第四四話 ユニティ 一〇 ドメスカ 後
ストライカーチームがロギシーンを発ってから二日目の夜を迎え、クローシェは夜の街へ躍り出す。供回りを務めるのはクローシェの信頼厚い従者ビークと、一時的に丞相スターシャから派遣されている従者グレータの二名だ。
クローシェは頭の中で昨夜の犯行状況や、現在判明しているドメスカという魔物の特性を反芻する。
事件発生時刻は、日が水平線の向こうへ沈み、薄暮が過ぎたばかりの頃合いに集中している。春分までまだしばらくの日数があるこの時期、夜はまだまだ長い。長い夜の間中、ずっと極限の集中力を保つことは難しい。集中や緊張の度合いがある程度、上下に変動するのはどうしたって避けられない。
治安維持部隊本隊やクローシェら別働隊の緊張が昨夜と同じ宵の口に最も高まるのは、ごく自然な成り行きだろう。ただし、その自然な反応が事件の対応に役立つのは、あくまでもドメスカが真犯人の場合に限られる。これで犯人がワイルドハントの場合、本日の犯行時刻は、昨夜とはずらされる可能性が高い。
仮にクローシェがワイルドハントの立場にあったならば、犯行時刻は必ず変える。そのほうがユニティを疲弊させ、かつ手の平の上で愚かに踊って回るヒトの様を楽しめるというものだ。
三人縦列の隊形真ん中を走るクローシェに、後方からビークが話し掛ける。
「空に占める雲の割合は、およそ三割というところですね。これは、ドメスカ基準だと、よく晴れているほうなのやらどうやら……」
「私の感覚では、この空の具合は、“曇り”ではなく“晴れ”ですね。肝心の魔物目線での天候判断は現代人の誰にも分かりません。必ず出現するものと考えて、気を抜かないようにしましょう」
自戒の意味を込めてそう言い、クローシェは周囲の気配を綿密に探る。
巡回経路を事前にある程度設定している治安維持部隊とは違い、クローシェら別働隊は経路を定めていない。別働隊の先頭を担うグレータの感覚を頼みに、巡回する部隊の足音や気配がしない方面を選んで走っている。
経路を決めた巡回よりも索敵効率は落ちるかもしれないが、事前に経路を設定すると、どのような経緯で“敵”に掴まれてしまうか分からない。新マルティナのように、“影”の息のかかった人間がユニティ本部内にも潜んでいる可能性を決して忘れてはならないのだ。その場任せに動くのは、“敵”に対応を迷わせ、内通者の暗躍をある程度封じることに繋がる。
古くから伝わる伝承とユニティが発した戒厳令の両方を無視する不届き者は幸いにもほとんどおらず、建物の間隙を縫う小路にも、街を貫く大通りにも民間人の姿はほぼ全く見られない。
警邏開始から一時間強が経過し、巡回部隊のひとつと移動経路が交差した。すれ違いがてらに簡単に情報を交換する。
今晩は事件がまだ何も起こっておらず、怪しい魔物の影すら見当たらないことが分かったところで、互いの健闘を祈って別れる。
ワイルドハント相手には部隊の人数がどれほど多くとも意味をなさないことなど、クローシェは重々承知している。それでも、分隊規模の人数賑やかな巡回部隊と別れて人気のない街を三人で走り出すと、そこはかとなく物寂しさを覚えてしまう。
夜といっても時間はまだ早い。人気がないのは通りばかりで、建物の中からは人が暮らし、団欒の時間を過ごす柔らかな光と明るい笑い声が漏れ出している。寒く仄暗い通りと対照的な屋内の雰囲気が寂莫の感に拍車をかけている。建物を眺めるクローシェの抱く感情は、身寄りのない子どもが外からガラス窓越しに幸福な家庭を覗き見る時のものに近いのかもしれない。
とはいえ、住民らとて、心から楽しくて家族の語らいに興じているわけではない。ロギシーンは並々ならぬ非常事態に置かれている。誰しも恐怖や不安に苛まれているはずだ。それでも人々は笑う。全てはドメスカから確実に身を守るために。
孤児のような心細い気持ちで警邏するクローシェは、庁舎出立前に目通しした、焼けに焼けた本の内容を思い浮かべる。
ドメスカは人々の“談笑”を苦手とする。晴れた夜に外を歩いていても、仲の良い複数人で楽しく語り合っていれば、その瞬間にドメスカから襲われる確率は低下する。星明かりだけでは覚束ない夜道を照らすのに必要な灯りを消す必要も、口を閉ざして息を潜める必要もない。
灯りは煌々と灯せばいい。息は吸いたいだけ吸えばいい。大いに語らい、大いに笑えばいい。しかし、気が大きくなって口喧嘩に発展しないよう、気をつけなければならない。家に帰り着くまでに喧嘩別れしてしまうと、ドメスカの格好の餌食となる。
ドメスカが出現するのは屋外に限られているため、屋内にいる人間は無理に談笑せずともよいのだが、未経験の恐怖に晒されたロギシーンの民は、少しでも家族の安全に生き延びる確率を高めるべく、無理にでも語らい笑っている。
少しわざとらしさがあるにせよ、身を寄せ合って互いを守る家族の気配は、正しくクローシェが守ろうとしているものである。光や音と一緒に建物の中から漏れ出してきた無形の家族愛が、クローシェに寒さ厳しいロギシーンの街を見回る意欲を湧き出させる。
(そういえば、空の様子はどうなっているだろうか?)
目線の高さにばかり観察眼を向けていたクローシェは、もうずっと上方の注意を怠っていた。雲のかかり具合を確かめるべく、グイと空を見上げる。
警邏開始からの時間経過を反映するように、空に浮かぶ雲は少しばかり形を変えておよそ東の方角に流れている。理性的に空を眺めたとき、不自然な点は何もない。ところが、感情のほうは理性に同調しない。感情という表現は正確さに欠ける。冬の殻を脱ぎきれていない早春のロギシーンの空にクローシェの深層意識が何らかの異常を察知し、少し控え目な音で警鐘を鳴らしている。
警鐘を誤報ではなく本物と受け取ったクローシェは、前を歩くグレータの名を呼んで別働隊の移動の足を止めさせる。
「ビークはそのまま周囲を警戒していてください。グレータ、空を見てもらえますか」
立ち止まったグレータが星の瞬く空を仰ぐ。
「……雲の割合は先程とあまり変わらないように思います。フランシス次将は何か変化に気付いたのでしょうか?」
ざっと空を見渡して、違和感なし、と判断したグレータは、視線を地上に戻すと、指示の意図についてクローシェに尋ねた。
「私にも上手く言い表せません。ただ、この空はこれまでの空と何か違っているように思うのです。……ビーク、今度は私とグレータが周囲を警戒していますので、あなたも空を見上げてみてください。何か妙な点に気付いたら見つけたら教えてください。どんな些細なことでもいいです」
視線を鷲掴みにする空からクローシェは力ずくで目を切ると、四方を見回す。差し当たって別働隊に迫る危険が無いことを確かめたら、再び違和感の正体について思考を巡らせる。
(遠方へ引っ越してしまう仲の良い友人と自分の心を慰める慣用表現に、『住む場所が変わっても、見上げる空は同じ』という詩的な言い回しがある。しかし、この空は何かが変だ。空模様に特別な興味を持って観察したことはこれまでなかったが、今、頭上に広がっているものは、私が生まれてから見てきた空とはどこかが違っている。断じて“同じ”ものではない)
ビークは何度も空を見回してから、実に申し訳なさそうに所感を述べる。
「すみません、次将。私には違いが分かりませんでした。一時間分、雲が横に流されているな、程度しか、気づくところはありませんでした……」
「私は、あなたの思ったままを聞きたかったのです。その回答で何も問題はありません。グレータも、他に何か思ったことはありませんか。つまらないことでも構いません。思うところがあれば教えてください」
尋ねられたグレータは、何かに引きつけられるように空を見上げたまま答える。
「見た目には何もおかしなところがありません。それなのに……。それなのに、私もこの空は何か変だ、と思います。私はこんな空を見たことがありません」
グレータの声は、わずかに恐怖の色を孕んでいた。
(空が変わったせいでドメスカが再臨するようになったのではないだろうか? “影”は……ワイルドハントはどうやって空をいじくった。空に丸ごと幻惑魔法をかけたとでもいうのか!?)
クローシェは最後にもう一度だけ空を見る。やはり、何かがおかしいが、何がおかしいのかは一向に分からない。現実世界では簡単にできる加減乗除の四則演算が、夢の世界で全くできずに困ってしまうときのような、地に足のつかないむず痒さ、もどかしさがある。
そのむず痒さが少し引くと、今度は怒りや悔しさが押し寄せる。
万人の共有物である天を変えてしまったまだ見ぬ真犯人にクローシェは怒り、歯噛みする。
空に妙な変化が生じているとはいえ、上に気を取られるあまりに、足元を疎かにするなど、あってはならないことだ。
クローシェは空の観察に見切りをつけて、街の警邏を再開することにした。
「奇妙な空については一旦保留とします。ドメスカを探して……」
指示を発しながら、クローシェは空の違和感どころではない異常がその場に発生していることを覚知する。
この場所にはクローシェを含めて人間が三人しかいないはずなのに、数えてみると二、三、四。
人影がひとつ増えている。
四人は咄嗟に後方へ跳躍し、四方に距離を取った。
クローシェは抜剣して構えを取り、自分以外の三人の顔を見やる。
クローシェから見て、向かって左にいるのはグレータだ。グレータは驚愕の表情で真正面と左を交互に見ている。
クローシェの真正面にいるのはビークだ。グレータと同じように驚いた様子で、クローシェから向かって右方向を凝視している。
ビークが凝視している者、クローシェから向かって右にいるのは、これまたビークだった。地元名士から内容の薄い長話を聞かされている時のような、ぼんやりと生気に欠ける顔で立っている。真ん中のビークと同じように剣を抜いて構えを取っているというのに、『突っ立っている』という表現が妙にしっくりくる、そんな佇まいをしている。
クローシェが大きすぎない程度の大声で自分の従者の名を疾呼する。
「ビーク!」
「はい!」
「はいー」
クローシェからの呼名に対し、正面のビークはハキハキと、右のビークはのんびりと返事をした。
正面のビークは、突如現れたもうひとりの自分を、典型的な不信の目で見ている。自分と同じ姿をした存在を鏡の中以外に見出した際に想定される、ごく自然な反応を呈している。
それに比べて右のビークはどうだ。表情は蝋人形のようにのっぺりと固まり、クローシェの呼名に対して、従者とも警邏中とも思えないほど緩慢に返事をした。
間違い探しとしては極めて簡単だ。だからこそ逆に、ひっかけ問題なのではないか、と疑う心がクローシェに芽生えてしまう。
(右のビークはドメスカが扮している偽物のように見える。でも、もしもそう思わせることこそがワイルドハントの狙いだったら……)
問題の裏側や、裏の裏まで考え出すとキリがない。
こうやって四人でいつまで睨み合っていようとも、空から正解が記された紙が舞い落ちてくることなどない。いや、むしろ異常をきたした空から降ってくる紙があるとしたら、そこには間違いなくクローシェを謀る嘘、偽計の類が記されている。
クローシェは自分の手で正解を掴み取る覚悟を決める。
「私はこれから“間違い”を確実に葬る強さの攻撃を加えます。敵は一体だけとは限りません。私のこれからの動作だけに気を取られず、全方向に注意していてください。私の言っている意味が分かりますね?」
左に立つグレータは無言で素早く首肯し、正面のビークはやや早口で答える。
「はい、分かっております。フランシス次将」
右のビークだけはのんびりと答える。
「すみません、次将。私には違いが分かりませんでした」
(今の答え……。さっきのビークの文言をそのまま繰り返している)
右のビークが返答し終えた直後、クローシェは強く一歩を踏み出す。
狙いは当然、右のビークだ。
愛用の刺突剣による連撃を、部下の姿を借りた腑抜けに浴びせる。
刺突剣は撃力や範囲殲滅力にやや劣るものの、軽量さを活かして精緻な剣が撃てる。命を奪うことを目的としない、戦闘不能にすることを目的とした弱く浅い連撃を繰り出すなど、クローシェの腕をもってすれば容易い。
偽物と思われる右のビークは、鈍重な口調からは想像できないほどの素早い動きでクローシェの剣を防ごうと試みる。ただし、素早いといっても普段のビークの俊敏さに比べると欠伸が出るほど遅い。
万が一、クローシェが判断を誤って本物のビークに攻撃したとしても、ビークの実力を考えれば、手加減されたクローシェの連撃は苦もなく防げるはずだ。
この優しい連撃ならば篩の役割を果たしつつ、偽物だけを確実に排除できる。
案の定、鈍重な方のビークはクローシェの剣撃を全て身に受ける。
十分な刺突攻撃を浴びせたクローシェは後方に飛び退き、鈍重ビークから一旦距離を取る。
(攻撃は全部入った……が、手応えは異常なほど乏しかった)
ビークの身体を何度も突いた刺突剣からは、薄い衝撃しか返ってこなかった。縄締めの甘いスカスカの藁人形を突いた時は、こういう刺し応えを感じるものかもしれない。あるいは、落葉や水滴を突いた時のような極微小の打感にもほんの少しだけ似た部分がある、表現困難な実に不思議な刺し応えである。
構え直した剣の先端をチラリと見ても、全く血脂に汚れていない。
はたして微弱な闘衣を纏わせただけの物理攻撃が実体不定のシェイプシフター、ドメスカに効果的な損害を与えられたのか、クローシェは俄に不安になる。
そんなクローシェの不安を払拭するように、鈍重ビークが反応を呈する。
鈍重ビークは刺突攻撃を目一杯浴びて穴だらけになった体幹を左右に捩って苦しむ様子を見せる。右へ捩り、左へ捩りと繰り返すうちに、次第にヒトの姿形を失っていく。
鈍重ビークの全身からは黒い煙のようなものが少しずつ漏れ出ていて、そのせいか次第に実体が崩れ去っていく。
黒い煙のようなものと本物の煙との明らかな相違点は、必ずしも上へ昇っていかないことだ。無風の密閉空間に閉じ込めた煙の如く、崩れつつある実体の周囲に滞留している。
鈍重ビークは、あれよあれよという間に完全に実体が無くなり、その場には定形を持たない漂う影が残った。影は渦巻くこともなく数秒だけ、黙ってその場に留まると、やにわに誰もいない方向へ移動を始めた。肢を動かして移動する実体系の魔物の動きとはまるで違う、傾斜のついた屋根から滑り落ちる水滴のような異質な動きだ。
「逃がすか!」
クローシェは逃げる影を追いかける。
(影に足はないが、とにかく影の逃げ足は幸いにもそこまで速くない。むしろ、一般人の全力疾走と比べても遅いくらいだ。簡単に追いつける!)
余裕綽々で追いついたクローシェは、今度は剣速、膂力、闘衣、いずれも相当に強く剣を撃つ。
万が一にも重要臓器を貫かぬように細心の配慮がなされた挨拶未満の先の連撃とは比較にならない、破壊や殺害を目的とした勝負を決める、必殺の技にまで昇華した剣撃だ。
洗練された闘衣と強固な闘衣対応装備もなしにヒトの身体でその剣を一撃でも受けたならば、致命傷は確実である。
緩慢に避けようとする影をクローシェの剣は正確に追尾し、今度も全て完璧に影を貫いた。
だが、影は何らダメージを負った様子なく、そのままヌルりと逃走を続ける。
必殺攻撃が少しも有効打とならなかった驚きが、クローシェの足を須臾だけ止めさせる。
瞬き数回分もないわずかな隙に、影はひとつの建物の裏側へ回り込む。
「待てっ!」
クローシェも影に続いて建物の裏手に回る。
だが、回り込んだ先には、空を滑る影が見当たらない
(影はどこへ!? ……いた、あそこだ!)
影は、建物裏口に設えられた扉の隙間に吸い込まれるように中に入っていくところだった。もう影全体の六、七割が建物内に入ってしまっている。
まだ中に入りきれていない残り三、四割にクローシェは三度目となる剣撃を見舞う。
三度目の正直とは相成らず、刺突剣は今度もやはり確かな手応えをクローシェの手に返さなかった。
本気のクローシェの攻撃を二度、難なく逃れた影は、そのまま完全に扉の隙間に入り込んで消えてしまう。
「次将!」
クローシェに遅れること数歩、ビークも建物裏まで回り込んできた。立ち位置が少し遠かったグレータは、まだ建物の正面側か、良くて建物側面側にいるものと思われる。
そのグレータまで届くよう、クローシェは声を大にして指示を飛ばす。
「ビークはグレータと建物正面を見張れ!」
「承知!」
影の逃走経路となりそうな箇所を、従者二人に蓋をさせ、クローシェはそのまま裏側から建物の様子を窺う。
外観上、この建物は雑貨か何かの小売店のように見える。店舗兼住居となっているようで、建物二階には人の気配がある。
クローシェは脳内手記に彫り刻んだドメスカの原則を心の指でなぞる。
ドメスカ関連の事件では、建造物の中は絶対的な安全地帯だ。外を出歩いてドメスカに襲われても、建物の中へ逃げ込めばそれ以上の追撃は免れる。過去の一般原則ではそうなっている。
では、今回の場合のようにドメスカのほうが建物内に逃げ込んだ場合はどうなるのか。答えは誰も持ち合わせていないし、ハンターではないクローシェには見当もつかない。
(住人の姿を写し取っていたとしても、見分けるのは難しくない。ドメスカの変化体は、アンデッドにドミネートで身体を支配されたヒトを思わせる、心の抜けたボンヤリした受け答えしかできない。たとえ、私たちの知らない人間の姿になっていたとしても、識別に支障はない)
クローシェは扉を強く叩き、大声で家人を呼ぶ。
少し待つと、扉の覗き窓がスゥと開いた。窓の中には男性のものと思われる胡乱な目があり、クローシェの目をジロジロと見ている。
「誰だ、あんたは?」
「警邏をしているユニティのクローシェ・フランシスです。魔物が……ドメスカという魔物がこの建物に侵入しました。今すぐ扉を開けてください」
男はクローシェの要求を鼻で笑い飛ばす。
「昔話を引っ張り出してユニティってのもよくやるもんだ。だが、不勉強だな。ドメスカさんは外にいるものしか標的にしない。建物内には入ってこないさ」
「詳しく説明している時間はありません。任意で要請に応じていただけないのでしたら、扉を破壊して内部を強制捜査します」
「馬鹿言うな! 他の用件で訪ねてきたなら扉も開けるし事情聴取にも応じるが、ドメスカさんを探しに家の中に立ち入ろうってのは筋が通らない。……ははあ、もしや、お前がドメスカさんだな? 扉を開けさせて、俺を建物から引きずり出す気なんだろう。扉を壊す? やれるもんならやってみやがれ」
男の家は、きっと何代にもわたってロギシーンの地に暮らしているのだろう。伝承に由来する知識を持っており、皮肉なことにその半端な知識がドメスカ討伐の妨げになってしまっている。確かに生粋のロギシーン人からしてみれば、ドメスカ探しに建物の中に入ろうとするクローシェは矛盾した発言をする危険な存在に他ならない。
丁寧に説明すれば男の誤解は解ける。しかし、その時間が惜しい。
クローシェは扉を破る意を決する。
「外から扉を突き破ります。この木製の扉であれば、一撃で確実に破れます。ご主人、扉から離れていたほうがいいですよ」
「まさか、本気かよ。分かった、開ける! 開けるから壊してくれるな!」
案外と速やかにクローシェの本気度を察した男は内側の錠を外して扉を薄く開ける。
見ると、男は扉を開ける手とは逆の手に小剣を持っていた。その手は僅かに震えている。
「ご協力に感謝します。他に家の方は?」
男は剣を前に突き出しながら答える。
「上に妻と子供がいる」
「では、決してひとりにならず、固まって身を寄せ合っているように伝えてください」
「もうそうしている! あんたが裏口で騒がしくしてくれたからな!」
男は恨みがましく大声で答えた。
「それで正解です。では、一階にあるドメスカが隠れられそうな場所を案内していただけますか。ああ、先頭は私が歩きます。あなたは剣を持ったまま、私の後ろを歩き、私をドメスカの隠れ場所へ誘導してください」
クローシェは男の小剣の先が当たるのも構わず、扉の隙間から身体を建物内に押し込む。
剣の先がクローシェの鎧表面に当たった瞬間、男は、「きゃあ」と乙女のようなかわいい声で小さく叫び、慌てて剣を引く。男性としては平均的な、それなりに厳しさのある顔つきをしていたが、内心では自分が傷つくことも、他者を傷つけることも怖れていたのだ。
剣が当たったことで、クローシェが実体を持つ生者だと分かって安心したのか、男の表情が少しだけ緩む。
「本当にドメスカさんは俺の店に入り込んだのか?」
「シェイプシフト能力を持つ“何か”が、あなたに開けてもらったこの扉の隙間から建物内へ入ったのは確実です。ただ、狭い隙間を通り抜ける能力からすると、そのまま別の戸口の隙間から出ていってしまったとしてもおかしくありません。それが分からないからこそ、中を探させてもらいたいのです」
男はクローシェの説明に得心がいった様子で、肯定的な顔で息を大きくひとつ吐く。
「一階はこっちの裏口側に加工場が、逆の表側に売り場がある。面積は広くないが、物がいくらでも転がっているから、大男でも身を屈めるだけで身体を隠せる場所がチラホラある」
「それならば、なおのこと慎重に探さないといけません」
クローシェは、ドメスカ探しに協力姿勢を見せ始めた男を連れて、ソロリソロリと建物一階の捜索を開始した。
店主の男と店内を捜索すること数分、表側の通りから大声が店内に響く。
(この声は……ビークが私を呼んでいる?)
ビークの声の様子から、店の中にもうドメスカがいないことを直感したクローシェは、表口に向かって走り始める。
床平積みの物品に動線を狭められた加工場をスルリと抜け、商品が整然と並ぶ売り場を疾走して、すぐさま建物正面扉に辿り着いた。そのまま扉に手を掛けるも、固く錠がされていて扉は開かない。
外からはグレータとビークの怒声が今も聞こえている。
「店主、鍵を!」
「今開ける!」
クローシェに追いついた店主が鍵束から鍵を探して当てて錠を外す。
錠が外れた瞬間にクローシェは外へ飛び出すと、走り遠ざかっていく従者たちの背中が見える。
「店主! 施錠して建物内に避難してください。家族から離れてはいけませんよ!」
クローシェは店主にそう言い残すと、全速力で従者たちの背中を追った。
角をいくつか曲がったところで、クローシェは二人に追いついた。
脚力差があったから追いついたのではない。ビークとグレータの二人が袋道の端で立ち往生していたから追いついたのだ。
二人の表情を見るに、影には逃げられてしまったようだ。
クローシェは苦悩する従者に、できるだけ落ち着いた声で問い掛ける。
「影は最後、どこへどのように逃げましたか。ゴキブリのように平べったくなって、隙間から建物に入り込んだのですか?」
クローシェにはビークを責める気持ちなど無かったし、焦りの感情はきっちりと押し隠して問い掛けたというのに、ビークは消え入りそうなほど背中を縮こまらせて上目遣いでクローシェを見た。
「次将……。申し訳ありません。私たちがそこの角を曲がった時には、ドメスカらしき影は既にいなくなっていました。この高い壁を乗り越えていったのか、あるいは隙間から中へ入り込んだのか、見届けてはいないのです」
「そうですか……」
クローシェは心の中でがっくりと肩を落とし、現実の肉体にはその場で天を仰がせる。
三人のいる場所は三方向を建物の壁に囲まれている。それゆえ、見上げたところで、空は全体のごく一部しか見えない。
全天に占める雲の割合は不明ながら、少なくともここから見える範囲の空は一面、雲に覆われている。
厚薄の分からぬ雲を眺めながら、その日も本当に長い夜になることをクローシェは覚悟した。




