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第二六話 最後の旧四柱 四


 雪と氷が織り成す自然のオブジェクトの立ち並ぶ立石群の中に一頭のレッドキャットがいた。力なく丸まっていたレッドキャットが立ち上がり、顔に無数の皺を寄せて歩きだす。この個体は猛烈に苛立っていた。


 かつて、その個体は大森林の頂点に君臨していた。大森林という自然魔力( マナ )の濃い土地の中でも最も魔力が稠密な場所を独占し、そこで長いときを過ごした個体は種の中でも飛び抜けて大きな体躯を持ち、その大きな肉体から溢れ出さんばかりの豊富な魔力を身体の中に蓄えていた。それがかつてのレッドキャットの姿だった。


 では、この個体が何者をも恐れぬ傲岸不遜な魔物だったかというと、そんなことはなかった。レッドキャットは様々なものを恐れていた。


 それは、まだ身体が小さく、幼く、凡百のレッドキャットに過ぎなかった時代のこと。周囲には数え切れないほどの脅威があった。経験の浅いレッドキャットにとっては、獲物となる魔物も侮れない存在だ。なにせ大森林の魔物なのだ。被食者であっても油断した捕食者を返り討ちにする強さを持っている。つまり、自らの糧となる獲物が恐い。同種のレッドキャットは自分よりも強く、恐い。他種の捕食者はレッドキャットの知らない未知の攻撃手段を持つため、恐い。そして何より恐いのが空を舞うドラゴンだ。生命の頂点に立つドラゴンは、他のあらゆる生物を殺す暴虐無比な存在だ。


 レッドキャットが育ったのは、ドラゴンという種が徐々に数を減らしていく時代だった。春を迎えるごとにドラゴンの数は一柱、また一柱と減っていく。ドラゴンの減少は、魔物の勢力図に大きな変化を与える。ドラゴンに頭を押さえつけられていた魔物たちが精力的に活動を始め、ぶつかり合い、そして彼らもまた死んでいく。恐ろしいドラゴンが減り、ドラゴンに次いで恐ろしい魔物たちが潰し合って減る。


 強い魔物たちの抗争から隠れ、逃げ回っていたレッドキャットは生き残った。それは紛れもなく偶然だった。偶然の生存が、そのレッドキャットに大森林の中枢を与えた。


 玉座に座るものだけが食らうことのできる豊潤な魔力をレッドキャットは貪った。ただそこにいるだけで身体が満たされ成長していく至福の空間。唯一無二の充足は、レッドキャットの恐怖心の矛先を変えさせる。挑戦者は、頂点に立った瞬間から、頂点に立つ者に心が作り変えられていく。それは、大森林であっても変わることのない真実だ。頂点に立つ者は、頂点という座を失うことを恐れる。


 そもそも、レッドキャットという魔物が、恐がりな種だ。自己以外の存在を恐れてやまない臆病な魔物なのである。それがたとえ同種のレッドキャットであっても、他者が傍にいることに不快と恐怖を抱き、恐怖故に相手を襲い、戦う。恐れを知らないから戦うのではなく、恐いから戦うのだ。そんな恐がりなレッドキャットの中において一際恐がりのレッドキャットは、王位を失うことを恐れて大森林を徘徊する。中枢に近付いたものは、オーガであろうがウルフであろうがドレーナであろうがヒトであろうが同種のレッドキャットであろうが、とにかく全てを殺害した。


 己よりも強く大きなレッドキャットが玉座を奪いに来ることもあった。恐がりなレッドキャットは、自身よりも高い戦闘力を持つ個体を見ても、決して退かない。強いレッドキャットと戦うことより、玉座を失うことのほうが恐かったからだ。恐怖がレッドキャットの原動力となり、死をも恐れぬ覚悟で戦った。玉座で魔力を貪っては殺し、眠っては殺し、徘徊しては殺す。


 数え切れない殺戮の果てに、レッドキャットの地位は盤石なものとなり、その頃にはヒトという脆弱な存在から、「真のレッドキャット」という意味を持つツェルヴォネコートという名前を与えられた。ヒトは畏敬とともにこの名を呼び、これを大森林の恐るべき絶対者と見做して手出し不要とした。最強という響きに魅了されてツェルヴォネコートに挑戦する者が時折現れるが、その者たちはいずれもこの魔物の前で命を散らし、ツェルヴォネコートの強さをヒトビトの心に深く再認識させた。


 ツェルヴォネコートが絶対的な支配者となってから長い月日が流れた。恐がりだったレッドキャットが、恐怖という感情がどんなものだったか思い出せなくなる、それほど長い時間が経過していた。


 ツェルヴォネコートに恐怖を思い出させたのは、ひとつの咆哮だった。空を震わす咆哮は、古く埃をかぶったツェルヴォネコートの精神からドラゴンの恐怖を思い出させる。それは脳内の記憶の保管庫から出てきたものではなく、血に刻まれた原感情から飛び出してきたものだったのかもしれない。


 悠久とも言える長きにわたり姿を消し、もはや過去のものとなったはずの暴力の象徴、ドラゴンが再びツェルヴォネコートの前に姿を現した。


 恐怖するレッドキャットは選択を迫られる。逃げるか、戦うか。見ると、この度空に現れたドラゴンは身体が小さい。まだ幼い、生まれて間もないドラゴンだ。こんな幼体のドラゴンと戦うことよりも、玉座を失うことのほうが恐い。


 懐かしい感情に身を震わせつつ、ツェルヴォネコートは戦った。戦い、ドラゴンを撃退した。ツェルヴォネコートは全力で戦ったものの、ドラゴンを倒し切ることはできなかった。空を舞うドラゴンにどれだけ火魔法を放っても致命傷には至らなかったからだ。致命傷ではないとはいえ、軽くはない傷を負ったドラゴンはツェルヴォネコートの前から逃亡した。


 ツェルヴォネコートはドラゴン相手に玉座を守った。しかし、それは一時的なものでしかなかった。ツェルヴォネコートが撃退したはずのドラゴンは、日が経ち傷が癒えると再び挑みかかってくる。若いドラゴンだけあって自然治癒が早いのか、どれだけ深い傷を与えられても一ヶ月と経たずに舞い戻る。


 地上最強であったツェルヴォネコートであっても、空という文字通りの高みを支配するドラゴンはどうやっても滅ぼせない。魔法で撃退しても、戻ってくるたびに強くなる。


 撃退と再戦を繰り返した夏のある日、空からブレスを吐くばかりだったドラゴンが地上に降り立った。ツェルヴォネコートの牙の届く位置にそのドラゴンがいるのは初めてのことだった。


 戦いを終わらせるべくツェルヴォネコートは牙を伸ばす。……が、真正面からドラゴンの双眸に睨まれて身体が竦んだ。数百年の昔にドラゴンから逃げ隠れしていた身体が、恐怖を完全に思い出してしまった。


 戦意喪失したツェルヴォネコートは身を翻して走った。


 もし怯むくことなく戦ったら結果がどうなっていたか。それは誰にも分からない。しかし、ツェルヴォネコートは顧みない。どれほど長く生きようとも、まだ生きていたい。ドラゴンに逆らわないこと。歯向かわないこと。それがツェルヴォネコートの生きるための鉄則だったのだ。


 君臨する一柱から一頭のレッドキャットに戻ったその個体はがむしゃらに走った。大森林の中枢を捨て、大森林そのものも抜け、景色が変わり、気温が変わり、匂いが変わり、空気が薄いように錯覚するほど自然魔力の薄い土地を駆け抜ける。


 大森林から遠く離れた場所まで走っても、なぜかドラゴンが執拗に追いかけてくる。走れど走れど引き離せない。ドラゴンの咆哮(シャウト)を背中に聞いた後は、もう全力疾走するだけだった。無我夢中で走り続け、気がついたときにはもうどこにもドラゴンの姿は見当たらなかった。


 見知らぬ土地で、少しでも自然魔力( マナ )の濃い場所を求めて彷徨い歩き、ツェルヴォネコートは新しい寝床を見つける。それがアーチボルク南方に広がる森だった。


 数多の魔物を養い、数知れないヒトのハンターを引き寄せる豊かな南の森であっても、ずっと大森林で暮らしてきたツェルヴォネコートにとっては居心地良い場所ではなかった。新しい環境を楽しめるほどの若さは疾うの昔に失っていたし、何より飢えていた。


 類稀なる狩猟力を有するレッドキャットからしてみれば、大森林の外の世界に暮す魔物は驚くほど弱い。狩りをして獲物を捕らえることは何ら難しくない。しかし、どれだけ胃袋に食い物を詰め込んでも、一向に満足が得られない。


 理由は考えるまでもない。全ては空間に揺蕩う自然魔力( マナ )が薄いせいだ。目についた魔物を全て殺しても、飽きるほど食べても、吐くほど飲んでも、惰眠を貪っても魔力の飢渇から逃れることができない。世界の名だたるダンジョンの最下層以上に魔力の豊富な大森林の魔力の集中点で肥え太ったレッドキャットの身体は、いくら食べても魔力を日々失い続けてしまう。血肉という面では痩せ細りこそしないものの、魔力という観点では、大森林を出た日から衰え細っていく一方だ。魔力の渇きが生み出す苛立ちを紛らわすため、目についたあらゆるものを殺し、破壊し、燃やして回った。魔法という形で魔力を垂れ流すことが、さらに渇きを強くすることも知らずに。




 ツェルヴォネコートがアーチボルク南の森を新しい縄張りと定めたのは仲秋の候だった。血眼となって狩りをせずとも腹を膨らすのが難しくない季節である。充実した秋は瞬く間に過ぎ去り、季節は冬となる。


 この新しい土地の冬季の冷え込みは、大森林を思えばまるで厳しくない。しかしながら、ツェルヴォネコートの身体は冷え切っていた。魔力の不足に加えて、飢餓が身体を苦しめているからだ。


 新しく棲み処としたこの土地の冬は、冬の大森林よりもずっと獲物が少ない。ここに訪れたばかりの頃にしばしば見かけた、ドレーナに酷似したヒトという種族も、晩秋以降はとんと見かけない。


 飢えと寒さに苦しむレッドキャットは、空腹を紛らわす物を探して森を彷徨う。歩けど探せど、レッドキャットの大きな胃袋を慰めるのに十分な量の獲物を確保することはできない。


 あまりの空腹にツェルヴォネコートは思い悩む。薄いとは言っても、周囲の枯れた土地よりはずっと自然魔力( マナ )の濃いこの場所を放棄し、自然魔力( マナ )はほとんど無くとも腹を満たす獲物がいる土地を求めて移動するべきか、と。


 迷いを抱き始めたツェルヴォネコートの前に、ヒトが再び姿を見せる。ヒトは身体が小さく、食糧としては食いでに乏しい小粒の獲物だ。だが、空腹に苛まれた今は、この小さな獲物が実に美味そうに見える。


 ツェルヴォネコートはヒトを標的と定めて襲いかかる。逃げるヒトを追いかけ、あと少しで獲物を胃袋の中に入れられる、というときに、突如自分の脚が一本動かなくなる。どうしたことか、と見ると、何か複雑奇怪なものが自分の脚に絡みついている。引っ張っても取れないどころか、鋭い痛みが脚を襲う。しかも、脚が動かないだけでなく、どこからともなく魔法が飛来してツェルヴォネコートの身体を激しく撃つ。


 怒り狂ったツェルヴォネコートが火魔法を撒き散らし、やっと脚の動きを妨げる何かが外れたときには、ヒトはどこにもいなくなっていた。




 狩りに失敗したツェルヴォネコートは、その日は諦め、また別の日に森を彷徨う。小さな魔物でもいいから何かいないか、と丹念に探し回れども、獲物はなかなか見つからない。


 そこへまたヒトが姿を見せる。今度こそ狩る、と意気込み、脚元に注意を払いながら駆け出すレッドキャットの眼前に、突如氷の壁が現れて道を阻む。


 横に回り込むことを厭って壁を飛び越えると、宙に飛び上がるのを待っていたかのように土の槍が飛び出してレッドキャットの身体に突き刺さる。


 ヒトを喰らおうとしたときに邪魔が入るのはこれで二度目。またしても狩りを邪魔されたレッドキャットは再び火の本性を解放して四方八方に火焔蝶を飛ばす。一般的なレッドキャットにとっては獲物を誘う囮に過ぎない火焔蝶という魔法が、ツェルヴォネコートにとっては強力な攻撃手段だ。美しく赤く熱を持った毛並みが空気を焦がし、(たてがみ)が揺れる度にいくつもの火焔蝶が飛び出しては空を羽ばたく。主の身体から飛びだった火焔蝶は赤い炎の軌跡を残して優雅に舞い、羽を休めるために舞い降りた先に灼熱を誘う。


 ツェルヴォネコートの操る火魔法は、木々を彩る雪化粧を物ともせずに森を焼き、大地を赤く染め上げる。季節が冬とは信じられなくなるような炎熱空間が広がっていく。


 自らの空間を作り出し、氷の壁が溶けていくのを確認したツェルヴォネコートは邪魔者を探して歩き出す。そこへ、第二、第三の氷の壁が姿を見せる。


 壁を越えようと飛び跳ねれば、再び土の槍に身を撃たれる。


 ツェルヴォネコートは鬣から新たな火魔法を放つ。鬣の生えた首回りからドサリと地に落ちたヘビ状の火魔法が、主の眼前に(そび)える氷の壁に向かって這い進み、氷の壁の前で溜めを作った後、鋭く跳ねて壁に突き刺さる。ヘビは何匹も鬣から産み落とされては壁に突き刺さり、熱を持った貫通力で氷の壁を打ち砕く。


 ひとつ穴を穿てば壁を壊すのは簡単だ。ツェルヴォネコートが氷の壁に体当たりすると、壁はバラバラと崩れ去る。続く壁も打ち砕いて前に進むと、今度は幾条もの魔法と矢が飛来する。今度は土の槍ではない、いずれもコバエのような小さなものだ。


 身を捻って躱すことすらせずにそのまま攻撃を浴びると、魔力を帯びた矢のいくつかはツェルヴォネコートの闘衣と毛皮を越えて肉に達する。敵の攻撃を回避することを怠ったツケは、痛みという形となってツェルヴォネコートを苦しめる。血を流す痛みは気が狂いそうなほどの怒りをツェルヴォネコートに喚起する。


 怒りに我を忘れたレッドキャットは周囲全方向に魔法を撒き散らした。見渡す限り何もかもを燃やし尽くし、燃えるものが無くなって火が消えた頃に怒りはようやく収まった。


 怒りの感情が消え失せると、途端に苦痛が身を苛む。暴力を振るった後の疲労感、痛いほどの空腹感、そしてまた一段と強くなった魔力の渇きだ。


 何もかもを燃やし尽くしたために、ヒトどころか、自分以外のいかなる魔物の気配もそこには存在しない。レッドキャットは感情任せに暴れたことを後悔しながらトボトボと寝床へ戻った。




 空腹が全身を齧り、魔力の垂れ流しによって生じた空虚さが身体を苦しめる中、ツェルヴォネコートは立石群で一時の休息を取る。空腹の身体は、横になった程度では疲労が抜けない。それが分かっていても、一眠りしないことには身体を動かす気にもなれない。ツェルヴォネコートは浅く眠ることしかできなかった。




 翌日、目が覚めたツェルヴォネコートは身体を起こす。まるで土砂降りにでも遭い、毛皮が重く水を含んだときのように全身が重い。吐き気を催すほど強い空腹が続く重い身体を起こしたツェルヴォネコートは、今まで狩りをしていた場所とは違う場所を目指して歩く。ヒトという生き物に、もう二度と会いたくはなかった。


 ヒトに対する怒りと憎しみは強い。向かい合って戦おうとしない、あの小癪で矮小な生き物を思い切り噛み、四肢をバラバラに引き裂いてやりたい。荒れ狂うほどの憎悪が胸中には渦巻いている。しかし、憎しみと同じくらい大きな恐怖もまた抱いていた。ヒトに会うと、飢えを癒やすどころか、身体は一方的に消耗していくことになる。これ以上疲弊したくない。


 ツェルヴォネコートはヒトとの遭遇を避け、少しでも食べ物を得ようと、足を運んだことのない場所を巡りまわった。新たな試みは奏功し、その日は幾許かの獲物を捕らえて半分ほど腹を満たすことができた。胃袋の充填は半分でも、心は久しぶりに満ち足りていた。


 成功に気を良くしたツェルヴォネコートは次の日以降、未探索領域を埋めるように森を歩き回るようになった。ヒトを見かけても、相手をするのはほどほどにしてムキにならずに身を引く。そうすれば極端に消耗することはない。


 新しい試みは上手くいき、ヒトという生き物のあしらい方を分かったようなつもりになった。




 順調だったのは極めて短い期間だけだった。大雪を迎える頃に新しい敵がツェルヴォネコートの前にやってきた。それまで見かけた個体とは少しだけ雰囲気の異なるヒトが目の前に現れる。


 ヒトというものはあまり大きな声を出さないはずなのに、その個体はとにかくよく声をだす。ツェルヴォネコートにはヒトの言葉が分からない。抱いたのは、これほどうるさく声をだす個体がいるのだ、という驚きだけだ。


 今のツェルヴォネコートは自分より体躯の小さなヒトを見ても、もうただの木っ端と侮りはしない。いかなる珍妙な攻撃をしてくるか、警戒に警戒を重ねて距離を取る。


「あん? なんか、ビビってる……? おーい、これ。本当にツェルヴォネコートなのか? 少し身体が大きめなだけの、普通のレッドキャットなんじゃないか?」

「こいつと特別討伐隊が戦うところをフォニアが見ている。このレッドキャットがツェルヴォネコートで間違いない」

「大森林最強って割には臆病なのな」


 鳴き声で意思の疎通を図っているのはツェルヴォネコートにも分かった。ヒトの一匹は鳴き声を上げるのをやめると、果敢にツェルヴォネコートに攻撃を仕掛けてきた。


「はっはー! ビビっていようが構わーん。こいつからはさぞかし大きな精石が取れそうだ。俺が狩ってやるぞ、ツェルヴォネコート!」


 魔法や矢を飛ばしてくることはあっても、ヒトそのものが飛びかかってくるのを南の森では見たことがない。そういう好戦的なヒトは大森林にしかいなかった。未知を警戒したツェルヴォネコートは一目散に逃げ出した。


 攻撃が空振りに終わったヒトは、ツェルヴォネコートの背中に向かって何かを喋る。


「何だ、あの逃げっぷりは。意味が分からん」

「特別討伐隊によっぽど嫌な思いでもさせられたんでしょ。あっさり逃がすと、そのうち討伐隊に狩られてしまう」

「何っ!? それはいかん。追うぞ、セルツァ」

「はいはい……」




 身を退くと深追いしてこなったこれまでのヒトと違い、この新手のヒトは逃げても逃げても追いかけてくる。風魔法を駆使して鳥のように空から後を付け回すヒトの対応に気を取られていると、脚元に別のヒトが現れては、物理攻撃を仕掛けてくる。


 大森林に居た頃、剣を持って戦いを挑んでくるヒトとは何度か戦ったことがある。操る剣から放たれる攻撃の威力はそこそこでも、防御力はそこまで秀でていないことが多い。少し昔のことを思い出しながらツェルヴォネコートは恐怖に堪えて戦ってみることにした。


 いざ戦ってみると、恐れていたほど戦闘力は高くない。昔、自分に挑みかかってきたヒトと攻撃力は然程変わらない。きっと防御力も同じくらいだろう。これなら一噛みで殺せる。


 ヒトがツェルヴォネコートの牙攻撃を避けたことはあっても、耐えたことは一度たりともない。当たりさえすれば確実に仕留められる。


 戦闘巧者であるツェルヴォネコートは器用に立ち回って剣士の大ぶりの攻撃を誘う。


「ここだ! グウェーブショック!」


 誘発した必殺技を回避し、余波に耐えたツェルヴォネコートは、大量に魔力を放出した直後の無防備なヒトの身体に噛み付く。


 命を刈り取るに相応しい完璧なタイミングであることをツェルヴォネコートは確信していたというのに、閉じた口からは肉と骨を噛み潰す心地よい感覚が伝わってこない。


「あ、危ねーところだった……。どわわっ!?」


 ヒトの剣士は、もう一匹のヒトと同じく宙に浮かんでいた。剣士が空中に浮かび上がっていたのは一瞬で、すぐに地面に不格好に落下する。


「だー! もっと優しく下ろせよ、セルツァ!」

「ゆっくり下ろすと良い的にしかならない」


 ずっと空に浮かび上がっている一匹が風魔法で剣士を救ったことにツェルヴォネコートは気付く。


 高水準の風魔法使いは、生半可な攻撃では倒せない。経験上、ツェルヴォネコートはそのことを理解していた。


 仕切り直して剣士と戦いを再開するものの、剣士の持つ盾がツェルヴォネコートの巨肢から繰り出される一撃を完全に防ぐ。こちらから積極的に攻撃を繰り出してもダメ、と反撃の機会を窺えど、ここぞという瞬間に攻撃を繰り出すと剣士は瞬間的に移動し、ツェルヴォネコートの攻撃が空振った後に残るのはヒトの魔法が生み出した激しい風ばかりである。


 ヒトという生き物を相手にすることの厄介さをツェルヴォネコートは噛みしめる。この二匹との戦いは、南の森でこれまで戦ってきたヒト集団とは違う煩わしさがある。どちらかというと、目の前にいながらどの攻撃も防ぎ、回避する、この風魔法使いと剣士のほうがツェルヴォネコートの精神を苛立たせるかもしれない。


 風魔法使いがいる以上、戦い続けても無意味。かといって、ツェルヴォネコートが退いても、この二匹は追いかけてくる。退きたくとも退けないツェルヴォネコートはダメージを負わぬようにするため、身を守る動きしかしなくなっていく。


「ぐあー、なんだこいつ。ちっとも攻めてこなくなったぞ」


 剣士の撃つ剣をツェルヴォネコートは右へ左へ素早く躱す。人間以上の俊敏性でツェルヴォネコートの巨体が動くのだ。回避に徹すれば、攻撃範囲の狭い人間の剣がレッドキャットに届くことはない。


 空振りによって思わぬ体力を消耗した剣士は次第に剣の冴えが見られなくなっていく。


 またひとつ剣士が剣を撃った。ツェルヴォネコートは大きく跳ねることなく最小限の身体の動きで剣の軌道から逃れた。空振りで姿勢を少し崩した剣士の身体に、当たれば致命的となる爪を伸ばす。


 しかし、爪が剣士に届くことはなく、魔法使いの放った風が剣士の身体を爪の軌道から大きく動かす。


「今日は撤退する。ちゃんと掴まれ。上手く飛べない」

「うんがー! 降ろせ、セルツァ。まだツェルヴォネコートを討伐してないぞ!」

「そんなバテバテの動きでネームドモンスターを倒せるわけがない。私も魔力が減ってきた。今日はもう無理」


 この戦いで剣士と魔法使い、どちらがよりツェルヴォネコートを疲弊させたか、というと、それは間違いなく魔法使いである。その風魔法使いが剣士を連れて退いていく。


 退くというのならば、追うつもりはない。


 得るもののない戦いの終了を悟り、ツェルヴォネコートはヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。




 新しいヒトのペアと戦った日から、森の様相がまた変化する。


 ツェルヴォネコートは獲物を求めて寒い森の中を彷徨う。気配を殺して雪の上を歩き回り、やっと獲物を見つけても、捕らえてみるとその獲物の肉が食べられない。食べてはいけないものの匂いがツェルヴォネコートの本能を強く刺激する。


 どれだけ空腹であっても、決して食べてはいけない毒の匂い。危険を告げる本能に逆らって毒を口にした日には、空腹以上の苦痛が身体を襲うことになる。ツェルヴォネコートは仕留めた獲物をその場に捨て、毒を持たない新たな獲物を探す。


 その日、何度も有毒な魔物を仕留めた後に、たった一頭だけ、毒を持たないディアー(シカ)を捕らえて胃袋にねじ込んだ。腹は三割と満たすことができなかった。




 次の日も、また次の日も森を彷徨う。新しい場所に行けば、少量ながら獲物に出くわす。しかし、毒のない獲物の数は日が経つにつれて減っていく。


 何かおかしなことが起こっていることは分かる。しかし、なぜ獲物がこうも毒を持っているのか、理由はレッドキャットには分からない。


 激しい空腹を満たせずに歩いていると、またヒトがツェルヴォネコートの前に出現する。今度は風魔法使いではないほうだ。水と土の魔法を使って逃げ隠れするほうの集団。


 ツェルヴォネコートはうんざりしながら集団と戦闘した。




 集団と軽くじゃれあい、集団が去った後に森の中で休んでいると、先日の剣士が風魔法使いとともに再来する。


 これでツェルヴォネコートがレッドキャットではなく人間であったならば、『もう勘弁してくれ』という一言でも発したかもしれない。


 重く力の入らない身体を動かしてツェルヴォネコートは二匹のヒトと戦う。


 剣士が放つ活力に満ちた剣を躱しながらツェルヴォネコートは考える。剣士と魔法使い。どちらから先に倒すべきかを。


 答えは分かりきっている。風魔法使いだ。風魔法使いを倒さぬことには、剣士を倒すことが決してできない。剣士の攻撃を避けながらツェルヴォネコートは慎重に間合いを図る。


 剣士がひとつ強い一撃を放った。


 それを躱してツェルヴォネコートは横に跳ねる。そして、横移動の勢いを殺すことなく今度は空に高く跳ねる。空に浮かぶ風魔法使いより更に高い到達点に到れるだけの初速のある、ネコ科の魔物特有の大跳躍だ。


 空を昇ろうとするツェルヴォネコートの身体を押し戻すように下向きの風が吹く。忌々しい風魔法使いが空に昇ろうとするツェルヴォネコートの動きを邪魔している。


 下降強風(ダウンバースト)を泳いで抜けたツェルヴォネコートの身体は、風魔法使いが浮かんでいた場所よりも高くまで到達することができたものの、跳躍の軌道上にもう風魔法使いの身体はなかった。魔法使いはとっくに横方向へ回避していた。


「危ない危ない。これだけ強く下向きの風を当ててもこんなに高く飛び跳ねるなんて、全然気が抜けない」


 ツェルヴォネコートの跳躍を眺める風魔法使いは、冷然と声を発する。


 爪の届かぬ位置に逃れた風魔法使いの姿を空中に見つけたツェルヴォネコートは、口惜しさを感じながら落ちていく。攻撃失敗を嘆いてばかりはいられない。高く飛んだら、今度は安全に着地しなければならない。ツェルヴォネコートは空中で態勢を整える。


 着地に適当な姿勢を維持させまいとするように、ツェルヴォネコートの身体に強い風が吹きつける。無茶苦茶に吹きすさぶ風の中、錐揉み状態になることを避けるために風を避けて必死に身体をくねらせる。


 目まぐるしく動くレッドキャットの視界に一瞬だけ映ったのは、地上の剣士が剣を構えて闘衣を膨化する様子だった。


 風を縫って姿勢を整え、着地の衝撃を殺し、それに加えて剣士の攻撃を防がなければならない。ツェルヴォネコートは温存していた魔力を開放して強力な闘衣を身に纏う。




 ツェルヴォネコートの前脚が地面に着く瞬間、剣士が叫び声を上げる。


「グウェーブショック!!」


 これまでの一撃以上に強い魔力を乗せた必殺技がレッドキャットの横っ面を目掛けて放たれる。


 タイミング的に避けることはできない。両の前脚を着地に用いてしまうと剣を止めることもできない。


 そこで、ツェルヴォネコートは着地に両脚を使うことを諦めた。着地の衝撃を防ぐのは片脚と闘衣に任せ、もう片脚は剣士に反撃を叩き込むために振りかざす。


 剣士の放った必殺技がツェルヴォネコートの頭部を撃ち、強力な魔力がレッドキャットの意識を瞬間的に暗転させる。ドス黒く染まる視界と衝撃に伴う眩い閃光。


 刹那の意識の消失から復帰したツェルヴォネコートは目をグルリと動かし、現状把握に努める。


 魔力を大量消費して試みた反撃の爪は、間違いなく剣士の身体に届いた。前脚の先には有効打を与えた手応えがあった。


「クリフ!!」


 ツェルヴォネコートの爪を受けた剣士は後方に勢いよく飛ばされ、積もった雪の上を長く滑っていく。


 空に浮いていた魔法使いは、爪で弾き飛ばされた剣士をすかさず追いかける。




「致命傷ではないみたいだけど、傷はかなり深い。しかも、完全にのびちゃってる。一旦退こう、フォニア!」


 逃亡しようとするヒトの意志を察したレッドキャットは、そうはさせじと、少しふらつく頭を数回振って、追撃にかかる。


 すると、視界の端に一条の飛来物が映った。ヒトと交戦しているときに飛来する攻撃を軽視してはならない。この数日の学びである。咄嗟に飛来物を躱すも、飛来物はツェルヴォネコートの真横で炸裂し、大量の煙を撒き散らした。


 煙が晴れた後に周囲を見回しても、ヒトの姿はどこにも見当たらなかった。




    ◇◇    




 ツェルヴォネコートとヒトの集団二つは、以降何度も戦闘を繰り広げる。


 ひとつは、囮と罠、土魔法、水魔法、そして大量小粒の投射攻撃を仕掛けてくるヒト集団。群れを構成するヒトの数はかなり多いはずなのに、ツェルヴォネコートの目の前に姿を見せるのは囮の一匹か二匹だけ。


 もうひとつは、剣士と風魔法使い、そして決して姿を見せずに投擲攻撃を行っては隠れる個体の三匹からなる少数集団。


 厄介なのは少数集団のほうだ。こちらは決まって大集団が去った後に襲撃してくる。


 これで戦場が大森林であれば、両方の集団をいくらでも屠ることができた。南の森という不案内な場所であっても、どちらか片方だけであれば倒しきれたかもしれない。


 しかし、この場所で二者に交互に襲撃してこられると、全く話は変わる。腹は満足に満たせない、魔力は減っていく一方、休息時間は不十分、例年であれば何でもない寒さが栄養不足の身体を凍えさせる。


 大集団と戦おうにも、逃げ隠れするばかりで目の前に姿をあまり現さない。現したところに飛びかかると、多数の罠が待ち構えている。大集団がいなくなると、今度は小集団が現れる。こちらの眼前に姿を晒すのはいいが、剣士の持つ盾は強力で半端な攻撃は通らない。タイミングを取って攻撃しようとすると、今度は風魔法使いが邪魔をする。


 消耗するのはツェルヴォネコートばかりで、何度戦いを繰り返してもヒト側は弱っていく様子がない。少しばかりのダメージを与えたところで一週間と経たずに回復して戻ってくる。


 ツェルヴォネコートは忍び寄る死の気配を感じていた。ヒトから致命的な一撃を喰らわずとも、このまま小競り合いが続くだけで自分は死ぬ。


 打開策として考えられるは、この土地の放棄。だが、別の土地にも期待を見出だせない。大森林から南の森に辿り着くまでの間、住むに適した自然魔力( マナ )の豊富な場所は一箇所も見当たらなかった。新しい好適地を探して見つかるものか分からない。そういう土地がどこかにあったとしても、もう長い距離を走って探し回るだけの体力はない。


 死という概念を理解しているレッドキャットは、死に方を考える。ドラゴンのいる大森林には戻れない。死ぬとしたら、別の場所ではなく、少しでも魔力のあるこの土地で。死ぬ前に、この憎たらしい小さな敵に一矢報いたい。


 ツェルヴォネコートは反撃機会を窺って来る日も来る日も牙を隠した。自ら攻撃の手を繰り出すことは極力抑え、できる限り力を温存して相手を観察し、隙を探す。そしてある日、大集団がツェルヴォネコートを襲撃するときに用いる隠れ場所のひとつを岩の割れ目という自然構造の中に見つけた。抑え続けていた魔力を開放し、割れ目に向かって火魔法を存分に放ったことで大集団に損害を与えることに成功した。土と水の魔法使いの猛烈な抵抗により、壊滅こそさせられなかったものの、大集団に与えたダメージは大きく深い。大集団が次に襲撃してくるのは先の話になる。


 小集団は、大集団の襲撃後に襲ってくる。大集団を退けた今、小集団は襲ってこないかもしれない。ツェルヴォネコートは願望にも似た予想を立てた。




 大集団撃退後、二日経っても三日経っても大集団は再襲撃してこない。小集団も姿を見せない。丸一週の安寧により、ツェルヴォネコートの身体は魔力こそ回復していないものの、傷はかなり癒えた。老いたとはいえ野生に生きる魔物。傷の治りは早い。小さな希望の光が射したことにより、生への執着が強くなる。このまま粘りきって春を迎えれば、状況は打破できるかもしれない。


 希望を見出し始めたツェルヴォネコートの前に小集団が姿を見せる。まだ大集団は戻ってきていないというのに予測と違う。意に沿わず出現した小集団にツェルヴォネコートは激しく怒る。


 立ち上がったツェルヴォネコートは、身体の軽さを感じていた。長い年月をかけて蓄えた贅肉は削げ落ちている。大集団と戦った直後独特の疲労は、今日この日は全く無い。玉座に胡座をかいていた間に鈍った戦闘勘は、戦いに明け暮れる中で完全に取り戻した。ヒトとの戦い方も学習した。


 このまま持久戦を続けても、春まで身体が保つ可能性は低い。減ったと言っても魔力は魔法を放つに十分だけの量がある。身体が軽やかに動く今、小集団だけでも倒すことができれば、あの大集団は何とでもなる。なにせ、先日はあれほどの大打撃を与えることができたのだ。次は滅ぼせる。むしろ、ここで小集団を倒せなければ、己はこのまま滅びを迎えることになる。力を振り絞るなら今しかない。


 消極的に身を守るばかりだったツェルヴォネコートに、久しぶりに積極的な攻撃意欲が芽生える。これを最後の好機と踏んだツェルヴォネコートは生まれて始めて命そのものを燃やし始めた。

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― 新着の感想 ―
何故だか、猫ートに感情移入してしまった・・・
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