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第三〇話 小寒の挨拶

 商談と相談の後に束の間の睡眠を取ると、夜明けを待たずしてセルツァとフォニアはアーチボルクへ飛んでいった。無理な風魔法の行使がセルツァの具合を悪化させぬように願ってやまない。


 クリフォードはパーティーメンバー二人が小屋からいなくなっても目を覚まさなかった。そればかりか、日の出を迎えても眠り続け、ようやく目を覚ましたのは昼近くになってからだった。


 我々リリーバーだけで昼食を囲っていると、クリフォードがセルツァ用の寝床からノソリと身体を起こす。


「ふああぁ……腹減った。またネコ鍋か?」

「これはベア(クマ)鍋です。近くを歩く魔物が全然いないので、穴持ちのタイニーベアを引きずり出しました」

「ゲ……酷いことをするな……。まあいいや。俺の分もくれ」


 我々が作った我々用の食事に、当然のようにあやかろうとするクリフォードに苛立ちを覚える。いつ起きるか分からないクリフォードの分など作ってない。腹が減ったのなら、自分で食事を用意しろ、と言いたいところだが、空腹のまま放っておくとこいつは暴れだしそうだ。


 ひとりきりのクリフォードを殺すなど造作もないが、契約を交わしたセルツァとフォニアに負い目を感じたくない。もし、こいつを殺すとしても、契約の履行後が望ましい。


 その場を穏便に済ませるため、仕方なくクリフォードの分もよそい分け、食器を乗せた盆を床に置く。


「どうしてそこに置く。俺は犬じゃないぞ。心をこめて手渡してくれよ」


 手渡すとこいつは手を滑らせたフリをしてルカの腕を掴む。力の弱いルカを羽交い締めにでもされると面倒だ。


「要らないなら食べないでください」

「何だよ、ルカちゃんは優しくないな。しかし、腹が減ったし、俺は紳士だ。文句は言わずに食べるとしよう」


 既に文句をたっぷりと言っているクリフォードが盆を床から拾い上げる。


「そういやあいつらどこに行ったのだ。もうジェゾラヴェルカに帰ったのか?」


 クリフォードは卓前の席にドカと乱暴に着くと、スープの匂いを鼻一杯に吸い込む。


「おぉ。これも良い匂いだ。匂いと言えば……スンスン」


 クリフォードは鼻を鳴らして小屋の中の匂いを嗅ぐ。犬ではない、と言った直後に犬のような真似を始める。


「なんか可愛い子の匂いがする。これはルカちゃんの匂いじゃないな。それ以外にもうひとり、どこか俺の見えないところに可愛い子が隠れていそうな気がする」


 クリフォードの言葉にギクリとして、変装魔法(ディスガイズ)の更新時間を振り返る。


 ……大丈夫だ、問題ない。私は土魔法も幻惑魔法も日頃から丁寧にかけ直している。更新忘れは一度も犯していない。つい先程も時間に余裕をもって更新した。それにギリギリになれば、私本体が眠っていようが忘れていようが傀儡が自動で更新するように設定している。


 クリフォードは食事をかけこみベアの肉をモゴモゴと咀嚼しながらギョロギョロと目玉を動かして室内を見回す。


 こうやって探しているのが、クリフォードが私のディスガイズを見破れていないという何よりの証拠。ディスガイズは正常に機能している。


 では、なぜクリフォードはなぜああ言った? 女の美醜を匂いから嗅ぎ分けるスキルでも持っているのか? まさか、違うだろう。


 大馬鹿者のクリフォードのことだ。嗅ぎなれない女の匂いに反応して、願望混じりに思い付きで喋っただけだ。民族差なのか食べ物の影響か、マディオフ人とゼトラケイン人、ジバクマ人はそれぞれ体臭が異なる。だが、各人種間に共通する美人特有の匂いなどがあるとは思えない。


「うちの婆に欲情したとしても、我々は君の性欲処理に協力しませんよ。彼女たちが戻ってくるまで大人しくしててください。君が寝ている間に我々リリーバーは君たちグレイブレイダーと取り引きしました。軽口くらいは聞き流してあげますが、少しでも手を出してきたならば我々のやり方で君を“処理”します」

「おっ、その気になってくれたか!」


 処理の意味を履き違えたクリフォードが下卑た笑みを浮かべる。


「何を勘違いしているのです。“処理”の意味するところは君の一物の切断です。性欲から解放された人生を歩めますね、おめでとう」


 これは言葉の綾だ。実際に除睾(じょこう*)したところで成人男性の性欲は減弱するだけ。完全には消失しない。性欲と無縁でいるためには、第二次性徴期前に去勢する必要がある。思春期前から性的関心旺盛な個体は、どれだけ早期に除睾しても好色なままである。




[除睾――じょこう。精巣を切除すること]




「な、なんて怖いことを言うのだ。俺はただ楽しくお喋りしたいだけだというのに」


 切り落とされたところを想像したクリフォードが青ざめた顔でルカに抗議する。陰惨な想像はクリフォードの食事速度を少し落とすだけで、食べる手と口を完全には止められない。クリフォードは、酸味の強い柑橘を口にしたときのような皺くちゃな顔で鍋料理を頬張り続けている。


 クリフォードは強い。顔立ちも悪くない。いや、悪くないどころか、結構端正だ。私の目となってクリフォードを見ているルカの肉体はクリフォードに好感を抱いている。思えば、ルカはラシードも好いている。顔さえ良ければ、他はあまり気にしない性質なのかもしれない。


 クリフォードが女の嫌がる露骨な言い回しを避けてもっと情緒ある誘い方をすれば、相手には困らないはずだ。それこそアッシュのように選り取り見取りだ。強姦という手段を取っているのは、単なるこいつの趣味か……


 クリフォードの異常な性嗜癖は忘れ、ひと目見たときから気になっていたことを尋ねてみる。


「そんなことより君の装備について教えてください。剣も盾もかなりの逸品ですよね。一体、どこで手に入れたのでしょう?」

「これか?」


 話題が装備に移った途端、クリフォードの表情が元に戻る。


「この剣は“宝具の聖廟”で手に入れたのだ! なかなか苦労したぞ。盾はどこで拾ったんだったかな……」


 宝具の聖廟はゴルティア西部に位置するダンジョンだ。聖廟内部は 迷宮 (ダンジョン)の名に似つかわしくないほど規則正しい構造となっていて、そこには無数の祭壇がある。その昔は没した聖女の遺骸が祀られていたらしいが、いつしか所有者亡き後のネームドウェポンや高度な魔道具が奉納安置されるようになった。祀られたレアアイテムを狙って聖廟を訪れるものは後を絶たないが、話はそう簡単にいかない。


 普通のダンジョンと違って聖廟の祭壇を参拝するだけであれば基本的に魔物と戦うことにならない。それが一転、アイテムを持ち去ろうとすると“守護者”が姿を現して襲いかかってくる。守護者こそがダンジョンの生み出した魔物なのかもしれない。


 守護者はそれぞれ強さが違い、高水準のアイテムほど、強力な守護者が出現する。比較的質の低めなアイテムの守護者はそこまで強くないが、それでも討伐者は最低でもチタンクラス、ゴルティア流に言うとレベルシックスの強さが求められる。最初に祀られた聖女が使っていた錫杖の守護者などは、ブラッククラスの人間でも勝てなかった、という噂だ。


「なるほど。剣は聖廟で入手したのですね。道理でツェルヴォネコートにダメージを与えられるわけです。でも、盾の入手経路は覚えていないのですか……」


 銘品ほど入手の逸話は記憶に残りそうなものだというのに、馬鹿には一般原則が当てはまらない。


「そんなことないぞー。頑張れば思い出せる」


 クリフォードは目を瞑って、むむむ、と唸り始める。記憶の奥底からではなく、腹の奥から何か出てきそうな気張り方だ。


「ああ、思い出した! これはセルツァが俺にくれた物だった。『愛する俺には絶対に怪我をしてほしくないから』と言ってな」


 入手経緯を思い出したクリフォードはスッキリとした顔で再び料理を頬張る。


 その話は本当なのだろうか。クリフォードの記憶は一事が万事、本人に都合よく改竄されているような気がしてならない。フォニアのほうはともかく、セルツァはクリフォードにさして恋情が無いように見えた。時間経過によって情熱が冷めただけで、昔はクリフォードにベタ惚れだったのだろうか。


「それ、記憶は間違っていませんか? セルツァさんではなく、フォニアさんがクリフォード君にくれたのではありませんか?」

「俺に渡してくれたのはフォニアだ。だが、フォニアに買ってやったのはセルツァだ。つまり、セルツァが俺にプレゼントしたのだ。直接俺に渡すのが恥ずかしかったのだろうなー!」


 ん、ん、ん……? 訳が分からなくなってきたぞ。


 セルツァがフォニアに贈った物をクリフォードが横取りした、ということだろうか? クリフォードの胡乱な話だけ聞いたところで真相は見えてこない。クリフォードの話が部分的に合っているとして……ううむ、分からない。


 グレイブレイダー三人の人間関係は、思ったよりも複雑なのかもしれない。フォニアも、『擦った揉んだがあった』と言っていた。彼ら三人の経歴は物語としてそれなりに面白そうだ。少しばかり興味がある。だが、クリフォードに事実を正確に説明させるのは無理というもの。むしろ、こいつの話を聞けば聞くほど混迷は極まっていくであろう。


 馬鹿の説明は話半分に聞くべき。これはトニ(*)の一件で痛みを伴って学習した。私は学びを無駄にしない。




[トニス――一章(いっしょう)六三話に登場。主人公に仲間探しの難しさを教えた射手]




「俺は恋愛マスターだからな。愛される男は大変だ。ルカちゃんも俺のことが好きだろう? あいつらが戻ってくるとウルサイから、その前に愛を確かめよう!」

「だから、やりませんって。男に抱かれる趣味なんぞありません」

「なにい! ルカちゃんは男が好きじゃないのか!? ぬー! ……こんな老人ばかりに囲まれているから歪んでしまうのだー!」


 クリフォードは躾のなっていない犬のように、ガルルル、と唸り声をあげてシーワたちに睨みを利かせる。


「ん、あれ?」


 室内の手足をひとりひとり睨みつけるクリフォードの視線がラムサスでハタと止まる。


「ルカちゃん以外にも若い女の子がいるじゃないか」


 クリフォードに見定められたラムサスが顔を俯けて身を後ろに引く。


「キミ、名前は何と言う?」


 クリフォードは卓に身を乗り出し、前のめりになってズイズイと上半身をラムサスに寄せる。ラムサスにかけた変装魔法(ディスガイズ)の顔は老人でこそないが、吐き気を催す醜女だ。よくここまでマジマジと見る気になるものである。


 クリフォードの首根っこをフルルでグイと掴み、元の位置に引っ張り戻す。


「グエエ、何をする。俺は手出しなんてしてない。名前を聞いただけじゃないか」

「その娘の名前はサナです。クリフォード君とは会話するだけでよからぬ病気を伝染(うつ)されてしまいそうなので、サナとの会話は禁じます」


 ラムサスとの会話を禁じられたクリフォードはニタニタと笑ってルカを見る。


「ヤキモチを妬くルカちゃんも可愛いなあー。心配せんでも俺はルカちゃん一筋だぞ。証拠にルカちゃん手作りの鍋をもう一杯食べてみせよう!」


 食わなくていいのに、クリフォードは胃袋の大きさを誇示するかのように鍋の中身を自分の食器に大盛りによそう。


「ハッハー! ルカちゃんの料理は美味しいなあ」


 クリフォードが遠慮なしに食べるせいで、私が食べるはずだった鍋の中身がドンドンと減っていく。


「ルカちゃん一筋の俺に言わせてもらうと、サナちゃんは化粧をしたほうがいい。きっと化粧映えするぞ。保証する!」


 私の作り上げたブス顔に化粧品を塗り重ねたところで、素っぴんブスから化粧ブスになるだけだ。化粧美人には決してならない。そんな生半可なブスには作っていない。


「私の料理が気に入ったのなら鍋ごと差し上げます。心行くまで楽しんでください。我々は別の場所で食事を取ります」


 延々食べ続けるクリフォードをその場に置いて小屋から出る。


「こら、ちょっと待て。待て、待つのだー。おーい」


 クリフォードの相手をしているといつまで経っても私本体が食事を取れない。バイオスフィアの中に食餌を用意するのも難しい。それに、何より面倒なのが、ラムサスが口説かれそうになっていることだ。この男慣れしていない初心なドロギスニグの娘は性欲丸出しのおべんちゃらを情熱的な求愛と勘違いするかもしれない。何かの間違いでクリフォードに(なび)いてしまった日には悲惨な未来が待ち受けている。


 不幸を回避するにはこの場を去るのが確実だ。クリフォードが寝ている間にツェルヴォネコートの素材は離れた場所に隠してある。我々が姿を消したことに奴が腹を立てたとしても、苛立ち紛れに素材を台無しにされるおそれはない。(やかま)しい馬鹿は距離を取って鑑賞するに限る。




 クリフォードからは見えない場所まで移動した我々は新しい休息場所を作ってそこに腰を落ち着け、馬鹿の動向はステラの目で伺う。


 食事を終えたクリフォードは小屋から飛び出してみるものの、フィールドの寒さに身震いして小屋の中に戻る。またしばらくすると、魔法の持続時間が切れて小屋が消失し、クリフォードは寒空の中に放り出された。身体を動かしていないと、フィールドの寒さは骨身に凍みる。せめて我々を探して動き回れば身体も温まろうものを、クリフォードは雪の上で膝を抱いてガタガタと震えている。


 滑稽千万、観察しがいのある愉快な馬鹿だ。これほどの馬鹿がよく今までフィールドで凍死しなかったものだ。セルツァたちの苦労と苦悩が偲ばれる。


 そのまま黙って見ていると、北の空からセルツァが現れてクリフォードを回収し、再び北に去っていった。『死ねばいいのに』と言っておきながらも、ちゃんと救助する。セルツァは情に篤い女だ。


 暇つぶしがてら、ステラの目が映したものを事細かにラムサスに説明する。


「なんかそのセルツァの行動、変じゃない?」


 ラムサスは真剣な面持ちで疑問を呈する。


「どこが変なのです?」

「だって、セルツァは私たちを探す素振りなく、クリフォードを連れてすぐに飛び立ってしまったんでしょう? 最初からそういうつもりだった? これはどうも変……。近くには他に誰かいない? セルツァは闇ポタではなく、私たちを討伐するための特別な“お友達”を連れてくるかもしれない。矮石化蛇(バズィリシュカ)所属のハンターとか、教会に所属していない修道士とかね」


 アンデッド殲滅力の高い修道士を連れてこられると厄介だ。ミスリルクラス相当の修道士とか、超高度な破邪の魔道具でも持ってこられた日にはどうやって対応したものか全く分からない。私は修道士によるアンデッド殲滅術、教会用語で言うところの“浄罪”に対応した経験がほとんどない。キーラ戦、レンベルク砦付近でのオルシネーヴァ軍との戦闘、レヴィ率いる遊撃小隊との戦闘、思い出せるのはこれくらいだ。これらの戦いではホーリーボルトやホーリーバッシュが何度か飛び出しただけで、本格的な破邪の技術は全く出てこなかった。


「戻ってきたのはセルツァさんひとりだけ。闇ポタやお友達やどころか、フォニアさんの姿もどこにも見当たりませんねぇ……」

「ふーん。そう」


 取り敢えずは敵襲がないと分かったラムサスは含み笑いを浮かべる。


「クリフォードが私に話しかけてきたとき、ノエル焦ってたでしょ。もしかして、結構心配した?」

「それはするに決まっているじゃないですか」


 結構どころではない。かなり心配した。クリフォードに孕まされた、とか、グレイブレイダーに付いて行く、などと言い出した日には、私はラシードたちに何と説明したらいい?


「心配しなくても、私はノエルを裏切らない」


 離反意志が無いという宣言。これは見方を変えると、私との約束を反故にしてクリフォードに付いて行くことを少なからず考えた、ともとれる。口下手な私が呆れてしまうほどクリフォードの口説き文句は稚拙だというのに、ラムサスは感ずるところがあったようだ。


 愛の詩とは評し難い拙劣な誘い文句であってもいいから、思いの丈を言葉にしてもらいたい、と考える女もいるだろう。フォニアがクリフォードの女となっているのがそのよい証拠だ。


 おそらくはラムサスもそういう口。ラシードとラムサスの仲が少し冷え込んだ感じになっていたのは、ラシードにクリフォードのような積極性が足りなかったせいかもしれない。


「その言葉が真実であることを切に願います」


 グレイブレイダーは冗談抜きに手強い集団だ。もし、ラムサスが悪意をもって私に誤情報を流した日には、私はグレイブレイダーに対抗できずに滅び去ってしまうだろう。


「話を戻しましょう。セルツァはクリフォードを拾って、どうしてすぐに帰ってしまったのでしょう? 言われてみると、確かに少しばかり妙な行動です」

「小屋で話していたとき、フォニアもセルツァも私たちを騙そうという意志は持っていなかった。それは断言していい」


 ラムサスは自信を持って自らの言葉に頷く。


「セルツァは多分、最初からクリフォードだけを回収するつもりで戻ってきたんだと思う。問題はその理由」

「クリフォードは二人にとっても頭痛の種のようですし、それを先に現場から排除したかったのかもしれません」

「きっとそうだろうね。フォニアとセルツァは結構常識人だった。クリフォードも異常性欲に苦しんでいる馬鹿ハンターなだけで、思ったほど悪い人間ではないのかもしれない」


 鋭い読みを披露したのも束の間、ラムサスは一転して愚鈍な見解を述べ始めた。何をどう間違えればこんな勘違いに至る。


 常識人であっても、誤って罪を犯すことはあるだろう。しかし、常識人は決して継続的に犯罪をはたらかない。強姦者とも行動を共にしない。クリフォードとのパーティーを清算せずに関係を続けている以上、フォニアもセルツァも常識人の範疇にはない。精神の善性を司る部分に二人ともどこかしら破綻がある。


 クリフォードが悪い人間ではない、という評価も完全な誤り。正しいのは、異常性欲者、という点だけ。人間のアールとアンデッドのエルが分離不能なのと同様、異常性欲とクリフォードは一体のもの。この二者を決して分けて考えてはならない。『激しい性衝動に苦しんでいるだけで、性欲を別にすれば良い人間』という解釈は不適当だ。極論的に、異常性欲が無かったとしても、救いがたい馬鹿であることに違いはない。


 ラムサスは少し好意的な言葉を掛けられただけで(ほだ)されかかっている。


「あ、誰か来ました。フィールドを歩いています」


 壊滅的に低いラムサスの恋愛能力に驚いていたところ、ステラの目が森の中を歩く人間の影を複数発見した。一見して影の主はフォニアと違う。数は四、五……ややや、思ったより多いぞ。


「フォニア? 闇ポタ?」

「うーん。闇ポタだと思うのですけれど、人数がちょいとばかり多目です。ひょっとして討伐隊の一部でしょうか……」


 ラムサスは怪訝な顔で考え込む。私はステラの捕捉した見知らぬ人間の顔貌(かおかたち)をもう一度眺めて、集団の正体を推測する。


「グレイブレイダーが何らかの情報を特別討伐隊に流したとして、治療の真っ最中の討伐隊が、こんなに早くフィールドに足を運ぶかな?」

「グレイブレイダーが討伐隊に、『ツェルヴォネコートが死んだ』という情報を流したのであれば、野伏(レンジャー)と回収班だけフィールドに出てきてもおかしくないかもしれません。ですが……」


 集団との距離が短くなるにつれ、人相はよりハッキリと判別できるようになっていく。どれもこれも私の見たことのない顔だ。討伐隊の構成員とは、とても思えない。


「私の見知った顔があまりにもいない。特別討伐隊とは違いそうです」


 集団の最前部にフッと新たな人影がひとつ現れた。フォニアだ。


 どうやらフォニアは私が操るステラの目に映り込むために、あえて目立つ場所に躍り出たようだ。


 本気で気配を消したフォニアを見つけるのはステラの目をもってしても簡単ではない。フォニアのこの行動、我々の能力を試しているな……。グレイブレイダーは掛け値なしに厄介な集団だ。油断は禁物。


「失敬。見知った顔をひとり見つけました。フォニアです」

「グレイブレイダーが私たちを倒そうとしているなら、クリフォードは連れて帰らない。セルツァがクリフォードを連れて行って、代わりにフォニアが闇ポタと現れた、ということは、約束どおりに話が進んでるとみてよさそう」

「そのようですね。でも、油断は禁物です。フォニアと闇ポタの相手は私がします。サナはまた沈黙を守ってください」

「素材は王都に持ち込むんでしょ? 口を利けない期間は長くなりそう」

「苦労を掛けますが、そこを何とかお願いします」


 ラムサスがフードを深く被り直す。


 私はフォニアの後ろを歩く柄の悪い集団を見ながら、売却完了までに掛かるであろう長い時間を思案して深く息を吐いた。




    ◇◇    




 矮石化蛇(バズィリシュカ)から遣わされた闇ポタ一同にツェルヴォネコートの素材を担がせて道を行くこと十日、我々は王都近郊に到着した。ここまでの道のりは順調、問題はここからである。王都全周を囲む検問を闇ポタが如何にして抜けるのか。その手段はまだ我々も知らされていない。


 移動の足を止めて街道上で待機していると、ひとつの見知らぬ商隊がこちらに近寄ってきた。商隊の真ん中から出てきた代表者らしき男に、闇ポタの頭目的人物が対応する。


 二人はヒソヒソと小声で遣り取りを交わす。芝居の一場面でも見せられているかのような、典型的な違法取引の現場だ。


 両代表者の会話が終わると、闇ポタはここまで運んできたツェルヴォネコートの素材を商隊の馬車の荷台に積み込み始めた。


「ほう。商隊に扮して検問を越えるのですね。案外正当な手口です」

「勘違いするな、グレイブレイダー。『商隊に扮して』ではない。我々は本物だ」


 フォニアに対して言ったルカの言葉を商隊代表者が耳聡く拾い、発言の誤りを指摘する。


「ここには私以外、グレイブレイダーのメンバーはいません。こちらは全てリリーバーというハンターパーティーです」


 代表者の誤りを今度はフォニアが正す。


「リリーバー? 初めて聞く名前だ。おい、女。お前は何者だ」


 代表者がジロジロとルカの全身を観察する。


「私はルカ。レキンでハンターをやっていた者です。あなたの名前を伺っても?」

「安い嘘だな。……まあいい。俺はオズワードだ」


 オズワードはルカの自己紹介を偽りの像と即断すると、今度は老人に扮したシーワたちをギロリと睨む。


「おい、ウォーウルフがいる、という話は聞いていないぞ。それも二頭。検問で話が(こじ)れる」


 フルードとリジッドを見たオズワードは、我々ではなく、闇ポタに向かって詰め寄る。矮石化蛇(バズィリシュカ)子飼いのポーターにも(へつら)う姿勢を見せない。とんだ商人がいたものだ。


 青筋を立てるオズワードに小妖精が反応を見せる。クク……思ったとおりだ。私も小妖精に負けず劣らず冴えている。


「俺たちも合流して初めて聞いたんですよ、オズワードさん。文句はグレイブレイダーにお願いします」

「契約を結ぶ前に仔細を確認しておくのは商売の基本だ。それができない人間とは――」

「まあまあ、落ち着いてください」


 そのままでは怒鳴りだしそうなオズワードを宥め、話が面倒になる前に介入する。


「我々は、オズワードさんの商隊とは別に王都に入ります。然る後、都内で合流すればいいだけの話ではありませんか」

「愚論だな。一度商品から目を離したが最後、それはもうお前たちの商品ではなくなる」


 オズワードは、商隊とフォニアがツェルヴォネコートの素材を持ち逃げする、と警告する。


「我々がこの素材に期待しているのは金銭だけ。表の骨肉店で売り払われようが、闇市で捌かれようが、競売にかけられようが、どうでもいい。持ち逃げされたところで、売却益分はあなたたちから取り立てるだけです」

「俺の本名も知らないのに、か?」


 オズワードは侮蔑の笑みに顔を歪める。


「本名に何の意味があるというのです。あなたのその名前は、商人として日常的に用いている名前であり、それが本名かどうかは何も意味を成さない。立場と名前のあるあなたは、どうやっても逃れることができない」

「持ち逃げされても俺のところから金を盗めばいいと思っている。とんだ素人考えだ」

「換金の難しい商人の資産に我々が手を付ける、などとは言っていません。我々は取り立てやすいところから取り立てるだけです。すると、取り立てられた側はその責任を、追及しやすい場所に求める。思うに、グレイブレイダーよりも、オズワードさんからのほうが、より確実に責任分を召し上げられる。まあ、誰がどうケツを持たされようが、我々の関知するところではありません」


 今、この商談の場には四つの集団がいる。我々リリーバー、フォニアのグレイブレイダー、矮石化蛇(バズィリシュカ)のポーター、そしてオズワードの商隊だ。この四者の中で最も多額の現金を持っているのは誰か。


 実は商隊ではなく、矮石化蛇(バズィリシュカ)だ。ポーターが雲隠れしても、矮石化蛇(バズィリシュカ)の拠点はマディオフ全国に無数にある。勿論拠点数は王都が最多だ。我々が矮石化蛇(バズィリシュカ)の拠点を何箇所か巡れば、商人の店に行くよりも多額の現金を回収できる。我々がオズワードのところから動産、不動産各種の権利証を奪取しようが、大量の金塊を奪おうが、あまり意味はない。これらを換金しようと思うとかなりの手間と時間がかかる。盗品を売却するには、闇取引に長けた人物の力を借りなければならない。そういう人物は基本的に矮石化蛇(バズィリシュカ)の関係者だ。盗品を売却できないなら、現金を回収する他ない。


 我々が矮石化蛇(バズィリシュカ)の拠点から回収を行った場合、矮石化蛇(バズィリシュカ)はどう動くか。我々に対しては勿論報復しようとする。それと同時に、問題の発端となったオズワードとグレイブレイダーに対してもツケを負わせようとする。矮石化蛇(バズィリシュカ)からしてみれば、グレイブレイダーからよりも、商人としての基礎があるオズワードからのほうがツケを回収しやすい。オズワードは矮石化蛇(バズィリシュカ)に対して優位な立場を築いているようだが、矮石化蛇(バズィリシュカ)も大損害を被るとなると黙ってはいまい。


 私としては、今後あらゆることが面倒になるため矮石化蛇(バズィリシュカ)とは敵対したくないのだが、オズワードと共謀して我々から金を巻き上げようとか、素材を持ち逃げしようというならば話は別だ。こういう相手と揉める場合、向こうに、面倒くさい、と思わせたら勝ちだ。戦闘力ではこちらが圧倒しているのだから、退く必要は全く無い。


「俺たちにキャンキャン吠えるとは、躾のなっていない犬だ」

「私は事情を勘違いした商人に警告がてら、優しく教えてあげているだけです。威嚇と感じるのは、あなたが心に隠し持っている恐怖の裏返しに過ぎません」

「口ばかりペラペラとよく回る」


 私はアールと融合してからの数十年、口下手に困らされてきた。同級生やハンター関連の同業者といった表社会の人間を相手にすると、円滑に話を持っていけない。


 ところが、サバスのような不良とかオズワードのような悪徳商人相手であれば、慣れ親しんだ流儀で“話し合い”を進められる。きっとスナッチが口巧者だったのだ。私の交渉力は、裏社会の住人を相手にしたときが最も発揮できる。


「我々が商隊とは別途、王都入りすることに他に異論はありませんね?」


 オズワード、フォニア、そしてここまで荷を運んだ闇ポタの顔を見回す。


「問題なし、と。では、王都に入ったらどこで合流すればいいのです。オズワードさんのお店に行けばいいのですか?」


 オズワードは双眉を寄せ、指先で眉間を押さえる。


「俺の店には来るな。王都に入ったら、要らん積荷は適宜降ろす。後はお前らでやれ」

「オズワードさんはこう言っていることですし、フォニアさんが合流場所を指定してください」

「適当な嘘をつくなよ、グレイブレイダー」


 最終的に詰められる立場にあるのは自分だ、と理解したオズワードは、とばっちりを嫌ってフォニアに強く釘を刺す。


「フィラーガ地区の八番街にある集会所に来て。そこの守衛に『五階に用事がある』と言えば、地下倉庫に案内してくれる」


 フォニアの説明に小妖精は特別な反応を示さない。どうやら嘘は言っていないようだ。


 フィラーガのような治安の悪い地区の集会所は正常に機能していない。ならず者の溜まり場となっているのが常だ。矮石化蛇(バズィリシュカ)にとっては居心地のいい空間だろう。


「その倉庫には四脚も入りますので、話を通しておいてくださいね」

「おいおい、待て待て。そいつらはどこかに置いてきてくれ。集会所の近くには係留所も転回場もない。馬厩があったところで、そいつらは絶対入れられない。頼むから連れてくるなよ」


 闇ポタたちがフルードとリジッドの倉庫入りに待ったをかける。見た目はディスガイズで馬に扮しているが、王都に到着するまでの道程で、闇ポタたちもこれがただの重馬種ではないと理解している。




 そう、闇ポタがフルードをウォーウルフと知っているのは何も変ではない。しかし、初見のオズワードがフルードたちをウォーウルフと見抜くのはおかしい。幻惑破りの魔道具を持っている可能性はあったのだが、私はそれと別の可能性を考えていた。


 矮石化蛇(バズィリシュカ)は、激しい口論や暴行といった身内同士の悶着の様子をしばしば客に披露し、以後の商談を有利に進めようとする。要は演劇による間接的な脅迫だ。ときとして交渉相手を脅すより、交渉相手の目の前で別の人間に実力を行使するほうが卓効する。暴力を見せつけられた人間は、暴力を振るわれずに済む方法を無意識に模索する。これは相手が自分よりも弱くとも生じる本能的な現象である。この世界でしばしば用いられる“話し合い”の手口だ。


 おそらく闇ポタはオズワードと密談し、一芝居打って我々から金を必要以上に巻き上げようと算段したのだ。我々リリーバーが持ち逃げを防ぐには商隊に同行しなければならず、ウォーウルフを検問に通すためには追加の特別料金が必要だ、と話を持っていこうとした。整理して考えれば実に簡単な構図。闇ポタの頭目とオズワードが密談する様を、『芝居のようだ』と私は思ったが、何のことはない。芝居は本当にそこから始まっていたのだ。


 裏社会に在籍していた過去があり、なおかつ披露された演劇の内容構成に瑕疵(かし)があったからこそ私は計略を見抜けた。ラムサスの小妖精は予備知識なしにそれを見破るのだから、情報魔法使いが如何に反則的な存在かよく分かる。




「私は、倉庫に連れて行く、と言いました。何とかするようにお願いします」

「んな、無茶な。そんな危険な魔物を倉庫には入れられねえよ」

「殺傷力はこれら四脚よりも我々のほうが高いです。危険性は入場拒否の理由になりません。それにその倉庫には魔物の売買用に檻があるはずです。滞在中はその中に入れておけば、文句はないでしょう? 檻の利用料は払います。ただし、特別価格ではなく、通常価格でね」


 闇ポタたちは、妙なところに詳しい奴だ、と小声で囁き合う。


 場所と時代がある程度変わっても、矮石化蛇(バズィリシュカ)の商品倉庫の設備など、そうそう変わるものではない。


「檻に入れるまでの安全性が担保できない」

口輪(マズル)付きの顔面覆い(パシュファイア)を事前に装着しておきます。それでいいでしょう」


 思いついた難癖を即座に退けられた闇ポタは、渋々フルードたちの倉庫入りを承諾する。


「絶対に誰も噛みつかせるなよ。もしも噛み付きやがったら、どんな手段を取ってでもお前らに責任を取らせるからな」

「問題ないですよ。敵以外には牙を剥かない穏やかな四脚です。この四脚が牙を剥く、ということは、あなた方が我々の敵に回った、ということ。そのときは我々があなた方を確実に全滅させます。それでも、取り立てる、と言うならば、アンデッド化した後も記憶を保持していないといけませんね」


 クツクツとルカが笑うと、闇ポタたちの顔からサッと血の気が引いていく。


「何が『穏やかな四つ足』だ。散々唸り声を聞かされてるんだよ、こっちは」


 表社会にも裏社会にも動物好きの人間とはいるものだ。王都に着くまでの道中において、フルードとリジッドの雄大な馬体に触れようと近寄ってきた愚かな闇ポタが何人かいた。命知らずの無礼者は、低い唸り声で威嚇しておいた。当時、フルードを馬だと思っていた闇ポタは驚きのあまりに腰を抜かし、這いずってフルードから逃げようとした。


 あれは見物だった。今思い出しても笑いが込み上げる。




 闇ポタはその後も少しばかり文句を言ったものの、最終的に私の要求を受け入れた。


 検問に向かう彼らを見送り、我々は王都に潜入するためそのまま郊外で夜の訪れを待った。


「ああ……久しぶりに声を出せる……」


 グレイブレイダーとポーターという厄介な耳目がなくなり、ラムサスは少し掠れた声で喋り始めた。声というのは出しすぎても嗄れるが、出さなすぎても嗄れるものなのだ。私も自分の身体で経験済みだ。


「フォニアたち、大丈夫かなあ。ああやって念押ししておいても、素材を持ち逃げしそうな気がする」

能力(小妖精)で確かめていたではありませんか」

「あの場では本心だったかもしれない。でも、別れた後に気が変わらないかどうかまでは、私も見抜けない」

「そればかりはボヤいたところで詮がありません。どの道、彼らが運ぶ素材は我々にとって金銭的価値しかありません。素材を失ったところで益を出し損ねるだけであり、それ以上には損害を受けません。不安に心を悩ますことこそ、損というものです」

「ノエルってさ、混じり物なのに、お金の感覚は本当にアンデッドだよね」

「あー、アンデッドは金銭に執着が少ない、とは、外国でよく言われますね。私は他のアンデッドと会話した経験がないので、実際のところはよく分かりませんが」


 そういうラムサスは金の話をさせると目の色を変える。ゲルドヴァで武具を買うときや、王都の骨肉店で素材を売り払うときも興味津々、自分の財布の中身が増減するかのように熱の籠もった目でこちらを見ていた。アンデッドよりは人間のほうが金銭への執着が強く、人間の中では男よりも女のほうが金銭への執着が強い傾向にある。ラムサスの興味はそれを象徴している。私に取り込まれる前のセリカもそうだったのだろうか?


「心配なのは持ち逃げの話だけじゃない。本物の商隊だからって、あの素材を無事に王都の中に持ち込めるかなあ? 検問を受けるのは変わらないのに」

「オズワードと縁のある人間が担当する検問を通るのでしょう。そうすれば、賄賂を払うだけで安全に持ち込める」

「仲間にも賄賂を払うの? 信じられない浅ましさ。あー、お金で何でも解決。嫌な話、嫌な奴ら」


 仲間であれば融通を利かせてもらっても代価は不要。ラムサスは清廉な思料(しりょう)をするものだ。


 賄賂とは手数料、云わば経費のようなものだ。人脈作りとは、金を払う価値のある人間を探すことに意味が近い。価値のある人間が価値のある行いをしたのであれば、それには料金を支払うべきである。東天教のような無償奉仕の考えは好きになれない。


 金があれば何でも買える、という考えも少し間違っている。人脈を持たない人間は資格がないのと同義で、金を積んでも社会的重要性の高いものには見ること、買うこと、触れること、いずれも叶わない。


 マディオフにおける闘衣対応装備がいい例だ。少し造作の優れた闘衣対応装備が置かれた店は、入店に資格がいる。その資格を手に入れるためには、各種条件がある。


 ハンターであるアールを例に挙げると、徴兵義務を満了している、二年以上実態のあるハンター業務に従事している、罰金刑以上の刑に科されたことがない、過去五年間納税遅滞がない、等。ここまでが誰でも満たせる簡単な条件で、ここから先は人脈が必要になってくる。まず、推薦状を書いてもらわなければならない。推薦状を書ける人間は法で定められていて、地方であっても中央であってもいいから、とにかく現役の代議士。あるいは衛兵団で治安管理業務を担う各部門の部門長。軍であれば中佐以上の階級にあり、なおかつ旅団以上の部隊指揮を任命されている役職持ち、等々だ。


 推薦状を持って役所を訪れると、資格登録の申請を受け付けてもらえる。ここで正規の登録手数料や印紙代とは別に役人に賄賂を払っておかないと、審査に無駄に何年も待たされた挙げ句に、不適、の判断が下されるおそれがある。役所の受付を担当している事務員に賄賂を渡すのは完全な無駄、薪に水を撒くようなものである。賄賂を渡すべきは、受付の人間ではなく、役所の奥で書類の決済作業に追われている管理職だ。しかし、無能な管理職に賄賂を渡したところで、審査期間の短縮になるだけであり、審査に通るかは未知数。有能な管理職に十分な賄賂を渡すのが肝要なのだが、受付で、「責任者に会わせろ」と騒いでも、出会えるのは衛兵だけ。役所で騒ぐ者は反社会勢力として逮捕され、資格ではなく前科と焼印を手に入れることになる。しかもこれらは返品不能。有能な管理職を応接室に引っ張り出すのもまた人脈だ。


 金とヒトを適切に動かしさえすれば、入店資格は数日で発行される。推薦状なんて、書式は一切定まっていない。重要なのは推薦者の署名だけで、本文など、『彼の者への卓爾の武具の付与は、社稷の安全保持に資すると推考する。因って件の如し』という簡単なもので十分なのだ。どうせ本文なんてチラリと見るだけ。じっくり読む暇人はどこにもいない。もしかすると、表書きと署名だけ厳密に(したた)めておけば、本文には焼き菓子の作成手順を書いておいても資格は問題なく発行されるかもしれない。


 金とヒトは使ってこそ価値がある。人脈が無ければ金の相対的な価値は下がる。馬鹿と心が清廉すぎる人間はそれを理解できない。


「正義や篤実といったものを否定するつもりはありませんが、あまりに清廉すぎても色々な場面で損をしたり、遠回りしたりすることになりますよ」

「そういう本来不要なコストは巡り巡って社会全体のあらゆる物事の値段を無意味に上げる。それを排除するのも私たちの役目」


 ラムサスの発言は正しい。こいつはいつも正義に忠実だ。しかし、ここマディオフにおいて遂行されるべき正義ではない。ラムサスはこの国において、衛兵でも軍人でもない、ただの密入国者なのだから。


 私にとっては何ということのない旧来からの社会陋習(ろうしゅう)ひとつひとつに触れる度、ラムサスは精神を磨り減らしていく。矮石化蛇(バズィリシュカ)やグレイブレイダーと接触している間はフルードとの触れ合いやカード遊戯、徒話という形で心の内に溜まった不満を発散させられない。


 王都に潜入した後、また当分の間ラムサスは緘黙を強いられる。肝心なときに精神損耗で無力化していないか、今から甚だ不安である。

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― 新着の感想 ―
[良い点] >>そんな生半可なブスには作っていない。 ワロタw そこまでとは…ラムサスに同情してしまう
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