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第三五話 ユニティ 一

 ロギシーンはマディオフの国土北西部に位置する大都市である。北と西は外洋に面し、南と東には広大な穀倉地帯が広がっている。三大都市の中で最も農水産業に秀でたマディオフ最大の食料生産地、それがロギシーンだ。


 ロギシーンは現在、武装集団の占領下にある。この武装集団はマディオフの旧体制側から見れば反乱軍だが、蜂起した武装集団は自身を何と呼称しているのだろうか。


 今も昔もロギシーンの行政中枢として機能するひとつの建物の前に一基の石碑が鎮座し、横には三本の旗がたなびいている。旗の一本は赤を背景に王冠を戴いた白鷲が翼を広げているもので、マディオフ人の見慣れた王家の紋章を旗印としたものだ。もう一本はマディオフの国旗で、残るもう一本にはマディオフ人の大半がまだ見たことのない意匠が象られている。天を翔けるドラゴンと引き絞られた二張りの弓。それがこの武装集団が用いている紋章である。


 石碑にはロギシーンの銘が彫られており、碑の横には重厚さのない真新しい看板が掲げられている。落ち着いた色合いの石碑と違い、目を引く現代的な体裁をした看板には『ユニティ』との文字が刻まれている。統一(ユニティ)、それがこの武装集団の名前だ。


 ユニティはロギシーンの庁舎を本部と定め、庁舎及びその周辺区画から占領地域一帯にあらゆる指令を発していた。現在この場所はユニティの行政区画兼戦略本部なのである。庁舎におけるユニティの活動はそれだけにとどまらない。ある特別な行為がここでは行われている。


 庁舎地下一階の一室の扉横には『治療室』との表札が掲げられている。この部屋で行われている治療は極めて特殊だ。マディオフどころか周辺国にまで視野を広げてもこのような治療を見かけることはない。


“特殊治療”は不定期に行われている。治療が一度始まると治療室からは長時間、大絶叫が響き渡る。凄惨な叫び声は、この世の全てを恨むような憎しみや怒り、苦しみを乗せている。


 治療の現場には重要な構成要素が二つある。治療を受ける者と治療を施す者、平たく言えば患者と治療者だ。治療室で叫び声を上げるのは患者というのが古からの習わしだ。治療に伴う苦痛は時に大の大人さえも恐れさせるものであり、苦痛の程度が強ければ叫び声を我慢できない。治療者も時に大声を上げるが、それは大抵、叫び声ではなく患者を黙らせるための怒鳴り声である。


 ここユニティの治療室においても、叫び声を上げているのは患者だ。この点は普通の治療室と変わらない。あえて通常と異なる点を一点挙げるとすれば、この“治療”を納得して受けている患者が唯のひとりもいないこと、これに尽きるだろう。




 その日も“治療”は行われていた。治療室の中で治療者として立つのは、ひとりの若い女だった。女は目の前の全身を拘束された患者に向けて両手を伸ばし、魔法をかけている。


 女の両手から放たれる柔らかい光を素人が見たならば、女が行使しているのはきっと回復魔法だ、と考えたことであろう。もしも、素人ではなく治癒師の魔法に精通した人間が見たならば、もう少し深い洞察が得られる。


 患者として拘束された中年の男を包み込んでいる淡い光がやおら光量を増し、それと同時に、厳しかった女の目が穏やかになる。一瞬だけ強くなった魔法の光は急速に弱まると、音もなく消えていった。


 女は柔らかな笑顔を浮かべて男に話し掛ける。


「アンジェイさん。“呪破”は完了しました。気分はどうですか?」


 女は男の身体の自由を奪っていた拘束を外していく。女が魔法を行使している間、片時も離れずに部屋の隅で治療を見守っていた助手が拘束台の横に参じ、拘束解除作業に手を貸す。


「ああ……悪くない。確かに縛られていたものから解き放たれた感覚が、なんとなく分かる。俺は本当に呪われていたんだな……」


 拘束台に上に仰向けに寝かせられた男の身体は汗でびっしょりと濡れている。その汗は、恐怖に伴う感情由来の発汗と、拘束から逃れようとして筋肉に力を込め続けたことによる運動由来の発汗の二者が混じり合ったものだ。


 女が男に“治療”を施している最中、男は魔法から逃れるために暴れ、叫び続けていた。もしも男の身体が拘束されていなければ、男は治療者の女を殺し、助手を殺し、室内を破壊し、上階へ登って暴力の限りを尽くしたであろう。女も助手も経験上、そのことを重々承知している。


 拘束下で“治療”に抗い続けた男は人生最大の緊張と興奮状態にあったと言える。“治療”が終わった今、男の身体は疲労激しいものとの想像に難くない。しかし、身体的な疲労よりも精神的な解放感が勝っているためか、男の表情には清々しさがある。受け答えはとても落ち着いた様子で、声にも活力を伴っている。


“治療”が完了した彼は、『自分が呪いに冒されていたこと』に納得し、『呪いから解放された現在の自分の身体』に大きな満足感を得ていることだろう。


王族の呪い(ロイヤルカース)が解けた今、あなたは自分の意志を取り戻しました。あなたは取り戻した自らの意志でこれから何をすべきか、どうしたいのか考え、行動を選択してください。“作られた自己意志”ではなく、“本当の自己意志”で。叶うならば、あなたの選択が私たちと手を取り合うものであってほしい。私はそう思っています」


 男は“治療”前、全身を完全に拘束されていた。“治療”を終えて拘束の大半は解除され、最後にひとつ、両手を繋ぐ手錠だけが残っている。胴から首から四肢からを拘束されていたことを考えれば、男の解放感は推して知るべきだろう。それに、この場において重要なのは身体を戒める物理的な拘束ではない。精神に作用して思考を縛る魔法的な拘束だ。“治療”完了により、男は限りなく完全に近い“解放感”に満たされているはずだ。


 柔和な笑みを浮かべる女に対し、男は力強い意志の込もった視線を返す。


「俺のこれからの行動は決まっている。お前たち、いや、あなた方に協力する」


 アンジェイと呼ばれたその男はマディオフの軍人である。彼は捕虜となってなおユニティへの反抗姿勢を崩さなかった。それが“治療”によって様変わりした。


 彼はユニティに協力することを宣言した。面従腹背などではなく、これからはユニティの戦力のひとつとして奮闘するだろう。




 アンジェイは“治療”を見張っていた武官に付き添われて治療室から退室した。


 女と二人だけになり、助手の男が口を開く。


「お疲れ様です、フランシス次将。呪破にかかる時間は短縮の一途を辿っていますね」

「ありがとう、ビーク。でも、まだまだです。これでもまだ遅いくらいです」

「次将はいつも向上心に溢れていらっしゃいます。でも、少しお休みください。もうずっと休息を取っていません」


 助手ビークの言葉が通り一遍のものではない、心底からの願いであることは表情より一目瞭然だ。治療の間ずっと我慢していた想いを、今やっと言葉にして伝えることができた、という様子である。


 これで二人の上官下僚という立場が真逆だったならば、ビークは治療を途中で遮ってでもクローシェ・フランシスに休息を取らせていたかもしれない。


 まだ休めない。休むわけにはいかない、と喉まで出かかった言葉をクローシェは飲み込む。


 ビークの指摘どおり、クローシェはもうかなり長い時間休憩を取っていない。次の作戦がいつ始まるかはクローシェにも、助手であり従者であるビークにも分からない。ロギシーンでは唯一、クローシェにしかできないこの特殊治療を含め、彼女にはやらなければならない仕事がいくらでもある。しかし、やるべきことの全てを一度にこなすのは無理というもので、必ず優先順位を付けなければならない。


 ひとりでも多くの人に、少しでも早く“治療”を施したい。


 その欲求は、クローシェ・フランシスという人間の人格や感情を司る精神の根源から絶え間なく湧き出している。無限に湧出する欲求をクローシェはぐっと(こら)え、一定時間の休息を自らの身体に与えるべくビークの提言に同意する。


「そうですね。少し休ませてもらいます」

「お休みになる前に少しでも何か召し上がってください。身体を壊されてしまいます」

「そういえば補給も忘れていました。では、食事を部屋に持ってきてもらえますか?」

「かしこまりました。直ちにお持ちいたします」


 クローシェが無補給無休息で治療を続けていた、ということは、それに付き従っていたビークもまた疲れているはずである。立ちっぱなしで足がパンパンに張っているであろう部下は、『休む』というクローシェの言葉に歓喜し、疲れを感じさせない軽快な動きで治療室から出ていった。


 無論、ビークが喜んでいるのは自分が休めるからではなく、奉公する対象であるクローシェ・フランシス次将が必要な休息を取ることに対して喜んでいるのだ。生真面目な人間である。


(お腹は全然減っていないんだけどね……)


 一息入れる短時間の休息だけではない。食事も水分も仮眠も、クローシェは何時間も取っていない。


 疲れれば疲れるほど疲労も眠気も食欲も感じにくくなる。昔からそういう体質だった。


 しかし、身体が発する救援信号に鈍感になるだけであり、疲労しない、補給も要らない特異な肉体を持っているわけではない。無理をした分だけ疲労は確実に身体に蓄積していく。


 特殊な立場に置かれている彼女は、ある意味で総大将のアッシュよりも代えのきかない人間だ。いついかなる困難が生じても応じられるように体調を管理する、これもまた重要な責務である。戦い抜く体力を維持するためにも、空腹を感じずとも食事は適量摂取しなければならない。




 クローシェは通日籠もり続けていた治療室を後にする。暖かいのは室内だけで、部屋と部屋とを繋ぐ通路は身を切るほど冷えている。時候はまだ大寒を過ぎたばかりであり、寒さの底を脱しきれていない。それでも海を西に抱くロギシーンの冬の常として、北国であるマディオフの各地に比べると冷え込みはそこまで厳しくない。白い息を吐き、治療で上気した身体を冷やしながらクローシェは通路を進む。


 ユニティ次将の立場にあるクローシェには専用の執務室が宛行(あてが)われている。自室へ辿り着いた彼女は椅子に腰をかけると、机の上に積まれた報告書に目を通していく。文を読み進める速度はかなりのものなのだが、積み上がった報告書の厚みの下品さときたらない。


 書類の山をクローシェは少しずつ減らしていく。




 帰室以降、もう幾つ書類を読んだだろうか。またひとつの報告書に目を通し終え、読了の署名をして次の書類に手を伸ばすと、書類の上にはいつの間にか食事を乗せた盆が置かれていた。


(多分、ビークは扉をノックし、一言申し添えてから食事を置いていったのだろう。でも、書類に集中しすぎて、ビークが何を言っていたのかも、私がなんて返事をしたかも覚えていないなあ……)


 クローシェは片手で書類を持ったまま、もう片手で皿の上に置かれた媚茶色のパンをむんずと掴む。飽きるほど食べたモルデイン麦のパンを(かじ)り、歯応えと表現するには堅すぎるパンの欠片をバリバリと咀嚼しながら、きっとおざなりになっていたであろう、自身の部下への対応を反省する。


 そして、口の中に収まりきらなかったパンの大部分は湯気の立ち上るスープにザンブと浸す。時に『木板』とか『石ころ』と揶揄される堅いモルデイン麦のパンは、温水で浸軟することによりモチモチと適度な弾力と柔らかさを兼ね備えるようになり、人々に愛される食糧へと早変わりする。


 クローシェはこの堅いパンを自分の主食に指定していた。別に好いているからではない。クローシェは食感や味といったものへのこだわりがあまりない。彼女がモルデイン麦を選んだ理由は、栄養豊富で安いから。モルデイン麦はロギシーンで大量に生産されており、とても安価に流通している。柔らかくして食べているのは、そのほうが好みだからではなく、食事に要する時間を短縮できるからだ。


 パンをスープに浸すのはゴルティアでは別段問題ないが、ここマディオフにおいては俗な行為に該当し、品を求められる席で行ってしまうと顰蹙(ひんしゅく)を買う。クローシェはそれを知りながらも、他に誰も見ていない場所ではこの下品な食べ方を繰り返し行っていた。次将の執務室でどんな食べ方をしようと、それを見るのは従者のビークだけ。生来のゴルティア人ではないビークはクローシェのこの行動に対して何も言わないが、内心は苦々しく思っているかもしれない。


 名目上とはいえ、クローシェはユニティの次将だ。食事内容にも食べ方にも品格が求められる。ビークをはじめ、ユニティの同士はクローシェに常々、もっとよい食事を摂ることを求めていた。しかし、クローシェは元から粗食を苦にする性質ではない。それに、ユニティの予算は全く余裕がない。栄養面からの具申ならいざしらず、組織の体裁を気にして予算を浪費する真似に及ぶなど、クローシェからすれば狂気の沙汰だ。


 モルデイン麦はゴルティアの農学の成功を象徴する代表的な作物だ。比較的近年に大量生産可能になった穀物であり、完全栄養食品に近い優秀な食料だ。欠点としては、パンに加工すると、そのまま食べるにはかなり堅いこと、クセこそないものの素朴にすぎる味わいを好まない人間がそれなりに多いこと、温暖な気候だと育ちにくいこと、これくらいのものだ。


 ロギシーンは海の近さゆえか、塩生植物しか栽培できない斥鹵(せきろ*)がちな地域である。しかし、モルデイン麦はロギシーンの土にも適応して力強く成長し、人々に恵みをもたらす。




[*斥鹵――せきろ。塩気を含んでいて作物のできない土地]




 ゴルティアでは黒い実を結ぶモルデインだが、ここでは媚茶色の実がなる。モルデイン麦はゴルティアで度重なる品種改良を受けている。信憑性は不明ながら、改良前のモルデイン麦はゴルティアでも媚茶色の実を結んでいた、との噂がある。もしかするとロギシーンはゴルティアよりもモルデイン麦の本来の生育環境に近いのかもしれない。


 クローシェの片手が盆の上で空を掴む。()()()食べをしていたせいで、パンとスープは気付いたら無くなってしまっていた。盆の上に残ったのは主菜の魚料理だけだ。


 そこまで好き嫌いのないクローシェではあるが、海産物にはあまり馴染みがない。ロギシーンの海で採れる海産物はマディオフ人から高く評価されている。ただし、それも食べ慣れている人間にとっての話だ。海産物に親しみの薄いクローシェにとって、二日や三日ならともかく、毎日ずっと食べ続けるとなるとしんどいものがある。


 一度気にしだすと魚の匂いは嗅覚に執拗に訴えかけてくる。海産物を主菜に据えたロギシーンの“美味しい食事”に飽き飽きしている現在、飲み込むのにも一苦労を要する。風味に強いクセのないモルデイン麦は少々飽きがきても、食べ続けることには何ら支障がない。


 クローシェは意を決して書類から目を切り、強敵として立ちはだかる主菜に猛攻撃を仕掛け、平皿を瞬く間に平らげた。盆上の食器を掃除し終えたクローシェは決裁待ちの書類の残りに未練の視線を送る。


 書類を再度読み始めると、時間を忘れて眠り損ねてしまうのは目に見えている。体力や判断力を維持するためにも、彼女は休まなければならない。


 報告書の決裁は組織の上に立つ者の重要任務である。ユニティにおいて名目上の頂点はアッシュだ。しかし、元ハンターのアッシュは事務処理能力が高くない。書類に署名するのは問題なくできるが、報告書というのは話し言葉や飲食店の品書きとは異なる独特の文体で作成されている。報告書を読むには報告書を読み解くための知識や経験というものが必要になる。しかも、ただ読むだけでは事実の羅列をボンヤリと眺めることにしかならない。書き連ねられた膨大な量の情報の中から、組織の中に具体的にどのような問題が生じているのか、構造的な不安定性はないか、問題がある場合、どうすれば解決できるか、対応の優先順位はいかほどか、報告に虚偽記載や改竄(かいざん)がなさそうか、様々なことに気を配らなければならない。


 アッシュは頭が良い方の人間に分類されるが、何分にも彼は四十代半ばまでハンターとして活動し続けていた。そんな人間をいきなり机の前に座らされても、高い学習効率は上がらない。決裁業務に慣れるためには相応の時間を要する。では、時間を十分に取れるか、というと、それができないのだ。悲しいことに、ハンターの第一線を退いてもなお、アッシュは戦闘力において傑出した存在だ。ことあるごとにユニティの前身は彼の戦闘力を頼ってきた。昨年、ユニティが蜂起してからというもの、それこそ戦いに次ぐ戦いであり、アッシュは前線に立って戦い続けてきた。机の前に座ってまとまった時間を費やすことはほとんどできなかった。


 事情はどうあれ、アッシュはユニティの総大将であり、書類の決裁が得意ではなくとも、決裁待ちの書類は積み上がっていく。アッシュに内政面は期待できない。アッシュはその書類に黙って署名だけ行っていく。では、大将として把握しておかなければならない問題はどうするか。これは報告書ではなく、文官が事の要点を打開案と合わせて口頭でアッシュに告げている。無駄を重ねているようだが、現状ではこれが最も効率的で、膨大な量の業務を短時間で処理する方法だ。


 内政的にはそれでよくとも、軍事行動となるとアッシュは作戦立案の中心にいなければならない。アッシュは総大将でありながらユニティ最大戦力のひとつだ。ロギシーン各地に部隊を展開するにあたり、ハンターとしての見識も部隊運用に必要不可欠である。報告書の内容を理解していない、では困るのだ。軍事参謀はもちろんいるが、文官寄りの論理設計をする参謀と現場作業員にも近い思考回路のアッシュをいきなり直接やり取りさせるのは非効率である。戦略部側の事情と現場の事情。両方をある程度理解した人間が前もって間に入り折衝しておくことで作戦会議は円滑に進む。その折衝役を誰がやっているか、というと、何を隠そうクローシェ・フランシスだ。


 ユニティでクローシェに求められる仕事は多岐にわたる。ユニティの戦闘力の双璧としてアッシュの横に立ってはマディオフの衛兵と戦い、鎮圧部隊と戦い、時に魔物とも戦う。本部に戻れば庁舎地下に籠って“治療”に勤しみ、“治療”の合間を見繕ってはアッシュの顧問軍師として働くために報告書の隅々まで目を通す。


 率直に言って、クローシェには時間が足りない。やるべきことがあまりにも多すぎる。必然的に眠る時間も食事を摂る時間も削られる。それでも体調を崩すわけにはいかない。仕事が大量に残っている、と分かっていても、いつ次の出撃となるか分からない。後回しにできる仕事は後に回して眠る時間を捻出する。これもまた次将として必要なことである。


 長い髪の毛は戦闘の邪魔にしかならない。そのため、クローシェはいつも自分の髪を短く切り揃えていた。それがユニティ蜂起後、調髪に時間を割けず、長く伸びた髪の先は肩にかかるまでになっている。見るものの目を覚ますような鮮やかな中黄(ちゅうき)の髪を簡単に結い上げると、彼女は安楽椅子に深く身を沈めた。


(私には過分な部屋と椅子だけど、仮眠にはとてもいい)


 温かく包み込む椅子に身を任せ、クローシェは少しずつ覚醒度を下げていく。微睡(まどろ)む意識の中、完全には眠りに落ちずにぼんやりと未来のことを考える。




 クローシェ・フランシスは疲れていた。ロギシーンに来てからというもの、心休まる時間がない。身を粉にしてこの土地に生きる人々のために奉仕し続け、戦端が開かれてからはマディオフ軍を退け続けた。


 マディオフ軍がユニティを鎮圧するべく大部隊を率いて南から現れれば、参謀が立てた奇策をもってこれを打ち破り、東に中規模部隊が現れれば東へ走り、西を狙う情報が流れれば西に転戦し、くる日もくる日も戦った。


 多忙の極みではあったが、窮地の程度で言えばマディオフのほうがよほど苦しい状態だ。ウリトラス・ネイゲルが呼び覚ましたドラゴンの出現に端を発し、大森林の魔物の大氾濫(スタンピード)、ロレアル共和国を滅亡させて獲得し国土東端となったアウギュスト一帯の陥落、混乱に乗じて王都を荒らすクリフォード・グワート。そして国土西では、こうやってユニティが蜂起している。


 これらはゴルティアの戦略部が立てた初期の侵攻案からかなり様変わりしているものの、全体として想定よりも順調に事が運んでいるはずだった。後のマディオフとゴルティアの融和や協力を考えると、マディオフの被害が大きすぎるのも好ましくないのだが、戦争を終わらせるにはある程度マディオフに痛みを感じてもらわなければならない。痛みが強ければ強いほど戦争は早く終る。マディオフ国土西端のロギシーンで耐えるユニティからしても、早期終戦は願わしい。


 当初の予定とは違っても、最終的にはきっと上手くいく。そう願っていた。しかし、“邪悪な力”がそれを許さない。


 大森林発のスタンピードは言うなれば巨大な津波のようなもの。消そうと思って消せるものではない。消波には多大な労力とそれなりの時間を要する。そのはずが、スタンピードの波は急速に消え失せていった。


 災害級の魔物であるネームドモンスターのジャイアントアイスオーガとバズィリシェクは誰も討伐していないのに姿を消した。スヴィンボアの大群(ホード)は、群れを率いるビェルデュマとともに蹴散らされた。四柱最強と称されたツェルヴォネコートは特別討伐隊によってジワジワと弱らされた後、消息不明となった。


 スタンピードの残波こそまだあるものの、マディオフは大波の被害を乗り越えたと評していいだろう。想定を上回る迅速な消波だが、この時期のドラゴン誕生自体が当初の予定にないものであり、ここまでならばゴルティアにとってもユニティにとっても問題はない。


 問題はスタンピードの波を消し飛ばした謎の力が、マディオフ軍と睨み合いを続けるゴルティア軍に干渉したこと。これこそが、謎の力が邪悪なものに由来している何よりの証明だ。


 リクヴァス近くにゴルティア軍は新しい砦を築いた。“邪悪な力”は手始めに砦の後方を襲い、一帯を蹂躙し、最終的には砦を壊滅させた。


 情報はそこで途絶えている。


 年末以降、ゴルティア西伐軍の本隊は一切の情報をクローシェに送ってこない。伝令を出す余裕がないほど追い詰められているのだ。


(ゴルティア軍だけではない。“アウェル”からの連絡もない。ヒューラン様は……)


 微睡みの中、クローシェの全身に力が入る。


 ゴルティア軍がマディオフに送り込んだ特殊工作員。それは、クローシェにとって複数持つ顔のひとつに過ぎない。


 社会に接点を持つ人間は、情報の入手先をいくつも持ち合わせるものだ。何も特別ではない平凡な大学生ひとりを例に挙げてみても、大学の所属ゼミナールの教員から得られる情報、同ゼミ生から得られる情報、大学構内の掲示板に貼られた情報、同好会部員から得られる情報、バイト先で得る情報、遊び仲間から得る情報、買い物先で得る情報、寮生活をしていれば、寮友から得る情報、自宅から大学に通っているならば、家族から得る情報。情報源は数多く存在し、精力的に社会活動している人間ほど、基本的に情報(ルート)は多い。


 クローシェもまた、情報源を複数もつ人間だ。クローシェが抱える情報源の中でもとりわけ大きいのが“ゴルティア軍”と“アウェル”だ。この二つからの音信が途絶えている。ゴルティア軍からの連絡が無いのは、先の“邪悪な力”の干渉とみて間違いないだろう。そしてクローシェの心を最も乱しているのは、アウェルの同志であるホーリエ・ヒューランが一切沙汰を寄越さないことだ。


 ホーリエ・ヒューランはゴルティアの西伐軍総指揮官の任に就いている大将だ。崇高な理念を持ち、“邪悪”に抗う揺るぎなき信念を胸に秘め、マディオフもゴルティアも関係なく、互いに手を取り合う未来を構築するために邁進してきた傑物である。ホーリエの存在があったからこそ、マディオフとゴルティアの間では多くの血が流れずに済んでいた。


 可能な限り犠牲を減らしてマディオフを平定する。そうしなければ人類に未来はない。ゴルティア国内の強硬派からは、日和見主義、と後ろ指を指されながらも、ホーリエは信念を曲げずに欲望と思惑の交錯する西伐軍や戦略部をまとめ上げてきた。そんなホーリエに魅せられてクローシェはアウェルの同志となった。


 ホーリエ・ヒューランの安否を思うと、クローシェの不安は止まらない。ホーリエ護衛の任に就いている軍人たちは精強だ。西伐軍最強のジュール・ゴーダだけではない。様々な状況を打開できる能力者が揃っている。ジバクマのライゼンことクフィア・ドロギスニグが雷魔法でも打ち込んでくれば護衛部隊も真価を発揮できないが、雷魔法はその殺傷力に比し物理的破壊力は控えめであり、部隊で斉唱する防御魔法をもってすれば守りきれるものだ。新造したヴェギエリ砦で守りに徹していれば、クフィアといえどもホーリエの身を脅かすことはできないはずなのである。


 最前線の砦に絶対の安全などというものはない。それでも、ヴェギエリ砦で最も安全な場所にホーリエはいたはずなのだ。それなのに、ホーリエは行方知れずになってしまった。ホーリエの消息不明は、あってはならないことではあるが、大将とはいえ戦死は軍人の常。万が一、ホーリエが、人事不省に陥った、とか、殉職した、という場合は、ゴルティア軍の中で息を潜める、また別のアウェルの同志がホーリエに代わってクローシェに連絡を寄越す算段となっていた。


 それなのに、ヴェギエリ砦をワイルドハントとウリトラス、ドラゴンが襲撃して以降、軍も、ホーリエも、アウェルの別の同志も、誰もクローシェと連絡を取ろうとしない。否、連絡を取れない状態にあるのだ。事前に予想していた最悪を超える拙い事態が起こっている。


(()()()()がまた引っ掻き回したんだ。ウリトラス・ネイゲルがドラゴンの卵を孵す、なんて言い始めたのも、きっとあいつらの仕業だ)


 元々ゴルティア軍はドラゴンの孵卵を早めるつもりなどなかった。ドラゴンを手懐けられるとも思っていなかった。ウリトラス・ネイゲルがマディオフ軍から離反し、ゴルティア軍に従属する。ただそれだけで良かったのだ。ウリトラス・ネイゲルの名前がゴルティア軍の中にあることが重要で、ウリトラスはマディオフの人間を殺す必要など無かった。そもそもこれらの調略は両国に流れる血を減らすためのものであり、被害を増やすためのものでは断じてない。


 ゴルティアの建国理念が真実であることを証明し、ウリトラスをマディオフ軍から引き離す。計画の一部を単純化すればそれだけのことでしかないのに上手くいかなかった。では、ウリトラスの調略失敗が単純な話かというと、それは違う。


 ウリトラスが、『マディオフ軍を裏切りゴルティア軍に恭順するフリ』をしていたとしよう。これならば、ウリトラスがゴルティア軍を攻撃してもなんらおかしくない。しかし、話を複雑にするのは、ウリトラスがワイルドハントと組んでいる点だ。新たに世界に発生したこのワイルドハントはアンデッド集団だ。アンデッドというだけならば、必ずしもゴルティアの絶対の敵ではない。ゴルティア国内にはアンデッドの民や指導者がいくらでもいる。アンデッドという種族を理由にゴルティアがワイルドハントを敵視することはない。少なくとも表向きは。だが、マディオフは違う。


 マディオフの国教である紅炎教は他国の紅炎教と異なる進化を遂げ、独特の原理を主張している。かの国の紅炎教はアンデッドの存在を許さない。つまり、ウリトラスはワイルドハントと組んだ瞬間から自動的にマディオフの敵になっている。今のウリトラスはゴルティアの敵であり、マディオフの敵でもある。しかも、ヴェギエリ砦での一幕を考えると、ウリトラスはドラゴンの馴伏(じゅんぷく)に少なからず成功したようである。これも悩ましい問題だ。クローシェもホーリエ・ヒューランも、ウリトラスがドラゴンの馴伏に成功するとは全く思っていなかった。


 ドラゴンは他の生物に屈しない。ドラゴンを屈服させられるのはドラゴンだけ。一介のヒトに過ぎないウリトラスがドラゴンを馴伏できるわけがない。ゴルティアが長い時間をかけて調略したウリトラスは、ドラゴンの馴伏に失敗して命を落とす。それがクローシェとホーリエの共通する読みだった。これは別に高度な思考を要する推論などではなく、極めて常識的思考に基づいた予測だ。それなのに、ドラゴンを馴伏しようというウリトラスの暴走をゴルティアの戦略部はなぜか止めようとしなかった。良識を持って奔走する人間にとってみれば“暴走”でも、舞台の裏側を知る“邪悪”やその手先にとっては“予定調和”だったのだ。


 ウリトラスがマディオフとゴルティア、双方の敵になった理由は明らかになっていない。しかし、推測は可能だ。一枚(ひとひら)の真実と数多の巧妙な嘘により、マディオフ軍で冷遇される至高の魔法使いは復讐心や反骨心を煽られた。そんなところであろう。一枚の真実とは、ヒトが誰も知らないドラゴンを馴伏する手法。数多の嘘はおそらく、ゴルティアがウリトラスを使い捨てようとしている、などといった不信や憤怒を生み出す種。


(ウリトラスは“あいつら”に騙され、ひどい嘘を信じ込み、ゴルティアを憎んですらいるかもしれない。だからこそ、ウリトラスはゴルティア兵を大量に殺害した。そう考えるとウリトラスもまた被害者だ。何とかして彼を止めなければ。ああ、ウリトラスを“治療”できてさえいれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……)


 より多くの人間を救う。そんな理想に動かされるクローシェは、理想達成を妨げる万難の海の中で薄く微睡(まどろ)む。広く複雑な問題の数々はクローシェに熟眠を決して許さない。それでもかろうじて浅い眠りには落ちられていたのに、また新たな問題の勃発を告げる音が無慈悲にクローシェを叩き起こす。


 扉を三度叩く音。ノックとノックの間隔の短さが、来訪者の逼迫した思いを雄弁に語っている。クローシェは問題塗れの眠りの浅瀬からズルリと精神を引き上げる。身体のほうは深く沈み込んだ安楽椅子から起こし、数回頭を振って眠気を振り払う。


「どうぞ、入ってください」

「失礼いたします、フランシス次将。お休みのところ申し訳ありません」

「構いません。用件をお願いします」


 入室した部下は寝起きのクローシェにマディオフ軍の鎮圧部隊の新たな動きを報告する。


「分かりました。すぐに準備します。出撃の用意を整えてください」


 前回、ユニティが鎮圧部隊と交戦してから日にちはまだそこまで経っていない。鎮圧部隊がユニティに攻撃を仕掛けてくる間隔は、日を追うごとに短くなっている。


 これもまた当初の計画とは異なっている。鎮圧部隊の攻撃頻度が高いのはユニティ蜂起初期に限られ、時間経過と共にマディオフの国力は衰えて攻撃頻度が下がる。クローシェや彼女の同志たちはそう見込んでいた。しかし、実際に起こってるのはその逆だ。理由は明白。鎮圧部隊、ユニティ双方の被害を減らそうというユニティ側の努力が仇になっている。


(もう無理なのかな。彼らも救おうというのは……。ううん、まだまだ。きっとまだ何とかできる)


 クローシェは椅子から立ち上がって身支度を整える。決裁業務だけに没頭せずに食事を摂ったのも、食事後に業務を再開せずに仮眠を取ったのも、いずれも正解だった。おかげで体力はかなり回復している。休む前、疲れていないように感じていたのは錯覚だ。こうやって眠りから覚めた身体からは意欲や活力が湧き出している。


 グローブをはめた手掌で両の頬を数回軽く張って自らを鼓舞すると、クローシェは颯爽と執務室を後にした。

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