第一六話 渺の手套
傀儡の目のある私と異なり、ラムサスやバーナード達は外の様子が分からない。ルカやウリトラスといった傀儡もまた同様である。人間は聴覚や嗅覚を封じられることよりも、視覚が儘ならぬことに強い恐怖を抱く。ネームドモンスターの強烈な圧迫感の下、何も見えない暗闇の中で脅威が過ぎ去るのを待ち続けるのはさぞかし苦しいことだろう。それを思えば私はまだ精神的に恵まれた位置にある。人間達は誰しも身を固く強張らせ、脅威が災厄に変わることなく通過するように願っている。
一直線に駆けるツェルヴォネコートではあるが、その進行方向は我々が身を隠す穴からほんの少しだけズレがあった。距離が近づくにつれて巨大になっていくツェルヴォネコートの足音は、我々が潜む穴から東に大股百歩ほどの地点で最大の音を奏でた後、変わらぬ拍子で小さくなっていった。ツェルヴォネコートは穴の東横を通り過ぎていったのだ。
遠ざかっていく振動と足音は戦闘回避の成功を意味し、何より喜ばしいことのはずである。私は触覚と聴覚だけでなく、ステラの目を持って視覚的に安全を確かめている。それなのに、南へ走り抜けるツェルヴォネコートを見送ってもなお緊張が解けない。私も手足も、全てのものが緊張下にある。緊張の度合いは、ツェルヴォネコートが通り過ぎる前よりもむしろ強くなっている。
精神が身体に影響を与えているのか、心なしか呼吸まで苦しくなってきたように感じる。息苦しさは精神的なものではなく、地下室の空気が濁ってきたためだろうか。
物性瘴気は身体を冒す。ツェルヴォネコートはもはや南に遠くへ抜けている。無意味に長く穴に籠もり意識を失う前に、ここから脱するべきだ。
「足音も振動も知覚できなくなって十分に時間が経ちました。外に出てみましょう」
「ああ、それがいい。狭い場所に大勢で入りすぎた。ここは息苦しい」
私やルカ達だけでなく、バーナードも呼吸苦を感じていた。この狭さにこの人数だと、呼吸を保っていられる時間はこれくらいが限界なのだろう。
ツェルヴォネコートが去っていった南の方角を警戒しつつ、全員で穴の外に出る。新鮮な空気を胸一杯に吸い込んでも、胸を押し潰しかねない圧迫感は一向に拭えない。人間は誰しも顔色が悪い。私も変装魔法とデスマスクの下の顔が、蒼白になっているかもしれない。人間の体温で蒸す穴の中に居たというのに、自分の肌が粟立っているのを感じる。
フルードとジーモンは無意識のうちに尾を丸めている。彼らも未だ恐怖に囚われている。空を舞うステラに至っては飛行が怪しくなってきた。恐怖で身体が強張るあまりに空中姿勢を保てず、気を抜くと墜落してしまいそうだ。
取り急ぎ手頃な樹の枝にステラを不時着させる。体幹も脚も震えて枝から落ちてしまいそうになり、慌てて枝の付け根、叉までずり寄り幹に身を預ける。
穴の中にいた者だけでなく、穴には立ち入っていないフルードやステラの具合までが良くないのだ。穴に充満した物性瘴気では、この説明をつけられない。物性瘴気以外に体調不良を引き起こす何らかの原因が存在する。
現実に目を向け思案している。そういうつもりだったのだが、実のところ、真の恐怖から目を背けていただけだったのかもしれない。原因究明のフリをして現実逃避に走った私を、災厄が現実へ引き戻す。
私も傀儡も、生者もアンデッドも、地も空も、世界の全てを震撼させる遠雷の如き鳴動が北方の空から伝播する。
遠雷はとりわけ生者の身体の奥底にまで染み渡り、生を持つものが決して手放すことのできない"絶対的な死の恐怖"を引き摺り出す。恐怖は身体の奥深くで突沸し、爆発を起こして全身を支配する。
ここ最近何度も動転し、一度は本当に恐慌に陥ったことが怪我の功名になった。強い恐怖を知覚した瞬間、反射的にヴィゾークを動かして鎮静魔法をかける。自分が落ち着きを取り戻す中、魔法の届く距離にいる生者全てにコームをかけていく。
ヴィゾークがアンデッドで良かった……。アンデッドは人間と違って感情の動きに乏しい。これだけ強い圧迫感に曝されていても恐慌状態にならない。魔法の発動にも失敗しない。仮に私自身が冷静であっても、傀儡の側がパニックに陥っていると、ドミネートで満足に操ることができなくなる。それはコームの行使が不可能になることを意味する。
先日改良を加えたコームが精神を持続的に落ち着かせる。魔法によって恐怖を押さえつけても、まだ強すぎるほどに強い不快感が全身にベッタリと張り付いている。それはルカやウリトラスも同じこと。きっとラムサスやバーナードも同じ感覚を抱いていることだろう。
フルードとジーモンも人間と同様に恐れおののいているが、竦んで身体が全く動かせないほどの恐慌状態には陥っていない。彼らが抱く感情は、我々人間と些かの差異がある。
……人間と? それは違う。異なっているのは私とルカだけ。ウリトラスはフルード達と酷似した感情を抱いている。彼らはあの遠雷、北の空の災厄に覚えがある。断じて初めて経験する恐怖ではない。
「ドラゴンだ……。ここまで追いかけてきやがった」
震える声でバーナードが災厄の正体を告げた。
ドラゴンの恐怖に触れた者達が揃った反応を見せている。もう疑いようがない。北の空にはドラゴンがいる。
ステラの目をもってしても、まだドラゴンの姿は見えていない。しかし、見えずとも分かる。そこにドラゴンはいる。見たことがなくとも、ヒトの身体が代々受け継いできた血の記憶とでも呼ぶべき原恐怖。
絶対に逆らってはいけないもの、絶対に敵対してはいけないもの。名前を呼んではいけないもの。見てはいけないもの。
知識や経験など関係ない。生まれる前から全ての生物の奥底に刻み込まれているドラゴンへの始原の恐怖が呼び起こされている。
我々を恐怖させるものの正体がドラゴンであることを認めた瞬間に恐怖が何倍にも膨れ上がる。恐怖が膨化を始めた瞬間、反射的に二回目となる鎮静魔法を放つ。自分を落ち着かせ、続いてウリトラス、ルカ、クルーヴァにもコームをかけていく。腹の奥をずしりと重くする不快感を取り除くことはできずとも、これで少なくとも恐慌に陥ることはないはずだ。
手足にコームを施すのに少し遅れ、ラムサスも恐怖におののいていることに思い当たり、ラムサスにもコームをかけておく。
魔法が作用すると、青い顔をしていたラムサスの肌に血の色が戻ってくる。
「なぜドラゴンが大森林の外、こんな魔力の乏しい場所まで飛来する……?」
私が問いかけると、バーナードとニニッサは揃って視線を下へ泳がせた。
二人はドラゴンとの関係を隠し通せているつもりでいるから、咄嗟に目を背けたのだろう。
「下したツェルヴォネコートを追ってきたのかもしれない」
私に質問をふられたラムサスが低い声で答える。
「もう一度地下室に身を隠す?」
「あの中に隠れるのは悪手のように思う」
「私もそんな気がする」
ドラゴンがツェルヴォネコートを追ってきたのであれば、ツェルヴォネコートが去っていた南側に逃げるのは地下室に隠れる以上の失着だ。ここはドラゴンの進行方向と直角の方向へ逃げるのが最適解だ。そうと決まれば全力でここを離脱するだけ。
「乗れ」
ラムサスがイデナの肩に手を伸ばすのと同時に全員で西方へ逃走を開始する。
「おい、お前達、どこに――」
私とラムサスのやり取りを唖然としながら聞いていたバーナードが、置いていかれたことに気付いて我々の背中に声を投げ掛ける。
彼らには、走って我々を追い掛ける、という選択肢が無いようだ。その場から一歩も動かずに立ち尽くしている。
バーナード、ニニッサ、君達とはここでお別れだ。そこでドラゴンの餌にでもなるといい。運が良ければ助かるだろう。達者でな。
「置き去りなんて、酷いことをする」
イデナに背負われたラムサスが私の対応を批難する。
「街の近くで置き去りにする。これは最初に決めておいたことだ。しかし、全く追ってこなかったのは意外だった」
「彼らにはコームがかかっていない。足が竦んでいたのかも」
呆気にとられていたのではなく、恐怖で身動きを取れなくなっていたのか。なるほど言われてみるとそうかもしれない。フルード達はコーム無しでも何とか動けている。それでも、恐怖と緊張によって身体がかなり固くなっているのは否めない。ドミネートによる強制力がなかったら、生体の手足達もバーナード達と同じく一所で震えていることしかできなかっただろう。
「二人を生かしておいた価値があった。ゴルティアに操られていたとはいえ、二人ともドラゴンの発生に加担した罪人。罪を償う機会を与えてやろう。我々を逃がすための尊い犠牲になってもらう」
私はあのとき、この二人を生かしておくと好ましい未来に繋がる、という予感がした。具体的にどんな役に立つか、までは見通せていなかった。私よりも私のほうが冴えている。生殺の判断は、私とラムサスが正しかった。切れ者は、このような未来の出来事まで見通すことができるものなのだろうか。羨ましいものだ。
バーナード達が見えなくなったところでフルード達を合流させ、生体であるフルード、ジーモン、ステラ達にもコームをかけていく。ヴィゾークやリジッドといったアンデッドの手足はコームがなくとも行動には支障なさそうだ。
「姿が見えぬうちからこれほどの恐怖を与えてくる存在だとはな。流石はドラゴン。最強の生命の名に恥じぬ圧迫感だ」
「大氾濫が起こるのも納得できる」
落ち着きを取り戻した四脚の傀儡達をパーティーの前方に走らせて索敵に当たらせる。
ステラのほうはコームをかけても身体の抵抗が強い。ドラゴンの圧迫感の下で空を飛んではいけないと理解しているのだ。ステラを飛ばすことは諦め、クルーヴァの肩に止まらせておく。
街道が近い場所とはいえ、我々の走る前には魔物が全くいない。おそらくあらゆる魔物がドラゴンの恐怖に怯えて身を隠しているのだ。敵無き道を走っているのに等しい。森の中をこれだけの速度で走るのは久しぶりだ。
邪魔の入らぬ森の中を形振り構わず西方へ走る。休憩を取らず、補助魔法は全力で施し、闘衣と風魔法まで駆使して可能な限り高速で逃げている。四脚の魔物はともかく、普通の人間の足に追いつかれるような速度ではない。バーナードを置き去りにした地点からはかなり西に移動できたはずだ。
足は止めずに、アンデッドの視線だけを北へ向ける。空の視点が無い今、空の様子は枝葉が織り成す天蓋の隙間から垣間見ることしかできない。アンデッドの目に断続的に映る北の空に、ぽつんと一つ、不自然な黒い影が落ちている。
影が見えた次の瞬間には、新しい木々の覆いに視界を遮られ、次に視界が開けたときには、黒い影はほんの少しだけ大きくなっている。視覚の上ではただの点にすぎない黒い影は重厚な威圧感を伴いながら巨大化を続ける。
最初は砂粒ほどの大きさしかなかった黒い影は拡大に伴い、意味のある形を見せ始める。
「おかしい……」
「何が?」
「北の空にドラゴンのものと思われる影が見える」
「怖いね。でも、おかしくはないね」
「ツェルヴォネコートは南へ走っていった。我々は西へ逃げている。北から飛来するドラゴンがツェルヴォネコートを追っているのならば、ドラゴンの影は東側へ流れていくはずだ」
私は意図してドラゴンの進路から逃れる形で西へ移動している。それなのに、空の影は横方向に流れていく気配がない。
「その心は?」
「ドラゴンは、我々の移動に合わせて飛行方向を変えている」
「嘘でしょ……」
走ることをやめ、一箇所に立ち止まって空の影をとくと観察する。もしも偶然にドラゴンが大きく右螺子回りに旋回しているだけならば、我々が立ち止まることで影は西に流れていく。そうであってほしい。
一縷の希望を託して空を見上げるものの、影は左右に動くことなく拡大を続ける。もはや影は点ではなく、両翼を有する飛行種の陰影を作っている。
「あの鳥みたいな影が……ドラゴン?」
我々が視線を投じる方向に目を凝らしていたラムサスもドラゴンの影を発見する。
「父は相当に嫌われていたとみえる」
大森林のドラゴンの卵。それを最初に発見した人物が誰なのかは分からない。人間なのか、吸血種なのか、マディオフ人なのかゼトラケイン人なのかゴルティア人なのか、ウリトラス達は発見者に関する一切の情報を持っていなかった。
誰が発見し、卵の所在情報がどこをどう巡ったのかは不明ながら、その情報はゴルティア公国に流れた。ゴルティア公国はマディオフ王国に走らせている工作員を通じてウリトラスら五人に卵の情報を与えた。生態が謎に包まれているドラゴンは、次世代発生についても謎が多い。分かっていることは卵生であることくらいのものである。どれほどの期間を経て卵が孵化するか、孵った幼体を馴致できるのか分からぬまま、ドラゴンを手懐けられる可能性に賭けてウリトラスはドラゴンの卵に魔力を注いで孵卵を早め、今年の春に災厄はこの世に這い出した。
五角形の五名の中で、卵に魔力を送り込んだのはウリトラス一人だけ。
「孵卵に尽力したウリトラスがドラゴンから最も強く疎まれていたのだから笑えない話だ」
孵ったドラゴンが人間に懐くことはなかったものの、ウリトラス以外の四名に対しては、比較的攻撃性が低かったという。しかし、ドラゴンは孵卵直後からウリトラスに対して激しく威嚇を繰り返し、執拗に攻撃を行った。
「まだ卵の中で眠っていたかったのに、無理矢理起こされてしまったことで怒っているのかもよ」
「目の見えぬ卵時代の記憶がドラゴンにあるならばな……」
ウリトラスが魔力を注いだのは孵卵前だけ。孵卵後の食事の世話はウリトラス以外の四名が行った。ドラゴンの攻撃性が強すぎて、ウリトラスはドラゴンに近寄ることができなかったからだ。
「ドラゴンは十中八九ウリトラスを付け狙っている。しかし、解せないのはウリトラスを探知している手段だ。なぜこちらに向かってくる。何を目印にしている」
先程のツェルヴォネコートは我々に向かって走っていたのではなく、ドラゴンから逃げて南下していただけだった。逃走以外の明確な目的を持たなかったツェルヴォネコートと異なり、ドラゴンは明らかに我々を目標として飛んでいる。問題は、なぜ、どのような方法で我々を察知しているかだ。
「ドラゴンがウリトラスに魔法や呪いで標的貼付を行ったかどうか調べられないか?」
「そういうのは……多分ないと思う」
ではドラゴンは何に反応してこちらを捕捉している。風は北から南へ流れている。まさか匂いを辿っているわけではあるまい。ドラゴンが何らかの探知手段を有している以上、ツェルヴォネコートから隠れるのに使ったような、あんな簡易な地下室は無意味だ。
近くにダンジョンでもあれば、その奥深くに逃げ込みたい。しかし、ここから最も近いダンジョンはアーチボルクの墳墓だ。ここからはまだ遠く離れた場所。しかも、こんな危険な魔物をアーチボルクに引き連れていくことはできない。母に危害が及ぶかもしれない。
考え事をしている間にもドラゴンの影は更に大きくなっていく。クルーヴァの肩に止まるステラの目は、ドラゴンの持つリザードに似た頭部と、鳥類とは異なる尾翼、両翼に名残として残っている前肢をありありと映し出している。伝承に違わぬドラゴンの姿だ。
「戦うしかないのか」
影が大きくなるにつれ、身に纏う魔力の様相も視認できるようになっていく。私が今までに見た最大級の魔力を持つ魔物は毒壺のダンジョンボス、クイーンヴェスパ。ドラゴンはクイーンヴェスパ以上に強い魔力を秘めている。卵を産むだけの産卵装置に身体が作り変えられてしまっていたクイーンヴェスパと違い、ドラゴンは戦闘力に特化しているはず。そんな相手とどうやって戦えばいい。
「ベネリカッターなら――」
「遅きに失した。もう間に合わない」
ドラゴンとしての見た目が判別できるようになってからは早かった。ドラゴンは我々にすぐに追いつき、優雅に風を切って真上を通り過ぎると、逃げようとしていた我々の意図をあざ笑うかのように、西の空を旋回する。
旋回を二回、三回と繰り返して飛行速度を落としたドラゴンは、我々のすぐ近くへ落ちてきた。
街道近くとはいえ木々が深く林立する場所であり、ドラゴンが翼を広げて着陸できる開けた空間など存在しない。ドラゴンは生えた木々など関係無しに、巨体で木々を薙ぎ倒していく。
昔戦ったルドスクシュの大物が脳裏によぎる。あれは飛翔種とは思えぬほど大柄高重量だった。しかし、身体の大きさを考えれば重量はそこまででもない。なんせ、屠って肉に加工した後は私でも持ち上げられたほどだ。体積あたりの重量、比重はとても小さいのだ。
このドラゴンは違う。体長と翼長はあのときのルドスクシュよりもやや小さいかもしれない。けれども、重量はルドスクシュよりも圧倒的に大きい。見た目そのままの重さがある。ドラゴンは力ではなく、速度をもった重さだけで生きた木々を枯木のように易易とへし折っていく。
晩秋に立ち枯れた草が、何の力も要らずに踏み潰せるように、ドラゴンは夏の活力に満ちた木々を大きな身体で薙ぎ倒していく。
地に降り立った災厄は首を伸ばして顔をこちらに向ける。我々の前に晒された顔貌は巨大でこそあれ、リザード種と大きく相違ない。その両眸が見据えるのは我々ではなく、ニグンに背負われたウリトラスただ一人。視線感知のスキルによってドラゴンの視線を拾い上げているのはウリトラスだけ。我々は適さか視界に入った路傍の石に過ぎない。
殺される。
鎮静魔法の作用下にあるにも関わらず、恐怖で身体がガチガチに強張る。心臓は過去最大級、破裂しそうなほどに強く激しく拍動している。
逃げなければ。
生きるためには逃げなければいけない。立ち止まってはいけない。逃げることを止めてはいけない。止まればそれで終わり。
人間だ、アンデッドだ、などという些少な区分は意味をなさない。ドラゴンの前には等しく弱者。押しなべて敗者。ただ狩られる側のものに過ぎない。
倒す方法を考える? そんなものは無理だ。目を見て、魔力を見て分かった。この化物には勝てない。
天からの落ちる雨を、太陽の昇沈を、季節の移り変わりを何人も止められぬのと同じ。ドラゴンに抗うこともまた、いかなる意味も持たない。意味を持つのは逃げることだけ。逃避以外を考えればそれで終わり。それ以外の全ての道が滅びへ繋がっている。
西に降り立ったドラゴンの真逆に身を翻し、東に向かって逃走を開始する。エキムムーラから逃げたとき以上の驀進だ。目指すべき目標は生存、生還。ドラゴンを前に唯一見いだせる勝利とは生き残ること。どんな無様であっても滅びを免れれば、それが勝利と言えるだろう。存在するのか分からぬ生存の道だと信じて、来た道を東に向かって突き進む。
背中に見えるドラゴンは上体を起こして大きく息を吸い込み始めた。
「ノエル、ドラゴンブレスがくる!!」
言われずとも、初見でも、あれがドラゴンブレスの予備動作だということくらい分かる。ウリトラスの身体を焼き焦がしたブレスがくる。
ブレスはどこまで届く? どれだけ広がる? 足の速い四脚の傀儡はともかく、我々本隊はブレスの射程から逃げ切れるとは思えない。
高く持ち上がったドラゴンが頭部を下げる直前、魔法を使える全ての手足で防御魔法を展開する。
ブレス一撃で全滅しても不思議はない。全員で全力の防御魔法だ!
我々が防御魔法を展開した瞬間、ドラゴンの口から灼熱が迸る。防御魔法が作り出すガラスのような魔法障壁が、魔力の塊であるブレスとぶつかる。
実体を持たない魔法障壁がドロドロに融けて崩れかねない高温、高圧、高魔力。障壁の外の世界は前後左右という常識がなくなっている。世界の全てが白く、僅かに赤く、兎に角強く光り輝いている。防御障壁の外は一切合切が赤みを帯びた眩い白と、底知れぬおどろおどろしげな魔力に置換されている。
これがドラゴンブレス。最強の生命から放たれる攻撃だけあり、途方もない威力だ。だが、ニニッサから学んだ防御魔法は斉唱によって効果が向上していることもあってか、ブレスを完全に防いでいる。ドラゴンの攻撃……この程度……なのか?
ドラゴンの口から噴き出すブレス止まると、眩さしかなくなっていた世界が姿を取り戻していく。我々の周囲に生えていた植物は、ブレスに曝された僅かな時間で葉を跡形もなく失い、残っているのは枝と幹だけだった。装いを失った立ち木も地表も一回のブレスで黒黒とした炭に変わり果てている。ブレスが消え去って空気に触れた消し炭達は、黒の中に赤味を抱くようになり、燃焼という現象を今やっと思い出したように燃え始める。
ブレスを吐いたドラゴンのほうは、というと、我々の健在を確認して、次なるブレスのために再度、息を吸い始めた。
この程度であればもう一度ブレスが来ても防ぎきれる。もしや……倒せる?
「ノエル!! ドラゴンの狙いはウリトラスを食べること。今のはウリトラスを焼き尽くさないように加減したブレスだった。次の一撃はもっと強い!!」
世界に仇なす災厄という大事の前でも小妖精の放縦は些かも変わりを見せない。ポジェムニバダンはドラゴンの足元を低徊し、普段と変わらずにラムサスに情報をもたらしていた。
ドラゴンは父を恨んでいたのではなく、餌と見做していた? それでここまで追ってきた……
五人がドラゴンに襲われたときも、きっと同じことが起きていた。ドラゴンは食べ物を消し飛ばさぬよう、火力を加減してウリトラスを炙った。だからこそ、今は亡きスメアク、ウリトラスの横で息絶えた魔法使いとニニッサの二人の防御魔法だけで、生き延びることができた。
ドラゴンブレスを一度防いだことによって生じた討伐への下心、ドラゴンがウリトラスを狙う理由、二度目のドラゴンブレスの恐怖。
重く大きな情報と感情の交錯が私の足を止めさせるうちに、息を吸いきり魔力の充填を完了したドラゴンが呼息を始める。
せめて少しだけでも遠ざかっていればよかったものを、木偶のように佇立していた我々は一撃目と全く同じ場所で防御魔法を展開し、二度目のドラゴンブレスを迎え撃つ。
今度のドラゴンブレスは一発目よりも更に魔力が深く重く激しい。一発目のブレスの色が弱火だとすれば今度は中火だ。明らかに威力が上がっている。作り上げた防御障壁から我々の震え潜む内部へ、ジワリジワリと具現化した悪意のような魔力と熱が滲み入ってきた。
身体を蝕むドラゴンブレスから身を守るために闘衣を纏う。幸いにも滲入してきた微弱なドラゴンブレスは闘衣までも貫くほどの威力はないようだ。
二発目もなんとか無傷で防ぎきれることを理解したところで、窮地を脱する方策を考える。人間社会の紛擾ではないのだ。ラムサスに期待しても無駄。これは私が考えなければならない。
ドラゴンはどうやってウリトラスの位置を突き止めた。何か方法があるはずなのだ。それも然程難しくない、捻りのない手段。恐怖の只中で見たドラゴンの顔を思い出せ。長い時を生きたビェルデュマと違って、生まれたばかりの知性のない、暴力の塊でしかない存在だ。難しいことなど考えない。
ここまでに、それを読み解く示唆があったはずなのだ。私はいつも示唆を見過ごしてきた。今は、今だけは見過ごすわけにはいかない。思い出せ、考えろ。
ドラゴンは大森林の中でウリトラスを焼き焦がした。負傷したウリトラスを食い殺せば、この状況は起こり得なかった。ドラゴンはウリトラスを見つける何らかの手段を持っている。探知手段を持っていながら、一時なぜかウリトラスを見失ったのだ。なぜだ。なぜ今、この時機になって再び見つけられるようになった。
……
…………ウリトラスが回復したから……なのか?
ドラゴンは魔力の豊富な地点に巣食う魔物。だからこそ大森林に卵があり、魔力の中心からツェルヴォネコートを追い出した。魔力への嗅覚と執着は並々ならぬものがある。
ウリトラスはそんな魔力偏執のドラゴンの卵に魔力を注いだ。ドラゴンはウリトラスの魔力に強い関連付けがなされている。だとすれば……
「サナ、ウリトラスに偽装魔法を使え。魔力量を思い切り低く偽装しろ!」
「む、無理……」
「何故だ!? 四の五の言わずにやれよ!」
「無理……闘衣を展開しながらだとコンシステントは使えない……」
くそっ!! そうだった……ラムサスは魔力の多回線同時操作がまだできない。この土壇場でそんな初歩的な前提を忘れるとは。
「では私に身体を一時的に明け渡せ。私のほうで操作する」
「どうやって?」
「私がドミネートするから魔法抵抗を下げろ」
「それもどうやるの!?」
魔法抵抗を下げるには魔力吸収で回線を奪って……それも私の手が塞がっているとできない。魔力吸収はドレーナの魔法。手を使わずとも噛み付けば……。それも駄目だ。魔力回線を失った瞬間にラムサスは防御障壁内に滲入したドラゴンブレスで焼け死んでしまう。これも無理な方法だ。
どうする、どうする。どうやればいい?
名案の浮かばぬうちにドラゴンの熱い呼息が途切れる。
ブレスの終結と同時に防御魔法を解き、東方へ駆け出す。
「今なら!!」
身を焦がす熱から解放されたラムサスがウリトラスにコンシステントを施そうと手を伸ばす。
「馬鹿、やめろ!」
「な、なんで……」
「標的に見られている真ん前で幻惑系統の魔法を使うな!」
ドラゴンブレスは我々を襲う攻撃手法であると同時に、ドラゴンの視界から我々を覆い隠す衝立にもなっていた。だからこそブレスがあるうちにコンシステントを使ってほしかったのだ。
「じゃあどうする。ドラゴンはまだまだ全力じゃない。次の一撃はもっと強い。いくらでも威力を強くできる!」
逃げ出す我々を見たドラゴンこちらに向かって歩を進めるものの、飛行速度とは裏腹に地を這う速度は褒められたものではなく、全力で逃走する我々からグングンと距離が離れていく。
ドラゴンはたったの数歩で地を這う追跡に見切りをつけると、その場で羽根のない翼を羽撃ち始めた。巨体を飛翔させるにはあまりにも心許ない翼から、大量の魔力が羽撃ちとともに流れ出る。魔力はドラゴンの身体の下後方に勢いよく流れ、魔力と空気の流れとは逆にドラゴンの身体は垂直に浮かび上がっていく。物理的な飛翔ではなく、極めて魔力的な飛翔。ルドスクシュの垂直離陸を思い出す。
「どんなに全力で走ったとしても、身を隠すのに適した場所がないことには逃げ切れない。逃げるよりも戦ったほうが可能性はあるように思う」
「ドラゴンの阿呆面を見なかったのか。あれは力に大きく傾いた愚かな魔物だ。腹立たしいことに今の我々では触れられぬほどに力が強い。倒したいならば、なおさらここは戦略的撤退を選ぶべきだ」
「撤退を可能にする作戦がどこにある。ドラゴンがブレスを放つ瞬間に合わせてコンシステントを使え、とでも?」
「それもまた一つの方法だ。だが、今はより確実で簡単な方法を選ぶ」
「私は何をすればいい」
生きるために少しでも足掻こうとするラムサスは自分の分担を求める。
「息を潜めて見ていればいい」
空を舞うドラゴンはまたも我々の上空を通り過ぎると、旋回して我々の進行方向上方に回り込み、その場で停止飛行して大きく息を吸い込んだ。
ドラゴンのブレスが我々に届く直前、ノスタルジアを用いて私も加わり更に強度を増した防御魔法の障壁がパーティーを包む。
魔法による実体を持たぬ障壁であっても構造物としての側面を有している。三つの点を持つ構造は頑強であり、私、ヴィゾーク、イデナという強力な魔法の中心点を三つ持った防御障壁は、これまでよりもずっと強固に我々の身を守る。
強力な詠唱者が増えた代わりに、防御魔法は詠唱者の総数を減らしている。小さく完成度の高い魔法であってもドラゴンブレスの全てを遮断することはできず、障壁内に僅かばかりの滲入が見られる。
魔力量の少ないルカは闘衣と防御魔法を同時に展開して維持することが難しい。ルカを斉唱から外すと、ブレスの滲入が更に増えることになり、身体を守るために纏う闘衣を少し強める必要性に迫られる。
残りの手足は仕込みを行っている。空飛ぶ愚物を謀るための仕込みだ。
魔力欠乏によってルカの身体が私の操作を受け付けなくなる直前にドラゴンの呼息が終了した。視界が開けたと同時に仕込んでいた魔法を放つ。
魔法の不得意なフルルが作り上げた、やや体裁の悪い一筋の炎が飛んでいく。ドラゴンの鼻息だけで掻き消えそうな小さな炎はドラゴンに当たることなく、鼻先と呼ぶには少し手前で炸裂し、ドラゴンブレスにも匹敵する閃光を放った。
バーニンググレネードの光は、無防備に浴びた人間を昏倒させるだけの力を持つ。そんなバーニンググレネードであっても、相手がドラゴンとなるともたらす影響は微弱である。ドラゴンは眼瞼を閉じることすらせず、瞬膜を閉ざすだけ。ドラゴンに与える力は微かであっても、世界を白く塗り替える力に変わりはない。
バーニンググレネードが作り上げる白い世界が消え去ったとき、ドラゴンが見下ろす大地に標的の姿はない。
追い詰めたはずの標的を見失ったドラゴンは、子供の癇癪のように二回、三回と見渡す限りにブレスを放つ。罪のない木々を広く焼き払ったところで標的の姿が戻ってくることはない。
下方一面を焦土にしたドラゴンは何度も何度も同じ場所を旋回した後、ドラゴンながらに憮然とした顔で大森林のある北方へ向かって飛び去っていった。
ドラゴンが飛び去った空に舞っているのは、精石を託された光り油虫一匹であった。




