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第四〇話 ユニティ 六 治癒院

 治癒院ウラスはユニティ本拠地の庁舎から馬車に乗ってすぐの場所にある。アッシュら一行を乗せた馬車は、ウラスの真正面ではなく、建物から少しだけ離れた場所に停まった。


 今、一行を指揮しているのは、総大将のアッシュではなく次将のクローシェだ。クローシェは、最初にビークを降車させる。


“敵”がどこからどのような手段でこちらの様子を窺っているか分からない。ここは瘴気発生範囲内であり、“敵”の領土と言っても過言ではない。こんな場所でアッシュやクローシェが真っ先に降車することなどできない。


 ビークのクリアリングによって安全が確かめられたら、他の従者、クローシェ、アッシュの順番で馬車から降りていく。




 クローシェはつい数時間前もこの場所を訪れている。ゴブリン対策会議の少し前の話だ。


 その時は、クローシェ自身は馬車から一歩も降りずに荷台の中からあれやこれやと指示を出し、諸作業の全てをビークに行わせた。


 魔境と化した治癒院ウラスに足を踏み入れるのはクローシェもこれが初めてである。


 緊張を自覚しながら地を踏みしめ、ウラスの建物外観を斜めに眺める。何度見ても、ウラスの外観に“異変”前と特別変わったところはない。しかし、心に生まれた恐怖を反映してか、病める者、傷ついた者を癒やすための場所である治癒院が、童話にしか見聞きしたことのない魔王の棲み家に見えてしまう。


(気圧されるな……。そんなものはこの世に存在しない。仮に()()()をそう呼んだとしても、ここにいるのはあくまで片割れ、無数に生えた尾や腕の一本に過ぎない。忌むべき本体の居場所はここではない)


 建物を心行くまで観察したら今度は通り全体に視点を移し、あらゆるものへ注意を払う。建物、通行人、大きめの看板、通りの端に積み上げられた排雪の山。何もかもが“敵”の隠れ場所になる。


 警戒するクローシェとは対照的に、アッシュは飄然(ひょうぜん)とした様子だ。アッシュに限って油断しているとは考えにくい。アッシュの立場は総大将であり、民間人からも部下からも常に視線を注がれる。統率者として鷹揚を銘にしているのだろう。


 アッシュの挙措に倣ってクローシェも落ち着きなく視線を動かすのを止め、視覚以外の感覚稼働率を大幅に引き上げて“敵”の存在を探す。


 ざっと見回した限りでは、治癒院にも通りにも目立っておかしな様子はなかった。クローシェがウラスの建物から感じた禍々しさは具体的に言い表せない印象的なものでしかない。


 少なくとも、アンデッドも髑髏仮面の者もローブ集団もレッドキャット相当の体躯を有する四脚獣も、見える箇所にはいない。通りを歩いているのは、怪しさとは無縁の民間人ばかりだ。


 アッシュ一行は治癒師見習いのピルビットを除き、全員完全武装している。街中でこんな格好をしていたら必然的に人目を引く。一行に集まる視線に不審なものがないか、それとなく探る。


 視線から感じられるのは、民間人が一般に指導者たちに対して抱く純粋な興味や好奇心だ。剥き出しの敵意や尋常とはかけ離れた監視の意は、いずれの視線からも感じ取れない。


 これらはいずれもクローシェにできる精一杯のクリアリングだ。“敵が”変装魔法(ディスガイズ)で一般人に紛れ込んでいた場合、クローシェもアッシュも確実な看破の手段がない。


(建物脇でどれだけ狼狽(うろた)えていても、“敵”に時間的猶予を与えることにしかならない。全ての者に“敵”の息がかかっている。それくらいのつもりでいよう)


 クローシェはクリアリングに見切りをつけ、一行を治癒院の中へ進めさせる。




 受付にいる、恰幅のいい中年の女性にピルビットが駆け寄る。


「ギンガさん、ただいま戻りました」


 ギンガと呼ばれた受付の女性はふてぶてしさのある笑顔でピルビットに応える。


「おや、ピルビット。随分とたくさんのお客さんを連れて戻ってきたじゃないか」


 ギンガは(おもむろ)に立ち上がると、受付台の前に回り込んでピルビットの背中をバシバシと叩く。


 華奢なピルビットの背骨が折れやしまいか、とクローシェはつい余計な心配をしてしまう。


「お客さんたちを見ると、あんた、本当に役所に行ってきたんだね。あんまりあんたが張り切って出かけるものだから、あたしはてっきりビークさんと真っ昼間からいかがわしい店にでも行ったのかと思ってたよ」

「見習いの頂く芳志で、そんなお店に行けるわけがないじゃないですか……」

「それもそうだ」


 ギンガはそう言ってまたピルビットの背中を叩くと、クローシェたちの顔を見た。


「いらっしゃい。クローシェちゃんもアッシュも、ウラスに来るのは久しぶりじゃないか」


 ギンガの応対にクローシェは内心、苦笑する。


 クローシェは治癒師マルティナに“異変”が起こるよりも前、現場士気の高揚を主目的としてウラスを数度、視察している。治癒院の玄関口で全ての訪問者に対応するギンガとは視察の都度、ごく簡単な挨拶をしているものの、『ちゃん』付けで呼ばれるほど踏み込んだ会話は一度だって交わしていない。ギンガは中年女性特有の図々しさで一方的にクローシェとの距離を詰めている。


「傷痍と呼ぶほどの傷痍は幸いにも免れておりましたので……」

「で、今日は何の用だい? ピルビットを連れて行った、ってことは、てっきりマルティナの件を気に留めてくれたんだと思ったけど、連れてきたお仲間の人数とか物々しさを見ると地下瘴気のほうだったかね。あたしも勘が鈍ったもんだ」


 ギンガはギョロンと大きく目を開き、一行を見回して、ガハハと豪快に笑う。


 中途半端にヒトに化けたトード(ヒキガエル)のようだ、とクローシェは思った。


 何が面白いのか笑い続けるギンガに、アッシュが本日の用件を説明する。


「今日は()()だよ。ギンガさん」

「そうかい。軍隊の将軍さんともなると、色々やるもんだね。瘴気のほうはアッシュの得意分野かもしれないけどさ、マルティナの話は軍のお偉いさんが首を突っ込むようなもんじゃないと思うよ、あたしは」

「色々とやるのは色々と事情があるからさ。マルティナさんの身に降りかかった困難に共に対応するのも、懐深くあるべきユニティの努めだ」


 ユニティは確かに戦う力を保有し、アッシュもクローシェもその戦力の一部となっている。しかし、必要に迫られて戦力を保有しているだけであり、ユニティの本質は軍隊ではない。


 ユニティを軍隊呼ばわりするギンガの言葉に反発を覚えながらも、古くからのアッシュの知人であるギンガの言葉尻をとらえるような真似はぐっと(こら)える。


「ふーん……。まあ、あたしには難しいことなんか分からないさ。でも、そんな物騒な格好をしてゾロゾロとマルティナの治療室へ行くのはやめておくれよ。行くんなら、クローシェちゃんかアッシュひとりにしな」

「それはできません!」


 できるかぎり口を挟まずにいようと思っていたクローシェだったが、マルティナと接触する人員をギンガが絞ろうと言い出したため、反射的に介入してしまった。


 ギンガは過熱気味のクローシェを見て、不思議そうな顔をする。


「あら、なんで?」

「詳しくは話せません。私たちは種々の事情があって、相応の準備をしてこの場所に来ているのです。どうか()んでくださるようお願いします」

「汲むも何も、その事情ってやつをあたしは説明してもらってない。話してみなよ。内容によっては、あたしたちだって協力するさ。何もかにも内緒でやろうとするより、ずっと上手くいくと思うよ」


 黙って通せばいいものを、ギンガは治癒院ウラスの責任者でも何でもないのにユニティの行動に説明を求める。ギンガのお節介さが、今は悪い方向に作用している。


「怪我して担ぎ込まれたんじゃないんだからさ。治癒院ってのは軍人が何人も泥靴で押しかけて来るべき場所じゃないんだよ。気にかけてくれるのはありがたいけど、今日は地下の瘴気だけ何とかして、それで終わりにしたらどうだい? ねえ、アッシュ」

「うーん……」

「総大将っ!!」


 アッシュはギンガの勢いに簡単に押し流されそうになっている。


 クローシェの脳裏に、この不順な流れを()き止めて変えるための手段として、強権の発動がチラつく。


 後々の民の忠心を考えると、民間の協力を求める際は強制手段をできる限り取らないほうがいい。しかし、入り口も入り口で受付嬢に足止めされてしまっては、本題に取り掛かるまでどれだけ時間がかかるか分からない。


 クローシェは万難を排する魔法の言葉を口に出す。


「ユニティは本日本時刻をもってシュピタルウラゾエを――」

「傷病者の受け入れ窓口で何を騒いでいるのです!」


 クローシェの徴発令は、大喝一声に遮られた。


 ギンガの後方からひとりの女がヌルりと姿を見せ、こちらに近づいてくる。


「治癒院には喧騒よりも閑静が相応しい」


 女が鳴らすコツリ、コツリという足音は、全く大きなものではないというのに、数百、数千の軍靴が立てる足音以上の底知れぬ威圧感がある。


「そうは思いませんか。ユニティのお歴々」


 ギンガの肩に優しく手を乗せて、その場に現れたのは、話題の中心人物、マルティナその人だった。


 従者たちが即座にアッシュの周囲を間隙(かんげき)なく固め、クローシェの前にはビークが立つ。


 ビークの背後からマルティナの顔を覗くと、従者たちが作り上げる防御円を眺める彼女は、一行を小馬鹿にしているような薄い笑みを浮かべていた。


 クローシェはそのままマルティナをしげしげと観察する。


 顔貌(かおかたち)は、なるほど以前の彼女と同じだ。しかし、その目には常人にあらざる覇気と、ともすれば傲慢にも思える自信が波打ち繁吹(しぶ)いている。


(これが新しいマルティナ……。見た目は同じでも、雰囲気は全くの別人だ)


 先程の歩様にもどこかおかしなところがあった。武芸を嗜まぬ者にしばしば見られる不格好さは全くなく、足音がして姿が見えているのに、どこか実在が危ぶまれるような虚ろな感じがした。


 装備には不審な点がない。冬の空気が流れ込む受付の寒さにも耐えられるよう、着脱容易な防寒衣を上に軽く羽織り、中はごくありふれた薄手の診療衣を纏っている。両の手は空で武器を持っている様子はないが、治癒師が治療に用いる尖刃や剪刀、あるいは鉗子ですら暗器として十分に用をなす。それらはいずれも防寒衣の下や診療衣の衣嚢(ポケット)に簡単に収まる以上、見た目に武器が無いからといって油断はできない。


 マルティナは誰も伴わずにこの場に現れた。待合室からこちらを窺う先客たちにも不審な動きはない。“敵”の数は、今のところ、一行の真正面に立つマルティナひとりだけだ。


 クローシェが合図を出すと、従者たちがソロリとアッシュを守る防御の円を緩める。


 マルティナは、従者たちの陰にアッシュの姿を見つけると、これ以上ないほど顔を綻ばせた。それは、邪悪さなど一片も伴わない澄んだ笑みだった。遠方へ出稼ぎに行った伴侶と再会したとか、数十年ぶりに親友と邂逅を果たしたかのような、心底からの喜びの表出だった。


(な……なんだ? 私の想定していた反応と全く違うぞ。記憶喪失が真にせよ偽りにせよ、なぜこのような表情でアッシュを出迎える!?)


 クローシェは誰にも届かぬ声なき声で驚愕を叫ぶ。


 マルティナはそんなクローシェをチラとも見ず、そのままハラハラと涙でも(こぼ)しそうな顔で、それでいて朗らかに声を発した。


()()()()ですね、アッシュ将軍」

「あ、ああ……。ご無沙汰しています」


 マルティナが見せる不可解な表情を受け止めきれていないのは、クローシェだけではなかった。マルティナに返事するアッシュも大いに戸惑っている。


「今日の御用は何でしょう。どこか怪我でもなさいましたか。それとも、またシュピタルウラゾエの視察でしょうか?」


 口調は丁寧でも、マルティナの態度にはまるで(へりくだ)るところがない。かといって敵対的でもない。表情から身振りから、情緒豊かに歓迎姿勢を示している。予想に反したマルティナの奉迎という異常事態に、その場の全員が飲み込まれてしまっている。


 アッシュとクローシェというユニティ最強戦力の二人に加え、腕利きの従者たち多数がこの場にいるというのに、それらを前にしてもマルティナは一切動じる素振りがない。


(アッシュ以外の誰も見えていない? あるいは見えていても、路傍の石程度にしか認識していない? それほど自分の実力に自信があり、その気になればこの場の全員をたちまちのうちに殺せる気でいるのか……)


 あまりにもこちらを堂々と無視するマルティナに、クローシェは色々と恐ろしい憶測をしてしまう。




 アッシュは頭の中で何事かを考え悩んでいるのだろう。何用か、というマルティナの問いに返答せずに黙り込んでいる。


 そんなアッシュに代わってクローシェが答える。マルティナの圧迫感(プレッシャー)に押し負けぬよう、腹に力を込めて声を絞り出す。


「質問にお答えする前に……『久しぶり』とはどういう意味なのです、マルティナ先生?」


 感動の再会を邪魔されたマルティナから笑顔が消え、露骨なまでの(しか)め面でクローシェの方を向く。


 マルティナは、ビークの背後から覗かせたクローシェの顔を見た途端、またしても予想外の反応を呈する。


 マルティナの表情を一言で語るならば、それは“困惑”だった。驚きでも、怒りでも、落胆でも、拒絶でもない。まるで何年も前に死んだはずの人間とばったり道で出くわしたかのような、得も言われぬ表情を浮かべ、目を点にしてクローシェを凝視している。


(この反応も想定外だ。マルティナはどうしてこんな顔で私を見る。そこに何の意図がある)


 マルティナとウラスの地下に蠢く“影”が、アッシュやユニティをここに(おび)き出すことを目的していたとしよう。


 ひとりひとり順番に殺害することが狙いならば、アッシュとクローシェが同時にこの場所を訪れたことに憮然となるとか、腹を立てたとしても矛盾はない。


 しかし、誘引と殺害が目的では、マルティナの表情に説明をつけられない。“影”の正体云々よりも、マルティナの表情の理屈を、クローシェは知りたくて(たま)らない。


(“影”の正体を暴いて目論見を妨げるどころではない。謎は一気に深みを増してしまった。これから私の能力で謎を解けるのか? いや、多分無理だ。今日の訪問は失敗だ……)


 謎の解法を求めて思考を巡らせながら、クローシェはマルティナの返事を待つ。


 マルティナは、というと、目を見開いて立ち尽くしたまま質問に答えようとしない。


 重ねて同じ質問をすべきか、それとも何か別の切り口で攻めてみるべきか、クローシェが次の言葉を思案していると、最も期待していなかった人物が言葉を発した。


「確かにそうですよねー。マルティナ先生は将軍のことを覚えているんですか?」


 白々しくマルティナに尋ねたのはピルビットだった。演技の下手さときたら目を覆いたくなるほどではあるが、この細枝のような青年は、彼なりにマルティナ、ユニティの双方に気を遣ってくれたのかもしれない。


 意外な人物から出された助け舟に驚きつつも、クローシェは瞠目してマルティナの反応を窺う。


「覚えているもなにも、狙った獲物は逃さない。どんな女でもハントしてみせる。最高八股までかけたことがあるミスリルクラスのハンター、アッシュさんですよね。違います?」


 困惑のまま静止したマルティナは何処やら。ピルビットの一言で落ち着きを取り戻したマルティナは、さも当然のようにアッシュの悪事を暴露した。


 アッシュが血相を変えて反論する。


「ちょっ……何を言うんだ! それはイオスが言っているだけのデタラメだ」

「そうでしょうか。過去の逸話は虚で簡単に糊塗(こと)できてしまいます。では、現在の話はどうでしょう。そちらの女性とはどのような関係なのです?」


 マルティナは楽しそうにクイ、クイとクローシェに向かって顎をしゃくる。


 アッシュは瞑目し、眉間に皺を寄せて頭を左右に振る。


「もうそういう話はやめてくれ。ここ数年……いや、十年以上はそんなからかわれ方をしていないのに……。先生は一体、誰からその話を聞いたんだ……」

「アッシュ将軍が立場のある方になったから誰も目の前で言わなくなっただけですよ。今でも皆、知っています。大元であるイオス・ヒューラー教授が請負広告業から手を引かぬ限り、噂が立ち消えることはおそらくないでしょう」

「誰から請け負っているんだよ。あいつだけは本当に仕方がないな……」


 マルティナはアッシュの反応ひとつひとつを味わい楽しんでいる。


 そんなマルティナを見ながらクローシェは考える。


 アッシュの派手な女性遍歴は有名だ。優秀なゴルティア諜報部の身辺調査により、クローシェはアッシュにまつわる噂の数々とその詳細を知っている。そんなクローシェでも、アッシュが八股という巨悪に手を染めていた、とは知らなかった。


 八股関連の話が、もしもアッシュとイオスの間でしか語られていないものであれば、マルティナにそれを伝えた情報源の属性はかなり特殊なものということになる。


(悪趣味な()()()()なら、それも不思議はない……のか?)


 摩訶不思議な遣り取りを重ねる二人に、またもピルビットが口を挟む。


「先生……。もしかして、本当に記憶が戻ってます?」


 ピルビットにはもう演技臭さがない。マルティナとユニティとの間で会話に詰まったわけでもないのに、なぜ再びピルビットが会話に挟まってくるのか、クローシェには理解できない。単に空気を読めていないのか、それとも読めたうえで敢えて無視しているのか、微妙なところだ。


「生憎と記憶は戻っていません。しかし、アッシュ将軍が視察名目で先日ウラスを訪れてくれた事実は知っています」

「えー。記録を見れば訪問の事実は分かるかもしれませんけれど、さっきの表情は将軍の顔を覚えていた風でしたよ?」


 クローシェでは尋ねづらい部分に、ピルビットは遠慮することなく食いついていく。


 憎たらしい質問をする治癒師見習いにマルティナが答える。マルティナの浮かべる笑みは少しだけ皮肉っぽさがあるものの、物腰は(こと)(ほか)柔らかい。


「忘れてしまっても思い出せますよ。なにせ、アッシュ将軍の尊顔を正確に模した青銅像がすぐそこに建立されているではありませんか」

「てへへ、そうでしたー」


 アッシュの青銅像が建っている場所は治癒院ウラスから目と鼻の先で、ロギシーンではちょっとした名所になっている。青銅像が邪魔で御者が馬車を転回させるのに少し苦労していたため、クローシェにとっても青銅像の存在は記憶に新しい。


 英雄を称える青銅像は、本人にとって快いものではないらしく、アッシュは顔をグローブで覆って無言で俯いている。このまま静観していても、アッシュがマルティナから有益な情報を聞き出すことはなさそうだ。


 クローシェはアッシュを見限り、再度自らマルティナに質問する。


「それは記憶を喪失した証明にはなりません。あなたは本当に記憶を失っているのですか?」


 クローシェの攻撃的な物言いを受け、マルティナが小さく咳払いしてから威儀を正す。


「失礼ながら、今、私に質問なさったあなたはユニティ次将のクローシェ・フランシスさんで合っていますでしょうか?」

「はい、そうです」


 マルティナは向こう意気の強そうな目でクローシェを真っ直ぐに見据える。


 どのような言い逃れを聞くことになるだろうか、とクローシェは緊張しながらマルティナを見返す。


「申し上げたとおり、私はアッシュ将軍と会った時の記憶がありません。こちらでは皆さんに良くしていただいておりますが、それでも記憶喪失というのは不便(ふべん)なものでございます。そこで、人に尋ねるなり記録を読むなりして、改めて様々な近日の出来事についての情報を獲得しています。アッシュ将軍の為人(ひととなり)は言わずと知れていますし、顔貌は青銅像を見れば分かります。『久しぶり』と言ったのは、記憶があるからではありません。私なりに状況を踏まえただけのことです。混乱させたのでしたら申し訳ありません」


 滔々(とうとう)と語られるマルティナの逃げ口上にクローシェは内心で歯噛みする。


(違うな……。それでは、あの表情を全く説明できていない。多少の揺さぶりでマルティナから()()を導き出すのは無理そうだ)


 マルティナの返事にはクローシェの聞きたかった部分がこれっぽっちも含まれていない。言葉数をかさ増しして既知の内容を繰り返しているだけで、新たな情報が全くないのだ。


 この手の輩は切り口を変えても、のらりくらりと躱し続ける。これ以上同じ質問を繰り返しても時間の浪費にしかならない。


「そうでしたか。それは失礼しました。恥ずかしながら切迫した事情があり、礼を失した尋ね方をしてしました」

「いえいえ、お気になさらず」


 マルティナは美しく首肯してみせたが、表情はなぜか少しばかり不満気だった。


 マルティナとクローシェの会話を単純化すると、こういうことだ。




 クローシェは遠回しに、『お前は記憶を失ってなどいないだろう?』と指摘した。


 マルティナは、質問への回答を拒否した。


 そこでクローシェは、『答えたくないのであれば、答えなくてよい』と、質問を引き下げた。




 非協力的なマルティナにクローシェが譲ってみせたというのに、なぜか譲られた側のマルティナが不満を(あらわ)にする。


 謎の存在だったマルティナは、目の前にすると一層不可解である。




 クローシェが考え込んでいると、マルティナのほうから口を開く。


「では、最初も最初の問いに戻りましょう。本日は何をお望みでこちらに足を運ばれたのです。アッシュ将軍は押しも押されもせぬユニティの総大将。将軍様が私のような下女(げじょ)と接見なさろうというのですから、何か大切な用事を抱えていらっしゃるのでしょう。どこか見えぬ場所に快癒の得難い傷痍でも負ったのか、あるいは、瘴気に関しての内密な相談か……」


 クローシェ自身、少々見失いかけていた本題……の少し手前の部分にマルティナのほうから切り込んでいく。そこへギンガが水を差す。


「どこも身体の不調はない、ってさ。アッシュは先生とお話しがしたいんだと。将軍様だけあって、たくさん付き人を従えてね。マルティナ先生の腕を頼って来たんじゃないなら、お断りしようとあたしは思ったんだけどね」

「総大将ともなると、望む望まざるにかかわらず、身動きの自由がなくなるものです。従者無しにはどこへも出かけさせてもらえないのでしょう。召喚するのではなく、将軍のほうからお運びいただいたのです。院長に話を通してあるならば、私は謁見に謹んで応じます」

「無理しなくていいんだよ。マルティナ先生」

「無理も何も、対話を望んでこちらにいらしたのであれば問題は皆無です。もしも対話以外の()()を所望されているのであれば話は変わりますが……」

「そのまさかです」


 迂遠な駆け引きをしても相手の調子に飲み込まれるばかりになりそうだ。上手く流れに乗って話を進めることを諦めたクローシェは大胆な賭けに出る。


「あなたの身体を私に調べさせてほしい。あなたの身に降りかかった困難を私であれば取り除けるかもしれない。私は今日、そのためにここウラスに来ました」


 もはや、()()は確定手段にならなさそうではあるが、それでもここまで来て手ぶらで帰るわけにはいかない。


 適当な流れのないまま示されたクローシェの提案に、マルティナの顔が邪悪な笑みに歪む。


「困難? あなたは火傷の……」


 マルティナは言葉を途中で飲み込み、顔を俯けてひとつ咳払いした。


 そして、再び(おもて)を上げた時には、重ね塗られた作り笑いによって黒い微笑が覆い隠されていた。


「失礼しました。フランシス将軍が畏懼(いく)すべき能力をお持ちだったことを失念しておりました。不肖の身にご高配を賜り、身に余る光栄と存じております」


 慇懃無礼とは正に今のマルティナだろう。


 アッシュに対しては、やや礼を欠きながらも至って友好的だった。それなのに、クローシェに対しては著しく距離を置く。過剰なまでの丁寧語は、本音での対話を拒絶しているに等しい。


 アッシュから見たスターシャは、こんな感じなのかもしれないな、とクローシェは思った。


「天の濃漿(こんず)の如き授かりものなれば、謹んでお受けいたします。高貴な方々を奉迎するに適した場所はございませんが、直ちに準備を――」

「いえ、迎賓の礼など無用です。このままあなたの治療室に行きましょう。準備から全てをこちらが執り行います」


 ウラスの訪問は罠が仕掛けられた敵地に突入するようなものではあるのだが、それでも予告なく訪れるからこそ、僅かなりとも意味が生まれる。それを、むざむざ相手に準備させる時間を与えてはならない。


 もしもマルティナが()()に身を冒されているのであれば、クローシェの要求を拒絶する可能性が高い。


 瞬きのひとつすら見落とさぬように、クローシェはマルティナの反応を注意深く観察する。


「左様でございますか。将軍方は多忙の身。分秒を大切にしていらっしゃるのでしょう。それでは、私めの治療室にご案内いたします」


 マルティナがくるりと反転し、ウラスの奥に向かって歩いていく。


 迎賓の体を崩さぬマルティナだったが、後ろを向く直前、笑顔の仮面の下からは異体の喜びがそこはかとなく漂っていた。


 今も彼女の背中は哄笑を(こら)えているかのような独特の感があり、獲物に食らいつく直前の垂涎(すいぜん)する魔物を思わせる。


 賭けに出る場合、冒す危険に見合った見返りが求められる。危険地帯であるミリエ通りの中でも最大の火中がウラスの地下で、次いで灼熱が燃え盛っているのはマルティナの治療室だ。


 そこに行くのだから、願うところはマルティナの状態の“確定”だ。しかし、マルティナはクローシェの申し出を拒絶しなかった。となると、“確定”させられる可能性はとても低い。


(やらないわけにはいかないのに、やったところで、私の推測が外れていた、という結論しか得られる見込みがないとは……)


 今にも跳んで駆け回りそうなほど軽い歩様のマルティナの後ろに、ユニティ一行が続く。


 状況がいかに切迫しているか理解していないピルビットが蚊の鳴くような声で(つぶや)く。


「マルティナ先生がフランシス将軍の“治療”を受けてどうするんだろう。王族の呪い(ロイヤルカース)に冒されているわけでもないのに、時間の無駄じゃないかなあ?」


 口を滑らせるピルビットに従者のひとりが目配せする。


 察しの悪いピルビットは目配せの意味を即座に理解しない。


「えっ? どういうことですか? マルティナ先生の記憶喪失って……。えっ、そうなんですか……? マディオフ王家の方に会ったこともないのに?」


 黙れ、というのに、言わなくてもいい部分までピルビットはペラペラと喋る。


「この場所で話すべき内容ではありません。しばしの間、沈黙を()としていただくようお願いします」


 振り返ったクローシェにギロリと睨まれ、ようやくピルビットは口を閉じた。


 お喋りな治癒師見習いの沈黙を、身振り手振りを交えて二重三重に確認してからクローシェは再び前方を見る。ユニティを案内して先を歩いていたはずのマルティナは、ユニティが立ち止まっていることに気付かないのか、通路のずっと奥まで行ってしまっている。物理的には小さく見えているはずなのに、無限の巨大さを感じさせるマルティナの背中をクローシェは足取り重く追うのだった。




    ◇◇    




 そう広くはない治療室の中にマルティナ、ピルビット、クローシェ、アッシュ、そして従者数名が入り込む。肩と肩がぶつかるほどに密集してしまっては、いざ動くべきときに動けない。入りきらない従者の一部は、治療室の外や隣室で警戒に当たらせる。


 治癒師であるマルティナが、治癒師用の柔らかい上等な椅子ではなく、患者用の固い丸椅子にふわりと腰掛ける。


 マルティナは、目の前に立つクローシェを見上げて話す。


「治療を受けるのですから私が患者ですね。治療姿勢はこの椅子に座った状態で構いませんか」

「いえ、そちらの寝台を使いましょう。上を向いて寝転がってください」


 クローシェの指示を受け、マルティナは椅子から寝台へするりと移動し、仰向けに横たわる。


「これでいいですね」

「ええ。では、我々が用意した道具で全身を拘束します」

「拘束?」


“特殊治療”の前準備を聞き、マルティナが寝台上でガバと身体を起こす。


 思いがけないタイミングでマルティナに抵抗姿勢を見せられ、クローシェは不覚にも驚いてしまい、胸が途端に早鐘を打つ。


 マルティナは厳しい目つきで重ねて問う。


「なぜ拘束が必要なのです? あなたが行う治療はそれほど痛みを伴うのですか?」


 マルティナの質問はクローシェに混乱を誘う。


(なぜ今更抵抗する? 分かったうえで“治療”を望んだのではないのか? 零に限りなく近いところまで低下した可能性が、今になって上昇する。私は何か間違っているのか?)


 クローシェが返答に窮していると、マルティナは質問を変える。


「あなた方がここに来たのは、私に精神治療を行うためではなく、治療と称して拷問を行うためだったのでしょうか?」


 マルティナの冷え切った声には明確な敵意が込められていた。


 マルティナがゆっくりと寝台から降りようとする。


(私は戦う覚悟をしてここに来た。それでも、この戦いの始まり方は望んだものではない。何かを……私もマルティナも、お互いに何かあらぬところで勘違いをしている!)


 手の内は、相手に全て晒してはならない。しかし、過度に隠してしまっても適切な誘導の妨げになる。願うところは、“確定”した後の戦闘開始であり、たとえそれが無理だとしても、スキルを以て確かめぬうちは戦いを始めたくない。


 晒したはずの持ち手が相手によく見えていなかった可能性に思い至り、クローシェは慌てて持ち手の一部を更にハッキリと言明する。


「ち、違います! 私がこれからやろうとしているのは拷問でも、通常の治癒師が扱う回復魔法でもありません。私が行うのは“呪破”です!」


『呪破』という単語がクローシェの口から飛び出した瞬間、マルティナの動きがピタリと止まる。


「呪破……? どうしてそうなる……? 精神を癒やす回復魔法は使えないのか?」


 マルティナは独り言としてはありえないほどの声量で途切れ途切れにそう言うと、瞑目し、片手で自分の前頭部を抱えるようにして悩み始めてしまった。残る片手は顎先に添え、見えない髭で手慰みするかのように指先を動かしている。


 自分を取り囲むユニティに構いもせず、いきなり自分の世界に没入するマルティナに、発語の禁を破ってピルビットが話し掛ける。


「マ、マルティナ先生?」

「あー、ごめんね。ちょっと静かにしてて。今、()()()は大事なことを考えてるから」


 ぶっきらぼうだが、どこか優しいマルティナの口調にクローシェは真実の片鱗を垣間見た気がする。


(口調の突然の変化……。これでは本当に解離性障害だ。本当の本当に普通の精神障害なのだろうか?)


 もしもマルティナが冒されているのが本物の精神障害だとすれば、クローシェに特段できることはない。治癒師たちから見合った治療を受けるなり時間が経過するなりして快癒することを、ウラスの外から“お祈り”するだけだ。




 しばし難しい顔で深思に暮れていたマルティナが、何かを割り切ったような顔となって口を開く。


「フランシス将軍は記憶喪失という病身を押して治療に携わっている私のことを報告で聞いた。そして、『治癒師マルティナは病に倒れてなお、王族の呪い(ロイヤルカース)の強制力によって無理矢理治療をさせられている』とお考えになった。そういうことですね?」


 マルティナの言葉には“棒読み”の感がある。事前に認めた文を読み上げるとか、あるいは誰かに耳元で(ささや)かれた内容をそっくりそのまま復唱しているかのような、“言わされている”感じがあるのだ。


 いずれにしても、マルティナの解釈はクローシェ側の考えとは少々異なっているが、それでも乖離の幅はかなり狭まってくれた。


「微妙に解釈の相違はありますが、大体そんなところです」

「承知しました。(くつわ)でも(かせ)でも、何重にでも施してください」


 言うが早いか、マルティナは寝台の上に投げやりに横になった。表情からは、やる気や、こちらへの関心といったものが毫末(ごうまつ)も窺われない。


 これはもう王族の呪い(ロイヤルカース)がどうとか、クローシェを信頼しているとかいう次元の話ではない。


(なぜ、これほどコロコロと感情が変化する。もう、そういう精神障害を患っているとしか思えない)


 クローシェは“敵”と戦うためにここに来た。戦闘を開始するには踏むべき手順がある。絶対に外したくない手順は、敵を敵と“確定”させる作業だ。信頼の置ける確定手段は唯一、クローシェができる“特殊治療”、呪破だけだ。


 マルティナはおそらく“呪破”が呪いのみならず、幅広い病に効果を発揮すると勘違いしていたのだろう。“呪破”の名が示すとおり、クローシェの特殊治療は対象が呪いに冒されていた場合にしか効果を発揮しない。


 マルティナが精神障害を発症していたとか、呪い以外の何らかの手段で洗脳されていたとか、あるいはマルティナが偽物とすり替わっていた場合、ユニティは確実に看破できる手立てがない。


 クローシェはこれまで多くのマディオフ軍人と衛兵に特殊治療を行ってきた。そのいずれを思い返しても、マルティナのような反応を呈した例は無い。


 しかし、決めつけは思わぬ失敗に繋がる。王族の呪い(ロイヤルカース)にも別種、変法のようなものがあるかもしれない。そういう変法が実在するならば、マルティナの奇妙な反応も呪い由来のものとしてなんとか了解できる。


 では、そういう変法の呪いをクローシェは打ち破ることができるのか。


 それは、やってみなければ分からない。できるかどうかではない。やるしかないのだ。クローシェは改めてマルティナの身体を調べる決意を固める。


「ご協力に感謝します。では、負担をかけますが、治療準備を行います」


 クローシェの合図に従い、ビークら従者たちがマルティナの身体を拘束していく。


 拘束される側のマルティナは、正気を失ってしまったかのようにぼんやりと天井を見つめていた。

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