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第三七話 ユニティ 三 治癒師マルティナ

 ゴブリンの 大発生 ヒュージアウトブレイクへ対応するためにユニティが開いた会議は終了間際、ゴブリンキング発生によって延長となり、長時間にわたって議論が続いた。


 予定時間を大幅に超えた論戦が終わると、出席者たちは足早に会議室から出ていく。会議でどれだけ疲れていようと休んでいる暇はない。中でも部隊編成に追われた軍事関係者は特に急ぎ足で速やかにその場を後にした。


 総大将のアッシュは頬杖をついて口を尖らせながら、慌ただしく退室する者たちの背中を見送っている。ユニティにおいて最も魔物を討伐する能力が高い彼は、ゴブリンキングを討伐するための臨時部隊“ストライカーチーム”の隊長としてオレツノへ向かうことが会議で決定している。


 隊長を任されているとはいえ、アッシュ自身はそこまで準備を必要としない。出発までに必要な指示は会議中に既に出してある。アッシュは何をせずとも副隊長や関連部署の人間が全て準備を整えてくれる。


 アッシュも現場に出て遠征準備の諸作業に加わろうとしたのだが、クローシェに強く止められたため、部下が用意を整えてくれるまでアッシュは表向きやることがない。頬杖をついているのは、仕事を取り上げられたことへの彼なりの意思表示なのかもしれない。




 出席者の粗方が退室した後、クローシェは椅子から立ち上がり、会議室の出入り口に向かって歩き始めた。アッシュはクローシェが動き出したのを見ると、机の上に置かれっぱなしとなっていた魔道具へノソリと手を伸ばした。


 アッシュはゴブリンキングの出現を告げた魔道具を手に取って数秒ほどマジマジと眺めた後、それを懐へ仕舞い込む。


「総大将。少しお話があります。時間をください」


 クローシェがアッシュに話し掛けると、アッシュはやや驚いた様子で顔を上げた。どうやらアッシュは、クローシェが会議室から出ていくために出入り口の方へ向かった、と思っていたようだ。


 クローシェが立ち上がったのは、会議室から出るためではなく扉を閉めるためだ。従者に閉めさせてもよかったのだが、会議で座りっぱなしだったため、少し身体を動かしたかった。


 魔道具を懐へ収めたアッシュは大きくひとつ伸びをすると、背もたれに体重を預けてだらしなく座る。


「俺を出発準備から除け者にしたのはそのためか。ああ……楽しい話ではなさそうだな」


 アッシュは伸びの延長で首を左右に傾けてポキポキと小気味の良い音を鳴らす。相談を持ちかけられることに辟易しているような返答だが、アッシュの表情には不機嫌さが全くない。それどころかむしろ茶目っ気のある、いたずらっぽい顔で笑っている。会議に集まった組織の重鎮の手前、意図的に難しい顔を作っていただけであり、最初から不機嫌でも何でもなかった。戦闘員として長く時間を共有しているクローシェは、言われずともそれをよく理解している。五十歳を過ぎても人懐っこく、話すに気安い人間、それがアッシュだ。


「私が一度でも総大将に楽しい話をしたことがありましたか?」


 クローシェが素っ気なく返すと、アッシュは鼻で笑う。


「自覚があるならなおさら楽しい話をしてくれよ。まあ、今は無理だろうから、また次の機会にでも」

「良い報告もきちんとしています」

「良い報告と楽しい話は違うさ」

「それは否定しませんが、残念ながら私たちの予定は、『したくなくても、しなければならない、楽しくない話』でミッチリと埋まっています。楽しい話を割り込ませる余裕はどこにもないんですよ」

「それはあんまりだなあ……」


 アッシュは首を(すく)めてお手上げの姿勢を取ると、頭をクネクネとさせておどけてみせる。仕草だけ見ている分には、まるで年端のいかない子供のようである。


 突然、アッシュの悪ふざけがピタリと止まった。固まるアッシュの視線の先にいるのはユニティの頭脳、スターシャだ。


 スターシャもなぜかまだ会議室に残っており、汚物を見るような侮蔑の目でアッシュが演じる児戯を眺めていた。




 無表情となったアッシュがきちんと椅子に腰掛け直す。


「それで……。話というのは何だ」


 用件を切り出す前に、クローシェはチラリとスターシャを見た。スターシャも何か用事があるからこそ、この場に残っているはずなのだ。


 自分から先に話を切り出していいものか、スターシャに確認を取る。


「私の話、かなり長くなりますよ」

「どうぞお構いなく」


 スターシャは、我先に、と話を切り出すことなく、クローシェに話を先出しするように促す。


(なぜその寛容性をアッシュに対しては発揮できないのか。人間の相性とはつくづく分からない)




 スターシャは少しばかり神経質な人間だ。ユニティ統括者のひとりとして、意図して細かなところに目を向けている、という側面はあるだろう。それは概ね良い方にはたらいている。しかし、アッシュに対しては明らかに不必要に微に入り細に入り文句をつけている。


 クローシェは以前、スターシャが指導的な意味合いでアッシュに厳しく当たっているのだろう、と思っていたが、今では、単なる相性不良が顕在化しているだけ、と考えている。


 相性とは不思議なもので、アッシュは度量が広い人間のはずなのに、スターシャの苦言や諫言に対しては過剰に反発する。この二人の仲さえ悪くなければ、さっきの会議だってもっと早く終わっていただろう。


 不仲の悪影響は平常時にもでている。この二人の仲の悪さがゆえに、クローシェはアッシュと文官の橋渡し作業を担っている。そうでなければ、スターシャがアッシュとクローシェに内政的な話をすれば全て済む話なのだ。


 相性問題について二人が別々にクローシェに泣きついてきた時のことを、クローシェは今でも昨日のことのようにはっきりと思い出せる。




 クローシェはもう一度スターシャの顔を凝視する。スターシャは文句なしに頭の良い人間ではあるが、だからこそ何を考えているか分からない面がある。


(まさか、スターシャは私と同じ用件でここに残っている?)


 クローシェは一応、ゴルティアからの助っ人、という立場でユニティに協力している。ゴルティア軍からのユニティへの支援は、金銭や装備、人材拠出だけではない。情報支援もまた行っている。ゴルティア軍から送られてきた情報は、一度クローシェを通ってからユニティに伝えられる。送られてきた情報の全てがユニティに伝えられるわけではなく、機密度が高いものはクローシェのところで止まる。つまり、ユニティの中において、クローシェとクローシェ以外の人間では情報量に隔たりがあり、スターシャやアッシュはクローシェよりも持っている情報が少ない。


 クローシェは会議前に報告書を読む中で、とある一大事が裏に隠れている可能性に気付いた。もし、これでクローシェがスターシャらと同じ情報しか持っていなければ、その可能性に気付きすらしなかっただろう。


 一転、スターシャならば情報が欠如していても、クローシェと同じくらい深くまで物事を見通すことができるかもしれない。クローシェはそれだけスターシャの頭脳を高く評価していた。




「それでは遠慮なく」


 クローシェが話を始めようとするも、アッシュはクローシェの方を見ずに苦い顔でスターシャを見ている。


「私は退室しましょうか?」


 アッシュの無言の退室要求を受け、会議室から出るべきかスターシャがクローシェに尋ねる。


「いえ、その必要はありません」


 スターシャは出ていく気などサラサラないだろう。アッシュとスターシャ、両方を同時に立てることはできない。今回は総大将かつ年長者のアッシュに苦味を飲んでもらうこととして、クローシェはスターシャに在室を許可した。


 もう恒例となった気まずい雰囲気の中、クローシェは話し始める。


「このところ、マディオフの鎮圧部隊との交戦頻度が上がっていますね」

「ああ? ……うん、そうだな」


 順を追って話すにはあまりにも基本に立ち返りすぎたためか、アッシュは当惑した様子となっている。


 アッシュはクローシェと共に部隊の先頭に立って戦っているのだ。交戦頻度の増加は誰よりもよく分かっている。


「戦闘をすれば負傷者がでます。そして負傷者は治療を必要とします。交戦頻度の増加によって負担がかかるのは戦闘部隊だけではありません。治療を担当する衛生隊員や街の治癒師たちにも負担は重く伸し掛かっています」


 冒頭部分を聞いただけでもう先の展開に見当がついたのか、アッシュは何かを閃いた顔つきになる。


「それを言われてふと思ったんだが、治癒院は患者数の増加に耐えきれずにパンクしてもよさそうなものなのに、ウチの戦闘員の数は減っていないな。治癒院に運ばれていった者は皆、重傷度の割にすぐに部隊に復帰してくる。……どこか他所の地域から凄腕の治癒師でもロギシーンに流れてきたのか?」


 ユニティは志のある組織だが、マディオフにとっては未だ反乱軍だ。高い能力を持つ治癒師が外の土地から反乱軍に占領された今のロギシーンに流入するものだろうか。答えは否だ。


 とにかく暴れられれば大義も何も要らない不心得者ならば、時折ユニティの門戸を叩く。生憎とユニティは、来る者拒まず、の理念など掲げていない。危険思想の持ち主は固く受け入れを拒否している。


 ならず者が頼まれもせずにロギシーンに集まってくるのに対し、礼を尽くしてでも招聘したい敏腕治癒師はユニティ蜂起以来、誰もロギシーンにやって来ない。治癒師や薬師に就く人間は、基本的に争い事を嫌う、どちらかというと心の優しい者が多い。戦闘の巻沿いになって負傷した罪のない民間人に治療の手を差し伸べるため戦線の近くまで足を運ぶくらいであれば、別段おかしな話ではないが、戦線を越えて紛争地帯のど真ん中まで来る酔狂人は、治癒師という職業の中にはいない。


 アッシュとしても、それくらいは分かっている。その証拠に、クローシェがアッシュの説を否定して正解を話し始める瞬間を、期待の面持ちで今か今かと待っている。


「残念ながら新たにやって来た治癒師はいません。その代わりに、治癒師のひとりに“異変”が生じました」


 聞き流すには物々しさのある単語に、アッシュの眉がピクリと動く。


「異変が起こったのは治癒院ウラスの筆頭治癒師マルティナ女史です」

「マルティナさん……って、年配の治癒師だったっけか?」


 総大将であるアッシュがロギシーンで最も怪我の治療能力に秀でた治癒師を覚えていないことにクローシェは落胆する。立場的に、街や組織の重要人物の顔と名前を覚えるのはアッシュの公務も同然だ。これで中心になって話しているのがクローシェではなくスターシャだったら、今頃アッシュに大きな雷が落ちていたであろう。幸い今日のスターシャは話の腰を折ることなく、黙ってアッシュとクローシェの遣り取りを聞いている。


(会った人間全てを覚えるのは無理でも、せめて各分野の筆頭人物くらいは把握しておいてもらいたいなあ。私はそれほど高い要求をしているだろうか)


「そこまで年齢は重ねていません。三十代半ばの方です」

「あっ、思い出した。独身のマルティナさんだ」

「……ええ、そうです」


 中年期も折り返しを過ぎているのに、アッシュはどうしようもない女性の覚え方をしていた。


 今でこそ家族想いのアッシュも、かつては有名な漁色家(ぎょしょくか)だった。右にも左にも手を伸ばしていた頃のアッシュのことを、クローシェは人伝に聞いた話でしか知らない。


 アッシュはたまにこうやって昔の名残を見せるから面白い。クローシェはククッと少しだけ笑いを漏らした。


 アッシュはクローシェの失笑に気付かないのか、話を先に進めていく。


「マルティナさんがどうなったんだ? 体調を崩したのか? でも、それだと負傷者の治療が間に合っているのはますますおかしいか……」

「マルティナ女史の身に起こった異変とは、“記憶喪失”です」

「なんだって。それは拙いじゃないか。どうしてそれで治療の()()りがつく」

「それが遣り繰りどころかむしろ、余裕を持って捌けています」

「ははっ。おかしな話だな」

「ええ、()()()()のです。とても、ね」


 クローシェは問題の本質が、“理解の容易な危機”ではなく、“理解の難しい奇妙な状況”であることを説明する。


 横で話を聞いているスターシャは驚くどころか、クローシェの話を聞いても表情を一切変えない。これは別に何もおかしくない。なぜなら、スターシャはクローシェやアッシュよりも早く報告書を読んでいる。ここまでクローシェが説明した内容など、事前に承知しているのだ。むしろ知らないほうがおかしい。


 しかし、ここから先はクローシェが会議前に足を動かして調べた内容になる。もしかしたら切れ者のスターシャも、まだ知らない情報があるかもしれない。クローシェは事の重大性にそぐわない、少しワクワクした感情を抱いてしまう。


「私よりも事情をよく知った人物を会議室前に呼んであります。ビーク、ピルビットさんを中に入れてください」

「はっ! 承知しました」


 クローシェの背後で待機していたビークが力強く返事をして会議室の外へ出ていく。そしてすぐにひとりの優男を連れて戻ってきた。身体つきからして戦闘には縁のない、自信のなさげな青年だ。


(さっきは何も思わなかったけど、改めて見てみると細いなあ。徴兵後でもこんなに柔弱な人がいるのは不思議で仕方ない)


「さあ、ピルビットさん。こちらに来てください。総大将にあの話をもう一度お聞かせ願えますか」

「はい……。治癒師見習いの不肖の身ではありますが、報告いたします」


 ピルビットは恐る恐るクローシェの横に立つと、消え入るような声で治癒院に起こった“異変”を語り始めた。




    ◇◇    




 世の中には多種多様な職業があり、どのような分野においても、それに特化した専門家がいる。治癒師もそういった専門職のひとつである。


 世間は治癒師と一口に言うが、治癒師にもそれぞれ得意な分野や苦手とする分野がある。子供の診療に長けた治癒師、婦人病を得意とする治癒師、痔疾に並々ならぬ拘りを持つ治癒師、先祖代々呪いを研究する治癒師、等など。どの領域をどれだけの技量で治療できるか千差万別だ。


 では、蜂起間もないユニティが最も密接に関わりを持つのは、どのような治癒師か。言わずもがな、それは外傷治療に秀でた治癒師たちである。


 ミリエ通りの四番地、これはロギシーンの庁舎からそう遠くない場所であり、シュピタルウラゾエはそこにある。ロギシーンに暮らす人々はシュピタルウラゾエを略してウラスと呼んでいる。ウラスはロギシーンで最も大きな外傷治療を専門とする治癒院だ。


 ウラスには日中夜間を問わず、複数の治癒師が詰めており、戦場で一定以上の深い傷を負ったユニティの戦闘員は街へ帰還すると真っ直ぐにこの治癒院へ運ばれる。四十、五十を超えた治癒師を多数擁するウラスの中で最も優秀な治癒師が、齢三十五のマルティナだ、と言えば、彼女の凄さが少しは分かってもらえるだろう。治癒師の世界で三十五歳とはベテランどころか、まだ中堅に差し掛かったばかりの年齢だ。




 マルティナに変化が生じたのは立春の候、冬が極まり季節が変わる兆しを見せ始める頃である。季節の変化に足並みを揃えるかのように、マルティナも変わってしまった。ただし、日一日と変化を重ねていく季節と違い、マルティナの変化は急激に完成した。


 周知のとおり、マルティナは忙しかった。ユニティと鎮圧部隊との戦闘が頻度と激しさを増し、治癒院に運び込まれる患者は増える一方だった。筆頭治癒師のマルティナは、ウラスで最も忙しく働いていた人間のひとりだ。ただ、変化の直前、忙しすぎる生活に押し潰されそうになって疲弊し弱った姿を見せていたか、というと、そんなことはなかった。周囲の人間の目には、マルティナが忙しいながらも溌溂と働いているように映っていた。治癒師は職業柄、他者の心身の状態を見抜くことに長けているはずだというのに、誰もマルティナの異変を予見していなかった。


 誰もが多かれ少なかれ休む時間を削って働いている以上、治癒院の誰が倒れてもおかしくなかったのだが、他には前触れが全く無いまま、ある朝突然マルティナは変わった。




 マルティナは日頃、ウラスに寝泊まりしている。これはユニティがマディオフ軍と戦っているとか、そういうことには関係なく、以前からの習慣である。仕事と勉強の虫であるマルティナは、家と職場の往復も、家事のあれこれも好きではなかった。“異変”の前夜もいつもどおり、ウラスの仮眠室で休息を取った。仮眠室の扉を開けた真ん前……ではなく、そのひとつ右が、マルティナの寝台だ。別に占有権はないのだが、あまりにも連夜マルティナがそこで寝ているため、事実上、彼女の専用寝台と化している。以前は扉正面の寝台を利用していたのだが、寝ぼけた男性治癒師が扉を開けてそのまま真っ直ぐマルティナの眠る寝台に潜り込んで以来、マルティナはその場所で眠らなくなった。職員仮眠室が男女別となっていないのが災いした。男性治癒師に変な気はなく、純粋に間違っただけなのだが、異性と浮いた話の全く無いマルティナがその一件でどれだけ深い衝撃を覚えたか、想像に難くないだろう。ただし、そんな事件に見舞われた後でも、寝台を横にひとつずらすだけで仮眠室を使い続けるのはさすがである。


 いつもどおり仮眠室で眠り、いつもどおり朝になって起き出したマルティナは、たまたまその日治癒院に泊まっていた同僚のガナーチと顔を合わせると、ひどく怪訝な顔をガナーチに向けた。


 妙な表情の理由をガナーチが尋ねると、マルティナはこう答えた。


『ごめんなさい。私はあなたのことを知っているような気がするのだけれど、どうしてもあなたの名前が思い出せない』


 そう言われたガナーチは最初、深く考えず、マルティナが寝ぼけているものと判断した。


 マルティナは優秀な治癒師ではあるが、うっかり寝ぼけたまま患者の治療に向かってしまっては、どんな失敗を犯すことになるか分からない。ガナーチはマルティナを談話室へ連れて行き、熱い茶を用意して取り留めのない会話を始めた。


 数分もすればしっかり目を覚ますだろう、と思っていたガナーチだったが、会話が進むうちにマルティナの“病状”を理解する。


 マルティナは、自分の名前以外のありとあらゆるエピソードを忘却していた。親の名前も、育った土地も、卒業した学校も、昨日まで一緒に働いていた仕事仲間の顔や名前も、何もかもを忘れていた。これは解離性健忘の一種、全生活史健忘という状態である。全生活史健忘には特効薬がなければ、ただちに記憶を取り戻すための魔法もない。


 さあ、ガナーチは青ざめる。


『ま、マルティナさん。僕はガナーチ。君の同僚だよ。経験年数的には三つだけ先輩。少なくとも僕はそう思っている。どうか、君も信じてほしい』


 ガナーチはマルティナを少しでも落ち着かせるべく、混乱した頭で必死に言葉を考えた。文章はぎこちないが、これがその時のガナーチの限界だった。


『君には助けが必要なんだ。分かるよね。だから、僕は全力で助けを呼んでくる。君はどうか、ここで待っていてほしい。少し時間がかかるかもしれないけれど、別の場所に行ってはいけない。ずっと、ずっとここで待っていてほしい』


 観光地で観光客から料金を受け取ると、品物を渡さずに雲隠れする詐欺師のようなことを口にして、ガナーチは談話室を後にした。


 談話室を出て、後ろ手で扉を閉めた直後、ガナーチは治癒院中に響き渡る大声で叫んだ。


『助けてええええぇぇぇぇ!! 誰か、誰か治癒師はいませんかああああぁぁぁぁ!!』


 余談だが、このガナーチはもちろん治癒師である。ウラスに勤務する、外傷治療を得意とする治癒師だ。彼が言いたかったのは、『精神治療を得意とする治癒師の手を借りたい』ということなのだが、悲しいかな、彼の叫び声から彼の求めを理解する人間はいなかった。


 かくして、治癒師を探して大絶叫する治癒師、という奇々怪々な状況から、その日のウラスの朝は始まった。騒ぎを聞きつけた職員たちは、ガナーチが発狂したものと考え、数人がかりで彼を取り押さえた。興奮と混乱の深い沼の底にあるガナーチが彼を取り囲む人々の誤解を解くには、十数分の時間を要した。




 ガナーチの偽発狂騒動より、マルティナの記憶喪失は瞬く間に治癒院全員の知るところとなった。職員、患者含めて全員である。


 治癒師たちはよってたかってマルティナの身体を診察した。


 全身くまなく調べても怪我はとんと見当たらない。どうやら外傷を契機とした健忘ではないようだ。となると、最も考えやすいのは過労を原因とした健忘だ。治癒師でなくとも導き出せる結論に、熟練治癒師たちもまた辿り着いた。むしろ、あれこれ要らないことを考えた分、素人よりも時間がかかっての診断である。


 マルティナを診察したのは皆、ウラスの治癒師。外傷による一過性の記憶喪失の治療経験はあっても、誰も過労による全生活史健忘を診た経験がない。治癒院図書室からいつ書かれたのか分からない古い書物を引っ張り出して該当箇所を読むと、『記憶の再獲得には精神負荷の原因となっていたものから遠ざかるのが原則だ』と、書いてある。書物から(カビ)臭い知識を仕入れた治癒師は、さも知っていたかのように堂々と治療法を説明する。


 古くとも書物に記されている治療法だ。先人が残してくれた治療法を聞き、書物にまだ目を通していない周りの治癒師たちも一斉に同調する。


『そのとおりだ! マルティナさんは休もう!』

『仕事は忘れ、暖かい家の中で食事を十分に摂り、ゆっくりと過ごしなさい』

『もう仮眠室に毎日寝泊まりしてはいけないよ』


 判を押したようにマルティナを休ませようとする治癒師たちに対し、マルティナはなぜか猛反発した。


『古い文献に準拠して治療を語らないでください。現在では、記憶の再獲得には手がかりとなるものに接触するのが良いとされています。それに、人の名前は忘れていても、治療業務の知識は失っていません。私も仕事をします』


 真面目な人間ほど体調を崩した際に無理をしがちだ。無理をしても快癒が遅れるだけなのは分かりきっている。治癒師たちは、是が非でもマルティナを休ませるべく説得じみた説明を続けるが、マルティナは聞く耳を持たない。


 仕事をさせろ、患者を診させろ、と執拗に要求を繰り返すマルティナに、上司も同僚もついには根負けした。かと言って、今のマルティナに何もかも好きにはさせられない。そこで、名乗りを上げたのが約十年前までマルティナの指導役を担っていた老練治癒師のトラヴィスだ。マルティナは、恩師であり上司であり先輩であるトラヴィスの脇に立って陪診(ばいしん)を行うことになった。




 トラヴィスはマルティナを自分の治療室に連れて行き、診療机の横に立たせた。マルティナの若き日、まだ治癒師見習いだった頃を思い出しながらトラヴィスは診療に臨む。だが、未熟だった頃のマルティナを懐かしく思える味わい深い時間は、診療開始数分で終わりを迎えた。


 陪診とは先輩あるいは上司の治癒師の仕事を見学しながら、適宜業務補助を行うものである。必ずしも若い治癒師だけが陪診者を務めるわけではない。例えば王都から達人治癒師を招いた際などは、ウラスの院長が陪診者を務めた。たまにはそういうことがあるものの、陪診とは基本的に若く未熟な治癒師見習いが行う修練のひとつである。


『患者を呼べ』と言われたら、治療室の外で待機する患者を治療室内に招き入れる。『記録を残せ』と言われたら、患者の傷の部位や深さ、先輩治癒師がかける魔法による回復の経過、残存した障害を書き残す。『薬を出せ』と言われたら、薬の調合を行い、治癒院で完結しないものは、薬師や錬金術師に向けた薬箋を書き上げる。


 陪診者は勉強の傍ら、先輩治癒師の手伝いをするべきものであり、出しゃばった真似をして先輩の邪魔をするものではない。若く張り切っている治癒師は得てしてそういう過ちを犯しがちなのだが、出過ぎた行為は厳しく矯正され、痛みを伴う学びとなる。


 ヒトは他者の名前や昨日食べた食事の内容などを容易に忘れてしまうものだが、痛みを通して学んだ知識や経験は長く保持できる。そしてこの法則は健忘においても当てはまる。もう少し言い回しを変えると、人間は記憶を失っても経験や技能は一般に失わない。だから、マルティナは陪診者としては問題なく治療補助が行える。それどころか、若手よりもずっと上手く気を利かせて治療の役に立ってくれる。治癒師たちはそう見込んでいた。


 ところが、マルティナには法則が当てはまらなかった。治療が始まると、トラヴィスの診立てにも治療内容にもガンガン口を挟んでくる。弟子や部下として遠慮を知るどころか、まるで対等の治癒師のような口を利く。これにはトラヴィスも呆気にとられる他ない。


 ウラス最優秀の治癒師になった後も、マルティナは師弟間のあるべき礼節を失っていなかった。それが記憶を失った途端これである。


 トラヴィスは嘆き悲しみながらも、自らの心を奮い立たせて治療を続け、健気にもマルティナの無謀な介入に耳を貸した。


 陪診者が口を挟むこと自体が異例なのだが、マルティナは記憶喪失だ。治療に干渉してくることは取り敢えず取り置くとして、よくよく聞けばマルティナがする質問や、提案する治療法もまた珍妙だ。


 中堅の治癒師であれば、まず言わないような生熟(なまう)れな、的はずれなことを時折言うかと思えば、ウラスどころかロギシーン中の治癒師全員に聞いても誰も知らなさそうな未知の治療法を唐突に語り始めては、それを目の前の患者に行おうとする。


 鷹揚であろうと心がけるトラヴィスであっても、マルティナの常軌を逸した暴走に穏やかではいられない。マルティナの失敗は直ちに患者の不利益に繋がり、目の前で()()を許したトラヴィスの責任にもなる。


『ここでは昔からこうやって治療している』


 トラヴィスがそう言って凄むと、マルティナも一旦は引き下がる。しかし、目の前から患者がいなくなると、また話を蒸し返す。


『昔から繰り返されている、というのは、まるで科学的説明ではありません。どういう作用で、どれだけの治療効果をもたらし、どんな副作用があるか、他の治療法と比べてどんな部分が優れているのか。そういったことを顧みずに漫然と同じ治療を行っているのですか?』


 攻撃的なマルティナの物言いにも、トラヴィスは怒りをぐっと堪える。


『お前は記憶を失っているから、治療のなんたるかが分からんのだ』


 すると、マルティナはこう答える。


『私が記憶を失っていることと、御師様が治療と銘打って旧態依然の科学的根拠のない儀式的な行為に耽っていることは何の関係もないですよね』


 これにはトラヴィスの怒りが爆発した。彼を知る人間の誰も聞いたことがないほどの大声を治療室で張り上げた。すると、周りの治療室からドヤドヤと治癒師たちが集まってくる。


 どうしたのだ、何があったのだ、と尋ねられると、マルティナが答える。


『御師様に新しい治療を提案したら、我を忘れて怒り始めた』


 トラヴィスのほうは興奮冷めやらず、怒ったまま治療室から出ていってしまった。


 トラヴィスから話を聞き出せなかった同僚たちがマルティナからより詳しい話を聞き、トラヴィスが激しい感情を露にした真の理由を察する。


『ああ……なるほどね。マルティナさんは間違っていない。正しいことを言ったよ。でも、陪診者がそういうことを言ってはダメなんだ。これは、ちゃんと勉強している人につけなきゃだめだな……』


 マルティナがトラヴィスに強く噛み付いた部分は、確かに古い治療法だった。その旧法は、現代の治療法に比べて治療効果が劣るどころか、むしろ回復を遅らせることが証明されて久しい。ウラスの若い治癒師は誰も旧法を行っていない。


 ベテランにはよくある話だ。トラヴィスは、ベテランの域に足を踏み入れて新人への指導を行わなくなった頃から、自分の研究分野以外の勉強を怠るようになった。


 黙っていても教えてもらえるのは、若い人間の特権だ。年を取ると、間違いを犯しても誰もそれを指摘してくれない。正しい方法を教えてくれない。だからずっと同じ過ちを繰り返す。


 トラヴィスは、親切心で昔の教え子の世話役を買って出たまではよかったが、古く誤った治療を指摘されて自尊心が傷ついてしまった。自分よりも優秀になってしまった教え子に対する卑屈な感情も奥底にあったのかもしれない。


 マルティナから話を聞いた治癒師たちは、そのように考えた。だが、目の前のマルティナに面と向かってそう言うわけにもいかず、曖昧な言葉でその場を濁す。


『トラヴィス先生にも色々と事情があるからね。まあ、こちらはこちらのことを考えなきゃ。さて、どうするか。トラヴィス先生にはもう頼れない。次は誰の陪診をしてもらおうか?』


 同僚のひとりがそう言うと、周りの治癒師は賛同の空気を醸し出し、適任者を探すようにその場にいる人間の顔を見回す。しかし、その動きはどこかぎこちない。


 それもそのはず、マルティナは仮にも筆頭治癒師だ。回復魔法の腕だけでなく、知識も並外れて多い。現に、マルティナがトラヴィスに提案した新しい治療法は、その場にいた治癒師の誰も知らないものだった。もしかすると、ユニティ蜂起直前に王都で開発された最新中の最新の治療法なのかもしれない。


 その場の治癒師たちはこう考える。優秀なマルティナを下手に自分の陪診につけてしまうと、自分もトラヴィスの二の舞になって赤恥をかくことになる。自分以外の誰かにつけるべきだ。


 無言のなすりつけ合いがどう帰着するかは分かりきっていた。その場に集まった治癒師たちの中に、ウラスの院長がいたからだ。治癒師たちは一応、その場の顔ぶれ全てを見回してから、一斉に院長の顔を見た。


 院長は、えへん、えへん、と数度咳払いすると、厳かな顔でこう言った。


『マルティナ先生には、陪診という形ではなく、ひとりで治療にあたってもらいましょう。トラヴィス先生がいなくなり、治療室の枠に穴が空いてしまっています。その穴を埋めるためにも、マルティナ先生にはキビキビと働いてもらわなければなりません。マルティナ先生は記憶喪失ながらも、治療能力は保たれています。それは今、全員で確かめたとおりです。いいですね』


 院長はマルティナの陪診から逃げた。


 ウラスの最高責任者が逃げたのだ。その場の誰が逃げても、もう責められる(いわ)れは無い。


 これはまさしく満場一致である。


 マルティナは治癒師人生二度目の独り立ちの機会を手にした。

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