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第四九話 華麗なるトルカルト家料理長 カミル 一

 とある屋敷の夜の廊下に扉を叩く小気味良い音が数回、響く。


 扉の内側からは何も返事がなく、扉の前に立つ中年の男はよく通る声で問い掛ける。


「ナラツィオ様。カミルです。ナラツィオ様、いらっしゃらないのですか?」


 室内からは静寂しか返ってこない。


「ナラツィオ様……」


 不安に駆られ、カミルがギュッと両手を握る。


 カミルは今晩、ナラツィオの命令に従って都合二度、部屋を訪ねている。


 一度目の訪室時も何も応答がなかったが、黙って引き下がった。


 時間をおいて再度訪室しても、やはり返事がない。今度は黙って引き下がれない。


 ナラツィオは高齢であり、身体はいくつもの病を抱えている。


 よもやの事が起こっていても何ら不思議はない。


 とはいえ、独断でナラツィオの部屋に立ち入るわけにもいかない。


 カミルは応援を求めて、その場から駆け出した。




 しばらくして、二人の協力者を連れて扉の前に舞い戻る。


 料理長を務めるカミルが選んだのは警備長のピアストと、二人の現行の主人であるバレンシーだ。


 カミルとピアストは分かりやすい作り笑顔でバレンシーに()()を促す。


 笑顔の意味を察したバレンシーは途端に不機嫌になるものの、まさかナラツィオの部屋の真ん前で大声をあげるわけにもいかず、渋々扉を叩く。


「父さん、中にいるのですか? 父さん、父さん、会長!?」


 バレンシーは反応が無いことを確認しながら、少しずつ声量を大きくしていく。


「父さん。失礼ながら、部屋に入らせてもらいますよ?」


 バレンシーはピアストから鍵を受け取って解錠すると、ひとつ深呼吸してから勢いよく中に入る。


「父さん!?」


 真っ暗な部屋に人の気配はない。


 携行した灯りをかざしても、やはり誰も見当たらない。


 倒れている可能性を考えて寝台の奥や執務机の脇を覗き込むも、ナラツィオはどこにも見つからなかった。


 そもそも、部屋の中で倒れたのならば、灯りはそのまま点いているはずだ。


 バレンシーは怪訝な顔でカミルに尋ねる。


「本当に会長と約束していたんだな、カミル?」

「申し上げておりませんでしたが、料理やその他を談義する夜会は毎日の定例となっています。ここ最近は中止がちでしたが、その場合は必ず事前にお達しがあります。お達しが無いかぎり、私のほうから毎晩この時間にお部屋に参っております。今日は中止通達がありませんでしたので……」

「まったく……どこをほっつき歩いているのか。あの耄碌(もうろく)爺は!」


 バレンシーの暴言に、カミルとピアストの二人は慌てふためく。


「まあいい。倒れていないのであれば、どこかで何かをやっているのだろう。私は戻るぞ」

「ナラツィオ様をお探しにならないので?」

「当たり前だ。迂闊に探し回ると、()()の二の舞だぞ」


 ()()の最大の被害者であるピアストがブルリと身体を震わせる。顔色からして、バレンシーに倣って静観を決め込むつもりだ。


 三人の中では最も負った被害の小さいカミルが申し出る。


「私はお屋敷の中を探してみてもいいでしょうか。できるだけうるさくならないようにしますので」

「それは構わんが、会長がキレたら、カミルがどう頑張ろうと、うるさくなるだろうな……」


 バレンシーの言いたいことはとてもよく分かる。


 ()()を共にした三人は一斉に溜め息を衝いた。




    ◇◇    




 バレンシーは失ったものの、ピアストだけはなんとか引き止めてカミルが真っ先に向かうのは屋敷の最奥部だ。


 イヤイヤ連れてこられたピアストが鍵束をジャラジャラと無意味に鳴らす。


「これで()()()()()()()()がいたら、俺は腰を抜かすかもしれん」


 ピアストの悪ふざけにカミルは笑う気になれない。


 ピアストはそこにナラツィオがいないと信じ込んでいるから、ナラツィオの嫌う『大旦那様』という言い回しをしている。


 港町という土地柄なのか、ロギシーンの商人たち、特に年がいっている者たちは血の気が多く、言葉遣いも乱暴だ。


 ナラツィオもまた、そういった商人のひとりであり、現役時から旦那様呼ばわりされることを嫌って部下にも使用人にも自身を名前で呼ばせていた。


「私だって驚くとも」

「分からんね。では、なぜ()()()()()を最初に探そうとする」


 理由はカミルにも上手く言えない。


 理屈ではない。直感的なものだ。


「ナラツィオ様は人知れずあそこから抜け出した」

「だからといって、自分からは戻らんだろう」


 話しているうちに、目的の場所の前に到着する。


 ピアストは鍵束から該当する鍵を探し当てると、鍵穴に差し込もうとして、その直前で止まった。


「どうした、ピアスト?」


 ピアストは何も言わず、手でカミルに『物音を立てるな』と合図を出す。


 この部屋には防音工事が施されている。


 カミルには何も聞こえないが、ピアストはただならぬ気配でも悟ったのかもしれない。


 ピアストはカミルを少しだけ下がらせると、護身用の武器を握り直して鍵を開け、解錠から即座に部屋の中へ飛び込んだ。


 ピアストが中へ飛び込むと同時に、中から大声が廊下へ漏れ出す。


「飛べるのかよっ!?」


(ああ、悪い予感が当たってしまった)


 ガランとした寂しい室内の中心に置かれているのは、見るからに冷たい大きな檻だ。


 檻の中に立つ老人は、誰に向けるでもなく大声を出す。


「お……お……お……俺はっ……飛べるのかよっ!? その……狭い『窓』からああぁぁぁぁ……」


 ピアストは訳の分からぬ言葉を発する老人を檻越しにマジマジと眺めてから、虚ろにカミルを見る。


 檻の中にいたのは、商社ハウピーツーをここまで大きく築き上げ、トルカルト家の名を押し上げた先代当主ナラツィオ・トルカルトその人だった。


 ピアストがぼそりと言う。


「旦那様を呼んできてくれるか。俺はここでナラツィオ様を見ている」

「……分かった。お叱りを受けぬように気をつけろよ」


 ピアストはククッと笑う。


「俺にどんな注意ができる?」

「さてな」


 分かる者にしか分からぬ遣り取りを交わすと、カミルは“屋敷(*)”から出て、大急ぎで当代当主バレンシー・トルカルトを呼びに走った。




[屋敷牢――やしきろう。一般的には座敷牢の名で呼ばれる。外へ出られないように、厳重に仕切って、狂人などを入れておく場所]




    ◇◇    




 駆けつけたバレンシーは檻の中で独語を繰り返す実父を見て、苦い顔をして言う。


「錠はどうなっている?」


 当主の問いに、ピアストは淀みなく答える。


「檻も入り口の扉も、最初から施錠されていました。私は普段から持ち歩いている鍵を使って扉を開け、屋敷牢に入りました」

「合鍵があったはずだ。その所在をすぐに確かめろ」


 少し苛立ったバレンシーにカミルがおずおずと進言する。


「恐れながら、あそこにあるのが鍵ではありませんか?」


 カミルが指し示す先にあるのは一脚の椅子だ。椅子の座面には、灯りの光を鈍く反射する小さな何かがある。


 ピアストがその何かを拾い上げ、鍵束の中にある鍵と見比べる。


「どうやら入り口の鍵と檻の鍵のようです、旦那様」


 バレンシーはそれを聞いてがっくりと項垂(うなだ)れる。


「では何か? 会長は自分で鍵を持ち出してこの部屋に入って扉に鍵をかけ、さらに檻の中に入ってまた鍵をかけ、最後に鍵を檻の外に放り投げてから正気を失ったのか?」


 バレンシーはそのままプルプルと震えてから、ガバと顔を上げた。


「そんな馬鹿な話があるか!!」


 いきなりの主人の興奮に、ピアストとカミルの二人はびくりと身体をはねさせる。


「だ、旦那様。落ち着いてください。旦那様の(おっしゃ)るとおりかもしれませんし、そうではないかもしれません」


 荒い息を衝くバレンシーの背中をピアストが優しくさする。


 ピアストは衷心からバレンシーを哀れみ、慰めている。決して、痴態を晒す当主を見下げてはいない。


 それはカミルも同様だ。


 立て続けにこんな異変に襲われれば、誰だってバレンシーのようになる。


 カミルはピアストと協力してバレンシーの心労を慰めた。




    ◇◇    




 数分後、落ち着きを取り戻したバレンシーは施錠注意を喚起して、屋敷牢を後にした。


 その場に残されたカミルとピアストが顔を見合わせる。


 カミルの目に映るピアストの顔はやつれきっている。きっと、ピアストの目に映るカミルもまたやつれていることだろう。


「どう考える、ピアスト?」

「どうもこうもない。旦那様が言ったとおりなのだろう」


 ナラツィオの自作自演説はかなりの奇説ではあるものの、現実味は他の説よりもまずまず高いだろう。


 なにせ、ナラツィオを無理矢理、屋敷牢に閉じ込められる人物など、少なくとも屋敷内にはいないのだから。立場的にも、実力的にも。


「この世は()に不思議なことが起こるものだ」

「ああ、全くだ」


 ナラツィオの独語を背中に聞きながらピアストが壁に近寄り、とある箇所を擦る。ナラツィオが檻の中から『窓』と呼んでは一心不乱に見つめる箇所だ。


「ナラツィオ様は前もここを見つめて、『窓、窓』と言っていた。俺には他の壁と全く同じ様に見えるが、ご自分で仕込まれたカラクリでもあるのかもしらん」

「そうなのか。私は、ここに立ち入ったことがほとんどないから、何とも言いかねる」


 ナラツィオが入院する前、カミルは料理の感想やその日の体調、注文等を確かめるためにナラツィオの下を頻繁に訪れたものだ。


 主を喜ばせるためのそんな習慣は、入院と共に失われた。


 治癒院から屋敷に戻ってきても、その習慣が復活することはなかった。


 ナラツィオの暮らす場所が屋敷牢となったためだ。


「見た目はキレイに清掃されているが、それでもまだニオイがする」


 独り言じみたカミルの呟きに、ピアストは律儀に返事する。


「排泄物とはそういうものだ。すぐに拭き取っても色やニオイが頑固に残る。それが一年ちかく蓄積されたのだから、水を流そうが薬を撒こうが、消し去るのは難しい」

「またここにナラツィオ様を閉じ込めるのは、心苦しくてならんよ」

「それは言うな。旦那様に対する不敬と捉えられかねん」


 屋敷牢は、調理場に出入りする人間が足を踏み入れてよい衛生状態ではない。ナラツィオの入牢後、カミルが屋敷牢を訪れたのは一回きりで、その時点で既にナラツィオは汚物にまみれていた。それから一年弱で本人とこの場所がどれほど汚れたか推して知るべし。


 今は清浄となっているこの場所も、ナラツィオ本人も、病状が好転しないかぎり、またすぐに汚れていくだろう。


 そして病状がひとりでに改善する可能性は限りなく零に近い。




 ピアストは再度、檻の施錠を確認し、室内に危険物や不審物が無いのをグルリと見回ってから退室しようとする。


「カミル。いつまでもここにいたところで、どうにもならんぞ」

「……ナラツィオ様は、また()に戻るだろうか?」

「元? それは、いつのことを指している」


 ピアストはくつくつと自嘲気味に笑い、両手を上げて万歳してみせる。


 それに満足すると、入り口の鍵をカミルに渡し、「戸締まりと鍵の返却は絶対に忘れるなよ」と警告して部屋から出ていった。




 カミルとナラツィオ以外、室内には誰もいなくなり、カミルは静かに椅子に腰掛けて檻越しにナラツィオに語り掛ける。


「新しいものを生み出すことを忘れ、怠惰に同じ日々を繰り返すばかりとなっていた私に向上心を思い出させてくださったこと、深く感謝いたします。ナラツィオ様……」


 カミルの言うことが聞こえていないのか、あるいは耳には届いていても言葉の意味を理解できないのか、ナラツィオはただ真っ直ぐに『窓』を見つめて謎の言葉を呟き、時に手を伸ばす。


 たったの数時間だ。本当にたった数時間前までナラツィオは現役時以上の鋭い眼差しをして、何者にも屈さない覇気を纏っていた。


 それが今やこの有様だ。


 見るに堪えないナラツィオの現在の姿に、カミルは言いようのない悲しみを抱く。


「また一緒に料理を作る日が来ると私は信じています。……ああ、それならば、その時に備えて新しい料理を創作しておかないと、幻滅されてしまうな」


 老いた料理人は目頭にこみ上げる熱いものを誤魔化すように笑い、駆けるように過ぎていったここしばらくの出来事を思い返す。




    ◇◇    




 それは、いつもと変わらぬ夜だった。


 翌朝の仕込みは既に終わり、カミルは部下たちが書き記した食事記録を閲覧していた。


 記録から喜ばしい情報が得られることは比較的まれで、調理部を反省させる情報を発見することのほうがずっと多い。食事記録とは概してそういうものである。


 カミルの目に留まったのはナラツィオの食事記録だ。


 そこには、『完飲完食』と簡潔に記されている。一見すると、これは良い情報だ。


 料理がナラツィオの口に合い、本当に全部彼の胃袋に()()()()()()収まったのであれば、それでいい。


 しかし、ナラツィオは良くない噂を一度ならず耳にしたことがある。


 なんでも、配食に行った者は料理をナラツィオのいる檻の床にぶち撒け、ナラツィオは床に散乱した料理を四つん這いとなって食べている、というのだから穏やかではない。


 担当者を問い質しても、ニヤニヤと笑って、『きちんと配膳いたしました』と答えるばかりで、噂の真偽は分からない。カミルはそれ以上、追及する術などない。


 部下が信用ならないからといって、カミルが直接、あの部屋へ赴くわけにもいかない。なにせ、屋敷牢はあの惨状だ。


 ナラツィオの糞尿が積もるあの空間は、通りすがるだけで吐き気を催すひどい悪臭を放っている。


 強い臭いは必ず身体に染み付き、どんなに洗ってもわずかに残ってしまう。


 カミルの場合、最終的にそのニオイは料理に移る。


 臭い料理を出した日には、当代当主のバレンシーはもとより、口うるさい次期当主のドリアルノから何を言われるか分かったものではない。


 カミルは自分の目で真相を確かめられない以上、記録を信じるしかない。


(確かにナラツィオ様は何でもよく召し上がったが、馬鹿舌でも貧乏舌でもなかった。むしろ、常人よりずっと鋭い味覚をしていらっしゃる。だからこそ、ナラツィオ様を満足させられる料理を届けたいというのに……)


 いくら悩めど、カミルには解決の方法が思い浮かばない。


 時間はもう遅い。


 カミルは考えるのを止め、記録の綴りを丁寧に整える。


 職業柄、カミルの朝は極めて早い。早く起きるためには早く寝なければならない。


 加齢に伴い睡眠時間の短くなってきたカミルだが、それでも今晩はかなり夜更(よふか)ししてしまった。


 明日の起床は少々老身に応えることだろう。


 カミルは明朝の仕事について朧に思案しながら就寝の準備をする。


 全てが片付き、後は着替えて寝台に入るだけ、となったところで、突如、女の叫び声が聞こえてきた。


(こんな夜更けに、一体どこから!?)


 部屋から慌てて飛び出すと、廊下の奥からは女の叫び声と、ほんの小さくだが男の声がする。


 物取りの類が屋敷に侵入した可能性を考えたカミルは部屋に戻って武器の代わりになりそうなものを掴み、再び廊下に出て事件現場を目指し、走る。


 灯りの落ちた暗い廊下に光を漏らすは厨房の脇に設えられた水場だった。声も明らかにそこから聞こえてきている。


 恐怖によって一瞬、脚が止まってしまうものの、ひと呼吸で克己し、水場に突入する。


 そこにいたのは、壁際で身を小さくする女性使用人と、ずぶ濡れになっているひとりの全裸の男だった。


 男の目的が盗みではなく性暴力であると悟り、一瞬にして頭に血がのぼる。


「痴れ者が!!」


 カミルが手にした武器で男に殴りかかる。


「ええ……?」


 男は緊張感の無い声でカミルの攻撃を軽くいなす。


 一度でダメなら、もう一度、とカミルは再度武器を振りかぶろうとするものの、足に小さな衝撃を感じ、それと同時に世界がグルンと回転する。


 次の瞬間、背中と首元に強い衝撃が走る。


 どうやらカミルは男に転ばされたようだ。


 痛みを(こら)えて無理矢理、身体を起こす。


 しかし、身体のほうは動いてくれても目が回ってしまって、真っ直ぐに立つことすらままならない。ましてや男に攻撃を加えるなど、とてもではないができそうにない。


 全裸の男が他人事のように落ち着いた声でカミルに語り掛ける。


「落ち着け、老体。暴力に頼ることなく、落ち着いて話し合おう」


 状況にそぐわぬ男の言葉に、カミルは恐怖する。


(夜中に家宅侵入して女を襲おうとした男が、全裸のまま何を言う。しかも、なぜ身体がずぶ濡れなのだ?)


 突入前に感じた恐怖とはまた別種の恐怖がカミルを襲う。しかも、身体は動かない。


 カミルは助けを求めて叫ぶ。


「誰か……誰か来てくれ……」


 転倒の衝撃は、自覚していたよりも強かったらしく、本人は大声を発したつもりでも、喉から出てきたのはカミル自身もよく聞き取れない(かす)れ声だった。


 カミルが大声を出せずとも、女の叫び声は既に十分に屋敷の中を駆け巡っている。


 カミルに遅れて続々と使用人たちが集まってきて、水場に広がる異様な光景を見ては驚きの声を上げる。


「誰だ、お前は!」

「倒れているのは……カミル料理長か!?」

「大変だ! 料理長がやられたぞ!!」

「囲め、囲め! 全員で一斉にかかるぞ!」


 集まった者たちが男を取り囲むように輪を作り、ジリジリと輪の径を縮小する。


「おとなしく捕まれよ。変質者が……」


 使用人のひとりが発した言葉に、男は反論する。


「変質者ではない。お前たちの元、雇い主だ」


 男がそう言うと、使用人たちの動きがピタリと止まる。


「え……ナラツィオ様……?」

「ナラツィオ様がここにいるはずはない。ナラツィオ様の名を騙る偽物だ!」


 使用人たちが男の顔を覗き見る。


 つられてカミルも男の顔を注視する。


 その場を照らすには、地面に雑に置かれたランタンの灯りはあまりにも暗く、男の髪はボサボサ、髭もボウボウに伸び放題で、その下に隠れた人相はよく分からない。


 しかし、言われてみると、どことなくトルカルト家の大旦那であるナラツィオらしくも見える。


 確信の持てない使用人たちは、男を取り押さえるために飛びかかることができなくなり、責任を取れる誰かがその場に現れるのを待つ。


 現場は膠着状態に陥った。


 (やや)あって、警備員たちも水場に現れる。その中には警備長ピアストの姿もあった。


「そこで何をしている!」


 ピアストの怒号が水場に響く。


「警備長!」

「ピアストさん、加勢をお願いします」


 動くに動けぬ使用人たちは、ピアストの姿を見て安堵し、助けを求めた。


 ピアストは厳しい表情で、それに応える。


「何があったか説明しろ。そいつは誰だ」

「この男……いえ、この人はナラツィオ様を名乗っています」

「多分、偽物だと思うのですが、どことなく似ているようにも見えます。お勤めの一番長いピアスト警備長であれば、本人かどうか分かりますよね?」

「お、おう……」


 屋敷勤めがピアストよりも長いカミルは、使用人たちとピアストの遣り取りを何とも言えない気分で聞く。


 ピアストは円陣の内周に立って全裸の男をマジマジと眺めてから、自信無さげな声で尋ねる。


「本当にナラツィオ様……なのでしょうか……?」

「最初からそう言っている。分かったら、落ち着いて話し合いの準備をせよ」

「そうは参りません。ご本人だとしても、ナラツィオ様のいるべき場所はここではありません。お部屋に戻りましょう」

「部屋? あの汚い場所に()を再び押し込める気か?」


 男が返事した瞬間、ピアストの雰囲気が一変する。


「お前、本物ではないな。よく似た別人だ!」


 男の返事に違和を感じたのはピアストだけではない。


 カミルもまた、男を偽物だと直感した。


 本物のナラツィオであれば、自分を『私』などと文人気取りの気色の悪い呼び方などしない。


 ナラツィオは商人の中でもかなりの武闘派であり、自分のことは『俺』と呼ぶ。


 一人称の違いが決定的な本人確認となり、ピアストは自信を持って戦闘態勢に移行する。


「この男は俺が捕まえる。お前たちは、締め上げる縄でも持ってこい」

「はあ……。結局こうなるのか。まあいいさ。“話し合い”は私の得意分野だ。さっさとかかってこい」


 男は長い髪の奥から白く濁った目を覗かせてピアストを挑発する。


「言ってろ」


 まんまと挑発に乗せられたピアストが男に掴みかかる。


 トルカルト家の警備員として長年勤め、警備長まで上り詰めたピアストは立派な体格をしている。


 肩書きが立派なだけでなく、実際の戦闘力も申し分ない。


 対する全裸の男は肌付きからして老いが目立ち、何より骨張って痩せ細っている。


 ピアストが簡単に男を制圧するものと、カミルは確信していた。


 しかし、目の前で信じられないことが起こる。


 男は、掴まれたらそれで終わると分かっているのか、ピアストが伸ばす手を払うと、見事な身のこなしでピアストの側面に回り込み、ピアストの肉厚な腰部分に手を差し入れて、そのまま持ち上げた。


 ピアストは掴みかかりの勢いと相まって、空中で前転し、そのまま地面に叩きつけられる。


 仰向けとなって動かなくなったピアストを見て、自分も似たような形で転ばされたのだろうな、とカミルは思った。


 とはいえ、ピアストは武人の端くれだ。


 カミルと同じだったのは投げられ方だけで、十分ではないながらも受け身は取れていた。


 ピアストは数秒もせずに床から立ち上がる。


 立ち上がり方が不安定だったことから、受け身を取ってなおそれなりにダメージを負った模様だ。


 相当に痛いだろうに、それでも立ち上がったピアストは再び男に向かっていく。


 投げを警戒したピアストは、今度は不用意に掴みかからず、吐息すら感じられるほどの近距離で手を繰り出していく。徒手空拳での近接格闘術だ。


 痩せた男はピアストの豪腕から繰り出される手を鮮やかに受ける。


 体格差は甚だしく、男はかなり難しい応手を強いられているというのに、ピアストに全く押し負けない。


 細かな足運びと上体のスウェーを上手に組み合わせてピアストを翻弄する。


 戦闘の素人であるカミルですら分かる卓越の技がそこにあった。


 一気に押し込めるはずのピアストは逆にドンドンと押し込まれ、ついには立ったまま関節を完全に極められてしまった。


 もう自分の力で外すことはできないだろう。


 痛みに苦悶しながら、ピアストが声を絞り出す。


「おっ……お前ら……。何を突っ立っている。加勢……しろっ!!」


 ピアストの関節を極めている都合上、男は全身が塞がっている。


 警備員たちが数を頼みに()しかかれば、今度こそ男を制圧できるだろう。


 ピアストに命じられて警備員たちが思い出したように襲いかかると、男は躊躇なくピアストを突き飛ばす。


 飛ばされたピアストは警備員ひとりを巻き添えにして転がっていく。


 残る警備員たちは何とか男の動きを抑えるべく必死に男の身体に取り付こうとするのだが、男は人間とは思えないほどの機敏さで動き回り、簡単に包囲から抜け出す。


 数の上では警備員が有利なはずなのに、男があまりにも素早く立ち回るものだから、全く数で圧殺できない。


 男は常に足を動かして逃げ回り、一対一の状況が成立する一瞬だけ立ち会っては攻撃を繰り出し、すぐにまた逃げる。


 警備員がひとり、またひとりと悶絶し、床に転がっていく。


 立っている警備員が残り二名となってしまい、もう誰も動かなくなる。


 吹っ飛ばされたピアストがようやく立ち上がって三度戦線に加わるも、今更、男を取り押さえられるようには見受けられない。


「抵抗は止めて、おとなしく捕まってくれ……」


 ピアストの懇願は、挫けてしまった戦意をよく表していた。


 ピアストは虚勢を張って構えるばかりで男にかかっていかない。


 男は楽に立ち、余裕たっぷりにピアストの虚勢を鑑賞している。


 膠着状態は長く続くかと思われたが、そこへまたひとり、膠着を打破する新しい人物が加わる。


「何があった!」


 怒鳴り込んできたのは、当代当主のバレンシーだった。左手には武器を携えている。


 護身用の非殺傷武器ではない本物の武器、鞘に納まった真剣だ。


「旦那様! も、申し訳ございません。ナラツィオ様が牢から抜け出てしまった模様で……」

「誰だ、そんな不始末を犯したのは!? 牢の鍵をかけ忘れたのか!?」

「まだ何も調べていないので、そこまでは……」


 ピアストの頼りない返事にバレンシーの表情が激しい怒りに歪む。


「ええい。では、原因を究明するためにも、会長をさっさと取り押さえろ」

「そ、それがさっきからやっているんですが、どうにも手強くって……。さすがはナラツィオ様です」


 主人から捲し立てられたピアストが混乱気味に標的を褒める。


 ピアストに言われ、バレンシーはその場に警備員が何人も倒れていることに初めて気づく。


「老いても腕っぷしは変わらず、か。ふん。ならば、たたっ斬るだけだ」


 バレンシーは勢いに任せて剣を鞘から抜く。


「ま、まずいですって。旦那様。道具を使うにしても、せめて剣ではなく刺股(さすまた)なんかの捕物道具にしてください。ナラツィオ様が死んでしまいます!」

「刺股がどこにある」

「刺股なら詰め所に――」

「なに。気が触れて家人を殺めようとしたボケ老人を制圧する際に、誤って死なせてしまうだけだ。衛兵はそれで納得させる」


 バレンシーはピアストにみなまで言わせず、ずんずんと前に進む。


 当代当主の本気を悟り、使用人と警備員たちは無言で道を開ける。


 バレンシーは実父ナラツィオと思しき男の前に立つと、ふうっ、と気炎を吐き、小さな振りかぶりから迷いのない剣を撃つ。


 幼少期から武芸を習わされていたバレンシーの剣は惰性で軍人や衛兵となった者たちを凌駕する冴えがある。


 全裸の男にバレンシーの剣を防ぐ術なし。


 一撃で確実に男の命は断たれる。


 カミルだけでなく、きっとその場の全員がそう思っていたはずだ。


 バレンシーの鋭い剣が閃く瞬間、より強い輝きを放つものがあった。


 それは、バレンシーが剣を向けた相手、全裸の男だった。


 男は自らに撃たれた剣をヌルリと避けた。


 まるで空間が歪んでしまったような、素早く、異質で、不自然な動きだった。


 男は必殺の斬撃を躱すと、妙な動きそのままにバレンシーに拳打を浴びせる。


 剣は持っていても、身を守る鎧を着込んでいなかったバレンシーは脇腹に拳打の衝撃をモロに受け、ヨロヨロと後ろに下がる。


 額には一瞬にしてビッシリと脂汗が浮かび上がり、膝を折り、顔を歪めて肩で息をする。


 もはや戦闘不能なのは、誰の目にも明らかだった。


 警備員のひとりが悲鳴を上げる。


「と、闘衣だ!」

「ナラツィオ様が、まさか闘衣まで使えたとは……。警備長はご存じだったのですか……?」


 立つ者、倒れる者、救いを求める全ての警備員たちの視線がピアストに注がれる。


 見られたピアストは、口の両端を固く結び、ムムム、と唸るばかりで何も言わない。


 闘衣とは何なのか、カミルには分からない。バレンシーやピアストすら恐れさせる武術の奥義なのだろうと、自分なりに理解しておく。


(お強いのは知っていたが、老いて痩せ細ってなお、ここまでとは……)


 全裸の男が足を前に踏み出す。


 未だ全身は濡れそぼっているというのに、濡れた足が特有に立てるピチャピチャとした音はまるで発さず、異様なほど静かに歩く。


 バレンシーは膝をついて苦悶に顔を歪めたまま、震える手で剣の柄を握り、剣尖を男に向ける。


 男は、バレンシーから向けられた剣尖を手で払った。


 うるさいハエでも払うような、力の抜けた所作だった。


 カミルの目にはそのように見えた。


 しかし、実際は少し違っていた。


 男の手は剣を払ったのではなく、剣を奪っていた。


 男が奪い取った剣をクルリと器用に回して握りを持つと、剣の先をバレンシーの額の真ん前に置く。


「さて……。まだ、続きをやるか。警備長の……ピアッツォ君だったかな?」

「……ピアストです」


 ピアストは名前の誤りだけを訂正して押し黙る。


 身に突き刺さる緊張が広がる中、水場に使用人たちが数名駆け込んできた。手には捕縛に適した縄を持っている。


「おお、ちょうどいい。お前たち、その縄でピアスト君とこの……バレイショ君を縛り上げろ」


 当代当主の名前を間違えた男に、全員がぎょっとする。


 確かにナラツィオは家族の顔や名前が分からなくなっていたが、だからといってこんな奇妙な間違え方をするだろうか。


 それに、使用人たちが縄を持ってきたのは全裸の男を縛るためだ。


 縛るはずの相手から、『部署違いの上司や当主を縛れ』と言われて、たじろぐ以外に何ができる。


 ピアストがしどろもどろに訂正する。


「ナラツィオ様……。ご子息のお名前は、バレンシー様です」

「ああ、そうだったな。では、ピアスト君とバレンシーを縛り上げたまえ。手早く頼む」


 事情の飲み込めない使用人は、縄を持ったままピアストとバレンシーを交互に見つめる。


「私の命令では不服か? ならば、ピアスト君。君が使用人たちに命じるのだ。彼らも君の言うことならば聞くだろう」

「おやめください。お父さんが……会長が今もお強いのは十分に分かりました。縛る必要は――」

「黙れ、バレンシー。お前には聞いていない。夜間の現場責任者はピアストだ。現在の決定権はピアストにある」


 理解不能な男の論理展開に一同は耳を疑う。


 夜間の責任者が大きな裁量を与えられているのは、主人が休んでいる間、意志を代行するためだ。


 主人とは、先代当主のナラツィオではなく、当代当主のバレンシーであり、そのバレンシーがこの場にいるのだから、ピアストに決定権を与えるのは悖理(はいり)に他ならない。


「どいつもこいつもグズだな。この屋敷には馬鹿しかいないのか。面倒だが……」


 男が苛立ちを露骨に表情に出して、剣の先をほんの少し動かす。


 自身の命が危険に晒されていると悟ったバレンシーが震える声でピアストに命じる。


「は、早く縛らせろ。何をモタモタしている……」

「ええっ!? まずいですよ、旦那様?」


 バレンシーに命じられても、ピアストはすぐさま行動に移さない。


 全裸男の脅迫が何を目的としているのか、カミルには皆目見当がつかない。バレンシーだって真意を悟ったうえで忍従しているのではないだろう。


 それでも、男に反抗して一層の怒りを買うのは考えるまでもなく下策だ。


 ピアストは全裸男に従って『自分と当主を縛れ』と使用人たちに命ずる他に選択肢などない。


 だというのに、ピアストはなぜか何も喋ろうとしない。


「ピアスト君。恐れることはない。君たち二人の殺害を目的として縛り上げるのではない。むしろ、逆だ。安全に配慮したうえで然るべき“制裁”を済ませ、“話し合い”をしたいと私は思っている。だが、もしピアスト君が“話し合い”を求めておらず、戦闘以外に語り合う術を知らないと言うのであれば、いくらでも応じよう」


 全裸男が剣を振りかぶる。振り下ろされる先にあるのはバレンシーの首だ。


「ピアストオオオオオォォォォ!!!!」


 目に波波と涙を浮かべるバレンシーの叫びが、ようやくピアストの重い口を動かす。


「……俺と旦那様を縛れ」


 ピアストの目からは、もはや生気や覇気といったものが何も感じられなかった。




    ◇◇    




 先代当主を名乗る謎の男の命令に従って舞台が大広間に移り、そこへトルカルト一族、使用人、屋敷内のあらゆる人間が叩き起こされて集められる。


 眠りを妨げられれば誰だって負の感情を抱く。使用人たちはそれを表に出さないが、屋敷内において絶対者たるトルカルト家の者たちは一様に不平不満を垂れ流す。


 特にうるさかったのは次期当主ドリアルノだ。


 一時的にその場を取り仕切っていた副警備長のテンプレトンにドリアルノは(いき)り立って詰め寄る。


 ナラツィオは当初、大騒ぎするドリアルノを黙って眺めているばかりだったが、ドリアルノがテンプレトンに手を上げた瞬間に飛び出し、ドリアルノに怪我を負わせることなく鮮やかに制圧した。


 ナラツィオは制圧するばかりで、それ以上は手を下さず、代わりに警備員たちに命じてドリアルノを袋叩きにさせた。


 戦闘力という点では家の中で最も頼りになる警備員ピアストは両手両足を縛られて最初から床に転がっており、剣を撃たせたらピアストに勝るとも劣らないトルカルト家の絶対的当主バレンシーもピアスト同様に床に転がり、そして、今度は次期当主ドリアルノが暴行された。


 一族はもう誰も何も言わなくなった。


 静まり返った大広間の中心にナラツィオが悠然と立つ。


 既に身体は拭き乾かし、バレンシーの私室から持ってこさせた衣服に身に包んでいる。


 だらしなく伸びるばかりだった髪は総髪にしており、それだけで随分と違って見える。


 顕になった顔には深い(しわ)が幾筋も刻まれており、日照下で労働する人間特有の斑状のシミが目立つ。


 肌には張りやみずみずしさがなく、頬髭の上からでもげっそりと痩せこけているのが分かる。


 カミルの記憶の中に残存する壮健だったころのナラツィオの人相とは大きく様変わりしている。


 眼病によって白く濁った瞳はどこか虚ろでありながら、なぜかギラギラとした鋭さがある。


 立ち姿は自信に満ち溢れている。しかし、それでいてどこか空虚さがある。まるで、借り物の危険性を中身が空っぽのハリボテにベタベタと貼り付けたような、矛盾した存在感だ。


 古いお伽噺に出てくるドメスカとは、このような魔物なのかもしれない、とカミルは思った。


 ナラツィオが、支配者特有の高慢さを纏い、状況説明を始める。




 曰く、彼は極秘手段を用いて屋敷牢から脱出した。


 決して、担当者が鍵をかけ忘れたのではない。だから、担当者に責任はなく、担当者に対する“制裁”もまた必要ない。


 さて、牢から出たはいいが、ナラツィオの身体はひどく汚く、時間は遅い。人と会うも話すもできないので、仕方なくひとり水場へ行き、身を切るような冬の冷たい水で身体を清めていた。


 そこへ現れたのが女性使用人だ。不審な水音の発生源を確かめにきた使用人は全裸のナラツィオを見るやいなや大絶叫を上げた。『叫ぶな。私は侵入者ではない。落ち着いて話を聞け』というナラツィオの言葉など耳に入らない。


 叫び声は他の使用人や警備員、ひいてはバレンシーをその場へ引き寄せた。


 彼らの誰かひとりでもナラツィオの言葉に耳を貸していれば話は穏便に終わったというのに、話を聞こうともせず暴力的な手段に打って出るから、ナラツィオもやむなく応戦した。


 当主バレンシーにいたっては何を思ってか、ナラツィオに真剣を向ける始末であった。


 幸いにも死者を出すことなく戦闘は終わったものの、笑って済ませられる話ではない。


 事の発端は屋敷牢から抜け出したナラツィオではあるが、事を大きくしたのは聞く耳を持たない者たちだ。


 特に、夜間の安全保持を任された警備長ピアストの責任割合は大きい。


 そのため、事件に関与した者たち全員で、ピアストに対し“制裁”を行うべきである。


 適切な“制裁”をもって事件は解決とし、それからナラツィオの本題である“話し合い”を然るべき人間との間で行いたい。




「何か意見はあるか?」


 異論、反論の有無をナラツィオが問うものの、ドリアルノに加えられた暴行を見た後だ。誰も何も言わない。


 状況説明や提案とは名ばかりで、事実上の絶対命令である。


 命令に従い、淡々と“制裁”が始まる。


 水場での捕物劇に加担した人間たちが床に転がるピアストを心ならずも一発ずつ蹴りつける。


 加減のない、全力での蹴りだ。


 蹴られる度にピアストの身体がゴロリと床を転がる。軽鎧(ライトアーマー)を着込んでいるとはいえ、内臓破裂に至らないか、見ていて不安に襲われる暴行だ。


 それでも全力で蹴らないわけにはいかない。


 もし、『手心を加えた』とナラツィオから判定された場合、手心を加えた者に代わって、警備員の中で最も大兵であるスタニスがピアストに補填の一撃を食らわせることになっている。しかも、手心を加えた者もスタニスから一発、蹴られる。


 防具を装着していない、身体も鍛え上げていないカミルなどがスタニスから蹴られたら、それだけで致命傷となるかもしれない。


 加減する、という選択肢は前もってナラツィオから潰されていたのである。




 警備員たちがそれぞれ一発ずつ蹴り終わると、ナラツィオは転がったまま暴行を見つめていたバレンシーの脇に歩み寄り、束縛を解いていく。


 これで“制裁”が終わるのだ、と大広間に安堵が広がる。


 自分にもピアスト蹴りのお鉢が回ると思い込んでいたカミルは拍子抜けする。


 とはいえ、別にピアストを蹴りたいとは微塵も思っていない。蹴らずに済むに越したことはない。


 カミルは大きく息を吐いた。


 しかし、ナラツィオは弛緩したばかりの空気を再度ちぎれんばかりに張り詰めさせる。


「さて、残るはバレンシーと、そこの君だけだ。名は……何と言ったか?」


 ナラツィオの白い目に見据えられるだけでカミルの呼吸は辿々しくなる。


 喉を締め上げられるような苦しさに耐え、かろうじて返事を絞り出す。


「調理部門を担当しております。カミルと申します」

「そうか。他の者たちは私を取り押さえるために素手でかかってきたが、カミル君はよく分からない武器で襲いかかってきたな」


 カミルは持ちっぱなしになっていた『武器』に目を下ろす。


 気が動転していたカミルが自室から護身のために持ち出したのは、食事記録の綴りだった。


「カミル君にはその武器で“制裁”を与えてもらうとしよう」


 記録に用いられている用紙はごく普通の植物紙だ。綴りの厚さはそれなりにあるが、到底武器にはなりえない。


 どうしてこんなものを武器として手にとったのか、落ち着いて考えれば不思議なくらいだ。


(堅表紙で製本されておらず、本当によかった)


 息苦しさが消失したカミルは綴りを構え、全力でピアストを張った。


 スパーンと、紙で物を叩く時特有の軽い音が大広間に響く。


 叩き終わったカミルが晴れやかな気持ちで後ろを振り向くと、脂汗まみれになって狼狽するバレンシーの姿が目に入った。


(あ……。私はナラツィオ様の攻撃に使った『武器』で制裁を加えた。……では、旦那様は?)


「どうした。バレンシー。顔色が悪いぞ?」


 ナラツィオがくつくつと嗤う。


「そうだ。お前が私に何の武器で襲いかかってきたか、ここにいる全員に聞こえるように説明してくれないか?」


 バレンシーはブルブルと震えながら答える。


「……ラー……ルです」


 バレンシーのか細い声に、ナラツィオが不機嫌になる。


「私は全員に聞こえるように説明しろ、と言ったぞ。手間取らせるようであれば、お前にも“制裁”を――」

「名剣ラーヴァニールです!」


 当代当主が先代当主に、殺害の意図をもって斬りかかったと分かり、大広間が騒然となる。


「ラーヴァニールはお前に返そう」


 ナラツィオがバレンシーに剣を押し付け、バレンシーは力なく剣を握る。


「どうした、バレンシー。私にやったようにその剣をピアストの首元に振り下ろすだけで“制裁”は完了するのだぞ。ん? 実父は殺せるのに雇い人は殺せないのか?」


 ナラツィオはバレンシーの肩に手を置き、俯くバレンシーの顔を白く濁った目で覗き込む。


「では、お前に選択肢をやろう」


 ナラツィオは袖元から一本の折りたたみ(フォールディング)ナイフを取り出し、刃を広げる。


「ピアストにラーヴァニールを振り下ろすか、それともそのフォールディングナイフを刃渡り一杯まで自分に突き刺すか、どちらか好きな方を選べ」


 ナラツィオはバレンシーの握り込まれた拳を無理矢理広げ、そこにナイフの柄を押し付けた。


 バレンシーは片手にラーヴァニールを、もう片手にフォールディングナイフを持ったまま黙り込んだ。




 時間にして数十分は経っただろうか。


 バレンシーの手からラーヴァニールが滑り落ち、ガラアンと金音を立てて床に転がる。


 その金音が鳴り止まぬうちにバレンシーはフォールディングナイフの小さな柄を両手で持ち、「えええいやあああああ!!」と叫んで刃を自らの腹に突き立てた。


 音もなくナイフが腹部に沈み込み、バレンシーは顔を苦痛に歪めて膝から崩れ落ちる。


 自刃して沈む息子をナラツィオは無表情に眺めて言う。


「これで“制裁”は終わりだ。今から私が指名する者たち以外は持ち場なり自室に戻るなりして身体を休めろ。明朝は通常と変わらずに業務を執り行え。今晩の出来事は明日の寝坊の言い訳にならないことを覚えておくがいい」


“制裁”終了を宣言したナラツィオはピアストとドリアルノを治癒院シュピタルウラゾエに運び込む手配を行う。


 搬送代表者にはバレンシーの妻でありドリアルノの母親であるヤドヴィガを指名した。


 治療に際して余計な情報が外部へ漏れた場合、全責任を負わせる、と告げられたヤドヴィガは、涙目となって搬送隊を率いて行った。




 人が減り、各部門の部門長と倒れ伏すバレンシー、それにナラツィオしかいなくなった大広間でカミルは勇気を振り絞って陳情する。


「ナ、ナラツィオ様。何卒、当主バレンシー様にも治療の機会をお与えください」

「治療ねえ……」


 ナラツィオは呆れ顔でバレンシーの傍らにかがみ込むと、バレンシーを仰向けに寝かせる。


 そして、腹に突き立つフォールディングナイフをむんずと掴んで無造作に抜き、今度は服を脱がせて創を露出させた。


 臍の右横に空いた創からはジワジワと血が滲み出ている。


 ナラツィオは何を思ったのか、指を創にズブリと突っ込んだ。


 創を抉られる痛みにバレンシーが「ううんっ!?」と(うめ)く。


「あまり大げさに痛がるな、バレンシー」


 ナラツィオが突っ込んだ指を抜き、目の前に掲げる。


「自分の腹に刃物を刺す場合は服を脱ぎそうなものだが、バレンシーの場合は厚手の服の上から刺した。見ろ、創はこんなに浅い」


 ナラツィオが掲げた指には、第一関節と第二関節の半ばまでしか血が付着していなかった。


「これでは、刃先は内臓どころか筋にすら達していない。腹の皮膚が幅にして指二本分ほど切れているだけで、深さのほうは分厚い腹の贅肉が全て受け止めた。縫うとしても精々、皮を三針だ。こんな小さな創、清浄な布で覆っておくだけで縫わずとも塞がる」


 ナラツィオはまたも袖口から手掌大の布を取り出してバレンシーの創に当て、脱がせた服を着直させる。


 着衣が完了すると、ナラツィオは未だ痛がったままのバレンシーに立ち上がるよう命じる。


 バレンシーは腹を抑えながら恐る恐る立ち上がると何を思ったのか、疑問の色で服の上から傷口を擦ったり軽く叩いたりする。


『やや、不思議なり。痛みがどこかに消え去ってしまった』


 バレンシーの表情が、そう語っていた。

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