第三二話 王都の風説 三
ツェルヴォネコートハントの精算を完了した翌日、我々は王都の寄せ場を訪れた。朝の人夫出しの急場終わりに手配師のテベスを捕まえ、欲していた情報をそれぞれ確認する。
情報収集後、悠長にハントに出かけている場合ではないと判断し、耳目を気にすることなく話すため、一旦自宅へ舞い戻る。
沈痛な面持ちのラムサスに話を切り出す。
「まさかゴルティア軍が春を待たずに撤退するとは……」
「私もゴルティア軍の特殊性を失念していた。もう西伐軍は完全に編成し直さないと、どうにも機能しない」
我々とドラゴンの襲撃を受けたヴェギエリ砦のゴルティア軍は襲撃の数日後、砦を完全に放棄して本国へ撤退していた。大量の資源を費やして建造した砦を放棄し、雪中行軍という危険を冒してでも本国に帰ろうとしたのには、単純明快な理由があった。
「死者二万超……か……」
ゴルティア軍には私とラムサスの予想の十倍近い死者が出ていた。テベスがゴルティア軍の総死者数を述べた時、私はてっきり、『冗談を言っているのだろう』と思った。しかし、何度念を押そうとも、テベスは「本当だ」としか答えない。小妖精もテベスの言葉に何も反応しない。
テベスが戯れてなどいないと分かっても、私はまだそれが事実と信じられなかった。ドラゴンブレスは確かに強烈な攻撃だ。たとえミスリルクラス相当の実力があろうとも、直撃を受けては無事でいられない。ドラゴンブレスが大量の焼死体を作り上げるのは想像に難くない。しかし、ドラゴンがヴェギエリ砦に滞在していたのは短時間であり、砦の中のゴルティア兵全てを焼き尽くすのは不可能だ。
例えば閲兵式のように、兵力の全てが屋外一箇所に固まっていれば、万を超す被害が出ても頷ける。しかし、あの時ヴェギエリ砦は我々と交戦中だった。戦闘配置において、兵は一箇所に密集しない。広い砦の各所に散らばる。あの戦闘配置の状態では、兵が狂乱状態に陥ってブレスに一斉に特攻でも仕掛けない限り、何万どころか、何千という死者など出ないのだ。
ドラゴンブレスが殺すゴルティア兵の数は千前後。それが私の読みだった。そしてそれは別に間違ってなどいなかった。間違っていた、というより、ただ純粋に忘れていたのだ。ある事実を……。
「ブレスではなく、咆哮で死ぬとは考えていなかった」
ドラゴンの咆哮はネコ科の魔物やベアが威嚇のために上げる唸り声とは全く違う。咆哮を二度体感した身として思うに、あれはドラウナーの雄叫びと同様にスキルや魔法の類だ。効果はおそらく戦意高揚や能力強化。ヒトの操る自己強化の戦闘補助魔法に相当する。
ドラゴンにとっては単なる自己強化手段に過ぎない咆哮が、こと他者には全く違う効果を発揮する。私やラムサス、フルードやジーモンなどの生者を震撼させ、恐慌状態に陥れる。大森林の魔物が大氾濫を起こしたのも、咆哮の影響だろう。
私は咆哮の悪影響を、そう理解していた。それでもまだ浅かった。「今」の私か、「前」の私か分からないが、とにかく私は知っていた。それなのに、自分には直接関係ないことだから、咆哮を我が身に受けても思い出せなかった。
「それは分かるよ。なにせ、マディオフにまで被害が出ているものね」
テベスが語るゴルティア軍の死者数はあまりにも多すぎて、容易には信じられない。しかし、それを私に納得させたのはマディオフの死者だ。
我々がドラゴンと初遭遇したのは、大森林で負傷したウリトラスを発見し、バーナードやニニッサと共にアーチボルクを目指して移動していた時のことだ。我々が歩いていた場所は、アーチボルクにはまだ遠く、むしろ距離的にはリブレンやフライリッツのほうが近い。そんな場所だった。ただし、近くといっても、一時間やそこらで辿り着くような距離ではない。
それだけの距離があったのに、ドラゴンの咆哮はリブレンやフライリッツにも死者を出した。
死者には全員ある共通点があった。全員、魔盲だったのだ。ドラゴンの咆哮が魔盲に致死的な影響をもたらす。そんな話を確かにどこかで聞いた覚えがある。
魔盲はただ魔力が低いだけではない。魔法抵抗も魔法防御力も皆無と言っていいほどに低い。侵襲的な魔法に抗う力は、赤子以下である。
リブレンとフライリッツに住む魔盲たちは咆哮に曝されて深刻な傷害を負った。即死こそしなかったものの、精神は受傷と同時に破壊されて廃人と化した。立って歩くことも会話することもできないまま、ある者は無意味な呻き声をあげ、ある者は痙攣して泡を吹き、ある者は昏昏と眠り続けた。その状態から正気に戻った者は誰ひとりとしておらず、全員が平均およそ一週間で命を落とした。
意識が無いままに嘔吐と下痢を繰り返して脱水で死ぬ者、全身の皮膚に水ぶくれが生じ、その水疱が破れて薄黄色の体液を垂れ流してあちこちが化膿して死ぬ者、身体中の穴という穴から血を垂れ流して失血死する者、等々。倒れた魔盲は例外なく直視できない凄惨な末路を迎えた。
ヴェギエリ砦でゴルティアがドラゴンの犠牲者を出すより四か月も早く、マディオフは戦場から離れた街中でドラゴンの犠牲者を出していたのだ。
ドラゴンがヴェギエリ砦を襲撃した際、シャウトはリクヴァスにも届き、リクヴァスの魔盲もまた尽く被害に遭っている。ヴェギエリ砦とリクヴァスの被害者を見比べると、ゴルティアとマディオフの国民構成の違いが浮き彫りになる。
リクヴァスで死んだ魔盲は全員、非戦闘員。普通の民間人である。マディオフ軍の中にはひとりも魔盲がいないため、咆哮で死んだ軍人は一切いない。
それが一転、ゴルティアになると話は変わる。ゴルティア軍は、割合にして全体の三割近くが魔盲だ。それが咆哮一発で全滅した。リブレンやフライリッツと違い、近距離で放たれた咆哮は魔盲を即死させた。魔盲を戦場に引っ張り出した結果、ドラゴンに殲滅されるとは、ゴルティアの誰も考えていなかっただろう。この死に方は私も全く想定していなかった。
ゴルティア軍は我々マウルが土地を離れたことなど知る由もない。そんな奴らからしてみれば、ヴェギエリ砦は大きな棺桶のようなものだ。いつ、マウルやドラゴンが再襲撃してくるか分からない。
死屍累々の砦内でゴルティア軍は選択に迫られる。このままヴェギエリ砦に籠もって新たな襲撃に備えるか、それとも砦を放棄して冬のゼトラケイン南部を走って逃げ帰るか。判断が遅れれば、二万の死体がアンデッド化して自軍に襲いかかってくる。大寒はまだ一か月も先。雪はこれからいくらでも積もる。指揮官が迫られたのはかつてないほどの厳しい選択だ。
最終的にゴルティア軍は、砦という巨大な軍事物資と仲間の遺体をその場に打ち棄てて撤退した。それが、ドラゴンのヴェギエリ砦襲撃から数日後のことである。
リクヴァスの要塞でドラゴンのシャウトを観測したマディオフ軍は、ヴェギエリ砦のゴルティア軍がどのような状況に追い込まれるか正確に予測していた。かなり距離があるとはいえ、約四か月前に起こったシャウトの被災状況はリクヴァスのマディオフ軍にも届いている。
これで、何も目立った出来事もないままに、「ゴルティア軍が砦を放棄して撤退した」という情報をマディオフ軍の斥候がリクヴァスに詰めている本隊に伝えたとしても、普通ならば、偽報や空城の計などをまず疑うであろう。しかし、シャウトが魔盲兵の割合の多いゴルティア軍に大打撃を与える、と分かっていたマディオフ軍は、斥候が持ち帰った『ゴルティア軍撤退』の情報を即座に真実と判断し、ヴェギエリ砦に進発した。マディオフ軍は予想どおり、砦内に遺棄された大量のゴルティア兵の亡骸を目にした。
死体の数があまりにも多いため、民間のワーカーを大量に一時徴発してアンチアンデッド化処理にあたった。この民間人動員により、ゴルティアの被害は“まことしやかな噂”ではなく“目撃者多数の真実”となった。
死体がアンデッド化するまでの猶予は約一週間。マディオフ軍がヴェギエリ砦の死体を確認したのはアンデッド化の直前であり、猶予期間内に全亡骸の処理を終わらすことは不可能であった。マディオフ軍は大量のアンデッドと戦う羽目になり、軍人にもワーカーにもそれなりの被害が出た。
「またドラゴンを操ってゴルティア人を大量に殺めようとは、まさか考えていないよね」
ラムサスが罪を糾弾するような冷たい口調で私に問う。
「そこまで愚かではない……」
これは非常に拙いことになった。ゴルティアのサルどもの被害などどうでもいい。願ったり叶ったりだ。だが、問題なのはウリトラスのナパーマクラスターを晒してしまったことだ。しかも、ご丁寧に、レヴィ・グレファスの遊撃小隊に対して、ドラゴンと我々の関係性を示唆するような発言をしてしまった。
ゴルティア軍がこれらの情報をどれだけの機密度で扱うか分からないが、もしもマディオフ側にまで情報が流れてきた場合、リブレンやフライリッツに生じた被害の責任の所在を我々とウリトラスに求める声が上がってもおかしくない。下手をすると、ヴェギエリ砦のアンデッド処理の過程で生じたマディオフ軍とワーカーの被害の責任も追及される。
ウリトラスは本来、ゴルティア軍を追い返した救国の士になるはずだったのだ。それがよもや、国内に被害を与えることになろうとは、思いもつかなかった。完全な誤算だ。これは拙い……。
「マウルの中にウルドが紛れ込んでいる、という情報は、まだマディオフまで流れていないのが幸いだね」
「テベスが知らないだけで、マディオフの一部の斥候や幹部陣は知っているかもしれない」
「あなたはこれからどうしようと思っている。どうしたい?」
ラムサスは糾弾口調を止め、一転して穏やかな口調で尋ねる。
「すぐには考えられない……」
ここからウリトラスが救われる方法は存在するのか? エルザは……キーラはどうなる?
思考があれこれと滅裂に錯綜して全くまとまらない。
落ち着け、落ち着いて考えろ。得られた情報を踏まえて、これから何を優先して解決するべきか考えるのだ。
ゴルティア軍が撤退した。これだけは間違いなく朗報なのだ。悪い報せだけではない。悪い部分にばかり目を向けず、全体を俯瞰しろ……。
ゴルティアのサルどもの完全駆除は当分考えなくていい。むしろ、考えるな。これを目標として掲げたからこそ、この拙い状況に陥っている。一旦、忘れるべきだ。
異端者のほうも、急ぐ理由は全くない。私にとって大事な目標ではあるが、最優先の目標ではない。優先度を間違ってはならない。最優先で考えなければならないのは、今後、予想される凶事からアールの家族を守ることだ。
情報がゴルティアからマディオフに流れてきた瞬間、アールの家族の立場は一層悪化する。ウリトラスがマディオフ軍から失踪している時点で、エルザもキーラもとても弱い立場に置かれているはずなのだ。私は家族の苦境を何とかしたかったというのに、ラムサスの忠告に耳を貸さずに感情に流されて行動した結果、彼らの立場を一層悪化させかねないことをしてしまった。
では、ここからどうすればいいのか? 私の愚鈍な頭では、ゴルティアを即座に滅ぼすことくらいしか考えつかない。しかし、それが状況をむしろ更に悪化させかねない悪手であることくらい分かる。考えるべきは、全く別の手段だ。
魔盲の社会的地位がもっと低い時代であれば問題はここまで大きくならなかった。魔盲が人並みの立ち位置を確保しつつある現代だからこそ、問題が膨れ上がる。これでもし、マディオフとゴルティアが和平でもしてみろ。ゴルティアは全ての元凶となった自分たちの卑劣な謀略を隠蔽し、両国の被害責任全てを我々とウリトラスに押し付けようとするかもしれない。
「本当はどうせまた家族の心配をしているんでしょ?」
ラムサスは何もかもお見通しだ。分かっているなら無駄に私を追及せず、どうすればいいか、答えだけを教えてくれ。
「……」
ラムサスは私の沈黙を肯定と判断して会話を続ける。
「ノエルの家族はそんなにすぐどうこうされない。だから、今そこまで深刻に思いつめなくてもいいと私は思う」
「なぜだ」
「ゴルティア軍はウルドをマディオフ軍から離反させようとしていた。調略に失敗して大打撃を受けた、というのは、ゴルティアにとって開示したくない情報。積極的には公開しないはず」
ドラゴンに関する話題は基本的にゴルティアの大義名分を毀損するものである。しかし、それはあくまで全ての真実を白日の下に晒した場合の話。我々側に不利な情報だけを開示し、自分たちを不利にする情報は隠蔽するか虚偽で塗りつぶしてしまえば、責任転嫁の論理を展開することなど何も難しくない。
我々にとって最良なのは、ゴルティアが黙秘を貫くことである。
「常識的に考えればそうかもしれない。だが、この非常時に常識がどれだけ通用するか、疑問が残る」
「非常時に奇策に走りたくなるのは人間心理として自然だけどさ、よく考えてみて。今回の件で追い込まれているのはゴルティアなんだよ。断じてマディオフではない。窮地に陥っているゴルティア軍から、『ウリトラスがドラゴンにはたらきかけて人々を大量に殺害している』なんて情報が流れてきて、マディオフ軍がそれを信じると思う?」
「失踪しているのは紛れもない事実だからな……」
「これでバーナードとニニッサから情報が漏れてしまうと大分拙いけど、誰だって勝ち馬に乗りたい。マディオフが優勢な現状、二人から変な情報が漏れるとは思えない。だから大丈夫」
ラムサスは私を励ますようにぎこちない笑みを作る。どこからどう見てもバレバレの作り笑いだが、演技の下手な彼女にしてはとても頑張っている。その一途な姿勢が私に少し冷静な思考を取り戻させる。
想定外の情報に晒され、私は必要以上に悲観的な思考に走っていたかもしれない。仮にこれが悲観論ではない現実に即した思考だとしても、錯乱して感情的な行動を取るべきではない。思考を途絶させてはならない。私はここ最近、同じような原因で失敗を繰り返している。
「……楽観視も悲観視も、過ぎたるは害だ。いずれにしても対応するための方策を考えよう」
私が気を取り直したのを見て、ラムサスは満足気に笑う。
「少しは元気が出た? なら、少し別の問題について考えてみよう。ゼトラケイン南部を騒がす謎の魔物。ハンターとしてノエルはどう思う?」
ここでのゼトラケイン南部とは、およそ二十年前にゼトラケインから独立したロレアルだけではなく、現在のゼトラケイン領土南部から、旧ロレアル領土にかけて跨った地域を指している。
テベスの話によれば、謎の魔物は昨年の夏頃にフライリッツ東方に初めて姿を見せ、それ以降ゼトラケイン南部を東進して人々を襲っているという。
「弱い石化の能力を持っているらしいし、バズィリシェクと同種の魔物なのではないか? 言ってしまえば、ツェルヴォネコートはレッドキャットの大個体、ビェルデュマはスヴィンボアの大個体。それと同じように、バズィリシェクにも元となる魔物がいるはずだ。その通常個体が人里に現れても何も不思議はない」
「まあ、そうだよね。それで思うんだけどさ、その謎の魔物……モブバズィリシェクとでも呼ぼっか。モブバズィリシェクの正体って、私たちなんじゃないかな?」
「なぜそう思う」
「だって、私たちはそんな魔物を一度も目撃してないじゃない?」
モブバズィリシェクの移動経路は、我々リリーバーの移動経路にほぼ一致している。それなのに、私たちはそのような魔物を一度も目撃していない。これは極めて不思議である。
「我々は石化能力など持っていないぞ」
「もしかすると、噂が人に広まるうち、内容が捻じ曲がってしまったのかもしれない」
「そういう考え方もできなくはないが……」
私はリクヴァス以東においてゴルティア軍に襲撃を繰り返したが、民間人や村、街に一切被害を及ぼしていない。
テベスはこのように言っていた。『石化能力を持つ魔物が街を襲撃し、人々を殺して回っている。しかし、殺すだけ殺すと、殺害した人間を食べずに去ってしまう』と。噂に尾ひれがついたにしては、被害状況はあまりにも具体的だ。それに、これは餌を求める肉食の魔物の行動としてはやや特異だ。レッドキャットは満腹でも時として目に入った存在に危害を加えるから、絶対にないこと、とまでは言えないが、通常の魔物の行動原理とは少し違う。
テベスの語る魔物の特徴が、人から人への伝達を繰り返すうちに少し変わってしまったと考えるならば、石化現象については私がやってきたことと考えられなくもない。
私は民間人を殺さないための工夫として、ドミネートで拘束した後に健忘作用のある薬を使ったり、昏睡状態に落としたりして、記憶の抹消作業を行った。自分の意思で身体を動かせなくなっていたこの時の記憶が僅かに残っていて、「石化されるところだった」と言っているのかもしれない。
しかし、私は誰にも呪いをかけていないにもかかわらず、現場の治癒師は『石化の呪いを解呪した』らしい。
「混乱に乗じた悪徳治癒師が治療費を請求するために、ありもしない石化の呪いを捏ち上げた、と考えることもできるだろう。しかし、石化能力を持つ魔物が実在したと考えるほうが、どちらかというと自然だ」
「じゃあ、モブバズィリシェクの外見があやふやな点はどう思う?」
謎の魔物は、外見がよく分からない、とされている。これは何とも判断に苦しむ情報である。
ナフツェマフで我々が交戦したバズィリシェクは体毛色を自在に変化させていた。この迷彩能力に加えて魅了魔法や石化能力を持っていたからこそ、バズィリシェクの正確な外見は長年謎に包まれてきた。トリの魔物だの、スネークの魔物などと色々言われてきたのはそのせいだ。
しかし、隠密に徹している上、ローブに身を包んで変装魔法や偽装魔法を駆使する我々も、人々から似たような認識を受ける可能性がある。外見情報からでは、噂の魔物の正体がモブバズィリシェクとも我々とも区別できない。
「前にも言っただろ? バズィリシェクは体毛色を自在に変化させられた。外見にまつわる噂だけから、その正体を我々と断じることはできない。不確かな情報各種から総合して考えるに、我々とは別に危険な魔物が実在し、人間社会を脅かしているのだと思う」
「なるほどね。ハンターとしての読みや判断は私よりもノエルのほうがずっと正確だからね……。それで、そのモブバズィリシェクをどうしようか。私は別に急いで倒す必要がないと思う。ノエルはどう?」
モブバズィリシェクは秋を迎えるまで大きく移動を続けてきた。それが秋になってからというもの、目撃情報はリクヴァス以東の地域に集中している。情報が挙がった範囲はそれなりに広いものの、秋までのような明確な一方向への移動経路をとっていない。大森林を離れた魔物が東へ東へ、と進み、リクヴァスとアウギュスト間の地域を気に入ってそこを新しい縄張りと定めて彷徨き回っている、と考えてよさそうだ。定住場所を見繕った魔物がいきなりアーチボルクまで西進して母に危害を加える心配はないだろう。それに、エルザがその魔物の討伐に駆り出される心配はない。エルザは別の任務に当たっている。
「私は今のところ、その魔物に興味がない。よほどの新しい動きをみせない限り、討伐に向かうつもりはない」
「強い魔物と聞いたら居ても立っても居られないかと思ったけど、その心配はないか。なら、モブバズィリシェクの件は保留にしよう。あとはロギシーンの反乱軍」
マディオフに同時多発的に起こった重大問題の残る最後のひとつ、ロギシーンで放棄した反乱軍。マディオフは国土最西部最大の都市であるロギシーンの反乱軍に支配地域拡大を許し続けてきた。それが、スタンピードの収束の目処が立ち、さらに王都から強姦魔のクリフォード・グワートが姿を消したことにより、本格的な鎮圧に乗り出した。本格的といっても、鎮圧部隊の規模は大きくない。部隊員の質が高いのだ。鎮圧部隊の中にはリディア・カーターとエルザがいる。どうせなら、ネイド・カーターも連れて行ってくれれば安心だったのに、ネイドは引き続き王都の守備を担っている。中途半端な戦力配置をしてエルザを危険に晒すのは言語道断の愚策だ。マディオフの戦略部に怒鳴り込みに行きたいほどである。
しかし、それができない以上、エルザの身の安全を守るには私がロギシーンに赴くしかない。反乱軍は叩き潰すべきである。問題なのは……。
「今までと違って、殺して終わり、とならないのが厄介だ」
「専らノエルの問題でね」
反乱の牽引者は二人。元ミスリルクラスのハンターであるアッシュと、謎の女、クローシェ・フランシスだ。この二人がそのまま反乱の首魁かどうかは分からない。“真の黒幕”とやらがいるかもしれない。それは我々の手で調査するべきことである。今、分かっているのは、このクローシェとかいう女が結構な美人で、しかも扱う武器が短めの刺突剣、ということくらいのものだ。
……どう考えても、クローシェの正体はエヴァだ。エヴァの正体がクローシェ・フランシスなのかもしれないが……
鎮圧部隊が王都を進発したのは結構前の話であり、既に反乱軍と何度も交戦している。これまでのところ、大勝も大敗もせず、両軍に小から中等度の被害を出す痛み分けに終わっている。
エルザのいる鎮圧部隊が危険伴う戦闘を開始する前に私の手で全てを終わらせたかった、などと嘆いても仕方ない。私がすべきなのは、これからの交戦でエルザが怪我を負うことのないようにしながら、クローシェを捕らえて真実を聞き出す、これだけだ。
エヴァと思しきクローシェがロギシーンにおり、私の守るべき妹であるエルザと戦っている。……そう、ウリトラスやドラゴン云々の話を嘆こうが嘆くまいが、私の行くべき場所は決まっている。悩むべきは、そこで取る手段、手法だ。なまじっかな真似をすると我々は鎮圧部隊と反乱軍から挟撃の憂き目に合う。
クローシェとアッシュはどちらもミスリルクラスの強さだろう。ミスリルクラス二人がいる、というだけで反乱軍は手強い相手なのだ。鎮圧部隊に背中を襲われないように気をつけながらアッシュを倒し、クローシェは殺さずに捕らえる。これは結構な難事だ。
クローシェがエヴァ、かつ異端者であり、しかもゴルティアの軍人だとしよう。では、クローシェの有する情報の全てを把握している存在が反乱軍やゴルティア軍の中にいるか、というと、その可能性は限りなく低い。
軍人であれば直属の上司がいるはずだが、その直属の上司とやらを締め上げても、そいつはクローシェの全てなど知らないのだ。クローシェが複数の機関に籍を置く人物であればなおのこと。エヴァはそれを示唆する発言を多々残している。どうにもできずにクローシェを殺してしまうと、私の知りたい真実は永遠に闇に消えてしまう。
「テベスの話を聞いていて、クローシェがエヴァっぽいなあ、と私は思った。ノエルは?」
「ミスリルクラス相当の強さがあり、武器が刺突剣で、しかも美人。十中八九エヴァだろうな」
「反乱軍にはアッシュとクローシェ・フランシス。鎮圧部隊にはリディア・カーターとエルザ・ネイゲル。ミスリルクラスの人間が四人。どう? ノエルなら勝てそう?」
「馬鹿言え」
「だよね」
私の答えを聞き、ラムサスはくすりと笑う。
「一箇所に固まっているのが厄介だね。今のロギシーンは、ある意味で大森林よりも危険な場所かも。ノエルは本当、危険な場所ばかりへ行く」
「私の目標を妨げようとするものが尽く強い。それだけだ」
「達成困難と分かりきっているものは、普通だと最初から目標に掲げない。ノエルは困難でもやろうとするから、結果、危険な場所へ赴くことになる」
「御託はいい。何かいい案を思いついたのだろう? 聞かせてくれ」
私が尋ねると、ラムサスはまたも楽しそうに笑う。
「別に特別な案は考えてないよ。さっきも言ったように、人は追い詰められると奇策に走りたがる。でも、本当は正道が一番の近道であり、相手にとっても厄介。ノエルはノエルの正道を行けばいいだけ」
「言葉遊びは止めて、分かりやすく説明してくれ」
「ノエルの説明だって時々凄く分かりにくい」
ラムサスが皮肉っているのは学芸を説明する際のことだ。喩えを用いた表面的な説明は受け入れられても、内容を少し高度にするとラムサスは途端に理解が及ばなくなる。専門用語ひとつひとつの意味を教えられても、それらを用いて本当に説明したかった内容に言及し始めた途端、付いてこられなくなる。これは私の講義だけでなく、アリステルの回復魔法や医学講義を聞いているときも同じ現象が起こっていた。ラムサスの“頭の良さ”は、学術的な“頭の良さ”とは全く異なる。
「いつもどおり、反乱軍の内側に潜入すればいい。あなたはいつもそうやってきた」
「アウギュストの駐屯地でやったように、内側から全員を皆殺しにするのか? これから向かう場所は、おそらく民間人の割合が今までの街よりもずっと高い。反乱軍だけを選別して仕留めるのは難しいかもしれない」
「戦争だからって物騒なやり方だけが戦いではない。あなたの目標を考えても、もっと上手い手がある」
自信ありげに語るラムサスの目は、久しぶりに見る賭博師の輝きを放っていた。




