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第三六話 ユニティ 二

 ユニティがロギシーンで武装蜂起した日、すなわちマディオフの表社会に名乗りを上げたのは紅炎歴にして五五〇( 550 )年初夏のことだ。ユニティの戦闘員たちは平和なロギシーンの行政中枢と軍事中枢を瞬く間に制圧し、一帯に組織の声明を発表した。マディオフは抵抗らしき抵抗をできないまま、ロギシーンを失った。それもそのはずで、各種“緊急事態”への動員によってマディオフの本領全体が戦力的な空白地帯と化していた。数十年かけて事前準備を進めてきたユニティが抜け殻も同然のマディオフの都市ひとつを制圧するのは何ら難しくなかった。迅速かつ極めて軽微な被害しか出さずにユニティはロギシーンを手にした。


 ユニティが蜂起の地をロギシーンに定めた理由はいくつもある。それら複数の理由の中でも“緊急事態”はとりわけ大きな割合を占めている。マディオフから見ればロギシーンにおける武装集団の蜂起も緊急事態のひとつなのだが、ここではロギシーン以外の地で起こった“緊急事態”について、簡単に振り返ってみよう。


 水面下の大きなうねりを知らずに平和に暮らしていたマディオフ国民が最初に接した緊急事態は大氾濫(スタンピード)だ。ユニティ蜂起のほぼ一か月前、紅炎歴五五〇( 550 )の立夏の候、マディオフの国土北東部に位置する大森林から魔物が溢れ出し、魔物の波は国土を荒らして人心を乱した。マディオフ人にとって大氾濫(スタンピード)は当初、原因不明だった。大氾濫(スタンピード)自体はしばしば生じる自然現象で、これを引き起こす主な原因が 大発生 ヒュージアウトブレイクであることはよく知られている。当然、誰しもが真っ先に大森林の魔物の 大発生 ヒュージアウトブレイクを考えた。しかし、魔物の波が立つ現場で大氾濫(スタンピード)の対応に当たっていた人間たちは、それが今まで見てきた 大発生 ヒュージアウトブレイクに起因する大氾濫(スタンピード)とは少々性格が異なっていることに勘付いていたであろう。


 大森林にドラゴンが出現した、という情報がマディオフの王都ジェゾラヴェルカに流れるようになったのは、大氾濫(スタンピード)が生じてからおよそ半月後のことである。大森林と王都の距離を考えれば、情報の伝達と拡散は異常なまでに早かった。ドラゴン出現の報に接したことで、『此度の大氾濫(スタンピード)はドラゴン出現によって引き起こされたものであり、 大発生 ヒュージアウトブレイクは生じていない』という理解が急速に広まった。その理解は部分的にしか合っていないのだが、マディオフ国民の大半はそれから半年以上経っても真の理解に至っていない。


 とにかく、ドラゴンの出現とそれに伴う大氾濫(スタンピード)により、マディオフは国全体が慌てふためいていた。とりわけ軍人関係者の憂慮は深かった。それというのも、大氾濫(スタンピード)前からゴルティア軍が怪しい動きを見せていたからだ。彼ら軍事関係者の危惧が現実のものとなったのは、ドラゴン出現の情報が王都に流れてからおよそ半月後のことである。


 マディオフ国土東端のアウギュスト。かつてはロレアル共和国の領土であり、その更に昔はゼトラケイン王国の領土だった街だ。そのアウギュストをゴルティア軍は攻めた。時候としては芒種(ぼうしゅ)、近代や現代の農業が普及する前は、穀物の種を撒くに相応しい、とされていた日にゴルティアは戦争を始めた。これはアウギュストの真逆、西のロギシーンでユニティが蜂起した日とほぼ同じである。


 マディオフ軍の対応は迅速だった。ゴルティア軍の動きを事前に察知していたマディオフ軍は大国の侵攻に前々から備えており、取り決めどおり、防衛に適さないアウギュストとその付近の街を捨ててリクヴァスまで後退した。国境線付近の戦力だけでなく、マディオフ本領西側のロギシーンやソリゴルイスク等に配置していた戦力を大幅に引き上げ、軍事力の大半をリクヴァスに結集させてゴルティア軍を迎え撃つ。簡潔に言えば、西を薄くする代わりに東を厚くしたのだ。


 マディオフ軍はリクヴァスでゴルティア軍の侵攻を食い止めることに成功した。マディオフ国民はおそらく今なおそう思っている。しかし、残念ながらこれらは全てゴルティア軍の計画に完全に沿ったものだ。ゴルティア軍の侵攻開始とユニティの蜂起が重なったのは言うまでもなく偶然ではない。マディオフ軍の戦力配置を知っていたからこそ、蜂起の日を戦争開始に重ねたのである。もしも、マディオフが前もって戦力を動かしていなければ、ユニティが蜂起する日はもう少し遅くなっていた。


 大氾濫(スタンピード)と戦争、この二つの“緊急事態”によりロギシーンは戦力的な空白地帯になっており、ユニティはロギシーンを短時間かつ少被害で制圧できた。ロギシーン制圧後、ユニティはそのまま支配地域を拡大していった。マディオフは幾度にもわたって鎮圧部隊を差し向けたが、ユニティはその全てを完膚なきまでに撃退し、鎮圧部隊の一部を捕虜にした。この時期にマディオフがやっていたことは戦力の逐次投入にあたる下策なのだが、逼迫に逼迫していたマディオフの戦力事情を考えると一概に責められたものではない。


 武装集団に敗北を重ねたマディオフは、ある段階から鎮圧部隊をピタリと送らなくなった。街の奪還や武装集団の鎮圧を諦めたマディオフが代わりに始めたのは、武装集団の支配地域拡大を阻止するための防衛戦の構築だ。攻めではなく守りの戦略。まだ武装集団の手が及んでいない地域の守りを固くし、武装集団を封じ込めようとしたのである。


 ユニティが保有する戦力量はそれなりでも、総戦闘員数は少ない。マディオフ一国から比べるとわずかなものだ。ユニティ単体ではマディオフ全土どころか、国土の半分すら掌握することは困難である。支配地域の拡大がいずれどこかで止まるのは必然であり、では軍事境界線がどこに引かれるか、それが問題だった。南の境界線を例に挙げると、それはロギシーンとソリゴルイスクのおよそ中間に引かれた。ソリゴルイスクはロギシーンやアーチボルクと並ぶマディオフ三大都市のひとつであり、その戦力圏や経済圏、人口圏は大きい。戦闘員数の限られたユニティが勢いづいてソリゴルイスクを制圧したとしても、ロギシーンとソリゴルイスクの両都市をマディオフ軍から防衛し続けるのはまるで現実的ではない。


 ソリゴルイスクまでは手を伸ばさず、南の軍事境界線はロギシーンとソリゴルイスクの中間に引く、という武装蜂起前に描いた戦力図の実現にユニティは成功した。拡大路線の終了とマディオフ軍の方針変換により戦闘機会の激減したユニティは、生じた余力を組織の内側に向けるようになる。支配地域の掌握をより確かなものに変える地固め作業の代表が、クローシェ・フランシスによる本格的な特殊治療の開始だ。


“治療”によって捕虜の多くは心のあり方を変化させる。どれだけ変化するかは個人差があり、治療を終えてもユニティに激しい敵意を向ける者もいたが、多くの者はユニティとゴルティアの根本理念にそれなりの賛同姿勢を見せ、一部の者はユニティに協力するようになっていった。


 様々な展開を想定していたユニティだったが、想定外の出来事は多々起こった。マディオフの首都ジェゾラヴェルカにおけるクリフォード・グワードの蛮行もそのひとつである。緊急事態前から問題の多かったクリフォードのこと、国が混乱すれば何かしらの騒動を起こすものとは予想していたが、まさかマディオフ軍のレベルセブン(ミスリルクラス)相当の戦力を三つも王都に釘付けにする、とまでは考えていなかった。


 予測困難、制御不能のクリフォードの放逸はユニティにとって、ある意味で追い風であり、ある意味では不安材料だった。クリフォードの影響で、マディオフがロギシーンに送った鎮圧部隊は想定よりも遥かに弱く、そのおかげでユニティは楽々ロギシーンを防衛できた。鎮圧部隊がネイド・カーターやリディア・カーターといった強力な「個」の戦力を持っていなかったのは、ユニティからしてみると一時的にはありがたい話だったのだが、徐々にマディオフを削る、という意味では必ずしも理想的ではなかった。睨み合いが主となるにせよ、もう少し大きな武力衝突を経ないと、終戦が一向に見えてこない。戦争が長引いてしまうとクリフォードの放逸が度を越し、ユニティやゴルティアの計画に“致命的な悪影響”を及ぼす可能性が否定できない。


 早期終戦を願うユニティであったが、どうしても日数がそれなりにかかるのは承知の上だ。軍事境界線での睨み合いは続き、そのまま冬を越す。クローシェをはじめ、ユニティの指導者たちは大雪の候までそう考えていた。願っていた、と言ってもいい。願いは叶わず、静かな対立はほんの数か月で終わりを迎えた。


 軍事行動には適さない積雪期に入ってから、マディオフ軍は鎮圧部隊を再編成してロギシーンに攻めてきた。今度の鎮圧部隊は今までの挨拶程度の弱小部隊とは違う。何せ、リディア・カーターとエルザ・ネイゲルがいる。マディオフ軍が行動を開始した理由はとても明快だ。彼らの足枷となっていたクリフォードが王都から忽然と姿を消した、という実に単純なものである。もしもクリフォードがそのまま王都で犯罪に明け暮れていれば、少なくとも冬の間だけはユニティと鎮圧部隊の戦闘が避けられていたに違いない。


 初期はユニティの追い風となったとはいえ、無頼のクリフォードに何を期待したものではない。襲来戦力は迎え撃つ。最初からそういう予定だった。ただし、予定とは異なる部分がユニティを苦しませる。時間が経てば経つほどマディオフの勢いは衰えていくはずだったというのに、信じがたいほど速やかな大氾濫(スタンピード)の終息によってマディオフは息を吹き返しつつある。これはユニティにとってかなりの暗雲だ。


 大氾濫(スタンピード)が発生した時点で、ゴルティアの戦略部が用意していた作戦はいくつも中止となった。それらの作戦とはいずれもマディオフに混乱をもたらし、国力を削ぐものである。しかし、復興不可能なほど国土を完全に荒廃させることを戦略部は意図していなかった。大氾濫(スタンピード)はそれ単一で甚大な被害をマディオフにもたらす。追い打ちをかけるようにあまりに多くの作戦を決行してしまうと、ゴルティアからしても過剰攻撃になってしまう。戦略部の判断により、作戦の多くは延期ないし完全に中止となった。


 一度中止としたものは、事情が変わったからといってそう簡単に追決行できるものではない。改めて決行するには再度の時間と労力を要する。それまでユニティは援軍の望みが限りなく無に近い西の果ての地で耐えなければならない。


 防衛をするには堅牢な城塞が欲しいところなのだが、生憎とロギシーン一帯には過去の城塞がほとんど残されていない。あったとしても防衛構造としては機能を果たさない遺構と化してしまっている。それはつまり、ユニティが鎮圧部隊を迎え撃つには、野戦や市街戦をしなければならない、ということを意味している。防衛側が有利な城塞戦と異なり、野戦は双方に多大な被害が出る。市街戦はある程度戦闘員の被害を抑えられるものの、今度は民間の人命や財産が大きく損なわれてしまう。防衛戦は勝っても負けても見通しが良くない。ユニティが鎮圧部隊の攻撃に耐えきれるか、それとも押し潰されてしまうかは、()の成果にかかっていた。これは誰かに上から縄梯子(なわばしご)を下ろしてもらうことを期待して後戻りのできない水中へ伸びる一本道を突き進むようなものである。どこからも縄梯子を下ろしてもらえなければ溺水は必定だ。


 リディア・カーターやエルザ・ネイゲルらが人員簿に名を連ねた本格的鎮圧部隊とユニティが初めて交戦したのは、年を越す数日前のことだった。以降、ユニティは鎮圧部隊と何度も野戦を繰り返す。これも初めのうちはよかった。リディアやエルザの実力は噂に尾ひれがついた誇大な喧伝(けんでん)などではない確かなものだった。実際に剣を交えたアッシュやクローシェ自身も、そう認めている。しかし、彼女たちは実戦経験が全く不足していた。それだけではなく、鎮圧部隊の指揮官は統率力に欠けており、目まぐるしく状況の変わる戦場で機敏に策を練られる兵法家もいなかった。有り体に言うならば、鎮圧部隊は若く盛んなばかりで老獪さに欠けていたのだ。総戦力的にはユニティを大きく上回っているマディオフの鎮圧部隊を、アッシュとクローシェを中心に据えたユニティの戦闘部隊は撃退した。


 ひとつの会戦の勝利をもって全体の成り行きが順調と評価することはできない。迎撃はあくまで成功であって、大成功ではなかった。後から振り返った際の最大の不満点は、リディアとエルザのどちらも捕虜にできなかったことだ。言うまでもなく兵士は初陣こそが最も未熟な状態であり、実戦を経る毎に軍人として完成されていく。成長するのは兵士だけではない。辿々しかった指揮官の部隊統率は徐々に洗練され、指揮官を補佐する参謀は次第に頭角を現し、物怖じせずに指揮官に策を具申するようになっていく。鎮圧部隊は衝突する度に手強さを増し、ユニティにとって強大な敵へ育っていった。


 兵数では負けているユニティが、その差を埋める手段は鎮圧部隊の兵士を倒して兵数を減らすだけではない。鎮圧部隊から捕虜を取り、“治療”して自部隊に加えるのも、またひとつの手である。しかし、そうは上手くいかないもので、ユニティが鎮圧部隊と交戦する、ということは、クローシェの手が塞がる、ということでもある。特殊治療ができるのは、ユニティではクローシェ・フランシスただひとりであり、マディオフ軍人をどれだけ多く虜囚としてもユニティの戦力は簡単には増えない。それどころかむしろ、負傷者や死亡者の分だけ自部隊の戦力は減っていく。


 鎮圧部隊が戦争巧者となればなるほどユニティの先行きは暗く不透明になる。今のユニティの戦闘部隊ではマディオフの鎮圧部隊を撤退させるのが精一杯であり、大勝はとても望めない。もし、リディアかエルザのどちらか片方だけでも捕虜にできれば戦況は一変するのだが、実力差が埋まりつつある現在では机上論だ。


 鎮圧部隊の最強戦力は剣のリディア・カーターと魔のエルザ・ネイゲル。これは二者の父親であるネイド・カーターとウリトラス・ネイゲルが構図そのままに若返ったようなものである。魔法使いのエルザ・ネイゲルは、部隊の前に立ってアッシュやクローシェ・フランシスと剣を撃ち合う白兵戦闘力がない。前に立つリディアと後ろから魔法を放つエルザ、前衛後衛と一見バランスが取れているようだが、アッシュとクローシェの二方面に対応しなければならないリディアの負担は重い。


 手一杯のリディアに対し、アッシュやクローシェは余裕があり、遠方から放たれるエルザの魔法を捌きながらでも鎮圧部隊を荒らすことができる。ユニティが鎮圧部隊相手に有利に戦えていたのはリディアを完全に封じ込められていたから、と言ってしまっても過言ではない。そのリディア・カーターは鎮圧部隊の成長株の筆頭だ。彼女は交戦を繰り返す中で部隊戦闘に急速に適応し、鎮圧部隊の切り込み要員として目覚ましい成長を遂げている。一方のユニティは、アッシュにやや疲労が見られる。年齢が年齢なのだ。クローシェやリディアらのような回復力はない。衝突の間隔が長いうちはまだしも、交戦頻度が増して戦闘間隔が短くなると、戦闘力は目に見えて下がってしまう。


 鎮圧部隊をしばらく軍事行動不能にする良い策でもあればいいのだが、使えそうな策は粗方行使してしまった。策の成果は幾許かの捕虜と鎮圧部隊の撃退だけで、肝心の鎮圧部隊の中心人物にはことごとく逃げられてしまっている。ロギシーンという土地に鎮圧部隊が慣れてきた現在、もうユニティ側の奇策が大ハマリしてマディオフの鎮圧部隊に大打撃を与えることはない。


 鎮圧部隊の総戦力は最初からユニティを上回っている。ユニティが占有しているのは都市ひとつと、その周辺の村々だ。それに対し、鎮圧部隊の背景にあるのはマディオフという一国である。一都市と一国。持久戦になれば結果は火を見るより明らかだ。個々の人員の経験や質によって生じている実力差はいずれ覆り、ユニティは遠からず何かを諦めざるをえなくなる。ただ、一応まだそれはしばらく先の話であるように思われた。




 その日もユニティは鎮圧部隊を退けることに成功した。捕虜こそ取れなかったものの、双方に甚大な被害は出ず、小さな痛み分けとなって終わった。ユニティの狙いどおりではあるが、鎮圧部隊にはもう少し被害を出したかった。これでは、鎮圧部隊は態勢を整えてまたすぐにユニティに攻撃を仕掛けてくるだろう。


 闘いが終わり、ユニティの戦闘部隊は帰路に就く。交戦を振り返り、来る再戦の日を思い浮かべ、としているうちに、クローシェ・フランシスは庁舎前に辿り着いていた。思考を戦闘寄りの戦人から内政寄りの文官へと切り替えようとした彼女だったが、庁舎の前で次将の帰りを待っていた従者ビークの顔色を見て、はたしてこれからどちら側の思考が必要になるものか、と思案した。


「お帰りなさいませ。フランシス次将」

「ただいま。ビーク」

「至急、お耳に入れたいことがあります」


 ビークの顔は深刻そのものであり、悪い報告があるのは一目瞭然だ。時間が惜しいクローシェは、執務室へ向かう道すがら、報告を上げるようビークに要求するも、内容は耳目を憚るものらしく、ビークはすぐに話そうとしない。


 クローシェはビークを伴い、足早に自室へ向かった。




    ◇◇    




「……なるほど。懸念が現実のものになってしまったようですね」


 頭を抱えたくなるような大問題を報告されたクローシェは、やっとの思いで返事を絞り出す。次将たるクローシェが部下の前で絶句はできない。動揺は他者にも伝播する。特に下の立場の者へ与える影響は大きい。場合によっては集団恐慌(パニック)の原因になる。


「総大将が戻り次第、臨時会議が開かれる予定となっています。開始時刻は追って報告いたします」


 ユニティ総大将であるアッシュはまだ庁舎に戻ってきていない。兵営区画で下位の戦闘員に交じり、交戦後の回収作業に勤しんでいる。机の前に座り続けるのを嫌う彼の、戦闘後の決まった行動だ。


 アッシュがいないと会議が始まらないのだが、戦闘部隊の正確な被害状況が判明していたほうが話し合いは捗る。深刻な被害は出ていないのだから、そうは長い時間がかからずに庁舎に戻ってくるだろう。アッシュ当人も、総大将の自分が兵営区画に長時間入り浸るべきではないことを理解している。これはそういうことを理解したうえでの、彼なりの息抜きのようなものであり、総大将にも慰安の時間が必要だろう、と考えたクローシェは、ともすれば戦闘員贔屓(びいき)にもとられかねないアッシュのこの行動に対して、特に諫言せずにいた。


「分かりました。今日は“治療”する時間がなさそうですね。会議開始まで私は報告書の続きを読むとします」

「かしこまりました。では、お戻りになったばかりではありますが、お食事にしませんか」


 出撃前よりも少し高さを増した書類の山に目を向けるクローシェは、ふと強い視線を感じて面を上げた。するとそこには願望を熱烈に視線に込めたビークの“懇願”の顔があった。『報告書を読みながらでもいいから、とにかく飯を食え』と、分かりやすく顔に書いてある。


 クローシェはやや気圧(けお)されながらビークの提案を了承する。


「え、ええ……。では、いつものように部屋に持ってきてください」

「可及的速やかにお持ちいたします。今日はとても良い魚が入っている、と調理部の人間が申しておりました。大変珍しく、しかも極めて美味しいらしいです。きっとご満足いただけますよ」


 ビークはクローシェを閉口させる問題発言を嬉しそうに残すと、軽やかな足取りで次将執務室から出ていった。


 自分を敬愛してくれている従者に気分を著しく害されてしまったクローシェは閉じていた口を数秒間だけポカンと開けて放心した後、自分を取り戻して書類に向き直った。


(会議の流れ次第ではこれから長期間、部屋に戻れないかもしれない。ザッとでもいいから書類全部に目を通しておかなきゃ)


 クローシェは山と積まれた報告書の全てを精読することを諦め、全体を流し読むと決めて山の天辺にある一綴(ひとつづ)りの書類を手に取った。


 クローシェ以外にもこの報告書を読んでいる人間はいる。ユニティの頭脳の中心として機能しているのは決してクローシェではない。その人間さえこれらを読んでいれば、アッシュとクローシェが報告書を読むのは必須ではない。ひとつひとつに署名する時間すら惜しんだクローシェは凄まじい勢いで書類を読み飛ばす。


 次々に報告書を読んで、ひとつの山の最下方に敷かれていた書類を手に取ったところで、左右に規則的に流れていたクローシェの目がピタリと止まる。


 その報告書は、他の報告書とは毛色が随分異なっていた。しかも、重要度はそれなりに高い。鎮圧部隊との交戦が激しさを増す中では起こって当然の問題が、そこには記されていた。


(彼女は随分と頑張ってくれていたから、これは必発だったのかもしれない。でも、時期が時期だけに大分拙い)


 ユニティを構成するのは戦闘員ばかりではない。むしろ、戦闘員のほうが少数であり、圧倒的大多数は非戦闘員としてユニティを支えている。報告書に載っていたのは、ひとりの女性の身に起こった出来事だった。その女性は厳密にはユニティの構成員ではないのだが、ユニティの活動継続に大きな役割を果たしている。非戦闘員のひとりに大きな負荷がかかっていたことをクローシェは激しく後悔した。では、こうなると分かっていたらその問題を避けられていたか、というと、それもまた難しいのだが、それでも悔やむのが彼女である。


 後悔に揉まれながらもクローシェは手に持っていた報告書を読了した書類の山にポンと投げ重ねた。そして次の書類に手を伸ばしてみると、これにもまた異彩を放つ問題が記載されているではないか。


(どうして問題というのはこうも重なって起こる……)


 弱ったところに追い打ちをかけるように問題は積み重なっていく。そういう経験則を何と呼んだだろうか、と記憶の扉を叩きながら書類の内容を読み進める彼女が次に気付いたのは、書類に記載されていた問題の“発生場所”と“日付”だった。


(あれ……。これってさっきの報告書と同じかも?)


 読了した報告書の山から重ねた直後の報告書をひとつつまみ上げ、再度日付を確かめる。


(やっぱり、この二つの問題が起こったのはほとんど同時期だ)


 二つの書類に跨って上げられた報告が、その奥底に見過ごしてはならないひとつの大きな異変を包み持っている、とクローシェは直感した。


 ロギシーンの地下を這いずる醜悪な“影”がこちらを笑っているような気がして、クローシェはぶるりと大きく身震いするのだった。




    ◇◇    




 クローシェが会議室に入ると、既に参加者は全員着席していた。情報収集に時間を割くあまり、彼女は会議開始時刻に少し遅れてしまっていた。


 衛兵団団長のガイネス、ユニティの実質的な頭脳であり統括丞相を担うスターシャ、戦闘部隊の幹部ら、並み居るユニティの中心人物たちが、最後に会議室に入室するクローシェに一斉に視線を集める。


 唯一総大将のアッシュだけは、ぶすりとした表情のまま、真っ直ぐ前を睨んでいた。


 クローシェが席に着くと、会議室奥の席にかけていたスターシャが立ち上がる。成人女性としては少し小柄な身体と神経質を絵に描いたような顔のスターシャが会議の始まりを告げる。


「予定人員が揃いましたので会議を始めます。急ぎにつき挨拶は省略いたします。ロギシーン東部でゴブリンの出現頻度が上がっていたことは皆さんご存じかと思います」


 スターシャは一拍間を置き、出席者一同の顔を見回す。


 ある者は無言無動のまま手許の資料に目を落とし、ある者はスターシャの目を見て小さく頷く。


 ゴブリンが増えている、という報告はクローシェも前から受けていた。しかし、それが 大発生 ヒュージアウトブレイクと呼べるようなものでない、とも理解していた。その理解は先程執務室でビークの報告を聞いた瞬間に一変した。


「ロギシーン東部にオレツノという村があります。現地のハンターが、村から数時間の距離の山中において、千を超すゴブリンが組織だって活動しているのを目撃しました」

「目撃証言は他にも多数上がっているのでしょうか」

「千超の大集団を目撃したのはハンターひとりだけです。ですが、それ以外にも複数の地点で、ハンター、非ハンター含めて複数の人間がゴブリンの中規模の集団を目撃しています。ヒトの生活圏にかなり近い場所までゴブリンは足を踏み入れています。正確な総数は掴めていないものの、“危険水域”を超えているのは疑いの余地がないものと考えます」


 魔物の総数はとても重要な情報だ。増えすぎたゴブリンから人間の街や田畑を守るため、千体のゴブリンを討伐可能な部隊を編成して現場に向かい、結果的に数千体のゴブリンに返り討ちにされてしまった、となっては目も当てられない。しかし、数が多くなればなるほど正確な数は掴めなくなるものだ。


 ゴブリンとはしばしば大発生を起こす魔物である。気候の安定や山野の恵みの著増など、大発生の予測因子はいくらか明らかになっているものの、現代においても大発生の時期や地点、規模を正確に予知するのは不可能である。ゴブリンの繁殖の早さは半ば一般常識と化しているが、不思議なことにこの魔物は人間の飼育下だと一切繁殖しない。これで人工繁殖に成功していれば、大発生の根本原因にももう少し近付けていたかもしれない。情報や研究が不足していることから、ゴブリン大発生の最大の起点(トリガー)は、太古の昔から現代に至るまで不明である。ゴブリンは人間によく知られた魔物でありながら、まだまだ未知の部分が残されている。


 ゴブリン大発生と同時に起こりやすいのがゴブリンキングの出現だ。生まれからして特殊な個体がキングに至るのか、あるいは既存の個体が環境変化で突然変異を起こして生じるものなのかは分からない。とにかくゴブリンキングはどこからともなくゴブリン集団の中に現れる。このゴブリンキングは、通常のゴブリンの群れの長とは性格がかなり異なる。身体は他の個体よりも二回りも三回りも大きく、体毛色は濃く毒毒しく変化し、強く凶暴になる。そして暴力性の増進とはやや矛盾することに、知能は向上する。そして最も厄介な特徴が、指揮(コマンド)能力だ。キングが出現すると、大発生したゴブリンの集団全体がいきなり強くなる。ゴブリンキングは集団能力向上のような指揮(コマンド)系統のスキルを自然に備えている、というのが有識者の見解だ。


 ゴブリンは数体程度であれば一般の村人でもそこまで苦労せずに倒せる弱い魔物でしかないが、千を超すとなると純粋に数の暴力として脅威になる。そこにゴブリンキングが出現すると、その大集団は災害のひとつに大きく化ける。


 ゴブリンキングのいないゴブリンの大集団はあっても、大集団なしにゴブリンキングが出現することはない。これは例外のない確実な法則だ。ゴブリンキング出現の厳密な条件は判明していないが、爆発的に数が増える前に集団の総個体数が減ると、ゴブリンキングは出現しない。


 ゴブリンキングさえいなければ、ゴブリンの大集団は災害の数歩手前、手強い魔物集団で済む。ならば、ゴブリンキングの出現を防ぐためにも、増えたゴブリンは定期的に討伐して間引こう、というのが、ヒトの当然考えることである。これもまた、ハンターならずとも誰でも知っている常識だ。


 しかし、ゴブリン討伐のみに生きる人間などいない。ゴブリンは狩ってもあまり金にならない。街から街へ移動する際に街道付近に現れたゴブリンを狩って討伐の証を役所へ持っていけば、街道整備料として少額の報酬が支払われるものの、これは何かのついでに行うものであり、ゴブリン討伐報酬のみで暮らしていくことは全く現実的ではない。


 ゴブリンの増加を知っていたユニティはゴブリン討伐を奨励し、報酬金額を上げていた。では、それでハンターが(こぞ)ってゴブリン討伐に勤しむかというと、そういうものでもない。そこまで多額の費用をユニティは計上できないし、危機感を自らの肌で感じないことにはハンターも民間人もゴブリン討伐に本腰をあげない。もし、手さえ空いていればユニティの戦闘部隊がゴブリン排除に向かうこともできたのだが、何分にも鎮圧部隊の動きは活発であり、フィールド奥深くまで出向いてゴブリンを間引く余裕がユニティにはなかった。


「ゴブリンキングはどうなっていますか。まさか、もう誕生してしまった、などということは――」

「現時点では、そのような報告はありません。差し当たって、チタンクラスのハンター、ミレイリ他、ハンター多数と契約を結び、ゴブリン討伐に派遣しています」


 会議の場に『ゴブリンキング』という単語が飛び出した途端、アッシュは思い出したかのように自らの懐を探り始めた。変化に乏しい彼の表情からは、内心を伺い知ることができない。


「ゴブリン増加の報告はしばらく前から上がっていた。だからこそゴブリン討伐の依頼は何度も出していたのに、ハンターは今まで一体何をやっていた!」


 会議参加者のひとりが不快感を露わにして忌々しげに吐き捨てる。


 諸ハンターに対して上がった怒りに反応し、懐を探る手を止めてアッシュが口を開く。


「増えすぎたゴブリンの総数調整に必要なのは強さよりも頭数だ。シルバークラス以上のハンターを十分な数、雇えるような依頼のかけ方をしなければ間引きとしての価値は低い。特定箇所をねぐらにしたゴブリンの駆除依頼から費用を算出して依頼を出しても、シルバークラス上位以上のハンターはそういう安案件を手がけない。カッパークラスか、シルバークラス下位のハンターが少数名、応募するだけだろう」


 アッシュの説明を聞き、腹立ち紛れにハンターの仕事ぶりに文句を言った人間は憮然として黙り込んだ。彼はアッシュに対しても何かしらの文句を言いたげな様子ではあるが、会議の場で総大将に感情任せに噛み付くことの無意味さを考えて踏みとどまったのだろう。


 気まずくなってしまった会議室内の雰囲気を払うため、スターシャが闊達な意見を促す。


「査問会ではないのです。思うところはそれぞれあるかもしれませんが、本会議において話し合われるべきはこれからの対応です。質問や意見はありませんか」

「民衆の避難は?」

「オレツノとその近隣の村では既に住民の避難を始めています。時期が時期だけに少々時間がかかっているものの、今のところ人命被害はありません」

「それでいい。人命さえ守られていれば復旧はあとからいくらでも可能だ」

「今が冬場なのは、悪い面ばかりではありませんね。農地は比較的荒らされにくくなる」

「その代わり、家屋は余計にボロボロにされるがな」


 農地の上に降り積もった雪は天然の防具となる。腹を減らした魔物は雪をかきわけてその下の地面を掘り返し、食べ物を探す。しかし、ヒトが避難した後の家屋に食料を少々残しておけば、ゴブリンはそちらを狙う。ゴブリンだって、別に好き好んで冷たい雪に手や顔を埋めているわけではないのだ。


「農地が完全に無事でも、家屋がやられると来季の収穫と税収は減るでしょうねえ……。農地まで荒らされると、影響はそれこそ数年越しですよ」

「それはこれからの討伐の出来に左右される。的確迅速にゴブリンを殲滅すれば減少幅は抑えられる」

「そうですな。ゴブリンキングの出現は絶対に防がねばなりません。ゴブリンキングの出現を思えば、 大発生 ヒュージアウトブレイクのあらゆる被害は軽微と言い切れるでしょう」

「全くそのとおりだ。仮に出現したとしても、こちらには“王殺し”の異名を持つ総大将がいる。何も問題ない。そうでしょう、総大将?」


 数々の魔物の親玉を討ち取ってきた歴戦の名ハンター、アッシュに会議室の視線が集中する。


 注目を浴びる当のアッシュは、というと、懐から探り当てた(てのひら)大の道具を机の上で弄り回している。


「何をしているのでしょうか、総大将?」

「これは、その“王殺し”とかいう御大層な異名を授かるに至った原因。良く言えば、中心的役割を果たした魔道具だ。それで……」


 アッシュは途中まで言いかけて黙り込んだ。言い淀んだ、というより、手元の魔道具弄りに集中して、喋る余裕がなくなった様子だ。


 魔道具を握る両の手に力を込めてプルプルと震えた次の瞬間、バキン、と穏やかならぬ音を立てて魔道具は二つに割れた。


 大切な魔道具を壊してしまったのではないか、と、会議参加者たちは机に身を乗り出し、目を見開いてアッシュの手元に注目する。


「やっと外れた。しばらくメンテナンスしない間に蓋が固くなってしまっていた」


 どうやら魔道具を損壊したのではないらしいことが分かり、参加者たちは安堵して姿勢を正すと、それぞれの椅子に腰掛け直した。


「それで、その魔道具は具体的にどのような効果を持つのです?」

「この魔道具な……」


 アッシュは質問した人物の顔をちらりと眺めてから魔道具に視線を戻した。


「使い方は複数ある。今回の件に使うなら、ゴブリンキングを探し出すのに役に立つ。キングがいる大体の方角と距離を教えてくれる」

「おぉ! そのような魔道具があったのですね」

「何とも頼もしいですな」


 ゴブリンキングが出現する前に大集団を殲滅するのが、今のユニティが理想とする目標だ。しかし、理想は理想として、現実にゴブリンキングが出現した場合のことも考えておかなければならない。そんなときにその魔道具はこれ以上ないほどの価値を発揮するだろう。元ミスリルクラスの冒険者が取り出した素晴らしい魔道具に、会議室は感嘆のどよめきが広がった。


「壊れていなければな」


 ボソリと呟かれたアッシュの一言がどよめきを一瞬で消す。


 参加者のひとりがおそるおそる尋ねる。


「こ、壊してしまったのですか?」

「俺が今壊したと思っているのか? 俺が今やったのは、蓋を開けただけだ。魔力の尽きた精石を取り出すためにな。魔道具の仕組みとか作りに関してはよく知らないが、パッと見た限りだと壊れてはいないように見えるぞ」


 アッシュは分解した魔道具の中からくすんだ色の小さな石を取り出すと、参加者全員に見えるように机の真ん中へ転がした。


 小指の先ほどしかない石に、クローシェは目を凝らす。


 一見するとただの石であり、精石かどうかは見分けがつかない。ましてや魔力が満ちているのか尽きているのかなど分かりようがない。自分で手に持って眼前に近づけてみたところで、分からないものは分からないだろう。


「この精石、魔力が尽きている、ということですが、総大将は一体どうして――」


 アッシュに投げかけられた質問を遮るように、会議室のドアが三度、叩かれた。


 ノックに対し、スターシャが答える。


「どなたでしょう」

「ゴラッソです。ご注文の品をお届けに上がりました」

「俺が呼んだのだ。入らせてくれ」


 スターシャに入室を許可され、会議室のドアが開く。入室するは、癖っ毛の髪を後ろで束ねた偉丈夫だ。体格はアッシュに勝るとも劣らない。日頃、このゴラッソという男はアッシュの従者兼護衛の任に就いている。供回りの中で最も腕が立つゴラッソは、今は何か急ぎの品を買いに走らされていたようだ。


 ゴラッソが参加者の背後をススと歩いて抜ける。そして、スターシャの後ろを通り過ぎようというところで、スターシャに腕を掴んで止められた。膝と腰を軽く折って身をかがめるゴラッソにスターシャが耳打ちをする。


 二者のやり取りはすぐに終わり、ゴラッソはそのまま後ろを通ってアッシュの横で(ひざまず)くと、宝石箱のようなものを(うやうや)しく差し出した。


 受け取った箱をアッシュが無造作に開ける。


 箱の中から出てきたのは雀卵大(じゃくらん*)か、それよりやや小さいくらいのひとつのくすんだ色味の石だった。アッシュが先程、魔道具の中から取り出した精石よりも一回り大きい。




[雀卵――スズメの卵。大きさは長径にして二〇ミリメートル(  2cm  )弱]




 石を手に取ったアッシュが(うめ)くように漏らす。


「うっ……。ちょっと大きいかな……」

「総大将。その品は?」


 質問されたアッシュは片手で石をつまみ上げると箱を机の上に置き、開いた片手でゴラッソに合図を出した。すると、ゴラッソは跪くのをやめ、総大将の護衛のひとりに戻ってアッシュの背後に悠然と立った。


空晶石(カイアストライト)タイプの精石だ。その中でもこれは優れた魔力を内包している。上級に分類される逸品さ」


 傍目で分かる新旧の精石の違いは大小の差くらいのものである。実はどちらも精石などではなく無価値な小石だ、と言われればそう見えるし、魔力が波波と満ちた貴重な精石だ、と言われると、途端に高価な物のようにも見えてくる。


 ユニティ次将という立場にありながら、石と精石の見分けすらつかない自分の審美眼のなさに、クローシェは内心悄悄(しょうしょう)となってしまう。


「少し大きめだったが、何とかはまった」


 アッシュはゴラッソによって届けられた新しい精石を魔道具の中に込めると、外した蓋をはめて魔道具を元の形に戻した。


「それで……。どうなのでしょう?」


 詳しく語ろうとしないアッシュを参加者のひとりが急かし、結果説明を求める。


「少し起動に時間がかかるんだ。もうちょっと……。お、起動した」


 思わせぶりなアッシュの言葉に、会議室の人間たちはまたしても机にやや前のめりになる。


 誰も何も引っかかるものを覚えなかったようだが、クローシェは違った。スターシャの眉の微動も、他の出席者たちとは異なる微小な違和感への気付きを思わせる。


(魔道具が使用可能になるまで時間がかかるのは何も変ではない。でも、アッシュは起動が完了したのをどうやって確信したのだろう。起動の前後で魔道具には外見上、何の変化も生じていない。精石を込めてからの経過秒数でも心の中で算していたのだろうか? ううん、喋りながらだとそれは難しい……)


 アッシュはニヤと笑うと、室内を見回した。会議が始まってから初めて見せる笑顔である。


「大丈夫だ。ゴブリンキングはいない」


 災害が生じていないと分かり、会議室のあちこちから安堵の溜め息が漏れる。


「ゴブリンキングが出現すると、この針が方位磁針のように動いて方角を指し示す。魔道具下部にある蛍光石の発色や明滅でおよその距離も分かる。あまり遠くにいる魔物には反応しないのだが、オレツノであれば何とか拾えるはずだ。しかし、魔道具は起動完了しても反応を示していない。つまりゴブリンキングは出現していない」

「おお、そうですか。それは何よりです」

「一瞬、肝を冷やしました」

「ゴブリンキングは災害そのものですからね」


 緊張が解けた出席者たちの顔には朗らかないい笑顔が浮かんでいる。それだけゴブリンキングの出現を怖れていたのだ。


「ゴブリンキングが出現していないのは朗報ですが、あまり浮かれて時間を無駄にしてしまうと、朗報が悲報に変わってしまいます。急ぎ、ゴブリン殲滅について考えましょう」


 笑顔は自分には無関係なもの、とでも言うように、スターシャは無表情のまま、話し合いを前に進めるよう促す。


 アッシュの笑顔は消失し、先程と同じように不機嫌なものに戻ってしまった。アッシュとスターシャはウマが合わない。直接ではないやり取りひとつを見るだけでそれは簡単に分かる。組織の顔と組織の頭脳が不仲であることを再確認し、クローシェはどっと気が滅入った。


 何はともあれ、ゴブリンの大量発生は喫緊の対応課題である。ロギシーンから派遣するハンターだけでは到底手が足りない。そこでユニティの戦闘員をいくらかオレツノへ派遣することが話し合いで決まった。


 ゴブリン自体は誰でも倒せる魔物だが、ここまで数が多いとハントの心得のある人物を選出するのが望ましい。具体的な人員選抜は軍事部門に一任された。


 その他、細々した案件の進捗を二、三確認し、会議は終わりを迎えようとしていた。


「では、ゴブリンの 大発生 ヒュージアウトブレイクに関する会議は閉じようと思います。担当にはならなかった部署の方も、担当部署の方々に何か頼まれた際はできる限り融通をきかせるようにお願いします。他になにか急ぎの議題はありますか?」


 会議終了直前、急を要する案件の有無を尋ね、スターシャが再度、会議室を見回す。


「ないようですので――」


 散会の言葉がスターシャの口から出かけた瞬間、机の上に置かれっぱなしだった魔道具に変化が生じた。


 魔道具の上側についた透明な球の中、どこも定方向を指し示さずに傾いたまま止まっていた針がグルグルと回る。針は十か二十か分からぬほどギュンギュンと高速で回転した後に勢いを緩め、ある方向を指し示してぴたりと止まった。


 透明な球を下から支えてている土台部分にはまった蛍光石が淡く緑に点灯している。


 魔道具の様子が急変した意味を、おそらく出席者全員が薄々分かっている。しかし、それはあくまで推測であり、アッシュに『そうだ』と明言されるまでは事実と確定しない。


 自分の推測が間違っていてほしい、そんな切実な願いを込めて、クローシェはアッシュを見た。


 そんなクローシェの気持ちを知ってか知らずか、アッシュは淡々と口を開いた。


「すまん。会議は延長だ。どうもたった今、ゴブリンキングが発生したようだ」


 アッシュが生み出した災害でもないのに、彼は出席者の大半から憤怒や憎悪の目を向けられた。理不尽に負の感情を向けられたアッシュは気分を害してもおかしくない。それなのに、クローシェの目にはなぜかアッシュが心なしか楽しんでいるように映った。

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