第四六話 ユニティ 一二 求心力
ドメスカ殲滅の方法を模索しつつ、かつ、ワイルドハントの姿を探してクローシェは連夜、街を彷徨う。
いかに白兵戦に自信があるとはいえ、愛用の刺突剣は根本的に、薙ぎ、に向いていない。得意とするのは針穴を通すほどの正確な点攻撃であって、面攻撃ではない。
十にも満たない日数を刺突剣で撃てる新技の開発に費やしたところで件の魔物を倒せる境地に至れるはずもなく、出遭うドメスカ全てに逃げられてしまう。スターシャに言われた『夜遊び』に反論できるだけの確たる成果をまるで収められなかった、ということだ。
とはいえ、そんなことで意気沮喪となるクローシェではない。ドメスカ討伐は元より期待薄だ。大本命のストライカーチームが無事、ゴブリンキングを討伐して街に戻ってくれれば、ロギシーン街中を無駄に走り回った疲労など簡単に吹き飛ぶ。
万事順調であれば、目標達成したストライカーチームがロギシーンに帰り着いてもおかしくないだけの日数が既に経過している。
心急き始めているのは、クローシェに限った話ではないだろう。ロギシーンを守り、街の周囲を見張る歩哨の誰しもが、似たような思いで東の方角を見つめていたはずだ。
しかし、悲しいかな。彼らの瞳に映ったのは凱旋するストライカーチームの姿ではなく、恐れていた厄災、疾走するゴブリンの大集団だった。
街の東方、春から秋にかけて大量の食料を与えてくれる穀倉地帯よりも更に東に広がるフィールドから、ゴブリンたちは大挙して押しかけてきた。
ユニティはゴブリン大発生の余波がロギシーンまで到達することを想定していた。ただし、あくまでも“余波”である。ストライカーチームを派遣した後に、まさか“大波”が押し寄せてくるとは考えていなかった。
ゴブリン大群襲来の報告を受けて動揺しなかった人間は、ユニティ幹部の中ではクローシェが唯一かもしれない。
報告を聞いたクローシェの内に湧き上がるのは、『まさか』の思いではない。『来るべきものが来た』という、自分でも驚いてしまうほどの冷めた感想だった。
自らの心の動きが予想どおりであろうとなかろうと、やるべきことはかわらない。深刻な戦闘員欠乏症を患うユニティを鼓舞する目的も兼ねてクローシェはロギシーン防衛の最前線に立つ。
もちろん戦闘員を指揮するだけでなく、クローシェ自身が戦場で剣を撃つ。
残留組しかいないとはいえ、ユニティの本拠であるロギシーンに果敢に攻めてくるくらいなのだから、さぞかしゴブリンたちは手強いものと思われる。剣を握るクローシェの手にも、それは力が入るというものだ。
それが、いざ戦ってみると摩訶不思議、ゴブリンたちには恐れていたほどの手強さがない。
一般戦闘員や衛兵たちはゴブリンに少しばかり手こずっていることからして、波を構成するゴブリンたちは平時のフィールドで出くわすゴブリンよりも少しだけ強いようだ。
だが、所詮はその程度。ハンターとしての素養に乏しいクローシェや従者たちでも鎧袖一触である。
ゴブリンと一戦交えた従者たちは、襲来する大波を自分たちでも押し返せる、という自信に意気高揚となる。ところが、全体を俯瞰するクローシェは訝らずにはいられない。“敵”が繰り出す一手にしては、あまりにも温い。
ユニティが作り上げる鉄の防衛線に、走り狂うゴブリンたちは命知らずな特攻をかける。断続的に広く押し寄せる波を丁寧に消波していくと、一時ゴブリンの波が途絶え、ユニティに束の間の猶予がもたらされる。
こちらに向かってくるゴブリンの影は彼方に小さく見えている。次の波は程なく防衛線まで到達するだろう。それが届くまでの僅かな時間に戦闘部隊は補給と回復を行っていく。
常識的戦闘力しか有さない一般戦闘員とは違い、クローシェや従者たちは怪我どころか消耗すらしていない。そこで、横に長い防衛線に綻びが生じていないか、自分の目で直接見て回ることにする。
将の立場にある人間が現場を歩き回ると戦闘員から挨拶の雨あられを浴びせられてしまうため、見回りに時間がかかって仕方ない。供回りとして連れて行くのはビークとグレータの二人に絞り、少人数構成で静かに素早く巡視する。
まさか、ユニティの将が自分たちの真横にいると思わぬ戦闘員たちは、補給を行いつつ僚員らと飾らない言葉を交わす。限りなく本音に近いこういった現場の声を耳にしておくのも、忍びで巡回する理由のひとつと言えよう。
足早に歩いていると、またひとつ、貴重な本音がクローシェの耳に飛び込む。
「このゴブリンたちは、どうにも様子がおかしい」
「ああ、同感だ。目標のない無秩序な猛進の先にたまたまこの街があったのではない。ゴブリンどもは明確にロギシーンを目標として襲ってきている。そんな感じがする」
交戦時は目の前のゴブリンを倒すだけで頭が一杯であったはずの一般戦闘員ですら波の異常性を認識し、クローシェと同じ結論に至っている。
戦闘員の言葉の大半に陰ながら同意し、一部を添削する。
波の定める目標は、『ロギシーンの街』という漠然と広い範囲ではない。もっと狭く限定された箇所、具体的にはシュピタルウラゾエの地下を目指している。もしかしたら、ヒトには見るも嗅ぐもできない微小かつ特殊な瘴気が地下から漏れ出し、それがゴブリンの誘引剤としてはたらいているのかもしれない。
(敵の本当の狙いは何だ。来る波の第二幕が初幕の倍以上の規模であっても私たちは防ぎきれる。実は波ですら陽動、囮のひとつに過ぎないのだろうか……)
波の勢いがこの先、少々増したとしても、それ単独ではロギシーン防衛を根本から覆すに至らない。目下の不安材料は戦闘員に蓄積していく疲労と、次第に増えていく負傷者ぐらいのものである。
単独で脅威になりえないとなると、考えやすいのは合わせ技だ。どんな手を重ねて打たれるのがユニティにとって最も拙いか、クローシェは思案する。
その脳裏に、『ワイルドハントがクローシェを勧誘しようとしている』という、先日のスターシャの台詞が木霊する。響きが消えた後に浮かんでくるのは、苦戦するユニティに手を貸さんと防衛線に躍り出るワイルドハントの姿であった。
想像の中、ワイルドハントの一体は深い青毛の馬を駆っている。
万を超すゴブリンの大波の前に悠然と立つと、馬上から強烈な斬撃を放つ。ミスリルクラス、いや、ブラッククラスの実力者でしか撃つことができなさそうな超威力の斬撃が瞬時に大量のゴブリンの命を奪う。
波を消滅させたワイルドハントは音もなく馬をクローシェの真横に寄せる。
戦線に躍り出た瞬間からずっとワイルドハントは、思わず罵声を浴びせたくなってしまうほどに気取った立ち振舞いをしている。自分を英雄か救世主だとでも勘違いしていそうだ。
片や、想像の中のクローシェは、気障ったらしいワイルドハントになぜか感激して打ち震えている。
ワイルドハントは馬上からクローシェに手を伸ばす。クローシェはその手を掴み……。
(……おいおいおい。馬鹿か、私は)
クローシェは心の中でブンブンと頭を左右に振って意味不明な想像をかき消す。
真面目に展開を想定していたはずなのに、話が途中からおかしな方向へ転がってしまった。
そもそもユニティはゴブリンの波を自力で押し返せる。ワイルドハントに助力されたところで恩に着るはずもない。
もう少し現実的な展開を考え直したいところではあるが、すぐには思考を切り替えられそうにない。直ちに再思考しても、気色悪い妄想の続きが始まるだけなのは目に見えている。
そこで、考える内容を全く別種のもの、ストライカーチームの状況に変更する。
まずゴブリンキングの生死についてだ。これはまだ健在と思って間違いないだろう。ゴブリンキングが倒れると、ゴブリン群は元の強さまで弱体化する。波を構成するゴブリンたちは平時のゴブリンよりも強いのだから、ゴブリンキングが倒されたはずがない。
ゴブリンキングが健在なのは仕方ないにしても、それを倒そうとしているストライカーチームのほうがどうなっているのか、とても心配である。今もなおゴブリンキングを目指してゴブリンの黒山を掻き分けているのか。はたまたオレツノに待ち構えていた“敵”の伏兵に倒されてしまったのか。
もしも本当にアッシュが敗北して命を落としてしまったならば、ユニティにもクローシェにも打てる手立てがほとんどない。ゴブリンの波を全て押し返し、さらに“敵”が鳴りを潜めてくれたとしても、いずれ必ず来るマディオフの鎮圧部隊に対処しきれない。
なればこそ、ストライカーチームがゴブリンキング討伐まで後少し、というところまで漕ぎ着けていることを願うばかりだ。
一般戦闘員の呟き添削から始まり考え事に没頭していたクローシェは、ふと我に返る。ボンヤリと歩いているうちに陣の外まで来てしまっていた。
グイと東に目を向けると、波はかなり近くまで迫っている。もう頃合いだろう。
クローシェは巡視を切り上げ、小走りで防衛線最前部へ戻るのだった。
◇◇
断続的に襲来する波を退け続け、辺りが闇に包まれる時間帯を迎える。増大の一途を辿るかと思われたゴブリンの波は、しばらく前を境にして徐々に弱まりつつある。
倒すばかりで死体処理を満足にできていないため、防衛部隊が討伐したゴブリンの総数は不明なのだが、転がる死体を眺めるだけでもまずまずの成果を収めていることが分かる。膨れ上がった個体数を今日だけで相当減らせたように思われる。
相手がゴブリンで、かつ戦闘も断続的だったとはいえ、半日近く続いた戦いにより防衛部隊はかなり疲弊している。
クローシェ自身も、身体疲労はそこまでではないものの、魔力のほうがそれなりに消耗している。いや、軽いはずの愛用の刺突剣を今はそれなりに重く感じるのだから、魔力だけではなく体力も間違いなく減っている。
幸いなのは、戦闘部隊の士気が全く低下していないことだ。波の減弱は確かな光明であり、そのおかげで戦闘員たちは疲労を埋め合わせるだけの高い士気を保持できている。
これで今も波の勢いが増し続けていれば、精が尽きる前に根が果てていただろう。
波と波の合間、恒例のようにクローシェが防衛線を巡視していると、どこからか大声が響く。繰り返し響く大声に耳を傾けると、どうやら声は本陣がある側から聞こえてきている。
叫び声というのは声量がどれだけ大きくとも聞き取りづらいもので、声が何と言っているのか完全には分からないが、おそらく声の主はユニティ次将であるクローシェを探している。
ビークが叫び声に応えると、こちらの居場所を察知した声の主が大急ぎで駆け寄ってくる。
伝令員としてクローシェを探し、広い戦線を走り回ったのだろう。その隊員は息も切れ切れだった。
荒れた呼吸を整えようともせず、報告のためにクローシェを天幕に案内しようとする。
「分かりました。直ちに向かいます」
クローシェは巡視を中止し、本陣方向へ足を進める。
「時間短縮のため、機密度の低いものは道すがら報告してください」
促された伝令はかすかに逡巡するものの、すぐに迷いを振り払って口を開く。
「それでは報告いたします。ゴブリンキング討伐に派遣した人員が一名、街に帰還しました!」
ゴブリンキング討伐に向かわせた人員は大量だ。そのうち、たった一名だけが帰還する。何とも穏やかならざる報せではないか。
道中で報告させているのだからこの悪報は当然、周囲の一般戦闘員の耳にも入ってしまう。
情報は一瞬で部隊に伝播し、陣が騒然となっていく。
クローシェは表情を変えることなく伝令に報告の続きを促す。
「そうですか。それで、その帰還者はどちらに?」
「本陣脇に設けた救護施設で休んでいただいております」
「負傷の程度は?」
「怪我というほどの怪我は負っていません。ただ、全速力で帰還したために疲労困憊となっているご様子でした」
伝令の言い回しの細かな部分から、街に戻ってきた人員というのがストライカーチームのひとりではなく、それよりも前にユニティがオレツノに派遣していたハンターのひとりであることを察する。
「帰還者からさぞかし重要な言伝を預かったでしょう」
「いえ、それが、『フランシス次将に直接話す』の一点張りで、具体的な部分を何も話そうとしないのです。『アッシュ総大将から大事な連絡がある』としか、聞いておりません」
かつてはハンターだったとはいえ、現在のアッシュはユニティの将である。立場を踏まえると、ハンターではなくユニティの部下に情報伝達を依頼すべきだ。
謎のアッシュの行動にクローシェは疑問を覚える。
(そのハンター。本物なのだろうか……)
ワイルドハントにドレーナがいる以上、見た目は判断根拠にならない。
かといって、ハンターの話を聞きに行かぬのは、選択肢としてありえない。
「なるほど。では、より急がねばなりません。して、その帰還者の名前は?」
「ミレイリです」
隊員の口から出てきたのは、アッシュが退いた後のロギシーンにおける最強のハンター、チタンクラスの剣使いだった。
◇◇
救護施設で待っているのはミレイリの姿をした真っ赤な偽物かもしれない。付き従うビークとグレータにクローシェは警告する。
「承知しております。フランシス次将」
言われるまでもなく二人とも十分に分かっている様子だ。
一行に油断はない。救護施設に着いた途端に“敵”が襲撃してきたとしても遅れは取らない。全員が即応できる。
(偽物であれば捕らえるだけだ。だが、これでミレイリが本物だとして、理由が思い当たらない。なぜ、ひとりだけで街に戻ってきたのだろう?)
偽物であってほしいわけではないが、かといって本物であったとしても、吉報をもたらしてくれるとは皆目思えない。伝令が、『ミレイリは負傷していない』と言ったのだから、なおさらだ。
ゴブリンキング討伐を果たさぬうちにロギシーン最強のハンターが街へ戻ってくる理由など、果たしてこの世に存在するのだろうか。
クローシェの口から、むむむ、と小さな呻きが漏れ出る。
結論が出ないうちに一行は救護施設前に到着する。ゴブリンの波から街を防衛するため、前線近くに設けられた急造の回復拠点だ。野営用途の天幕よりもずっと暖かく快適に作られていて、規模も天幕と表現するのが憚られるほどに大きい。
波の対応で負傷者に溢れかえった救護施設の中に入ると、一箇所だけ周囲とは毛色の異なる、広く間切られた空間がある。そこへ入っていく伝令に続き、ビーク、クローシェ、グレータの順番で間切りの中へ足を踏み入れていく。
間切りの中でひとり休んでいた男が、クローシェの顔を見てすぐさま立ち上がる。ハンター業を匂わせる顔貌の特徴はよく焼けた肌の色合いだけだ。顔に傷は全くなく、精悍ではあるが、どこか非戦闘者的な感のある綺麗な肌付きをしている。外見年齢は壮年期後半。クローシェの知るチタンクラスハンター、ミレイリその人だった。
(顔は確かにミレイリだ。では、他の部分はどうか)
立ち姿や装備の瑕の少なさからして、このミレイリらしき人物が負傷していないのは事実だろう。より大切なのは、外見的特徴ではなく中身だ。
用意していた挨拶と質問をクローシェが言おうとする直前、それに先んじてミレイリが言葉を発する。
「こうやってあんたと直接話すのは初めてだな、フランシスさん」
面と向かって会話したことはないが、クローシェはミレイリの顔を知っているし、ミレイリのほうもクローシェを知っている。有名人同士であれば、ままある話だ。
話したことがないのだから、目の前にいる人物の声を聞いても、それが本物のミレイリと同じか否か判断はつかない。
「ご挨拶に伺い、お話ししてみたいとは思っていたのですが、生憎と機会に恵まれませんでした。はじめまして、ミレイリさん。私がユニティ次将を務めている、クローシェ・フランシスです」
「ハンターにはもったいない丁寧な挨拶だ。早速で悪いが、本題に入りたい」
ミレイリは切羽詰まった様子で目を横に滑らせる。ビークたちを下がらせろ、と暗に主張している。
その必要はないことを伝えたうえで着座を促すも、ミレイリは立ったまま話を進める。
「本題とは、街の危機についてだ」
ミレイリはやおら手を腰に下げた携行袋の中に入れる。
「フランシスさんには、俺と一緒にゴブリンキングを倒しに行ってもらいたい」
『危機』の内容が思ったよりも正当なものであることに、クローシェは虚を衝かれた感を覚えてしまう。
平静を装い、ミレイリに応える。
「そうでしたか。総大将たちはゴブリンキング相手にそこまで苦戦を……」
一言一言を噛みしめるように呟くクローシェに、ミレイリは怪訝な顔をして首を横に振る。
「違う、違う。そうではないんだ。俺たちもアッシュもゴブリンキングを倒せなかったが、ゴブリンキングは既に倒れた。だから、俺とフランシスさんでゴブリンキングを倒そう、と言っている」
どうやらミレイリは見かけよりも感情が表に出辛い性質のようだ。平然とした見た目と明瞭な言語とは裏腹に伝えたい内容のほうが行方不明となっている。
「落ち着いてください、ミレイリさん。あなたは少し混乱しているようです。仰っていることの意味が私には分かりません」
ミレイリは口を数度パクパクさせながら、先程から袋に突っ込んだままの手を忙しなく動かす。
胡乱なミレイリの手がようやく袋から出てきて、クローシェの眼前に突き出される。
ミレイリの手が握っていたのは、先日の会議でアッシュが披露したゴブリンキングを探す魔道具だった。
あの時、緑に点灯していた蛍光石は、今は橙色に点滅している。
クローシェは心拍数の急激な上昇を感じながら、震え声でミレイリに問う。
「なぜ、ミレイリさんが総大将の魔道具を?」
「二体目のゴブリンキングがロギシーンの街の中にいる」
ミレイリはクローシェに問いに答えず、冒頭に持ってくるべきだった本題の中核を述べた。
魔道具の反応、そしてミレイリの言葉から状況を理解したクローシェは勢いよく四方を見回す。
天幕の入り口を見て、再び魔道具を見る。透明な球の中、方位磁針のような役割を果たす針は、およそ西の方角を向いている。
ミレイリは魔道具の見方を補足説明する。
「蛍光石の色は標的までの距離を表しているらしいのだが、色と距離の正確な対応までは教えてもらっていない。分かっているのは、標的に近付けば近付くほど赤に近くなる、ということだけだ。何分、急ぎだったものでな」
「正確な距離が分からなくても、針がどこを指しているかは分かります」
「なんだ、そうなのか。話が早い。それで、その場所はどこだ?」
クローシェはギリギリとグローブが悲鳴を上げるほど強く拳を握り込む。
「シュピタルウラゾエ……治癒院ウラスですよ」
クローシェの返答には、さしものミレイリも顔色がさっと青ざめるのだった。
◇◇
ミレイリが加わって四人となった一行は急ぎウラスへと向かう。
ミレイリを本物と断言する根拠は、言ってしまえば存在しない。敢えて言うならば、不弁舌さは無骨なハンターとしてそれらしい。非常時において判断材料はそれで十分だ。それ以上は無い物ねだりの領域である。
四人を乗せた馬車がウラスの前に着くと、クリアリングもおざなりにクローシェは勢いよく馬車から降りる。本来ならば、これはあってはならないことだ。だが、頭に上った血が悠長に安全を確かめてから降車することを許さなかった。
「お待ちください、フランシス次将。先頭は私が努めます!」
我が身を犠牲にしてクローシェの安全を保とうとする忠臣の言葉に耳を貸さず、クローシェはズンズンと大股でウラスの中へ入っていく。
正面扉から入ってすぐの場所には、あくせくと働くギンガの姿があった。固定位置であるはずの受付台を出たギンガは、古老の受付嬢として治癒院に運び込まれた負傷者たちの重傷度を見定め、手記に書き留めている。
忙しそうに働くギンガは、それでも鋭敏にクローシェらの来訪に気付き、顔を入り口方面に向ける。
「クローシェちゃん。まさか、どこか怪我を――」
「マルティナ先生は今、何処にいますか?」
「どこってあんた……。こめかみに青筋なんか立てて、また物騒な話をしに来たんじゃあるまいね?」
「今はあなたが思っている以上の緊急事態です。結論だけをお願いします。先生の居場所はどこですか?」
クローシェは立ち止まることなく凄みを利かせてギンガに問う。
ギンガが即答しないため、クローシェは返事を待たずにマルティナの治療室がある通路の奥へ歩を進める。
すると、血の気の多い患者の対応に慣れたギンガは、たっぷりと脂肪のついた重そうな見た目からは想像もつかないほどの素早い動きで一行の前に立ちはだかる。
「怪我をしているんじゃなかったらウチの治癒師の居場所は答えられないし、案内もできないね。今、ウチは忙しいんだ。また後で出直しな!」
左右の腰に手を当て、胸を張って通せんぼうするギンガの背後に、通路奥へ向かって大荷物を抱えたまま走り行く人影が見える。治癒師見習いのピルビットだ。
反射的にクローシェは走り出す。
それを防ごうとギンガの丸く太い腕が伸びる。見た目以上に敏捷とはいえ、中年女性に捕まるクローシェではない。
スルリとギンガの腕を躱し、マルティナの治療室がある通路奥へ走る。
それでも追おうとするギンガをグレータが抑止する。クローシェの背中にはギンガの金切り声が投げかけられているが、そんなものに構っている暇はない。
叫び声は耳介と鼓膜を震わせるばかりで、肝心の意味の方はクローシェの脳まで届かない。言語としてクローシェの意識に届くのは、並走するビークの言葉だけだ。
「次将、私が先に入室します!」
ピルビットが消えていった治療室の扉前に辿り着くと、背中でかばようにビークがクローシェの前に立ち、ソロソロと扉に手を伸ばす。
その手を、横から伸びてきた別の手が抑える。ミレイリだ。
「俺が先に入る」
ミレイリは準備良く用意していた謎の小道具を扉の前にかざす。きっと罠の有無を調べる魔道具なのだろう。
魔道具の反応を手早く確かめたミレイリは扉を勢いよく開け、中に入る。
ミレイリに続いてクローシェも稲妻のように治療室に飛び込む。
「全員動くな!」
押し込み強盗のようなクローシェの口上に、治療室の中にいる大半の人間の動きが停止し、顔と目だけを乱入者に向ける。
まるで何も事が起こっていないかのように作業を続けるのは、寝台の上で血を流したまま伏せる傷病者を前に手を動かすマルティナ唯ひとりだった。
「マルティナ先生、頼む。一旦、治療の手を止めてくれ」
ミレイリは、ハンターとしては最上級に丁寧に頼み込む。だが、マルティナはそれに耳を貸さない。ミレイリにもクローシェにもチラリとすら目を向けず、黙々と治療を続ける。
「本当は、こんなことをしたくないのだが……」
ミレイリが刃をマルティナの首元に添える。
そこまでされてマルティナはやっと刃を一瞥したものの、すぐに患部のある手元に視線を戻してしまう。目線がチラと動いた須臾ですら、治療の手は止まらない。
マルティナが治療を続けるものだから、それを補助するピルビットもまた、ミレイリとクローシェの静止命令を無視して動きを再開する。
「動くな! 二人とも、止まれって言って……」
重ねてミレイリが命令した瞬間、マルティナが大きく身体を動かし、ミレイリが立つ側に置いてある治療道具に手を伸ばす。
そのままだと剣がマルティナの首を切り裂いてしまう。
危険を省みぬマルティナの動きに、ミレイリが慌てて剣を引く。
ロギシーン最強であっても、ミレイリはやはりハンター。強き者でいられるのは、魔物らしい姿の魔物を前にしたときだけだ。
(そういう私も、つい数日前に似たような真似をしたが……)
必要な道具を手に取ったマルティナは、身体を戻す直前に、一瞬だけクローシェと目を合わせる。
大工道具のような見た目をした、名前も知らぬ治療道具を操るマルティナは、ピルビットにいくつかの指示を出す。
声色は、前回の訪問時とも前々回ともまるで違っていた。前回の、ともすれば傲慢にも思える自信ともまた違う、侵しがたい意志力に満ちている。
マルティナは上司としてピルビットに指示を出した後、顔は患部を向き、手は治療のために動かし続けたまま、声だけをクローシェに向ける。
「……先日は失礼しました。フランシスさん」
前回と異なるのは声の調子だけではない。クローシェに対する敬称の付け方も変わって……いや、元に戻っていた。
それだけでクローシェは確信する。
(もうこれ以上、証拠は要らない。彼女は本物のマルティナだ)
「あなたは本物のマルティナ先生ですね?」
「先日も今日も、どちらも本物の私です」
マルティナの語調からは、そこはかとない謝罪の意思が感じられる。
マルティナの言葉の意味を、クローシェは自分なりに解釈する。
「先生は、何者かに身体を乗っ取られていたのですか」
患部がある下方を向いているため、少し分かり辛いものの、マルティナはクローシェの質問に対して苦渋の表情を浮かべているようだった。
「その言い回しでは、私の意思が関与していないことになります」
マルティナは過去の光景を透かし見ながら、自分の身に起こった出来事を静かに振り返る。負傷者を癒やす手だけがキビキビと動いていて、口と手はまるで別人のもののようだ。
「……“声”がしたのです」
「声?」
「ええ。契約に則り、詳しくは申し上げられませんが、とある夜に声が聞こえたのです。声の正体は、私も知りません。声は私に契約を持ちかけました。良くない誘いであることは分かっていましたが、提示された交換材料に魅力を感じた私は、自分の意思で契約を結びました。結果として起こったのが記憶喪失事件です。それに関連して私がしてしまった非礼の数々については謝罪いたします」
マルティナは先日のクローシェたちとの遣り取りを覚えていた。
記憶が残っていた、という事実に驚いているのはクローシェとビークだけではない。ウラス内の人間であるピルビットも、驚きの目をして固まっている。
すると、たちまち雷が落ちる。
「手を止めるな!」
クローシェの記憶の中にある本物のマルティナからは想像もつかないほど激しい怒声だ。
叱責が律したのはピルビットだけではない。室内にいた他の補助者たちも、まるでクローシェたちがその場にいないかのように、キビキビと治療補助を再開する。
完全武装のクローシェたちに剣を向けられてなお治療室を掌握できる統率力の高さ。疑いようのない本物の筆頭治癒師が、そこには居た。
マルティナに“異変”の最中も記憶があったことを踏まえてクローシェは考える。
『声』の主は地下の影とみて間違いない。マルティナは地下の影について、もう少し詳しい情報を持っているはずだ。
しかし、マルティナは契約を建前に黙秘を宣言している。それなりの手段を使えば固いマルティナの口をこじ開けることもできるだろうが、今はそれに費やせる時間的な余裕がない。
(記憶の残存や当時の言動を踏まえるに、可能性として濃厚なのは洗脳やドミネートではなく、有効と無効を随時切り替えられる特殊な催眠か)
マルティナは諦めと悲しみの混在する声でクローシェに問う。
「今、ここで私を捕らえますか?」
「……先生に責任が何も無いとは言いませんが、現行犯で逮捕するに足る罪状は見当たりません」
目の前の患者に治療が続けられると分かり、マルティナの目つきが一瞬だけ柔らかくなる。
「“声”は先生を解放した後、どこへ向かったか分かりますか? 契約に抵触しなければ教えてください」
「残念ながら何も……」
「それでは、ここしばらくの先生は夜中、どこへ行っていたのでしょう。それだけでも教えていただきたい」
「それも分かりません。夜中、私がどこにいたのか自分でも分かっていないのです」
(苦し紛れの嘘……ではなさそうだ。となると、健忘魔法を使われたのか)
敵の引き出しの多彩さにはさしものクローシェも驚きを禁じえない。健忘魔法まで使えるとなると、仮にマルティナを拷問にかけたとしても、拷問するだけの価値のある情報は、まず間違いなく得られない。
治療室でそのまま問答を続けても有益な情報が得られないと分かったクローシェは、治療室を出ることにする。
「そうでしたか……。分かりました、マルティナ先生。私たちは、これで失礼します」
「待ってください、フランシスさん」
マルティナはクローシェの背中を呼び止めた。
「もしや、再度、地下に向かおうとお考えですか?」
「そうです。それが何か?」
「声の主の行き先は分かりません。それは本当です。ただ、おそらく、ではありますが、声の主は地下ではなく、街中にいるように思います」
「なぜ、そう思うのです」
「声が今日になって私を解放した理由。それは、ドメスカのせいだと思われるからです」
「なぜドメスカが……」
ともすれば意識の外に置いてしまいそうになっていた土着のシェイプシフターの名前がいきなり飛び出し、クローシェは少しだけ泡を食う。
生じた僅かな隙間を縫うようにピルビットが口を挟む。
「今日はゴブリンによる負傷者だけでなく、ドメスカの被害者も本当に多く運び込まれているんですよ」
「負傷者の搬送等、やむを得ない事情によって屋外に出ている民間人が多いためでしょう」
ドメスカ被害の増加なる情報は、今の今まで防衛線最前部に立っていたクローシェも知らなかった。
驚きを声に出さぬようにクローシェは応える。
「情報提供に感謝します。地下は少し見るだけです。先生にはこのまま治療に尽力いただきたく思います」
マルティナは小さく頷くと、後は何も言わずに治療の速度を上げる。
クローシェたちは今度こそ本当にマルティナの治療室を出た。




