第一四話 活かすべきもの
回復魔法によって死の淵を脱し、気付け薬で目を覚ました男にラムサスは問いかける。
「この樹の下は安全なの?」
各種の魔法の改良について考える傍ら、私は男を操作してラムサスに答える。『そうだ』と答えさせようとしても、男の口は動かない。この場所は、安全ではないようだ。しかし、『違う』という答えも発することができない。
「『はい』とも『いいえ』とも答えない……。男は測りかねていることがある……」
ラムサスは強く閉じた口元を手で隠し、思考に耽る。
「ドラゴンがこの場所を見つけることを、あなたは恐れている」
「ソウダ」
「やっぱり……。ツェルヴォネコートがここに来ることは?」
男は回答ができない。
「それは分からない、か。……じゃあ、他の人間は? 私達以外の人間がこの場所に襲撃してくる可能性は高い?」
「低イ」
「じゃあ、この人達がジーモンと戦った人間……。あなた達は、元々五人組……待って。最初はもっと大人数だった?」
「ハジメハゴニンダ」
「気の利いた回答もできるんだ。私の能力よりも、エルと飾 りのほうが高性能かもね」
かざした手の下でラムサスは笑う。
「あなたの本名を教えて」
男は回答ができない。
「これは漠然としすぎていて難しいか。じゃあこうしよう。エル、勉強のときに使う板を作って」
ラムサスの要請に従い、書記用の板と筆記用具を土魔法で作り出す。
ラムサスは板に共通文字一覧を書き上げていく。
「あなたの名前の頭文字。それはここから右半分にある? それとも左半分にある?」
古典的手法を用いてラムサスは一文字一文字男の名前を特定していく。
「バーナード・ハリク。それがあなたの名前」
「ソウダ」
「じゃあ、バーナードに次の質問。この場所にウリトラス・ネイゲルはいる?」
「イル」
「それはこの人?」
ラムサスは薬研を引いていた、怪我の最も軽い人物を指さす。
「違ウ」
「じゃあ、この人がウリトラス?」
ラムサスは、二人横たわった人間のうち、ルカによって包帯を外された一人の男を指さした。
「ソウダ」
「エル、ウリトラスを治療して」
強い相手ほど、殺害時にアンデッドの良い糧になってくれる。ウリトラスをこの手で殺し、死体をアンデッド化して手足に組み込むのと、治療して手足に組み込むのと、どちらがより好ましいか考える。
「エル、早く!!」
ウリトラスは半死半生の状態。治療を行っても戦闘力を発揮するどころか、人並みに動くことすらままならないだろう。生かしておく価値に乏しい。
私の手足を少し動かした瞬間、ポジェムニバダンが反応を見せる。
「お父さんを殺す気!? "お願い"、やめて!」
ラムサスはウリトラスの前に身体を割り入れて私を睨む。
お願いは聞かなければならないものだ。ウリトラスは殺したほうが私にとって望ましいが……治療して手足に組み込んだ後でも、随時殺害しアンデッド化し、手足に組み込み直すことは可能だ。私はそう結論付けて、ウリトラスの治療を開始する。
まず全身状態の確認だ。ドミネートを通してウリトラスの自覚症状は正確に理解できる。言語を用いて疎通するよりもよほど正確だ。しかし、全身からはあまり痛みが伝わってこない。顔面に比べて胴体は火傷が浅いのだろうか。
手足を動かし、ウリトラスにかけられた寝具を剥ぎ、包帯を巻き取っていく。
治療開始に満足したラムサスはウリトラスの横を離れ、手足数本の診療を横目で窺いながら、バーナードに質問を重ねていく。
診察と治療をしながらラムサスの問いに答えるなど、至極容易な作業。人間よりもアンデッドのほうが同時並行作業に向いている。同時並行作業の苦手な人間には、自分本体を動かしながら傀儡を動かすのが難しい。そんなことを、いつだったかアリステルが言っていた。それも訓練を重ねて同時並行作業のスキルを得てしまえば、人間の身体でも再現可能。これは私の経験で明確になっている。
全ての包帯を巻き取り終え、露出した全身を見回す。痛みが少ない割に、火傷は広範かつ深くまで達している。火傷は一定以上深くなると、痛みが減少するのだ。これもアリステルに教わったことだ。いや、あの東天教の女、モニカだったかな……
火傷は受傷範囲が広くなると、致命率が急上昇する。ウリトラスの火傷の範囲は、その一線を悠々越えている。これを救命できたら、私の治療技能は、また一段階向上することになる。技能の向上は私にとって喜ばしいことだ。前向きに取り組むことにしよう。
ラムサスがウリトラスの治療風景をチラチラと覗き見る中、アリステルとの回診を思い出しながら一手一手治療の手を進めていく。血と膿と泥とゴミに塗れた全身の肌に人肌よりも温かい湯を贅沢にかけ流し、皮膚の清浄化を図る。水流で流れ落ちぬ植物のトゲは一つ一つルカの手で抜き、肌の深くまで埋め込まれた泥と砂埃は硬めの刷毛で掻き出し、膿は吸引器を使って徹底的に排出した。
ジワジワと滲み出す血液には止血魔法をかける。黄色透明の滲出液は、止血魔法だと止まらない。新しい肌が皮膚を覆わない限り、体液は流出し続ける。体液流出を食い止めるため、清浄化を終えた部位から回復魔法をかけていく。回復魔法により、身体が持つ創傷治癒力が強化され、火傷を免れた部位、火傷の軽かった部位から新しい皮膚が広がっていく。
全力で回復魔法をかけているというのに、創の閉じが悪い。ウリトラスの体力が落ちているからだ。回復魔法は、魔法を受ける側の残存体力に効果が比例する。体力がない者に強い回復魔法をかけたところで、卓効は得られない。体力がある者に強い回復魔法をかけて初めて、見る者を驚かせる劇的な回復が得られる。受傷直後にかける回復魔法の効果が格別であることは、様々な症例の治療に携わることで、よく理解している。
全身に回復魔法をかけていると、部位によって効果が異なることに気付く。火傷の深い場所と浅い場所がある。身体の背側は火傷が浅く、腹側は深い。受傷時、熱源はウリトラスの正面側にあったようだ。身体の中で最も火傷がひどいのは腕だ。表面積の大きい腕で頭部を庇ったことにより、両腕は全身の中で最も火傷が深く、頭部は腹側でも比較的火傷が浅くなっている。髭が残っているのはその証拠である。
角膜の表面が焼けて縮れてしまい、ひどく粗造になってしまっているため、視力はほぼ光覚弁。手動弁である私よりも一段階視力が低い。熱で視力を損なったのは、親子揃って同じらしい。
[*光覚弁--暗室で照明を点滅させると、明暗を弁別できる視力。目の前にかざした手の上下左右の動きを弁別できると手動弁]
体表面の治療を粗方終えると、身体の内側もひどく痛むことに気付く。皮膚の痛みが軽減したことで、続々と損傷箇所が判明する。骨、筋肉、関節、内臓、様々な部位に損傷を負っている。重要度の高い器官を優先して治療を続け、一通りの治療を終えたところで、土魔法の時計を見ると、そろそろ二時間に届きそうになっていた。
審理の結界陣を終了させると、魔道具から伸びる呪いの手が私の心臓を掴む。鼓動を止めた私の心臓に触れ、動きがないことを何度も確認し、未練を残すような動きで次第に魔道具の中に吸い込まれていく。
呪いが完全に消え去ったのを確認した私は、自分の身体にリヴァースをかけた。二時間動きを止めていた心臓は活動を再開し、血液が全身を巡る。魔法の強制力によって規則正しく肺が拡張と縮小を繰り返して空気を取り込み、身体に温かみが戻ってくる。
蘇生に成功したことを確信した直後、私は意識を失った。
◇◇
温かい湯に浸かったまま眠る。そんな心地よい微睡みの中に私はいる。このままずっとここで揺らいでいたい。抗いがたい恍惚感が私の心と身体を掴んで離さない。
それで本当にいいのだろうか。私は色々なものに苛まれていた。安眠など得られるはずがない。世界のどこにも仲間はおらず、混沌の中に見つけられるのは敵だけだ。眠っていてはいけない。眠っていては滅びるだけだ。私にはまだやることがある。起きなければ。なんとしても目を覚まさなければ。
眠りという名の快楽に溺れる自分を叱咤する。目を開けろ、目を開けろ、目を開けろ。何が見えなくとも光は見える。光が見えずとも瞬きをすれば、拷問官に押し付けられた松明によって歪んだ角膜が痛みを訴える。
痛みは私の目を覚ます。目を覚ませ。目を覚ませ! 目を覚ませ!!
角膜を擦る痛みとともに全力で開瞼する。映る世界は仄暗い。しかし、眠りの世界ではなく、現実の世界だ。
覚醒した瞬間に脳に大量の情報が流れ込んでくる。いや、情報はずっと流れ込んできていたのだ。情報を情報として認知できるようになったのが、覚醒したこの瞬間なのだ。
流れ込む情報に、自意識という名の目を通す。ここは……洞窟の中……? そうだ、私は大森林を訪れて、五角形らしき負傷者を見つけて……
……
…………ウリトラスはどこだ!?
手足を動かし状況を確認する。
意識を失う前と同じだ。現在地は樹下洞、手足は全てドミネートによる接続が保たれている。ラムサスがいて、ウリトラスもいる。
「目が覚めた? ノエル……」
話し掛けてきたラムサスは無視し、ウリトラスの身体を確認する。私の目にウリトラスの身体から放たれる魔力が映る。私の目で認識できるのは濡れた分厚い曇りガラス越しのように滲みきった映像と魔力だけ。魔力が見えれば一安心だ。これは精石が放つ魔力ではなく、生体が放つ魔力だ。ルカの目で見てみても、ウリトラスの胸は上下している。ウリトラスは生きている。
覚醒後もウリトラスが生存していたことに安堵し、息を大きく吸えるようになる。
「私は何時間寝ていた?」
「その土魔法の時計の通りだよ。私の体感でも一時間前後」
およそ一時間か。試算通りだ。二時間ノスタルジアを使った対価として、ゴブリンや生命球のネズミを用いた実験から算出した"ノックダウン時間"と略一致した時間が経過している。
「それより、私はもう動いていいの?」
ラムサスは床の上に座り膝を抱えている。ラムサスの前には監視役としてフルルが座り込んでいる。睡眠時など、意識を落とす際に有効になる指示によってフルルはラムサスを監視し、それで身動きが取れなくなっていたようだ。
「ああ、構わない」
ラムサスは立ち上がって大きく伸びをし始めた。
状況を確認するために、手足から得られる情報を整理していく。
大樹の外に配置しているステラの目には、脅威となりうるものが何も映り込んでいない。外の様子は問題なさそうだ。樹下洞内はどうだろう。
住人四人は私の意識消失直前と同じ場所に位置している。ウリトラスの身体から伝わる情報は、痛みがまだまだ多いものの、危機的状況は既に脱している。このまま回復させられそうだ。
薬研を引いていた者はかなり具合が悪い。こいつはこれから治療せねばなるまい。バーナード・ハリクのほうは、最重症だ。ウリトラスが瀕死を脱した今、死に一番近い場所にいるのがこいつだろう。尋問のために回復を施していなければ、こいつは既に死んでいた。
「バーナード・ハリクは死が近い。治療は――」
「すぐ治療して!」
容態を告げられたラムサスは焦り指示を出す。何が正解かは分からない。ずっと覚醒して思考に耽っていたラムサスの指示に従うのが、今は最適だろう。すぐに手足をバーナードの横に動かし、治療を開始する。
「医者……じゃなくて、そっちの薬師っぽい人と、奥側で寝ている人の容態はどうなの?」
「薬研を引いていた者は重症者であって最重症者ではない。バーナードの後で十分間に合う。死体のほうは、死後一時間以内ということしか知らん」
「そんな……」
ウリトラスの隣で寝ていたもう一人の包帯人間は、疾うに事切れていた。
◇◇
バーナード・ハリクの救命に成功した我々は、そのまま樹下洞を拠点として調査を継続した。ジーモンを利用して、彼ら五人が件の五角形である確認を取ることができた。
ソボフトゥルの能力が回復してからは、ソボフトゥルの力を十全に用い、生存者三名からあらん限りの情報を抜き出した。瀕死状態の彼らから情報を抜き出すのは容易。大森林の中央付近のこの場所には一切の邪魔が入らない。恐れるべきはドラゴンとツェルヴォネコートだけ。それらが樹下洞を襲撃してくる様子はなく、極めて穏やかに調査を進めることができた。
五角形の生存者三名から、可能な限りの情報を引き出し終え、ではその情報を踏まえてどうするべきか考える。
「ゴルティアに騙されてドラゴンのテイムの可能性を信じる軍人。そんな馬鹿がいるのか、と思うようなものですが、死体を含めて現に五人いるんですよねえ。しかも一人は私の父親ときました。そういう暗示や洗脳を可能にする特殊な魔法があるのでしょうか……」
「それは能力だと分からない。暗示は思い込みや勘違いと並んで、私には見抜けないものの一つ」
「飾 りでも同じです。なにせ、彼らにとっては洗脳でも偽計でもなく真実です」
ゴルティアはドラゴンのテイムが不可能と知りながら、彼らをマディオフから排除するために大森林に行かせたのだろう。その証拠にゴルティア人は作戦に参加していない。テイムの可能性を信じていたのなら、ゴルティア人も多少なりと参加するはずだ。父は理詰めでそれと思い当たらなかったのだろうか。それほど深く洗脳されているのか、元々の頭の悪さゆえか……
「ゴルティア軍は被害零でマディオフ軍のミスリルクラス一名、チタンクラス三名、プラチナクラス一名の排除に成功したのです。仮にテイムに失敗した五名が生還しても、彼らはゴルティア軍に合流し、マディオフの敵戦力として活躍する。離反工作の凶悪さがよく分かります」
「なんで五人だけなんだろう……。やっぱり王族の呪いのせいかな?」
「ロイヤルカースねえ……。ロイヤルカースは故郷だと、存在確実なものと見做されているのでしょうか」
「絶対的な証拠はない。確実視されているだけ」
ラムサスはソボフトゥルを使ってウリトラスがロイヤルカースに冒されていないか既に確認を取っている。ウリトラスは自らの身体を冒す呪いを全く認識していない。ロイヤルカースが、呪いをかけられた本人にも気づかれないままに思考を操り、マディオフ王族に絶対忠実な駒に作り変えるものだと、これも小妖精や審理の結界陣で暴くことができない。王族に直接"確認"を取らないことには真実が分からない。
「ロイヤルカースは対象の兵を、命懸けで王と王命を守る駒に変える。そう故郷では認識されているんですよね?」
何度か問うた質問をラムサスに繰り返す。
「うん。でも、彼らはマディオフを裏切っている」
「ロイヤルカースなんてものは存在しないのか、実在はするけれど私やあなたの認識とはずれた効果を持っているのか……」
ロイヤルカースが我々の認識していた通りの効果のものだとして、それが解呪された結果マディオフから離反したのであれば、ウリトラスはそれを認識しているはずだ。
しかし、ウリトラスは『生涯一度も呪いに冒されたことがない』と思っている。こうなると残る可能性は、「ウリトラスの認識外からロイヤルカースがかかり、全く認識しないままにロイヤルカースが解けた」か、「我々の認識とは異なるロイヤルカースに今もまだ冒されている」か、だ。記憶操作の魔法を受けているとなると、更に話は複雑になるが、ウリトラスほどの実力がありながら記憶操作魔法を抵抗できないとは思えない。幻惑魔法のドミネートと同じく、記憶操作は希少魔法かつ、強い人間には無効。洗脳はともかく、記憶操作ありきで推論を展開しても収拾がつかなくなるだけだ。
「ロイヤルカースについてどこまで調べるべきか分かりかねます」
「ロイヤルカースの存在と効果に白黒つけないことには、マディオフという国全体の扱いを決めかねる。近隣諸国の中で危険度が高いのはゴルティア公国だけではない。マディオフ王国もかなり危険な国。ロイヤルカースが実在するなら尚更」
ラムサスの言うことは一理ある。ゴルティアを退けたとしても、マディオフが他国への侵攻、特にジバクマ侵攻を考えるようだと、私はその度に憔悴させられることになる。ロイヤルカースなるものが実在して、その呪いを解くことができれば、マディオフは他国に侵攻しなくなるかもしれない。家族に無事でいてもらうためにも、戦争など無いほうがいいに決まっている。
「ではマディオフの王家から"手入れ"していきますか」
「それは優先順位の付け方として好ましくない。ゴルティア軍がリクヴァスに攻めてこないのは、彼らがロイヤルカースの存在を確信しているから。それを解いてしまうとリクヴァスは陥落してしまう」
「呪いを解いて、なぜそれがゴルティア軍に直ちに露見するのです。理解できません」
「脱走兵がいないからだよ。マディオフの軍人は戦に勝利する強さだけでなく、敗戦濃厚の戦いでも決して脱走兵を出さない、信じ難い鉄の忠誠を持っている。美談なんてものでは絶対に説明がつかないレベルの、それこそ洗脳以上の力がはたらいていないことには、そうはならない」
マディオフ国民からすると勇猛な結束、国を守る固い絆であっても、他国民からすると異常な洗脳状態なわけだ。視点が変わると見え方が違う。それは国家規模まで視野を広げても同じことらしい。
「なるほど。では、手入れの前に、リクヴァスに群がるゴルティア軍を排除しなければなりませんね」
「先に決めておくことがある。この三人をどうするか。特にお父さんをノエルがどうしたいと思っているか。コンサルタントはあなたの意志を考慮に入れて案を出す」
父をどうしたいか。どうすべきか。これは難題だ。
父は浮気をしでかし、国を捨て、敵国に下る決意を固めていた。では、戦場で会うかもしれない娘のエルザを殺す覚悟ができていたか、というと、そんなものはなかった。ただ単に知能が足りないだけなのか、子供に興味が無さすぎて忘れていたのか、これは小妖精でも審理の結界陣でも調べていないから分からない。
少なくとも浮気の件に関しては、母キーラに判決をくださせるべきだ。私一人の裁量でどうこうしてはならない。
「ウリトラスは母の下に送り届けます。その後、どうするかは母の意見を聞いて決めましょう」
「傷が癒えても、家に居ることが軍にバレるとお父さんは死ぬよ?」
「そうはならないように環境を調整できないか、母を説得してみます」
「あんなに取り乱していておいて……。ノエルはただでさえ口下手なんだから、難しいと思うよ。お父さんが殺されることのない案を考えてほしい、って素直に言えばいいのに」
私の覚悟は、父が私の敵として襲いかかってきたときに父を殺す決意。それだけだった。
死を待つ床を見ただけで心は揺らぎに揺らぎ、ウリトラスを確信させる一番最初の物が、名前でも顔でもなく魔法杖だった。これが決定打になった。後から理由をどう付けたところで、私が取り乱しやすいことに変わりはない。
恐慌に陥らぬようにするには、焦りを感じた瞬間に鎮静魔法を使うこと。もっと息をするように即座にコームを放つ必要がある。あとは、あらゆる事態を想定することだ。想定と覚悟は心の安定に繋がる。手始めにウリトラスを家に帰した後のことを考えてみよう。家といえばエルザは……
ああああ!!!!!!!!
早速パニックになりかけた私は、急ぎコームを自身に放つ。
勝手に興奮と鎮静の経過を辿る私を見て、ラムサスは訝っている。
「また何か変なことを考えている……」
「変なことではありません。少し整理する時間を下さい」
前置きをした上でじっくりと思案する。
今後のエルザはマディオフでどうなっていくのだろうか。兄は大罪人として処刑されて死亡した。父は軍を離反した国賊だ。父に至っては私と違って弁明しようのない本物の叛徒である。
ただでさえ父は氏素性を持たぬ浮浪孤児であり、その子供であるエルザもまた軍人としては肩身が狭いはずなのだ。姓を持つ母の血を引き、父が軍人として最後まで勤めを果たせば、まだ未来はあった。その一縷の望みが、私と父の罪業によって断たれてしまった。
それだけではない。ロイヤルカースで軍を活殺自在の道具に変えるマディオフ王家、愚昧極まりない指揮官、ゴルティアの侵攻、反乱軍の存在、王都にはミスリルクラスの強姦魔。エルザの周りは私の周囲以上に敵が多い。誇張でも冗談でもなく八方塞がりの状態だ。
どうすればいい? どう動けばエルザを守れる? エルザの未来はどちらにあるのだ? 分からない……私には分からない。私には未来を見通す力がない。唯一私が分かるのは、その相手を倒せるかどうか、戦いの中に香り立つ勝敗と死の匂いだけだ。こういうことはラムサスに聞かないと……
しかし、家族への感情を知られるのは好ましくない。ラムサスはそれを知った後、ジバクマに戻る。ラムサスが私を裏切らなかったとしても、私の事情を知ったジバクマの人間がそれを利用しようと考えたとき、ラムサスには暴走を止める術がない。
私の家族を守るためにはどうすればいいか。利用するだけ利用した後、ラムサスを殺せばいいだけの話だ。話はとても簡単だ。そうさ、簡単さ。家族にもしも、が起こることを考えれば、ラムサスを殺すなど、何も難しくない。自己犠牲の精神でマディオフくんだりまでついてきて、仲間を自称し、軍略コンサルタントを自称し、口数少ないかと思いきや壊れたかのように笑い、ルカに甘え、訓練に励み、偶に泣いて、震えながら私にコームをかけ、賭博師の目で異彩放つ手を進言する。そんなラムサスを殺し、ラシードに謝罪し、アリステルとサマンダに伝え、ジルに報告し……
「大森林に来てとても多くの気付きがありました。これはとてもよいことです」
「うん?」
「もう事は解決目前です。だからサナ、もう故郷に帰りましょう」
落ち着けよ。そうじゃないだろ。支離滅裂になっているぞ……
「おかしなことを言う……。またコームが必要?」
「コームが必要なのはあなたです。あなたは帰るべきなのです」
今のうちに帰らないと、待ち受けるのは死。それも私がもたらす死だ。小妖精でそれくらい見抜くべきなのだ。それを見抜けない欠陥能力ならば、私はそんなものに頼ってはいけない。つまり、いずれにしろラムサスはジバクマに帰らなければならないのだ。
「なぜそんなことを言う。ノエルは何か悩んでいる。何を悩んでいるか教えて。それが分からないことには、私は対応策を考えられない」
「それを知る必要はありません。あなたはただ黙って私に従えばいい。歯向かうようであれば斬り伏せます」
「いいよ。教えてくれないのなら、自分で考える。ノエルは悩みがある。だけど、事情があってそれを私に相談できない。ノエルが悩んでいるのは……」
ラムサスは額に指先を当てて思考に耽る。なぜ私の言うことを聞かない。可愛げのない道具だ。少し強くなると途端に頑固になるのは脆薄だ、とエヴァも言っていたではないか。
「あなたはお母さんの下に行くときも私のことを遠ざけようとした。今はお父さんを見つけて動転した。あなたは家族に危害が及ぶことを極度に恐れている。母親、父親ときたら、次は……」
それ以上言うな……。言ってしまったら私は……
「やめろ、それ以上言うな」
「あなたの家族を私はもう一人知っている。エルザ・ネイゲル。あなたの妹。マディオフ軍の次世代を担う逸材」
「殺されたいのか?」
「なるほど、そう考えるとあなたの行動に得心できる。両腕の離断という恐ろしい刑を受け入れたのは、家族を守るため」
「見当違いも甚だしい。このような愚鈍、殺す価値もないか」
「あなたは自分の感情を知られることを恐れている。これも家族を守るため」
「殺さずとも黙らせる方法は――」
「ノエル、"お願い"。私はあなたの力になりたい」
お願いというのは、自らが甘受するものであり、他者に与えるものを"お願い"とは言わない。ラムサスは本物の馬鹿だ。
「兄は大罪人、父親は反逆者。妹さんは軍において辛い立場に置かれている。お父さんを家にこのまま戻すとどうなるか分からない。ゴルティアがリクヴァスを落とすと、お母さんのいるアーチボルクにもすぐに戦火が迫る。家族全員を救うのが難しいのは分かる。でも、その方法を考えてみせる。私が考え出してみせる!」
何をどうすればそこまで読み取ることができる。いつから小妖精はそんなに便利な能力になった。もう……隠し通せない……ラムサスは殺すしかない。
「そんなのは無理だ……」
「あなたは私の前で何度も不可能を可能にしてみせた。あなたにとっては何でもないことだったのかもしれない。でも、私にとっても仲間達にとっても驚きの連続。常人では思いつきもしない難しい離れ業を何度もやってのけた。今度は逆。あなたにとっての不可能を、私が可能にしてみせる」
前にエヴァが言っていた。屠った獲物は有効活用するべきだ、と。殺すことが決まっているなら、恐れを捨て、徹底的に利用してから殺せ。大丈夫……私ならできる……。エルザに危害が及ぶことを考えたら、どうということはない……
「具体的な案がないことには妄想に過ぎない」
「お父さんはまだ反逆者じゃない。少し行方を晦ましただけ」
まだ反逆者ではない? ゴルティア軍と合流しマディオフ人を殺さずとも、もう十分に反逆者だ。
「戦時下では、それは重大な軍法違反だ」
「でも、お父さんがリクヴァスのゴルティアを追い返したらどう? 戦勝の立役者を無下にはできないよ」
「ウリトラスは再起不能だ。今日明日の死を免れただけで、この先敵と戦うことなどできない」
「お父さんは魔法使い。剣士じゃない」
「それがどうした?」
「お父さんはあなたと違って腕がある。魔法が使える。ノエルは全部自分でやろうとしているから分からない。剣を振るう健常な肉体を失ったとしても、魔法を使える魔法使いが戦場にいる。それだけで敵軍にとっては脅威。ミスリルクラスの能力者なら、なおのこと」
ラムサスが何を言わんとしているか読めてきた。死の淵を脱しただけ、もはや日常生活すらままならないウリトラスを、ラムサスは戦わせようとしている。
「お父さんは周辺国を震え上がらせる危険な火魔法を使える。ユニークスキルかもしれない。ドミネートでそれを使いこなせない?」
「ウリトラスは私の父親だぞ! それを操れ、など――」
「あれ、おかしいな。私は以前誰かから『感情ではなく利害に基づいて意見と案を出せ』みたいなことを言われた。あっ、てことは、ノエルには私以上の妙案があるんだ!」
必要なことだけ言えばいいものを、キッチリ嫌味を挟んでくる。感情論をかざしそうなラムサスに対し、確かに私はそんなことを言ったさ!
「……試してみないことには分からない。試すにしても、もっと身体が癒えてからだ。それに、ユニークスキルを行使できなければ如何にする?」
「ゴルティア兵を追い払った後の街に、『ウリトラス参上!』って書いたビラを撒くでも、噂を流すでも、いくらでもやりようがある」
その決め文句は格好がつかなさすぎる。ビラ撒きはしたくないものだ。
「分かった。ウリトラスを回復させた後、ウリトラスの名を騙ってゴルティア軍を退ける。その案でいこう。残りの反逆者、剣士と治癒師はどうする?」
「ドミネートされている間も傀儡が意識を持っていて記憶も残る、っていうのはネックなんだよね……。お父さんは別にしても、ドミネートするんなら、この二人は死ぬまでずっと利用することになる」
アンデッドと比較して生体は一体あたりに要求される操作量が多い。操る私の負担になる。アンデッドはともかく、これ以上、生体の手足を増やしたくない。
「彼らが生存していると後の憂いになるように思う。でも、それとは逆に……根拠はないんだけど、彼らを殺すべきではない。そんな気がする。理性でも感情でもなく、直感的な話」
ラムサスは生き残った反逆者達の不殺を提案した。とても不思議な事に、元の私も、『彼らを殺さないほうがいい』と思っている。アンデッドは満身創痍の彼らを見ても同情などしない。何らかの利得に繋がる予感から、そう判断したのだ。私としては、彼らに腹立ちを覚えないでもないが、冷静になると、彼らはウリトラスの運命共同体のようなもの。軍における階級の低さからして、ウリトラスに引きずられた部分もあるため、私が二人を恨む筋合いはないのだ。
「私の手足に用いるには適当ではない。この二人はドミネートしない」
「バーナードは街に戻ろうとしていた。マディオフの街の何処かに解放しよう。お父さんがいなくなり、ゴルティア軍が撤退する。そうすれば、彼らはゴルティアに行かないよ」
「マディオフ国内で潜伏生活か。マディオフ軍に見つかると、望ましくないことになりそうだ」
「衛兵事情は芳しくない。彼らにとってはそれが生き延びる道になる。捕まらずに細々と暮らしてくれるんじゃないかな?」
「私は始末したほうがいいと思う」
「私も、生かしておくべき絶対の理由があるわけじゃない。どうしても命を奪いたいなら、これ以上は止めない」
ラムサスとエルの二人が生かすべき、と考え、殺すべきと考えるのは私一人か。私の票をそれぞれ、二分の一、と計算しても、不殺票が多いことに変わりない。
「サナの意見を採用しよう。この二人は少しだけ治療を施した後、街の近くで置き去りにする」
「見立てとして、お父さんはどこまで治りそう?」
「回復の心得があっても、私は治癒師ではない。見立ては不正確だ」
「一応知りたいだけ」
「それは……」
父の肌は人間的な見た目を取り戻すことがない。治療を終えても醜い火傷痕を残す。癒着とひきつれによって身体の動きは時間と共に悪化していく。瘢痕拘縮というやつだ。瘢痕拘縮に関しては、私が毎日管理して治療を施したほうが、実家に帰してマディオフの治癒師に半端な治療をさせるよりも好ましい治療効果を上げられそうだ。
異常な肌がもたらす弊害は動作阻害だけではない。体温を一定に維持する能力が正常の皮膚に比べて著しく劣っている。これは時間が経っても改善しない。しかし、私がドミネートしていれば、体温を常時一定に保持できる。
あとは眼球だ。ウリトラスの目は治らない。欠損修復の技術がないことには、光覚弁のままだ。動きが阻害されずとも、目が見えないことには歩くことも食事することにも不自由する。この点も、ドミネート下にあったほうが有利。私と同じだ。傀儡の目が見えていれば、自分の目が見えておらずとも生活にも戦闘にも支障はない。
こう考えると、ウリトラスは家に返すよりもドミネート下で私と一緒にいたほうがいいだろう。私と一緒にいれば、軍はウリトラスを失踪者扱いのままとする。失踪した、というだけでも、エルザにとっては逆風だが、ゴルティア軍に下るよりは、よほどマシだろう。
私は治療の見立てをラムサスに思ったまま伝えた。
「ノエルの回復魔法を駆使しても、それが限界なんだ。火傷って……ドラゴンブレスって怖いね」
「ドラゴンは子供でも分かる手出し無用の危険物。そんなドラゴンの卵を見つけたことに浮かれ、孵卵を早めてテイムしようなど、魔物の恐ろしさを理解していない、いかにも軍人的な考えだ」
私がそう言うと、ラムサスは眉を顰め、口の端だけで私を笑い始めた。ブルーウォーウルフ、レッドキャット、ルドスクシュ、ガダトリーヴァホークを使役するものの台詞には似つかわしくなかったかもしれない。
「ドラゴンのドミネートは考えていない。ミスリルクラスに相当する力を持つ父にこれだけの手傷を負わせたのだ。我々もドラゴンと交戦して無事でいられるとは思えない。いつここにドラゴンが来るとも限らない。なるべく早くこの地を去るとしよう」
「私もそれに賛成」
死の淵にあるのは負傷者三人だけではない。ドラゴンの領域にいる我々もまた、滅びがすぐそこに迫っている。我々は治療、調査、そして魔法の実験に取り掛かった。




