表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
166/214

第三九話 ユニティ 五

 ユニティ総大将のアッシュ、次将のクローシェ、丞相のスターシャ、そして彼らの従者たちが集った会議室で、終わりの見えない独演が続く。雄弁を振るう演者は、ウラスから招かれた治癒師見習いのピルビットだ。


「新マルティナが送る日々はいいことばかりではない。確かに新マルティナは日を追う毎に発言力を増していき、それに伴って反発もまた大きくなる。ある日、マルティナはこんな提案をした。治療時の陪診者を増やしたい――」


 パンパンと二回、手を打つ音が会議室に鳴り響いた。


 ピルビットは目を真ん丸に見開いて音の主を見やる。


「はいー、ちょっと止まりましょっか。ピルビットさん」

「はいっ!?」


 暴走するピルビットを止めたのは、彼に独演を始めさせた張本人のクローシェだった。


 ユニティ総大将のアッシュを前にしたピルビットは、喋りだしこそ緊張した様子だったが、途中からの入り込みようは凄まじかった。ピルビットの流した滝汗が、彼の熱の入れ具合を如実に証明している。濡れた汗に輝くピルビットの姿は、あたかも漫談を一本()り終えた若手芸人かのようだった。


 熱く語ってくれるのは構わない。しかし、時間がかかるのはいただけない。ピルビットの独演は、クローシェが治癒院ウラスの前で聞き取り調査を行った時よりも何倍も長くなってしまっている。ここまで微に入り細に入り話すようクローシェは頼んでいない。


(ロギシーンの英雄であるアッシュに直接報告をする、という大役を任されて舞い上がってしまったのかなあ? ううん、違う。多分ピルビットは……)


「丁寧に説明してくださるのはありがたいのですが、生憎とロギシーンは緊迫した状態にあります。特に時間は本当に無いのです。先程と同じように(つづま)やかにお願いします」


 逆上(のぼ)せているピルビットに頭を冷やさせるべく、クローシェは少しだけ冷たい言い方をした。


 ピルビットはそれを聞いて、より一層の大汗をかく。今度、出てきたのは冷や汗のようだ。


 ピルビットは諦めきれないのか、汗を滲ませながらクローシェに食い下がる。


「で、でも、ここからがいいところなんです。実は、まだフランシスさんにもお話ししていない内容が――」

「それ、もしやウラス内での権力争い的な話ではありませんか?」


 噺の先を言い当てられたピルビットは絶句する。




 ここまでピルビットの話を聞いて分かるように、ピルビットはウラスの治癒師たちに対して多分に思うところがある。ズバリ言ってしまえば、その思いとは“不満”だ。


 ウラスの上司たちに漏らさなかった秘密話をピルビットがユニティの幹部陣にこうも丁寧に打ち明ける理由。それは、おそらくピルビットが勘違いしているからだ。


 ピルビットの勘違いは、きっとこんなところだろう。


『ユニティは新マルティナをウラスから引き抜こうとしている。どうせ引き抜かれるなら新マルティナだけではなく、新マルティナが組織しつつある派閥ごと引き抜かれるほうが望ましい。それに便乗すれば、自分も引き抜かれた先で今まで以上に伸び伸びと治療ができる。それこそ治癒師見習いではなく、治癒師として』


 ピルビットが噺の中で、あえて大事な部分を伏せているのもその根拠になる。知り得た情報の全ては話さず、核心中の核心を秘密のままにする。謎を解くための鍵は一括売却せず、段階的に売却する。こうすることで、ピルビット自身の価値を高めようと目論んでいる。


 しかし、クローシェもユニティも、新マルティナと彼女の危険な魅力に惑わされつつある治癒師たちをウラスから引き抜くつもりは毛頭ない。そんなことをしてウラスから恨みを買ったところで何になろう。


 新マルティナは禁忌そのものだ。苦い新薬のように見える一面を持ってはいるものの、内実は純粋毒だ。これを引き抜こうものなら、ユニティはそれを体内に取り込まずとも、引き抜くためにマルティナを掴んだ手から身体が見る間に腐り果ててしまうであろう。




 上手く隠しおおせていたはずの秘密をズバり言い当てられたピルビットがキョロキョロと室内を見回す。


 ユニティの要請の真意を理解せずに演じられるピルビットの長噺を()んでいるのは、なにもクローシェだけではない。スターシャやアッシュ、従者たちも白眼視に近い視線をピルビットに送っている。


 ()()()()てしまったこと、そしてなにより求められているのは情報であって、自分自身ではない、という現実をまざまざと突きつけられたピルビットは、真っ青になって俯き、そのまま黙り込んでしまった。


 そんなピルビットに対し、アッシュが泣いた子をあやすような優しく穏やかな声で尋ねかける。


「人ってのは記憶を失うと、ここまで変わることがあるものなのか?」


 問われたピルビットは青白い顔のままボソボソと返答する。


「か……解離性同一性障害とは違い、純粋な全生活史健忘において極端に性格が変わることはどちらかというと少ないようです」

「その解離性同一性障害とはなんだろう。教えてくれないか」


 アッシュは返答容易な質問をピルビットに重ねる。答えやすい質問を繰り返すことで、悄然となってしまったピルビットを落ち着かせようとしている。


「俗に言う二重人格とか、多重人格というものです。しかし、ある程度の性格変化であればむしろ解離性障害全般における典型的症状とも言えるため、多重人格と全生活史健忘の二つを区別するのは、現実には難しいところがあります。マルティナの変化はもしかすると皆さんには甚だしいもののように聞こえるかもしれません。ですが、多重人格を念頭に置くのであれば、この程度は極端な変化には該当しない、多少の変化の範疇にあるように思います」


 補足説明を受けたアッシュは目をギュウと瞑って鼻息をひとつ吐く。


「素人の俺には、マルティナさんが患っているのは多重人格であってもおかしくないように思える。治癒師からみると違うものなのか?」

「この問題を分かりやすく簡単に説明するのは難しいです。少し長くなってしまいます……」


 ピルビットは自信なさげにそう言って、チラリとクローシェの顔色を窺う。


 せっかくアッシュがピルビットに話す気を取り戻させたのに、ここでクローシェが、『約やかに! 簡潔に!』と復誦(ふくしょう)しても、ピルビットを三度(みたび)縮こまらせることにしかならない。


 クローシェは仕方なく、なるべく柔和な表情を作って小さく(うなず)き、手振りでピルビットに説明を続けるよう示す。


 クローシェの了承が得られたピルビットは、それでもまだビクビクとした様子でアッシュを向いてボソボソと語る。


「解離という現象は大なり小なり誰にでも起こるもので、特別に珍しいものではありません。しかし、解離性同一性障害となると頻度はかなり下がります。この疾患の特徴は反復する人格交代ですが、“人格”とは治癒師からしても極めて曖昧で、具体性のないものであり、時に恣意的に解釈、あるいは形成されうるものでもあります。特に、『解離性同一性障害に違いない』という治癒師側の思い込みにより、真には解離性同一性障害を発症していない患者に症状を誘導、誤解をおそれない表現をするならば、疾患を誘発するおそれがあります。考えられる診断のひとつとして念頭に置くことはとても大切なのですが、積極的に診断をこれにもっていこうとする姿勢は適切とは言えません」


 ピルビットは分かりやすく話しているつもりなのだろうが、十分に砕ききれていない。ピルビットの説明の意味を、『現段階では、解離性同一性障害を強く疑うことはできない』と、クローシェは解釈した。


「全生活史健忘のほうは頻度が高いのでしょうか?」

「それも難しい質問ですね。お察しのとおり、全生活史健忘も比較的稀な症状です。ただし、民族差、地域差が大きく、生活背景や文化的背景によっても有病率、発症率は大きく変動します。精神治療を得意とする治癒師や薬師でも、現時点ではマルティナの状態をピュアな解離性同一性障害ともピュアな全生活史健忘とも断言できない、とのことでした。両疾患は重なり合う部分がありますし、こういう精神疾患は私たちウラスの治癒師が得意とする外傷と違い、患部を見るとか、情報魔法で身体内部を解析して即座に診断を下す性質のものではないため、それ以上は何とも……」


 クローシェにはピルビットの言葉が専門家特有の逃げ口上のようにしか聞こえない。ただ、ピルビットが語っているのは、(いち)治癒師見習いの独り善がりの診断ではなく、治癒院ウラスの治癒師たちや、協力してくれた精神疾患を専門とする治癒師たちの意見を包括したものだ。専門家をもってしても容易には分からない、ということであり、この点についてこれ以上執拗にピルビットをつつくのは、意義のある行為とは呼べないだろう。


 アッシュは腕を組み、ピルビットに新たな質問を投げかける。


「少し着眼点を変えようか。ピルビット君が調査中に気付いた“謎の心臓に通じる道”とは具体的に何なんだ?」

「あれですか……。僕は大きな衝撃を受けましたが、それでも犯罪捜査でいうところの“物的証拠”にはなりません。あくまで“状況証拠”です……」


 ピルビットは、迂闊なことを口にした、とでもいうように気まずそうな顔を作る。


 ピルビットがその部分を語らなかったのは、秘密を設けて自分の価値を高めるため、というよりも、ウラスの治癒師という立場上、忌憚されるべきものだからだ。ユニティにマルティナやピルビットを引き抜く気がない、と分かった以上、マルティナや自分の立場を悪化させかねない不用意な発言はできない。


()()()からしてみれば別に隠すことではないように思いますが、ピルビットさんにも言いづらいこと、立場というものがあるでしょう。私のほうから話してしまってもいいですか?」


 クローシェが代弁を申し出ると、ピルビットは身振りで分かりやすく身を引いた。


「マルティナ女史が社会的地位の高い患者たちに語ったこと。あれは説教なんですよ」

「説教?」

「そう……。東天教の“教理(キョウリ)”問答書の中に良く似た一文があります」


 紅炎教が超優勢なマディオフに暮らすアッシュは東天教について詳しく分かっていない。知っているのは、回復魔法が得意な宗派、ということくらいだろう。


 クローシェは東天教の教えのひとつを簡単に説いてみせる。




 マルティナやピルビットが所属するウラスは紅炎教系列の治癒院である。紅炎教絶対主義ではないため、東天教職員もチラホラいるが、ピルビットもマルティナも昔ながらの紅炎教徒だ。


 別に紅炎教だからといって、東天教の人間と関わってはならない、などという戒律はない。回復魔法という分野に関しては紅炎教よりも東天教のほうが優れており、紅炎教の治癒師が東天教の治癒師に教えを請うのは、しばしばあることだ。


 勉強熱心な紅炎教のマルティナが東天教の教義の一節を教養として覚えているのは、必ずしも不自然なことではない。だが、紅炎教系列の治癒院であるウラスで東天教の教えをツラツラと説くのはまっこともって非常識な行為である。ウラスに在籍している東天教徒の治癒師も、それくらいは当たり前に(わきま)える。


 紅炎教のマルティナが社会規範に反し、紅炎教の治癒院で東天教の教えを説く。これは、彼女の変化を説明する材料のひとつになりうる。ただし、ピルビットの言うとおり、これは“状況証拠”のひとつに過ぎず、それ単体では十分な証拠と言えない。




 クローシェが披露した一節にアッシュが納得して頷いていると、ここまで黙っていた丞相のスターシャがピルビットに質問する。


「治癒師マルティナが、『記憶を失っていない』という可能性はありませんか?」


 スターシャが語る全く新しい解釈に、その場の全員が驚いてスターシャを見る。


 スターシャは注目にも動じずに私見の続きを述べる。


「実はマルティナ女史に起こった事象が記憶喪失などではなく、催眠や自己啓発という可能性はないでしょうか?」

「精神療法ですか? ああ……言われてみると、マルティナの状態を説明しうるものとして一考に値するかもしれません。僕には、その観点が欠けていました」


 スターシャの説にピルビットは一定の賛同の意を示す。彼のその様子にクローシェはどこか演技臭さを感じた。ピルビットは前もってそういう質問が飛んでくることを想定していたかのようだ。


(ピルビットは概ね真実を語ってくれているのだろうけれど、今の答えだけは信用しないほうがよさそうだ。面倒だけれど、少しこちらも()()()か……)


 クローシェはピルビットを直接追及する手段は選ばず、スターシャの掲げた新説に異議を唱えることにした。


「それはどうでしょうか。もしもマルティナ女史が自己催眠をかけたのであれば、女史の持つ願望が多かれ少なかれ表面化するように思います。マルティナ女史が望んでこのような変わり方をするとは、私には思えません。私は女史と一度しか会話したことはありませんが、治癒師としての自分には満足しているように思いました。女史が変化を望むとすれば、私的な部分ではないかと思います。それなのに、マルティナ女史の変化は全て治癒院内で完結してしまっています」


 スターシャの意見にクローシェが否定的な見解を述べると、それを受けてアッシュも自分なりの解釈を述べる。


「仮にマルティナさんの身体に起こっている現象の根幹が『催眠』だとすれば、それは自分で望んでかけたものではなく、誰か他者の手によってかけられたもの、という可能性が高そうだな。そんなことをしてメリットが得られる人間とは誰だろうか。仕事が少し雑になった代わりに、圧倒的に仕事の速度が増したことで、俺たちユニティは助かっているから、利益享受者という観点で考えれば、ユニティの中に犯人がいることになってしまう」


 アッシュはそう言って自嘲気味に笑う。


 クローシェは視界の端に映るピルビットの様子を窺う。


 ピルビットは相変わらず青い顔をしたまま、静かに様子を見守っている。クローシェの誘いに乗って口を滑らせてくれそうには見えない。


 もう少し餌を撒く手もあるのだが、時間が惜しい。クローシェは誘導に見切りをつけることにした。


「それはそうなのですが……実は、この話には“横”に別のお話が並走しているため、犯人探しはそちらを聞いてからにすべきでしょう」

「なんだよ、それは。それを最初に言ってくれよ。時間は押しているんだろ?」


 クローシェからすると、マルティナの変化と、もうひとつの“事件”は極めて密接に繋がっている。しかし、表面的には直接の繋がりがない。


 思うところあって、クローシェはスターシャを見た。スターシャはクローシェの視線に気付くと、少しだけ笑って頷いた。スターシャは“別の話”の意味を理解している。


「ピルビットさん。ありがとうございます。我々はもう少し話し合いに時間がかかるため、先程の場所でまた待機してもらえますか? ビーク、案内をお願いします」

「はっ!」


“異変”後の治癒院での出来事の説明は半ばにして終わらせることになってしまった。それでも考察に最重要な部分をピルビットはもう話し終えている。これ以上は時間の無駄、と判断し、クローシェはピルビットを会議室から退室させた。




 ビークに導かれてピルビットが部屋を出ると、アッシュは目の前にスターシャがいるにもかかわらず、姿勢を少し崩した。


「ピルビット君の話ですら前座で、本題はここから、ってところか」

「ええ、そのとおりです」


 爆弾投下を目前にしてアッシュはニヤニヤと笑っている。


 真打として演者を担うクローシェは少し覚悟が必要で、唾をひとつ飲み、大きく息を吸って呼吸を整えた。


「実は、マルティナ女史が記憶を失ったのとほぼ同時期から、街のある地区において断続的に瘴気が発生するようになっています」

「瘴気だと!? その瘴気ってのは……」


 アッシュは言葉を途中まで言いかけると口をつぐみ、横目でチラリとスターシャを見た。


 スターシャは何も言わず、やや目を伏せて話を聞いている。


 二者の探り合いにクローシェは妙なものを感じ取る。


(アッシュはスターシャに何か隠したいことがあって言葉を飲み込んだ? 何か違う……。今のアッシュの仕草にはどこか不自然なところがあった。どういうことだ……? 二人の不仲には、相性不良以外の何か明確な理由がある……? 理由が何にせよ、こういう大事な話には私情を持ち込まないでもらいたい)


 アッシュとスターシャの不仲の原因が相性不良以外の明確な私怨に基づくのであれば、今まで以上に慎重な対応を心がけなければならない。クローシェは垣間見えた面倒な事情の片鱗を意図して無視し、話を続ける。


「瘴気の発生地点は複数箇所。ただし、それらはいずれもかなり狭い範囲に限局しています。ミリエ通り四番地を中心に通り三つ分です」

「ミリエ通り四番地……ね。瘴気問題が走っているのは“横”どころか、中心も中心じゃないか」

「そういう見方もできます。治癒院ウラスを円の中心にして、徒歩数分以内の範囲にある建物の地下空間や井戸等から瘴気が発生しています」


 沈黙を守りそうに思われたスターシャがクローシェの台詞を奪い、瘴気の発生地点を別の言い回しで表現した。スターシャの大きく開かれた目はアッシュを鋭く見据えている。


(瘴気の処理は元ハンターであるアッシュの責務、とでも言いたいのか。無駄に挑発しないでよ、話が(こじ)れる……)


 敵対的なスターシャの視線と発言にアッシュは盛大に舌打ちすると、スターシャではなくクローシェの方を向いて話す。


「マルティナさんの記憶喪失と突然発生した瘴気。偶然にしてはできすぎている。そういう妙なはたらきをする瘴気があるのか、ピルビット君にも聞いてみたかった。俺はハンターとして何度も瘴気を浴びたが、そういう変な瘴気には出くわしたことがない」

「それは既に回答を得ています。『ありえなくはない』らしいです。瘴気に限らず外傷でも熱性病でも、体調が極度に悪化した際、一時的に記憶の混乱をきたすのはままあること。要は、間接的な記憶障害の原因にはなりうる、ということです。ただ、直接的に健忘や人格変化をもたらす瘴気というのは、これまで確認されていないようです。治癒院ウラスだけでなく、ロギシーンの複数の治癒師や各所書庫の書物にあたって検索しても、そういう特性を持つ瘴気の事例は見つからなかった、ということなので、瘴気の一般情報をこれ以上調べても結論は変わらないと思います」

「そうか……」


 ウラスの治癒師たちも、マルティナが変化をきたした原因は瘴気ではないか、と考え、既に文献検索を行っていた。


 クローシェもそれまで知らなかったことなのだが、瘴気には物性瘴気と魔性瘴気が存在し、物性瘴気のほうは種類によって、暴露から長い時間をかけて人格を変化させ、最終的には人格荒廃にまで至らせることがある。しかし、マルティナの事例では時間経過が明らかに異なるうえ、今回ロギシーンを賑わしているのは物性瘴気ではなく魔性瘴気だ。マルティナの変化の直接原因としては、やや考えにくい。


「特殊な素性の瘴気探しから中枢に迫ろうにも道は先細りです。そこで、単純に瘴気の発生源を考えてみませんか、総大将。この近辺だと、どのような魔物が瘴気を出すでしょうか?」

「この辺りならグリーンタートルとか、ヴェノムヒ( 毒カバ )ッポだな。ただ、ヴェノムヒッポが街の地下までうっかり入り込むことはまずない。そういう間抜けなことをしがちなのはタートル種のほうだ。発生地点が狭い範囲に限局されている点も、ヒッポよりタートルを強く疑う根拠になる。タートルであれば、メタル系のグリーンメタルタートルであっても討伐は難しくない。街のハンターでも十分駆除できる」

「その依頼はもう出しました」


 アッシュの言葉の終わりにかぶせるように、スターシャが討伐の依頼を済ませていることを告げる。


 アッシュはスターシャを一瞥(いちべつ)すらせずに、「あっそ」とぶっきらぼうに言って鼻息を荒げる。


「なら、瘴気問題はすぐに解決するはずだ」

「残念ながらその予測は大外れです。この案件は進行途上ではありません。報告受領まで完了しています。手掛けたハンターによると、『調査時は瘴気が発生しておらず、原因となった魔物も特定できなかった』とのこと。調査はそれで終了になっています」

「まともなハンターに依頼したんだろうな? 右も左も分からない新人ハンターにやらせると――」

「手配師のデムロを経由して、ゴールドクラスのハンター、セクーに発注しました」

「セクーってハンターには面識がない。まあこれはセクーって奴の問題ではなく、俺側の問題だな。恥ずかしながら、俺は最近の若いハンターの名前を把握していない。……が、デムロさんの手配で、しかもゴールドクラス。調査結果には一定の信頼がおけそうだ」


 スターシャの説明はあまりに大掴みだ。アッシュが報告書を未読なのは分かっているはずなのだから、もう少し詳しく説明すべきである。クローシェは瘴気の調査報告について、足りない部分を付け加えていく。


「総大将、私からも補足します。私の独自調査ではなく報告書のままですがね。案件を受注したハンターが現場数か所を訪れても、瘴気はまるで確認できませんでした。ハンターは調査の目標を“発生源の討伐”から“発生源の特定”に切り替え、原因となる魔物の痕跡を入念に探しました。しかし、それらしきものは何も見当たらず、『原因不明』として調査を切り上げ、手配師経由で報告を終えました。それで話が終われば良かったのです……が、その後、建物の関係者が地下へ行くと、不思議なことにまた瘴気が発生します。仕事の手抜きを疑ってハンターにクレームをつけて追調査を行わせても、正式に別のハンターに発注をかけて再調査を行わせても、同じことが繰り返されます。そのため、該当の地下空間や井戸付近は現在に至るまで立ち入り禁止となっています」


 クローシェが語る報告書の内容を聞き、アッシュの表情が険しいものへ変わっていく。


「……おかしいな。グリーンタートルでもヴェノムヒッポでも、そんなに素早く出たり引っ込んだりしない。ヴェノムヒッポはまあまあ素早いが、ヒトからは逃げ隠れしない。それどころか、縄張りを侵すものを食い殺そうとする。それに、もっとおかしいことに、タートルでもヒッポでも、瘴気を出せるくらいとなると図体は相当デカい。痕跡だってそれなりに目立つ。ハンターが出向いた時に瘴気が発生していないのは“連続した偶然”としてギリギリ了解できても、一端のハンターが分かりやすい魔物の痕跡をそう何度も見逃すとは考えにくい」


 それだけ言うと、アッシュの視線が空に浮く。焦点はどこにも結ばれていない様子だ。状況の異常さを理解し、頭の中で納得のいく理屈を考え込んでいるのだろう。


(そう、この瘴気はおかしい。マルティナの件を抜きにしても、明らかにおかしい。どう考えても異常なのだ。()()は高い隠密力を持っているのに、異常性については隠すどころか、むしろ、『ここに異常がある』と訴え、分かりやすく信号火を灯している。まるで私たちを地下に手招きしているかのように……)


 相応の空気が醸成されたのを感じたクローシェは、徐々に話の核に切り込んでいく。


「では、総大将。魔物の正体がアンデッドのリッチであればどうですか?」

「アンデッドも瘴気を出すには出す……。だが、考えにくいな」

「それはなぜでしょう?」

「その前に確認しておこう。瘴気の犠牲になった人間はいるのか?」


 アッシュはギロリとクローシェの目の奥を覗き込む。


「いえ、迷惑を被っている人間がいるだけで、肉体的、人的な被害は全く出ていません」


 アッシュは、さも当然、というように何度も頷く。


「そうだろうな。理由を説明すると、まず、リッチは一般人にも知れ渡った魔物だが、実は魔法使い(キャスター)系統のアンデッドの中だとあまり上位の存在ではないんだ。ただのリッチだと瘴気は出せない。瘴気を出せるのは、エルダーリッチとかそれ以上のアンデッドだ。魔法全般は得意ではないが、デスロードなんかも瘴気を出せるアンデッドだな。大事なのはここからで、アンデッドが瘴気を出すのは生者を殺すためだ。一度身の危険を感じると、難を逃れた後もしばらくの間瘴気を垂れ流し続けるグリーンタートルとは違い、アンデッドは無意味に長時間瘴気を放出しない。チタンクラスのハンターでも討伐が難しい精強なアンデッドがヒトのいる建物の地下に潜んで瘴気を放ち、それでいながら誰も殺さず、ヒトのハンターが地下を訪れるたびに逃げ隠れする。ストーリーとしては無茶苦茶だ」

「つまり、もしアンデッドであれば、とても変わり種ということになりますね」


 示唆に富んだクローシェの言い回しに、アッシュは敏感に反応する。


「なんだよ、随分とアンデッドに固執するじゃないか。ゴルティアにそういう妙ちきりんな知り合いでもいるのか?」

「知り合い……ではないですが、西方諸国では因縁浅からぬ存在だと思いますよ」


 明言を避けるクローシェに、アッシュの表情が少しだけ険しくなる。


「また隠し事か……」

「そういう言い方をされると、立場的に私は辛いものがあります」


 これもまたアッシュとクローシェの情報量に差があることの弊害だ。


 クローシェは自分の考えや根拠の全てをアッシュやスターシャに開示できない。アッシュに批判めいた問いをされても、クローシェは不明瞭な答えしか返せない。


「クローシェが言っているのは、ジバクマに出現したワイルドハントのことか?」


 クローシェに全てを語られずとも、察しの良いアッシュはクローシェの言いたいことを理解してくれた。クローシェはアッシュの洞察力にかなり助けられている。


 結論の前に詰まってしまうことなく話が進んだことに安堵し、クローシェは続きを語る。


「私にも断言はできません。ただ、ゴブリンキング以上に危険な存在がこのロギシーンの地下に巣食っているかもしれない。私はその可能性をおそれています。瘴気だけではありません。そいつらは、私たちの知識にはない独自の手法でマルティナさんの身に細工をしたのかもしれません。もしかしたら、ゴブリンキングすら奴らによって生み出されたものである可能性も――」

「落ち着け。どうしてそこでゴブリンキングまでワイルドハントの産物ということになる。オレツノがここからどれだけ離れていると思っているんだ。それに、ゴブリンの生態は完全に解明されていない。ジバクマのワイルドハントが奇っ怪な集団であることは事実らしいが、ゴブリンを自在に操れる、なんて噂は聞こえてこない。クローシェは話を膨らませるあまりに、“見えざる敵”を大きく見積もりすぎている」


 アッシュはクローシェの目を真っ直ぐに見てクローシェの心配を否定する。アッシュだけでなく、スターシャのほうも不安そうな目でクローシェを見ている。


 クローシェは、ゴルティアの諜報部やアウェルの同志から流れてきた情報まで加味し、自己の保有する情報全てに基づいて可能な限り冷静に考えたうえで、このような結論に至った。別にパニックに陥って荒唐無稽な異説、奇論に飛びついたわけではない。


 クローシェが持っている情報を洗いざらい話してしまえば、アッシュたちにクローシェの考えが突飛なものではないことを理解してもらえるだろう。しかし、それはどうしてもできない。


 物事には順序というものがあり、クローシェが盛大に下手を踏むと、損失は甚大となる。それこそユニティという組織単体の崩壊では済まなくなってしまう。つまりは、話せないものはどうやっても話せない、ということだ。


 望まぬ秘密があるのは仕方ないことにせよ、理由や理屈を省いて結論部分だけ信じてもらおうとムキになるのは褒められない。逆に二人の不信を煽ることになってしまう。


 クローシェはやむを得ず、一歩引き下がることにした。


「すみません、取り乱してしまい……」

「マルティナさんの件が瘴気と直接関係あるかどうかは何とも言えないし、起こってしまった精神症状は俺たちが焦って動いたところでどうこうできるものでもなさそうだ。しかし、瘴気の件はそれなりに解決を急いだほうがよさそうに思う。原因がワイルドハントではなかったとしても、異体な魔物が治癒院近辺の地下にいる可能性は全く否定できない」

「ご理解に感謝します。そこで、これからゴブリンキングの討伐に向かう総大将には申し訳ないのですが、出発前にひとつ手伝ってはいただけませんか」

「本っ当に長い前振りだったな。ハハッ。いいよ、もちろん手伝うさ」


 クローシェが手伝いの具体的な内容を告げる前にアッシュは即請け合って屈託なく笑う。


「マルティナさんに面会がてら、治癒院の地下を調べる。そうだろ?」

「まさしく(おっしゃ)るとおりです」


 会議直前、クローシェは治癒院ウラスの付近まで行っている。しかし、自分は治癒院の建物内に入らず、ビークを入らせてピルビットを治癒院の外へ連れてこさせた。治癒院の地下で蠢く“影”の正体がクローシェの予期したままのものであれば、クローシェひとりではどうにもならない可能性が高い。


 忙しい身だというのに、アッシュはクローシェに手を貸すことを厭わない。アッシュが快諾した、となると、気がかりなのはスターシャだ。


 懸念は(まさ)しく現実となり、スターシャが二人に待ったをかける。


「待ってください。それは、今でなければならないのでしょうか。総大将はこれからゴブリンキング討伐のためにストライカーチームを率いる身です。出立に備えて少しでも体力を温存しておくべきです。瘴気は発生範囲を拡大しつつあるわけでも、発生の頻度を増しているわけでもありません。次将が報告したように、地下空間の利用制限という形で不便は生じていても犠牲者は皆無です。急ぐ理由は無いように思います」


 スターシャに水を差され、アッシュが即座に反論する。


「いいって、スターシャ」


 声色と身振りからして、アッシュはかなり苛立っている様子だ。


「ウラスはすぐそこだ。俺たちはマルティナさんと話したら、後は治癒院の地下だけをグルっと回ってくる。地下にいるのがヴェノムヒッポであれば討伐はすぐに終わる。もし治癒院地下で魔物が見つからなかったとしとも、周辺施設の地下までは調べずに切り上げる。これなら体力はほとんど消耗しないし、時間も短くて済む。それでもまだ不満か?」

「ええ、満足がいく回答ではありません。私には武人の体力というものがどれほど保つものなのか分かりかねますが、ストライカーチームの任務成功率を少しでも上げるために、瘴気調査は後回しにすべきと考えます。私には瘴気を優先する妥当性や有益性を計りかねます」


 ある程度予想どおりとはいえ、これは望ましくない展開だ。クローシェは話運びを頭の中で急いで再構築する。


 スターシャは傍目、論理的に瘴気調査に反対している。しかし、実際のところ、アッシュの決定に文句をつけたくて逆の意見を出しているだけだ。なぜなら、おそらくスターシャの中では、アッシュが瘴気調査に行こうが行くまいが、ユニティの将来の大勢に影響がないことになっている。


 もしこれでアッシュの瘴気調査を妨害することでユニティに取り返しのつかない悪影響が生じると考えれば、さしものスターシャも自重する。スターシャは、そこまで無分別な人間ではない。選択がどちらに転んでも大差ない、と思っているからこそ、アッシュの決定に難癖をつけている。


 アッシュもそうだ。アッシュはクローシェの方針に快く協調してくれているものの、次将であるクローシェの意を汲み、敬意を払って支持側に回っただけであり、内心は、『地下調査を後回しにしても大問題にはならない』と思っていそうだ。


 地下に潜んでいるのは精々珍妙な魔物であって、決して“巨悪”ではない、そう見積もっているからこそ、クローシェの頼みを安請け合いした。


 アッシュはクローシェから全てを語られずして、『クローシェは地下敵の正体をワイルドハントだと考えている』という推測に到達した。これまで何度もアッシュ自身が証明してきたように、アッシュは間違いなく明晰な人間だ。しかし、頭は良くともアッシュはマディオフ人だ。さすがに件のワイルドハントが、“ギキサント”の片割れである可能性までは考えていない。そもそも、アッシュはギキサントの風説すら聞いたことが無いかもしれない。


 想いと真実を話したいのに話せない。もどかしい境遇にクローシェは歯噛みする。


(あれ、待てよ……。アッシュが()()を知らないのは当然だ。でも、スターシャは?)


 アッシュと違い、スターシャはマディオフ人ではない。スターシャの生い立ちや頭の良さを考えると、クローシェの最終的な危惧がギキサントであることを察していてもよさそうなものだ。


 もしもクローシェの本意を分かったうえで瘴気の調査に反対しているならば、スターシャはアッシュの邪魔をしたのではなく、クローシェの邪魔をしたということになる。あるいは、クローシェが信じるアウェルの理念に唾を吐きかけている可能性すら否定できない。


(まさか、そんなはずは……)


 突如発生した恐ろしい考えを、クローシェは心の中で盛大に頭を振って否定する。


(だ、大丈夫。いくらスターシャが聡明でも、無欠ではない。たまたま、そこまで思い至らなかっただけだ。それに、もしスターシャまで“敵”だというのなら、私にはもうどうすることもできない)


 クローシェには本当の意味での仲間がほとんどいない。数少ない“真の仲間”と呼ぶべき存在のホーリエ・ヒューランは音信不通となっている。アウェルと再び連絡が取れるようになるまで、クローシェの孤独な戦いは続く。


 今、ウラスの地下で待ち構えているのがワイルドハントだけならば、クローシェの備えで何とか(しの)ぎきれるかもしれない。しかし、あくまでも『かもしれない』という領域を出ない。備えを十全に活用しても上手くいく保証などどこにもない。成功率は決して高くない。


 それでもクローシェ以外に事の重大性を理解している人間も、作戦を決行できる人間もいない。クローシェがやらないわけにはいかないのだ。


 クローシェが身を投じている“孤独な戦い”は、その“孤独さ”に矛盾したことではあるのだが、助けとなる“駒”の存在が不可欠だ。クローシェ自身を含め、アッシュや従者たちも重要な駒だ。成功率上昇に寄与しうる駒の全てがこの場に揃っている。


 駒が全て万全の状態で臨んでも、成功確実とは言えない。だが、視察だけはゴブリンキング討伐前に行っておくべきだ。ゴブリンキングとの戦いで駒が欠けることはあっても、増すことはない。特に、ミスリルクラスの強さがあるアッシュは駒として絶対に欠かせない。ゴブリンキングが“敵”の仕掛けのひとつである可能性は全く否定できない。ストライカーチーム出発前のこのタイミングを逃してしまうと、次の機会は永遠に無いかもしれない。


 立ちはだかるのが臆病な魔物だろうと、獰猛なヴェノムヒッポやゴブリンキングだろうと、巨悪の一尾たるワイルドハントだろうと、クローシェは命を懸けて戦う覚悟だ。


 しかし、戦いの中で死ぬ覚悟を決めていても、味方のはずの人間に後ろから刺されるとか、足をかけられ奈落の底に落とされるなどして命を失うのは許容し難い。たとえ死ぬとしても犬死にではなく、真の敵と戦い未来に繋がる一歩を刻んで死んでいきたい。


 スターシャが“敵”ならば、これからクローシェを待ち受けるのは確実な犬死にだ。そんな形でクローシェを葬っても、スターシャにだって未来はない。クローシェよりもずっと賢明なスターシャがそんな過ちを犯すはずはない。


(ああ……戦いはなんて孤独なんだ。味方はいても仲間はいない。その味方が実は“敵”かもしれない。怖くても辛くても悔しくても苦しくても、それが現実……。でも、そんなことは最初から分かりきったことだ。それでも私はやることを選んだ。私が上手くやらなきゃ、アッシュもスターシャもユニティの皆も無駄死にしてしまう。私が……私が全部上手くやらないといけないんだ)


 クローシェは卓の陰に隠れた自らの拳をギュッと強く握る。


「これは、先の会議前半と同じことです。ゴブリンが 大発生 ヒュージアウトブレイクを起こしたら、ゴブリンキングが出現する前に群れを散らすべき、可能であれば、ヒュージアウトブレイクに至る前に、小さな群れを殲滅するべきです。瘴気も同じように考えましょう。瘴気は今のところ拡大傾向を見せていません。だからこそこれは好機なのです。範囲が広がって大きな被害をだす前に元を絶てるのであれば、すぐにそうすべきです。治癒院で瘴気が拡大した場合、大勢の治癒師が犠牲になります。治癒師の減少は戦闘力の減少とほぼ同義、単純な犠牲者数以上に大きな被害となることは明白です。それを未然に防げるのが今なのです」


 クローシェが熱く語ると、スターシャは悲しそうに目を伏せた。


「次将が(おっしゃ)ることもまた然りです。ミレイリのような有力ハンターと軒並み契約を結び、彼らを全員ゴブリン討伐に送り出してしまったのは早まった判断でした。申し訳ありません」


 クローシェはスターシャを説得するための第二、第三の手を頭の中で温めていたのだが、それは全く不要だった。スターシャはクローシェの言葉を辛辣な苦言と受け取ったのか、反論姿勢すら見せずにしょんぼりと肩を落としてしまった。


 スターシャはアッシュに口答えされると俄然意気が昂ぶるのに、クローシェに少し強く反対意見を述べられると、割と簡単に気落ちしてしまう。クローシェに限って、スターシャへ掛ける言葉は慎重に選ばなければならない。


 状況が状況故にクローシェは意図的に語気を強めたのだが、結果、スターシャのこのしょげようだ。ここまで意気沮喪(いきそそう)となられると、後のことが気にかかる。


 一方のアッシュは落ち込むスターシャを見て喜ぶかと思いきや、不愉快そうな顔でスターシャを打守っている。スターシャが喜ぼうが悲しもうが、彼女の一挙手一投足全てが気に食わないらしい。


「そ、そんなことはありませんよ、丞相。単に私の考え過ぎかもしれません。それを確かめに行くのです。いずれにしても、総大将には消耗せずにストライカーチームへ戻っていただきます」


 落ち込ませてしまったスターシャを励ますため、クローシェは咄嗟に嘘をついた。




 ウラスの地下で何にも遭遇せずに終わるとか、遭遇するのがヴェノムヒッポのような普通の魔物ならば嘘にはならないが、もしもそこにいるのがワイルドハントであれば話は全く変わる。消耗どころか、クローシェとアッシュは命懸けの戦いに挑むことになる。クローシェたちが敗北すればユニティの同士もロギシーンに暮らす全ての住人も間違いなく全滅する。それでも地下には行かねばならない。


 ウラスに着いたら、まずはマルティナに会う。そこが最初の大きな運命の分かれ道だ。できれば、マルティナの調査を通じて敵の正体を看破したい。断定できないことには、クローシェも“備え”を用いることができない。


“悪”というのは悪ければ悪いほどに、偽ること、欺くことを得意とする。敵の詐術はクローシェが実行可能な審問の上を行くかもしれない。


 敵が用いている手法は複数考えられるが、その中で最も危険なもののひとつをクローシェは見抜くことができる。これはクローシェからしても嬉しい誤算だ。


 敵はヴェギエリ砦で迂闊なことをした。その喧伝行為はゴルティア軍の上層部やクローシェを困惑させ、謎をひとつ増やすものだったが、ここにきてクローシェに有利にはたらいている。


 もしも、今クローシェが考えている()が当たっているならば、ウリトラスとワイルドハントが手を組んだ理由を矛盾なく説明できる。


 確信が得られたら対決を後回しにはしない。駒が全て揃っているその場で戦いを挑む。他に取るべき道はない。


 難しいのは、確信にまで至らなかったときだ。決定的証拠を掴めないままにクローシェが先走った対応をしてしまうと、これもまた対抗手段の喪失に繋がってしまう。備えは何度も行使できない。


(私たちが立たされているのは運命の岐路だ。ひょっとすると、分かれ道どころか崖っぷちかもしれない。せめてもの救いは、この場にいる人間が全員、戦いが命懸けであると理解してくれていることかな)




 クローシェは心の迷いを隠すように偽りの笑みをスターシャに向けた。


 クローシェの笑顔を見たスターシャは、困った顔をしながらも口元を少しだけ綻ばせた。


「承知しました。では、くれぐれも気を付けてくださいね。……二人とも」


 ひとりの心配をするついでに、もうひとりのことも形式的に心配する。悪意あるスターシャの言い回しにクローシェは苦笑した。


「想定以上に話が長引いてしまいました。急ぎ治癒院に向かいたいと思います。総大将の出撃まで、時間はそう長く残されていません。……が、その前に聞いておくべきことがあります。丞相は、総大将か私に何か話したいことがあったのでは?」

「いえ、大丈夫です。フランシス次将が総大将に大切な話がある様子だったので、私も残って聞かせてもらったまでです」


(本当かなあ……)


 疑惑の目で見だすと、スターシャの全てが怪しく見えてしまう。


 完全には納得がいかないながらも、クローシェはそれを敢えて考えないことにした。


「では行きましょう、総大将」

「ああ。久しぶりにハンターらしいことをしたいと思っていたんだ。ゴブリンキングでもワイルドハントでも、何でもこいってな。はあー、ここにイオスがいたらもっと楽しかったのになあ……」


 話が少しでもハンター色を帯びると、アッシュはすぐに昔の相方であるイオスを引っ張り出す。今日、ここまでイオスのことを言い出さなかったのがむしろ不思議だったくらいだ。もしかしたらアッシュなりに我慢していたのかもしれない。


 その我慢が最後まで保たなかったことをクローシェは笑う。


(アッシュは本当にイオスのことが好きなんだ)


 アッシュが椅子から軽快に立ち上がる。その顔には年齢を感じさせない爽やかな笑みが浮かんでいた。アッシュは立ち上がった勢いそのままに、クローシェと従者たちを先導するような力強い足取りで会議室から出ていき、クローシェたちはそれに続く。


 会議室から出ていく一行の後ろ姿をスターシャが見送る。ユニティの頭脳であるスターシャがこの時、誰をどんな表情で見ていたか、背中に目を持たぬクローシェが分かるはずもなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ