幽閉の目的を考えれば、長いと言って差し支えないものかどうか微妙である。
“話し合い”の最序盤から不機嫌になられても困るため、心ならずも一同はナラツィオの言葉に同意して頷く。
「長きにわたる牢屋生活からやっと抜け出せたのだ。やりたいこと、いや、やっておきたいことが色々とある」
含みのある『色々』という表現が一同の想像力をかき立てる。過酷な責め苦、叫喚の絵、思いは皆ひとつだ。
「色々と言っても優先順位がある。大きな目標からいこう。一番は料理だ。料理がしたい。それも、ちょっとやそっとではなく、業務量に匹敵するほど大量に作りたい」
(今のはナラツィオ様なりの冗談なのだろうか? 愛想笑いしておいたほうがいいのか?)
耳を疑うナラツィオの要求に一同は目をパチクリとさせるしかない。それに飽きると今度は全員、判でも押したように同じ表情をしてカミルを見る。
そんな目で見られても、カミルにはどうしようもない。要求の裏にあるナラツィオの真の目的などカミルには分からないし、適当な返事も思い浮かばない。『素晴らしいお考えです。ナラツィオ様。調理部門の総力をあげてナラツィオ様の崇高な目標を誠心誠意お手伝いさせていただきます』とでも言うべきなのかもしれないが、そんなご機嫌取りをナラツィオが期待しているとも思えない。
何を言うべきか分からぬのなら、沈黙を守るのが最善である。
一同は黙したまま挙動不審となる。
ナラツィオは一同の慌てっぷりを堪能してから続きを言及する。
曰く、今日の自分はいつになく心身の具合が良い。それでも“病気”の身に変わりはなく、いつまた悪化に転ずるか分からない。その時はまた屋敷牢に戻らざるをえないだろう。再度の幽閉は自分としても覚悟している。
ただ、せめてその日が来るまでは、悔いを残さぬように檻の外で色々とやっておきたい。“病気”の性質を考えても、外にいられる期間はそう長くない。そのわずかな期間を無聊に任せるつもりはない。
料理はこれまで自ら手掛けたことのない分野であり、これに挑戦することはひとつの学びである。“病気”の再悪化予防という意味でも隠居老人の手慰みという意味でも悪くない。料理について大いに学び、大いに実践したい。
人生で最後になるかもしれない学びの機会だ。我流には走らず、本職の人間から教わって正統なものを作りたい。
そこで、調理部人員の助力を求めている。
自分は料理の素人だから最初は失敗もするだろう。失敗は成功の礎であり、一定の試行回数がどうしても必要になる。
上手く作れるようになった暁には、家族や使用人、ハウピーツーの社員にも振る舞って賞味してもらいたい。皆に喜んでもらえる水準まで料理の腕が上がれば目標は達成だ。
少量ではなく大量に作りたいのは斯様な理由に基づいている。
さしあたって必要となるのが人、物、場所、そして潤沢な資金だ。
小遣い代わりに、料理に必要十分な予算を組んでもらいたい。
ここまで淀みなく要求を述べてきたナラツィオが一息挟む。
すると、予算を組まなければならないバレンシーがビクビクとした様子でナラツィオに伺いを立てる。
「もちろん直ちに見積もりを立てて用意します、父さん。ですが、ざっくりとでも希望額を教えていただけませんか? そのほうが、後々、予算修正にお手間をかけずに済むと思います」
「そうだな……」
ナラツィオはチラリと上を向いた後にサラリと希望額を述べる。
それがあまりにも巨額だったため、カミルは絶句してしまう。
尋ねたバレンシーも目を見開いて呆れている。
「それでいいのですか、父さん」
不服申立てにもちかいバレンシーの物言いに、カミルは心の中で絶叫する。
(下手に逆らっては“制裁”の第二幕が開けてしまう!)
カミルの声なき声が届くはずもなく、バレンシーが続けて問う。
「たったそれだけで足りるのですか?」
(あっ……。そっち?)
「私の勘定では足りることになっている。どうしても足りない場合は恥を忍び、追加予算について相談するかもしれない」
「それならば、最初から二倍でも三倍でも準備しましょう」
「それには及ばない。ある程度、限られた予算内で計画を組むのもまた味わいよ」
何が面白いのか、ナラツィオは自分の冗談をうふふと笑う。
カミルからすれば、ナラツィオの要求は小遣いとは呼べないほど額が大きい。それこそ目玉が飛び出すほどの金額だ。
ただし、それはカミルにとっての話であって、バレンシーからしてみればかわいいものだったようだ。
やり取りからするに、バレンシーは、ナラツィオから求められた財政出動をひとつか二つ桁を大きく見積もっていたものと思われる。
確かにトルカルト家で執り行われる各種催しの年間経費を思えば、ナラツィオの要求は異常と断言できるほど大きな額ではない。
無心されたのが二倍、三倍どころか、十倍だったとしても、トルカルト家の財政はびくともしないだろう。
カミルがひとり納得していると、ナラツィオがまた新しい要求を述べる。
「話を次に移そう。料理以外に私がやりたいのは見聞を広げることだ」
愛想笑いを浮かべていたバレンシーが真顔となり、次なるナラツィオの要求に耳を傾ける。
曰く、ナラツィオの体調は良いとはいっても、自分の息子の顔も名前も分からないほど記憶は朧だ。過去のことなどまるで覚えていない。
それに、“病気”で世間から隔離されている間、世に起こった変化は正に劇的だ。
元商人として、それらを知らずにいるのは耐え難い。
失ってしまった過去を取り戻したい。現在も知りたい。そして、この先どんな未来が待ち構えているのかを見通したい。
その手段のひとつとして考えているのが対談だ。
トルカルト家の人間や、トルカルト家が経営するハウピーツーの重役、それに若くして優秀な業績を挙げている社員たちと個別に対談し、活きた情報を得たい。
バレンシーは第二の要求を即諾できず、苦渋の表情を浮かべる。
「それは、実質的な経営権を父さんに……会長に戻させるための準備ということでしょうか?」
「ハウピーツーの経営はお前に任せてある。口出しするつもりは……。もしも、改善すべき点や社員の不正のひとつでも見つければ、助言くらいはするかもしれないが、それを採用するもしないも、全ては社長兼代表取締役を務めるお前の一存だ。私は単に知識欲や好奇心に駆り立てられて情報を求めているのであって、経営を引っ掻き回すつもりはない」
経営権奪還は画策していない。
ナラツィオは端的にそう主張している。
上っ面かもしれないが、その言葉が聞けたことに心底安堵した様子でバレンシーは胸を撫で下ろす。
主たる要求二つが告知され、“話し合い”の名を借りた命令通達の場は次の段階へ移行する。
ナラツィオの次の命令、それは口封じだ。
ナラツィオの幽閉は公然の秘密となっている。屋敷牢そのものは合法であり、そこから抜け出したナラツィオを取り押さえようとした警備員たちの行動もまた合法だ。
ただし、実父に剣を向けたバレンシーや、バレンシーとピアストにナラツィオが強制した“制裁”は言うまでもなく違法行為だ。衛兵の捜査が入った日には、トルカルト家もトルカルト家が経営するハウピーツーも大変なことになる。
そこで、今晩の出来事は内々に収めるよう、部門の長たちはきつく言い含められる。
足並みを乱した者に待つのは“制裁”だ。口さえ慎めば身の安全が保たれて職場は存続するのだから、カミル他、使用人たちに異存はない。
全員が厳かに根回しを拝承すると、案外に呆気なく“話し合い”は終わりとなった。
散会となり、各員が広間からソロリソロリと出ていく。
下手に大きな足音を立ててナラツィオから目をつけられるのは皆、避けたいのだろう。今後、最大の被害者となりそうなカミルへの無意識の気遣いもそこにはあったのかもしれない。
誰も彼もキョロキョロと周囲を窺いながら歩く割に、いざカミルと目が会うと気まずそうにサッと目をそらして俯いてしまう。
別部門の同僚たちのよそよそしい姿を見て、カミルは自分が置かれている立場の危うさを改めて実感する。
(ロウソクの火が消えるように、自分も音もなく消えてしまいたい)
予想される未来は暗い。暗くて数歩先も見えない。
暗闇が恐ろしいのは、むしろ光があるからではないか。自分が闇と同化してしまえば、もう何も恐れずに済むのではないだろうか。
惨憺たる未来に現実逃避を始めるカミルをナラツィオの声が現実へ引き戻す。
「明日からよろしく頼む、カミル君」
ナラツィオはカミルの真横に立ち、白濁した目で笑って言った。
カミルは足元がガラガラと音を立てて崩れていくように錯覚した。
◇◇
翌日、ナラツィオへの個人指導が始まる。
指導の場で緊張するのは教わる側のはずだというのに、それがどうだ。カミルの城とも言うべき調理場で戦々恐々としているのは教える側のカミルだ。
ナラツィオは誰から借りたのか、明らかに使用感のある使い古しの調理服に身を包んで調理場に現れ、カミルの横に立って指導開始を今か今かと待っている。
「先生、今日はよろしくお願いします。やあ、年甲斐もなく心が躍ってしまいます。戒めの意味でも、ひとつ厳しくお願いします、先生」
ナラツィオが嫌味のようにカミルを『先生、先生』と祭り上げるものだから、カミルはますます萎縮する。
個人指導のほうではなく、本業である全体調理の流れは事前に策定してある。料理長のカミルが黙っていても、ナラツィオに付きっきりで指導していようとも、屋敷の朝食の準備は進む。
カミルには、『個人指導はお屋敷に出す朝食を作ってから始めましょう』と、嫌なことをこれ以上、先延ばしにする道すらないのである。
「何からやりますか、先生」
ナラツィオが口を開けば開くほど、カミルの混乱には拍車がかかる。
混乱極まり、何をどうしていいか分からなくなったカミルがガクンと頭を垂れて身体を弛緩させる。
身体から力を抜くと意外に落ち着くもので、まずは基本へ立ち返ることを考える。
カミルが調理部の長に就任するよりもずっと前、後輩として新人がひとり自分の下に割り振られたばかりの頃、仕事の合間に新人をどうやって指導しただろう。
最初の最初にやったのは、カミルが手本を見せる……ではなく、新人に得意料理を作らせることだった。
難しく考える必要はない。
まず料理を作らせる。
その者が最も得意とする料理を食べれば、およその実力が明らかになる。何からどう教えていけばいいか、指導の道筋は勝手に見えてくる。
カミルはナラツィオの怒りを買わぬよう、調理場にある食材と調理具の一切がトルカルト家の物、ひいてはナラツィオの物であることを慇懃に説明し、あらゆる食材、あらゆる道具を使って構わないから、ナラツィオの作れるものを作るように伝える。
「何を使ってもいい、か」
ナラツィオはボソリと呟いて調理場を歩き回る。
ナラツィオが好きに動けるよう、調理師たちには調理場の隅でギュウギュウ詰めとなって朝の調理をこなしてもらっている。
そんな精一杯の気配りを無にするように、ナラツィオは押し合いへし合いする調理師たちの所へ歩いていく。
急接近するナラツィオ。
昨夜の悪行を知らされている調理師たちに緊張が走る。
ナラツィオの方は決して見ず、さも『仕事に集中しています』と言うように手元を凝視して作業に勤しむ。
『俺の後ろだけは何も言わずに通り過ぎていってくれ』
きっと誰もがそう思っていた。
残念ながらナラツィオは無慈悲にも調理師たちに声を掛けていく。
「この端材は捨ててしまうのか?」
ナラツィオが指差しているのは少し贅沢に除けられた食材の切れ端だ。
「いえっ!! それは――」
「ん、違うのか? では、この部分をバレンシーたちに食べさせるのか?」
「滅相もありません。そんなことは決していたしません」
端材は賄い料理に欠かせない大切な食材だ。主人たちの料理には端材を決して用いない。だからこそ、調理師は慌てて否定した。
それにしても、どうしてナラツィオはそんなものに興味を示したのか。
ユニティの台頭によって一時的に立場が揺らいでいるとはいえロギシーンはマディオフの台所であり、そのロギシーンのほぼ中心地に屋敷を構えるトルカルト家では日頃から贅沢なほど高水準の食材をふんだんに用いた料理が出されている。
ナラツィオが試し料理に使うべき食材はいくらでもあるというのに。
「ならば、私が料理に使ってしまっても構わないか?」
賄いの食材を持っていかれては自分たちの食べる分が減る。
どう答えるべきか分からぬ若手の調理師が目でカミルに助けを求める。
(ナラツィオ様の求めは全てを受け入れるべし)
カミルが身振り手振りで若手調理師に助言を伝える。
助言を理解した調理師が泣きそうな笑顔でナラツィオに答える。
「どうぞ、ご自由にお使いください」
端材を一種類入手したナラツィオが引き続き調理場を回る。
手付かずの食材にはなぜか手を出さずに数種類の端材をかき集めたナラツィオがようやく調理を開始する。
一旦調理が始まるとカミルの恐怖は急速に薄れていき、代わりにナラツィオの調理に対する興味が大きくなっていく。
ナラツィオは自分自身を『素人』と言っていたのに、端材を使ってスイスイと調理をすすめる。
『料理を作り慣れている』と『賄い料理を作り慣れている』は少々意味合いが異なる。
料理の経験はあっても賄い料理の経験はない者にいきなり端材だけを与えて、これで料理を作れ、と命じると、これが意外と苦心する。
ナラツィオは明らかに経験者だ。
しかも、これまでに見てきたどの調理師たちも違う、変わった技法を披露する。
食材を切らせると、まず刃の扱いからして独特だ。市井の料理人というより、漁師が賄いを作るときのような荒っぽい刃捌きをする。そして、その割に飾り切りを入れる。
食材に熱を入れる際は、異様なほど時間短縮を意識した火の通し方をする。しかも、ニオイ消しに配意する姿勢が見られる割に下味の入れ方が甘い。
主たる調味は最後にほんの少しだけ、申し訳程度に行う。中まで味を染み込ませず、完成した料理の表面に重点的に味をつけるのは、言わずと知れた調味料の節約手法だ。
最後に待っている盛り付けでは、皿選びも盛り方も理解し難い癖がある。よりハッキリ言ってしまうと、美的感覚に欠けている。
重きは、美しさではなく食べやすさに置かれている。
例えば、何か別の作業に打ち込みながら、料理を見もせずに手で掴んで口から胃袋に流し込む。そういったながら食べには向いていそうな食べやすさだ。
それも突き詰めれば機能美が見えてくるかもしれないが、残念ながらその域には達していない。
でき上がった料理と皿の色合いの調和、盛り付けの美がまるで考えられていない。飾り切りは、技量そのものは悪くないのだが、最後の構図を考えて入れられたものではないから、かえって不協和音になってしまっている。
まとめると、屋敷内での調理とは全く別種の制約の中で磨かれていった料理の技法。
ナラツィオが調理していた様と完成した料理の総括として、カミルはそんな感想を抱いた。
商売と経営に傾注するばかりのナラツィオがいかなる経緯でこの技を習得するに至ったのだろう。カミルは、知っている限りのナラツィオの経歴を振り返ってみるものの、それらしいものが全く見当たらない。
どんな経緯があるにせよ、一度、身に付いてしまった癖を矯正するには多大な苦労を伴う。
カミルは先の長さを覚悟した。
ところが、ナラツィオはカミルの期待を大きく裏切る。
頑固極まりなさそうなこのナラツィオ、これが新人顔負けの素直さでカミルの指導を聞き入れる。しかも、年齢からは想像がつかないほど飲み込みが早い。
「勉強になります、先生。どんなことでも教えてください。なんでも覚えます」
ナラツィオがあまりにもカミルの教えを嬉しそうに聞くものだから、カミルとしても思っていた以上に指導に熱が入る。
ナラツィオの備えていた料理の経験は学習の阻害要因になどならなかった。
むしろ学習の良い土台となってくれたため、ナラツィオの基礎的な技能や料理への基本的姿勢はすぐに屋敷の中堅調理人と同等にまで成長した。
◇◇
ナラツィオが励むのは料理ばかりではない。
学ぶほどのものではない調理部の雑用仕事にはナラツィオは加わろうとしないし、カミルたちとしても加えるわけにはいかない。そのため、ナラツィオの手が空く時間はいくらでもある。
空き時間にナラツィオが励むのは概ね二つだ。
ひとつは前言の如く、トルカルト家の人間やハウピーツー社員たちとの対談である。内実は対談を装った諮問だ。
ハウピーツーの社員たちは諮問の際、商人の立場から見るロギシーンやマディオフの概況、ユニティの動向、そして将来予測等々を問われる。
皆、ナラツィオがあの晩に行った“制裁”は承知しているから、得点稼ぎの持論は展開せず、事実に則して無難な返答に終始する。
諮問官のナラツィオもナラツィオで、何を見極めたいのか分からない開いた質問ばかりするから、社員にしても、現在のロギシーンでは大人から子供まで知っている事実を絡めて、失点しない答え方をせざるをえない。
まるで模範解答でも社内に出回っているかのように社員たちは同じような回答をする。
常識的事実を事実と確認して何が面白いのか、ナラツィオはこの無意味な遣り取りの繰り返しに一定の満足を示す。
ユニティの母体が、企業規模としてはハウピーツーを上回るロギシーン最大の総合食品企業“バーギル”だと聞かされて何を驚く。わざわざ社員に諮問せずとも、使用人に一言、尋ねるだけで入手できる情報だ。
バーギル直営の大農場に外国人労働者が大量に流入している、という噂にしたって、何年も前から相当に有名だ。実際に農地で働く筋骨隆々の外国人を目の当たりにした地元民はいくらでもいたのだから、手に握る農業用フォークが剣や槍に変わってユニティの戦闘員に早変わりしたところで、まさか、の思いはあまり大きくない。
カミルも、ユニティが蜂起して外国人の正体が判明した時は、『ああ、そういうことだったのか』と驚きもせずにしみじみ納得したものである。
ユニティの組織理念や目指している未来にしたってそうだ。
ユニティは蜂起当初から組織理念を大々的に公開しており、広げた口上は今のところ違えていない。今後、どうなっていくか確実なことは誰も言えないが、それはユニティに限った話ではないだろう。
未来は誰にも分からない。
そういう意味では、才気溢れるハウピーツーの若手社員に問おうが、鄙びた酒場でぐでんぐでんに酔っぱらっている人間に聞こうが、得られる回答は大差ないに決まっている。
ただ、これらの情報に目新しさを感じないのはカミルが市井に暮らしているからだ。ナラツィオの“病気”が酷くなった時期や隔離期間を考えると、彼にとっては完全に新規の情報も多々あるだろう。
カミルもナラツィオとの諮問に臨んだが、取り立てて特別なことは聞かれなかった。
諮問時の質問よりも、毎晩ナラツィオの書斎で行われる夜会での談義のほうがよほど興味深い。他の誰と語らっても味わえない独特の趣がある。
会話が弾み、『入院されたナラツィオ様が帰ってこられて、こうやって私めを夜会に誘ってくださる日が来るとは夢にも思っておりませんでした』と、カミルが言うと、それをどう受け取ったのか、ナラツィオは複雑な表情を作る。
『そもそも私はなぜ退院してきた。普通なら、命の火が消えてはじめて家に帰れるはずだ』
ひどく答えに窮する質問をナラツィオは平気でするから困る。
それに、『普通』を言うのであれば、退院してきた理由よりも入院に至るまでの経過を気にしそうなものである。
それはさておき、本来であれば曖昧に言葉を濁すのが正解となるナラツィオの問いだが、生憎と質問者は一切の虚飾を求めていない。カミルはできるだけ知ったまま、思ったままに近い回答をしなければならない。
『それは、ナラツィオ様が入院している治癒院ジチュリーヴォが急に閉院となったためです』
『そうか、そうか。暴れすぎて追い出されたのではないのだな。では、もう少し仔細を教えてもらおう』
ナラツィオはカミルの率直な回答に一定の満足を示し、さらに質問を重ねていく。
カミルは主が真に求めることを推し量りながら、質問一つひとつに丁寧に答える。
ナラツィオの目が最も鋭くなったのは、カミルがジチュリーヴォの閉院理由を述べた時だ。
凶悪な魔物が獲物を見つけたときのような戦慄ものの眼光に耐え、努めて冷静にカミルは回答する。
カミルが答え終わるとナラツィオの視線からは鋭さが消え、また穏やかな談話の空間が戻ってくる。
一歩、踏み外すだけで死に至る危険な細道。
ナラツィオとの談義にはそんな側面がある。
死の危険とは、生物が何をもってしても避けるべきものであるはずなのに、危機からの生還は深い安堵と強烈な快の感情をもたらす。
夜会を経るごとに、カミルはナラツィオの危険な魅力の虜になっていく。
夜会で語られる内容は日によって様々だ。
ある日はナラツィオの心身の諸問題について語り、ある日はカミルの家庭の悩みについて語り、またある日は無難に料理について語る。
ナラツィオはカミルから料理指導を受けているのだから、二人が料理について語らうのはどこもおかしくない。
ならば、取り扱い食材について語らうのもまた極めて自然なことであろう。
ある日、ナラツィオがカミルに問う。
「なあ、カミル君。モルデイン麦について聞いてもいいか?」
「私で分かることならば、何でもお答えします」
ナラツィオは口を手で覆い、まるで軍議でもしているかのような真剣な眼差しでカミルに問い掛ける。
「ロギシーンのモルデイン麦は、なぜ茶色い?」
「麦の色……ですか」
ナラツィオの質問は、「どうしてネコはニャアと鳴くのか」という子供の疑問に似たものがある。
質問の真意がどこにあるのか分からぬカミルは迷う。正解にはならずとも、せめて適当な間違い方をするべく、知恵を絞って懸命に考える。
そして、記憶の底に埋もれていたひとつの事実を思い出す。
(ああ。そういえば、ロギシーン以外の土地で収穫されるモルデイン麦は黒いのだった)
「ロギシーンの土は塩を多く含んでおりますゆえ、作物は自ずと限られます。農業には詳しくないため、これは私の推測なのですが、塩の濃い土に適応したモルデインの変種がたまたま茶色い麦粒をつける特徴を併せ持っていたのかもしれません」
「本当にそうなのだろうか……」
ナラツィオは聞き取れないほどの小声でボソリと呟くと、モルデイン麦について知ること、料理の中で経験したことを何でもよいからとにかく全て話すよう、カミルに命じる。
カミルは思い出せるかぎりのことを説明する。
調理部ではモルデイン麦を頻用しており、屋敷でも社員食堂でも馴染みの食材だ。
ただし、主食として食べるのは使用人や比較的下位の社員たちばかりで、トルカルトの人間がモルデイン麦で作られた料理を主食とすることはない。彼らの口に入るのは、スープの浮き実など、おまけとして用いられる場合に限定される。
それというのも、モルデイン麦粉から焼き上がるパンは噛むのに顎が疲れるほど固くて、その割に美味しくないせいだ。
安くて栄養満点だから下々の食糧としては適当だが、主人たちに主食として常食させるには不適当なのである。
一度、他地域で穫れた黒いモルデイン麦を取り寄せて、パンにして食べたことがある。
味は地元のパンよりも良かった。黒いモルデイン麦のほうが間違いなく旨味に富んでいて味わい深いパンになる。
問題となったのは価格だ。
ロギシーンではモルデイン麦が大量に生産されており、域内で消費する分には輸送費もあまりかからないから流通価格が安い。
それが、ロギシーンに比べて少量しか生産されていない他地域の黒いモルデイン麦を定期的に取り寄せるとなると価格は相応に上がる。すると、使用人たちに許されている食費がガツンと圧迫される。
かといって、主人たちに出す料理にふんだんに用いたいほど美味しいか、と問われると、そこまでのものではない。
媚茶色をしたロギシーン産のモルデイン麦はロギシーンにとってもマディオフ一国にとっても重要な食糧だが、黒いモルデイン麦に限ってはロギシーンにおいて実に中途半端な食材なのだ。
斯様な理由で、黒いモルデイン麦の採用が永久に見送られた過去がある。秘密でも機密でもない、ありふれた小噺だ。
途切れ途切れに語られたカミルの述懐はさぞかし聞き苦しかっただろうに、ナラツィオは満足気に深く頷く。
「……そうか、そういうことだったのか。教えてくれてありがとう。とても助かった」
カミルがしたのは助言ではなく、何の役に立つとも思えぬただの思い出話だ。『面白かった』と言うのならまだ分かるが、どうして『助かった』との返事になる。
料理を教わる時以上に真摯に奉謝するナラツィオを、カミルはただただ訝るばかりだった。
◇◇
意外性抜群の現在のナラツィオはそれ以外にも興味深い一面を見せる。非料理時のナラツィオが傾注するもうひとつの作業、それが読書だ。
屋敷の図書室を訪れて、あるときは、『歴史書が無い。関心が無かったのか、それとも没収されたのか……』と落胆し、あるときは、『天文学関連の書籍も無い……。幅広く持てよ……興味をっ……!』と嘆く。“病気”の人間の思路は理解困難だ。
天文学関連の書籍探しが屋敷の図書室で終わりを迎える一方、歴史書には強い執着を見せる。
ナラツィオはある日、社員に諮問を行った際、ハウピーツーの書庫から古い社史を屋敷まで持ってくるよう頼み込んだ。
会長という立場を活用して手に入れたツンと鼻につくニオイを漂わせる社史の山をナラツィオは取り憑かれたように読み漁る。
自分の会社の社史を読む。
その行為自体は、自分が書いた日記を読む作業にも似ていて、取り立てて変哲はない。ただし、変哲がない、と言えるのは、書を読む人間が健康だった場合の話だ。
社史にかじりつくナラツィオの姿をカミルもバレンシーら家族たちも胡乱な目で見る他ない。
(あの白く濁った目で文字が読めるのだろうか?)
ナラツィオは“病気”になるよりも前から瞳が白く濁る眼病を患い、文字を読むのに難儀していた。
入院するだいぶ前からその状態であり、現在では白濁が更に進んでいるようにしか見えないのに、どうしたことか、退色のせいで常人でも判読に少しばかり苦労するはずの社史をナラツィオはスイスイと読み進めては独り言つ。
『まさか、これほど昔から手が及んでいたとは……。いや、それだけだと理解が浅い。現実の出来事が“戦争”ではなく、“切り捨て”である可能性まで考えておかないと……』
本が読めることからして何かおかしいのだが、読めたら読めたで、反応もまたおかしい。“病気”のせいで記憶が曖昧とはいえ、社史に記されているのはナラツィオが苦労に苦労を重ねて大きくした商社ハウピーツーの変遷だ。
忘れかけていた苦労や在りし日の成功を思い出して懐かしさに浸るならまだしも、まるで新しい知見を得たかのように驚くのだから異常としか言いようがない。
(ナラツィオ様は本当に昔のことを覚えていないのだ)
カミルはそう自分を納得させる。
ハウピーツーの歩みを全く覚えていないのであれば、社史は読み物としてそれなりに面白いかもしれない。
社史はその特性上、社にまつわる出来事や転機をやや誇張気味に、社にとって都合よく記してある。それはつまり、ナラツィオにとって社史は日記としての側面あり、家系図や一族史としての側面あり、ノンフィクション小説のような娯楽誌としての側面あり、といった具合に、時間と情熱を傾けるに相応しい楽しみなのだ。
のめり込むのもひとつの道理である。
では、本来の目的である歴史書としての側面はどうだろうか。
マディオフは国ぐるみで焚書を繰り返し行ったから、現存する歴史書の数は少ない。焚書の最盛期、ハウピーツーはまだ個人商店に毛が生えた程度の事業規模しかなく、だからこそ社史は難を逃れた。
不敬な表現が許されるならば、みすぼらしい商店だった頃からよく社史など編纂していたものだ、と感心してしまう。
社史がハウピーツーに有利に歪曲して記されている点は否定できないものの、史実には概ね則している。この点さえきちんと踏まえて読むならば、学校で学ぶのとは一風異なる近代ロギシーン史概略に触れる機会にはなるだろう。
◇◇
奇妙きてれつな存在となったナラツィオがある日の夜会で会話が途切れた際、ふと窓の外に目をやる。屋敷牢には無かった、実在する窓だ。
主人の視線の先を追いかけてカミルも窓の外を見やると、質問が舞い込む。
「何が見える、カミル?」
「そうですね……」
カミルは主人を喜ばせる返答を考える。
「夜空を彩る美しい星々が見えます」
ナラツィオの表情が少し厳しくなる。
「普段との違いは何かないか?」
「違いですか……。そういえば最近は朝も夜も天気が良いですね。ロギシーンはどちらかというと曇りがちですから、晴れ渡る夜空はやや珍しいかもしれません」
「……ああ。言われてみるとそうだな」
ナラツィオは窓の外に興味を失い、視線を屋内に戻す。
どうやらカミルの返答はナラツィオの期待に沿うものではなかったようだ。
とはいえ、ナラツィオがカミルを叱りつけることはない。
そもそも、屋敷牢から出た後のナラツィオが怒りを顕にしたところをカミルは知らない。“制裁”こそ身の毛がよだつ恐ろしいものだったが、その時のナラツィオが怒り心頭だったかというと、それは違う。
ナラツィオは極めて淡々と指示を出していた。今だからこそ確信を持って言えることだが、ナラツィオは感情に従ってではなく、理性に従って“制裁”を指示していた。
実際、あの晩以降、ナラツィオは誰にも暴力を振るわず、声を荒げることもなく日々を送っている。実年齢からは想像もつかないほど精力的に活動していることや、変わったところが多々あるものの、全体的にはトルカルト家にもハウピーツーにも害をなしていない。
個人指導を受けている成果として社員食堂で振る舞われる食事は世辞抜きに概ね好評だし、諮問の中で時折、暴かれる社員たちの悪事あれこれは社内規律の改善に寄与している。
ナラツィオが料理を作る以上に明らかに食材が減っている点は、やや異常だ。特に肉類は消えるように無くなっていく。だが、カミルから善意の指摘を受けても、ナラツィオは『気にせずともよい』と言う。
食材は小遣いの範疇で買われているのだから、持ち主であるナラツィオが食材の消失を黙認している以上、問題は何もない。
(変わったところと言えば、“土”の謎も結局、解けていないな)
カミルが席を立って窓の外に立ち、表に繋がる開放された庭を見下ろす。
美しいとは言えない土汚れ塗れの雪が広がる、少々残念な見た目となってしまった庭だ。
(あの土は、誰がいつ運び込んでいたのやら……。ああ、もしかすると、消えた食材の一部は、搬入者たちに与えられたのかもしれない)
カミルは“土騒動”の始まりの日を思い返す。
ある日、ナラツィオは前触れなく、バレンシーに新規の要求をひとつ突きつけた。
それはとても不思議な要求だった。
『“土”を処分してくれないか?』
唐突に『土を捨てろ』などと言われて意味を即座に理解できる人間などいないだろう。
バレンシーはしどろもどろに聞き返す。
『え? 土……ですか?』
『そうだ。土だ』
バレンシーは詳細を求めて問い返したのに、ナラツィオはそれを無視して簡潔にしか答えない。
『その土とは、どこにあるのでしょうか?』
『まだここにはない。許諾してくれるならば、これから庭に運び込む』
一体誰が、どこから、どんな素性の土を、誰に頼まれて庭に運び込むのだろうか。
きっと、バレンシーはそんな疑問を抱いたことだろう。
『父さん。その土とはどのような――』
『何にでも疑問を持つのはとても良いことだ。商人たるもの、相手の言葉を常に疑ってかからねば、社も家も破綻させることになる。しかし、今に限っては違う。私はお前に頼んだ。お前に許されているのは、土を処分するかしないか、どちらかを選ぶことだ。出処や経緯を探ろうとすることは許可しない。もう一度言うぞ、バレンシー。土を処分してくれないか?』
ナラツィオに凄まれて、バレンシーは冷や汗混じりに答える。
『……承知しました』
『ああ、ひとつだけ教えておくと、その土は汚染土の類ではない。普通の地下にある普通の土だ。農業と漁業を大切にするロギシーンだからといって、処分場の選定に細心の注意を払わねばならぬ毒を含んだ土ではないから安心するといい』
『覚えておきます』
遣り取りはそれで終わった。
翌朝、庭にあったのは信じがたいほど大量の土だった。前の晩は白い雪しかなかった場所に薄茶色の土が山となって積まれている。
よほど大きな魔道具重機を持つ建設会社でなければ、これほどの土を一晩のうちに運び込むことは不可能だ。
処分を受け合ったバレンシーとて、これほど量が多いとは絶対に思っていなかった。土を前にしたバレンシーは、絵にして飾っておきたいほど見事にあんぐりと大口を開けている。
『では、後は頼んだぞ。バレンシー。それと、後付けとなって申し訳ないが、土の処分は口の固いものにやらせるようにな。お前とて、後から苦しみたくはあるまい?』
土そのものは物理的な毒を含んでいなくとも、素性が濃厚に汚染されているのは明白だった。
バレンシーはハウピーツーの物流能力の一部を動員し、とても苦心して土を搬出し、処分した。
搬出作業が終わった日、バレンシーはとても爽やかな顔をしていたが、翌日には再び土が山となって庭に積まれていた。
『今度はこの分を頼む』
ナラツィオからサラリと言われ、バレンシーの顔からは感情が消失した。今のナラツィオは色々なものを容易く消し去る。
土の搬出と再出現は、その後も何度か繰り返された。
ナラツィオは、『土について調べようとした者には例外なく“制裁”を与える』と通告していたため、土がどこから誰によって庭に運び込まれるのか調べようとする馬鹿者が現れることはなかった。
しばらくすると土はピタリと現れなくなった。
現れなくなると逆に不安になるバレンシーがナラツィオに尋ねる。
『次はいつ頃、土が搬入されますでしょう。父さん?』
するとナラツィオは素っ気なく答える。
『もう大丈夫だ。土は今後、発生しない。処分に手を焼いていたから、本当に助かった』
ナラツィオは最後の最後に少しだけ、ボソリと秘密を漏らす。
『疲れないのをいいことに、手が空くに任せて縦坑を掘りすぎた。意味など全然ないのに……』
皆が思っていたことではあるが、あの土はやはり建設発生土、一般に言う工事の残土だった。
しかしまたその縦坑とやらは、一体全体どこに掘ったのだろう。冬のこの時期、大量の建設発生土を伴う大規模工事は街中のどこにおいてもやっていない。
ロギシーンを牛耳るユニティは郊外に防衛施設を少しずつ造成しているから、残土はある程度生じるかもしれない。けれども、それを街中の、しかもトルカルト邸の庭に秘密裏に搬入する理由はどこにもない。
ナラツィオがそれ以上秘密を漏らさなかったため、謎の大半は解けず仕舞いで終わった。
◇◇
今更ながら、土の出処を尋ねたい欲求がカミルの心に湧き上がる。
その内なる欲求を読んだかのように、ナラツィオが夜会終了を宣言する。
「遅い時間まで引き止めてしまった。明日も早い。今日はもう休め」
「かしこまりました。大旦那様もお身体を冷やさぬようお休みください」
「ああ」
ナラツィオが嫌がるはずの『大旦那様』という険のあるカミルの言い回しに、ナラツィオは何ら反応を示さない。
それ以上、主を試す真似はせず、カミルは部屋を出た。
それが最後の夜会になった。
おそらく生来の体質なのだろうが、ナラツィオはまとまった睡眠を取る人間ではなかった。一時間から三時間程度の半端な眠りを分割して取るばかりで、七時間も八時間も連続してぐっすりと深く眠ることがない。
屋敷牢から出てきた後もその睡眠習慣は変わらなかったはずだというのに、カミルとの最終夜会以降、日没後に人を決して自室に招き入れない。では、部屋の中で何かをやっているのかというと、そういうわけでもなさそうなのだ。
ナラツィオの部屋の前を通りすがっても、中から聞こえてくるのはやたらと大きなイビキばかりで作業音はしない。窓から光が漏れることもない。
それまでイビキをかくことのなかったナラツィオが大イビキをかいて長時間、眠りこける。分かりやすく体調変化を暗示している。これは明らかに異常だ。
本当にぐっすり眠っているだけなら問題はない。
しかし、この変化が更に厄介な別の異常に、あるいは“病気”の悪化に繋がっていくのではないかとカミルは心配した。
夜会が絶えてイビキをかき鳴らす長時間睡眠をとるようになったのは、奇しくもゴブリンキング討伐のためにストライカーチームという名を与えられたユニティの戦闘部隊がロギシーンを進発した日と同じであった。
それは即ち、ドメスカがロギシーンの民を悩ませるようになったのと日を同じくしていることを意味している。
◇◇
ナラツィオが姿を消したのは、異常発生から間もなくだった。
夜会の無い日が続くことに気を揉むカミルが迎えた本日、ナラツィオからの夜会中止通達は無かった。通達が無いということは、夜会を行うということだ。
仕事を片付けたカミルは、少し不安に、少し楽しみに思いながらナラツィオの書斎を訪れた。
しかし、扉を叩いても、中へ声を掛けても室内からは何も返事がない。
時間をおいて部屋を再訪しても、また返事がない。
そこで、警備長のピアストと当主のバレンシーに助けを求めて室内を調べ、中が無人であることを知った。
イヤな予感に襲われたカミルが、嫌がるピアストを無理矢理に連れて書斎の次に向かったのは屋敷牢だった。そこで変わり果てた、いや、元の病状に戻ってしまったナラツィオを発見してしまった。
「窓はある……! だが、俺はそこから抜け出して飛べるのか……。問題はそれよ!!」
幻を見るナラツィオを、カミルは力なく打守る。
ナラツィオをこんな姿にした病、認知症は日や時間によって変動するという。
人格がここまで極端に、しかも短時間のうちに変化を遂げるとは聞いたことがないが、実際にそれはカミルらの目の前で起こった。
肉体のほうがまだまだ健康を保っていることは警備員との大立ち回りで明確に示された。
殺風景な屋敷牢ではあるが、気長に療養を続ければ、また元に戻る日がくるかもしれない。
カミルは椅子から立ち上がると、使用人に相応しい落ち着きのある声を作る。
「私はずっと不思議に思っていました。ナラツィオ様の料理の腕がどこで磨かれたのか、と。ナラツィオ様が披露してくださった料理は、行商人やハンターらが作る“フィールド飯”なのだろう。今では、そう考えています」
雇い人の中で最高齢のカミルとて、若かりし日のナラツィオを知悉しているわけではない。
当主になる前のナラツィオが商人になることを拒んでハンターを目指していた時期があるとか、あるいは当主就任前に勉強目的に行商人として活動していた時期があった場合、ナラツィオが習得している妙な料理法や闘衣を含めた異常な強さ等にまずまずの納得がいく説明をつけられる。
「こんな年齢ですが、私も明日から勉強しようと思います。勉強してフィールド飯を作ります。そして毎日、私がこの手でナラツィオ様の下に届けます。もしかしたら、料理が良い方向に作用するかもしれませんから……」
カミルは、『窓』に心を奪われたままのナラツィオに一礼すると、ツンとニオう屋敷牢を後にする。
自室に戻る途中、廊下から空を眺める。
今夜の空には雲が適度に浮かんでいる。最近は本当に晴れ空続きだった。
そういう意味では、今日は久しぶりの普通の夜空だ。
近頃のロギシーンを騒がすドメスカなる魔物は晴れた夜に出るという。つまり、今夜のドメスカの被害は少なく済むだろう。
今夜の問題はドメスカよりも、大波となって押し寄せるゴブリンの大群だ。
少なくとも日没まではユニティの戦闘部隊が恙無く波を押し返すことに成功している。ハウピーツーの重役の誰かが、そう言っていた。
だから、きっと変わらぬ明日を迎えられるはずだ。
カミルは願望混じりの予測を立てて、冷えた廊下の空気を切って歩いた。




