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第四三話 ユニティ 九 ドメスカ 中

 自らの(うめ)き声に起こされてクローシェはハッと目を覚ました。


 小さな(きし)み音を立てながら、上体をムクリと起こす。眠り慣れた快適な安楽椅子の上で休息を取ったというのに身体はギシギシと固く強張(こわば)っている。肌は不快な汗でびしょ濡れだ。


 どんな内容だったかまでは思い出せないものの、それまで見ていた夢がとても悪いものだったせいだろう。


 悲鳴を上げる身体に鞭を打って無理矢理に立ち上がり、ひとつ大きく伸びをする。限界まで伸び切ったら、今度はダランと身体を弛緩させる。すると、凝り固まっていた身体の隅々まで血が巡り始め、水で戻す乾物のように筋と骨っ節が潤いとしなやかさを取り戻していく。


 戻す時間をさらに短縮するためには本物の水を十分に注ぐに限る。執務室に長く置いて(ぬる)まってしまった瓶水ではなく、冷えた新鮮な水が欲しい。ついでに顔でも洗おうとして執務室の扉を開けると、扉の横にひとりの女性戦闘員が立っていた。


 クローシェが室内で立てたわずかな物音に気付いていたのか、女性戦闘員は慌てることもなく滑らかにクローシェに辞儀する。それは、並の男性戦闘員を凌駕する立派な体格に似つかわしくない見事な所作であった。


 女性戦闘員は顔を上げると、これまた美しい辞儀とは相容れない粗っぽさのある、よく言えば外連味(けれんみ)のない顔で笑う。


「お目覚めですね、フランシス次将」


 執務室前で待機していたのは普段、ユニティ統括丞相スターシャの側仕えを務めている人物のひとり、グレータだった。


「ええ。お陰様で存分に休ませてもらいました」


 執務室の前にいるのはグレータだけで、クローシェの従者であるビークの姿はなかった。


 ビークはクローシェに仕える従者として申し分のない高い戦闘力を持っている。しかし、疲労回復力にかけては一般戦闘員と同等だ。クローシェのように短時間の休息で完全に体力を回復させられない。休息直前までクローシェに引っ張り回されて疲れ果てたビークは、まだ別室で休んでいるはずだ。


 クローシェにはビークひとりしか従者がいない。ユニティ発足時、複数名の従者を(あて)がわれることをクローシェ本人が強く拒んだためだ。それゆえ、ビークの休息時にクローシェには護衛が誰もいなくなる。


 働き詰めのクローシェがようやく休むというのに護衛のひとりも付かない、などという疎漏は、ユニティにおいて決して許されない。より正確に言うと、スターシャが絶対に許さない。


 スターシャは改まって断りを入れることなく、しばしばこうやって自分の従者を臨時の護衛としてクローシェに回して寄越す。


 スターシャはクローシェやアッシュと共に行動しているわけでもないのに、二人やそれに付いて回る従者たちの活力や疲労度を常時把握している。ただ頭が切れるだけでなく、細かな気配りも欠かさないのだ。


(それほど気配りの利く人間が、なぜアッシュに対してだけは如才なく対応できないのだろうか……)


 クローシェは頭痛の種を自らの奥深くに感じながらも、次将に恥じない毅然とした表情を作り上げる。


「それで、グレータの用件は何でしょう? ただ私の護衛を任じられただけではないように見受けます。丞相から何か大事な連絡でも預かりましたか?」


 用事があることをクローシェに先回りして言い当てられたグレータの笑みが満足気なものになる。上に立つ人間が高い観察力を持ち、それを部下に対しても発揮することは、仕える側の身からすると嬉しいものなのかもしれない。


「左様でございます」

「そうですか。では、中へどうぞ」


 連絡内容をきちんと聞くべく、クローシェは出たばかりの執務室へ戻ろうとする。


「いえ、私の用件とは、十分に休んでお目覚めになったフランシス次将を安全かつ健康に丞相の執務室まで案内することです。ちなみに、相談の具体的な題目は伺っておりません」

「なるほど。では、このまま丞相の部屋へ行きましょう」

「それはなりませんね」


 グレータは不敵な笑みを浮かべて両腕を広げ、大げさに通せんぼうしてみせる。


 こんな子供じみた真似をスターシャの前で披露したら、さぞかし怒られそうだ。


 グレータはそれが分かっているからこそ、敢えてクローシェの前でやっているのかもしれない。


 それぞれの従者が抱える問題を少しだけ分かったような気分になり、微かに笑いながらクローシェは尋ねる。


「なぜですか?」

「『次将には起床後、必ず食事を取らせるように』と丞相から固く命じられておりますゆえ、温かい食事をお部屋まですぐに持って参ります。丞相の下へご案内するのは、食事を召し上がった後です」


 常日頃、クローシェの体調管理にはビークが気を揉んでいる。そのビークが休息を取っているせいで、ユニティ随一の管理能力を有するスターシャが、能力を惜しみなく発揮している。しかも、クローシェに強く出られないビークと違い、スターシャとその従者は大きな強制力を持ってクローシェに迫ってくる。宿敵であるアッシュがロギシーンを不在としているのも、スターシャの管理能力向上に寄与しているかもしれない。


 スターシャはおそらくクローシェが何をどれだけ食べたか全て把握している。そして、それは、これからグレータが持ってくるであろう食事内容にも反映されている可能性が濃厚だ。


(寝起きの胃袋には重い皿が持ってこられそうだ……)


 やや身構える気持ちとなりながらも、クローシェは強制給餌(きゅうじ)に甘受の意を示す。


「丞相の気遣いは分かりました。では、食事を持ってきてください」

「御意のままに」


 グレータが大きな身体をくるりと軽く反転させ、厨房に向かって歩きだす。


(御意は御意でも、()()ではなく、()()()()()()御意なんだよなあ……。グレータはスターシャの従者なのだから、間違ってはいないけれども)


 クローシェはゴルティア軍の工作員であり、ユニティのおいては総大将に次ぐ指揮官だ。公私どちらにおいても優秀な人間、“できるヤツ”でなければならない。


 それなのに、こと体調管理においては、誰かが目を光らせなければ“ダメなヤツ”と思われている。しかも、それは印象という段階を過ぎ、覆すのが困難なユニティ一般常識になりかけている。いや、もうなってしまっているのかもしれない。


 不本意かつ失礼千万な常識に対して抱く反発心が、突発的にクローシェの口を突き動かす。


「あ。ちょっといいですか?」

「はい?」


 クローシェに呼び止められて大股歩きのグレータがピタリとその場で止まり、こちらを振り向く。


(うわあ……。本当に呼び止めちゃったよ。いくらビークがいないとはいえ、後から必ず知られてしまうのに……。でも、()()()()()()が固まってしまっているなら、それを利用しないのも(しゃく)だ。ええい、もうどうにでもなれ)


 日頃、軽々しい発言をしないように努めていたクローシェだったが、クローシェに見栄を張らせる専らの原因になっていたビークの不在、という状況が、欲望に忠実な指示を後押しする。


「今日の主菜は、魚以外のものをお願いしたいです」


 意外なクローシェの注文にグレータは一瞬きょとんとした後、声だけは押し殺しながらも身体を震わせて笑い始める。さしずめ静かな大笑いだ。


(通路にグレータしかいなくてよかった)


 頬の紅潮を感じながら、クローシェはグレータの反応をじっと見守る。


 よほど面白かったのだろう。グレータは目の縁に涙を溜め、上ずった声で返答する。


「承知しました。でも……」


(『でも』も『かも』もない。これだけ恥ずかしい思いをさせられたのだ。今日の料理には絶対に魚を付けないでもらう)


 真剣な表情のクローシェをからかうように、グレータはイヤらしい笑みを浮かべて続きを話す。


()()()()で本当によろしいのですか?」


 グレータは大笑いしながらも、クローシェの発言をただの我儘ではなく救難信号のひとつと捉えてくれていた。


 見透かされてしまったクローシェは一層の恥ずかしさを感じつつも、素知らぬ顔で問い返す。


「どうしてそのようなことを聞くのでしょう」

「ふひっ!」


 体面を取り繕うクローシェの質問に、グレータは声を裏返して笑う。もう()()に入ってしまって、クローシェのありとあらゆる反応が面白く感じるようになっている。


 グレータは散々笑った後、妙に真面目な顔を作って言う。


「突然ですが、私事を申し上げます。私は魚料理が大っ嫌いです!」


 グレータの突然の告白にクローシェは面食らう。


 ロギシーンはマディオフ一の漁獲高を誇っている。穀物生産と同様、水産業はロギシーンの特色産業のひとつなのである。


 そんな水産の街ロギシーンでグレータは魚嫌いを大胆に告白した。


 通路に人影は見当たらないが、どこで誰が聞いているか分かったものではない。グレータの告白は、潔い、と表現するにはあまりにも豪放すぎる。


 次将という立場にあるクローシェは、グレータの浅薄な発言に釘を刺すべきだろう。


 しかし、今のクローシェは部下の模範となるべき理想の指揮官ではない。我を通すひとりの人間だ。せっかくグレータがその意を汲んでくれているのだから、最後まで貫き通さぬ手はない。


「気が変わりました。今日だけではなく、当面、ソーヤ( ダイズ )料理を主菜に据えるようにお願いします」


 グレータはクローシェの追加注文を聞き、満足げに頷く。浮かんだ笑みに嘲笑の成分は含まれていない。むしろ、ユニティ次将の我儘を奉迎する喜びに満ちている。


「仰せのままに」


 グレータは一礼し、その場を去っていった。




 自室に戻ったクローシェは安楽椅子の上で手足をバタつかせる。我儘を言った恥ずかしさと、我儘が通った嬉しさの両者が相まり、じっとしてはいられなかった。


 ここのところずっと我慢していた“美味しい食事問題”は思ったよりずっと簡単に消し去ることができた。しかも、命令はクローシェが取り消さぬ限り、半永久的に有効だ。手強い敵を失ったことに、クローシェは嬉しさだけでなく、形容しがたい切なさのようなものもまた感じるのであった。


(どうせなら、もっと早いうちに言っていればよかった)


 クローシェは遠ざかっていくグレータの背中を思い出し、それを見慣れたビークの後ろ姿と重ね合わせる。


 クローシェにとってビークは何の欠点も無い素晴らしい従者だ。しかし、そんなビークですらクローシェの行動選択を縛るしがらみになっていた。ヒトがどれほど立場や環境に影響されやすいものか痛感しながら、しばらく足をバタバタと動かし、ロギシーンの“慎ましい食事”が運び込まれるのを待つのであった。




    ◇◇    




 グレータが運んできてくれた豆が主役の食事は、いつも執務室で食べさせられている“美味しい食事”に比べてずっと素朴で押し付けがましい美味(うま)さがなく、総じてとても食べやすかった。それは単に主菜が魚からソーヤ( ダイズ )に変わっただけではない。味付けに彩り、盛り付けにいたるまで全てが変化を遂げていた。しかも、明らかにゴルティアの方角を意識しての変わり様だ。


 調理部の人間が心を砕いてくれたのは、おそらく今日に限った話ではない。きっと、今までもずっとそうしてくれていた。連日出されていた魚料理にしたってそうだ。あれは何もクローシェを苦しめたかったのではなく、喜ばせたい一心でロギシーンの土地と近海で採れる最も評価の高い食材を使っていたに過ぎない。


 調理者のこれまでの心尽くしを無下に否定してしまったようで、クローシェはソーヤ料理を美味しく感じてしまうことも合わせて罪悪感を胸一杯に抱く。




 食事を平らげたクローシェは、起き出したビークを伴ってスターシャの執務室へ向かう。道すがら、クローシェはビークに聞かれぬように小声でグレータに耳打ちする。調理部の人員への日頃の感謝や、料理に注文をつけてしまったことへの謝罪などを伝言として託すためだ。


 グレータはそれをさも楽しそうに聞いては頷き、前を向いて歩いたまま堂々とした声で話す。


「次将のお言葉は責任を持ってお伝えいたします。ただ、一言申し上げますと、そんなに気配りをなさらなくても大丈夫ですよ。むしろ、次将は気を回しすぎです。皆、次将に感謝しています。戦っているのは戦闘員だけではありません。調理部の人間も、技官も文官も、自分にできる戦いに身を投じています。そして、戦う以上、力になりたい、というのが全員の本音です。次将の本心をほんの少しでも聞くことができて、調理部の人間はむしろ喜んでいたくらいのものです」


 いずれ分かることとはいえ、この場ではビークに聞かれたくなかったから耳打ちしたのに、グレータの無配慮にクローシェは内心、慌てふためく。


「そ、そうなのでしょうか」

「それは間違いありません。それに、私だって同じようなものです。きっと、そっちのビークもそうなのではないでしょうか。私たちは総大将や次将よりてんで弱いかもしれません。正義の心にしたって、長さや重さとしてはかれるものになったら、私なんか多分次将の半分以下です。そんな私でも、人の役に立ちたい、という気持ちは多少なりともあるもんです。次将から見れば、私たちは弱くて情けなくて頼りないかもしれませんが、それでも私たちは力になりたいと願っています。頼ってもらいたいと思っているのです」


 クローシェは、グレータの言葉に影を見る。影と言っても、ウラスの地下“影”のような忌むべきものでなければ、人の心に潜む闇のような影でもない、グレータという人間に影響を与える“日常”のことだ。グレータは日頃、本来の奉公相手であるスターシャから、似たようなことを幾度となく聞かされているのだろう。


 グレータの言葉から、グレータを感化させたスターシャの影を感じ取ったクローシェは、実質上のユニティの頂点としてロギシーンを切り盛りし、アッシュとクローシェを支えてくれているスターシャに深い感謝の念を抱く。


 スターシャの執務室に至るまでのほんの短い道中、クローシェはグレータの言葉を何度も噛み締めた。




    ◇◇    




 クローシェが丞相執務室に入ると、スターシャはすぐに用件を話し始める。


「昨夜の殺傷事件の“犯人”に目星がつきました」


 思いがけない報告にクローシェは驚く。


 クローシェが眠っていたのはたったの数時間だ。昨夜は丸一晩、治安維持部隊が捜査に励んでも、真相究明の有力な手掛かりを掴めなかったというのに、この短時間でスターシャはどうやって大きな進展を得たのか、とクローシェは(いぶか)る。


 無言で説明の続きを待つクローシェに、スターシャは表情を変えることなく淡々と語る。


「事件を起こしたのは“ドメスカ”という古いこの土地の魔物です」


 クローシェが初めて耳にするドメスカなる魔物について、スターシャは簡単に説明する。




 ドメスカはロギシーンにおいて古くから語り継がれている有名な魔物だ。若い人間だと認知率は下がるが、年齢の高い人間の間ではかなり広く認知されている。


 特に、先祖代々ロギシーンに住んでいる者は、ドメスカとの遭遇を回避し、被害を防ぐための習わしを幼少期から幾度となく聞かされて育つ。一転、最近になってからロギシーンに移り住んだ者は、たとえ年嵩(としかさ)であってもドメスカの伝承を知らない。


 伝承は語る。


『雲のない晴れた夜は、決してひとりで夜道を歩いてはならない。愛する相手の姿を借りたドメスカに襲われてしまうから。畜生を一匹で外に出しておいてはならない。爪と牙になったドメスカに命を取られてしまうから』


 ドメスカはヒトを驚かす程度のかわいげのある魔物ではない。ヒトや家畜の命を奪う、多大な実害のある魔物だ。比較的近年にロギシーンに入植した者が、これほど重大な伝承を知らないのはなぜか。


 それは、知らなくても実害がないからだ。知らなくても害がない、知っても益のない古い言い伝えを、他所から来た者にわざわざ教えて怖がらせる、ありがた迷惑な人間はそこまで多くない。


 ドメスカは、もう何十年とロギシーンに現れていない。壮年期からそれより若い人間はドメスカを誰も見たことがないし、中年以上であっても、“自分が遭遇した”という人物はほとんどおらず、『何軒隣の誰それがドメスカに襲われた』という体験談を聞いた者が精々だ。


 ドメスカは名実ともに過去の魔物なのである。そんな現代でも、何の前触れもなく人間や家畜が姿を消すと未だに、『ドメスカさんに持っていかれたに違いない』と口々に噂される。だが、これは現代人がドメスカという魔物をよく分かっていないことの証明でもある。


 ドメスカはヒトや家畜を(さら)う魔物ではない。その場で命を奪う魔物だ。ドメスカが拵えた死体は殺害現場にそのまま残される。誰かが意図的に死体隠しを行わない限り、ドメスカ被害そのもので死体が消失することはない。ドメスカが関与して起こるのは、基本的には殺傷事件であって行方不明事件ではない。




 ドメスカの概略説明が終わり、クローシェが質問を発する。


「その話は誰から聞いたのです」

「情報源は複数です。公的文献に知識人、あとは手配師のデムロもそうですね。治安維持部隊にもそれなりにドメスカを知っている者がいましたが、彼らは誰も昨夜の蛮行の犯人がドメスカとは思い至りませんでした。知っているのに想起できない。実体験の不足が露になったかたちです。情報の確度についてはまだ何とも言えませんが、ドメスカの話そのものが昨日今日作られた悪質な流言(デマ)である可能性はないと断言できます」


 流言(デマ)である可能性をきっぱりと否定されてもクローシェはまだドメスカという魔物の存在に懐疑の念が消えない。


「真新しい作話ではないにせよ、私には、子供が夜に出歩かないようにするため、昔の大人が作り上げた童話にしか聞こえません」

「ただの童話という可能性も限りなく低いでしょう。なにせ、昔はドメスカの出現率を予測することを生業にしていた人間たちがいたらしいのです。ドメスカ予報師とでも言いましょうか。これは専業にするほどのものではなかったようなのですが、過去の雇用統計にはドメスカ予報が可能な(うらな)い師についての注釈があったので、予報師が存在したのは確実です。これだけ証拠があって、子供を躾けるためだけに作られた嘘話と判断するのは無理があるでしょう」


 スターシャの話を鵜呑みにすると、なるほど、そうだ、という気分になる。


 しかし、疑い深い気持ちで聞くと、スターシャの説明は核心的な部分にまるで触れていない。ドメスカという魔物の真の姿や、魔物話にありがちな討伐した後に残る素材、精石などをまるで語らないのだ。


 それなのに、スターシャはドメスカにまつわる話を実話と判断している。仮にスターシャの“判断”ではなく、スターシャという“人間そのもの”を疑うのであれば、矛盾は敢えて指摘しないほうがいいだろう。気になる部分はクローシェが自分で調べる。そのほうがスターシャの虚を衝けるというものだ。


 矛盾は指摘しないながらも、クローシェは懐疑的な返答を呈する。


「そうでしょうかねえ……」

「しかしながら、次将。あなたの従者は、ドメスカ実在派のようですよ」


 クローシェが斜め後ろを振り向くと、突然、引き合いに出されたビークは困惑の表情を浮かべる。


 クローシェは自分の従者に尋ねる。


「ビークはなぜドメスカが実話だと思うのです?」

「そ、それは私の育った土地にも少しばかり似たような話があるからです」


 ビークの出身はマディオフではない。クローシェと同じゴルティアでもない。クローシェは魔物の見識が深くないのだから、初耳の土地固有の魔物などいくらでもある。


 ビークの発言により、クローシェの考えは盛大に揺らいでしまう。


「私の生まれ故郷は盆地にありまして、しょっちゅう霧が立ちます。大抵は白っぽい普通の霧なのですが、たまに紫青色を帯びた霧が立ち込めます。土地ではこれをヘイミストと呼んでいました。この霧を浴びると後に高熱に浮かされることになります。健康であれば、一日ゆっくり休めば治りますがね」


 ビークの目がしきりに上を向く。昔の話を正確に思い出すためだ。


 もしもこういう状況でさえなかったら、不本意な故郷の離れ方をしたビークはどのような雰囲気で言葉を紡いだだろうか、とクローシェは詮無きことを考える。


「ヘイミストが立った場合は出歩かないのが一番なのですが、どうしても用事がある場合は、必ず二人で連れ立たなければなりません。ひとりで出ると、特別な魔物に襲われてしまうためです。二人で出ると魔物に襲われないかわりに、用事が終わってから二人揃って寝込むことになるので、霧が出やすい時間帯に仕事を残さないように計画的に働くことや、日頃から飲食物を数日分蓄えておくことが求められます。魔物は名をシェイドエリミネーターといいます。シェイドエリミネーターは標的に定めた人間の親しい人物に化けて近寄ってくる、嫌らしい魔物です。ドメスカと同じ、いわゆるシェイプシフターの一種ですね」


 ビークの説明を聞き、クローシェの判断は宙ぶらりんになる。シェイドエリミネーターなる魔物をクローシェは知らない。そういう魔物が実在するかもしれないし、全てビークのデタラメかもしれない。目が上を向いていたのは、思い出すためではなく、実は咄嗟に嘘を考えていたせいかもしれない。


 ドメスカにしてもそうだ。スターシャは雇用統計まで引っ張り出してきたのだ。調べればすぐに嘘とバレる嘘をスターシャはつかない。つまり、ドメスカという魔物は過去、実在したのだろう。


 しかし、もう長い年月、ドメスカがロギシーンに出現していない、とスターシャは認めている。消息を絶つには、魔物なりの何らかの理由があったはずだ。それがどうして今になって突然、再出現する。それも、アッシュがロギシーンを発った当日に。これを偶然と呼ぶにはあまりにも不自然だ。


 不自然にもほどがある話を切れ者のスターシャが信じている。そのことにクローシェの疑いは一層深いものになる。


 ただし、問題なのは、タイミングができすぎていることだけで、ドメスカが再臨すること自体は必ずしも不自然ではない。農作物にも魔物にも、旬の時期や発生周期というものがある。クローシェが、『今更になってドメスカが復活するのはおかしい』などと言い出しては、『お前はどこの国の人間なのだ』と誰からも呆れられてしまうだろう。


 そこで、ドメスカ再出現は否定せずに話を前に進める。


「……それで、ドメスカという魔物はどのように見つけ、どうやって討伐したものでしょう」

「特別な対応は必要ありません。夜にひとりで出歩かなければいいのです。現に、最低でも二人以上で行動している治安維持部隊は誰も襲われませんでしたし、戒厳令が出された深夜以降は民間人にも被害が出ていません」


 スターシャが提示する対策に従うことはつまり、日没後、ロギシーンの街から治安維持部隊以外に人の目がなくなることを意味している。民間人の監視力は侮れないものがある。それが失われるのは、“影”が間欠的に噴出するロギシーンにおいて非常に(まず)い。


(夜の世界から人を排除し、ロギシーンの夜を統べた先に“影”の真の目的があるとしたら?)


 ワイルドハントがロギシーンの伝承を隠れ蓑にして街を荒らしているのであれば、本物のドメスカとは異なる部分、(ひず)みが必ずどこかに生まれる。その歪みを歪みと見抜き、ドメスカとワイルドハントを正確に識別するためにも、ドメスカについてより詳しく知っておかねばなるまい。


「なるほど。では、日が出ているうちに、私はドメスカについて更に詳細が記された書物を探そうと思います」

「それには及びません。こちらで鋭意探しています。ただ、ロギシーンに限らずマディオフは焚書(ふんしょ)が盛んだったという国柄があります。王国がこの地を平定する以前の文献はあまり残っていません。実際、残っていた雇用統計は残骸的なもので、解読にはそれなりに苦労させられました。次将には、無駄骨に終わる可能性の高い文献探しではなく、次将にしかできない仕事をこれまでどおりこなしていただきたく思います」


 スターシャの説明にクローシェはこっそりと歯ぎしりする。確かにスターシャの説明は理に適っている。しかし、クローシェを真実から遠ざけようとする作為が隠れているような気がそこはかとなくする。穏やかでいられないのは無理からぬことであろう。


 感情をひた隠しにするクローシェに、スターシャが念押しする。


「次将。何もかも全てひとりで抱え込もうとするのはやめてください。ドメスカの調査は、次将以外の人間でも十分にできます。委ねられるものはできるだけ他者に委ねてください」

「分かっています。ですが、真犯人がドメスカと確定したわけではありません。夜間の見回りは絶対に私も行いますからね」


 決意に(みなぎ)るクローシェの台詞を聞き、スターシャは大きく嘆息する。


「そうやってまた次将は自分の負担を増やそうとする……。ですが、私が無理に止めたところで次将は聞き入れてくださらないでしょう。私の従者を引き続きお貸ししますので、せめて複数人の従者を連れて行ってください。ドメスカを(おび)き出すために次将単独で外出するのは厳禁とします」


 殊更に言わないだけで、クローシェは事件の第一容疑者としてワイルドハントを心中に挙げている。対ワイルドハント戦では、下手な戦闘員は足手まといにしかならないが、従者であれば、その心配は要らない。複数人で班を組んで街を見回ることそのものには特に異論がない。


 不安を挙げるとすれば、スターシャが貸与する従者は、クローシェの護衛や支援ではなく、クローシェの監視を主目的としている可能性が否定しきれないことか。


 ただ、従者による監視を考え出すと、クローシェに唯一専従しているビークの本心から洗わねばならなくなる。真実を追究する魔道具もないのに、それは徒事に他ならないだろう。


「……丞相の心遣いに感謝します」


 クローシェはスターシャの申し出を渋々承諾した。その様をスターシャは不安そうに見つめる。


「私の意見を拒絶はしませんでしたが、かといって納得もしてくれていないようですね。次将は、おそらくドメスカではなく、ワイルドハントの犯行を疑っているのでしょう?」


 こちらの心奥を覗き込もうとするスターシャの慧眼から逃れるべく、クローシェは視線を部屋の隅に逃がす。


「次将が難しい立場にはあることは私も理解しています。しかし、私は次将の力になりたいと思っています。次将を本当におそれさせているもの、そして、それが脅威となる理由を、私にも教えてくれませんか」


 幼子を諭すようなスターシャの顔をチラリと窺う。そこにあったのは、神経質という単語を体現するユニティの丞相ではなく、クローシェという人物を真に憂い、向き合おうとするひとりの人間の姿だった。


「私が秘密をいくつも……たった二本の腕では抱えきれないほどの秘密を抱えているのは、丞相やユニティの人たちを信頼していないからではありません。私には、それしか言うことができません……」


 使い古されたクローシェの逃げ口上を聞かされたスターシャの顔は、諦観を経てから元の無愛想に戻る。


「ドメスカについて記された文献が見つかりましたら私が一読します。有用な情報と判断したら、直ちに次将の執務室まで届けさせます」


 スターシャはそれだけ言うと、口を(つぐ)む。


 クローシェは居た堪れない気持ちでその場を後にした。




 自分の部屋に戻ったクローシェは強引に気持ちを切り替え、日没まで書類の決裁に専念することを決める。日が昇ってから仮眠を取ったため、もう夜は間近だ。決裁し終われる書類は多くない。


 次将としての業務ではなく、クローシェ固有の仕事、特殊治療ならば、ギリギリひとりくらいは成功させられる時間があったかもしれない。しかし、その選択肢は無い。今の精神状態で繊細極まる作業である特殊治療を成功させられる自信など、どこにもない。


 それに、ドメスカがワイルドハントの仕込んだまやかしならば、日没までの平穏はまるで保障されない。日没まで何も事件が起きなかったとしても、特殊治療に励んだ場合、治療を行ったクローシェに蓄積する疲労も無視できない。


 アッシュ率いるストライカーチームが戻ってくるまで、戦闘力が求められる緊急事態にはクローシェが即応しなければならない。“影”がクローシェの不安が生み出した幻想だったとしても、当面、特殊治療には着手できないのである。




 その後、黙々と執務するクローシェの下に、お待ちかねのスターシャからの文献が届いた。


 保存が悪かったのか、文献は金茶色に変色している。手汗のひどい者が愛用していた手沢本でも、こうはならないだろう、という、遠い年月を感じさせる焼け方だ。


 本に触れると、何か性質(たち)の悪い液体が指に引っ付きそうで気色悪くて仕方ないのだが、手に取らないことには始まらない。スターシャによる書き込みがなされた可愛らしい付箋を頼りに、クローシェは本の頁を(めく)る。




 付箋に導かれて効率的に文献を読み終え、クローシェは新たな知見を得た。


 ドメスカはよく晴れた夜に出現する魔物、というのが、文献を読む前のクローシェの認識である。しかし、実際は他にも何らかの出現法則があるらしい。その法則から外れている夜は、空がどれほど綺麗に晴れ渡っていようとも絶対にドメスカは出現しない。


 では、出現法則とは具体的にどのようなものなのか。


 肝心な部分は文献に記載されていなかった。何せ、出現法則は過去の予報師たちにとって大切な収入源だ。門外不出の情報が、おいそれと書物に残されているはずはない。もしも書かれていた場合、そういう書物こそ真っ先に焚書の憂き目に遭う。


 最重要部分こそ分からなかったものの、他にも膨らんだ見識はある。言い伝えは、複数人で歩いていれば、さもドメスカには襲われないように語っていたが、集団行動をすると襲われる可能性は下がるには下がるものの、それでも襲われるときは襲われる、と書には記されている。


 幸いなことに、ドメスカはそこまで強い魔物ではないようだ。ドメスカの形状変化(シェイプシフト)を見抜くことさえできれば、ユニティの戦闘員たちがこの魔物を撃退するのは難しくなさそうだ。ただし、ここでの撃退とは“追い払い”を意味している。


 ドメスカを見つけたならば、追い払うのではなく是非、討伐したい。それが、過去現在に共通する討伐者の想いだ。だが、ごく一部のハンター以外には、この千変万化の魔物を完全討伐することは不可能とされている。これは、専業ハンターの地位や収入向上をねらった著者の嘘かもしれないが、ドメスカを目撃したことのないクローシェや現代人には、記された情報の真偽を直ちに見抜く術がない。


(……となると、ドメスカ事件に“影”が全く絡んでいなかったとしても、これはこれで厄介な問題だ)


 文献を山積みの書類の上に重ね、クローシェは執務室から出る。ちょうど時刻は日没だ。


 沈み行く火輪が放つ輝きによりロギシーンの街は柑子(こうじ)色に染まっている。それはちょうどドメスカの情報が書き記された文献の色を水で少しばかり薄めたような、そんな嫌味な色合いをしていた。

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