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第二七話 最後の旧四柱 五

 勇風に乗せて雪の舞う森の空に、ひとりの風魔法使いがいた。パーティーの頭脳を自負する風魔法使いセルツァは、男と魔物の戦いを見守りながら、必要に応じて風魔法を放ち戦況を巧みに制御していた。


 今日の戦いはこれまでと異なる。それは、戦う前から分かっていたことだった。


 パーティーの盾と矛を担う前衛の男は変通の心など持ち合わせていない。もうひとりのパーティーメンバーであるレンジャーのフォニアは状況打開力こそ高いものの、パーティーの頭脳であるセルツァの意見を何より尊重し、優先する。


 つまり、変化に対応するためには、誰よりもセルツァが気を張り、頭脳を回転させなければならない。思考の放棄は即、死に繋がる。力を適切に使うには、発想や柔軟な思考こそが最も大切だ。だからこそ、風魔法使いは考え続ける。




 違いのひとつ目は、自分たちの前座としてツェルヴォネコートに突貫するはずの特別討伐隊がいないこと。特別討伐隊の目であり脳である情報魔法使いが負傷したからだ。情報魔法使いが負傷したのは、悪い偶然が重なったからでも、戦いの準備に不手際があったからでもない。全ては悪意ある第三者、フォニア・ピゾラットとセルツァ・プルーストリーが暗躍したためだ。


 情報魔法使いが死のうが、特別討伐隊が壊滅しようが構わない。それぐらいの悪意をもって特別討伐隊のツェルヴォネコート討伐を邪魔した。元よりツェルヴォネコートとは正面からぶつからず、罠や地形を駆使して身を守りながら嫌がらせのような攻撃しかしてこなかった特別討伐隊だ。逃げるも隠れるもギリギリであり、事前に用意しておいた潜伏手段、逃走経路を少し潰されてしまうだけで、簡単に窮地に追い込まれる。


 作動するはずの罠が作動せず、準備しておいた隠れ場所が潰され、逃走経路が荒らされる。これでは予定どおりに事が運ぶはずもない。隊員の大半がツェルヴォネコートに殺められてしまってもおかしくない状況の中、氷の魔術師の二つ名を持つイオス・ヒューラーと侵入者(インベイダー)と恐れられるバンガン・ベイガーの二人が奮戦し、辛くもツェルヴォネコートの攻撃を凌いで街まで逃げ延びた。


 しかし、特別討伐隊はそれなりに損害を受けた。特に、要となる情報魔法使いの怪我は軽くない。戦線復帰まではそれなりに時間がかかる。アーチボルクに住まう治癒師らはあまり腕が良くない。マディオフという国自体、優秀な治癒師を輩出する土壌が無いせいだ。情報魔法使い以外の隊員を治療するだけでも、幾許かの日数を要するだろう。


 特別討伐隊がしばらくツェルヴォネコートにアタックを仕掛けられないのはグレイブレイダーの目論見どおりである。では、それでツェルヴォネコート討伐が楽になるか、というとそんなことはない。特別討伐隊を排除したのは、特別討伐隊にツェルヴォネコートを奪われないようにするためであり、特別討伐隊不在の状況における純粋な討伐難易度は確実に上昇する。




 二つ目の異変は全くの想定外である。特別討伐隊が不在となるのを見計らっていたかのように、代わりにワイルドハントが前触れなくフィールドに姿を現したのだ。


 セルツァ本人はワイルドハントの姿を見ていない。だが、セルツァが全幅の信頼を寄せるパートナーのフォニアは、「ジバクマに出現したワイルドハント」と断言した。ならばワイルドハントの出現は事実であり、そこに疑問を差し挟む余地はない。


 一手間かけて特別討伐隊をフィールドから排除したというのに、一難去ってまた一難とはこのことである。しかも、今度の一難は前の一難とは比較にならないほど厄介だ。ワイルドハントを思えば、特別討伐隊のほうがよほど与し易(くみしやす)い。


 特別討伐隊の戦闘風景は何度となく覗き見た。イオスとバンガンは確かに優秀な魔法使いだ。ミスリルクラスというのは過大評価でも何でもない至極適正な評価である。しかし、所詮はハンター。対人戦闘を熟知していない以上、グレイブレイダーの敵ではない。


 では、特別討伐隊同様にワイルドハントをフィールドから排除できるのか、というと、おそらくそれは難しい。ジバクマのワイルドハントは出没自在。もしかしたらワイルドハントの中にセルツァと伯仲の、あるいは、それ以上の風魔法使いがいるのかもしれない。行動履歴から考えて、かなり高い隠密能力を持っている。グレイブレイダーが特別討伐隊を排除できた最大の要因は、(ひとえ)に両者の間に隔絶した隠密能力の差があったからだ。ワイルドハントとはその差がない。


 隠密力では五分として、戦闘力ではどうか。ワイルドハントはオルシネーヴァの軍隊を退けている。普通の大隊程度であればグレイブレイダーでも何とかなるが、連隊以上となると厳しい。どれだけ強くとも多勢に無勢。限界というものがある。数を多く倒すための戦闘力と、強力な“個”を倒すための戦闘力はまた違うのだが、とにかく戦闘力はワイルドハントのほうが高そうに思われる。


 また、各種の状況や前提を覆しかねない特殊能力にも注意が必要だ。ドレーナがいるのだから、ワイルドハントは変装魔法(ディスガイズ)を使える。その他の構成員は大半がアンデッドらしいが、ドレーナ以外にも危険な特殊能力を持った種族がいても不思議はない。その他、ワイルドハントにありがちな稀少魔道具も忘れてはならない。


 いずれにしても未知の能力を持った相手だ。警戒してもし過ぎるということはない。




 最後に三つ目の異変。討伐目標であるツェルヴォネコートの様子がおかしい。今日はグレイブレイダー戦の前に特別討伐隊との戦闘がなかった分、疲労の色が薄いのは分かる。しかし、それだけではない、体力や疲労度ともまた異なる、何かセルツァの不安を煽る謎の違和感がある。違和感の正体が何なのか、セルツァはまだ掴みきれていない。こういうときこそ注意が必要だ。


 上手く言い表すのは難しいが、この日のツェルヴォネコートは臆病さと、どこか怠慢さを併せ持つ堕ちた王者ではなく、挑戦者のように静かに燃える青い炎……赤い炎よりもずっと高温で燃える危険な炎のような印象をセルツァに与えるのだ。




 セルツァは細心の注意を払う。


 ワイルドハントが出現したことにより、ツェルヴォネコート討伐の機会は今まで以上に限られる。ひょっとすると、これが最後のチャンスになってしまうかもしれない。


 今日まで“削り”に専念したのは決め手に欠けるからだ。グレイブレイダーでツェルヴォネコートに痛烈打を与えられるのは前衛として戦っているクリフォードだけ。セルツァの風魔法でもダメージを与えられないことはないが、非効率的である。セルツァの風魔法は、その魔法技術の高さに比して威力は控え目である。特筆すべきは破壊力ではない。風魔法は攻撃魔法に分類されているとはいえ、その他三属性の攻撃魔法に比べると物理的破壊力に劣る。風という属性の特徴をよく理解したセルツァは、自分の得意なこの風属性を、攻撃方面ではなく支援の方面に用いると決め、修練を積み重ねた。くしくもそれは他の風の最上位魔法使いたちと変わらぬ選択である。


 ツェルヴォネコートと交戦を繰り返した専らの目的は、この巨大なレッドキャットを消耗させることにあった。交戦時間はある程度長いほうが望ましい。並の魔物であれば易易と屠れるセルツァとはいえ、ツェルヴォネコートに傷を負わせるには破壊力不足。無理に威力を高めようとしたところで、ツェルヴォネコート以上に自分が魔力を消耗することになる。うっかり魔力欠乏に陥った日には、自分だけでなくクリフォードも死ぬことになる。フォニアだけは能力的に逃げ延びることができるが、性格を考えるとそれはない。セルツァを救おうとして共倒れになるのが目に見えている。


 自分は攻撃に回らず支援に徹し、ツェルヴォネコートの動きを邪魔する。クリフォードの攻撃がツェルヴォネコートにダメージを与えるのは、“削り”の過程においては副次的なものにすぎない。真の意味でクリフォードの攻撃力が役に立つのは、最後に止めを刺す時だけだ。クリフォード自身はそのことを理解していない。自分が戦いたいように好き勝手暴れるだけ。放縦なクリフォードが作る負担は、セルツァとフォニアにのしかかり、大半はセルツァが背負うことになる。


 苦労に苦労を重ねてようやく結果が得られそうになった今、ワイルドハントはこの地に現れた。考えれば考えるほど腹が立つ話だ。この忌々しいワイルドハントは単に不愉快なだけでなく、種々の不可思議なエピソードを持っている。座視すべからざるエピソードのひとつが、ワイルドハントの魔法を語るものだ。


 レンベルクの悪夢の名で一般人に至るまで広く知られた逸話の最序章を飾るのが、桁外れの威力を持つ土魔法である。オルシネーヴァとジバクマの戦争にしゃしゃり出て披露した土魔法は、師団からなるオルシネーヴァの軍隊をものの一発で崩壊させた。痛烈打ではなく、一撃で全てを決する決定打。この土魔法は、後日また別の場面において、ゲダリングに築かれた要塞の防壁を穿ち砕いている。こと一撃の威力においては際立っている。属性が火ではなく土であることも、ツェルヴォネコート相手には適当だ。


 ワイルドハントはたった一発魔法を放つだけで、戦績に輝かしい一行を書き加えることができるのだ。これほど理不尽極まりない話があるだろうか。あっていいはずがない。




 セルツァが思い悩むのは、単純に魔物ひとつの討伐成否だけではない。セルツァはグレイブレイダーの懐を管理している。セルツァの目利きと嗅覚がパーティーの財政を支えている。強大な魔物の討伐(ハント)は、戦い方さえ間違いなければ良い収入になる。


 セルツァにとってハントは手段であって目的ではない。クリフォードのように、ハントそのものを目的とはしていない。仲間が狩りたいと言っているから共に戦う。討伐に成功すればパーティーの懐が潤う。それだけの話である。


 グレイブレイダーはアーチボルクに来てからダンジョンの“墳墓”に通った。クリフォードがアンデッド討伐に飽きた後は、現在まで続くツェルヴォネコート討伐を繰り返している。この二か月弱という短期間で、金は羽が生えたように飛んでいった。出ていくばかりで実入りがほとんどない。ただし、ツェルヴォネコートを狩ることができれば、これらは全て浪費ではなく経費になる。ネームドモンスターから回収できる金は超高額だ。経費分の支出を上回る収入になることは確実だ。


 しかし、ツェルヴォネコートが金銭的に魅力的な魔物であることは間違いないにせよ、金に魔力を感じるのは危険な精神状態である。どれだけ赤字を抱え込んだところで、パーティーメンバー全員が無事でさえいれば、後からどうとでもなる。戦利品を得ることに固執して、冒す必要のない危険を冒すなど、あってはならない。くだらない口喧嘩などせずに、そのことをはっきり伝えるべきだった。


 思えばここ最近、金銭問題でクリフォードを責付(せつ)きすぎた。これは仕方がないことともいえる。放っておけばクリフォードは金銭面を一顧だにせず自由気ままに行動する。一度言って分かるような男ではないし、実際消費額が生半可なものではないから、セルツァは口を酸っぱくして言った。


 自覚を持ってほしいがための苦言だったが、ワイルドハント出現により話が変わる。面倒なことに、ワイルドハントが出現したことをクリフォードも知ってしまった。クリフォードは後先考えない。今日はこれまで以上に無茶な戦い方をしてツェルヴォネコートを討伐しようとするのは確実。クリフォードが無茶する分、セルツァの負担は増える。




 クリフォードが理解しようとしない問題に頭を悩ませながらセルツァはフィールドを見下ろす。


 今、ツェルヴォネコートは火焔蝶を飛ばしている。大小不同の火焔蝶がグレイブレイダーの視界を埋め尽くさんばかりに大量にフィールドの空を舞っている。これまでの戦いにおいて、ツェルヴォネコートはこのような火焔蝶の使い方をしたことはなかった。蝶の数はここまで多くなく、大きさは一定に揃えられていた。本物の蝶が大小個体差を有するように、今日の火焔蝶は粟粒のような小さな一片から、いつもより大きく羽を広げる一片まで様々な大きさのものが取り揃えられている。色合いもまた普段の赤や黄色とは違い、見るものを不安にさせるおどろおどろしい青の色合いを纏う様は、セルツァの懸念を具現しているかのようだ。遠近感を狂わせる不同の舞は、グレイブレイダーの動きを封じるように終わり無く続く。


(どれだけ数が多くても、私には関係ない)


 セルツァが風を操る。火焔蝶の美しい形状は敵の目を奪う囮としては優れていても、攻撃魔法には必ずしも適さない。風を拾うための大きな翅は、少し強い流れができるだけで途端に足枷に化け、火焔蝶は主の意に沿って舞うことが不可能になる。


 セルツァは風魔法で一匹一匹火焔蝶を潰す必要などない。風の流れを作ってまとめ上げるだけで蝶は互いに衝突し、何もない場所で無意味に青い命を散らしていく。


 セルツァは宙に浮いたまま蝶を導き、仲間を守り、フィールドのあらゆる事象に目を光らせる。余裕があるときには、ツェルヴォネコート本体に風魔法をぶつけて動きを阻害する。ダメージを与える必要はない。邪魔をするだけでいい。こうやって時折風魔法をぶつけてやることで、ツェルヴォネコートの注意が多方に分散する。ツェルヴォネコートの集中力を妨げないことには、クリフォードを守る手間が何倍にも膨れ上がる。


 この守りの苦労だって、本当は要らないはずなのだ。クリフォードが持つ盾はパーティーのあらゆる装備、魔道具の中で最も上等であり、使いこなせば、ネームドモンスターの攻撃であっても凌ぎきれる名品だ。


 せっかくセルツァが買い与えた盾なのに、今までで一番高い買い物だったのに、クリフォードはすぐに守りを忘れて攻撃ばかり考える。だからセルツァは苦労し続ける。




 セルツァが作る旋風に、火焔蝶は空高く舞い上げられる。火と風は熱風となって一帯の温度をグングン上げ、雪の表面が次第に溶けていく。雪の表面を濡らす水は、日光と火焔蝶の煌めきを複雑に反射して、辺りを眩いまでに輝かせる。


 そんな輝く世界の中でクリフォードは銀閃を煌めかせる。自由気ままに生きる彼もおそらく気付いている。何を考える力はなくとも、戦闘の才覚は人類最高峰に位置している。


 ツェルヴォネコートとの戦いの日々が終わる。ツェルヴォネコートは、残る全ての力を費やしこの一戦に臨んでいる。


 気付いているからこそクリフォードは一層のめり込む。盾で身を守ることを忘れ、愛剣ポドフィルムに攻守一切を担わせる。名盾マトリカリア無しには防御の難しいツェルヴォネコートの猛攻を剣で無理矢理捌き、爪と牙の嵐が途切れるほんの一瞬の隙を突いて反撃に転じる。


 クリフォードが攻め手を繰り出せるのはほんの一瞬であり、ツェルヴォネコートの次の攻撃が直ぐ様襲い来る。その対応はセルツァ任せだ。我が身を削る覚悟で攻めないことには、ツェルヴォネコートに攻撃を当てることすらできない。思考ではなく感覚でそう見抜いているのだろう。


 大森林最強最後のネームドモンスターを倒すにはクリフォードが攻撃しなければならない。それ以外の攻撃手段では、グレイブレイダーは決してツェルヴォネコートを倒せない。それが分かっているからこその、無謀にしか見えない攻撃偏重の姿勢である。


 少しでも多くの金創を、少しでも深く。


 きっとクリフォードの頭はそんなことしか考えていない。周りの何が見えずとも、相手の肉を断ち切る剣の道筋がクリフォードには見えている。クリフォードの生命を一撃で確実に刈り取るツェルヴォネコートの爪も牙も見切っている。


 それでもクリフォードは引かない。守りはセルツァに押し付けて、ポドフィルムでツェルヴォネコートを刻んでいく。ツェルヴォネコートの攻撃が激しさを増そうとも、それには負けじ、と連撃を繰り出す。




 クリフォードは遺憾なく攻撃力を発揮している。レッドキャット、ヒトの双方が、自身最高、最強の一撃を放ち続ける。戦いは果てしない高みへ昇り続け、セルツァの風魔法が徐々に遅れを見せ始める。応酬が激しくなればなるほどセルツァの負担は増え、クリフォードを守る手が追いつかなくなっていく。


 また一際強い爪の一撃が飛び出した。致命の一撃からクリフォードを守るために風魔法を放ち、危ういところでクリフォードの身体を爪の軌道からずらす。


 ツェルヴォネコートの攻撃は止まらない。次のレッドキャットの一撃に、風魔法の手が間に合わない。セルツァの遅れをカバーするべく、フィールドに潜んだフォニアの放つ投擲武器がツェルヴォネコートの目を狙う。


 (かぶり)をひとつ振って急所攻撃を弾いたツェルヴォネコートは、クリフォードの撃つ剣が身を刻むのを無視し、投擲武器の射出方向に身を翻して体勢を低く沈める。


 ツェルヴォネコートはフォニアを狙う気だ。フォニアのいる場所はセルツァから遠い。セルツァは慌てて前進しながら偏差射の要領でツェルヴォネコートの飛び出さんとする方向に風魔法を前置きする。


 フォニアはクリフォードと違う。ツェルヴォネコートの動きを少し阻害するだけで攻撃から逃れることができる。パーティーメンバーを完璧に守る上首尾の一手。そのはずだった。




 フォニアの方を向いたツェルヴォネコートは、いつまで経っても前に飛び出さない。それなのに、なぜかセルツァに向けた背中がグングン大きくなっていく。


 ツェルヴォネコートはグルリと身を(よじ)ってこちらを向いた。醜悪な笑みに歪むネコの顔を見てセルツァは気付く。ツェルヴォネコートは既に飛び跳ねていた。ただし、飛び出した方向が予測と違う。ツェルヴォネコートの狙いは、フォニアではなくセルツァだった。


 極めて単純なトリックプレー。視線誘導に完全に引っかかってしまった。


(まずった)


 刹那の思考制止の後、セルツァは回避しなければならないことを思い出す。


 ツェルヴォネコートは笑った口をガパリと開く。セルツァを一飲みにせんと開けた大口の中、左右対称に並んだ鋭い牙が、セルツァの目にはなぜか作り物のように見えた。


(早く回避の風魔法を……)


 セルツァの脳の一部は突然の窮地に現実逃避を始め、目前に迫るネームドモンスターの牙を、夢幻なのではないか、などと考えている。正常な機能を維持した残りの脳を使って風魔法を作り出す。魔法の構築は難作業でありながら、練達であるセルツァは機能の一部が休止した脳でもかろうじて行える。


 超一流の風魔法使いが作ったとは思えない乱雑で力任せの突風がセルツァの身体を容赦なく叩く。衝撃に備えて構えを取ることすら忘れていたセルツァは激しい痛みとともに横方向に弾き飛ばされる。


 それは能動的な移動ではなく、受動的に吹っ飛ばされたようなものである。荒れ狂う風の中、ギュッと瞑った目を無理矢理こじ開けてみると、世界が無秩序に回転している。


 回っているのは世界ではなく自分の身体である、と言い聞かせ、意識を手放したくなる甘い死の勧誘の手を払い、必死に天地を見極める。吹っ飛ぶ自分の身体を制動できないことには、地面に激突して死ぬだけだ。


 世界が回転する向きに合わせて自分の身体に風を当てると、回転は徐々に止まる。回ることをやめた世界の様子を窺うと、視界の端に自分を噛み殺し損ねたツェルヴォネコートの姿が映り、なんとか攻撃を避けられたことを悟る。


 ツェルヴォネコートはよほど勢いよく跳ねたのだろう。まだ空に向かって昇っている。


 少しばかり安堵して再度風を操り空中に静止する。


(仲間は!?)


 セルツァの役割は仲間の支援。吹っ飛んだことで自分の位置だけでなく、仲間の居場所も見失ってしまった。視線を左右に動かしてパーティーメンバーの姿を探す。


(いた。フォニアだ)


 敵の視界外から奇襲を行うため、フォニアは普段、セルツァにも簡単には見つけられない潜み方をしている。そのフォニアがなぜか開けた場所に飛び出している。顔を隠すフードを外してセルツァを直視し、絞り出すような声で何かを叫んでいる。


「セルツァ……脚が……!!」


(脚……?)


 言われてみると、左の脚に風をよく感じる。衝撃による装備の破損を疑い、セルツァは自分の足元に目をやった。


 そこには、あるはずの自分の脚がなかった。脚があった部分からは、赤い液体が規則正しく噴出を続けている。




「え……? な、なんで……?」


 過剰な冷感か、あるいは極冷感が生み出す反転した熱感しか持っていなかったセルツァの左脚の断端が、思い出したように痛みを訴え始める。


「セルツァ、止血を! 血を止めなきゃ!!」

「あっ、あっ、あっ。そ、そうだ。血……血を止めないと」


 セルツァは脚の断端に片手を伸ばす。グローブの先が傷口に触れた瞬間に激痛が走る。痛みに耐えてグローブを傷口に押し付けても、血液は勢いよくドクドクと流れ続ける。


(あれ……あれ……? 止血って……どうやったっけ? どうすれば血が止まるんだっけ)


 止血方法を思い出すため、記憶の門を次々に叩く。


(ラザニア……違う、それはフォニアの好きな食べ物だ。マトリカリア……これは私が買ってクリフにプレゼントした物だ。こいつは……魔道具を売った商売相手だ。これも違う。あれも違う)


 混乱したセルツァが叩いた門からは、止血には全く役に立たない雑多な記憶が次々に飛び出し、セルツァの脳裏を掠めては消えていく。混乱は新たな混乱を招き、セルツァは残る片手で風魔法を構築することすら困難になり、空中静止できなくなったセルツァの身体は地上に落下を始める。


 地に積もった雪は、落下するセルツァの身体を受け止めた。表層の柔らかい新雪は火焔蝶の熱で溶け、中層にあった冷たく濡れた重い雪が乱暴にセルツァを抱き止めた。白かった雪が、グローブの脇から溢れ出る血液で赤く染まっていく。


「止まって……止まって……」


 セルツァは魔法杖から手を放し、自由になった両の手で必死に脚の傷を押さえる。


「セルツァ!!」


 駆け寄ってきたフォニアがセルツァの装備を手荒く外し、服の上から長布で脚をキツく縛り上げていく。


「大丈夫、大丈夫だから!」

「ごめん……フォニア……私、ミスっちゃった……」

「大丈夫、何も考えなくていい」


 血の気の引いた顔でセルツァはフォニアに謝罪を繰り返す。


「すぐ街に戻ろう。私が連れて行く」


 古典的かつ単純な止血処置により大きな出血を止めたフォニアは、滲み続ける少量の出血を無視してセルツァを背負い、自分の身体に結び留める。


「アイツは?」

「クリフは大丈夫! セルツァがあげた盾を持ってる。だから、攻撃を防ぎきって、敵を振り切って逃げてくる」


 フォニアは後ろを振り返ることなく一目散に北へ向かって逃げ出す。


(フォニアの嘘つき)


 フォニアの背中でセルツァは首を捻り、戦闘を続けるクリフォードの後ろ姿を見る。セルツァの支援を失ったクリフォードは防戦一方になっている。盾で爪を弾くのが精一杯で、片手に持った剣は、もう武器としての機能を果たしていない。


 もうクリフォードには反撃機会も逃走機会も残されていない。クリフォードはどうやってもツェルヴォネコートの前から逃れられない。今は爪を防げていても、ほんの少し受け手を間違えるか、盾を持つ手が痺れるか疲れてしまえばそれで終い。


「ダメ……。戻って、フォニア。クリフが死んでしまう」

「それはできない、セルツァ。助かるためには逃げるしかない」

「……助かっても、その先にはクリフがいない。私は問題ない。血を少し流しただけ。魔力は失ってないし、頭も冴えてきた。だから、フォニア」

「聞き分けて、セルツァ」


 セルツァの説得に、フォニアは耳を貸さない。


 セルツァは背中の上から、フォニアが持ってくれている自分の魔法杖に手を伸ばす。


「やめて。……お願い!」

「大丈夫。みんな無事に帰ろう」


 街に向かって走り続けるフォニアの身体が、セルツァごと宙に浮かび上がっていく。


「無茶はやめて、セルツァ」

「ツェルヴォネコートは諦める。無茶はしない。私は、誰も欠けてほしくないだけ」


 空に浮いた二人の身体が急速にツェルヴォネコートへ近付いていく。


「セルツァ……」


 空に身体を持ち上げてしまえば、フォニアだって何もできない。それでも形振り構わなければ、取れる手段はあるだろう。なにせフォニアは毒使いだ。だが、今のセルツァにはそんなことに気を回している余裕など無い。


 意識的にそのことは考えないようにして、全員が助かる道だけを模索する。




 魔法射程まで近寄ったセルツァは、ツェルヴォネコートの猛攻に晒されたクリフォードの身体を風魔法で思い切り後方へ引っ張って空中に引き上げる。


「なんで戻ってきた!?」


 クリフォードは血走った目でセルツァを睨む。本気の血相は、今にもセルツァに襲いかからんばかりである。


(せっかく助けに戻ってきてやったのに!)


「あんたひとりじゃ、あのネコは倒せないでしょ。ここは一旦退く」

「お前たち二人だけ下がっていろ。でかネコは俺が倒す」


 クリフォードはセルツァの風魔法の束縛から逃れようと藻掻き始める。


「ちょっ……コントロールが難しくなる。暴れるな!」


 普段であればクリフォードひとりが暴れたところで三人を楽々持ち上げて操ることのできるセルツァだが、今は繊細な魔法制御ができなくなっている。クリフォードが暴れることで、姿勢が安定しなくなっていく。


 内輪で揉めるグレイブレイダーに向かい、地上のツェルヴォネコートが飛び跳ねる。跳躍から逃れるためにセルツァが慌てて風を動かし、パーティーは二手に分かれる形となってしまう。




 セルツァの風魔法の射程から出てしまったクリフォードは墜落するように地面へ降りる。クリフォードは闘衣を活かしてダメージを負うことなく半分溶けた雪の上に見事に着地する。


「そうだ、それでいい。こいつは俺が倒ーす!!」


 足場を得たクリフォードは、またもツェルヴォネコートにかかっていく。


「くっ、またミスった……。クリフ、盾から手を離すな! ツェルヴォネコートはまだ倒せない!!」


 セルツァが戻ってきたことで守備を任せられるとでも思っているのか、クリフォードは再び攻撃態勢に戻っている。


 今のセルツァでは万全な支援ができない。魔力が残っていても、血を流しすぎて頭は十分に回らない。脚の痛みは気を失いかねないほどに暴れ狂っている。魔法は大雑把にしか使えない。いつもなら欠伸(あくび)しながらだってできる魔法の制御が覚束ない。ツェルヴォネコートの攻撃からクリフォードを守り続けるのは、どれほど楽観的に考えても不可能だ。


 実力を発揮できない怪我の身体を押し、ここが死活局面、と集中力を発揮する。二つ、三つとツェルヴォネコートの攻撃からクリフォードを守るものの、たったの数手で魔法操作を誤る。横にずらすだけのつもりだったクリフォードの身体を激しく突き飛ばしてしまい、クリフォードは大きく体勢を崩す。


「いけない……!」


 フォニアはセルツァと自分の身体を結び止めていた紐を外して地上に降り、クロスボウから矢を射出しながらツェルヴォネコートに近付いていく。


「あっ、ちょっと……フォニア!!」


 フォニアの攻撃は死角より放たれるからこそツェルヴォネコートを邪魔できた。目立つ地点から遠距離攻撃を撃ったところで、レッドキャットは容易に躱す。爪の届く位置に無防備な姿を見せたフォニアをツェルヴォネコートの縦長の瞳が鋭く射抜く。


(フォニアが殺される)


 ツェルヴォネコートの前に立つのがクリフォードだけだからこそ、セルツァは支援できる。このネームドモンスターを相手に、二人のパーティーメンバーを同時に守るのは極めて難しい。ましてや今のセルツァでは、幾つもの魔法を並行して構築することができない。


 ツェルヴォネコートは先程フェイントをかけた。今、またフォニアを襲うフリをしてクリフォードに襲いかかったら、あるいはその逆をされたら、どうすべきか。


 両者を助ける理想の一手など存在しない。最悪、クリフォードはマトリカリアでツェルヴォネコートの攻撃を防げる。しかし、フォニアは攻撃を躱す以外に防御手段がない。迷う必要など最初からなかった。それでもセルツァを迷わせたのが、彼女の感情だ。感情がセルツァを迷わせ、魔法構築を一瞬遅らせる。




 ツェルヴォネコートが攻撃対象に定めたのはフォニアだった。長い爪がフォニアへ向かって伸びていく。


 フォニアを守るべく、セルツァの魔法がフォニアの身体を追いかける。だが、魔法を放ったセルツァ自身が分かっている。この風魔法は間に合わない。黙って最初からフォニアを守ることだけを考えていれば、間に合っていた。


 クリフォードだってダメージを負ったわけではないのだから、すぐに姿勢を戻して一撃くらいはツェルヴォネコートの攻撃を捌けたはずだ。


 自分が怪我を負ってしまったから。焦っていたから。感情に踊らされて、迷ってしまったから。だから、味方を守るための手が遅れた。伸ばすべき手を伸ばせなかった。


 本当に、ほんの一瞬なのだ。その一瞬のせいで、大切な仲間が目の前で死ぬ。




 こんなことがあってはならない。目を背けたい。しかし、絶望が瞬きすら許してくれない。


 フォニアはツェルヴォネコートの攻撃を回避すべく身を低くしている。無理だと分かっていながらも、それでも回避するために踏み込んでいるのだ。


 どの方向へ避けても追尾する。そんな捕食者の執念の籠もった爪がフォニアの身体に伸びていく。




 セルツァの目に映った世界がゆっくりと時間を刻んでいく。映像は色を失い、白と黒の世界の中で、フォニアは後方へ飛び退いた。突進してくるツェルヴォネコートの爪を回避するには、後方へ跳ねるのはかなり拙い。その方向は、フォニアが飛び跳ねる以上に長く、ツェルヴォネコートの爪が伸びてくる。


 ただの爪ではない。大森林の最強の爪だ。爪のほんの先端部分が当たるだけで、装備は弾け、肉は抉れ、血が舞い散り、フォニアは命を落とす。考えたくない最悪の絵が、セルツァの脳裏にアリアリと浮かぶ。




 しかし、フォニアに向かって伸びるはずのツェルヴォネコートの前脚が、なぜか急に止まった。ツェルヴォネコートは突如急制動をかけて立ち止まり、頭と上体を大きく引き起こす。


 緩やかに流れていた時間が通常の流れに戻り、それと同時に爆音が鳴り響き、空気の伝える振動が身体を激しく震わす。


 見ると、思いがけない場所……ツェルヴォネコートの立つ場所とも、グレイブレイダー三名の立つ場所とも全く異なる誰もいない場所、全く意識していなかった地点から、火山噴火でも起こったかのように土砂が舞い上がっている。


 突然の怪現象に理解が及ばない人間三人は、呆然として土砂を見つめる。




 三人の中で最も早く正気に返ったのはセルツァだった。パーティーを守らなければならないセルツァは、ツェルヴォネコートに視線を戻す。


 この一か月戦い続けてきたレッドキャットは、土砂とは真逆に目を向けていた。眼球を盛んに動かし、必死に何かを探してる。ツェルヴォネコートの謎の行動が続いたのはただの数秒で、そのネームドモンスターはそのまま地面にクタりと沈み込んだ。


 クリフォードとフォニアが未だ土砂に目を奪われている中、セルツァだけはネームドモンスターの命の灯が消える瞬間を見届けたのだった。




 状況が上手く飲み込めないものの、パーティーメンバーは三人とも無事である。セルツァは突っ立ったままのフォニアの横に移動する。


「フォニア……大丈夫?」


 未だ気が動転しているせいか、声が上手く出せない。喉から空気が流れ、声帯を震わした感覚があるのに、声は自分の耳にすら聞こえてこない。


 用をなさない口に代わり、片手をフォニアの肩に添えると、フォニアがこちらを振り向く。


 フォニアは口をパクパクとさせるが、セルツァにはフォニアが何と喋っているのか聞き取れない。そこで初めて、セルツァは自分の耳がよく聞こえていないことに気付く。


 聴覚の機能不全の原因が爆音に起因することを察したセルツァは、身振り手振りで耳が聞こえないことをフォニアに告げる。すると、フォニアも自分の耳が聴こえないことを身振りで示す。




 ツェルヴォネコートの大跳躍よりも遥かに高くまで舞い上がった土砂がようやく落下を始めたのを見届けると、フォニアはツェルヴォネコートが倒れる直前に目を向けていた方角へ視線を動かす。


(そうだ。ツェルヴォネコートは死の直前、元のビビりネコに戻って、何かを探していた)


 フォニアにつられてセルツァも同じ方角に目を向ける。


 そこにいたのは謎のローブ集団だった。集団を見つけたフォニアが何かを喋る。少し回復し始めた聴力とフォニアの唇の動きを組み合わせて言葉を読み解くに、フォニアはこう言ったようである。


「ワイルドハントだ……」


 集団は躊躇うことなくこちらに向かって真っ直ぐに歩いている。十前後の視線がグレイブレイダーを見ている、というのに、セルツァはたったひとつの視線しか感知できない。


(これがワイルドハント。なるほど、確かに正常とか常識といったものの埒外にある存在だ)


 歩く姿を一目見ただけで、尋常ならざる集団であることをセルツァは理解する。それと同時に、ワイルドハントにまつわる噂の数々は、大半が真実を語ったものなのだ、との思いを抱く。


(こいつらは、ツェルヴォネコートとは全く別種の脅威だ)


 極限状態の中、一時働きをやめていたセルツァの危険意識が再動を始め、非常事態を告げる鐘が胸の中でガンガンに打ち鳴らされる。




「なんだー、貴様ら! 獲物を横取りに来たのか!?」


 二人に遅れてワイルドハントに気付いたクリフォードがワイルドハントの前に歩を進める。


 いつもと変わらぬクリフォードの姿に安堵を覚えたのも束の間、ツェルヴォネコート戦前にフォニアが話していたことを思い出し、クリフォードが作り出しかねない別の問題に対する新たな危険信号が鳴り響く。


「クリフ。こいつらとは私たちが話をつける。あんたは下がってて」

「はっ! こんな火事場泥棒のようなみみっちいハンターなんぞ、俺が蹴散らしてやるわ!」

「クリフ、お願い。今はどうしても私たちじゃないといけないから、大人しくしていて」


 クリフォードは二人の静止を無視し、肩をいからせてズンズンと前に進んでいく。クリフォードを行かせまいと、フォニアは腕に縋り付いて足止めする。


「はあ? ……なんでお前ら、そんな必死なんだ?」


 訳が分からない、といった表情でクリフォードは立ち止まってフォニアの顔をまじまじと見る。


(よし。このまま注意を逸し続ければなんとかなるかもしれない)


 セルツァはクリフォードをワイルドハントから引き離す手段を必死に考える。




「フォニアさん、また会いましたね。()()の皆さんとご一緒の様子で」


 ワイルドハントの一番前を歩く少し小柄なローブ服の者から、女の声が飛び出す。その声にクリフがいつもの反応を見せる。


(あ……やっぱ無理かも)


 女の声を聞き逃すはずがないクリフォードは、フォニアから目を切り嬉々としてワイルドハントに向き直って声の主を探す。


「おぉー、かなり美人じゃないか。いやー、こんなところで会えるとはなー。そうかそうかー」


 まるで旧知の友人に再会したかのようなクリフォードの親しげな言葉を聞き、フードを下げた女が少しだけ当惑の表情を浮かべる。


「どこかで会ったような口ぶりですけれど、そちらのフォニアさん以外は初対面だと思いますよ、()()()()()()君?」


 女は初対面を主張しておきながら、クリフォードのことを知っている。クリフォードは良くも悪くも顔と名前が売れているため、これは必ずしも珍しいことではない。


(多分この女が、フォニアの言っていた“ルカ”だ)


 女の容姿が端麗であることから、その女がワイルドハントの代表者を努めるドレーナのルカなのだろう、とセルツァは判断する。


 クリフォードは完全に“モード”に入ってしまっている。こうなっては適当に言いくるめて引き剥がすことなどできない。作戦の大幅な変更の必要性にセルツァは迫られる。


「すみません。こいつ、病気なんです。どうかお気になさらずに」


 セルツァは身体をクリフォードの横に滑り込ませ、フォニアと二人で両脇から挟み込む。


「知ってますよ。たまにそういう人、いますよね。()の昔の友人にも、よく似た人物がいました。それよりもあなた、かなり出血が酷いではありませんか。急ぎ適切な治療を受けるべきと思います」


 ルカに指摘されたことで、ツェルヴォネコートに噛みちぎられた左脚の断端から、まだジワジワと出血が続いていたことを思い出す。ワイルドハントという新たな脅威を前にしたことで痛み以外は忘れていたというのに、思い出してしまうと途端に気分が悪化する。目眩、嘔気、意識の遠のく感覚がセルツァをタップリと苦しませる。


「ど、どうぞ私の怪我のこともお構いなく」


 人生最悪の具合の悪さに耐えて、その場を取り繕う。


「素材の取り分のことは後でいくらでもお話できます。傷の手当が最優先です」


 セルツァの気を知らず、ルカははた迷惑な気遣いを始める。


「あー、そういやセルツァの傷をなんとかしないとなー。そこのキミ、ちょっとそこで待っていてもらえるか?」

「ええ。もちろんですよ」


 クリフォードは普段、絶対にしないような爽やかな笑顔でルカに“交渉”の一時中断を申し入れると、ルカも微笑んでそれに応える。


(このアホを何とかしないことには、問題を先送りしているに過ぎないんだよなあ……)


 根本的な解決にはなっていないことをセルツァが嘆く一方で、すぐに戦闘にはならないと判断したフォニアがクリフォードの腕から手を離して、セルツァの身体に手を伸ばす。


「今は治療なんていいから――」

「ううん。交渉よりも帰還よりもあなたの手当が先。傷口を綺麗にして、ちゃんと止血しないと」

「さっきフォニアがやってくれたので十分だよ」

「あれでは全然足りない。簡単に縛っただけだし、出血はまだ続いている。創面の処置だって何もできてない」


 一旦は強がってみたものの、出血の続くセルツァは時間が経つほど片脚で直立姿勢を維持することがきつくなってくる。


「我々が治療しましょうか?」

「は?」


 アンデッド集団であるワイルドハントの口から思いがけない提案が飛び出す。アンデッドが回復魔法などの治療を施す、などという与太話は、たった一例を除いて聞いたことがない。その例外的な一例というのが、目の前にいるワイルドハントであったことをセルツァは思い出す。


「あなたが治療してくださる、と言ってます?」


 嫌な予感がしたセルツァは、どうでもいい、しかし、非常に気になる部分をルカに尋ねる。


「用手的な処置は私が、回復魔法はこっちの爺婆がやります」


 ルカは横に立つ老人たちを手で示してにこやかに笑う。


(ああ……。ワイルドハントに関する噂は、ここまで全部真実だ)


 ゼトラケインでは、回復魔法をそれなりに嗜むドレーナが多かった。種族的に回復魔法が得意なのではなく、人間と共生する社会を営むうえで、皆、自然に習得していったのだ。だから、ドレーナが回復魔法を使う、というのは何も珍しくない。それなのに、このルカというドレーナは回復魔法を使わず、その横に立つ老人に擬態したアンデッドたちが回復魔法を使う、と言っている。魔道具には何も反応がないものの、この老人たちは間違いなくアンデッドだ。よくよく観察してみれば、表情はピクリとも動かさないし、呼吸のひとつもしていない。


 アンデッドが回復魔法を使うというのは確かに気色の悪い話だ。しかし、最大の問題はそこではなく、ワイルドハントの治療の提案に乗ってはいけない、ということだ。治療と称して身体にどんな細工をされるかわからないし、治療費代わりに不条理な要求を突きつけてくるかもしれない。


 だからここは――


「おお、是非よろしく頼む! 君らは欠損修復ができるかー?」

「治療そのものはお任せください。ですが、残念ながら欠損修復はできないですね。創面を綺麗に皮膚で覆うことくらいはできますよ」

「ちょっ、ちょっと待って。費用は? 最初にそこを話し合わなきゃ……」

「真っ青な顔をして何を言っているんですか。自分の命がかかっている、というのに、傷病人というのは不思議なところを気にするものです。あるいは現実的な女性ならではの質問というか……」


 ルカは髭の生えた男のような所作で顎をさすりながら首を左右に揺らす。


「うーん、金銭も少しばかりは欲しているのが事実ですので……取り敢えず、ツェルヴォネコート討伐の我々の取り分を多くしてもらいたいですね。あと、その素材を売買するにはあなた方の力を必要としています。なので、周旋時の手数料を安くして貰えるとありがたいです。これを治療費代わりにしましょう」


 ルカは、素晴らしい名案を提示した、というように、自らの前で柏手を打って微笑む。


(そ、そんなことでいいの?)


 今日のツェルヴォネコートは、自分たちだけだと決して倒しきれなかった。時間と労力、それに多額の資金を注ぎ込んだことから、グレイブレイダーがツェルヴォネコートの素材を欲していたことは確かだが、今ここでワイルドハントと敵対することを考えれば、そんなものは全て放棄しても構わない、とすら考えていた。


「あれは俺たちが何日もかけて弱らせて、止めを刺す直前だったのだ。君たちが狩った功績にはならないが、セルツァを治療してくれるのなら、ちょこっとだけ素材を分けてやらんでもないぞ」


 クリフォードは胸を反らせて恩着せがましく言う。


(こんのドアホ! 話をややこしくするな!!)


 胡乱なワイルドハントの誘惑から裏事情や真意を読み解かねばならないというのに、クリフォードの問題言動がセルツァに冷静な思考を許さない。


「いいからアンタは黙ってて! ごめんなさい、こいつの話は無視してください」

「クリフォード君は面白いことを言いますねえ。話していて飽きません。ですが、歓談は後にして、早く治療にかかりましょう。治療結果を改善するのは、一にも二にも早急な治療開始です」

「うんうん。君とは後でたっぷり()()()()()


 クリフォードの馬鹿話にはまともに取り合わず、ワイルドハントの数体がセルツァの下へ近寄ってくる。フードに隠れた彼らの顔はしょぼくれた老人でしかないのに、動きは全く老人然としておらず、むしろ全員が武術の達人のように安定した足運びを見せている。アンデッドが変装魔法(ディスガイズ)をかけているだけ、と分かっていても、見た目とは乖離した不自然なまでの挙措の滑らかさがセルツァを悚然とさせる。


(うう……本当にアンデッドに身体をいじくり回されていいの?)


 身の危険を感じるセルツァではあったが、血が足りない以上、身体は自由とならず、頭も普段の冴えがないことを自覚している。この場で価値のある意見を求められる人間はフォニアだけ。助けを求めるような気持ちでフォニアを見るも、フォニアはセルツァの目を見て力強く頷くばかりである。


 彼女はセルツァがワイルドハントの治療を受けることを望んでいるようだ。ワイルドハントを信用して、というよりも、相応の代償を払うことになったとしても、話がこじれてクリフォードとワイルドハントが衝突することを恐れているように見える。しかし、それもまたセルツァの思い込みかもしれない。一旦仕切り直して、仲間の本心を確かめる時間が無い以上、本当のところは誰にも分からない。


(ワイルドハントが治療時に私の身体に“イタズラ”を何もせず、さらに私たちが治療費を完全に支払ったとしても、クリフォードのほうで必ず問題を起こすんだよ、フォニア……)


 そんなことはグレイブレイダーにとって常事であり、フォニアもおそらく、『この先、問題が必発である』と、覚悟している。それでも、セルツァの助かる見込みが少しでも高まる選択肢をフォニアは選ぶ。今までだってそうだった。


 セルツァは抵抗することを諦め、緊張しきっていた身体から力を抜いて地面に腰を下ろす。溶けた雪と流した血でセルツァの装着物はしとど濡れ、そこに吹き付ける勇風が彼女の体温を効率的に奪っては身体をカタカタと震わせるのだった。

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